HOME > 授業教材集 > このページ
人物で知る中国〜蒋介石
最新の更新2024年10月28日 最初の公開2024年10月28日
朝日カルチャーセンター千葉教室 2024年10月29日火曜 15:30〜17:00
教室+オンライン(見逃し配信つき)
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7393149より引用。引用開始。
蒋介石(しょうかいせき 1887-1975)は、若き日に日本陸軍の新潟県の砲兵隊で働いたあと、中国の革命家・孫文の後継者として中華民国の統一を達成し国民党のリーダーとなりました。第二次大戦では連合国側に加わり日本と戦い、中国を世界の四大国の一角におしあげました。が、戦後の国共内戦では毛沢東の中国共産党に敗れ、台湾に渡りました。蒋介石の波瀾の生涯と近代中国の激動を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します(講師・記)。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l_NqUKTWoDz4bSLBWrezon
○ポイント、キーワード
軍閥
近代日本史の軍閥(Gunbatsu / Military Factions)は、「藩閥」「財閥」などと並ぶ概念で、文民や文官に対する軍人中心の政治勢力を指す。
近代中国史の軍閥(military cliques)は、国内に各地域に割拠して武力を背景にその地域を実効支配する複数の勢力を指す。近代中国の「軍閥時代」は、英語では「The Warlord Era」と言う。
蒋介石は、形式的には中華民国の「元首」となったが、実質的には最大のウォーロード(Warlord / 軍閥のボス)にすぎなかった。
中国史の経験則
○中国の歴代王朝は、過渡的短命王朝と長期安定王朝、の繰り返し。
例えば、始皇帝の秦(短命)、前漢(長期安定)、王莽の新(短命)、後漢(長期安定)、・・・
○南京を首都とした政権・国家は短命に終わる。
例えば、六朝(りくちょう)、初期の明朝、太平天国(南京を天京と改称)、中華民国、など。
「蔣」と「蒋」
「蔣」は正字、「蒋」は略字。蔣はマコモという植物名だが、姓としても使う。
○辞書的な説明
- 以下、『旺文社世界史事典 三訂版』より引用。
蔣介石 しょうかいせき Jiǎng Jiè-Shí
1887〜1975
中国の政治家・軍人
字は中正。浙江 (せつこう) 省の塩商の子。1908年日本の陸軍士官学校に入学。留学当初,孫文の中国同盟会に加入し,帰国して1911年の辛亥革命に参加,23年孫文の知遇を受けて24年には黄埔軍官学校長となった。孫文の死後,中国国民党の実権を握り,1926年国民革命軍総司令として北伐を進めた。翌年上海クーデタを起こして反共を宣言し,南京国民政府を樹立,28年には宋美齢と結婚し,孫文の後継者となった。1928年北京を陥落させて北伐を完成。アメリカ・イギリスに接近し,浙江財閥を背景に国民政府主席となり,以後10年にわたり反共独裁の立場にたち,広西討伐・福建革命政府攻撃など内戦を続けた。1931年の満州事変当時には江西・福建のソヴィエト区を攻囲し,34年には共産勢力を延安に追った。1936年の西安事件を契機に国共合作を受諾。日中戦争が始まると抗日民族統一戦線を指導し,第二次世界大戦中は連合国側の一員となった。戦後共産党と対立,1948年中華民国総統となったが,翌年国共内戦に敗れて本土を追われ,以後台湾で国民政府を統率し,特例として事実上の終身総統となった。
○略年表
- 1887年10月31日(光緒十三年9月15日)、浙江省寧波府奉化県の商売人の家に生まれる。
姓は蒋、名は介石、字(あざな)は中正。
- 1902年、15歳のとき、最初の妻である毛福梅(当時19歳)と結婚。
郷里の学堂で学ぶ。
- 1907年、河北省にあった保定軍官学校に入学。
- 1908年(明治41)、日本へ留学。1910年に東京の振武学校(中国人留学生のための陸軍士官学校予備学校)を卒業し、新潟県高田の野砲兵第一三連隊に配属された。
東京に留学中、孫文らの中国同盟会に参加。
- 1910年、長男の蒋経国(蒋介石の後継者)が誕生。蒋介石は22歳、毛福梅は27歳だった。同年、孫文と初めて会う。
- 1911年10月10日、辛亥革命が勃発。日本軍にいた蒋介石は師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申請するが拒否され、勝手に帰国。革命に参加。
