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【対面+オンラインのハイブリッド】
テーマ別に学びなおすと面白い中国の歴史

最新の更新2024年3月2日  最初の公開2024年1月21日

以下、早稲田大学エクステンションセンターのサイト
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/59888/
より引用。引用開始。
目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。
講義概要
現在の中国はなぜ、西洋とも日本とも違う、あのような国になったのか。GDPが増えても、海外の情報が伝わっても、なぜ中国は変わらないのか。その理由は中国の歴史にあります。この講座では、過去数千年にわたって中国文明を作ってきた要素のうち、首都、身長、道路、武器、名前の5つを取り上げ、豊富な図版や映像資料も使いつつ、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
  1. 第1回 01/23 首都 ― 政治都市と経済都市
  2. 第2回 01/30 身長 ― 背が高かった孔子や諸葛孔明
  3. 第3回 02/13 道路 ― 現代の日中両国の電車の違いにも影響
  4. 第4回 02/20 武器 ― 刀や弓に見る日中両国の違い
  5. 第5回 03/05 名前 ― 姓、名、字

第1回  01/23 首都 ― 政治都市と経済都市
日本語の「みやこ」は語源は「御屋処」です。飛鳥時代まで古代のミヤコは天皇の代替わりごとに移動することを前提としていました。一方、中国文明は長安と洛陽のような「複都制」を採用し、永久固定的な城郭都市を首都としました。都市に対する発想そのものが、日本と中国では大きく違っていました。その違いを、予備知識のないかたにもわかりやすく、豊富な図版を使って解説します。
参考 早稲田大学エクステンションセンター中野校の講座(2023年10月−11月)「五大古都から見る中国文明の歴史」(
#waseda20231024.html)も、長安、洛陽、開封、南京、北京について解説しましたので、あわせてご覧ください。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l4LSuHklSZAHSjTj6NnRTk

○ポイント、キーワード

★中国八大古都
北京、南京、杭州、西安、洛陽、開封、安陽、鄭州。
このうち「洛陽、開封、安陽、鄭州」の4つは河南省。

★首都と主都
首都は一国の中央政府がある首府。主都は地域の中心都市。

★複都制
単都制の対概念。首都を二つ置く場合は両都制ないし両京制と呼ぶ。
首都を複数置く場合の理由は、国防、歴史、経済などさまざまである。
○陪都・・・中国史で、行政上、国都に準ずる扱いをうけた特別な都市。明代の金陵(南京市)、清代の奉天(盛京とも称された。現在の瀋陽市)など。金陵と奉天は留都でもあった。
 日本史でも、孝徳天皇から桓武天皇までの難波京や、徳川家康が大御所として政治をとった駿府など、事実上の陪都がいくつか存在した。
○留都・・・首都が別の場所に遷都したあとの、元の首都があった都市。
○行都・・・行在に同じ。臨時の事実上の首都。南宋の時代は、臨安を行都、建康を留都とした。日中戦争下の重慶は中華民国中央政府(蒋介石政権)の行都でありかつ陪都とされた。
○別都・副都・次都・・・意味は副首都だが、ニュアンスは若干違う。

★紀元前11世紀、渭水流域の盆地である関中から興った周王朝は、後世の長安の前身となる関中の鎬京と、洛陽の前身である洛邑に二つの拠点を置いた。
以後、西都・長安と、東都・洛陽の両京体制を採用する王朝が多かった。
前漢は長安を首都として洛陽を副都としたため、西漢と呼ばれる。
後漢は洛陽を首都としたため、東漢と呼ばれる。
北周、隋、唐は、長安を首都とし、洛陽を副都とした。唐の時代でも、武則天や安禄山は洛陽を事実上の首都とした。司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫)の「洛陽の穴」で、司馬は、安禄山が洛陽を事実上の首都とした理由を推定している。
 10世紀以降は、長安も洛陽も地方の「主都」化した。中国の複都制の首都は、開封や北京、南京など別の都市に遷っていった。

★古代日本のミヤコ
 都を意味する日本語ミヤコの語源は「御屋処」。
 古代の日本では、天皇の代替わりごとに都を遷した。その理由は、物流の限界や、里山の木材資源の枯渇、トイレなど汚水対策である。

★首都がなかったフランク王国
 5世紀後半から9世紀までヨーロッパに存在したフランク王国には、ローマ帝国的な意味での「首都」は存在せず、飛鳥時代以前の日本のミヤコと同様の「王宮」しか存在しなかった。フランクの国王は、フランク王国の領域内を宮廷集団とともに移動していた。その理由は、戦争や国内情勢の変化、物資の補給、狩猟などであった。当時の西欧の物質文明のレベルは未熟で、まだ一カ所に永続的な首都を維持できるほどに達していなかった。

★東京はなぜ「東京」なのか?
 明治維新の「東京奠都(てんと)」による。
明治維新のとき、江戸を「東京」(とうけい/とうきょう)と改称し、京都とあわせて東西両京とした。明治元年(1868年)10月13日に天皇が東京に入り、明治2年に政府が京都から東京に遷った。当時「遷都」(首都を引っ越す、の意)ではなく「奠都」(新たに都を定める、の意)という言葉を使った理由は、旧・江戸幕府をこころよく思わない京都・西日本勢力への配慮や、京都御所を本来の「皇居」と見なす考え方による。
実は京都は今も法的には東京とならぶ日本の首都である、と考える日本人も、一部に存在する。

