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中国と日本の戦争・事変
白村江の戦いから朝鮮出兵まで

最新の更新2026年7月15日  最初の公開2026年4月22日

  1. 第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
  2. 第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
  3. 第3回 vs 女真族:刀伊の入寇
  4. 第4回07/23 vs 元・高麗:元寇
  5. 第5回08/27 vs 元/明・高麗/朝鮮:倭寇
  6. 第6回09/24 vs 明・朝鮮:朝鮮出兵

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【記】
講座番号:4584576 新宿教室 歴史 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8820900より引用。引用開始 2026/7/23, 8/27, 9/24 指定木曜日 10:30〜12:00
戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は後半3回です。

以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8709093を参照。
日程 2026/4/23, 5/28, 6/25 曜日・時間 指定木曜日 10:30〜12:00
 戦争を防ぐ方法は、防災と似ています。防災のためには、津波や地震などの歴史と教訓を学ぶ必要があります。同様に、平和を守るためにも過去の戦争の歴史を知る必要があります。本講座では、7世紀の白村江の戦いから16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵まで、前近代の主な戦争と代表的な戦闘をとりあげ、歴史的背景や後世への影響、現代への教訓などを解説します。豊富な映像や図版を使って、予備知識のないかたにも、わかりやすく解説します。(講師・記) ※半年全6回を予定しています。今期は前半3回です。
4月期 各回テーマ
第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
第3回 vs 女真族:刀伊の入寇

7月期 各回テーマ
第4回 vs 元・高麗:元寇
第5回 vs 元/明・高麗/朝鮮:倭寇
第6回 vs 明・朝鮮:朝鮮出兵



第1回 総論 アジアの「東方地中海」と戦争
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mPy2kdSU3PeF1_n7Oajyn7

○ポイント、キーワード
○東方地中海
 「地中海」は本来は普通名詞で、陸地で囲まれ狭い海峡で大洋とつながる付属海を指す。ヨーロッパ地中海・北極海・紅海・瀬戸内海など。
 単に「地中海」と言うと、ヨーロッパ・アフリカ・アジアの三大陸に囲まれた「ヨーロッパ地中海」を指す。
 日本海や東シナ海を「東方地中海」と呼ぶ呼称は、一般には普及していない。
cf.20130615.html「「東方地中海」世界の特徴について  〜続「貝と羊の中国人」〜」

[NASA world wind]で作成

例)西暦57年「倭の奴国」の使者が洛陽に行き、光武帝から「金印」を受領。
福岡市〜洛陽市の距離 約1650km > ローマ市〜ロンドン市の距離 約1450km



○朝鮮王朝の実学者・李瀷(이익 りいく/イイク 1681年 - 1763年)『星湖僿説』の指摘
cf.seikosaisetu.html
 元の世祖フビライが日本に遠征しようとしたとき、造船や食糧の準備はみなわが朝鮮国が担当し、戦闘にも加わったが、結局、勝てず、 隣の強国である日本と平和を失ってしまった。 かの「倭」の国土の地形は、楽器の琵琶が頭を西に向けて横たえたような形をしている。 倭から外に侵掠に出るのは簡単だが、外国の軍隊は倭に侵入できない。 それゆえ、中国の江蘇・浙江地方は、倭寇のひどい侵掠を受けているが、 どうにもできないのだ。大国である中国さえそうなのだから、まして小さなわが朝鮮国については、言うまでもない。

