|
原文:二十五日、壬子。早旦、惟円、来たりて云はく、「鎮西の事、已に音無し」てへり。即ち帰り去る後、幾くならず、来たりて云はく、「備中より参上する者、申して云はく、『異国の者厶人、壱岐島に於いて打ち得。其の一人を兵士に付し、参上せしむ』てへり」と。先づ言上を経、左右すべきか。直ちに参上せしむるは如何。山埼に留め、府解を進るべき由を指し示し了んぬ<後に聞く、「此の事、大虚言。更に参上せしむる者無し」と云々。近代、只、虚を以て宗と為す。>。酉時ばかり、惟円、帥の書<去ぬる十六日の書。>を持ちて示す。「異国人、来たる。九日、来着す。合戦等の子細、府解に在り」と。又、辞退すべきや否やの事を示す。惟円、云はく、「使者、隼船に乗りて参上す。但し異国、八日、俄かに能古島に来着す。同九日、博多田に乱り登る。府兵、忽然と徴発すること能はず。先づ平為忠・同為方等、帥の首と為て、合戦に馳せ向かふ。異国軍、多く射殺さる。戦場に留めず、船中に持ち入る。又、棄て置く者有り。又、生虜となる者等有り。又、兵具・甲冑を奪ひ取る」てへり。「一船の中に五・六十人有り。合戦の場、人毎に楯を持つ。前陣の者、鉾を持つ。次陣、大刀を持つ。次陣、弓箭の者。箭の長さ、一尺余りばかり。射力、太だ猛し。楯を穿ち、人に中つ。府軍の射殺さるる者、只、下人なり。将軍たる者、射られず。馬に乗り、馳せ向かひ、射取る。只、加不良の声を恐れ、引き退く<『刀伊国の人の中、新羅国の人等有り』と云々。>。船に乗りて遁れ去る。岸に傍ひ、船を掉さす。府軍等、兵船無きに依り、追撃すること能はず。陸路より馳せ行く。刀人、更に船を下り、筥前宮を焼かんと欲す。府兵、前行の兵一人を射殺す。驚きて船に乗り、逃遁す。十日・十一日、北風、猛烈なり。還り渡ることを得ず、海中に逗留す。神明の為す所か。両日の間、府、兵船三十八艘を営造せしめ、追ひ襲はしむ。賊徒、遁れ去り、本州を指して漕ぎ去る。府の兵船、又、今、二十余艘、勝ちに乗じて之を逐ふ。又、致行朝臣、十余艘を調へ、相逢ふ。但し先づ壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督、誡め仰する所なり」てへり。使者、又、云はく、「只今のごとくんば、討ち平らげらるるに似るなり。賊徒の甲冑・兵具等、少々、奪ひ取らる」と。又、云はく、「陸路より刀伊国の者を捕へ進らしむる由、十六日以前、承らざる所なり」てへり。縦横の説、信受し難きのみ。 後に帥の使の説を聞くに、「壱岐・対馬島の人等、悉く船に取り載す。合戦の間、島人等、叫びて云はく、『馬を馳せかけて射よ。おく病しにたり』と。仍りて官軍等、馳せ進みて射る。刀人、遁走して船に帰り乗る。此の間、取り載せらるる二島の者、多く船より下り、博多田に遁れ来たる。云はく、『件の刀人の為体、多く食し、又、多く水を飲む。馬を馳せ、加不良を以て射るに、恐怖の気有り』てへり。又、云はく、『児を以て荒巻と為し、博多田津に落とし置く』と云々。『人を食ふ』と」と云々。
|
訳文:二十五日、壬子。
早朝、惟円がやって来て言った。
「鎮西(九州)からは、もう何の知らせもありません」
そう言って帰ったが、しばらくしてまた来て言った。
「備中から上京した者が申すには、『異国の者数人を壱岐島で討ち取り、そのうち一人を兵士につけて都へ送っている』とのことです」
まず朝廷への報告を経てから処置すべきであろうか。
