開封 かいほう Kāifēng
中国河南省北東部,黄河流域にある都市。汴州 (べんしゆう) ・汴京ともいう。
戦国時代の魏 (ぎ) の都大梁 (たいりよう) として繁栄し,のち梁州・汴州などが置かれ,中原 (ちゆうげん) の一大中心地であった。隋代に大運河通済渠が開かれると,南北運輸交通の要衝を占め,経済の中心地として一段と発展。また,五代(後唐を除く),さらに北宋の首都として繁栄した。その繁栄の様子は張択端 (ちようたくたん) の「清明上河図」や,孟元老の『東京夢華録 (とうけいむかろく) 』に詳しい。
ほく‐そう【北宋】
中国の王朝(九六〇‐一一二七)。宋朝が靖康の変で金の圧迫により江南に移るまでをいう。趙匡胤(太祖)が五代のあとをうけて建国。首都は汴(べん)(=開封)。第二代太宗が中国を統一。集権的官僚制を樹立したが、遼・西夏・金の台頭により対外的にはふるわず、内政でも新旧両法党の党争により疲弊。士大夫・庶民の新文化が誕生した時代として重要。宋。
水滸伝 すいこでん
中国の代表的な長編口語小説。四大奇書の1つ
北宋末期に山東の湖,梁山泊 (りようざんぱく) に集まった宋江 (そうこう) 以下108人の豪傑が,貪官汚吏 (どんかんおり) に抗して山東・河北の地を荒らしまわる武勇伝。元の施耐庵 (したいあん) の原作,明の羅貫中 (らかんちゆう) の編纂 (へんさん) といわれるが,すでに南宋時代に読本 (よみほん) として民間に普及し,元代に戯曲化され,明初期に完成したと推定される。
「清明上河図」は、北宋の都・開封(かいほう)(現在の河南省開封市)の光景を描いたものと言われています。作者である張択端(ちょうたくたん)は、北宋の宮廷画家であったということ以外、詳しいことがほとんど分かっていない謎の画家です。全長約5メートル、縦24センチの画面のなかに登場する人物は773人!(異説あり) 。まさに神技です。
汴河(べんが)の流れに沿って、市民の生活が衣食住にいたるまで細かに描かれ、宋代の風俗を知るためにも一級の資料です。北宋文化の絶頂期・徽宗(きそう)皇帝のために描かれたとされ、庶民の幸せな日常生活が画面に満ち溢れています。後世にもたくさんの模本が作られました。
ここまで精密に描かれた都市風景は、もちろん同時代の西洋にもほとんどありません。北京故宮でも公開される機会はごくまれで、上海博物館で公開された時は夜中まで行列が続いたほどの熱狂的大ブームを巻き起こしました。まさに中国が誇る至宝であるとともに、世界でも屈指の幻の名画なのです。
(中略)
清明上河図のクライマックス、虹橋の場面です。虹橋(にじばし)とは橋脚を使わず、木組みだけで支えられたアーチ型の橋。虹の形に見えることから虹橋と呼ばれ、橋の下を船が通り抜けられるように開発されたものです。かつて開封に実在し、高い建築技術がうかがえる名橋でした。右からくる船がマストをおろし、虹橋にさしかかります。船首で大声を出して叫んでいる水夫、橋桁から身を乗り出すヤジ馬たち…。宋代の都市の喧騒が聞こえてくるような名場面です。
画面左に見られるひときわ高い建物が見えます。この建物はお店で、酒楼です。河べりのお座敷で一杯、といったところ。今も昔も、同じく楽しい時間ですね。旗には「新酒」の文字が描かれています。木組みの克明な描写も必見です。清明上河図には都市に生きるさまざまな職業の人たちが描かれています。