○日本と近隣諸国の軍事衝突の主な歴史
  1. 3世紀?/4世紀? 神功皇后の三韓征伐
  2. 391年〜404年 倭・高句麗戦争。『好太王碑』など。
  3. 5世紀 雄略天皇の時代の吉備氏の乱(新羅と結託した吉備氏の大和朝廷に対する反乱)
  4. 658年〜660年 阿倍比羅夫(あべ の ひらふ)の北方遠征。蝦夷や粛慎(みしはせ)を平定。
  5. 663年 白村江の戦い(はくすきのえのたたかい/はくそんこうのたたかい) 倭・百済(残存勢力)vs唐・新羅
  6. 759年 藤原仲麻呂による新羅征討計画(軍船394隻、兵士4万700人。中止)
  7. 1019年 刀伊の入寇
  8. 1274年・1281年 元寇 日本vs蒙古・高麗
  9. 13世紀〜16世紀 倭寇
  10. 1419年 応永の外寇 朝鮮王朝(李氏朝鮮)の対馬侵攻 糠岳戦争
  11. 1592年〜1598年 文禄・慶長の役(朝鮮出兵
  12. 1645年〜1674年 日本乞師(にほんきっし)。明王朝の残存勢力が日本に援軍を要請。未遂

 日本は中国や朝鮮と同盟して、共通の敵と戦った経験は少ない(古代の百済は稀少な例外)。
 外国の側から戦争をしかけられたのは、元寇だけである。
 日本は海洋国家であるというイメージがあるが、陸戦が主で、海戦は少ない。
 日本では城郭都市が発達せず、それが戦闘教義にも影響した。
 中世以降は、武具や戦闘教義が日本独自のものに変化してゆく。

[一番上]


第2回 vs 唐・新羅:白村江の戦い
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mwtYeifqP-RDUvt43YrAvj

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いで日本側は陸戦で勝利を重ね、海戦で敗北する。

 663年、朝鮮半島の白村江で行われた、日本と百済残存勢力の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いを解説します。陸戦で勝利を重ねた日本側は海戦で敗北しましたが、その戦いの様相や結果については諸説があり、判然としません。井上靖の歴史小説『額田女王』や漫画『天智と天武 ―新説・日本書紀―』など、白村江の戦いを描いた創作作品についても言及します。

いつ:西暦(ユリウス暦)663年10月4日から10月5日
どこで:白江(現在の韓国・錦江と推定)の河口一帯の海上
誰が:倭軍約5万・百済軍5千 vs 唐軍・新羅軍(総数不明)
原因:百済の復興を支援する倭(日本)と、新羅を支援する唐の衝突
結果:唐・新羅側の勝利
影響:新羅による半島統一、倭の律令国家化

『日本書紀』天智天皇2年3月条
 前将軍(まへのいくさのきみ)上毛野君稚子(かみつけの の きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと の むらじ おほふた)、
 中将軍(そひのいくさのきみ)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき の おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ の きみ ねまろ)、
 後将軍(しりへのいくさのきみ)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた の おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ の おみ かまつか)
を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ。

 生還 間人連大蓋 阿倍比羅夫? 河辺百枝 他
 戦死 朴市秦田来津 安曇比羅夫(阿曇比羅夫) 他
 史書に記載なし 狭井檳榔 上毛野君稚子 巨勢神前訳語 三輪根麻呂 大宅臣鎌柄 他


○年表
★前史 ― 東アジアの国際情勢 ★2.百済の衰退 ★3.倭国(日本)の対応
★4.百済滅亡
★5.百済復興運動と倭国参戦
★6.白村江の戦い(663年)
663年8月(日本書紀では天智2年8月)
場所:白村江(現在の韓国・錦江河口付近)
対戦:倭国・百済復興軍vs唐・新羅連合軍
戦いの経過 倭国軍の攻撃 4回にわたり突撃 唐軍の対応 組織的な水軍戦術 結果 倭国・百済連合軍大敗 被害 倭船400隻以上炎上(『三国史記』) 敗因として、統一指揮官の不在、百済側の内紛、唐軍との戦術差などが挙げられる。
★7.戦後の影響
朝鮮半島
日本(倭国)
中国(唐)

○人物

○その他
[一番上]


第3回 vs 女真族:刀伊の入寇
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-k_HtvxiIn52nTUeqfWjxwc

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
[一番上]


第4回07/23 vs 元・高麗:元寇
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PLEpbaXUVvNV4

