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清楽名士録 + 長崎・唐館について(明清楽資料庫)

最新の更新2014-1-18



坂本竜馬と長崎の月琴

NHK大河ドラマ『篤姫』(あつひめ)第44回「龍馬死すとも」2008年11月2日放送

市川美日子氏が演ずるお龍(おりょう)が、鼻歌で清楽の曲を歌いつつ月琴を弾いていると、月琴の糸がプツリと切れ、龍馬暗殺の不吉を暗示するシーンがあります。

撮影で使用した月琴は、骨董品の本物の楽器(稲見氏蔵)。
あのシーンで弾いていた清楽の曲のタイトルは「十二紅」でした。

十二紅の旋律をMIDIで聴く
[簡素伴奏1]  [和音伴奏1]  [簡素伴奏2]  [和音伴奏2]

工尺譜は「近代デジタルライブラリー」の[こちら]
『清風雅唱 外編』(1888) 拡大↓

2001年3月4日(日)付『毎日新聞』日曜くらぶ「司馬遼太郎を歩く」「竜馬がゆく(5)」より摘録
→毎日新聞社刊『司馬遼太郎を歩く』(1)〜(3)
司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』では小曽根兄弟が一人の人物になってしまっているが、史実では、竜馬と深く関わったのは十三代の小曽根乾堂(けんどう。名は栄)と、四番目の弟の英太郎。
竜馬は、妻「おりょう」に月琴を習いたいとせがまれ、彼女を長崎に伴った。
長崎では、竜馬とおりょうは身を潜めるように、天領のはずれにある小曽根本宅にやっかいになった。おりょうは乾堂やその娘きくから月琴を教わった。
おりょうの月琴は今も小曽根家に残っている。
十七代の現当主・小曽根吉郎さんの言葉。
「長崎では月琴を男も女もやっていた。月琴は煎茶と一緒で東洋における教養の部分でした」。乾堂は月琴の名手だった。維新後、明治天皇・皇后両陛下の御前で、娘きくら一門とともに、月琴を披露している。乾堂は篆刻にも長じ、御璽・国璽を彫ったことでも有名である。


付録 幕末〜明治の月琴の流行ぶりについて


清楽名士録

亀井昭陽(1773−1836)
 亀井南溟の長子で、父の後を継ぎ福岡藩儒となった。福岡の人。諱はc、字は元鳳、通称c太郎、号は空石・月窟・天山遯者など。
 終生、娼妓の類に近づかず、厳格な儒学と難しい古文辞をもって名声の高かった亀井昭陽は、文政7年(1824)五月十一日、長崎から江戸へ向かう途中の遠山荷塘(一圭。詳しくは後述)の訪問を受けた。遠山荷塘は清楽の名手で、訪問の夜、月琴と胡琴を弾いて昭陽に聞かせた。昭陽はたちまち清楽に心酔し、以後、四ヶ月も遠山荷塘を自宅に引き留めて、家人や門人らとともに唐話や清楽を彼から学んだ。
  一圭禅師鼓月琴    イッケイゼンジ ゲッキンをコすれば
  使我肉飛眉舞忘肉味  われをして にくとび まゆまい にくのあじをわすれしむ
(慶應義塾大学斯道文庫蔵『昭陽先生文抄』所収『贈一圭上人等文』「謝一圭上人」)
 これ以降、亀井昭陽の家では、息子たちが唐話と『韻鏡』を学び、門人の今村北海(宰吉)が悉曇を学ぶかたわらで、昭陽の娘たちは清楽の小曲を学び、門生たちも「茉莉花」や「九連環」を歌い、「一畝之宮、殆変於夏」(家中がほとんど中国になってしまった。『贈一圭上人等文』「報山士繁書抄」其二)という状況になった。
 昭陽の長女「友」(一般には「少栞」という名で知られる)が女児を出産したときも、部屋の壁を一つへだてた外では清楽をにぎやかに演奏していた。それは産婦の希望でもあった。出産翌日の夕方、ある老人がよそから来た。ちょうどそのとき、昭陽の弟子の北海が、遠山荷塘とともに、「清平調」の詞を「越天楽」の節に合わせて「礼楽を作制するのだ」と遊んでいた。楽器の音と歌声があまりにうるさいので、よそから来た老人はビックリしたが、産婦である昭陽の長女はこれを聴きながら暢然として熟睡していた。
 このとき生まれた昭陽の孫娘は、昭陽から「紅染(こぞめ)」という雅名を与えられたが、その後、まだ日本語もしゃべれない幼い口で清楽「九連環」に出てくる「看看兮」「情過河」などの歌詞を口ずさみ、また大人がこの幼い孫娘に日本語で「耳は?」と言いかけても理解できないのに「夏音」(中国語の発音のこと)で「耳」と呼びかけるとかわいい指で自分の耳を指した。昭陽の家では、孫娘にまで、清楽と唐話の早期教育を施すようになっていた──という事情を、昭陽自身が、遠山荷塘にあてた書翰のなかで述べている。
 昭陽が清楽にのめりこんだ理由は、清楽が日本の三味線音楽にくらべれば「雅」であったこともあるが、同時代の民間音楽である清楽を学ぶことで唐話学習に役立て、生きた中国文化に触れる、という点にあった。彼自身の漢詩の言葉を引用すれば「民間に向かって実境を求め」る、というのが、清楽学習のコンセプトであった。
  人云琴曲近桑中 ひとはいう キンキョクはソウチュウにちかし と
  一笑冷然歌幾終 イッショウ レイゼンとして うたうこと ほとんど おわる
  不向民間求実境 ミンカンにむかってジッキョウをもとめずんば
  何能有得夏華風 なんぞよくウトクせん カカのフウ


