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寛政十二年遠州漂着唐船「萬勝号」について(明清楽資料庫) 附:「十八摸」

最新の更新 2010-8-17

 1801年1月18日未明。
 現在の静岡県磐田市福田(ふくで)漁港から静岡県袋井市湊にかけての海岸の沖合で、寧波商船「万勝号」が座礁した。
 その後、乗っていた八十数名の唐人は上陸し、日本側の役人の監視下に置かれた。
 当時としては大事件で、江戸でも瓦版が出た。滝沢馬琴も、随筆でこの事件について書き残している。
 鎖国時代であったこともあり、日本側は、唐人たちについて綿密な調査を行い、詳細な記録を残した。
 これは期せずして、当時の中国商船の船員の文化・風俗習慣・出身地などについての第一級の史料となった。
 船員たちが船旅の慰みに持っていた楽器や、唄の歌詞と楽譜の断片までもが、日本人によって記録されていた。

 一説に、清楽「九連環」も、万勝号の船員が収容先で唄っていたものを、地元の人々が耳で聞き覚えたものであるという。

参考 月刊『中国語ジャーナル』連載記事 遠州漂着唐船「万勝号」のこと

 この写真は、2008年1月19日、福田漁港にて撮影。江戸時代の海岸線は今よりも内陸だった。

滝沢馬琴『著作堂一夕話』
 吉川弘文館『日本随筆大成 第一期・第10巻』(平成5年10月1日新装版第一刷)pp.310-315より

漢字馬琴連山寧波語
ゴ   ŋo (ンゴー)
テ テ tiɪʔ (ティーッ)
カンカンkʼi (キー)
  スウ
キウキウʨiʏ (チー)
レンレン
クワンクワンguɛ (グエ)
ツアンシャンsɔ~ (ソオー)(鼻音化)
カイキャイka (カア)
コユツカ kɐʔ (カアッ)
スイジュイzɥ (ズユィ)
インジン〓iŋ (ニン)
参考:李栄主編『寧波方言詞典』江蘇教育出版社(南京市)1997年
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○紅毛人(おらんだじん)の墓(はか)舶人(はくじん)の歌曲(かきよく)
 遠州掛川(ゑんしうかけがは)、転念寺(てんねんじ)本堂(ほんだう)の前(まへ)、西のかたに紅毛人(おらんだじん)の墓(はか)あり。高サ二尺ばかり、幅(はゝ゛)五尺に二尺四五寸もあるべし。上は蒲鉾形(かまぼこなり)にして長櫃(ながひつ)の蓋(ふた)をふせたるごとし。四方に石垣(いしがき)をして施主(せしゅ)大通辞(だいつうじ)某(それ)の姓名を刻す。墓誌は阿蘭陀(おらんだ)字(もじ)なり。五六年前紅毛人(おらんだじん)旅中(りよちう)こゝに歿(ぼつ)す、これも東海道(とうかいだう)のうちにしてはめづらし。亦寛政十二年十二月十二日、大清(たいしん)寧波府(ねいはふ)の舶人(はくじん)劉然乙等(りうぜんをつら)、その徒(と)八十六人、遠州袖志(そでし)が浦[割註]去掛川三里許。」に漂着(ひやうちやく)す。彼地(かのち)に逗留(とうりう)のうち、清人等(しんひとら)がうたひし曲子(こうた)あり。掛河(ママ)の人耳熟(じじゅく)して唄(うた)ひきかせたり。はなはだ興(きよう)あり。その曲(きよく)、魚鼓(ぎよこ)のごときものをうちならして囃(はや)すといふ。両三章(せう)こゝに録(ろく)す。唱歌(せうか)此方の潮来曲(いたこぶし)といふものに似(に)たり。

