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日本と中韓 四百年の葛藤
外国人が見た江戸時代の日本

最新の更新2023年5月22日    最初の公開2023年4月16日

  1. 概要
  2. 04/18 嵐のあと――豊臣秀吉の朝鮮出兵が残した傷
  3. 04/25 役人と女性はお断り――長崎の唐人屋敷
  4. 05/09 日本人から見た朝鮮通信使
  5. 05/16 朝鮮通信使が見た日本
  6. 05/23 外国人が見た日本と東アジア

概要
以下、
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/58026/より引用。引用開始。

ジャンル 世界を知る中野校 【対面+オンラインのハイブリッド】日本と中韓 四百年の葛藤 外国人が見た江戸時代の日本
春講座 加藤 徹(明治大学教授) 曜日 火曜日  時間 10:40〜12:10  コード  310315
日程 全5回 ・04月18日 〜 05月23日 (日程詳細) 04/18, 04/25, 05/09, 05/16, 05/23
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
 日本と中国、日本と韓国の関係は「歴史問題」のせいであまりよくない、と今の人は思っています。これは半分間違いです。江戸時代とくらべれば、今の日中関係、日韓関係のほうがずっとよいからです。また今の日本人は「江戸時代は鎖国の時代だったから、外国との外交がなかった」「鎖国のせいで、日本は世界の進歩から取り残され、幕末に苦労した」と思っています。これも誤解です。ほんとうは「日本は江戸時代、鎖国という外交を行っていた。これは当時の東アジアの『海禁』という国際標準にそった政策だった」「日本は幕末までに国力が飛躍的に発展していた」というのが真相です。歴史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。

ご受講に際して(持物、注意事項)
◆授業の教材は、毎回プリントとして配付するほか、ネットにアップし、いつでもどこでもご覧になれるようにします。
◆本講座は対面でもオンラインでも受講できるハイブリッド講座になります。
◆講師は中野校教室で講義し、オンラインで同時配信いたします。
◆対面・オンラインのご都合の良い形式でご受講いただけます。
◆対面でご受講される方は、通常の対面講座と同様に開講確定後にお送りする教室案内通知記載の教室にお越しください。
◆オンラインで受講される方はオンライン講座と同様にマイページからご受講ください。
◆オンラインでの受講予定の方はお申込みの前に必ず「オンラインでのご受講にあたって」をご確認ください。
◆休講が発生した場合、補講日は6月27日(火)を予定しております。
引用終了。

04/18 嵐のあと――豊臣秀吉の朝鮮出兵が残した傷
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n2i9gn2pkoTXqhli3Sh36w
 日本軍が朝鮮半島で戦った「文禄・慶長の役」は、豊臣秀吉の死去によって終わりました。プライドをめちゃくちゃに踏みにじられた朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、戦後も日本の道徳的責任を追及する一方、朝鮮人は戦犯国家である日本と勇敢に戦ったという「神話」を作りました。昭和の作家・司馬遼太郎も信じた「東郷平八郎は日露戦争のとき李舜臣の霊に祈った」という作り話の淵源も、この時代にあります。17世紀の朝鮮王朝は、日本に拉致された人民の「刷還」を日本政府に強く求めました。が、朝鮮に強制的に戻された人民は、悲惨な目にあいました。朝鮮の支配者にとって大事だったのは自分のメンツであって、朝鮮の人民の生活や幸せはどうでもよかったのです。ふしぎな既視感覚にあふれる江戸時代初頭の苦い日朝関係を、現代と比較しながら振り返ります。
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


04/25 役人と女性はお断り――長崎の唐人屋敷
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lKVMoZ4fSsi-pfUBApx-iK

 日本政府が中国政府と国交をもった時期は短かった。西暦894年に「もはや中国から学ぶべきものはなくなった」という理由で遣唐使が廃止されてから、1871年(明治4年)に日本政府と清国政府が日清修好条規に調印するまで、なんと千年ものあいだ、日中両国のあいだには正式な国交がなかったのです。今の台湾と日本のような「無国交という国交関係」が千年も続いたのです。例えば江戸時代に日本に来ることを許された中国人は、貿易に従事する民間人男性だけで、しかも長崎の唐人屋敷に押し込められていました。とはいえ、江戸時代に来日した中国人は、日本人と交流し、さまざまな微笑ましいエピソードも生まれました。頼山陽など江戸時代の有名な学者は長崎に遊び、現地で生の中国文化に触れて楽しみました。日本を愛し、日本文化を学ぶ中国人も現れました。
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


05/09 日本人から見た朝鮮通信使
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mIvzVngdJ98sZr9xB7qsDU

 朝鮮王朝(李氏朝鮮)は、事実上は独立国でしたが、名目的には清(中国)の属国でした。清は朝鮮に外交権を認めませんでした。そこで朝鮮は「これは外交ではありません。『通信』です」という名目で、日本の徳川幕府の将軍の代替わりなどに500人ていどの使節団を編成し、江戸幕府に派遣しました。表向きの理由は日本との友好をあたためるためでしたが、本当の理由は、日本の将軍が豊臣秀吉のように朝鮮を侵略しないかどうか、日本国内の動静を探るためでした。また朝鮮通信使は、序列意識が強い儒教的知識人であったため、内心では日本人を格下の野蛮人として見下していました。日本側も、例えば新井白石のような知識人外交官は、朝鮮側の内心を見通したうえで、朝鮮通信使を幕府の権威づけに巧みに利用しました。江戸時代の「鎖国という外交」は意外としたたかであったのです。
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
回数年次江戸幕府間隔特記事項
第1回1607年(慶長12年)二代将軍徳川秀忠
第2回1617年(元和3年)徳川秀忠10年
第3回1624年(寛永元年)三代将軍徳川家光7年
第4回1636年(寛永13年)徳川家光12年柳川一件(1635)
第5回1643年(寛永20年)徳川家光7年
第6回1655年(明暦元年)四代将軍徳川家綱12年
第7回1682年(天和2年)五代将軍徳川綱吉27年赤穂浪士の討ち入りは1703年1月
第8回1711年(正徳元年)六代将軍徳川家宣29年新井白石が活躍。「大君一件」
第9回1719年(享保4年)八代将軍徳川吉宗8年雨森芳洲が活躍
第10回1748年(寛延元年)九代将軍徳川家重29年
第11回1764年(宝暦14年)十代将軍徳川家治16年
第12回1811年(文化8年)十一代将軍徳川家斉47年天明の大飢饉(1782-1788)で延期。のち「易地聘礼」(えきちへいれい)で、対馬までで差し止め。
 上記の回数は江戸時代からカウントしはじめた場合である。室町時代の朝鮮通信使からカウントする場合もある。
 江戸時代には「第8回朝鮮通信使」ではなく「正徳度(しょうとくど)朝鮮通信使」のように日本側の元号でカウントしていた。
 朝鮮通信使の一行の人数は、四百人から五百人くらいで、日本側の接待費の負担はおおむね百万両であった。幕府の天領が四百万石で、一両は米一石だった。新井白石は60万両におさえ、朝鮮側の反発を買った。
 今回は、以下、朝鮮通信使の転換点となった正徳度朝鮮通信使について、新井白石に焦点をあてて取り上げる。

○新井白石と朝鮮通信使
 以下『精選版 日本国語大辞典』より引用。引用開始。
あらい‐はくせき【新井白石】
江戸中期の儒者、政治家。名は君美(きんみ)。字は在中、済美。通称勘解由。木下順庵の高弟。徳川家宣、家継に仕え、側用人間部詮房とともに幕政を補佐。武家諸法度の改正、貨幣改鋳、朝鮮通信使礼遇の改革などに尽力。その学問は日本古代や近世史、地理などの方面で実証を重んずるものであり、イタリア人宣教師シドッチから西洋の知識をも得た。詩は盛唐詩に学んで、その典型の再現に成功している。「東雅」等に言語の歴史的変遷を論じてもいる。著「藩翰譜」「読史余論」「古史通」「西洋紀聞」「采覧異言」「折たく柴の記」「同文通考」など。明暦三〜享保一〇年(一六五七‐一七二五)