遠山荷塘(=僧一圭、一圭禅師 1795−1831)
 信州の人。号は一圭。広瀬淡窓の咸宜園(大分県日田市)で学び、長崎では清客(主として蘇州人)から唐話、伝奇、詞曲、清楽などを学ぶ。後に江戸に出て、『水滸伝』『西廂記』などの伝奇を講じ、清楽を教授した。また江芸閣と名を並べて田能村竹田の詞集に評語を寄せた。三十七歳で病没。著書に『西廂記』『月琴考』『胡言漢語』など。
【参考論文】
青木正児「伝奇小説を講じ月琴を善くしたる遠山荷塘が伝の箋」
石崎又造「江戸に於ける唐話学及び俗文学の一斑」(石崎又造『近世日本に於ける支那俗語文学史』清水弘文堂書店、1940年初刊、1967年復刊)
岩城秀夫「僧一圭と亀井昭陽」(『森三樹三郎博士頌寿記念 東洋学論集』朋友書店、1979年)
徳田武「遠山荷塘と亀井昭陽」(『明治大学教養論集』1989年。後に徳田武著『江戸漢学の世界』ぺりかん社、1990年に収録)
中尾友香梨「亀井昭陽を魅了した清楽」(山田敬三先生古稀記念論集刊行会『南腔北調論集──中国文化の伝統と現代』山田敬三先生古稀記念、東方書店、2007年)


