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中国と日本の戦争・事変
白村江の戦いから朝鮮出兵まで

最新の更新2026年5月28日   最初の公開2026年4月22日

  1. 第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
  2. 第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
  3. 第3回 vs 女真族:刀伊の入寇
  4. 第4回 vs 元・高麗:元寇
  5. 第5回 vs 元/明・高麗/朝鮮:倭寇
  6. 第6回 vs 明・朝鮮:朝鮮出兵

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【記】
講座番号:4584576 新宿教室 歴史 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8709093を参照。
日程 2026/4/23, 5/28, 6/25 曜日・時間 指定木曜日 10:30〜12:00
 戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は前半3回です。
4月期 各回テーマ
第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
第3回 vs 女真族:刀伊の入寇

7月期 各回テーマ
第4回 vs 元・高麗:元寇
第5回 vs 元/明・高麗/朝鮮:倭寇
第6回 vs 明・朝鮮:朝鮮出兵



第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mPy2kdSU3PeF1_n7Oajyn7

○ポイント、キーワード
○東方地中海
 「地中海」は本来は普通名詞で、陸地で囲まれ狭い海峡で大洋とつながる付属海を指す。ヨーロッパ地中海・北極海・紅海・瀬戸内海など。
 単に「地中海」と言うと、ヨーロッパ・アフリカ・アジアの三大陸に囲まれた「ヨーロッパ地中海」を指す。
 日本海や東シナ海を「東方地中海」と呼ぶ呼称は、一般には普及していない。
cf.20130615.html「「東方地中海」世界の特徴について  〜続「貝と羊の中国人」〜」

[NASA world wind]で作成

例)西暦57年「倭の奴国」の使者が洛陽に行き、光武帝から「金印」を受領。
福岡市〜洛陽市の距離 約1650km > ローマ市〜ロンドン市の距離 約1450km



○朝鮮王朝の実学者・李瀷(이익 りいく/イイク 1681年 - 1763年)『星湖僿説』の指摘
cf.seikosaisetu.html
 元の世祖フビライが日本に遠征しようとしたとき、造船や食糧の準備はみなわが朝鮮国が担当し、戦闘にも加わったが、結局、勝てず、 隣の強国である日本と平和を失ってしまった。 かの「倭」の国土の地形は、楽器の琵琶が頭を西に向けて横たえたような形をしている。 倭から外に侵掠に出るのは簡単だが、外国の軍隊は倭に侵入できない。 それゆえ、中国の江蘇・浙江地方は、倭寇のひどい侵掠を受けているが、 どうにもできないのだ。大国である中国さえそうなのだから、まして小さなわが朝鮮国については、言うまでもない。

○日本と近隣諸国の軍事衝突の主な歴史
  1. 3世紀?/4世紀? 神功皇后の三韓征伐
  2. 391年〜404年 倭・高句麗戦争。『好太王碑』など。
  3. 5世紀 雄略天皇の時代の吉備氏の乱(新羅と結託した吉備氏の大和朝廷に対する反乱)
  4. 658年〜660年 阿倍比羅夫(あべ の ひらふ)の北方遠征。蝦夷や粛慎(みしはせ)を平定。
  5. 663年 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい/はくそんこうのたたかい) 倭・百済(残存勢力)vs唐・新羅
  6. 759年 藤原仲麻呂による新羅征討計画(軍船394隻、兵士4万700人。中止)
  7. 1019年 刀伊の入寇
  8. 1274年・1281年 元寇 日本vs蒙古・高麗
  9. 13世紀〜16世紀 倭寇
  10. 1419年 応永の外寇 朝鮮王朝(李氏朝鮮)の対馬侵攻 糠岳戦争
  11. 1592年〜1598年 文禄・慶長の役(朝鮮出兵
  12. 1645年〜1674年 日本乞師(にほんきっし)。明王朝の残存勢力が日本に援軍を要請。未遂

 日本は中国や朝鮮と同盟して、共通の敵と戦った経験は少ない(古代の百済は稀少な例外)。
 外国の側から戦争をしかけられたのは、元寇だけである。
 日本は海洋国家であるというイメージがあるが、陸戦が主で、海戦は少ない。
 日本では城郭都市が発達せず、それが戦闘教義にも影響した。
 中世以降は、武具や戦闘教義が日本独自のものに変化してゆく。

[一番上]


第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mwtYeifqP-RDUvt43YrAvj

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いで日本側は陸戦で勝利を重ね、海戦で敗北する。

 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いを解説します。陸戦で勝利を重ねた日本側は海戦で敗北しましたが、その戦いの様相や結果については諸説があり、判然としません。井上靖の歴史小説『額田女王』や漫画『天智と天武 ―新説・日本書紀―』など、白村江の戦いを描いた創作作品についても言及します。

