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書籍『長崎唐人屋敷』読書メモ

2008.1.14
山本紀綱『長崎唐人屋敷』(謙光社 昭和58年2月1日刊)ISBN 4-905864-45-3

p227 『日本砕語』別名『袖海編』、『外国人の見た日本』
 汪鵬、浙江省銭塘の出身、字は翼滄、竹里山人と号す。汪鵬は乾隆29年(明和元年、1764)長崎に渡来し、唐館内に在留して、『日本砕語』別名『袖海編』という見聞記を残した。天明3年(1783)長崎で死去。『小方壺斎輿地叢書』第十巻に収められているが、『長崎県史』史料編第三はその実藤恵秀氏の邦訳(『外国人の見た日本』第一冊、昭和37年、筑摩書房)を載せている。実に貴重な体験記事が多い。

p283-284 唐人踊
 毎年、春二月の初頃、唐人屋敷内の土(后)神祠(土地神)の祭の際に行われる。だいたい二月二日を祭祀の日として、前後、二、三日の間はこの祭礼で賑わった。廟の前に高大な戯台を設け、在館の唐人中の戯劇に堪能な者たちが様々の扮装をして、笛・銅鑼・拍板・喇叭・小鑼(俗にチャンチャンという)・提琴(コキウ)・三絃(蛇皮線)などの楽器の演奏につれて、舞台の上に出て歌舞をするのであった。長崎ではこれを俗に「唐人芝居」と称し、また長崎人は、唐人屋敷で行われた唐人芝居をも唐人踊と呼んでいたという。
越中哲也註解『長崎古今集覧名勝図絵』
  長崎古今集覧名勝図絵 / 石崎融思(1768-1846) [著] 越中哲也註解
  長崎文献社 , 1975.9  形態事項 350p ; 22cm
  長崎文献叢書 第2集 ; 第1巻//b
   明治大学図書館 中央書庫 請求番号081.7/32//H 資料ID17701279X
の唐人踊図の解説によると、歌詞は当時、大いに流行していた九連環であり、時として唐館を出ることを許される唐人たちは、丸山遊女を料亭に呼び、月琴、胡弓の合奏で故国の歌を唄い、大いに散在した。その「唐人踊図」を見ると、三人の唐人が遊女らに囲まれて、唐人一人が踊り、一人が月琴を弾き、一人が手拍子を打って唄い、遊女の中の一人が胡弓を弾いている。歌詞の中国語も図に書いてある。
 唐人踊のなかには、長崎人によって関東方面にまで伝え識られている、月琴につれて踊る九連環の"看々踊"などもある。
 また韃靼踊・唐子踊などは諏訪神事踊として世に謳われていた。
 唐人屋敷で催される唐人踊(戯劇)には、長崎奉行や諸役人らが招待されて見物することもあった。
 長崎奉行筒井和泉守(政憲)は、唐人屋敷に赴いて観劇し、一詩を賦してその感想を陳べている。
    唐館看戯  トウカンにてギをみる
          鎮台 筒井君(和泉守号鑾渓)
  酒気満堂春意深  シュキ ドウにみち シュンイふかし
   一場演劇豁胸袗  イチジョウのエンゲキ キョウシンをひらく
   同情異語難暢達  ドウジョウ イゴ チョウタツしがたし
   唯有咲容通欵心 ただショウヨウ(=笑容)のカンシン(=款?心)をツウずるあるのみ
 また文化元年(1804)九月から翌二年十月まで、長崎奉行所支配勘定役として長崎に滞在した太(ママ)田直次郎(蜀山人)が(大田南畝のこと──加藤)、その著『瓊浦雑綴(けいほざってい)』に唐人屋敷の舞台を描いた記事(文化二年二月二日=1805年3月2日)を載せているのは有名である。
   「瓊浦雑綴」「瓊浦又綴」→『大田南畝全集』第8巻 岩波書店 ISBN:4-00-091048-5 明治大学和泉書庫918/450//W

p304 唐人は元来が歌舞音曲とか宴会が好きな国民であって、その上、遊女とはいうものの女性との交情もある程度は自由であったから、極端な言い方をするならば、その在留期間(ふつう三ヶ月から六ヶ月)のあいだは、商売と遊興にあけくれて、それ以外は「没法子」の境地に徹せざるをえなかったとも考えられる。もちろん例外もあるだろうが。『日本砕語』の著者である汪鵬が「長崎に、換心山、落魂橋のあるのもなるほどとうなづかれる」と言ったように、長崎に来た唐商らは、心が変わり魂が抜けたように金を湯水のように酒色に使って、この一廓の生活を楽しむほかしかたがなかったのであろう。

p308 唐人部屋の広さは、大体において、一部屋27〜28坪、ないし30坪足らずであったようだ。二階には船主(頭)、脇船頭、財副、総管など一船の幹部たちと主な客唐人たちが住み、階下には一般乗組員らが入居していた。一般の唐人数からいうと、1坪あたり1〜2人ということになり、乗組員が多いときはさらに窮屈になったようである。
 二船一室の混住は、盗難や騒擾防止の見地からも好ましくないとされ、一船一室の部屋割を至当ととしてたとみてよい(『唐通事会所目録』(七)、宝永4年6月10日の条)。