佐野宏(=佐野東庵。1795−1858)
 筑前甘木の人。町医者にして文人。号は東庵、竹原など。著書『梅西舎詩鈔』。長崎で清楽を学び、江戸の文人と広く交わった。
 幼名は善太郎。父は佐野茂七と言い、甘木町の大きな商家(佐野屋)の一族。赤ん坊の頃、子守に誤って地面に落とされて、右肩と首がくっついてしまったような不自由な体になり、生涯その障害を引きずる。十四歳で広瀬淡窓の塾(後の咸宜園)へ入塾。その後、漢詩を、広瀬淡窓と同じく福岡の亀井南冥に学んだ秋月の原古処から学ぶ。漢方医学や仏教・道教などを広島の医学者恵美三伯から、西洋医学を長崎の「鳴滝学舎」でドイツ人学者のシーボルトから学ぶ。また文人画を豊後竹田の田能村竹田から学ぶ。文政9年(1826)、各地での修行を終えて32歳になった東庵は、甘木高原町で町医者として開業。天保5年(1834)、東庵は甘木町で興行した七代目市川団十郎を庄屋町の宿舎に訪ね、甘木での町人歌舞伎の伝統(今の「盆俄」につながるもの)を語り、後に団十郎に愛用された「三桝かすりの浴衣(大中小の桝の模様のデザインを染めた木綿の浴衣)」を贈った。団十郎は東庵の人物と話に感銘を受け、翌年の甘木公演を約束し、その約束を果たした(市川団十郎一座は博多・長崎での興行の途中に甘木で公演を行った)。安政5年に64歳で死去。東庵の息子「佐野文洞」も広瀬淡窓の咸宜園に学んだ。
参考url:http://www.city.asakura.lg.jp/magazine/jinbutsu_shi/jinbutsu_shi_5.html
 亀井昭陽が、江戸に出仕していた甥(妹の子)の山口士繁に送った書翰に、次のような一節がある。
次郎曰「前日聞甘木人歌「九連」「茉莉」、故二曲殊覚妙々」。圭師曰「是必佐野宏者、貧道在長崎授之」。(慶應義塾大学斯道文庫蔵『昭陽先生文抄』所収『贈一圭上人等文』「復山士繁書抄」其三)
次郎(士繁の弟)が「以前、甘木の人が清楽の『九連環』『茉莉花』を歌うのを聞いたことがあります。だからこの二つの曲は、特に印象的です」と言うと、遠山荷塘さんは「それはきっと、佐野宏(佐野東庵)という者であろう。貧道(出家した人の自称)は長崎で彼に清楽を教えてあげたことがあります」と言った。


亀齢軒斗遠(1778〜? 嘉永二年以降に没)
 豊後竹田藩御客屋主人。挿花師。現存最古の清楽譜である『花月琴譜』(別名『亀齢琴譜』『月琴詞』)を天保3年(1831)ごろ刊行した。僧一圭が江戸で活躍したのに対して、斗遠は京阪を中心に活躍した。一圭が亀井昭陽の家を訪問した翌年には、斗遠も昭陽を訪問した。
【参考文献】
中野三敏「亀齢軒斗遠の前半生──天保の風流」(奥村三雄教授退官記念論文集刊行会編『奥村三雄教授退官記念国語学論集』桜楓社、1989年)
中野三敏「亀齢軒斗遠の後半生──天保の風流」(九州大学文学部『文学研究』第87輯、1990年)
中野三敏『江戸狂者傳』(中央公論新社、2007)

 以下『江戸狂者傳』からの摘録。
○p.439「正確には「松月堂古流第三世正統、亀齢軒斗遠」というのがその名乗りである。」
○pp.439-440「それを裏づけるその交友も筑前の亀井昭陽、肥後の辛島塩井、長瀬真幸、豊後の広瀬淡窓、田能村竹田といった九州文人に始まり、山陽路の各地の地名士を殆ど網羅して、大坂では篠崎小竹、広瀬旭荘の二儒、京では歌の加茂季鷹、詩の頼山陽と莫逆の交わりを持ち、来舶清客の江芸閣(こううんかく)とは丸山の宴にその愛妾袖笑(そでさき)と三人歓娯の談笑に明け暮れ、京洛三本松の楼上に月琴を弾じては臨終間近い山陽を慰め、その母梅颸(ばいし)の徒然を慰す、といった有様で(中略)この人物は、雅かと思えば俗、俗かと思えば雅、雅俗皮膜の間を泳ぎ抜けるような生活で、幇間的文化人の代表か、あるいは俗にまみれながらも自からを失わぬ雅人か、ともかく端倪すべからざる人物であることは確かである。」
○p.468「文政十二年、この年の斗遠の消息は、木崎愛吉編『頼山陽全伝』の日譜にあらわれる。即ち、
 七月六日 亀齢軒来見
 七月二十日 亀齢軒来見「月琴弦き、かつ話し、深夜まで居る」
 七月二十一日 亀齢軒又、月琴を奏す
 七月二十九日 亀齢軒来見「季鷹に頼みくれたる扇子持参(中略)長崎迄行くよし、郷里は豊後国とやら申す事」
と。しかし木崎氏の大著のどこにも、この亀齢軒の何者なるかについては記されていない。」
○p.469「尚、市島春城の『随筆頼山陽』は昭和十一年の改版に際して数項の補遺がなされているが、その内の「頼氏山陽の遺事」と題した一章中に、『三十六峰山陽外史遺墨』と題する、嘉永二年に斗遠が編刊した法帖一帖を詳しく紹介してある。その書内容の一々に関してはなお後にふれることにして、この中には月琴を通じての斗遠と山陽、梅颸との交情を物語る消息が多く含まれており、その一つに、梅颸と斗遠の連吟の和歌が記されている。
   初秋のよひ過る頃、亀齢ぬし訪らひ、月琴を弾、かつ下の句をうたひて、これにとのぞまれければ、
  その名おふ琴のしらべにひかれてや待しはつかの月も出けり
 また、この帖の題辞「天倪」の二字も山陽の揮毫であるが、これは山陽が斗遠の月琴の銘として撰んだものである旨、山陽の詩も引いてある。
  誰提蟾華裁王琴  団円影裏帯清音
  四絃如語語何事  碧海青天夜々心
     亀齢主人学月琴於清客 幾窮蘊底 故作此詩之 子成」
○p.470「扨、翌年は天保と改元する。その三年の秋、斗遠は今度は挿花図ではなく、得意の月琴譜を刊行した。『花月琴譜』という。
 半紙本一冊、天保二年二月十九日の清客沈萍香の跋と、同三年秋の文人公卿日野資愛の序を備え、柱刻には「亀齢琴譜」と刻する。刊記・奥附の類は見えない。初めに一越調と平調の楽譜を示し、以下「九連環」を首に十八曲の俗曲詞を連ねるのみの簡略なものだが、邦人の刊行する月琴の詞譜としては、恐らく初めてのものではあるまいか。沈萍香は本邦和歌の自作迄ある人で、山陽との交際の末、自ら山陽の門人と称した人でもあり、当時我国の文人との交友は極めて多かった。」