★長安
#20210515.htmlも参照。
 中国の古都。現在の陝西省西安市。函谷関の西側の、渭水盆地にある。
西安市とその近郊には、古来、主都や首都が置かれてきた。
 殷の時代には豊邑。
 西周から東周にかけては鎬京。
 秦の時代は咸陽。
 前漢から唐までは長安(改名していた時期も含む)。
 五代十国から元まではさまざまな名称。
 明から現在までは西安。
 現在の咸陽市と西安市が別の都市であるように、西安の前身となる歴代の首都の場所はそれぞれ微妙にずれているが、広大な中国全土から見れば、一つの都市圏と見なすことができる。

★洛陽
 中国のもう一つの古都。現在の河南省洛陽市。河南省西部で、黄河の支流・洛水の北側にあるので「洛陽」と呼ぶ。
 紀元前1800年頃の「二里頭遺跡」は、河南省洛陽市にある。
 前11世紀、西周の第二代・成王は、東へのおさえとして洛邑を置く。
 前771年、周の第十三代・平王は洛邑に遷都し、「東周」時代が始まる。
 渭水流域の軍事力と結びついた長安に対して、洛陽は華北平原の経済力と結びついた物資の集積地として発展してゆく。
 漢王朝は「火徳」だったので、洛陽のサンズイを嫌って雒陽と改名したが、「土徳」をモットーとする三国志の曹操が後漢の実権を握ると洛陽に戻した。
 唐の武則天の「武周」(690年−705年)には一時的に「神都」と改名され首都となった。
 宋の時代、物資の集積地としての地位がより東の開封にうつった。また元以降は「北族」の軍事力を背景に北京が首都となることが増えた。宋以降、洛陽は副首都としての歴史的機能を他の大都市にゆずった。


○略年表


第2回 01/30 身長 ― 背が高かった孔子や諸葛孔明
中国の過去の歴史をさかのぼると、身長はダイナミックに変化してきました。例えば今から五千年前の中国の龍山文化の遺跡から発掘された人骨を2017年に調査したところ、発見された集団の多くが身長約180センチ以上で、最も背が高かった男性は約190センチ、と現代の欧米人の身長とくらべても遜色はありませんでした。実際、孔子も諸葛孔明も、驚くほど高身長でした。日本人と中国人の身長の歴史的変化を、わかりやすく解説します。
https://www.youtube.com/watch?v=I2w_v0FlgPM&list=PL6QLFvIY3e-lboCm3bXm51QyThwQu3GzY

★「高」と「喬」
志村喬(しむら・たかし 1905-1982)
喬(キョウ)は、「高」の略体+「夭」(ヨウ。先が曲がる)、という形声文字。
夭は体をくねらせて頭を傾ける人の形。「喬」を含む漢字には、高くあがる、と、山型にカーブして曲がる、というイメージがある。
cf.学研『漢字源 改訂第六版』p.323
喬木、橋、華僑、嬌声、驕慢、矯正、・・・
「華僑」の「僑」の意味・・・「背がすらりと高い人」→郷里を離れた旅人や、異郷で仮住まいをする人。「高く抜き出て独り立ちする人を示した図形。他郷で自活する人のこと」(『漢字源 改訂第六版』p.134)
★中国人から見た日本人の身長
「倭」・・・右半分の「委」は「矮」「萎」等にも含まれる。
遣唐使・・・唐人にばかにされぬよう、身長も含めて容姿の優れた日本人を優先的に選んだ。
 834年に遣唐副使に任ぜられた小野篁(おののたかむら)の身長は六尺二寸(約188cm)だった。
 則天武后と会見した粟田真人も、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂も、唐人を感心させたほどの美男子だった。cf.王勇『中国史のなかの日本像』(農山漁村文化協会、2000年)第四章第三節「遣唐使の風貌」

★李鴻章(身長182cm)と小村寿太郎(156cm)
「恰幅のよい清国の宰相李鴻章が、各国使臣夫妻らの中で小村が最も背が低く清国の十五、六歳ぐらいだ、と笑いながら言うと、小村は、日本では大男総身に智恵がまわりかね、うどの大木、半鐘泥棒と言って大男は国家の大事を託しかねると言われていると答え、李の顔色を変えさせたこともある」吉村昭『ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎』新潮文庫版pp.97-98
cf.人気漫画『ゴルゴ13』の主人公の設定身長は182cm。1968年の連載開始時は大男だった。2020年現在では日本の成人男性の約7%は180cm以上。
cf.155cmの人と186cmの人それぞれの視点から日本家屋を見てみると面白い「低いほうが明るいのか」「天井が大きい…?」

〇今回のポイント

〇中国人の身長
 多民族国家。地域差や時代差が大きい。
 伝統的に、北方人は高身長で南方人は低身長、というイメージがある。

中国で最も高身長の都市
 遼寧省錦州市 男性平均173.45cm 女性平均160.52cm
中国で最も低身長の都市
 江西省景徳鎮市 男性平均165.59cm 女性平均155.06cm
出典:https://world-note.com/average-height-in-china/
 日本の平均身長の都道府県別ランキングでは、最上位と最下位の差は3センチていどだが、国土が広い中国では8センチ近くもある。

 石器時代の例
 「5000−6000年前の仰韶時代から唐の時代(西暦618−907年)までの、中国人の骨格を分析したところ、仰韶時代の男性の平均身長は1m69cm?1m70cm、女性が1m63cmと、唐時代の中国人よりも身長が高かったことが立証し、古代人の栄養状態はきわめて良好だったとの推論を発表した」(Record China「飽食?粗食?古代中国人は栄養状態よく、高身長―中国」2008年6月7日)
「中国の山東省で5,000年前のものとみられる、長身の集団の遺骨が発掘されました。彼らは新石器時代に生きていて、とても背が高いという特徴がありました。(中略)この地で発掘された人骨を分析したところ、発見された集団の多くが身長約180センチ以上と、著しく背が高かったと新華社通信は報じています。記事では発掘された人数や性別の内訳は報じていないものの、最も背が高かったのは、約190センチの男性だったとのこと。同時代の周辺地域からすれば、龍山文化の人々は正真正銘の巨人にみえたかもしれません。(ある研究によれば、新石器時代の典型的な男性は約165センチ、女性は約155センチでした。)」(ギズモード・ジャパン「5,000年前の中国では身長約180センチ越えの集団が存在していた