 以下『先哲叢談』より。詳しくはsentetusoudan.html#butsumokeiを参照。
 漢学者で政治家にもなった新井白石は、もともと対馬の西山健甫(原漢文の割注に「名は順泰」とある)と旧友であった。十六歳のとき、自分が作った漢詩一万首を集め、西山健甫を通じて、来日した朝鮮人に批評を頼んだ。朝鮮人は、白石の漢詩の出来ばえに感心し、白石に会うことを申し出た。その上、詩集の序文を書いて、白石の文才を褒めた。後に白石は、木下順庵の門下に入ったが、これも西山健甫の紹介によるものであった。(以下略)

 正徳年間の辛卯の年(正徳元年=一七一一年)、朝鮮通信使が日本にやって来た。新井白石は、莫大な経費を要する通信使のもてなしを簡略化した。江戸城での歓迎の宴会では、それまでは猿楽(能楽のこと)を上演していたが、白石は雅楽を上演した。徳川将軍の称号をそれまでの「日本国大君」から「日本国王」に変更し、幕府の将軍が朝鮮国王が対等であることを強調した。白石が旧来の外交慣行を大幅に改めたため、朝鮮通信使の側は反発し、礼儀や書式について江戸城で論争をくりひろげた。結局、朝鮮の使者が折れた。
 白石の同門で、有名な漢詩人である祇園南海は、白石が六十歳になったとき、お祝いの漢詩を作った。その七言古詩の中に、このような詩句がある。「朝鮮半島から、一国を代表する使節が来日した。顔を血のように真っ赤にして、礼を争い、石のように頑固で譲らなかった。あなたは、西の階から服のすそをかかげて上り、軽々と霞のように、余裕たっぷりの態度で壇上に上がった。あなたは腰に「紫陽太守」(白石の別の号は「紫陽」で、彼の官は筑後守であった)の印を帯び、眼は稲妻のごとく輝き、ひげは武器のほこのように威圧感があった。あなたが腰の刀に手を掛けて大声をあげると、江戸城の建物の中の柱は震動した。朝鮮国の使者も、恐怖のあまり震え上がった。あなたは、朝鮮の使者の求めに応じて、その場で「撃剣の歌」を作って示したが、その詩句の言葉は、まるで血煙を吹くように激烈だったので、みな、身をすくめてしまった。朝鮮通信使と日本側の礼の改訂についての話がまとまり、宴会の雅楽の演奏が始まると、朝鮮側も日本側も喜びを分かちあった。日本の王家の威儀は、太陽のように輝いた」。(原漢文の割り注。祇園南海の自註に、こうある。「朝鮮通信使は、白石公に『貴国には撃剣の技の達人が多いと、昔から聞いております。今、見ることができるでしょうか』と言った。白石公は『いますぐこの場で見たい、とおっしゃられても、にわかにはご用意できません。私がこの場で、はるばるいらした皆さんのために、概略をお話ししましょう』と言い、その場の席上で『撃剣歌』一篇を作り、朝鮮通信使の一行に示した)。


○正徳元年十一月五日(辛卯年、西暦1711/12/14)、新井白石が江戸城内で朝鮮通信使に雅楽を見せた時の、朝鮮側との筆談の記録。
詳細は singaku-32.html#01 araihakuseki.html sentetusoudan.html#araihakuseki https://dl.ndl.go.jp/pid/949600/1/269(国立国会図書館デジタルコレクション) などを参照。

【日本】新井白石 1657-1725
(あらいはくせき)

【朝鮮】趙泰億 1675-1728
(ちょうたいおく 조태억)


新井白石が、朝鮮通信使に雅楽を見せながら、相手と交わした筆談の一部の訳文。

【「長保楽」を見ながら】
(白石のメモ)これは高麗、つまり君たちの国の先祖の音楽ですよ。貴国には自分たちの先祖の音楽が残ってますか?
(朝鮮の正使のメモ)うーん、この音楽は残ってないねえ。…
【「蘭陵王」を見ながら。】
(白石が筆談で説明する) 舞楽の「陵王」は、 6世紀、北斉の美男子で貴公子の蘭陵王長恭が、 北周の軍隊を、 洛陽の金墉城で打ち破ったときのエピソードを 再現した舞楽だ。 管弦楽の「蘭陵王入陣曲」と同じだね。
(朝鮮の副使のメモ)北斉の高長恭にちなむ古い舞楽が、どうやって貴国に伝わったの?
(白石、答える)わが天朝が、千年前、隋や唐と交流していた時代に、日本に伝わってきたんだよ。
(正使)これらのメロディーは、三千年前の夏・殷・周の音楽ほどは古くないけど、千年前の隋や唐の音楽でさえとっくに滅んじゃってるから、 世界で唯一日本にだけこんな古い曲が伝わってるなんて、本当に貴重だよね。
(白石)わが天朝の起源は、天と同じく古い。代々の天皇陛下の治世も、天と同様に絶えることなく続いてきた。 わが国の天皇こそ、本当の天子さまだ。君たち西の国(中国や朝鮮のこと)の歴代の君主は、しょせんは普通の人間だ。 西の国じゃ、天命を受けて王朝を始めても、せいぜい数百年で次の王朝に取って変わられる。 それに比べ、わが国の天皇家は、なにしろ神話の時代から続く万世一系だからね。君らの国と違って、古式の礼楽も正しく伝わるのは、あたりまえなのだよ。 いや、隋唐の古い音楽だって、目じゃないのさ。孔子よりも古い、三千年前の古代の正しい音楽のなごりも、わが国には残ってるはずだ。
(朝鮮の正使)そんなに古くて正しい礼や音楽が残ってるなんて、日本くらいだろうね。見なおしたよ。 きみら日本人が、もうちょっと頑張れば、俺たち朝鮮人と同じ小中華のレベルになれるぞ。
(副使)あの踊り、手や足の動かしかたは、どれもピッタリ決まってる。すばらしい。
(白石)あの俳優は日本人だが、先祖は高麗人なので、「狛」(こま)という姓を名乗っている。今の音楽界ではナンバーワンだ。 彼が使ってる仮面も、数百年前から伝わるアンティークだ。


