1-2 超心理学の歴史

明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川 幹人

 以下では,時代を追って超心理学の歴史を簡略に述べる。さらに興味のある方のために,日本語で手軽に読める歴史書として,次の本を紹介しておこう。

 ジョン・ベロフ著『超心理学史』笠原敏雄訳(日本教文社)

<1> ルーツをたどって

 広く超常現象研究の起源は,中世ヨーロッパのルネサンスにさかのぼれる。16世紀から17世紀にかけて,魔術やオカルト,錬金術の類がさかんに研究された。この時代は同時に,今日の科学のルーツでもある。ガリレオやニュートンやボイルが自然科学への道筋をつけたのもこの時代である(ニュートンとボイルは錬金術にも手を出していたが)。今日では哲学者として知られる,デカルト,ホッブズ,スピノザ,ライプニッツらも,こうした時代において,「自然哲学」から「自然科学」が生まれるのに貢献した。いわば,「科学」と「擬似科学」を区別する「境界設定」がなされ始めたということだろう(8-1)。その境界によって,超常現象研究のほとんどは科学から排除されるという歴史をたどる。
 超心理学のルーツは18世紀のメスメリズムである。ウィーンの医師アントン・メスメルは,「動物磁気」という一種の生体エネルギーによって我々の健康が支配されるという理論に基づき,磁石や手かざしによって治療を行なった。そうした治療の過程でトランス状態になる患者が現れ,たとえば無痛手術にも応用されたという。これはまさに今日の催眠の起源でもある。一方,超心理学上の興味は,このトランス状態の患者がしばしば高度のESP現象を起こした,と報告されている点にある。なおメスメルは,自らの行為を「医学」であると終始主張した。

<2> 心霊研究

 超心理学の基本的方法論は,19世紀の心霊主義(スピリチュアリズム)のなかで培われた。心霊主義は,人間は死後にもその魂が引き続き存在し(これ自体は古くからの伝統的考えである),ときには生者がその魂と交信できるとする考え方である。交信の可能性を初めて主張したのは,18世紀のスウェーデンの予言者,スウェーデンボルグである。彼は,歴史上の人物の魂と交わったとして,教義を広めた。19世紀には,誰でもが交霊会を通して魂と交信できるという考え方が一般的となった。交霊会では,通常「霊媒」と呼ばれる「特異能力者」(6-5)が鍵となり,死者の魂からの交信を受けたり,テーブル浮遊や物資化現象を起こしたりしたという。交霊会において,かなり大掛かりで奇妙なPK現象が報告されたために,多くの科学者を巻き込んだ心霊研究へと展開していくのである。
 1882年には,最初の学術団体である心霊研究協会(SPR)がロンドンに設立された。会長はオックスフォード大学の倫理学の教授,シジウィックであったが,評議員には,著名な科学者が多数,名を連ねた。テレビ表示装置の原理を発見した物理学者のクルックス,ダーウィンと平行して進化論を唱えた博物学者のウォーレス,ノーベル物理学賞を受賞したアルゴンガスの発見者レイリー卿,同じくノーベル物理学賞を受賞した電子の発見者トムソンらである。続いて,ニューヨークに米国心霊研究協会(ASPR)が,パリに国際心霊研究会が設立された。アメリカでは,ウィリアム・ジェームズやガードナー・マーフィなどの著名な心理学者が,フランスではノーベル生理学賞を受賞したシャルル・リシェらが研究を推進した。リシェは実験に初めて統計的分析を導入した。
 1882年からの40年間ほどが,この種の研究の社会的認知が歴史上もっとも高まった時期であった。しかし心霊研究は,交霊会の事例を積み上げるものの,さしたる発展が得られず(ときにはインチキが指摘され),世代交代とともに著名な科学者の参加も次第に減っていってしまったのである。1920年代からの停滞期を救ったのがJ・B・ラインであった。