北宋の首都の開封は、大運河と黄河をつなぐ地点にある商業都市であり、長安が遊牧地帯には近いが中国のなかでは西北の隅にあったのと比較すると、中国内部の東西南北の交通の要に位置していた。城壁の中の道路は整然たる碁盤の目状ではなく、入り組んだ道が主流であり、また城内には運河が掘られていた。長安では、道路で区切られた一つ一つの区画が壁で囲まれていたが、開封ではそのような壁はなく、商店は直接道路に面していた。
はじめて見る開封の景色はなにもかも珍しかっただろう。運河、とりわけ?河を通行する沢山の船は、人々を驚かせたはずである。その混雑ぶりに驚きつつ、入城すると、そこはもう世界有数の大都会で、宏壮な建物が並んでいる。荷物を宿においた人々は、なにをおいても城内のそこかしこに出かけたことだろう。例えば宮城。日本からの旅人である成尋もただちに宮城のまわりを歩いている。「我が国の御所のごとし」。これが彼の感想である。実際、宋の宮殿は小さい。『水滸伝』を読むと、密かに忍び込んだ宋江の手のものの柴進がまるで天国かなにかのように感嘆しているが、じじつはそれほどでもない。(中略)
経済的に繁栄し、人々が密集すれば、盛り場ができる。これも定石どおりのことである。(中略)開封が真に開封らしい姿を見せるのも歓楽街であった。これは瓦子(がし)とよばれる。ほかにも瓦、瓦市、瓦舎などとよぶ。人が集まるときには瓦のようにひしめき、散るときは瓦のように砕けるからというのが語源という。
現在の敦煌は、中華人民共和国甘粛省の「県級市」で、甘粛省酒泉市の一部である。「河西回廊」の西端に位置し、甘粛省・青海省・新疆ウイグル自治区の3つの地域を結ぶ要衝である。 地図 https://ja.wikipedia.org/wiki/敦煌市 敦煌市の面積は3万1200平方キロメートルと広大だが(北海道の面積は8万3456平方キロ、岩手県は1万5278平方キロ)、人口は2020年11月1日現在で18万5231人にすぎない(東京都立川市の人口は18万4266人)。 敦煌市は観光産業に力を入れている。コロナ前は、人口19万ほどのこの都市に、年間900万人の観光客が訪れていた。 ・国家重点風景名勝区:鳴沙山、月牙泉 ・全国重点文物保護単位:莫高窟、玉門関、万里の長城ののろしの遺跡、など 参考記事 「観光を軸にインテリジェントな街づくりを目指すスマート敦煌」 2018.07.06 https://www.huawei.com/jp/publications/huawave/30/hw30_winners |
とんこう〔トンクワウ〕【敦煌/燉煌】
中国甘粛省北西部のオアシス都市。古来から西域との交通の要衝。南東郊外に敦煌石窟がある。トゥンホワン。
敦煌【とんこう】
中国,甘粛省北西部,党河のオアシスにある都市。別名は沙州。前2世紀,漢が西域経営のため敦煌郡を置いて以来,中国北西角の軍事・交通の要衝となる。南東の敦煌莫高窟(ばっこうくつ)には4―14世紀の壁画,彫塑などが残されている。南には鳴沙山,月牙泉があり,北西に玉門関,南西に陽関の遺跡がある。
敦煌莫高窟 とんこうばっこうくつ Dun-huang mo-gao-ku
中国,カンスー (甘粛) 省トンホワン (敦煌) 県のミンシャーシャン (鳴沙山) にある大石窟 (千仏洞) 。前秦,北魏,西魏,北周,隋,唐,五代,宋,元代に続営され,今日知られる石窟だけでも総数 490ヵ所以上に達している。 1907年イギリスの M.A.スタインが,1908年にはフランスの P.ペリオが数多くの古文書,絵画,工芸品を持ち帰り,石窟を紹介した。さらに,ロシア,アメリカ,日本の探検隊が相次いで訪れ,中国の陳方里,向達,張大千らも調査を行なったが,解放後は敦煌文物研究所が開設され,調査研究が進められている。