それとも直ちに参上させるべきであろうか。
結局、山崎に留め置き、太宰府からの正式な報告文(府解)を提出させるべき旨を指示した。
(後に聞いたところでは、「この話はまったくの虚報であり、実際には都へ送られてきた者などいなかった」という。近ごろは、ただ虚偽を事とするばかりである。)
夕方六時ごろ、惟円が大宰帥からの書状(去る十六日付)を持参して見せた。
そこにはこうあった。
「異国人が襲来した。九日に到着した。戦闘の詳細は太宰府の報告書にある」
また、辞退(官職を辞すること)すべきかどうかについても書かれていた。
惟円が言うには、使者は隼船に乗ってやって来たという。
ただし、異国の賊は八日、突然能古島に来着した。
九日には博多の海岸に乱入した。
太宰府軍は急な徴発が間に合わず、まず平為忠・平為方らが大宰帥の先鋒となって戦場へ駆けつけた。
異国軍の多くは射殺されたが、仲間たちはその死体を船に運び込んだ。
また、その場に捨て置かれた者もいた。
生け捕りにされた者もいた。
兵器や甲冑を奪い取ることもできた。
敵船一艘には五、六十人が乗っていた。
戦闘では、兵士は一人ひとり楯を持ち、
前列の者は鉾を持ち
次列は大刀を持ち
さらに後列は弓矢を持っていた
その矢は長さ一尺余りで、威力はきわめて強く、楯を貫いて人に当たった。
太宰府軍で射殺されたのは下級兵士だけで、将クラスの者は射られなかった。
彼らは馬で駆けながら射撃した。
ただ、敵が発する「カブラ(鏑矢、あるいは異様な叫び声)」を恐れて、いったん退却した。
(「刀伊の中には新羅の人もいた」という。)
その後、敵は船に乗って逃げた。
海岸沿いに船を漕いで進んだため、太宰府軍は船がなく追撃できず、陸路から追った。
賊はさらに上陸して、筥崎宮を焼こうとしたが、官軍が先頭の兵一人を射殺したので、驚いて船に逃げ戻った。
十日・十一日は北風が激しく、敵は海を渡って帰ることができず、海上に停泊した。
これは神仏の加護であろうか。
その二日間のうちに、太宰府では兵船三十八艘を急造して追撃させた。
賊は逃げ、本州方面へ漕ぎ去った。
太宰府軍はさらに二十余艘で勝勢に乗じて追撃し、また致行朝臣も十余艘を整えて合流した。
ただし、まず壱岐・対馬などの島に赴くべきであり、日本の領域内に限って攻撃せよ、新羅の領内へ入ってはならぬ、と都督から厳命されているという。
使者はさらに言った。
「このままなら、賊は討ち平らげられそうです。甲冑や兵具もいくらか奪っています」
また、
「陸路から刀伊国の者を捕えて都へ送るという話は、十六日以前には聞いていません」
とも言った。
さまざまな説が入り乱れ、どれも容易には信じがたい。
その後、大宰帥の別の使者の話を聞くと、
壱岐・対馬の島民たちはことごとく敵船に連れ去られたという。
戦闘中、島民たちは叫んで、
「馬を駆けさせて射なさい。あいつらは馬に慣れていない!」
と言った。
そこで官軍が馬で突進して射かけると、敵は逃げて船へ戻った。
その隙に、連れ去られていた島民の多くが船から逃げ出し、博多の浜へ逃げ着いた。
彼らの話では、
「刀伊の者たちは非常によく食べ、また大量の水を飲む。
馬で突撃し、鏑矢を放つと、恐れる様子を見せた」
という。
さらに、
「幼児を荒巻(荷物のように縛ったもの)にして、博多の浜に投げ捨てた」
ともいう。
そして、
「人を食う」
とも語られた。
|