〇日本人の平均身長の推移(成人男子)
縄文時代・・・低身長。男158cm、女149cm
古墳時代・・・中身長。男163cm、女152cm
江戸時代・・・低身長。男155cm、女143cm

 1775年に来日したスウェーデンの博物学者のカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg)は「日本人はいったいに体の格好がいい。身軽で、均整がとれ、丈夫で、筋肉が逞しい」「楽に暮らす身分の婦人は、外に出れば被布を冠るから、その白さにおいて、欧州の美人に劣らない」と評価した。出典 岩生成一編『外国人の見た日本』筑摩書房。

 長崎の出島の小さなベッドと、神戸異人館街の小さな西洋甲冑。
 →現代の日本人の平均身長から見ると、江戸時代の西洋人は小柄だった。

 古代日本語「タケル」・・・背丈がある偉丈夫、の意
夏目漱石(身長159cm)の小説『夢十夜』第五夜
「こんな夢を見た。
 何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが、自分が軍(いくさ)をして運悪く敗北(まけ)たために、生擒(いけどり)になって、敵の大将の前に引き据(す)えられた。  その頃の人はみんな背が高かった。そうして、みんな長い髯を生(は)やしていた」
cf.日本の作家の身長
  173cm 太宰治
  167cm 芥川龍之介
  163cm 三島由紀夫、宮沢賢治
  161cm 森鷗外
  160cm 梶井基次郎
  159cm 石川啄木、夏目漱石
  143cm 樋口一葉

〇歴史上の有名人の身長(推定・伝承も多いので、あくまでも目安ていど)
  1. アダム・・・3900cm。身長39メートルで、930歳で死去したという伝承がある。
  2. 釈迦・・・485cm。「丈六」(1丈6尺=約4.85メートル)
  3. ゴリアテ・・・290cm。6キュビト半(約2.9メートル)
  4. ロバート・ワドロー・・・272cm。医学的な記録がある中で最も身長の高い人間としてギネス世界記録認定。
  5. 松坂良光・・・237cm。はっきりした証拠のある中で史上最も背の高い日本人。
  6. 鮑喜順・・・236cm。1951年生まれ、内モンゴル出身。2006年にギネス世界記録に「健康で自然に成長した、世界で最も背の高い人」として登録。
  7. 孫明明・・・236cm。中国のバスケットボール選手。黒竜江省出身。
  8. 三浦義意(みうら・よしおき)・・・227cm。戦国時代の武将
  9. 孔子・・・216cm。九尺六寸(『史記』。春秋時代の1尺=22.5cmで計算すると216cm cf.『孟子』等の「文王十尺、湯九尺」説
  10. ジャイアント馬場・・・208 cm
  11. 斎藤義龍(さいとう・よしたつ)・・・197cm(六尺五寸)
  12. 雷電為右衛門・・・197cm
  13. 豊臣秀頼・・・197cm身長6尺5寸(約197cm)・体重43貫(約161kg)
  14. 程c・・・191cm(正史『三国志』魏書。西晋時代の尺で換算すると200cm)
  15. アントニオ猪木・・・190cm
  16. 阿部寛・・・189cm
  17. 項羽・・・189cm。8尺2寸(1尺が23cm、1寸が2.3cmとした場合)
  18. 小野篁・・・188cm(六尺二寸)
  19. 栗原恵・・・187cm。元女子プロバレーボール選手。父親は182cm、母は160cm。
  20. 兵馬俑像・・・185cm(平均)
  21. 諸葛孔明・・・184cm。「八尺」後漢時代の尺なら184cm、西晋時代の尺なら約192cm
    cf.古典小説『三国志演義』では、関羽は9尺、張飛は8尺
  22. 趙雲・・・184cm。八尺。『三国志』蜀書・裴松之注
  23. 大久保利通・・・183cm
  24. ジョー・バイデン・・・183cm
  25. ダグラス・マッカーサー・・・183cm
  26. 二宮尊徳・・・182cm以上(6尺超え)
  27. 宮本武蔵・・・182cm(6尺。『兵法大祖武州玄信公伝来』)
  28. 李鴻章・・・182cm
  29. 大坂なおみ・・・180cm
  30. 千利休・・・180cm
  31. 習近平・・・180cm
  32. 坂上田村麻呂・・・175cm
  33. 白洲次郎・・・175cm(孫の信哉氏による)
    cf.[白洲信哉 第1回 「伝記が書かれるたびに身長が伸びて、とうとう185cmになった祖父・白洲次郎の思い出」]2012.7.4
  34. アドルフ・ヒトラー・・・175cm
  35. 和田アキ子・・・174 cm
  36. 明智光秀・・・174cm
  37. 岸田文雄・・・174cm
  38. 劉備・・・173cm。「七尺五寸」後漢時代の尺なら172.8cm、西晋時代の尺なら約180cm
  39. 加藤徹(参考)・・・173cm
  40. 毛沢東・・・172cm(ニクソンとの握手の写真からの推定。公的には180cmていどとされる)
  41. 織田信長・・・170cm
  42. ナポレオン・ボナパルト・・・169cm
  43. ベニート・ムッソリーニ・・・169cm
  44. 渥美清・・・169cm(173cmともいう)
  45. ヨシフ・スターリン・・・163cm
  46. 徳川家康・・・159cm
  47. 小村寿太郎・・・156cm(パスポートに「五尺一寸」とある)
  48. イエス・・・150cmから180cmまで諸説あり
    以下、http://enigme.black/2015121501より引用。閲覧日2024年1月28日
    しかし、イエス・キリストの遺体は現存していないため、イエスが住んでいた当時のイスラエル・ガリラヤ地域に住んでいた複数のユダヤ人の頭蓋骨を元に、コンピューターを使用して平均的な骨格を導き出したのである。(略)その結果、本当のイエス・キリストの容姿は、広い顔と薄茶色の瞳を持った容姿。短い巻き毛に髭を生やした浅黒い見た目だったという。また身長は約150センチほどだったとみられている。
  49. 曹操・・・155cm。「曹操高陵」(西高穴2号墓。河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村)の遺骨が曹操のものだった場合。
  50. 徳川吉宗・・・155cm。180cm説あり。
  51. ケ小平・・・150cm
  52. 豊臣秀吉・・・140cm(オランダ商人・ティチング『日本風俗図説』では秀吉の身長を約50インチ(約127cm)とする)
    以下、https://intojapanwaraku.com/rock/craft-rock/207938/より引用。閲覧日2024年1月28日
    熱田:よろいの胴高から推測して、身長や体型がだいたいわかります。前田利家のよろいからすると、身長は157pぐらい。豊臣秀吉のよろいは仙台市博物館にありますが、これは小さくて150pもないんです。徳川家康や伊達政宗は、だいたい160pぐらいと言われています。戦国時代、背が高い人は、ご飯が食べられていた人。秀吉のように貧しくて、ご飯が食べられなかった人は、身体も小さかった。だから、秀吉は身体ではなく、頭で勝負したんです。
  53. 晏嬰・・・135cm未満。身長六尺未満。周代の1尺は22.5cm。
  54. 徳川綱吉・・・124cm。位牌の高さからの推定、異説あり。