○以下は『江関筆談』より。新井白石と、正使・趙泰億(趙平泉)が交わした筆談の一部の意訳。詳細は araihakuseki.html を参照。

新井白石:いま、日本より西のアジア諸国は、みんな大清国の満洲人的服装制度になっちゃった。でも、貴国(朝鮮)だけは、いまでも大明国の漢民族的礼儀が残っている。なぜだい?
趙泰億:清朝が世界を征服したから、世界中の人々が野蛮な遊牧民族風の服装を着るようになっちゃった。中国本土でも、中華文明の伝統は滅亡した。で、わがウリナラ朝鮮国だけが中華文明の正統派 を引き継ぎ、いにしえの理想的な文物制度を保っている。超大国の清国ですら、わが朝鮮国は礼と義の国である、と一目おいてるんだぜ。いまや全世界で、わが朝鮮国だけこそが「東周」すなわち東洋 文明の本家本元なのだ。どうだい。君たち日本人も、中華の制度を取り入れようとは思わないかね。君たちも最近は、われわれ朝鮮国のようになりたいとあこがれ、文化や教育に力を入れてるようだが。
新井白石:これから正直な感想を言うけど、気を悪くしないでね。君たち朝鮮通信使は、自分たちこそ中華文明の本家本元だ、と自慢しているけど、ぼくは君たちのそのファッションを見て、正直、ガ ッカリしているのだよ。…むかし漢文古典の『詩経』を学んだとき、殷王朝の人が昔の伝統的な服装で東周に来朝した、という内容の作品を読んだ。「三千年前の殷王朝の衣冠て、どんなものだったの だろう。きっと立派で優雅なんだろうなあ」とワクワクした。君たちの国は、今は朝鮮だが、三千年前は中国系の「箕子朝鮮」だったんだろ? 箕子は殷王朝の王族で、立派な人物だったので、殷 の滅亡後、周の武王によって朝鮮に封じられた。これは君らもよく知っている歴史だ。…で、ぼくは、君たち朝鮮通信使が日本に来ると聞いて、ワクワクしてた。君たち朝鮮民族は優秀で礼儀正しい民 族なんだから、きっと今も三千年前の理想的な古典時代の美風を残してるはずだ、と期待してた。君たちに会えば、東周よりも古い殷王朝の礼儀作法にじかに触れることができるぞ、と、とても楽しみ にしていた。…でもね、実際に君たちに会ってみると、失望したよ。君らのご自慢のその衣冠束帯の服装は、正直に言うと、みっともないね。たかだか百年前の、今は滅んだ明王朝の服装を、得意満面 に着てるだけだ。君たちは、中華文明の本家本元だと威張ってるわりには、服装の歴史は浅いんだね。そもそも、清王朝が君ら朝鮮に辮髪とか満洲風の服装を強制しなかった理由を、君たちはちゃ んと考えたことがあるかい? わが日本国は清国と対等の独立国だけど、君たち朝鮮国は、琉球王国と同様、清国の藩塀に成り下がっている。それなのに、清国は、朝鮮や琉球に辮髪とか満洲人の服装を 強制しない。その理由はなぜだろう。もしかすると、清国はさすがに大国だから、太っ腹なのかもしれない。彼ら清国のほうこそが古代中国の理想国家である東周と同様、領土欲より道徳を重んじている おかげかもしれない。ちなみに、わが日本国は神々のご加護もあって、今まで一度も中国の属国になったことはない。ひょっとすると君の国も琉球国も、わが国の神々のおかげで、服装についてはかろ うじて自由を確保できたのかもしれない。まあ真相はわからないけどね。 

【申叔舟の話題で友好ムードが盛り上がる】
白石:こんな話を聞いたことがある。その昔、貴国の政治家でわが国との外交でも活躍した申文忠公(申叔舟1417ー1475)が亡くなる直前、成宗(康靖王。1457-1495。朝鮮王朝第9代国王)が「最期に言い残したいことは?」と問うた。申文忠公は「くれぐれも日本との平和を失わないでください」と言い残したそうだ。申公が来日した(1443)時代、貴国とわが国は軍事的に敵対していた。貴国の軍隊がわが対馬を攻撃した応永の外寇(1419)、「倭寇」の活発化、嘉吉条約(1443年)の締結。……日朝両国の平和樹立に心血をそそいだ申公が残したこの遺言は、重い。いまは君たちの時代だ。君らは、かつての申文忠公に匹敵する憂国の忠臣だ。細心の注意で対日外交に臨んでくれている。これは日朝両国の民にとって大きな幸運だ。
平泉:(嬉しそうな顔をして)いやー、自分で言うのも何だが、実はね、ぼくは申公の子孫なのだ。申文忠公は、ぼくの母がたの祖先だ。ぼくの祖先の臨終の一言は、平和友好を大事にして国境での流血を避けねばならぬ、という決意の言葉だ。嬉しいね。きみもまた、わが祖先の言葉を聞き知って、戒めとして記憶してくれていたとは。いやあ、これは朝日両国にとって、大いなる幸いと言うべきか。めでたや、めでたや。
白石:ぼくはただ、平和友好が大事だと言いたいために申公の言葉を引用したんだけど、なんと目のまえにいるあなたが、あの申公のご子孫だったとは! しかもその子孫が、実際にこうして来日し、両国の平和友好の大切さを説かれるとは。すごい。さっき、両国の民にとっての幸運だと言ったけど、あなたのご一族にも、先祖代々徳を積み重ねてきたおかげで、今後、天が幸運を与えてくれるでしょう。あらかじめお祝い申し上げます。
青坪:ぼくはずっと、貴国はサムライの国だと思ってた。でも実際に来てこの目で見ると、漢文や儒教の学問もブームになってて、ビックリした。いやあ、参りました。お祝い申し上げます。申文忠公の言葉は、永遠に記憶されるべき名言です。いま、幸いなことに、われら両国の君主はともに名君である。戦争はなく、平和が続いている。自然に友好関係が続く状況にある。わざわざ両国にみぞを生じさせるような考えは、あってはならない。……さっきぼくが「日本刀のパフォーマンスを見たい」と言ったのは、ミーハー的な観光客の興味関心からの発言なので、お許しください。海外でも有名な日本刀の超絶パフォーマンスを見れたらいいな、と思ったわけで。でも、日本でも儒教や漢文がこんなに盛んだとは。いやはや、恐縮、恐縮。
白石:両国の友好は「礼」と「信」につきる。で、友好ムードに乗ってきたところで、またちょっとシビアな話題をしたい。諸君はわが対馬にたいして、わが国と同様主人のような地位にある。対馬は貴国のすぐ隣だ。距離が近すぎるがと、国境紛争とか些細なトラブルのタネになる。友好ムードが一気に冷める元凶になりはしないか。それが心配だ。
平泉:まったく、そのとおりだと思うよ。でも、ちょっと失礼なことを言わせていただくと、わが国は誠実でも、貴国はわが国ほど誠実じゃないんじゃないか、と心配だ。
白石:過去の歴史を見ると、国どうしにミゾができて敵対するようになる原因は、戦争の怖さを知らぬ好戦的な人間だ。謙譲の美徳を忘れ、俺の国のほうが格上だ、と言い張り続けると、それがエスカレートして国境紛争の流血騒ぎを引き起こす。そういうケースが多い。ぼくらは中高年で、いずれいなくなる。次の世代の若手たちが心配だ。格上とか格下とか、そんなつまらない争いが日朝外交のシコリになって、両国の友好ムードが冷めてしまうんじゃないか。心配でたまらない。君らは帰国後、朝廷で報告会をするだろう。そのとき、ぜひ、このことも問題提起してくれ。貴国の人臣の愛国心はとても熱いし、君らの立場上、言いづらいこととは思うが、朝鮮国の重臣である君らだからこそ、あえて本音を述べてくれ。
青坪:小さなシコリなんて、気にすることはない。日朝両国関係の未来は心配ないさ。でも、ぼくたちは、それぞれの国でがんばろう。がんばれば、友好は永遠にゆるがないはずだ。



05/16 朝鮮通信使が見た日本
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kT32t4srrW88WGP0IbeFn8