○ポイント、キーワード
  • 鎌倉刀 かまくらとう
    鎌倉時代に作刀(さくとう)された日本刀。現在、国宝指定の日本刀は122振あり、その8〜9割が鎌倉刀である。
    cf.https://www.touken-world.jp/tips/120387/
    鎌倉刀に象徴されるように、鎌倉武士の戦闘力は歴代の武士に比べても高かった。「流鏑馬」(やぷさめ)など和弓の「騎射」の技術も高かった。

    ○辞書的な説明
    ○略年表

    『元史』巻208「日本」(元史日本伝)
    参考 https://zh.wikisource.org/wiki/元史/卷208
    中国の明王朝の時代に編纂された正史の記述の日本語訳。

     日本は東海の東にあり、古くは倭奴国(わぬこく)と称した。あるいは、その古い名を嫌って日本と改名したとも言う。その国が日の出る所に近いからである。その国土の範囲、国王の世系、物産や風俗については『宋史』の日本伝に見える。
     日本は国として中国本土から非常に遠く隔たり、また大海によって隔てられている。後漢から魏・晋・宋・隋を経て、みな来貢してきた。唐の永徽・顕慶・長安・開元・天宝・上元・貞元・元和・開成の各年間に、いずれも使者を遣わして朝貢した。 宋の雍熙元年(984年)、日本の僧・奝然(ちょうねん)が弟子たち5?6人とともに海を渡って到着し、職貢を捧げ、あわせて銅器十数点を献上した。
     奝然は隷書を得意としたが、中国語(話し言葉)は通じなかった。その国の風土を問うと、筆談で答えるだけであった。その答えによれば、「国中には五経の書や仏経、および白居易の詩集70巻がある」という。 奝然が帰国した後、国人としてやって来た者を滕木吉(とうぼくきつ)といい、僧としてやって来た者を寂照(じゃくしょう)といった。寂照は文字をよく理解し、文章の書写が見事であった。熙寧(1068〜1077年)以後になると連年のように方物(地方の産物)を朝貢してきたが、やって来る者はみな僧であった。
     元世祖の至元2年(1265年)、高麗人の趙彝(ちょうい)らの「日本国と交信(国交樹立)が可能である」との言葉を受け、使者としてふさわしい者を選抜させた。
     至元3年(1266年)8月、兵部侍郎の黒的に虎符を与えて国信使(正使)とし、礼部侍郎の殷弘(いんこう)に金符を与えて国信副使として、国書を持たせて日本へ派遣した。その国書にはこうあった。
    「大蒙古国皇帝(クビライ)より書信を日本国王にさしあげる。朕が思うに、古来より小国の君主であっても、国境を接していればなお信頼を重んじ友好を深めることに努めるものである。いわんや我が祖宗(先代の皇帝たち)は天の明命を受け、全天下を領有しており、遠方の異国で我が威光を恐れ徳を慕う者は数え切れないほどである。朕が即位した当初、高麗の罪なき民が長らく戦火に苦しんでいるのを見て、ただちに休戦を命じ、彼らの領土を返し、老若男女を呼び戻させた。高麗の君臣は感謝して来朝し、名分としては君臣であるが、和やかさは父子のようである。思い起こせば、王の君臣もこのことをすでに知っているであろう。高麗は朕の東の藩屏(属国)である。日本は高麗に密着しており、建国以来、時として中国と通じていたのに、朕の代に至って一騎の使者すら友好を通わす者がいない。王国(日本)がこの事情をまだ詳しく知らないのを恐れ、特に使者を遣わして書を持たせ、朕の志を告知する。これ以降、往来して交わりを結び、互いに親睦を深めることを望む。そもそも聖人は四海(世界中)を一家とみなすものである。互いに友好を通わせないのは、どうして一家の道理と言えようか。最終的に兵を用いる(戦争になる)ような事態を、一体だれが好き好むだろうか。王よ、そのことを熟考せよ」
     黒的らは高麗を経由した。高麗国王の王禃(おうしょく。元宗)は皇帝の命令により、自国の枢密院副使・宋君斐、借礼部侍郎・金賛らを遣わして詔使の黒的らを日本へ案内させようとしたが、到達できずに引き返した。
