戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は前半3回です。4月期 各回テーマ
第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
元の世祖フビライが日本に遠征しようとしたとき、造船や食糧の準備はみなわが朝鮮国が担当し、戦闘にも加わったが、結局、勝てず、 隣の強国である日本と平和を失ってしまった。 かの「倭」の国土の地形は、楽器の琵琶が頭を西に向けて横たえたような形をしている。 倭から外に侵掠に出るのは簡単だが、外国の軍隊は倭に侵入できない。 それゆえ、中国の江蘇・浙江地方は、倭寇のひどい侵掠を受けているが、 どうにもできないのだ。大国である中国さえそうなのだから、まして小さなわが朝鮮国については、言うまでもない。
第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
白村江 はくそんこう Baekchon-kangt
朝鮮,古代三国の一つである百済の滅亡後,その遺民およびこれを支援する日本軍と,新羅と唐の連合軍が戦った河川名。 百済の滅亡後,その遺民鬼室福信らは任存城に拠って抵抗を続け,当時日本にいた王子豊璋 (→豊璋王 ) を迎えて日本の支援のもとでなお戦う準備を進めた。 日本では斉明天皇が皇太子中大兄皇子 (→天智天皇 ) を従えて西下したが陣中に没し,代って皇太子が執政した。 王子豊璋を擁した日本軍は周留城に入ったが,百済側で内訌が起り,福信は豊璋に殺された。 新羅の文武王は唐将孫仁師,劉仁願らとともに周留城を攻め,一方劉仁軌らは水軍を率い白江 (白村江) に下って来着した日本水軍と戦った。 これが白村江の戦いといわれるもので,『日本書紀』によれば天智天皇の2年,唐の高宗の竜朔3年,新羅の文武王の3年 (663) ,8月のことであった。 海戦は2日目に日本水軍の大敗によって勝敗が決り,豊璋は高句麗に逃れた。 この戦いは以後の唐,新羅による高句麗征討の布石となるべきものであり,また日本にとっては,古代以来の対朝鮮進出政策が完全に挫折し,対外政策が大きく変る転機となった。 白村江 (日本では「はくすきのえ」と読む) が現在のどこに比定されるかについて錦江下流右岸とする津田左右吉,池内宏らの見解が有力であるが,なおほかにも異説が提出されており,確定をみない。
新羅 しらぎ
朝鮮古代の王国(4世紀中 (ごろ) 〜935)
「しんら」とも読む。三韓の一つである辰韓の斯盧 (しろ) 国を中心に統一されたもの。 日本・高句麗の圧力に苦しみながらも着実にその地歩を固め,562年任那 (みまな) を滅ぼし,ついで唐と結び660年に百済 (くだら) ,668年高句麗を倒して朝鮮を統一。 663年唐と結んで,日本を白村江 (はくそんこう) の戦いに破ったのち,しばらくして国交を回復した。 奈良時代には唐文化,特に仏教関係の移入に重要な役割を演じた。9世紀中ごろから群雄割拠の状態となり,935年高麗王朝の建国により滅亡した。
余豊璋 よ-ほうしょう
?−? 百済(くだら)(朝鮮)の義慈(ぎじ)王の王子。
人質として来日。皇極(こうぎょく)天皇2年(643)大和(奈良県)三輪山で養蜂(ようほう)をこころみたという。 660年百済滅亡の危機に送還要請があり,帰国して662年即位したが,翌年新羅(しらぎ)軍に攻められ,高句麗(こうくり)に逃亡したまま消息不明となった。 余豊,扶余豊,豊章,糺解,翹岐とも。
文武王 (ぶんぶおう) Mun-mu-wang 生没年:?-681
朝鮮,新羅の王。在位661-681年。姓は金,諱(いみな)は法敏。武烈王の太子として660年の百済討滅戦に金庾信(きんゆしん)らとともに参加,翌年王の病死により即位する。 唐軍に連合して,百済復興軍を抑え,663年日本の水軍をも白村江(錦江下流)に破り,さらに668年弟の金仁問らをさしむけて高句麗を滅ぼした。 この間,唐により鶏林州大都督に任命されて,新羅は唐の間接統治領である羈縻(きび)州となったが,高句麗復興軍を助けて唐と戦い,一時唐に新羅王の官爵を剥奪されながらも,唐の勢力を排除して671年百済旧領を,676年高句麗旧領の一部を領有し,半島部における三国統一を達成した。