石窟内に描かれた壁画は壁面に漆喰を塗り,その上に描いたもので,仏教経典の広範な内容を主題とし,西方様式と中国様式の共存が認められる。また,石窟内に安置された塑造の仏像にもインド様式の影響が顕著にみられ,西方の作風が敦煌を経由して中国にもたらされたことが,明確に示されている。これらの膨大な文書や絵画をもとに「敦煌学」と呼ばれる新たな研究分野が生まれた。 1987年世界遺産の文化遺産に登録。
1.杭州市の概要
人口は1220.4万人(2021年11月)、面積は16,596平方キロメートル
杭州市政府のホームページ(中国語) http://www.hangzhou.gov.cn/(新しいウインドウが開きます)
杭州市は、中国の東南沿海、長江の南を流れる銭塘江下流の北岸にあり、北京、杭州をつなぐ大運河の最南端に位置します。 浙江省の省都であり、政治、経済、科学、教育、文化の中心を担っています。 主要産業は、機械、電子、食品、紡績、化学で、近年著しい経済発展を遂げており、中国内都市競争力ランキングでも上位にランクされています。
白居易や蘇東坡の詩にうたわれ、人々にこよなく愛され続けている西湖のほか多数の観光資源を備え、国内外観光客で賑わいをみせる観光都市で、13世紀のイタリアの旅行家マルコポーロが「世界で最も美しく華やかな都市」と誉め讃えたことでも有名です。
2.友好都市提携の経緯
浙江省と福井県との関わりは、永平寺を開山した道元禅師が寧波市で禅の修業を行ったことや、文豪魯迅と福井出身の師・藤野厳九郎との関係があげられます。また、杭州市と福井市はそれぞれ省都と県都であり、繊維産業が盛んであることなど多くの共有点がありました
杭州 (こうしゅう) Háng zhōu
中国,浙江省の省直轄市,省都。人口245万(2000)。銭塘江の左岸,杭州湾頭にあり,西は風光明媚な西湖に接し,南に呉山,鳳凰山,玉皇山が連なる。 北に向かう江南大運河の起点でもある。北西郊には良渚(りようしよ)文化の遺跡が知られるが, この地に銭塘県が置かれたのは秦代の前222年で,前210年には始皇帝も巡行している。 ただこのころは,県は西方霊隠山の麓にあり,現在の市域や西湖は,銭塘江と海水に洗われていたと考えられる。 やがて上流からの土砂と,江口の大潮に運ばれた土砂が堆積し,5世紀の終りには銭塘県治も現在の呉山麓にうつった。 隋は陳がここに置いた銭塘郡を杭州に改め,周囲36里の城壁を築き,江南大運河の起点とした。 杭州湾は浅く,大きな海洋船は直接杭州に入港できなかったが,寧波(ニンポー),紹興(越州)から運河で杭州に達し, 改めて大運河で北に向かう交通路が定着すると,アラビア人をはじめ,日本,朝鮮半島からの使者たちも頻繁に訪れ,商業中継基地として発達した。
907年(天祐4),呉越国の銭鏐(せんりゆう)は,南郊の丘陵まで含んだ周囲70里の城壁を築き,国都としてさらに発展につとめた。 揚子江デルタ地帯の農業生産力の飛躍的増大,銭塘江流域,安徽省方面の産業の発達,杭州周辺の絹織物生産の開発などが相乗し,宋代に入ると杭州は江南最大の都市に成長した。 また唐代の白居易(楽天),北宋の蘇軾(そしよく)(東坡)のように著名な文人知事によって西湖の灌漑水利,運河の整備などがすすめられた。 彼らはまた鶴と梅を友とする高逸の詩人として日本にも知られる林逋(りんぽ)(和靖)(967-1028)らとともに杭州と西湖を詩に詠み,人々の口に伝えられた。 1127年(建炎1)女真族の金に国都開封を追われた宋の支配階級は高宗趙構をいただき江南に逃れ,建康(現,南京)か杭州か紆余曲折の末,1138年(紹興8)ここを行在所と定めた。これよりさき1129年に杭州は臨安府と改称されていた。 マルコ・ポーロらによってキンザイと呼ばれるのは行在の音字である。 しかし実際には以後150年の南宋の国都として,〈天上天堂,地下蘇杭〉という言葉ができるなど,開封にも増した繁栄をみることになる。