いつ:西暦(ユリウス暦)663年10月4日から10月5日
どこで:白江(現在の韓国・錦江と推定)の河口一帯の海上
誰が:倭軍約5万・百済軍5千 vs 唐軍・新羅軍(総数不明)
原因:百済の復興を支援する倭(日本)と、新羅を支援する唐の衝突
結果:唐・新羅側の勝利
影響:新羅による半島統一、倭の律令国家化

『日本書紀』天智天皇2年3月条
 前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、
 中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)、
 後将軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)
を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ。

 生還 間人連大蓋 阿倍比羅夫? 河辺百枝 他
 戦死 朴市秦田来津 安曇比羅夫(阿曇比羅夫) 他
 史書に記載なし 狭井檳榔 上毛野君稚子 巨勢神前訳語 三輪根麻呂 大宅臣鎌柄 他


○年表
★前史 ― 東アジアの国際情勢 ★2.百済の衰退 ★3.倭国(日本)の対応
★4.百済滅亡
★5.百済復興運動と倭国参戦
★6.白村江の戦い(663年)
663年8月(日本書紀では天智2年8月)
場所:白村江(現在の韓国・錦江河口付近)
対戦:倭国・百済復興軍vs唐・新羅連合軍
戦いの経過 倭国軍の攻撃 4回にわたり突撃 唐軍の対応 組織的な水軍戦術 結果 倭国・百済連合軍大敗 被害 倭船400隻以上炎上(『三国史記』) 敗因として、統一指揮官の不在、百済側の内紛、唐軍との戦術差などが挙げられる。
★7.戦後の影響
朝鮮半島
日本(倭国)
中国(唐)

○人物

○その他
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YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=あいでぃー

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
[一番上]


YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=あいでぃー

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○藤原実資(ふじわら の さねすけ、957-1046)『小右記』寛仁三年(1019年) 四月二十五日
参考 国際日本文化研究センター 摂関期古記録データベース https://rakusai.nichibun.ac.jp/kokiroku/list.php
原文:二十五日、壬子。早旦、惟円、来たりて云はく、「鎮西の事、已に音無し」てへり。即ち帰り去る後、幾くならず、来たりて云はく、「備中より参上する者、申して云はく、『異国の者厶人、壱岐島に於いて打ち得。其の一人を兵士に付し、参上せしむ』てへり」と。先づ言上を経、左右すべきか。直ちに参上せしむるは如何。山埼に留め、府解を進るべき由を指し示し了んぬ<後に聞く、「此の事、大虚言。更に参上せしむる者無し」と云々。近代、只、虚を以て宗と為す。>。酉時ばかり、惟円、帥の書<去ぬる十六日の書。>を持ちて示す。「異国人、来たる。九日、来着す。合戦等の子細、府解に在り」と。又、辞退すべきや否やの事を示す。惟円、云はく、「使者、隼船に乗りて参上す。但し異国、八日、俄かに能古島に来着す。同九日、博多田に乱り登る。府兵、忽然と徴発すること能はず。先づ平為忠・同為方等、帥の首と為て、合戦に馳せ向かふ。異国軍、多く射殺さる。戦場に留めず、船中に持ち入る。又、棄て置く者有り。又、生虜となる者等有り。又、兵具・甲冑を奪ひ取る」てへり。「一船の中に五・六十人有り。合戦の場、人毎に楯を持つ。前陣の者、鉾を持つ。次陣、大刀を持つ。次陣、弓箭の者。箭の長さ、一尺余りばかり。射力、太だ猛し。楯を穿ち、人に中つ。府軍の射殺さるる者、只、下人なり。将軍たる者、射られず。馬に乗り、馳せ向かひ、射取る。只、加不良の声を恐れ、引き退く<『刀伊国の人の中、新羅国の人等有り』と云々。>。船に乗りて遁れ去る。岸に傍ひ、船を掉さす。府軍等、兵船無きに依り、追撃すること能はず。陸路より馳せ行く。刀人、更に船を下り、筥前宮を焼かんと欲す。府兵、前行の兵一人を射殺す。驚きて船に乗り、逃遁す。十日・十一日、北風、猛烈なり。還り渡ることを得ず、海中に逗留す。神明の為す所か。両日の間、府、兵船三十八艘を営造せしめ、追ひ襲はしむ。賊徒、遁れ去り、本州を指して漕ぎ去る。府の兵船、又、今、二十余艘、勝ちに乗じて之を逐ふ。又、致行朝臣、十余艘を調へ、相逢ふ。但し先づ壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督、誡め仰する所なり」てへり。使者、又、云はく、「只今のごとくんば、討ち平らげらるるに似るなり。賊徒の甲冑・兵具等、少々、奪ひ取らる」と。又、云はく、「陸路より刀伊国の者を捕へ進らしむる由、十六日以前、承らざる所なり」てへり。縦横の説、信受し難きのみ。 後に帥の使の説を聞くに、「壱岐・対馬島の人等、悉く船に取り載す。合戦の間、島人等、叫びて云はく、『馬を馳せかけて射よ。おく病しにたり』と。仍りて官軍等、馳せ進みて射る。刀人、遁走して船に帰り乗る。此の間、取り載せらるる二島の者、多く船より下り、博多田に遁れ来たる。云はく、『件の刀人の為体、多く食し、又、多く水を飲む。馬を馳せ、加不良を以て射るに、恐怖の気有り』てへり。又、云はく、『児を以て荒巻と為し、博多田津に落とし置く』と云々。『人を食ふ』と」と云々。 訳文:二十五日、壬子。 早朝、惟円がやって来て言った。 「鎮西(九州)からは、もう何の知らせもありません」 そう言って帰ったが、しばらくしてまた来て言った。 「備中から上京した者が申すには、『異国の者数人を壱岐島で討ち取り、そのうち一人を兵士につけて都へ送っている』とのことです」 まず朝廷への報告を経てから処置すべきであろうか。 それとも直ちに参上させるべきであろうか。 結局、山崎に留め置き、太宰府からの正式な報告文(府解)を提出させるべき旨を指示した。 (後に聞いたところでは、「この話はまったくの虚報であり、実際には都へ送られてきた者などいなかった」という。近ごろは、ただ虚偽を事とするばかりである。) 夕方六時ごろ、惟円が大宰帥からの書状(去る十六日付)を持参して見せた。 そこにはこうあった。 「異国人が襲来した。九日に到着した。戦闘の詳細は太宰府の報告書にある」 また、辞退(官職を辞すること)すべきかどうかについても書かれていた。 惟円が言うには、使者は隼船に乗ってやって来たという。 ただし、異国の賊は八日、突然能古島に来着した。 九日には博多の海岸に乱入した。 太宰府軍は急な徴発が間に合わず、まず平為忠・平為方らが大宰帥の先鋒となって戦場へ駆けつけた。 異国軍の多くは射殺されたが、仲間たちはその死体を船に運び込んだ。 また、その場に捨て置かれた者もいた。 生け捕りにされた者もいた。 兵器や甲冑を奪い取ることもできた。 敵船一艘には五、六十人が乗っていた。 戦闘では、兵士は一人ひとり楯を持ち、 前列の者は鉾を持ち 次列は大刀を持ち さらに後列は弓矢を持っていた その矢は長さ一尺余りで、威力はきわめて強く、楯を貫いて人に当たった。 太宰府軍で射殺されたのは下級兵士だけで、将クラスの者は射られなかった。 彼らは馬で駆けながら射撃した。 ただ、敵が発する「カブラ(鏑矢、あるいは異様な叫び声)」を恐れて、いったん退却した。 (「刀伊の中には新羅の人もいた」という。) その後、敵は船に乗って逃げた。 海岸沿いに船を漕いで進んだため、太宰府軍は船がなく追撃できず、陸路から追った。 賊はさらに上陸して、筥崎宮を焼こうとしたが、官軍が先頭の兵一人を射殺したので、驚いて船に逃げ戻った。 十日・十一日は北風が激しく、敵は海を渡って帰ることができず、海上に停泊した。 これは神仏の加護であろうか。 その二日間のうちに、太宰府では兵船三十八艘を急造して追撃させた。 賊は逃げ、本州方面へ漕ぎ去った。 太宰府軍はさらに二十余艘で勝勢に乗じて追撃し、また致行朝臣も十余艘を整えて合流した。 ただし、まず壱岐・対馬などの島に赴くべきであり、日本の領域内に限って攻撃せよ、新羅の領内へ入ってはならぬ、と都督から厳命されているという。 使者はさらに言った。 「このままなら、賊は討ち平らげられそうです。甲冑や兵具もいくらか奪っています」 また、 「陸路から刀伊国の者を捕えて都へ送るという話は、十六日以前には聞いていません」 とも言った。 さまざまな説が入り乱れ、どれも容易には信じがたい。 その後、大宰帥の別の使者の話を聞くと、 壱岐・対馬の島民たちはことごとく敵船に連れ去られたという。 戦闘中、島民たちは叫んで、 「馬を駆けさせて射なさい。あいつらは馬に慣れていない!」 と言った。 そこで官軍が馬で突進して射かけると、敵は逃げて船へ戻った。 その隙に、連れ去られていた島民の多くが船から逃げ出し、博多の浜へ逃げ着いた。 彼らの話では、 「刀伊の者たちは非常によく食べ、また大量の水を飲む。 馬で突撃し、鏑矢を放つと、恐れる様子を見せた」 という。 さらに、 「幼児を荒巻(荷物のように縛ったもの)にして、博多の浜に投げ捨てた」 ともいう。 そして、 「人を食う」 とも語られた。

○その他
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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○辞書的な説明
○略年表
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