我的吓、感郎的(ゴ テ カ カン ラン テ)。呀々有(ヤア 〱 ユウ)。呀吓(ヤア カ)。呀々有(ヤア 〱 ユウ)。 看看吓(カン カン カ)。送奴個九連環(ソン ヌ コ キウ レン クワン)。 九吓(キウ カ)。九連環。 双手拿来解不開(ツアン シユ ナア ライ カイ プ カイ)。 奴把刀児割々不断了(ヌ ハ タウ ル コユツ 〱 プ タンリヨウ)。呀々有々(ヤア ヤア ユウ 〱)。[割註] 我的はわれにて、的は助字なり。吓は節(ふし)なり。感はかんしんと云までにて、郎的は思ふをとこをいふ。その男のこゝろやきりやうをかんしんして見とれてゐたれば、男のかたよりちゑのわをといて見よとておくれり。これを両の手してもち帰りとけども〱なか〱とけず。小刀をもて切とかんとすれども、いよ〱切はなれぬといふて、ふたりが中(ママ)のはなれがたきにたとへたり。九連環はちゑの輪なり。又呀々有々は曲をたすくるの章句にしてべちにこゝろなし。」

誰人吓解奴的(スイ イン カ カイ ヌ テ)九連環九吓九連環(キウ カ キウ レン クワン)奴就与他做夫妻(ヌ ズ イ タ サ フ チ)他們是个男(タ メン シ コ ナン)々子僕了(〱 ツウ パン リヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 前章のその二なり。たれかこのちゑのわをとき得べき。もしとく人もあるならば、われは思ふをとこをすてゝほかの男と夫婦になるべしといふて、たれがときてもとけぬところをあつくいふなり。僕は漢のあやまりなるべし。」

哥々吓(カヲ 〱 カ)住城的妹住船(ヂウ セン テ マイ チウ セン)妹吓妹住船(マイ カ マイ チウ セン)雖然与儞隔不遠(スイ ゼン イ コオ カツ プ ヱン)閉了城門難(ヒン リヨウ セン メン ナン)々得見了(〱 テ ケンリヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 哥哥は兄といふにおなじ。こゝにはおもふ男をいふ。妹は妾といふにおなじ。 君は城中にあり、わらはゝ船中に住す。そのみちとほからずといへども城門のへだてあればあふことのかたきをかなしむとなり。水浜浮君の恋ともいふべし。」

変変吓(ケン 〱 カ)鳥的飛上天(ニヤウ ル プイ シヤン テン)飛吓飛上天(プイ カ プイ シヤン テン)[口其][口票][口瓜][口魯]滾了来(キ ル ク ロ クオンリヨウ ライ)還有一個重(クワン ユウ イ コ チヨン)々相会了(〱 スヤン クワイリヨウ)呀々有々(ヤア 〱 ユウ 〱)。[割註] 前章の二也。かく城門のへだてあればとりにへんじて天にのぼり思ふまゝにあふことを得ばつねにこがるゝこともなく日にいくたびもあひみんとなり。」

掛川下復(しもまた)町の大場氏より、哪哆(ふなぬし)劉然乙(りうぜんをつ)が書(かけ)る扇面を得たり。来舶人(らいはくじん)の書画(しよぐわ)奇(き)とするに足らねど、ちなみにこゝに摹書(ぼしよ)す。



筆談の様子。↓絵図の下部、左側の唐人が「寧波船主」劉然乙(年四十二歳、杭州人)。

参考文献:
参考サイト:換暦 和暦と西暦、ユリウス日等を自動換算。


漂着者が演奏した「十八摸」の楽譜(工尺譜)と
唐人が使っていた単語の発音(一部、福建語)


 唐人橋(とうじんばし)。
 静岡県磐田市の太田川にかかる豊浜橋から、東に200メートルほどのところにある。
 現在は狭い溝にすぎないが、江戸時代には、この川の幅は20メートル以上もあった。
 万勝号の唐人たちが無事に長崎に帰ったあと、破損した万勝号の帆の木材を流用して、長大な橋をかけたという。
 江戸時代の長大な橋に使われた万勝号の木材は、現在、この橋から北西に200メートルほど離れた豊浜小学校の校舎内で展示されている(非公開)。
 なお、船主・劉然乙を含む唐人の半数が収容されていた大安寺は、この唐人橋から西に200メートルほど離れた、現在の豊浜橋の東側のたもとにあったが、1944年の東南海地震で倒壊した。大安寺の跡地は現在、民家になっている。