第3回 02/13 道路 ― 現代の日中両国の電車の違いにも影響
中国大陸の物流は、道路と運河に支えられてきました。どこまでも草原が続くモンゴルや、海に囲まれた日本とは、まったく物流の条件が違いました。中国文明を支えてきた人工血管ともいうべき道路と運河の設計思想は、21世紀の中国の高速鉄道建設にも多大の影響を与えています。中国の交通史を、予備知識の無い初心者にもわかりやすく解説します。
https://www.youtube.com/watch?v=X-BDWVmYCuU

〇今回のポイント

○漢字「道」の字源
道という漢字にはなぜ「首」が入っているのか?
漢字「道」は、首(くび)と辵(ちゃく。「いってんしんにょう」辶や「にてんしんにょう」辶)を組み合わせた文字である。この首が何を意味しているかについて、学者の解釈は分かれる。
★白川静説 「切断した首」説。古い時代には、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力(呪いの力)で邪霊を祓い清めて進んだ。その祓い清めて進むことを導(みちびく)といい、祓い清められたところを道(みち)とした。(平凡社『常用字解』等)
★藤堂明保説 「抜け出る」説。首は「(胴体から頭部が)抜け出る、ある方向へ伸びる」というイメージをもつ記号で、道は形声文字。道は一定の方向へ伸びて人が通り抜けるルートを示す。また口から言葉がのびて出て行く、述べる、言う、という意味も派生する。(学研『漢字源』等)

参考 日本語の「道」(みち)の語源説(諸説があります)
 道の語源は「み(御)ち(路)」。町(まち)、市(いち)、辻(つじ)も道の関連語。
 古代日本語の「ち」は、ほとばしる命のエネルギー、を指す。命(いのち)、力(ちから)、血(ち)、乳(ち・ちち)、風(東風=こち、疾風=はやち/はやて)、雷(いかずち)、蛟(みずち)、大蛇(おろち)などの「ち」も同じ。
 他にも諸説あり。

○秦の始皇帝の直道
以下、https://kodokiko.com/qinzhidao_introduction1/より引用。閲覧日2024年2月4日。引用開始
【まとめ】Googleマップで見える! 秦の始皇帝が築いた巨大軍事道路「直道」。日本古代道路の源流か。 2018年6月11日 / 2023年10月6日
中国最古の統一王朝「秦」といえば万里の長城や始皇帝陵など巨大な建造物で知られてきましたが、近年、「直道」という”中国最古の高速道路”の存在が注目されるようになりました。
道路幅は山間部でも平均約30mで最大約50m、全長700qに渡って南北に伸びていました。
司馬遷の『史記』に「斬山堙谷」(山を切り開き谷を埋めた)と記された通り、想像を絶する規模の土木工事の跡が、今も各所に遺存しています。
(略) 直道は帝都咸陽(現:西安)近くの甘泉宮(陝西省淳化県)と、対北方民族の防衛拠点である九原郡城(内蒙古包頭市)を結ぶ南北幹線道路です。
終点の九原郡城と考えられているのがここ、麻池古城。南北に連なる二つの方形城郭です。北城が一辺約600m、南城が一辺約700mあります。
『史記』によれば、始皇帝の指示で中国統一の翌年、紀元前212年に建設が始まり、遅くても2年半後という短期間に完成しています。
さらには沿線には一定距離で、皇帝らの休憩用「行宮」や道路整備・防御や駐屯部隊のための「亭障」、関所や駅舎も設けられていました。
以降も300年間に渡って「北方軍事・外交の道」として使い続けられ、後漢中期頃に人為的に破壊、放棄されました。北方民族との力関係が逆転したためと推定されています。
なお、全国的な道路網「馳道」も同時に、総延長約7,500qに渡って整備されました。
こうした計画的・全国的な道路網や交通制度の整備は、後の隋・唐に引き継がれ、律令国家体制と共に日本へ導入されることになります。
引用終了。 cf.ローマ道。古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝(在位284〜305)時代の総数は道路本数372本、延長8万5000キロメートルであった。
王の道。アケメネス朝ペルシア帝国の大王ダレイオス1世(在位前522年 - 前486年)が建設させた道で、首都スーサから帝国遠隔の地のサルディスまでの 2,699キロメートルを7日間で旅できた(駅伝制により1日あたり385キロメートル。 普通なら3ヵ月を要する道のり )。「学問に王道なし」の「王道」の語源。