     至元4年(1267年)6月、皇帝は王禃が言い訳をして取り繕っていると考え、使者らを帰還させ、再び黒的らを高麗に遣わして王禃に言い含め、日本の件を委ねて「必ず要領(確定した回答)を得ること」を期限として命じた。王禃は「航路が険しく難所であるため、天使(皇帝の使者)の身に害が及んではならない」と考え、同年9月、自国の起居舎人・潘阜らを派遣して国書を持たせて日本へ向かわせた。彼らは6ヶ月滞在したが、やはり要領を得ずに帰国した。
     至元5年(1268年)9月、黒的と殷弘に再び国書を持たせて赴かせた。対馬島に到着したが、日本人は拒絶して受け入れず、その(島民である)塔二郎・弥二郎の2人を捕らえて引き返した。
     至元6年(1269年)6月、高麗の金有成に命じて捕らえた2人を送り返させ、中書省から日本国へ書状を送らせたが、これも回答はなかった。金有成は日本の太宰府の守護所に長らく留まった。
     12月、さらに秘書監の趙良弼(ちょう りょうひつ)に命じて使者として赴かせた。その国書にはこうあった。
    「およそ王たる者は内外を区別しないと聞く。高麗と朕はすでに一家であり、王国(日本)は実に隣国である。ゆえに以前、信使を走らせて修好しようとしたが、国境の役人に阻止されて通じなかった。捕らえた2人については、役人に命じて手厚く保護し、文書を持たせて送り返させたが、その後また何の音沙汰もなくなった。続いて交信しようとしたところ、高麗の権臣・林衍(りんえん)が反乱を起こしたため、これにかかりきりとなって果たせなかった。王もこれが原因で使者を派遣するのをやめたのか、あるいはすでに遣わしたものの途中で遮られたのか、いずれも知る由がない。さもなければ、日本は素より『礼を知る国』と称されているのに、王の君臣がどうして深く考えもせず無礼なことをするだろうか。最近、すでに林衍を滅ぼし、元の国王の位を復活させ、その民を安堵させたので、特に少中大夫・秘書監の趙良弼を国信使に命じ、国書を持たせて赴かせる。もし直ちに使者を送って彼らとともに来朝するならば、仁に親しみ隣国と好みを結ぶという国の美事である。もし躊躇して兵を用いることにでもなれば、一体だれがそれを喜ぶだろうか。王よ、慎重に熟考せよ」
     趙良弼は出発しようとする際、(日本の)国王と会見する際の礼儀を定めるよう乞うた。宮廷での議論では、「あの国との上下の分限(身分関係)がまだ決まっていないため、定められた礼数など議論できない」とし、皇帝もこれに従った。
     至元7年(1270年)12月、高麗王・王禃に命じて国信使の趙良弼を送り届けて日本と通好させ、必ず到達させるよう期させた。さらに忽林失・王国昌・洪茶丘(こう ちゃきゅう)らに兵を率いさせて海上まで送り届けさせ、国信使が還ってくるまで、ひとまず金州などの場所に屯田・駐屯させた。
     至元8年(1271年)6月、日本の通訳・曹介升らが進言した。
    「高麗は遠回りのルートで国使を案内しています。ほかにも近道があり、都合の良い風が得られれば半日で到着できます。もし使者だけが行くのであれば一緒に行くことはできませんが、もし大軍が進撃・討伐するのであれば、進んで道案内をいたしましょう」
     皇帝は「それならば一考せねばな」と言った。
     9月、高麗王・王禃は通事別将の徐偁(じょしょう)を派遣して良弼を案内・護送して日本へ赴かせた。日本は初めて「弥四郎」という者を遣わして入朝させたので、皇帝は宴を開いてねぎらい、帰国させた。
     至元9年(1272年)2月、枢密院の臣下が述べた。