 歴代の朝鮮通信使は、日本での見聞を紀行文として残しました。正使、副使、従事官、製述官、書記、写字官などが残した記録は膨大ですが、その中でも、1719年の第9回朝鮮通信使の製述官であった申維翰が漢文で書いた『海游録』と、1763年の第11次朝鮮通信使の書記であった金仁謙がハングルで書いた『日東壮遊歌』は有名です。朝鮮通信使は江戸や大坂の繁栄ぶりを見て、ソウルや北京よりも上だと驚嘆し、また日本女性の美しさを羨むいっぽう、内心では日本人を野蛮人として軽蔑していました。また、日本では町の書店で誰でもお金を出せば立派な本を買えること、特に朝鮮王朝の対日外交の機密文書の本までもが日本の本屋の店頭に並んでいるのを見て驚愕し、危機感を抱きました。
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○漢詩文の文才は国威発揚の手段だった
朝鮮王朝の文人の漢詩のレベルは、中国人が見てもおそるべきものだった。
以下は、明末の文人・沈徳符(しん・とくふ、1578年 - 1642年)の『萬暦野獲編』の記述である。
詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/banrekiyakakuhen.html#02 を参照。
 朝鮮半島の習俗は、漢詩と漢文の才能を最も重んじている。朝鮮にも、中国と同様の科挙などの官吏登用制度がある。朝鮮の使者がわが中国に朝貢に来るときは、使節団には朝鮮国のエリートたる大官が多く参加しており、「オール朝鮮」とも呼ぶべき陣容である。トップの「議政」は、わが中国の宰相にあたる。しかも毎回、必ず朝鮮国王直属の監察官が、お目付役として随行している。朝鮮の中国派遣使節団のメンバーは全員、漢文の才能で有名な、えりすぐりの秀才たちである。
 朝鮮人たちは、中国の皇都に参上すると、毎回、中国の漢文の書籍を購入する。あるとき、朝鮮人たちが、中国の王世貞の著作『弇州四部稿』を買おうとした。中国の書籍商は、わざと値段をつりあげが、彼らはそれでも買いたがったので、結局、値段は十倍まではねあがった。朝鮮人が漢文の書籍を好む熱心さは、このようである。
 逆に、わが中国の使節が朝鮮国にくだるとき、漢詩文を得意とする知識人は、翰林学士が一名、給事中が一名、という小規模な編成だ。しかも彼らは、出発にあたり、露骨に「本当は、遠い田舎の国になんか行きたくないけど、公務だからしかたない」という、『詩経』の「四牡」の詩さながらの態度を見せる。そんな、やる気のない中国の知識人の来訪を、朝鮮国の文人たちは、手ぐすね引いて待っている。中国の使節が来ると、朝鮮人は立派な漢詩を作り、中国人に贈る。使節団の中国人は、お返しに漢詩を書いて朝鮮人に贈らねばならない。が、えてして、使節団の中国人が漢詩を作る才能は、朝鮮人よりおとっているともある。以前、わが中国のエリート文人であるはずの翰林学士が、朝鮮での漢詩の応酬で彼らの返り討ちにあい、朝鮮人から嘲笑と侮蔑を受け、わが中華文明の恥辱となったことは、一度ならずある。今後は、朝鮮国への使節団の人選は、慎重にとりおこなうべきように思う。漢の植民地だった土地の連中に笑われぬようにしなければならない。


○江戸時代の初めまで日本人の漢文能力は低かった。
以下 『西日本新聞』の記事「江戸の韓流 朝鮮通信使<5>交流 益軒も筆談駆使、知の挑戦」 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/263429/ 閲覧日2023年5月14日 より引用。引用開始。
 江戸の中頃まで日本の学問レベルは通信使からかなり下に見られていました。七言絶句などの詩文は「稚拙」と酷評。1719年の第9回通信使も、幕府の儒学者の文章を「拙朴にして様を成さない(拙くて文章になっていない)」とけなしています。
 しかし、中には通信使に知的対決を挑み、うならせた文化人もいました。その一人が、現代にも通用する健康の心得「養生訓」を著し、「日本のアリストテレス」と称賛された福岡藩の儒学者貝原益軒です。
 藩命を受け、益軒が相島(あいのしま)(福岡県新宮町)の接待所へ渡ったのは1682年。そのときの様子が、大正、昭和の郷土誌「筑紫史談」に残ってます。益軒は「生涯の一大快事」と交流の喜びを表明。韓国の千ウォン札に描かれた李退渓(イ・テゲ)など著名な儒学者の思想や教育制度などについて尋ね、詩文を交換しました。朝鮮側の記録は、益軒の詩編を「一行の文人賛美せざるはなし」とたたえています。


○新井白石の漢詩の才能は中国人や朝鮮人も感服した。
 清の皇帝直属の高級官僚だった鄭任鑰が、新井白石の漢詩集に寄せた序文。
 清朝の鄭任鑰は、新井白石の漢詩のできばえは、唐の杜甫や白楽天にも匹敵する、と激賞した。ただし彼は、新井白石を琉球国人だと誤解していた。
詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/araihakuseki.html#teijinyaku を参照。
 詩の本質とは何か。自分の自然な思いや心、志を外に出すことだ。胸にひめた静かな思いや、激しい感情などをあらわにすれば、詩や歌が生まれる。詩の伝統は、三千年前、最古の詩集『詩経』が風雅 の伝統を開いた時に始まる。それ以来、漢や唐など歴代の王朝をへて、詩の韻律のスタイルは洗練を加えられ、数々の名詩が生まれるようになった。
 わが清朝の皇帝陛下(当時の皇帝は、聖祖・康熙帝)は、文学と道徳を重視され、風雅の御心をもって人材育成につとめられてきた。そのおかげで、わが清朝は英才が輩出し、詩の学問も日進月歩の勢いである。皇帝陛下にお仕えするわれら臣下も、文芸振興に力を入れてきた。かくて今日、文学の機運は高まり、近隣の海外諸国までもが、わが中華の感化を受け、中華の文化にあこがれ、文芸に熱を入れている。そんな海外諸国の中でも、昔から守礼の国を自称してきた琉球国のレベルは、特にすばらしい。
 新公、いみなは堪という人は、学才がすぐれ、博学であり、 詩を作るのがうまく、先祖代々、琉球国の禄を食んできた。彼は、自分が書いた漢詩集「白石余稿」の稿本を、私の叔父で外交担当の恪斎公に託し、北京まで送ってきて、私に序文を書くよう依頼してきた。
 私は丙戌の年(1706年。清・康煕45年、日本・宝永3年)に、幸運にも科挙の試験に合格し、翰林院で働くようになった。それから七年。毎日、仕事がとても忙しく、親戚や友人とつきあうひまも、詩文を作って互いに贈りあう時間もないほどだ。
 本来、私は多忙で、他人のために序文を書く時間はない。し かし、新公の依頼だけは例外として引き受けた。なぜか。新公は、海の向こうの島国の人だ。数万里もの距離をものともせず、わざわざ私に序文の執筆を求めてきたのだ。その心意気に感じたのである。新公が作った詩を読んでみると、作品の境地は雄大で、構想は比類がないほど優れており、文質彬彬として古代の『詩経』のすぐれた遺風をよく継承している。新公の心と才能は非凡で、海外に燦然と輝いている。彼の詩の精神を分析すると、唐の時代の一流の詩人たちにくらべても、遜色がない。静かな個性の趣は、韋応物や孟郊と同じだ。のびのびとした達意の文体は、唐の元稹と白楽天に匹敵する。骨太で深い造詣に裏打ちされている点では、陳子昂と杜甫と同系だ。情感も技巧もすぐれている点では、劉禹錫と銭起の仲間である。
 私は、不思議でしかたがない。遠い島国に、これほどすばらしい詩人が現れたとは。天が生み出した不思議は多い。こんな思いがけぬ奇跡も、中にはあるのだろう。新公は、風雅の境地にひたり、詩書に没頭し、金石 の響きのようなすばらしい詩語をつむぎ出した。私は、遠い異国に住む彼と会って談笑する機会は得ていないが、彼の詩を読み、彼の人となりを理解することができた。そこで、喜んで序文を書かせていただいた次第である。