P311 唐人屋敷の単調な毎日の生活を慰める唯一の楽しみはどうしても飲食にあったので、唐人部屋のどこかで必ず毎日のように酒宴が開かれていた。

p314 『日本砕語』の著者・汪鵬は、唐人屋敷の遊女との宴会についての印象を次のように述べている。
「はなやかな宴席を一度設けるには、中流家庭の半年分の食費が消しとぶ。笑を買うためにかたむける金は、貧乏役人の数年のふち米にひとしい」

p316 『長崎随筆』によると、唐人屋敷の唐人たちは、奉行所の許可を得て、時折、崇福寺などの唐寺に参詣した。いわゆる「阿茶」さんの寺詣りは、市中遊覧を兼ねた菩提寺参詣であった。それゆえ、その行はきわめて豪奢をきわめ、参詣を終わるとともに、途中の御茶屋に寄って遊興するのを常とした。唐人屋敷以外で遊興することは公には許されていなかったが、寺詣りの際には、おおく黙認された。

p328 ときには長崎奉行以下奉行所役人らが、唐人の音曲や舞踊などを親しく見物することもあった。『唐通事会所目録』(八)宝永6年(1709)10月2日の条には、十八人の唐人たちに命じて、唐楽で南京歌をうたわせて聞いたり、[水章]州踊りを踊らせたりした。
 唐人は歌舞音曲に熱中したが、将軍近親者に不幸があった場合などは、しばしば当局から音曲停止を命じられた。

p334 唐人と長崎における傾城(遊女)に関する研究をまとめた文献は多くないが、幸いにして、
  古賀十二郎翁の労作『丸山遊女と唐紅毛人』前・後編二冊(長崎文献社 昭和43年 昭和44年)
が要領よくまとまっている。また同じ著者による
  『長崎市史』風俗編下巻、第拾章遊女−第1節丸山遊女、第2節混血児
などの項もよい。また
  福田忠昭氏の論文「唐人屋敷」
の中にも傾城の項がある。さらに、『長崎名勝図絵』『唐通事会所目録』『日本砕語』などにも長崎遊女関係の記述がある。

p336 唐人が唐人屋敷に居住を限られるようになってからも、丸山・寄合両町の遊女だけは構えの内に招かれて、行くことができた。

p337 『長崎市史』は、『長崎土産』を引いて、延宝年間の丸山花街の遊女や及び遊女の数は次のとおりであったという。
  丸山町 遊女屋30軒 遊女数335人(うち太夫69人)
  寄合町 遊女屋44軒 遊女数431人(うち太夫58人)

p340 遊女には、太夫、みせ(店を張る)女郎、並女郎という三つの階級があった。太夫は教養もあり、出島の蘭館などには出入りはしなかった。唐館行遊女の揚代は、元禄のころ、太夫は銀15匁、みせは10匁、並は5匁であった。揚代が最も値下がりした寛保2年(1742)以後には、太夫6匁、みせ・並3匁8分となり、それが幕末に及んだ。
 唐人らは遊女を「あんによ(阿娘)」後には「嫖子(ピャウツウ)」と呼び、文章などの文字では「妓」「妓女」などが使われた。また唐人は、禿を「小杉板(ショウサンパン)」、遣手(長崎では俗にヤッテと言った)を「老杉板(ロウサンパン)」と称した。

p341 遊女はその関係する相手によって、日本行、唐人行、阿蘭陀行などに区別して呼ばれた。唐人行という言葉は、町屋時代から唐人屋敷時代まで通じて用いられた。日本行の太夫は最も格式が高く、唐人行の太夫よりも容色や技能全般においてはるかに勝れ、その数も少なかった。

p342 唐人の町屋散宿時代には、唐人が月に五日も十日も遊女を町屋に呼び入れたり、遊女を出帆前に一ヶ月も二ヶ月も買い切る唐人もいた。唐人のなかには教養のある良い人物もおり、とくに南京人などは大いに歓迎されたという。

p344 元禄2年(1689)唐人屋敷が開設されてから正徳3年(1713)正月までの間は、遊女の唐人部屋寝泊まりは一夜に限られ、毎日、その出入りが改められていた。正徳3年2月と正徳5年6月の訓令によって、入館の遊女・禿は一夜に限らず、唐人の希望によって居続けすることを許されるようになった。