南宋の杭州では,城南鳳凰山の東面に周囲4kmの小さな宮城を設け,そこから北,呉山にかけて主要官庁を置く。 それより北,武林門に至るまで御街と呼ぶ大街と,塩橋運河,小市河の2本の運河に沿って市街が広がり,また南東銭塘江沿いにも商区がのびた。 城内の主要交通は上記2本の運河のほかに西湖の水をひく清流の清湖河があったが,すでに飽和状態で,東の城壁に沿い銭塘江と大運河を結ぶ菜市河(さいしが)が広く利用された。 城壁には13の門と5水門があけられ,8廂(しよう)68坊に区画,人口は城内と周囲の市域をあわせて100万以上120万程度と推定される。 その繁栄のありさまは,呉自牧の《夢粱(むりよう)録》をはじめとした繁盛記で詳しく知りうる。 とくに各城門の周囲に,米,魚介,野菜などをはじめとした特定商品市場(団,行)ができて人が集まり,そこに娯楽街(瓦市)が常設されている点は開封にみられぬ景観であった。 また御街の南部には各種商店,飲食店が軒をならべ,その背後には皇族,有力官僚,商人が屋敷を構えた。 元代ここを訪れたイブン・バットゥータが記録するように10万を超す軍隊,手工業者,小商人,官庁などで居住区が分かれる傾向もみられる。 呉越国以来の仏教隆盛をうけついで,南宋時代には城内外あわせて350の寺院があり西湖の南北の丘陵に立つ保俶(ほしゆく),雷峯(らいほう)二塔をはじめ,風光に花を添えた。 マルコ・ポーロら元代杭州を見た外国人たちは驚異のまなざしで当時の世界最大の100万都市のことを書きとどめている。 元末の反乱でここに拠った張士誠は,1359年(至正19),城壁を東に拡張して全周約18kmとし,これが民国まで続く。 明・清時代から現在に至るまで,杭州府(杭県・杭州市)は浙江省の省都として,政治,経済,文化の中心となり,中国屈指の大都市としての位置を保持している。
文化的にみても,すでに南宋時代,出版文化の中心となり,中国で最も美しいといわれる西湖に多くの文人を集め,詩賦,絵画の題材を提供した。 白堤,蘇堤,西湖十景など,現在に続く観光の名所は,すでに宋代に作られていた。 西湖北端の小島孤山には清代四庫全書館の一つ文瀾閣,呉昌碩(ごしようせき)が主宰した西冷印社などもここに置かれ, 現在では浙江省博物院や大ホテルが建てられている。 観光地としてはほかに南宋の忠臣岳飛の廟や,霊隠寺,五代から元代に至る数多くの磨崖仏などがある。 また市の南西丘陵部の竜井は茶の産地としてきこえるほか, 1960年には伝統的な絹織物産業の中心として杭州糸綢印染連合庁が置かれ,織綿庁とともに活動している。 なお,現在では城壁は撤去され,城内運河も機能を喪失して大半が埋め立てられた。 市域も道路整備が進み,北西部の解放路,延安路が交通の中心となり,大運河の起点である武林門一帯にも新市街がひらけている。 上海から浙江省南部,江西省に向かう滬杭(ここう),浙贛(せつかん)線上にあり,紹興,寧波にはここから支線が分かれる。 中国第一の観光地であるほか,各種保養施設も西湖周辺に数多く置かれている。
執筆者:梅原 郁