    「日本への奉使である趙良弼が書状官の張鐸(ちょうたく)を派遣して告げてまいりました。『昨年9月、日本人の弥四郎らとともに太宰府の西守護所に到着しました。守護の者は「かつて高麗に欺かれ、たびたび『上国(元)が攻めてくる』と言われていました。皇帝がお命を大切にされ殺生を嫌い、まず使者を遣わして御璽の押された書をお示しになるとは思いも寄りませんでした。しかし、王京(京都)はここからまだ遠いので、まず人を遣わして奉使(趙良弼)に従わせて返答させたい」と言いました』と」
     良弼はそこで張鐸にその使者26人を同行させて京師(大都)へ至らせ、謁見を求めさせた。皇帝は
    「その国の主が来させたものであり、守護所云々というのは偽りではないか」
    と疑った。翰林承旨の和礼霍孫(われいかくそん)に命じて姚枢(ようすう)・許衡(きょこう)らに尋ねさせると、みなこたえて言った。
    「まさに聖算(皇帝のお考え)のとおりです。彼らは我が国が兵を加えることを恐れ、それ故にこの者らを放って我が方の強弱を探らせているに過ぎません。寛仁の姿勢を示しつつ、皇帝への謁見は許すべきではありません」。皇帝はこれに従った。
     この月、高麗王・王禃は日本へ書状を送った。5月にも再び書状を送り、必ず大朝(元)と通好するよう勧めたが、いずれも返事はなかった。
     至元10年(1273年)6月、趙良弼は再び日本へ使者として赴いたが、太宰府まで至って(国書を渡せずに)引き返した。
     至元11年(1274年)3月、鳳州経略使の忻都(きんと)、高麗軍民総管の洪茶丘に命じ、千料舟(大型船)・抜都魯(バートル)軽疾舟(高速軽快船)・汲水小舟(補給用の小船)それぞれ300隻、計900隻をもって、兵士1万5千人を乗せ、7月を期して日本を征伐させようとした。
     冬10月、日本国に入り、これを打ち破った。しかし官軍(元軍)の陣形が乱れ、また矢が尽きたため、ただ四方の境界を掠奪して帰還した。
     至元12年(1275年)2月、礼部侍郎の杜世忠、兵部侍郎の何文著、計議官の撒都魯丁らを派遣した。使者は再び国書を届けたが、やはり回答はなかった。
     至元14年(1277年)、日本が商人を遣わして金を持参し銅銭との交換を求めてきたので、これを許した。
     至元17年(1280年)2月、日本は国の使者である杜世忠らを殺害した。征東元帥の忻都および洪茶丘は自ら兵を率いて討伐に赴くことを請うたが、宮廷の議論により、ひとまずこれを猶予することとした。
     5月、范文虎(はん ぶんこ)を召し出して日本征伐を議論した。8月、日本征伐の兵士を公募するよう詔を出した。
     至元18年(1281年)1月、日本行省右丞相の阿剌罕(アラカン)、右丞の范文虎、および忻都・洪茶丘らに命じ、10万の兵を率いて日本を征伐させた。
     2月、諸将が拝謁して別れの挨拶をした。皇帝は諭して言った。
    「もともとはかの国の使者が来たことから、朝廷も使者を向かわせたのだ。向こうは我が使者を留めて返さなかった。だから将軍らにこの遠征を行わせるのだ。朕は漢人が『他人の国家を取る際、民と土地を得たいと思うものだ。もし民を悉く殺してしまえば、ただ土地を得たところで何に役立とうか』と言うのを聞いている。また一つの事があり、朕は実にそれを憂えている。将軍たちが不和になるのではないかということだ。もし、かの国の人がやって来て議論することがあれば、心(志)を同じくして協力を企て、口を一つにしたかのように答えよ」
     5月、日本行省参議の裴国佐らが言った。
    「本省右丞相の阿剌罕、范右丞、李左丞は、あらかじめ忻都・茶丘と入朝いたしました。その際、同院の官員と協議して決定いたしましたのは、『水軍を率いて高麗の金州に至り、忻都・茶丘の軍と合流したのち、日本に攻め入る』ということでありました。また風向や水流が不便であるため、再協議して『一岐島(壱岐)で合流する』と決定いたしました。今年3月、風雨によって漂着した日本の船がありましたので、その水夫に地図を描かせたところ、太宰府の西の近くに『平戸島』(ひらどじま)というものがあり、周囲がすべて水に囲まれていて軍船を停泊させることができるとわかりました。この島は敵が防備している場所ではないため、直ちに赴いてこの島を占領し、人を船に乗せて一岐に行かせ、忻都・茶丘を呼んで合流させて進撃討伐するのが有利かと存じます」