執筆者:大井 剛
天智天皇5年(666)年、連合した唐と新羅は隣国の強国、高句麗の征討を開始しました。高句麗は危機的状況の中で外交使節団を大和朝廷へと派遣します。『日本書紀』には「二位玄武若光」の名が記されており、若光が使節団の一員として日本へと渡来した事が分かります。668年、建国から約700年間東アジアに強盛を誇った高句麗は滅亡し、若光は二度と故国の土を踏むことはありませんでした。
その後、大和朝廷に官人として仕える若光の名が文献に表れるのが『続日本書紀』大宝3年(703)年3月「従五位下の高麗の若光に王の姓を賜う」です。姓(かばね)とは、それぞれの家柄を定めるために大和朝廷が授与する称号で、王(こきし)の姓は外国の王族の出身者に与えられていたものでした。
第3回 vs 女真族:刀伊の入寇
この事件について、高校教科書では1〜2行程度しか触れられていません。 かつては「刀伊の入寇」という用語が使われていましたが、モンゴル襲来を「元寇」と呼んだのと同様に、自国の国益を重視する意識が色濃いため、 昨今の教科書ではより中立的な「刀伊事件」や「刀伊の来襲」と表記することが多いようです。本書でも本文中はおもに「刀伊事件」や「刀伊の来襲」を用い、書名は人口に膾炙している「刀伊の入寇」とさせてもらいました。
藤原隆家は、関白として栄華を極めた「藤原兼家(藤原道長の兄)」の次男として生まれます。作中にも描かれる通り、弱冠16歳にして日本の権力の中枢「公卿」に列する、まさに貴公子そのものです。参考 [原道長・藤原隆家らの系図藤]
しかし、父:道隆が没し、叔父:道長が関白となると、隆家の属する中関白家の運命は暗転。前段の導入を含め、「刀伊入寇」の物語はここからは始まります。
父:道隆を恨む花山天皇・隆家を政敵として睨む叔父:道長との熾烈な政治闘争。結果的に伊周・隆家兄弟は京を離れることとなりますが、京を離れたからこそ隆家の人生は花開いていきます。
大宰府(現:福岡県太宰府市)の長官として赴任した隆家は、刀伊の入寇にて異民族の襲来と戦い、その武名を轟かせていきます。(結果的に、隆家の系譜から奥州藤原氏をはじめ、各地で武士として活躍した人物が実在していることも驚きです)
刀伊の入寇 (といのにゅうこう)
平安中期の1019年(寛仁3)3月末〜4月に,いわゆる〈刀伊の賊〉が大宰府管内に侵入した事件。 刀伊とは高麗が蛮族とくに女真を呼んだもの。女真は後に金を建国するツングース系民族で,沿海州地方に住み,狩猟・牧畜を行い,高麗の北辺に接し,海から高麗に侵入・略奪を行っていた。 彼らは50余隻の船団でまず対馬・壱岐を襲い,さらに筑前国怡土郡等に侵入し,各地で千数百人の人々を捕らえ,老人や子どもを含む四百数十人を殺し,牛馬や犬を殺して食し,穀米を略奪し,民家45宇を焼く等の惨害を与えた。 現地最高責任者の中納言兼大宰権帥藤原隆家は,中央政府に急報するとともに,軍を整え防戦を命じた。 大宰府軍は勇戦これを撃退し,刀伊は最後に肥前国松浦郡を襲ったが,現地の武力に撃退され退去した。 この事件については藤原実資の日記《小右記》や,《朝野群載》所収の大宰府解文などの当時の記録により詳しく知ることができる。 活躍した大宰府軍の主力は,現地の武士的豪族の兵力であったと思われる。これら豪族の多くはまた大宰府や国衙等の官人の肩書を有していた。 中世武士団への過渡的な地方軍制のあり方が察せられるが,隆家の剛毅な性格がこれら豪族たちを心服させたと思われ,後世九州の有力武士で隆家の子孫と称するものが多い。 当初朝廷では侵入者が高麗かもしれないと疑っていたが,隆家は刀伊の追撃に際し,高麗の国境を侵さないよう慎重に命じている。 その後,高麗軍が女真の侵入を撃破した際,捕虜の日本人二百数十人を救出,手厚く保護して送還した。 それ以前,家族とともに捕らえられていた対馬判官代長岑諸近という者が脱出したが,残した老母を気づかい,禁令を破って高麗に渡り,捕虜の女子若干を伴って帰国,捕虜の状況等を報告した。 なお公卿の会議で,賊の撃退は追討の官符到着以前であるので恩賞は不必要という意見が一部から出されたが,貴族政治の形式主義がよくあらわれている。