頼山陽
 工事中


鏑木渓庵
「デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説」より引用(2014.1.17閲覧)
鏑木渓庵 かぶらぎ-けいあん
1819−1870 江戸時代後期の清楽(しんがく)演奏家。
文政2年生まれ。鏑木雲潭の子。穎川(えがわ)連に中国清代の音楽の清楽をまなび,安政4年から江戸でおしえた。
6年編著の「清風雅譜」に自作の「渓庵流水」をおさめる。楽器の製作にもすぐれた。明治3年9月25日死去。52歳。江戸出身。名は徳胤。通称は卯三郎。
鏑木渓庵,長運寺,月琴,墓,清楽,明清楽  弊サイトで紹介している清楽譜も、渓庵を原著者とするものが多数あります。
 右の写真は、筆者が撮影した渓庵のお墓です。月琴をかたどった墓石の左横に、渓庵夫妻の墓石が別に立っています。
 このお墓は、慶應大学三田キャンパスのすぐ近くの、長運寺(港区三田4-1-9)にあります。
 墓石には「明治三年庚午/九月廿五日卒」「清楽煎茶社中建石」と刻んであります。
 清楽史上の偉人ですが、柳島の骨董会の帰り麹町永田町付近で辻斬りにあい、不慮の死を遂げました。
 合掌。

 
長崎唐人屋敷
唐人屋敷のなかで中国の三弦を弾く丸山遊女
長崎で日本文化を学んだ唐人。
【林有官】日本語に通じ、小哥をよく唄ったので、小哥八兵衛と渾名された。(『長崎名勝図絵』)
【陸明斎】乍甫の居宅も日本風につくり、食器や料理も日本風を学んで客をもてなし、大町という遊女から学んだ忠臣蔵の浄瑠璃を口ずさんだ。(『長崎名勝図絵』)
【孟涵九】日本のいろは仮名を学び、古歌などを臨模し、書を乞う者があれば書いて与えた。(『長崎名勝図絵』)
【陳驥官】小川町に仮居していたが、仮名を学び三十六人歌仙古歌集などを書き写した。(『長崎名勝図絵』)
【高山輝】遊女たちと日本三味線の演奏を楽しんだ。(『長崎唐人屋敷』)
比較参考 『江戸の英吉利熱』読書メモ