〇故事成語「同文同軌」
 大陸国家では、道路を制する者が天下を制した。
 秦の始皇帝の「同文同軌」の「軌」は、馬車の車輪の幅を意味した。
 近代でも、鉄道の軌間(レールの幅)は、国家の安全保障と直結していた。
  シベリア鉄道は広軌(1524ミリメートル→1520ミリ)
  満鉄は標準軌(1435ミリ)
  日本国内の鉄道の多くは狭軌(1067ミリ)

〇中国と土木工事
 漢文では土木工事を「功」と呼んだ。
 中華帝国の富は、西洋に比べ、非耐久資産が乏しかった。

 石材や金属や運河などのインフラ・・・・・・耐久資産。腐らずに長く残り、数百年単位の長期的資材として蓄積できる。
 ヒトや食糧や有機質の奢侈品(絹など)・・・・・・非耐久資産。長期的な財産として蓄積できない。

 ヒトのマンパワーは老化や死で消滅する。食糧は食べると消える。
 中国の歴代王朝は、非耐久資産を耐久資産に変えるため、熱心に土木工事を行った。

〇版築(はんちく)
 黄土を突き固めて巨大な壁や建物を造る工法。および、その工法によって造られた建造物のこと。
 中国では、城壁や万里の長城、道路などを版築で造った。ローマ帝国や日本の律令国家とくらべて、中華帝国の千年以上の遺物が少ない理由は、版築にある。

〇故事成語「伊尹(いいん)の土功」──『淮南子』(えなんじ)斉俗訓
 歴代王朝が行った土木工事は、農民の過度な負担という悪政になることもあれば、公共事業による資本の再配分という善政にもなりえた。
【原漢文】故伊尹之興土功也、修脛者使之蹠钁、強脊者使之負土、眇者使之准、傴者使之塗、各有所宜、而人性齊矣。胡人便於馬、越人便於舟、異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴。聖人總而用之、其數一也。
【書き下し】故に伊尹の土功を興すや、修脛(しゅうけい)なる者には之をして钁(くわ)を蹠(ふ)ましめ、強脊(きょうせき)なる者には之をして土を負はしめ、眇者(びょうしゃ)には之をして准せしめ、傴者(うしゃ)には之をして塗らしむ。各(おのおの)宜しき所有りて、人の性は斉(ひと)し。胡人は馬に便に、越人は舟に便なり。形を異にし類を殊にするもの、事を易(か)ふれば而ち悖(もと)り、処を失へば而ち賤しく、勢を得れば而ち貴し。聖人は総(す)べて之を用ふ、其の数は一なり。
【大意】いにしえのすぐれた政治家・伊尹の土木工事は、適材適所で見事だった。足が強い人には土を踏み固めさせた。背筋力が強い人には土を背負わせた。片方の目が不自由な人には測量の仕事をさせた。背中が曲がっている人には低いところを塗る仕事をさせた。適材適所の環境さえ整えてもらえれば、人間の個性の優劣はなくなる。北の遊牧民族は馬に乗るのが上手だし、南の異民族は舟を操るのがうまい。障がい者も外国人も、慣れない仕事をやらされれば失敗するし、慣れない所に置かれれば低い評価しかもらえないが、うまく勢いに乗れればS級になれる。聖人はあらゆる人材を登用するが、人材登用のコンセプトは一つなのである。


〇中国の大運河の略史
 万里の長城とともに旧中国の残した二大土木事業。
 南は豊かな経済圏、北は軍事力が強い政治圏。両者を結ぶ大動脈。
 21世紀現在、中国の「高速鉄道」のコンセプトは、大運河や始皇帝の直道の影響が見られる。

○中国の大運河は内骨格、日本の廻船は外骨格。
 大坂から江戸までの海運に要した時間
 江戸前期は平均32.8日、最短10日。廻船の性能が劣り、順風帆走や沿岸航法しかできなかったため。
 江戸後期の天保年間には同じ航路を平均12日、最短6日。廻船の船体である弁才船の改良や航海技術の進歩のおかげ。
 江戸時代の海運の大幅な進歩により、日本各地の一体化が進み、国力が向上し、ひいては明治維新を迎えることを可能にした。


○略年表

○その他


第4回 02/20 武器 ― 刀や弓に見る日中両国の違い
日本刀と中国刀、日本の長弓と中国の短弓を比較すると、同じ武器でありながら、設計思想や性能、運用法の違いのあまりの大きさに驚きます。職人気質の日本人は戦争や武器にも名人芸を求めましたが、商人気質の中国人は戦争や武器にも「公算射撃」的な合理性を求めました。武器の設計思想から読み取れる中国文明の特徴を、豊富な図版を使いながら説明します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kIyNVPb3ldsEHKzc44SZLM