<3> ライン革命

 1920年代からおよそ30年間,アメリカの心理学界はワトソンの提唱する行動主義心理学に席巻される。行動主義心理学とは,刺激と行動の対応関係を探れば,人間の心的活動の究明には十分であり,心の中の状態などは一切問題としない心理学であった。これにより心理学は,旧来の人間の内観報告による研究から,ネズミを使った行動の条件づけ学習の研究へと,大きく方向転換した。同時に統計学の手法が導入され,実験心理学の方法論も広く普及した時期でもあった。こうした時代背景から見ると,ラインが超心理学の実験研究方法をこの時期に確立したのもうなずける。
 ラインは植物学の研究者としてウエスト・バージニア大学にいたが,1928年,心理学者のマクドゥーガルの招きで,デューク大学に赴任した。マクドゥーガル自身も心霊研究に力を入れようと,前年にハーバード大学からデューク大学へ転勤してきたばかりであった。ラインは交霊会に参加してはみたものの,その研究方法には疑問を抱いていた。そこで,カード当てを繰返してその結果を統計的に分析する方法で,新たな研究路線を模索した(2-2)。トランプ当て実験などはそれ以前にもあったが,ラインは5種類の図柄を印刷したESPカードを開発して,おもに一般人を対象に実験を行なった(図柄は同僚のゼナーによってデザインされた)。分析の結果,ESPの存在が有意に示されたのである(2-8)。ラインは1934年,文字通り『ESP』という著書でその結果を発表し,世界の注目を集めた。「超心理学(parapsychology)」という言葉もこの頃から使われ始めた。1937年には,マクドゥーガルとラインによって,超心理学誌(JP)という論文誌の発行が開始され,デューク大学が世界の超心理研究の中心地となっていくのである。なお,ラインの研究資料や書簡など25万点は,約700箱に収められてデューク大学パーキンス図書館特別収集部門に保管されている。

デューク大学礼拝堂デューク大学のシンボル,礼拝堂

<4> 超心理学の展開(1960年代〜1980年代)

 1965年にラインはデューク大学を退官し,自ら設立していたFRNM(The Foundation for Research into the Nature of Man)という財団で研究を続ける。また,1957年に設立されていた超心理学協会(PA)は,1969年,ガードナー・マーフィーらの尽力で全米科学振興協会(AAAS)に登録され,学術団体として認知される。そのころには,超心理学の研究拠点は全米各地に拡大していた。それに伴って,ライン流の画一的な実験方法から脱皮し,新たな方法論を模索する動きが現れた。マイモニデス医療センターで行なわれたドリームテレパシー実験(3-1),スタンフォード研究所などで行なわれたリモートビューイング実験(3-3),プリンストンの精神物理学研究所(PRL)などで行なわれたガンツフェルト実験(3-2)などは,どれも被験者に自由に内観報告させるものである。
 心理学の分野では1950年代に「認知革命」が起きており,それまでの行動主義心理学から,認知心理学へと方法論の転換がなされていた。行動を引き起こす心の内的状態(あるいは脳状態)を想定し,コンピュータモデルでもって人間の心的働きを機能的に解明しようという方法である。超心理学の分野にもそうした影響が及ぼされたと見ることができよう。
 またこの時期には,変性意識状態との関連性(4-3)など,PSIの特性に関する多くの研究がなされた。そうしたデータが集まるなかで,PSIの機構を説明しようとする理論構築の試みがされ始めた(5-3)。一方では,懐疑論者たちの批判も最高潮に達し,CSICOPという懐疑論者の団体も設立された(1-4)。

<5> 現代の超心理学(1990年代以降)

 1990年代に入ると,コンピュータ技術の発展により,超心理学実験もコンピュータシステムによる自動化がなされてきた(2-7)。生理学指標の測定技術(2-5)や乱数発生器の技術(3-5)も一般化し,PSIが存在するという有力な証拠を提示する実験手法が確立されてきた。統計学の「メタ分析」(2-9)が超心理学に導入され,統計学的な証明も強固なものになってきた。さらには,新たなシステム論的理論も提案され始め(5-7),理論的な進展の兆しが見えてきた。
 超心理学の研究コミュニティーは,最近のアメリカではやや縮小ぎみであるが,ヨーロッパではやや拡大している。これは実用を重んじるアメリカで,超心理学の応用はまだ遠いとして研究費がとりにくくなっているためと思われる。ただ,代替医療などの周辺領域(2-4)では研究費が増えているという指摘もある。周辺領域の科学の発展により,超心理学が周辺領域の科学と融合する動きも感じられる(8-4)。

<X> 付記

 本項の骨子はSSPにおけるパーマー氏,サイ・マウスコプフ氏の講演をもとにしている。マウスコプフ氏はデューク大学の歴史学の教授であり,超心理学の歴史に関する分厚い著書『とらえにくい科学』(邦訳はない)がある。「1964年にデューク大学に赴任したときは,超心理学とライン教授でもっとも有名なところだった」と回想されていた。なお,冒頭のベロフの著書で補った点もある。


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