以下、申維翰『海游録』より。朝鮮側は、新井白石を手ごわい相手と認識していた。
詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/araihakuseki.html#teijinyaku
 私は日本に出発する前、昆侖学士(崔昌大)に序文を書いてくれるよう依頼した。しかし当時、公は病気のため、筆を取れなかった。公は序文を書く代わりに、書架の上から『白石詩草』一巻を取り出して余に示し、次のように、はなむけの言葉をかけてくれた。
この本は、新井白石の漢詩集だ。辛卯の年の朝鮮通信使が、日本で入手してきたものだ。白石の漢詩は、言葉づかいに卑俗で弱いところも多いが、すぐれた響きもないわけでなく、それなりに手ごわい。君がこれから朝鮮通信使の書記として日本に渡れば、この白石という人物と、漢詩の応酬や外交で、ガンガンやりあうことになる。(実際は白石は日本で失脚しており、次の朝鮮通信使と漢詩の応酬を行うことはなかった――加藤徹) 君の文才があれば、互角に渡り合えるだろう。その点は心配していない。しかし、日本は土地が広い。山や川など自然も美しいと聞いている。きっと日本には、高い才能と広い見識をもつすぐれた人物もいるはずだ。わが朝鮮通信使と直接に会って、漢詩の応酬をする日本人は、日本の全人口のごく一部にすぎない。直接、君と漢詩の応酬はしないものの、間接的に君が書いた漢文や漢詩を入手して、あれこれ辛辣な批判を加えようとする手ごわい日本人が、きっといるはずだ。古代中国の葵丘の盟のとき、斉の桓公に面従腹背する諸侯が出てしまったが、外交では、このような心服しない者が一人、二人でも現れることを恐れるべきである。小さな丘には松柏のような立派な木は生えない、という意味のことわざもあるが、君は、日本は小さな島国だから大人物がいるはずはない、と見くびってはならない。君はわが国の知識人の代表として日本に渡り、千篇、万篇と、すばらしい漢詩を雨や風のようにどんどん量産してくれ。昔、三国志の諸葛孔明は、南方の蛮族の酋長である孟獲を何度も捉えてはまた逃がし、最後にようやく心服させた。しかし君は、孔明のような策をとってはならん。孟獲のような低レベルの、目の前の日本人を心服させることに気を取られ、大局的な使命を見失ってはならない。古代中国の項羽が鉅鹿で見事に戦い、天下の諸侯を畏怖させたように、君も、天下を相手に、わが朝鮮国の漢文のレベルの高さを輝かせてくれ」
 私は、うやうやしく感謝し「もったいないお言葉です。私の未熟な文才では、ご期待に添えないのが、恥ずかしいです」と申し上げた。


○北京に行く「燕行使」と日本に行く「通信使」では前者のほうが人気があった。
以下、『西日本新聞』2016/07/30朝刊 https://www.nishinippon.co.jp/item/n/263316/ より引用。引用開始。
 使節団に選ばれれば、帰国後に昇進の機会がありました。それでも誰もが行きたがったわけではありません。 隣の明は憧れの先進国でしたが、日本は後進国とみなされ、そのうえ荒海を渡る命懸けの旅だったのです。 通信使に選ばれ、己の才能を嘆く人もいました。
 第11回通信使(1764年)の正使を命じられた男は「年とった母がいつ亡くなるか分からない」と固辞しました。 代わりの正使に任じられたチョオムは対馬のサツマイモを持ち帰り、釜山に植えたという説があります。 正使交代がなければ、サツマイモは朝鮮に伝来しなかったかもしれません。

○雨森芳洲と享保度通信使
 第9回朝鮮通信使は、1719年(享保4年)、八代将軍徳川吉宗の時に来日した。朝鮮側は、8年前と同様に新井白石が対応するのかと緊張していたが、白石は失脚しており、会えなかった。
 代わりにあたったのは、白石の同窓生である学者の雨森芳洲であった。芳洲は温厚な識者で、ある意味、白石以上にてごわい相手だった。

以下は『先哲叢談』の記述。
詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/sentetusoudan.html#amanomorihoushuu
 雨森芳洲は、中国語や朝鮮語にも通じていた。朝鮮人と会話するときは、いつも通訳を通さず、直接話した。あるとき朝鮮人が冗談を言った。「あなたは、いろいろな国の言葉がお上手ですね。特に、日本語がお上手です」


○申維翰『海游録』の記述より。
 申維翰は、日本人の漢文能力の低さを酷評し、雨森芳洲ともウマがあわなかった(芳洲のほうは申維翰に好意をもって接した)。一方、日本の自然や女性の美しさや、将軍・徳川吉宗の威風は好意的に描いている。彼は秀才だったので、『海游録』に載せる漢詩は言葉は綺麗だが、自分の個性や日本と朝鮮の庶民生活の比較などの視点は欠けており、秀才が綺麗な言葉を並べただけの漢詩、という印象を受ける。
 以下は、申維翰『海游録』の一部である。訳文は、本来は学生むけの教材として作ったので故意に俗な意訳とした。詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/higashiajia-theaters.html
【原漢文】日本男娼之艶、倍於女色。其嬖而惑者、又倍於女色。國中兒男年十四五以上、容姿絶美者、膩髮爲丱、面傅脂粉、被以彩錦衣、香麝珍佩修飾之具、可値千金。自國君以下富豪庶人、皆貨而蓄之、坐臥出入、必與相隨、耽狎無饜。或有外心、則妬狠殺人。其俗以竊人之妻妾爲易事。而男娼有主者、則不敢與之言笑。雨森東所作文藁中、有敍貴人繁華之物。曰「左蒨裙而右孌丱」。余指之曰「此云孌丱。乃所謂男娼乎?」。曰「然」。余曰「貴國之俗、可謂怪矣。男女之欲、本出於天地生生之理、四海所同、而猶以淫惑爲戒。世間豈有獨陽無陰、而可以相感相悅者乎!」。東笑曰「學士亦未知其樂耳」。如東之輩所言尙然。國俗之迷惑、可知也。
原漢文はhttps://db.itkc.or.kr/の[こちら]を参照  申維翰が書いた上記の文章を超・意訳すると・・・

 日本人はエロが大好きだ。フーゾクのオトコとオンナについての文章は前に書いたとおり。なんと日本には、オトコの売春夫もいるのだ。
 男の子なのに、ゾクゾクするほど色っぽくて、女の子よりもエロチックに見える。日本でのオトコとオトコの荒淫ぷり、耽溺ぶり、蠱惑的な沼っぷりは、オトコとオンナ の関係の倍はあるだろう。
 こうした美少年は、数え十三歳、十四歳から、十六歳以上まで年齢はよりどりみどり。 蘭の香をこめた油をぬった黒髪は、ウルシのようにつややか。眉を画き、おしろいをぬり、服は色鮮やかな糸や見事な絵模様をあしらう。 想像してごらん。そんな美少年が、扇を抱いてすらりと立つ姿といったら。これはもう、一輪の名花なんだな、これが。
 日本では、王侯貴族もセレブも金持ちも、みんなお金を注ぎ込んで、自分の美少年を囲っているんだ。 昼も夜も、家の外でも中でも、美少年をピッタリと侍らせている。 美少年をめぐってドロドロとした嫉妬の感情のもつれがうまれ、殺人事件が発生することさえある。 ウソでも誇張でもないんだ。日本の民間の風俗の奇々怪々ぶりは、オドロくほかないね。
 まさに異次元の情欲。漢文古典でエログロ愛好国の代名詞となっている春秋時代の鄭と衛にさえ、日本みたいなフーゾクや男色文化の記録は残っていない。
 前漢の哀帝と董賢の同性愛は、史家から糾弾されているけれど、あれも日本のこんな乱れた状況を指していたのだろうか。