p346 遊女らの唐人屋敷および蘭館への出入改方の眼目が、抜け荷(密貿易)や金銀の隠れた流出を防止することにあった。
 役人が、遊女が局部に何かをかくしているのではないか、と疑った場合、彼女に股のあいだを少し広げさせ、何度も歩かせることさえあった。川柳にこんなのがある。「丸山に珊瑚珠を生む女あり」
 起請文の内容の一部。「一、唐・蘭人のもとに赴いた折、日本のことを尋ねられても、一言も申し述べないこと、またすべて異国の話も聞かないこと」

p355 遊女ではない、長崎町屋の子女たちのなかにも、遊女という名義だけを借りて入館して唐人の相手をすることを願うものが出てきた。これを「名付遊女」と称する。

p356 名付遊女のうち、相手の唐人を一人に限るものを、仕切遊女と言う。
 
p357 寛延のころ(1748〜1751)になると、唐人屋敷を巣窟として活躍する名付遊女・雇い禿その他の「紛女」(まぎれこんだ女)などはすでに120人余りもいて、一つの団体をなしており、唐人屋敷の役人たちもどうすることもできなくなっていたらしい。寛延4年(1751)3月、長崎奉行松浦河内守(信正)は、唐人屋敷の紛女の大検挙を断行した。

p359 遊女が唐人の子を妊娠したときは、直ちに町年寄にその旨を届け出しなければならない。出産した場合も同様である。相手の唐人も、胎児の父親であることを承認するむねを長崎奉行に届け出る必要がある。唐人の場合、胎児の承認についてはあまり紛糾は起こらなかったようである。
 分娩は遊女の親元で行われる場合もあれば、唐人屋敷内で生むこともあった。生まれた混血児は、唐人屋敷内で、父の唐人と母の遊女とで養育することが許されていた。しかし、混血児が父親である唐人なり蘭人なりにしたがって外国に渡航することは、厳禁されていた。
 混血児が死亡したときは、いかなる場合でも、検使(ママ)の役人や医師の立会によって死亡の確認が必要であった。

p367 来舶唐人と丸山遊女とのあいだに生まれた混血児は、母の実家籍に入り、日本風の姓名を名乗るしきたりであった。碩学・趙陶斎もそのような混血児であったが、当初は遊女であった母の実家の姓を名乗りたいと考えていたが、後年、みずから唐風の趙姓を用い、また陶斎という号を用いた。また、同様の混血児であった芝屋勝助は、有名な文士となったが、日本風の姓名を用いていた。

p374 高山輝と三味線
 宝暦3年12月10日(1754年1月3日)、八丈島に漂着した南京船の船主であった高山輝は、本国へ帰国後も長崎に渡来したとみえて、宝暦9年(1759)4月には他の唐人たちとともに日本三味線の購入を長崎奉行所から許され、同時に遊女らも三味線を唐人屋敷内に持ち込むことが認められたという(『唐人番日記』)。これは唐人屋敷内における遊女と唐人のあいだの歌舞音曲に、日本三味線が加えられて、ますます唐人と遊女の情交を濃やかにしたことを物語るものであろう。

p375-376 陸明斎と浄瑠璃 →長崎名勝図絵

p376 孟涵九の仮名書き →長崎名勝図絵

p378-379
 唐船主の江芸閣は、寄合町引田屋抱の遊女・袖咲(袖笑)とのあいだに混血児・八太郎をもうけたが夭折した。
 頼山陽が文政元年5月中旬から8月初旬まで長崎滞在中、江芸閣(唐船主)に会うことを熱望していたが、その来舶が遅れそうであったので、彼のなじみであった袖笑を花月楼に招き、彼女に託して江芸閣をおもう感懐を残し、「戯代校書袖笑憶江辛夷」の一詩を詠んだという(『山陽詩鈔』)。頼山陽と丸山との関係は、彼の父頼春水が壮年時代、来舶唐人と丸山遊女のあいだに生まれた文士趙陶斎の引き立てをうけてわが文壇に認められたという因縁によるものではなかろうか。
 また江芸閣は、長崎に来遊した詩人梁川星巌とも会い、袖笑を交え詩を詠じて親しく交歓している。

p500
 沈燮菴(しんしょうあん)は杭州の儒士で、享保十二年(1727)十二月に来朝し、同十六年(1731)帰国した。「唐館」(崎陽十二景の一)と題して、唐人屋敷における唐人孤客が吹く笛の音のものさばしい調べを詠じている。
   孤客吹長笛 凄涼調更清 迎風声欲裂 海底青竜驚 (清詩絶句鈔)
 これに対しわが太田蜀山人(南畝)は、その心情を察してか、
   故郷をしのびしのびの笛の音にみぬもろこしのつてぞ聞ゆる
   ゆきかへりもろこし船のほどなきになほ故郷の遠きをぞしる
と歌っている。


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