〇今回のポイント
・武器と兵器の違い
兵器はシステム化され武器、というニュアンス。武器は「名刀政宗」のような手作りの特注品もある。兵器は基本的に消耗品と割り切った既製品。cf.「陸上自衛隊武器学校」
・商人気質の中国人と職人気質の日本人 cf.邱永漢
日本の武士の日本刀や和弓は職人芸の武器。日本人が火縄銃も職人気質的な「狙撃銃」であり、公算射撃的な火打石銃(ひうちいしじゅう)は普及しなかった。
中国で古代から軍隊で使われた弩(ど。いしゆみ)は商人気質の「兵器」であり、イスラム圏の足弓や、西洋のクロスボウにも影響を与えた。対照的に、弩は日本には定着しなかった。
・矛盾
ホコと手持ち盾。日本では中世以降、ホコ(矛、戈)も盾もすたれ、両手持ちのヤリ(槍、鑓)になった。cf.https://www.touken-world.jp/tips/56990/
・刀と剣
剣は上流階級の刺す武器、刀は下級兵士の斬る武器、というイメージ。剣と刀の長所を融合したのが「日本刀」。斬撃(ざんげき)に徹したのが中国の「青竜刀」(青龍刀)。
日本の宮本武蔵は剣豪であり、職人が打った名刀「無銘金重(むめいかねしげ)」を愛用した。
中国の関羽(かんう。三国志の英雄)は名将であるが、古典小説『三国志演義』では田舎の無名の鍛冶屋に打たせた八十二斤の青竜刀を愛用する。
中国史には武将や武術家は多いものの、日本的な意味での武士も剣豪も存在しない。日本社会と中国社会の違いに由来する。 ・遠戦と白兵戦
弓矢や投石器や銃器など「飛び道具」を使ってなるべく遠くから敵を倒そうとするのが遠戦志向。刀剣や槍など刃物をふるって接近戦で敵を倒そうとするのが白兵主義。
西洋史では、騎士は重装で槍をふるう白兵主義、軽騎兵や弓兵(イングランドの独立自営農民の弓兵が有名)は遠戦志向。
日本史では、平安時代(大河ドラマでいえば『風と雲と虹と』の時代)から戦国時代(「長篠の戦い」など)までの上級武士は「弓馬(きゅうば)の道」で、遠戦志向だった。
ただし「倭寇」などは日本刀を活用した白兵主義だった。 ・国による武器の違い
日本史の武器のイメージは江戸時代に確定。武士の武器である日本刀や弓は両手で操作するため、中国や西洋、古代日本で普及していた「持ち盾」は、日本では中世以降はすたれた。
・昔のリアルな武術と、時代劇の殺陣(たて)は違う。
武術、武芸、武道、武徳。
現代日本語の「武道」という意味での武道は、明治時代に成立した新しい言葉である。cf.湯浅晃「「武道」の成立過程について」2017(PDF)
中国史に「武道」はない。
日本史でも戦国時代までの武術は殺人術であり、カッコイイものではなかった。宮本武蔵の「二刀流」は武術であり剣術であるが、剣道ではない(武蔵は『五輪の書』で、戦場での日本刀は片手で扱うべきこと、二刀流は片手で日本刀を扱えるようになるための便宜的な鍛錬法であること、「構えあって構えなし」であるべきことを明言している)。
剣道:道場では矢も鉄砲玉も飛んでこないのでスクッと背を伸ばして立ち、竹刀で攻撃する敵の身体の部位も急所ははずし、一対一で正々堂々と戦う。実戦では瞬殺される。
弓道:武道としての弓道は「真・善・美」、実戦武術としての弓道は「貫・中・久」(日置流 へきりゅう)。

戦国マンガ「#花の慶次」の公式Facebookページで #ガチ甲冑合戦 が紹介された時の師匠の甲冑を纏っての弓術の動画です。
敵の矢・鉄砲などから身を守るために身を低くし、甲冑や兜に引っかからないよう、弦の引き方が現代弓道とかなり違います#ガチ甲冑合戦 の詳細 https://t.co/n7pe75W3Po pic.twitter.com/HRvFcy7lwf

— 吉村英崇??8/28が誕生日と覚えなくて良いのよ_(: 3 」∠ )_ (@Count_Down_000) September 27, 2018


【刀】
○日本刀は8世紀、奈良時代の末から平安時代にかけて成立。
古代日本の刀はまっすぐな「直刀」だったが、曲がった「彎曲刀」へと変化するとともに、「剣」と「刀」の両方の特長をあわせもつ武器へと進化した。
参考 YouTube ビデオ https://www.youtube.com/watch?v=UsugC828C0A