 日本の売春の妖艶さは、女性の二倍はある。
 ソソられるエロさも、美女の二倍。
 日本では、数え十四歳、十五歳以上のイケメン男子は、 油をぬったテカテカの髪の毛を「丱」(カン。あげまき)のスタイルにして、顔は美白のメイクをして、 キンキラキンの服を着せられる。超高級な香り、アクセサリー、飾りには、莫大な金がかかっているのだろう。
 日本の国主をはじめ、富豪も庶民も、みなお金を注ぎ込んで自分だけの美少年を囲い、 日常座臥、外出のときも家にいるときも、いつもピッタリと付き添い、果てしなくイチャつきまくる。 もし浮気なんてしようものなら、たちまちジェラシーの炎が燃え上がって、殺人沙汰。
 日本は、オトコとオンナは浮気天国、不倫大国なのに、オトコとオトコは真逆。 売春夫には「ご主人さま」がいて、他人の美少年とおしゃべりするのはもちろん、ウインクすらも御法度とされる。
 ボクは、雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう 1668−1755)のトンデモ発言を、書き残さずにはいられない。
 芳洲が書いた漢詩漢文のなかに、王侯貴族のぜいたくぶりをのべた句があった。「左蒨裙而右孌丱」蒨裙を左として、孌丱を右とす。 意味は、左側にあかね色のスカートの美女を侍らせ、右には『孌丱』(らんけん)の美少年。
 ボクはちょっとビックリしたね。
「この『孌丱』って、ひょっとして、売春夫の少年のこと?」  ときくと、日本では有名な儒者である雨森芳洲は、
「そうですよ」
 と、しれっと答えた。ボクは言ってやったよ。
「貴国の風俗は、こう言っちゃなんですけど、奇っ怪ですな。オトコとオンナの性欲もお下品ですが、これはまあ大自然の摂理、宇宙的な万物創生の原理の一部と言える。 ヒトは先祖のセックスのたまもの。男女のセックスはグローバルです。健全なセックスですら、やりすぎや下品なエロは、嫌われます。
 まして、日本の男色文化ときたら・・・・・・。儒教の陰陽思想から言えば、男女のセックスは陰陽の和合で自然、男色は陽と陽のガチンコバトルで不自然。 オトコどうしで感じあってイイ気持ちになるなんて、あなたは気持ち悪くないですか?」
 ボクの日本批判を聞いた芳洲は、ニヤリと笑って、こう言ったんだ。
「あなたはまだ、オトコどうしの味を知らんのですな。フッフッフ」
 気絶しそうになった。仮にもだよ、雨森芳洲は、朝鮮通信使の案内役として選ばれた、日本のエリート知識人だよ。そのええオッサンが、日本では全国的に有名な儒者が、そう言ったんだよ。
 日本人の風俗の底知れぬ泥沼の闇をのぞいた瞬間だったよ。
(超・意訳、終わり)
○第11次朝鮮通信使の書記が見た日本
詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/sentetusoudan.html
 1763年から1764年にかけて来日した第11次朝鮮通信使の書記、金仁謙(きんじんけん/キム・インギョム)がハングルで書いた私的な旅行記録より。日本の都市文明の繁栄ぶりや女性の美しさに目を見張る一方、繁栄の背後にある要因については何の考慮も加えず、「倭人」を蔑視している。
 高嶋淑郎訳注『日東壮遊歌』東洋文庫662(1999年), p241-p243より引用。引用開始。
「一月二十二日 大坂城」の記述より
(前略) 美濃太守の宿所の傍らの 高殿にのぼり
四方を眺める 地形は変化に富み
人家もまた多く 百万戸ほどもありそうだ
我が国の都城の内は 東から西に至るまで
一里といわれているが 実際は一里に及ばない
富貴な宰相らでも 百間をもつ邸を建てることは御法度
屋根をすべて瓦葺きにしていることに 感心しているのに
大したものよ倭人らは 千間もある邸を建て
中でも富豪の輩は 銅を以って屋根を葺き
黄金をもって家を飾りたてている その奢侈は異常なほどだ
南から北に至るまで ほぼ十里といわれる
土地はすべて利用され 人家、商店が軒を連ねて立ち並び
中央に浪華江[淀川]が 南北を貫いて流れている
天下広しといえこのような眺め またいずこの地で見られようか
北京を見たという訳官が 一行に加わっているが
かの中原[中国]の壮麗さも この地には及ばないという

この良き世界も 海の向こうより渡ってきた
穢れた愚かな血を持つ 獣のような人間
周の平王のときにこの地に入り 今日まで二千年の間
世の興亡と関わりなく ひとつの姓を伝えきて
人民も次第に増え このように富み栄えているが
知らぬは天ばかり 嘆くべし恨むべしである
この国では高貴な家の婦女子が 厠へ行くときは
パジを着用していないため 立ったまま排尿するという
お供の者が後ろで 絹の手拭きを持って待ち
寄こせと言われれば渡すとのこと 聞いて驚き呆れた次第
(以下略)
同上『日東壮遊歌』東洋文庫662, p281-p282より引用。引用開始。
「二月十六日 品川→江戸」の記述より(1764年)
十六日、雨支度で 江戸に入る
左側には家が連なり 右側は大海に臨む
見渡す限り山はなく 沃野千里をなしている
楼閣屋敷の贅沢な造り 人々の賑わい男女の華やかさ
城壁の整然たる様 橋や舟にいたるまで
大坂城[大阪]、西京[京都]より 三倍は勝って見える
左右にひしめく見物人の 数の多さにも目を見張る
拙い我が筆先では とても書き表せない
三里ばかりの間は 人の群れで埋め尽くされ
その数ざっと数えても 百万にはのぼりそうだ
女人のあでやかなること 鳴護屋[名古屋]に匹敵する
(以下略)


○李瀷(1681-1763)『星湖僿説』の記述より
朝鮮の知識人は、書物を通じて、日本の動静を把握していた。
以下の詳細は https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/seikosaisetu.html
【原漢文】
 日本維居海島、開国亦久、典籍皆具。陳北渓『性理字義』、『三韻通考』我人従倭得之。至於我国之『李相国集』、国中已失、而復従倭来、刊行于世。凡倭板文字、皆字画斉整、非我之比。其俗可見。
(中略)
 近聞、有忠義之士、憤東武之雄剛、西京之衰弱、欲有所為、名位不達、匹夫無所施。 西京者、倭皇所居。東武者、関伯所居云。
 前此、有山闇斎及其門人浅見斎者、議論激昂、以許魯斎仕元為非。蓋有為而発也、未嘗応諸侯徴辟(以下略)
【大意】
 日本は海の中に孤立した島国だが、開国以来の歴史は古く、漢文の古典や書籍がそろっている。朱子の門人である陳北渓が書いた朱子学の用語集『性理字義』や、漢字の音韻についての専門書『三韻通考』などは、倭から輸入して手に入れた本である。わが国の高麗時代の文人・李奎報の詩文集『李相国集』も、わが国では失われてしまったので、倭から逆輸入して刊行し、再び世の中に出回るようになったのである。倭の木版本の文字は、どれも字画が端正できれいであり、わが国の本の文字が乱雑なのとは比べものにならない。倭の民度の高さには、見るべきものがある。
(中略)
 近ごろ聞くところによると、倭の忠義の士たちは、「東武」(江戸のこと)が盛強なのに「西京」(京都のこと)が衰微していることに憤り、何か事を起こそうと考えているが、地位も名声もないため、どうすることもできない、という状況らしい。西京とは、「倭皇」(天皇に対する朝鮮側の呼称)がいる場所である。東武とは、関伯(江戸幕府の将軍に対する朝鮮側の呼称)がいる場所。
 以前、山崎闇斎と、その門人の「浅見斎」(正しくは、浅見絅斎)という者がいて、尊王論について激しい議論を展開した。かつて中国の儒学者・許衡(許魯斎)は、自国を滅ぼしたモンゴル人の元王朝に仕えた。浅見らは、許衡の態度は間違っている、と批判した。彼らは、諸侯から招かれても出仕しようとせず、浪人のままだった。(以下略)
※尊皇思想家の高山彦九郎(たかやま ひこくろう、1747−1793)が活躍するより前に、朝鮮の李瀷は日本の尊皇思想家の動向を正確に把握していた。