- 1910年代半ば、上海で危機と隣り合わせの半地下生活を送る。
保身のため、上海の暗黒街の秘密結社・青幇(チンパン、せいほう)の黄金栄の子分となったと言われるが、真相は不明。
cf.青幇の子分には「門生」と「徒弟」の2種類があった。kg-sinica200308.html
- 1919年10月10日、中華革命党は中国国民党に改組。蒋介石も党員となる。孫文から着目されていたが、気に入らないとすぐ辞任して郷里に引き込み、呼び戻されることを繰り返す。
- 1921年、母・王采玉が病死。
- 1923年、「孫文=ヨッフェ宣言」で国共合作。孫文の命令でソ連の軍事事情を視察。
- 1924年、ソ連の支援のもと広州に設立された黄埔(こうほ)軍官学校の初代校長に就任。同校の政治部副主任は周恩来(1898-1976)。
- 1925年、孫文が死去。国民党の中央執行委員となり、国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。
- 1926年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化。
同年7月、北伐を開始。蒋介石が総司令官。
- 1927年4月、上海クーデター。反共に転じた。
同年、それまでの妻を離別して、浙江財閥出身で宋美齢(そうびれい asahi20221013.html#06)と結婚。彼女は、孫文夫人の宋慶齢(そうけいれい))の妹で、いわゆる「宋家三姉妹」の一人。
- 1928年、南京で国民政府を樹立して中華民国主席となる。が、政敵の汪精衛=汪兆銘や、閻錫山、馮玉祥らの反蒋軍閥の抵抗も続いた。
- 1928年6月8日、北伐軍は北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。同年10月、蒋介石は国民政府主席に就任。「以党治国」の党国体制を固める。
- 1932年、第一次上海事変で、南京政府は一時的に洛陽に疎開。
- 1934年、新生活運動を唱導すると同時に、蒋・孔(こう)・宋(そう)・陳(ちん)の「四大家族」による浙江財閥を育成して財政基盤を固める。
- 1936年、西安事件で張学良に捕らえられ、中国共産党との抗日民族統一戦線の形成に同意。
- 1937年、日中戦争勃発。政府を重慶に移して、抗日戦争を継続。
- 1938年6月、黄河決壊事件。蒋介石の承認のもとであったとされる。
- 1939年、毛福梅が日本軍の爆撃で死亡。
- 1943年11月、支那派遣軍総司令部参謀だった三笠宮崇仁親王の発案で、蒋介石の母・王采玉の墓前祭が行われ、参謀の辻政信が取り仕切った。
- 1943年11月27日、カイロ宣言。アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席?介石の3人が会見。
- 1944年4月17日−12月10日、日本陸軍による大陸打通作戦、蒋介石は大打撃を受ける。
- 1944年6月2日−9月14日、拉孟・騰越(らもう・とうえつ)の戦い。蒋介石の「逆感状」が有名。「わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし」(『戦史叢書』25、
p285)。この「逆感状」は日本軍が蒋介石の無線電文を傍受したものとも言われ、中国語の原文は未確認。
- 1945年、抗日戦争勝利。蒋介石がラジオ演説で老子の言葉「報怨以徳」(怨みに報ゆるに徳を以てす)云々と述べた挿話は有名。
- 1946年、国共内戦が勃発。
- 1948年、新しい憲政下で初代総統に就任。
- 1949年1月、総統をいったん辞任。同年末、大陸を失陥し台湾へ逃れた。蒋介石は旧日本軍の元将校たちに救援を要請(白団)。
- 1950年、台湾で中華民国総統に復帰。反共復国を叫ぶ(国光計画)。
- 1958年 金門砲戦。米軍は爆撃機による中国本土への核攻撃を準備したが、アイゼンハワー大統領が承認しなかった。国共内戦の最後の戦闘。
- 1963年9月 中ソ対立や大躍進の失敗で中国が疲弊。蒋介石は息子の蒋経国を米国に派遣し、ケネディ大統領らに大陸反攻を訴えたが、拒否される。
- 1969年、交通事故。以後、表舞台に出なくなる。
- 1975年4月5日、台北で死去。87歳。
○その他
- かつての個人崇拝
蒋介石は死後もしばらくのあいだ台湾では「個人崇拝」の対象であったが、国民党の野党転落などを機にその扱いは大きく変化した。
以下、https://www.sankei.com/article/20240714-GWFFIHFN7BLT5E3FLGZA2VA6NU/より引用。