北宋の文人政治家・欧陽脩(おうよう しゅう、1007-1072年9月8日)が詠んだ漢詩「日本刀歌」。平安時代の末、日本から中国に日本刀が輸出されていたことがわかる。詩の大意は「日本人は、秦の始皇帝のとき東の海に船出した徐福らの子孫なので、日本刀も含めて工芸品は精巧である。日本には、中国では失われた古代中国の貴重な古典の書物が、死蔵されている。日本人には猫に小判だ。日本刀より、日本人が死蔵している中国の古典のほうが欲しい」というもの。藤原佐世(ふじわら の すけよ)『日本国見在書目録』(にほんこくげんざいしょもくろく)にあるとおり、平安時代の日本に中国の貴重書が存在したのは史実である。
参考 https://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang08.htm
昆夷道遠不復通   コンイは道遠くしてまた通ぜず
世伝切玉誰能窮   世に切玉(の宝刀の話)を伝うるも誰かヨくキワめん
宝刀近出日本国   宝刀は近ごろ日本国より出で
越賈得之滄海東   (中国浙江省の)エツコはこれを滄海の東にウ
魚皮装貼香木鞘   魚皮もてヨソオい貼るは香木のサヤ
黄白間雑鍮与銅   黄白にカンザツするはチュウと銅
百金伝入好事手   百金もて伝えイる、コウズの手に
佩服可以禳妖凶   佩服すればモッて妖凶をハラうべし
伝聞其国居大島   伝え聞く、ソの国(日本国)は大イナル島にオり
土壌沃饒風俗好   土壌はヨクジョウにして風俗もヨロしと
其先徐福詐秦民   其の先の(日本人の先祖とされる)徐福は秦の民をタバカり
採薬淹留丱童老   薬を採りてエンリュウして、カンドウ(少年少女たち)は老ゆ
百工五種与之居   百工(各種の職人)と五種(「綾紙五種」の文武官)とはコレとトモに居り
至今器玩皆精巧   今に至るも器玩は皆、精巧なり
前朝貢献屡往來   前朝に貢献して(遣唐使が来朝して)シバシバ往來し
士人往往工詞藻   (日本国の)士人は往往にしてシソウ(漢詩文)にタクミなり
徐福行時書未焚   徐福の行く時は書はイマだヤかず(始皇帝が焚書坑儒をする前だった)
逸書百篇今尚存   (中国で失われた)イッショの百篇は今なお(日本国内に)存す
令厳不許伝中国   (日本の)令は厳しくして中国に(貴重書が)伝うるを許さず
挙世無人識古文   (中国では)世を挙げて人の古文をシるもの無し
先王大典蔵夷貊   先王の大典はイバク(野蛮な未開国)に蔵され
蒼波浩蕩無通津   蒼き波はコウトウとしてシンを通ずる無し
令人感激坐流涕   人をして感激してソゾロにナミダを流さしむ
鏽渋短刀何足云   シュウジュウの短刀は何ぞイうにタらんや

古代中国史に出てくる異民族の国・昆夷は陸路のかなたで、行き来も出来ない。昆夷には宝玉をも切る名刀があったという話が伝わっているものの、その真偽を確かめた者は誰もいない。現代は、日本国製の宝刀が中国まで伝来している。越の商人がこれを青い海のの東の果てから求めてきたのだ。日本刀は、香木の鞘に鮫の皮が貼ってあり、黄金色の真鍮と白銅を取り混ぜて飾ってある。百金という大金で中国の好事家(こうずか)が入手したこの日本刀は、佩用しているだけで邪気を払う効果がある。さて、聞くところによると、日本は大きな島国で、土地は肥沃で、人々の文化や習俗もよい。日本人の先祖は、秦の始皇帝の時代の徐福である。彼は、始皇帝のために不老不死の仙薬を探しにゆく、とウソをついて、巨船に童男童女を乗せて日本にわたったまま事実上亡命して中国に帰らなかった。中国からさまざまな職業の人々が古代日本に渡ったおかげで、日本製の器物は今に至るまでどれも精巧である。前の唐の時代までは、日本からの遣唐使がときどき貢物を献じにきていた。日本の士人は往々にして漢詩や漢文を作るのがうまい。さて、徐福らが日本に渡ったのは、秦の始皇帝が焚書坑儒をする前であった。孔子が編纂した『書経』百篇は、始皇帝の焚書坑儒で原本の一部が失われてしまったが、日本には始皇帝以前の゜完本が保存されている。ところが日本国は法令が厳しく、それを中国に伝える事を許さない。このため今の中国人は、誰も、いにしえの本当の『書経』の内容を知ることができないでいる。儒教の古典中の古典である貴重書は、はるかな異民族の土地にある。青い海の波のかなた、(遣唐使の廃止以来、日中間には国交がないため)港にたどり着く船もない。中国のエリート文人であるわたしは、涙を禁じ得ない。日本に死蔵されている『書経』の価値にくらべれば、精巧な日本刀も錆びた短刀同然の無価値なものに思えてくる。

参考 王勇「東アジアのブックロード」 https://www.meiji.ac.jp/cip/researcher/6t5h7p00000ixpa5-att/LectureWANG01.pdf

○苗刀(倭刀)
倭寇(わこう)がふるう日本刀に苦戦した明軍(みんぐん)が、日本刀をまねて作った中国刀を「苗刀」(みょうとう、ミャヤダオ)と言う。
苗刀は、一般的な日本刀よりも長く、また苗刀の扱い方も日本の「剣道」とは違う。
https://www.youtube.com/watch?v=eqaFG_Nt-Q4

○日中戦争と日本刀
日中戦争(1937-1945)で、日本の軍人は戦場で日本刀も武器として使った。
陸軍戸山学校では、昭和の終戦まで、軍刀を使う戦技「軍刀術」の研究と教育を行った(機関銃の弾丸が飛び交う戦場でいわゆる「道場剣法」を使うと、すぐに戦死するため)。
日本刀の名刀は美術工芸品としては価値が高いが、武器を持った敵を相手に実戦で使うとすぐ壊れた。
「日本刀神話」が20世紀のリアルな戦場で崩れたのに対して、近代科学技術を導入して大量生産された「昭和刀」や、戦地の軍属が自動車の古スプリングを廃物利用して応急措置的に作った「兗洲虎徹」(えんしゅう こてつ)は、戦場の実用的な武器として使えた。
参考 成瀬関次『戦ふ日本刀』、兵頭二十八『陸軍戸山流で検証する日本刀真剣斬り』


【弓】
○中国は古来、弓術が比較的発達していた。
・中国の十八般武芸(十八般兵器)の筆頭は「一、弓」「二、弩(ど。いしゆみ)」。
一弓、二弩、三槍、四刀、五剣、六矛、七盾、八斧、九鉞、十戟、十一鞭、十二鐧、十三撾、十四殳、十五叉、十六耙、十七綿縄套索、十八白打。
・日本の「武芸十八般」も弓は重視するが、弩は無視。
 同じ東アジアの国でも、日本と中国の伝統的な武器のレパートリーが違う理由は、「人種」的な筋力の差ではなく、社会的・文化的な理由。
・集団戦志向
・遠戦志向
・牛角馬腱など材料も豊富
・弓と弩の二段構えだった中国と、弓だけの日本