○その他


05/23 外国人が見た日本と東アジア
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lQZCZdxTisigGHbSI1z_-c

 明治維新は、ある日突然に来たわけではありません。お茶の水の「ニコライ堂」で有名なニコライは、知日派のロシア人でしたが、もし仮にペリーの黒船が来なかったとしても江戸時代は終わり日本は近代に突入したはず、と指摘しています。朝鮮王朝の実学者である李ヨク(ヨクはサンズイの右横に「翼」。1681-1763)は、儒教的な序列意識に固まった他の朝鮮知識人とは一線を画し、日本の文化レベルの高さと勤皇の精神を高く評価し、200年後の明治維新を予測する分析を書き残しています。トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒ・シュリーマンは、世界旅行の途中で幕末の日本と中国を訪れ、日本を中国より高く評価し、日本は物質文明の面では西洋に匹敵する文明国だが精神文明の面では全く文明的ではない、と批判しました。意外ですが、日本は江戸時代のはじめと最後では、全く別の国といってよいほど違う国になっており、明治維新はその延長上にあったのです。江戸時代の日本を冷静に分析した外国人の目を通して歴史を見直すと、新たな日本と世界が見えてきます。
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○西洋人の日本についての著作の例
https://drive.google.com/file/d/1nCjWmdNceodmzgkcpGGH8d6EwCIOz5gcdummy https://drive.google.com/file/d/1ogiumHBmMB8sypZXYr5XT7MwzvHsgTaRdummy

○鎖国時代の外国人と日本について近年の書籍からの引用

タイモン・スクリーチ著 村山和裕訳『江戸の英吉利熱 ―ロンドン橋とロンドン時計』
講談社選書メチエ 単行本: 254ページ ISBN-10: 4062583526  ISBN-13: 978-4062583527  発売日: 2006/01

p.17
 江戸時代には英国に対する呼称はいくつもあったが、ポルトガル語の発音に由来する「アンゲリア」が一般的で、アンゲリアのアンは「諳」で書くケースが多かった。三浦按針の表記は実は「三浦諳人」なのではないかと私は考えている。

p.25
 ジョン・セーリスは江戸への道々、子供たちが彼を追いかけながらcore core cocore ware (コレ コレ ココレ ワレ)と叫んでいたという出来事を、子供の叫びをそのままローマ字にしながら記している。セーリスはこれが「高麗人の心は悪い」という意味であることを理解している。当時の子供たちも、イギリス人と高麗人の区別がつなかいとはかなりの外国人音痴である。逆に、商館のあった平戸では外国人についての知識もかなり持っていたようだ。

p.30
 ヨーロッパ人はみな「大名」をkingであると思っていたのでそう呼び、kingを支配する「将軍」をemperorであると思っていたのである。

pp.32-33
 イギリス人は羊毛と火薬の二種類の商品を日本に売り込もうとした。
 しかし布類の輸出は日本では順調に進まなかった。日本には流行(ファッション)という問題があった。流行という概念は当時のヨーロッパではまだ一般的でなかった。昨年売れた物が今年は売れないという現象に、イギリス人は思いきり面食らったのである。

pp.35-37
 大坂の陣の前、家康は鉛や火薬をひそかに買いあさった。豊臣側はまだ気づかなかった。関東では銃弾が関西より30パーセントも高く売れた。後に豊臣側もようやく気づき、関西での火薬の価格は5倍に高騰した。イギリスの商人はこの戦争で大もうけをした。

p.40
 江戸時代の記憶に残るイギリス像を考えるうえで重要な事実。イギリスは自らの意思で日本を離れることを決定した。スペインやポルトガルと違って、恐怖と憎悪の果てに追放されたわけではなかった。

p.49
 チャールズ二世の妻、キャサリンはポルトガル人だった。幕府はポルトガルを嫌っていた。イギリスは幕府に貿易再開を懇願したが、イギリス国王がポルトガルの王女と結婚しているというただそれだけの理由で、イギリス製品の輸入を拒否した。

p.51
 1703年、ロンドンでは十歳代の若い王子の到来という事件が起きる。台湾でイエズス会に誘拐されて逃れてきたというのである。もちろんこれはでっち上げであった。しばらくはスキャンダルを巻き起こして有名人だった。後に、その人物の正体は、ジョージ・サルマナザールという中近東出身者であることが暴かれた。彼は1763年まで生きていた。

p.52
 京の医師、橘南谿(たちばななんけい)の憂慮。
 唐土ではいろいろな貨物を三段階に分ける。最上の物は西洋貨と称して、唐土より西の国々に渡す。天竺、イギリス、イスハンヤ、オランダなど、何でも高価で上等な品物を喜ぶからである。中品は唐土で商う。最下品を東洋貨と称して日本へ渡すという。日本はただ価格が安いものを喜ぶからだ、ということである。

p.57
 オランダやイギリスの東インド会社は、日本製の武器類をアジア市場で販売することによっても利益をあげていた。

p.61
 アムステルダムの画家、バルトローウス・ブレーンバーグが、1632年に「投石を受けるステファノ」を描いた絵「石もて追われる聖ステファノ」がある。ステファノはキリスト教の最初の殉教者である。絵を見ると、なぜか日本の日傘も描かれている。当時は日本ではキリスト教の弾圧が広まっていた時代であった。

pp.75-76
 一六一三年六月一〇日、セーリスの乗ったグローブ号が、イギリス船としてはじめて日本に到着した。船は平戸に曳航された。大勢の男女が乗船してきた。セーリスは「何人かの身分の高い婦人」を自分の船室に招待した。船室には「非常に猥褻に表現されている」ヴィーナスの絵が掛かっていた。これは日本人が初めて見たイギリス絵画であり、初のエロティカだった。この絵を見た日本女性たちは「ひれ伏して拝んでいた。聖母マリアと思ったのであろう。非常なる信心深さをあらわにした」。彼女たちは小声で、周囲に聞かれないようにそっと自分たちがクリスチャンであることを付け加えたという。

p.81
 セーリスの会社に対する進言。
猥褻な絵を何点か、そして地上と海上の戦の場面を描いた絵を何点か送るべきだ。サイズは大きければ大きいほど良い」。セーリスはこれらが二〇〇から三〇〇マス(七・五ポンド前後)で売れるだろうと試算している。

pp.83-84
 イギリスの商品としては例外的に、エロティックな絵画は日本で完売となった。残念ながら、現在の日本ではそれらの現存が一枚も確認できない。

pp.84-89
 セーリスの時代のロンドンは、ピューリタン政権下であり、ポルノグラフィーは非常に手に入りにくかった。東インド会社社長は、長い航海中の慰みのために船員が船上で個人的にポルノグラフィーを所有することは黙認していたらしいが、バレれば問題となった。
 セーリスは、こっそり日本で大量の枕絵を購入した。プリマスに到着したとき、トランクの中には枕絵が大量にしまい込まれていた。これらは会社に見つかり、公的な場で焼却された。セーリスはこのスキャンダルをきりぬけ、失職をまぬかれた。
 これほど初期の枕絵や好色本は日本にも現存しておらず、もし彼の絵が残っていたら現存する世界最古の枕絵となっていたはずであった。

p.130
 一八二二年の参府を率いたカピタンのフィッセルは江戸に到着するなり「この町はどういうわけかロンドンを思い出させる」と言っている。

p.131
 一六一七年、コックスはジャワにいる東インド会社の役人にあてた手紙で、大阪と堺は「二つの都市であり、それぞれがほとんどロンドンの大きさほどもある」と報告している。

p.154
 東京の八重洲という地名は、ヤン・ヨーステンというオランダ人が家康から土地を与えられたことに由来する。ロンドンの終着駅の一つユーストン駅も、ヨーステンというオランダの人名に由来するが、これは中世後半にこの地の領主となったオランダ人で、ヤン・ヨーステンとは別人である。