蔣介石の銅像前で最後の儀仗兵交代式 台湾・民進党が「個人崇拝」見直し
2024/7/14 18:40
【台北=西見由章】台湾の初代総統、蔣介石を顕彰する施設「中正紀念堂」の銅像ホールで行われてきた儀仗(ぎじょう)兵の立哨と交代式が15日から撤廃される。儀仗兵のパフォーマンスは日本などからの観光客にも人気だったが、紀念堂敷地内の屋外での実施に変更し、立哨は取りやめる。銅像前で行われる最後の交代式を見ようと14日、多くの市民や観光客が訪れた。
もう一つの記事。https://news.yahoo.co.jp/articles/868076a3c6d1ce09fb7149c0c75358e9686c2b6dより引用。
台北・建国高校の蒋介石像がロック風に“おめかし” 卒業シーズンの伝統/台湾 2024/6/5(水) 18:36配信
(台北中央社)4日に卒業式が行われた台北市立建国高校の校門付近に設置されている蒋介石の銅像がロック風に「おめかし」をされた様子の写真がフェイスブックに投稿され、話題を呼んでいる。投稿のコメント欄には、生徒のアイデアを評価する声や「建国高の卒業シーズンの伝統だ」との指摘などが寄せられた。
- 日本の軍人との交流
昭和の日中戦争で日本と戦ったとはいえ、蒋介石はもともと日本に留学して軍事を学んだため、日本の軍人とは親密な交流があった。
○富田直亮(とみた なおすけ、1899−1979)は戦後、蒋介石の要請により台湾に渡り、旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団「白団」を組織して、蒋介石を支援した。
○根本博(ねもと ひろし、1891−1966年)は、戦後、台湾に渡り、金門島の戦いで作戦指導を行い、上陸してきた中国人民解放軍を追い返した。
○松井石根(まつい・いわね 1878-1948)は、清朝末期の駐在武官として中国に滞在していたとき、陳其美(ちん・きび)から陳が経営していた保定の振武学校の卒業生・蒋介石(当時20歳)を紹介された。松井は、日本留学を熱望する蒋介石を激励した。蒋介石の来日後は、親身になって世話を焼いた。
その後、時は流れ、1937年に日中戦争が勃発すると、松井石根は上海派遣軍司令官として中国に渡り、蒋介石の中国軍と戦い、南京を陥落させた。戦後の東京裁判で松井は戦犯に認定され、1948年に処刑された。
蒋介石は80歳のとき、台湾で、松井の部下であった日本人・田中正明に会った。田中が「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で」蒋介石に会ったことがある、と言うと、蒋介石の顔色が見る見る変わり、ふるえ声で「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と田中の手を堅く握りしめて、むせぶように言い眼を赤くして涙ぐんだので、周囲は驚いた。
「蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。(出典 https://www.history.gr.jp/nanking/gm6.html)」
- 国民党と共産党の相似性
ソ連共産党や赤軍をモデルとした。
スターリンの息がかかっていた。
国共合作と国共内戦を繰り返した。
中心的人物に中国南部の出身者が多かった。
「以党治国」の党国体制、つまり党が国家と人民を指導する一党独裁を民主主義だと信じた。
反対党の存在を許さない(台湾では蒋経国の晩年から自由化が進んだ)。
党のリーダーは「主席」である。
軍事力の信奉者。
- 蒋介石の評価
「日本」と毛沢東にはさまれて翻弄された独裁者であった。
独裁者ではあったが、本質は中国最大の軍閥にすぎなかった。彼が中国全土に君臨できた期間は長くはなかった。またヒトラーのような民族浄化や領土拡張も、スターリンや毛沢東のような革命の輸出も行わなかった。
本来は親日家だった、という説もあるが、そうではないという説もある。知日派であったことは確かである。
- 蒋介石の子孫
蒋経国 1910年4月27日−1988年1月13日(77歳没)。蒋介石の息子。父をついで総統に就任したが、一族による世襲を拒否。晩年、台湾の複数政党制を認める。死後、副総統の李登輝が昇格した。
蒋友柏 蒋経国の孫。1976年9月10日生まれ。日本が大好きなデザイナーで、台湾独立派に共鳴。
蒋万安 蒋経国の孫(異説もある)。1978年12月26日年生まれ。蒋介石の曾孫の世代では唯一の政治家で、姉は映画監督。
HOME > 授業教材集 > このページ