『寧波舩漂着始末日記』より
或時ハ此国にもて遊ふ浄瑠璃のよふ成ル事を語りければ、其同士は大勢集り面そふに見へけれ共、此方の者ハ一向解しかたく、寔に唐人の寝語とやらんなれ共、興に乗して座中余念なき躰見るに笑ひを止めかねける、其表題を尋ければ漢論記と唱へ、六十巻の書のよし、又小弓をひきて歌を唄ひ、拍子の板を入テはやしける、其うたの文に曰
    十八摸
  上尺工工上工尺 上尺四尺上四合
  合四上尺尺四上 尺尺四尺上四合
  四上合四四合   四四合
  尺尺四尺上四合 四合
此国にて馬鹿ものと笑ふ事をごんぺいといふ、文字を尋候へ痴人こんぺいとと書候よし、椀に食を高く盛ル事を只もりりと計り唱へ、大きなといふ事をとハひと云ひ、多葉粉をんと云ひ、きせるを煙筒といゝけり
一此方にて、ひとつふたつよりこゝノトヲとかそへ候を、一二サンシウグウムウシツハチキウシンと唱へ申候
一独身にて居るものをいんそら
一耳をにいひ、鼻をびいといゝける、茶釜をとんこと唱へけり
一焚出し方に箸を入れし袋の上書を見テ、ヒウヒンセンと読候よし


『清風雅唱 外編』(1888)より

近代デジタルライブラリーのこちらの頁
【加藤徹注】「十八摸」は、若い女子の身体の各部分を撫でてゆき次第に下半身に到る…という卑猥な歌詞の歌で、現在も中国各地の芸能の中に残っている。
 日本へも清楽曲として伝わった。『清風柱礎』『清風雅唱 外編』は「十八摸」とし、『清楽曲牌雅譜』『清楽詞譜和解』は「蕩舟十八摸」とする。旋律は「櫓歌」と類似。歌詞の内容は卑猥である。
 中西啓・塚原ヒロ子『月琴新譜』p.95脚注では「「十八摸」は「蕩舟十八摸」とは別曲」と記述しているが、少なくとも清楽曲における「十八摸」は「蕩舟十八摸」と同系の曲であるので、単純に「別曲」であるとは言い切れない。
 ともあれ、『寧波舩漂着始末日記』に載せる「十八摸」の工尺譜は、『清楽曲牌雅譜』や『清風雅唱 外編』に載せる清楽系の「十八摸」の工尺譜とは全く違い、別の曲である。

参考:『揚州老行当』より
小唄の芸人の絵図

唱小曲、句調熟。 「鬧五更」与「十八摸」。一隻胡琴咿咿唖。 一遍聴過無還覆。小曲従来最導淫。傷風敗俗害人心。 長官何不厳申禁。滅尽街頭鄭衛音。

小曲を唱い、句調熟す。 「鬧五更」と「十八摸」、一隻の胡琴、咿咿唖たり。 一遍聴き過して還覆する無し。小曲従来最も淫を導く。風を傷め俗を敗り、人心を害す。 長官、何ぞ厳しく禁を申し、街頭の鄭衛の音を滅し尽くさざる。

※風俗を乱すみだらな小唄の代表として「鬧五更」と「十八摸」が挙げられている。

劉然乙と長崎丸山遊女の関係。
本間春伯が「唐浄瑠璃本」を劉然乙に貸与。

『寧波商舩漂着雑記』より
長崎ヘハ、十二三度モ来シト語ル故ニ、本邦ノ詞ニ通シ、和人ニ対シテハ、日本詞ヲツカフナリ、殊更、長崎丸山ノ遊君ニナジミケル、疋田屋ノ姫菊ト云ニ劉然乙ナジミ居ケル由也、汪晴川ハ、相州屋ノ亀菊ト云ニナジミ、陳諸和ハ、筑後屋ノ恋菊ニナジミタル由、物語リシケル也、劉然乙ハ、唯故郷ノコトノミ案シ、鬱々トシテ、折々ハため息ヲ致シ、至テ心痛ノ躰ヲ春伯見テ気ノ毒ニ思ヒ、往年長崎ニテ得タリシ唐浄瑠璃本ヲ、掛川宅ヨリトリヨセ、慰ニモガナトテ借シケレバ、劉然乙大ニ悦ヒ、折々ハ、小声ニテカタリケル、和ノ浄ルリトハ大ニ事カハリシモノナリ、


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