タイモン・スクリーチ 高山宏訳 『大江戸異人往来』丸善ブックス、1995年11 月、ISBN 4-621-06036-8

p.56
 長崎のオランダ商館のトップの三人、商館長と医師と書記は、年ごとに江戸に参府した。商館の三人の人間を警護する日本人約二百名で、人々は街道に鈴なりになった。
 帰路ははるかに呑気な旅で、京都では観光を楽しんだ。三十三間堂と大仏が彼らのお気に入りだった。トゥーンベリは大坂について「この町は日本一愉しき所にて、パリがヨーロッパに占める位置を日本に於いて占めて居ると云うべく、歓楽の種の尽きることはさらになし」と記している。商館員たちはあちこちに足を運び、芝居や踊りを見て楽しんだ。

p.67
 「サラセン」号の英国人たちが排泄するのが、日本式にかがむやりかたと違うのを見た日本人の記録。

 打藁の如きものを以て肛門を拭、其拭いたるものを捨てず、股下のボタンをはずし入直、再び用て後は、洗いて日に乾し再三用うと云

p.84
 大田南畝は『一話一言』で次のように記した。

 但おらんだ人もむかしより長崎にて死たる者いくつといふ数をしらねども、終に蘭人の幽霊現じたる沙汰なし。

pp.99-100
 一七八三年からしばらく長崎に逗留した旅人、古河古松軒の勘定では、彼のいた期間に三十五人ほどの遊女が出島に呼ばれていったという。日本人の男たちは、阿蘭陀行(おらんだゆき)の遊女たちが西洋人と心から楽しくつきあっているわけではないと思いたがったようで、古松軒の『西遊雑記』にも「遊女も紅毛やしきの行事は大いに嫌い、外聞あしく思うことながらも、公儀よりの御定故に無是非行事なり」などと記している。
 娼妓の揚代(あげだい)は高く、オランダ人たちの懐にはつらかったようだ。不足分あるいは贈り物としてよく砂糖が手渡された。売春はよく密輸の隠れ蓑にもなった。トゥーンベリは「彼女らの禁制破りは巧妙を極めることが多く、小さな物なら陰部や髪の毛に隠した」と記している。

p.103
 一七七九年、ある夜遅く、たまたま出島にやってきた唐人番、番鴨池は、輸出されるばかりになっていたガラス絵の間に何枚かの春画のビイドロ絵板(ガラスえ) を発見した。さっそく長崎奉行が呼び出されたが、彼はポルノグラフィーの輸出を格別規制していなかったので事なきを得た。もっとも後に御禁制品となった。

p.104
 佐藤中陵は、甲必丹がこう言うのを耳にした。

 我が国を出る時、我が母、我を送り出て云く、其方に於て別に心遣いはなけれども、爾が日本に至りて遊女を求めて悪疾を受く事を恐る。

 日本人は日本人で梅毒のことを「なんばん」とか「南蛮瘡(なんばんかさ)」と呼んでいたというから、皮肉な話である。

p.107
 当時最大の蘭和辞典『長崎(ルビ ドゥーフ)ハルマ』(一八三三)の編纂に名を残す甲必丹ヘンドリック・ドゥーフ(「ヅーフ」)は、いっぺんに十二人の娼妓を出島に呼ぶなど女好きでも名を馳せたが、やっぱり子供ができた。

pp.109-110
 フルスヘッキなるオランダ人が遊妓若浦に手をつけて一七五六年夏に「きり」という娘が生まれた。彼女は三十歳になってもなお遊女としてやっていたが、一七八九年には突如、娼家から失踪し、徹底した追及にもかかわらず二度と姿を見せなかった。おそらくフルスヘッキが娘の国外脱出を画策したものに違いない。

p.115
 男色は「薩摩好み」とも呼ばれたが、どうやら九州が一番の本場だと信じられていた。長崎もまた九州の地にあった。
 トゥーンベリは長崎で「毎日」桂川甫周と会い、二人で「深更まで」いたという。時に甫周は二十五歳。ほんの八歳だけ年上のスウェーデン医師はその甫周のことを「若く善良、溌剌として明敏」と言い「わが愛(まな)弟子」と評している。トゥーンベリの帰国後も二人の文通は久しく続いた。
 蘭学者たちの集まりのいくつかは今なら「ゲイ」と呼ぶたぐいの世界であったことも忘れてはならない。長崎と江戸の両方でしきりとヨーロッパ人のもとに足を運んだ平賀源内は生前「女嫌い」で通っていた。

p.126
 桃山時代には日本にもパン屋があって、しかもけっこうおいしかった。リスボンのパンなどよりよほどうまいというので夢中になったイエズス会の宣教師がいるほどである。それらの店は異国の人間にも売ったが、日本人にも売った。十八世紀、長崎にもいくつかパン屋があって、出島に品を届けた。



白石 広子 (著) 『長崎出島の遊女』 副題 近代への窓を開いた女たち
勉誠出版 (2005/04) (智慧の海叢書) ISBN-10: 4585071113 ISBN-13: 978-4585071112

pp.3-29
 パリ国立図書館蔵の『蛮館図』は、楢崎宗重氏が昭和61年にパリを訪れて発見した絵だが、画家は石崎融思(1768〜1846)と言われている。立正大学情報メディアセンター田中文庫蔵『長崎阿蘭陀船出島絵巻』は田中啓爾氏が昭和初年(1925)に古書入札で入手した白描画だが、照合の結果、『蛮館図』の下絵であることがわかった。
 下絵である『長崎阿蘭陀船出島絵巻』にはオランダ人に交じって多数の遊女が描かれているが、完成品として海外に渡った『蛮館図』からは遊女の姿が消されている。
 『蛮館図』は、1793〜1797年にカピタンであったゲイスベルト・ヘムミーGijsbert Hemmij に贈られたものである。『蛮館図』は綴じになっている冊子だが、その表紙には「暦数 一千七百九十七年、十一月十一日於出嶋 書之 ゲイスベルト・ヘムミー」と墨書してあったということである。
 ヘムミーは1798年に江戸参府旅行の帰路、掛川にて客死した。その経緯は庄司三男氏の論文「和蘭商館長ヘースベルト・ヘムミー」(『蘭学資料研究会』第一一八号)に詳しい。
 『長崎名勝図絵』(『長崎文献叢書』)によると、寛政四年(1792 )壬子年七月、カピタンとして渡来したゲイスベルト・ヘムミーは、寄合町油屋利十郎抱の遊女花の戸、同町京屋茂八抱の遊女常葉などを、出島に呼入れていた。彼は日本の風俗を好み、あるとき、内島勾当を招いて鍼治療をさせたことがあったが、内島が三絃の妙手であることを聞いていたので懇望して演奏させ、すっかり三絃に感激した。そこでリウベン、バンシャルという二人の黒坊(原文ママ)にこれを習わせ、二人が上達したのち、西洋音楽と合奏させて酒興をそえたという。
 黒坊が楽器を演奏したという姿は『蛮館図』の「蛮曾飲宴図」に描かれている。

pp.82-83
 古賀十二郎氏の『丸山遊女と唐紅毛人』は、遊女とオランダ人の交流についてさまざまな実例をあげている。
 マルティン・レメイというオランダ人の外科医が、1659年晩秋、たった三日の馴染みの遊女に恋慕して自殺まがいの騒ぎを起こした顛末も、詳しく載っている。


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