執筆者:黒板 伸夫
刀伊の入寇 といのにゅうこう
平安中期の外敵侵入事件。 刀伊とは朝鮮語で夷狄(いてき)のことであるが、日本では沿海州地方に住んでいた女真(じょしん)族をさす。 1019年(寛仁3)3月高麗(こうらい)を襲った女真人が50艘(そう)余の船に分乗し、壱岐(いき)、対馬(つしま)に襲来し、ついで筑前(ちくぜん)国(福岡県)怡土(いと)郡を侵し、志麻(しま)郡、早良(さわら)郡を略奪した。 壱岐では守(かみ)藤原理忠(まさただ)以下多数が殺害されたり捕らえられて、残る者わずか35人と報告されている。 賊船の大きさは12尋(ひろ)ないし8.9尋。一船に?(かじ)30〜40。乗船員数は一艘につき30〜40ないし50〜60。弓矢をもつ者と盾をもつ者とが組んで一隊となり、10〜20隊もが上陸して山野を駆け巡り、馬牛を斬殺(ざんさつ)して食い、捕らえた老人子供は殺し、壮年は船に追い込み、人家を焼き、穀物を奪い、殺された者400余人、捕らえられた者は1000人を超えたという。 これに対し大宰府(だざいふ)では当時赴任していた権帥(ごんのそち)藤原隆家(たかいえ)が中心となり、京へ飛駅(ひえき)使を立て通報する一方で、大宰府官人を警固所に派遣し防戦にあたった。 賊は警固所を焼こうとして失敗し、筥崎宮(はこざきぐう)を焼こうとした試みも撃退され、現地住人らの奮戦もあり、対馬侵奪以来ほぼ1週間で、日本近海から退散した。 賊を撃退できたのは隆家以下の府官人および現地の勇士の健闘によるが、朝廷では、戦功抜群の者に褒賞(ほうしょう)を与えるという指示が出される以前に戦闘が終了していたことを理由に、与える必要がないという公卿(くぎょう)の意見もあり、論功行賞にはあまり積極的でなかったようである。 防戦過程において府官人の出動状況や現地住人の戦闘活動のほどが知られ、この事件を介し平安中期軍制の実態を知ることができる。
[森田 悌]
『土田直鎭著『王朝の貴族』(1965・中央公論社)』
藤原隆家 ふじわらのたかいえ (979―1044)
平安中期の公卿(くぎょう)。藤原道隆(みちたか)の4子。母は高階成忠(たかしなのなりただ)の女(むすめ)貴子、幼名を阿古という。 996年(長徳2)権中納言(ごんちゅうなごん)のとき、兄内大臣伊周(これちか)とともに、花山(かざん)法皇をおどし射った罪によって出雲権守(いずもごんのかみ)に配流され、病のため但馬(たじま)にとどまった。 997年、東三条院詮子(せんし)の病気によって伊周とともに召還された(『栄花物語』に誤りあり)。帰京し兵部卿(きょう)となり、本官に復し、のち従三位(じゅさんみ)に進んだ。 1002年(長保4)権中納言に再任され、04年(寛弘1)正三位、07年従二位、09年中納言となった。
三条(さんじょう)天皇の代となって眼病にかかり、宋(そう)の名医に治療を受けるという名目で1014年(長和3)大宰権帥(だざいのごんのそち)になり、翌年赴任。 正二位となる。19年(寛仁3)刀伊(とい)の賊の来襲を撃退したため武勇の名をあげた。 この年、任を辞して帰京、朝廷からは報いられず、23年(治安3)中納言を辞任。37年(長暦1)ふたたび大宰権帥に任ぜられ、42年(長久3)辞任した。長久(ちょうきゅう)5年正月1日薨(こう)じた。
[山中 裕]