 右の絵は江戸時代の『長崎名勝図絵』の「館内唐人躍之図」。唐館(唐人屋敷)における舞台上演の様子である。
 舞台の内場の位置(上場門と下場門のあいだ)に、楽隊が並んですわっている。
 楽器は笛・銅鑼・拍板・喇叭・小銅鑼(俗称はチャンチャン)・太鼓・胡弓・三絃であった。
 右下の落款には「己卯冬日石崎融思照写」とある。己卯すなわち文政2年(1819)の冬に、画家の石崎融思(1768〜1846)が描いたもの。

 長崎の唐館では毎年春二月二日を祭祀の日として、館内の土神堂(右側に描かれている)の前に高大な舞台を設営して、前後、二、三日のあいだ演劇を奉納した。
 出演者や演奏者は、在館の唐人たちである。演目は中国本土と同じだった。なかでも「目連救母」は、演技が難しく、やりこなせる者が少なかったという。
 唐館内には「霊魂堂」などの施設もあり、怪談や心霊現象も多かったことが、日本人によって記録されている。
 日本人もしばしば唐館で観劇した。大田南畝(蜀山人)の『瓊浦雑綴』の観劇記は有名。
 →【読書メモ】『瓊浦雑綴』より、大田南畝の観劇記
 筒井政憲(1778〜1859)も、長崎奉行だったとき観劇し、その感想を漢詩に詠んだ。

     唐館看戯    トウカンにてギをみる
           鎮台 筒井君(和泉守号鑾渓)
   酒気満堂春意深  シュキ ドウにみち シュンイふかし
   一場演劇豁胸袗  イチジョウのエンゲキ キョウシンをひらく
   同情異語難暢達  ドウジョウ イゴ チョウタツしがたし
   唯有咲容通欵心  ただショウヨウ(=笑容)のカンシン(=款心)をツウずるあるのみ


 汪鵬の『日本砕語』(又名『袖海編』。小方壺斎輿地叢鈔、第十巻。明治大学 中央和装本 290.8/11//H)より。
汪鵬『袖海編』原文
『昭代叢書』
戊集続編巻第二十九より
「長崎は、またの名を瓊浦(たまのうら)という。まことに風土がすぐれて、山も川もうつくしい。ここに住む人は、中国の人とおなじように、かしこく、さとい。男女が結婚の時をうしなったり、しごとにあぶれたりすることがない。その教えは民を正しくするようになっている。いにしえの中国の道が、ずっとおこなわれているのである。むかしから周の礼をならい、孔子の書をよんでいるので、道徳があきらかになり、ものの順序がみだれず、すべての政事がうまくいっている。中国にまけないはずである。」
以上、岩生成一編『外国人の見た日本 第一巻』(筑摩書房、1962)p.164より引用(さねとう けいしゅう訳。)
 汪鵬は浙江省銭塘の出身で、字は翼滄、竹里山人と号す。生没年不詳。乾隆二十九年(1764年、明和元年)に長崎に来た。

以下、汪鵬『日本砕語』(上掲)より。
汪鵬『袖海編』原文

『昭代叢書』
戊集続編巻第二十九より
「なんでも、まえには、屋敷のうちで、神をよろこばすための芝居がえんぜられた。しばいをけいこするものは、そこで、相公廟をつくった。相公とは、福州人がいいだしたもので、いいつたえによれば、それは雷海青をまつったもの、かれは雨をとめ、田を保護したので、田相公とよばれた。そこで相公廟とよぶのだという。これは、あてにはならないけれども、雷海青のような忠義のひとが、神としてまつられるのは、あたりまえである。役者が、これを祖とするのは、もっともである。しばいの祖を老郎神とする説があるが、老郎神とは唐の玄宗皇帝のことで、それではあまり軽はずみで、さんせいしかねる。ちかごろ、すなわち乾隆二十七年壬午のとし、福建人どうしが、あいあらそい、鐘をならして人をあつめ、あわや大事におよぼうとした。奉行所にうったえたので、とらえて調べられた。すると、このそうどうは、しばいを教えるものが、しくんだのだということがわかった。そこで、そのひとをおいかえし、相公廟をこわし、そこが唐人部屋の敷地となった。これは雷海青にとって不幸なことであった。」
上掲『外国人の見た日本 第一巻』p.163-p.164