     皇帝は「こちらの者は向こうの事情に詳しくない。阿剌罕らなら必ず知っているはずだから、彼ら自身に対処させよ」と言った。
     6月、阿剌罕は病気のため行軍できなくなり、阿塔海(アタハイ)に命じて代わりに総軍事を統括させた。
     8月、諸将は敵を見ないうちに全軍を失って帰還し、こう言った。
    「日本に至り、太宰府を攻めようとしましたが、暴風が船を破壊しました。なおも作戦を議論しようとしましたが、万戸の厲徳彪、招討の王国佐、水手総管の陸文政らが軍令に従わず、勝手に逃げ去りました。本省は残った軍を乗せて合浦まで至り、解散させて郷里へ帰らせました」
     ほどなくして、敗残兵の于閶(うしょう)が脱出して帰還し、こう言った。
    「官軍は6月に海に入り、7月に平壺島(平戸)に至り、五龍山へ移動しました。8月1日、風によって船が破壊されました。5日、文虎ら諸将は各自で頑丈で良い船を選んで乗り込み、10万あまりの兵士を山の下に放置して逃げ去りました。残された衆人は議論して『張百戸』という者を主帥に推し、『張総管』と号してその指揮に従いました。木を伐って船を作り帰還しようとしていたところ、7日、日本人が襲来して戦い、(我々は)ことごとく死にました。残りの2〜3万人が彼らに捕らえられました。9日、八角島に至り、蒙古人・高麗人・漢人をことごとく殺害しました。新附軍(南宋の降伏軍)のことは『唐人』と呼び、殺さずに奴隷としました。私(于閶)らはそれです」
     およそ行省の官員たちが事にあたって議論で譲り合わなかったため、皆が軍を捨てて帰還してしまったのである。
     時が経ち、莫青と呉万五という者も逃げ帰ってきた。10万の衆のうち、帰還できたのは(于閶を含めて)わずか3人であった。
     至元20年(1283年)、阿塔海を日本省丞相とし、徹里帖木児右丞・劉二抜都児左丞とともに、兵を募り船を造らせ、再び日本を征伐しようとした。淮西宣慰使の昂吉児(アンギル)が「民が疲弊しております」と上書して兵を収めるよう乞うた。
     至元21年(1284年)、また(日本の)風俗が仏教を崇尚していることから、王積翁と補陀の僧・如智を派遣して使者として赴かせようとした。船の中に同行を望まない者がおり、共謀して積翁を殺害したため、到達しなかった。
     至元23年(1286年)、皇帝は「日本はかつて我が国を侵略したことはない。今、交趾(ベトナム)が国境を犯している。日本は据え置き、専ら交趾に対処すべきである」と言った。
    【1294年、クビライ死去】
     成宗の大徳2年(1298年)、江浙省平章政事の也速答児(ヤスダール)が日本への用兵を願い出た。皇帝は「今はその時ではない。朕がゆっくり考えよう」と言った。
     大徳3年(1299年)、僧の寧一山(一山一寧)に「妙慈弘済大師」の号を加増し、商船に同乗させて日本へ遣わしたが、日本人はついに(朝貢に)来なかった。


    ○その他
    [一番上]


    YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=あいでぃー

    ○ポイント、キーワード
    ○辞書的な説明
    ○略年表
    ○その他
    [一番上]


    YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=あいでぃー

    ○ポイント、キーワード
    ○辞書的な説明
    ○略年表
    ○その他
    [一番上]


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