| 原文:二十五日、壬子。早旦、惟円、来たりて云はく、「鎮西の事、已に音無し」てへり。即ち帰り去る後、幾くならず、来たりて云はく、「備中より参上する者、申して云はく、『異国の者厶人、壱岐島に於いて打ち得。其の一人を兵士に付し、参上せしむ』てへり」と。先づ言上を経、左右すべきか。直ちに参上せしむるは如何。山埼に留め、府解を進るべき由を指し示し了んぬ<後に聞く、「此の事、大虚言。更に参上せしむる者無し」と云々。近代、只、虚を以て宗と為す。>。酉時ばかり、惟円、帥の書<去ぬる十六日の書。>を持ちて示す。「異国人、来たる。九日、来着す。合戦等の子細、府解に在り」と。又、辞退すべきや否やの事を示す。惟円、云はく、「使者、隼船に乗りて参上す。但し異国、八日、俄かに能古島に来着す。同九日、博多田に乱り登る。府兵、忽然と徴発すること能はず。先づ平為忠・同為方等、帥の首と為て、合戦に馳せ向かふ。異国軍、多く射殺さる。戦場に留めず、船中に持ち入る。又、棄て置く者有り。又、生虜となる者等有り。又、兵具・甲冑を奪ひ取る」てへり。「一船の中に五・六十人有り。合戦の場、人毎に楯を持つ。前陣の者、鉾を持つ。次陣、大刀を持つ。次陣、弓箭の者。箭の長さ、一尺余りばかり。射力、太だ猛し。楯を穿ち、人に中つ。府軍の射殺さるる者、只、下人なり。将軍たる者、射られず。馬に乗り、馳せ向かひ、射取る。只、加不良の声を恐れ、引き退く<『刀伊国の人の中、新羅国の人等有り』と云々。>。船に乗りて遁れ去る。岸に傍ひ、船を掉さす。府軍等、兵船無きに依り、追撃すること能はず。陸路より馳せ行く。刀人、更に船を下り、筥前宮を焼かんと欲す。府兵、前行の兵一人を射殺す。驚きて船に乗り、逃遁す。十日・十一日、北風、猛烈なり。還り渡ることを得ず、海中に逗留す。神明の為す所か。両日の間、府、兵船三十八艘を営造せしめ、追ひ襲はしむ。賊徒、遁れ去り、本州を指して漕ぎ去る。府の兵船、又、今、二十余艘、勝ちに乗じて之を逐ふ。又、致行朝臣、十余艘を調へ、相逢ふ。但し先づ壱岐・対馬等の島に到るべし。日本の境に限り、襲撃すべし。新羅の境に入るべからざる由、都督、誡め仰する所なり」てへり。使者、又、云はく、「只今のごとくんば、討ち平らげらるるに似るなり。賊徒の甲冑・兵具等、少々、奪ひ取らる」と。又、云はく、「陸路より刀伊国の者を捕へ進らしむる由、十六日以前、承らざる所なり」てへり。縦横の説、信受し難きのみ。 後に帥の使の説を聞くに、「壱岐・対馬島の人等、悉く船に取り載す。合戦の間、島人等、叫びて云はく、『馬を馳せかけて射よ。おく病しにたり』と。仍りて官軍等、馳せ進みて射る。刀人、遁走して船に帰り乗る。此の間、取り載せらるる二島の者、多く船より下り、博多田に遁れ来たる。云はく、『件の刀人の為体、多く食し、又、多く水を飲む。馬を馳せ、加不良を以て射るに、恐怖の気有り』てへり。又、云はく、『児を以て荒巻と為し、博多田津に落とし置く』と云々。『人を食ふ』と」と云々。 | 訳文:二十五日、壬子。 早朝、惟円がやって来て言った。 「鎮西(九州)からは、もう何の知らせもありません」 そう言って帰ったが、しばらくしてまた来て言った。 「備中から上京した者が申すには、『異国の者数人を壱岐島で討ち取り、そのうち一人を兵士につけて都へ送っている』とのことです」 まず朝廷への報告を経てから処置すべきであろうか。 それとも直ちに参上させるべきであろうか。 結局、山崎に留め置き、太宰府からの正式な報告文(府解)を提出させるべき旨を指示した。 (後に聞いたところでは、「この話はまったくの虚報であり、実際には都へ送られてきた者などいなかった」という。近ごろは、ただ虚偽を事とするばかりである。) 夕方六時ごろ、惟円が大宰帥からの書状(去る十六日付)を持参して見せた。 そこにはこうあった。 「異国人が襲来した。九日に到着した。戦闘の詳細は太宰府の報告書にある」 また、辞退(官職を辞すること)すべきかどうかについても書かれていた。 惟円が言うには、使者は隼船に乗ってやって来たという。 ただし、異国の賊は八日、突然能古島に来着した。 九日には博多の海岸に乱入した。 太宰府軍は急な徴発が間に合わず、まず平為忠・平為方らが大宰帥の先鋒となって戦場へ駆けつけた。 異国軍の多くは射殺されたが、仲間たちはその死体を船に運び込んだ。 また、その場に捨て置かれた者もいた。 生け捕りにされた者もいた。 兵器や甲冑を奪い取ることもできた。 敵船一艘には五、六十人が乗っていた。 