○弩(ど。いしゆみ)
 器械弓の一種。西洋に伝わりクロスボウ(日本語ではボーガンと言う。「ボウガン」は登録商標)になった。
 日本ではなじみの薄い武器ないし兵器である。「いしゆみ(石弓)」は「弩」とは全く別の武器だが、日本では「弩」と混同されている。中国の楽器「二胡」を、多くの日本人が「胡弓」と呼んでしまうのと同様の現象である。
 ウイリアム・テルは、クロスボウ(弩)の名手であるが、日本では弓の名手だと勘違いされることが多い。

 原始的で素朴な弩は、古代中国の少数民族のあいだでも見られた。野生の動物を狩る罠から発展した、という説もある。
 金属の部品を使った強力な弩は、高度な設計技術を必要とする精巧な「兵器」であり、古代においては運用できる国は限られていた。製造技術は国家機密であり、武器庫で管理されていた。

 弓と比べ、弩は威力と命中精度にすぐれ、また伏射も可能なので、伏兵にすぐれていた。逆に、弓は取り回しが便利で騎射にも使え、速射もでき、弓を引く力の加減で殺傷力を調整することも簡単だった。
 中国では、兵法家の孫臏(そんぴん。紀元前4世紀)が、馬陵の戦いで、ライバルの龐涓(ほうけん)を、弓と弩の伏兵で倒した故事が有名。
 弩は日本にも弥生時代に伝わった。律令国家時代は、弩の製法は日本の国家機密とされた。が、日本では、弩は国情にマッチしなかったため、武士の時代にはすたれた。
 中国では、連発式の「連弩」が開発されるなど、弩を使い続けた。日清戦争(1894年−1895年)でも清軍の一部は弩を装備していた。

  ○中国の弓の名人
・『列子』湯問篇の「紀昌学射」の故事 こちら
 → 中島敦の短編小説『名人伝』1942年(昭和17年)(青空文庫)
 趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に 及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。
 飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込こんで、そこに仰向にひっくり返った。眼とすれすれに機躡 が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚ろいた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。 厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、 遽ただしく往返する牽挺が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出す。もはや、鋭利な錐の先をもって瞼を突つかれても、 まばたきをせぬまでになっていた。不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目の前に突然灰神楽が立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。 彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。 ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
(以下略)
・古典小説『三国志演義』の弓の名人
 「弓だけ」でなく「弓もすごかった」というタイプの武人が多い。
 呂布・・・「轅門射戟」(えんもんしゃげき)など超人的。
 この他、蜀漢の黄忠、呉の太史慈、魏の夏侯淵なども弓の名手とされる。参考 https://sangokushirs.com/articles/112

 史実では、青年時代の董卓(とうたく)は騎射の名手で、馬で駆けながら左右の両手で弓を引くことができた、とされる。
 また史実では、弩(ど。いしゆみ)も多用された。が、弓が「武芸」「修養」「名人」と結びついていたのと違い、弩は雑兵の「兵器」という性格上「名人」はいない。
 史実の『三国志』では、蜀漢のケ芝(とうし。?−251年)が弩でサルを射た話なども伝わる。魏の名将・張郃(ちょうこう)をしとめた蜀軍の矢は、弩の可能性がある(http://www.360doc.com/content/17/0620/00/8527076_665008178.shtml)。
 諸葛孔明の同僚だった龐統(ほうとう)は、古典小説『三国志演義』では「落鳳坡」で戦死したことになっているが、史実では戦場で「流矢」にあたって死んだ。


○日本の弓の名人は「武士」。
 那須与一(なすのよいち)12世紀後半・・・『平家物語』の屋島の戦いで、扇の的を射抜く場面で有名。
 源為朝(みなもとのためとも 1139年−1170年)・・・身長2メートル以上、五人張りの強弓を操ったとされる。琉球王朝の祖になったという伝説も。
 日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ) 15世紀後半−16世紀前半・・・弓道の日置流の祖。「貫・中・久」を旨とする実戦的な射術を広めた。

 近衛龍春・作の歴史小説『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』 https://www.dailyshincho.jp/article/2016/08121530/?all=1「生涯現役を貫いて、隠居せず、弓を引くこと80余年。97年の生涯で参戦した合戦は53、得た感状は41枚」

○「弓道」と「弓術」
 オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』岩波文庫 参考 https://brevis.exblog.jp/12663825/

○世界の弓の分類
 作り方・・・単材弓、複合弓
 サイズ・・・長弓、短弓
 器械弓・・・弩(ど。いしゆみ)、クルスボウ(ボーガン)、バリスタ、カタパルト、・・・

 日本の和弓は、複合弓の長弓である。「武士」の存在との関連もあり、器械弓は普及しなかった。
 日本の武士の弓には「礼射、騎射、歩射」などの系統がある。

武道としての「弓道」と、戦場の「弓術」は別物。

蟇目鏑(ひきめかぶら)で疫病終息への追い討ち。

6月6日、神奈川県小田原市にあるサドルバック牧場での「馬上弓比べスクール」も再開。

この日は定員の20名満員。初めて体験する方も6名。

いつもは室内で食べるランチも三密を避けるため特別に上階のカフェの相模湾を望む絶景のテラスで食べました。 pic.twitter.com/Uwj5PN5Oo9

— 市村弘 (@kerpanen) June 8, 2020
○東アジアの弓の歴史