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2003.7.18 アップロード
原掲載紙:『月刊しにか』(大修館)2003年8月号,p.47-p.49
   特集「北京VS上海」
北京VS上海 十番勝負・其の七

演劇 北京と上海の京劇の違い



 加藤 徹

 この文章は『中国古典からの発想 漢文・京劇・中国人』(中央公論新社、2010年9月10日刊、ISBN:978-4-12-004148-8)に収録しました。
 出版社との申し合わせにより、HP上での公開を停止しております。
 どうぞご了承くださいますよう。──2010年9月記
中国古典からの発想


(以下の注は『月刊しにか』掲載文にはありません。このページ用に新たに付けた注です)


注1 中国語の原文は「北京学芸、天津験収、上海賺銭(ベイジンシュエイー、ティエンジンイェンショウ、シャンハイヂュアンチェン)」

注2 常春恒が射殺された事件は迷宮入りになったため、真相は不明だが、一説に、天蟾舞台(てんせんぶたい)(現在の逸夫舞台の前身)のオーナー・顧竹軒(こちくけん)の指示で暗殺されたという。常春恒は天蟾舞台の看板スターだったが、より好条件の丹桂舞台(たんけいぶたい)に移った。暗黒街の顔役でもあった顧竹軒は、常春恒が勝手にライバル劇場に移籍したことに激怒し、「見せしめ」のため常春恒を暗殺した−−と、当時の京劇界では信じられていた。

注3 黄金栄(1868-1953)は青幇(チンバン)の大ボスで、杜月笙(とげっしょう)・張嘯林(ちょうしょうりん)とともに上海暗黒街の三大ボスの一人と称せられた。

注4 当時、有力者の庇護を受けるためには、「門生」と「徒弟」の二つの方法があった。

 「門生」は割合ソフトな関係で、手続きは簡単である。有力者に「門生帖子」と「贄敬」(お金)を捧げるだけで、他に儀式はない。「門生」になると、その有力者を「先生」ないし「老師」と呼ぶ。その有力者の組織の正式の「幇員」(メンバー)になる訳ではないが、有力者の息がかかった者として、他のヤクザから一目置かれる。もし自分が出世してその有力者よりも社会的地位が上になった暁には、「門生」の関係を解消することもできた。ちなみに、周信芳が黄金栄の門生になった時に「紅封袋」に包んだ「贄敬」の金額は、銀票で360元だった(『麒麟童−−生死情縁』)。周信芳は、上記の顧竹軒との理不尽な雇用契約関係を解消するために、黄金栄の門生になったのである。

 「徒弟」は一生続く厳格な関係で、人を集めて正式な「拝師」の儀式を行い、その組織の正規のメンバーとなる。「徒弟」は、後ろ盾になってくれる有力者を「師父」と呼ぶ。たとえその後、自分の社会的地位や権勢が「師父」を超えても、生涯「徒弟」として「師父」を敬わねばならない。

 周信芳は「門生」になっただけなので、青幇の正式のメンバーになった訳ではなかった。だが、彼と同時代の京劇俳優には、「徒弟」となって青幇の正規のメンバーになった者もいた。



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