戦闘では、兵士は一人ひとり楯を持ち、 前列の者は鉾を持ち 次列は大刀を持ち さらに後列は弓矢を持っていた その矢は長さ一尺余りで、威力はきわめて強く、楯を貫いて人に当たった。 太宰府軍で射殺されたのは下級兵士だけで、将クラスの者は射られなかった。 彼らは馬で駆けながら射撃した。 ただ、敵が発する「カブラ(鏑矢、あるいは異様な叫び声)」を恐れて、いったん退却した。 (「刀伊の中には新羅の人もいた」という。) その後、敵は船に乗って逃げた。 海岸沿いに船を漕いで進んだため、太宰府軍は船がなく追撃できず、陸路から追った。 賊はさらに上陸して、筥崎宮を焼こうとしたが、官軍が先頭の兵一人を射殺したので、驚いて船に逃げ戻った。 十日・十一日は北風が激しく、敵は海を渡って帰ることができず、海上に停泊した。 これは神仏の加護であろうか。 その二日間のうちに、太宰府では兵船三十八艘を急造して追撃させた。 賊は逃げ、本州方面へ漕ぎ去った。 太宰府軍はさらに二十余艘で勝勢に乗じて追撃し、また致行朝臣も十余艘を整えて合流した。 ただし、まず壱岐・対馬などの島に赴くべきであり、日本の領域内に限って攻撃せよ、新羅の領内へ入ってはならぬ、と都督から厳命されているという。 使者はさらに言った。 「このままなら、賊は討ち平らげられそうです。甲冑や兵具もいくらか奪っています」 また、 「陸路から刀伊国の者を捕えて都へ送るという話は、十六日以前には聞いていません」 とも言った。 さまざまな説が入り乱れ、どれも容易には信じがたい。 その後、大宰帥の別の使者の話を聞くと、 壱岐・対馬の島民たちはことごとく敵船に連れ去られたという。 戦闘中、島民たちは叫んで、 「馬を駆けさせて射なさい。あいつらは馬に慣れていない!」 と言った。 そこで官軍が馬で突進して射かけると、敵は逃げて船へ戻った。 その隙に、連れ去られていた島民の多くが船から逃げ出し、博多の浜へ逃げ着いた。 彼らの話では、 「刀伊の者たちは非常によく食べ、また大量の水を飲む。 馬で突撃し、鏑矢を放つと、恐れる様子を見せた」 という。 さらに、 「幼児を荒巻(荷物のように縛ったもの)にして、博多の浜に投げ捨てた」 ともいう。 そして、 「人を食う」 とも語られた。 |
――なぜ日本は刀伊を撃退できたのでしょうか。
関:当時、律令時代の農民を中心とする軍団制は解体し、有名無実の状態でした。結果として、武芸に秀でた精兵が異賊の迎撃に当たったのでした。
彼らはその出自から2つのタイプに分類できます。 一つは藤原隆家ら中央貴族の護衛で九州に下向した「ヤムゴトナキ武者」で、その多くは10世紀前半の反乱(平将門の乱と藤原純友の乱)を鎮圧した功臣の末裔でした。 そしてもう一つは地域に根差した名士で「住人」と呼ばれた人々でした。
要するに、有事に際して中央系の「ヤムゴトナキ武者」と地方系の「住人」から成る混成部隊がうまく機能したのです。 刀伊の入寇に対する防衛戦争においては、律令国家の古代的軍制とは異なる、王朝国家の軍制のあり方が見て取れます。 それは、来たるべき中世国家の軍制の前提と言えるものです。
中国と北朝鮮の国境に位置する白頭山では、9世紀中葉から10世紀の946年〜947年にかけて断続的に巨大噴火(ミレニアム噴火)が発生した。このミレニアム噴火が周辺にある日本、中国東北部や朝鮮の歴史に対してどのような影響を与えたのか、主として古文書をもとに検討を試みた。その結果、これらの周辺地域の歴史に対しては以下の二点で大きな影響が推定された。平安時代初期から中期にかけての主として京都における自然界での異変(陽や月の色、雷のような大音)や人間界での異変(咳逆病・眼病などの疫病や飢饉など)の発生は多量の火山灰の降下で説明される。その結果として生まれた混乱状況を打破しようとした京都祇園祭はミレニアム噴火によると言っても言い過ぎではないであろう。さらに、同じころ満州や朝鮮北部ではミレニアム噴火によって多くの集落が消滅している。この被災地域に住んでいた女真族は生活を続けることが出来なくなり、他地域への侵攻を取らざるをえなくなった。そうして生まれたのが、1019年3月に九州を襲った「刀伊の入寇」である。