王連茂氏の論文「泉州の古典音楽と伝統劇及びその海外への普及」でも、以下のように言及されている。
「杭州人汪鵬は1764 年日本で唯一外国の商人の出入りを許していた港,長崎を訪れた。この地の「唐館」には閩南人が建てた廟があり, 祭った守護神も戯神(芝居の神)「田相公」(即ち「田都元帥」)だった。汪鵬の『袖海編』には1762 年にこの地で起こった事件についての記述がある。 「閩人同士の間で内輪もめ有り,鳴り物を鳴らして大勢集まり,不測の事態を招きそうだったので,役所に訴え,つかまえて取り調べた。 昼間梨園を教えたり習ったりしている者はこれを追放し,その廟も壊した。」これは閩南の伝統劇が長崎の唐館でも流行った事を証明している。」
 上記の王文茂氏の論文のPDFは
こちらのHPで読める。


参考:『長崎オランダ商館日記 第9巻』(雄松堂出版・全10巻)によると、1820年10月に出島でフランス喜劇『性急者』、オペレッタ『二人の漁師とミルク売り娘』、歌と踊りを混ぜたパントマイムなどを上演し、二人の長崎奉行(筒井和泉守政憲と間宮筑前守信興)や唐通詞らも観劇した。 筒井政憲は当時の日本人には珍しく、中国演劇と西洋演劇の双方を見比べる機会をもった。オランダ人の記述によると、筒井らは「彼ら自身(日本人)の見世物や中国人の見世物への自負が失われた」ほど、西洋演劇を絶賛したという。
cf.中村洪介「<最終講義>文政3年出島上演の阿蘭陀芝居二題」,『中央大学論集』Vol.23(20020300) pp. 73-83。
 宮永孝「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について」,法政大学『社会志林』Vol.52, No.2(20050900) pp. 148-48

陸明斎、浄瑠璃を習う
『長崎名勝図絵』より
唐人が南方の小型の箏で、遊女が三味線で合奏
『長崎名勝図絵』より
九連環」を唱って遊ぶ唐人と遊女
『長崎古今集覧名勝図絵』より


『長崎唐館図集成』(関西大学東西学術研究所,2003年)に載せる
中国演劇・音楽関連の絵図のサンプル
唐館図巻 筆者不詳 p.19(部分)
「福徳宮」の前。参拝者の横で、鑼鼓を演奏している。
崎陽唐人屋敷図形 筆者不詳 p.34(部分)
三絃、箏、笙、板、洞簫の合奏。
唐館図説 筆者不詳 p.57上
「唐人踊」(中国演劇のこと)の楽隊。
楽器編成から、崑曲(昆劇)ではないことがわかる。
唐館図説 筆者不詳 p.57下
上記の絵の続き。「唐人踊題
呉漢放潼関経堂殺妻
龍虎闘宗(宋)趙匡胤胡延賛
関雲長殺貂蝉女
打擂臺潘豹楊七擂郎」
唐館図説 筆者不詳 p.58
上記の絵の続き。
唐館図説 筆者不詳 p.59
上記の絵の続き。
長崎唐館交易図説 渡辺秀詮(1736〜1824)筆 p.101(部分)
屋根つきのテラスで、遊女の三味線を聞きながら食事。
唐蘭館図巻 高川文筌筆 p134
同じ構図の絵は多いが、それぞれ描かれる演目は違う。
唐蘭館図巻 高川文筌筆 p135
『長崎名勝図絵』と同じ構図。
唐館絵巻 川原慶賀(1786〜1860?)筆 p136
遊女と合奏を楽しむ唐人も描かれている。
同上  p136
同じ構図の絵は多いが、それぞれ描かれる演目は違う。


←上の絵図の右下に描かれた「土神堂」の、現在の姿。
長崎市館内町にて、2008.3.9撮影。
かつての唐人屋敷の跡地は、現在は普通の町並みになっている。
旧唐人屋敷門→
興福寺(長崎市寺町4-32)にて、2008.3.9撮影。
国指定重要文化財。指定年月日 昭和36年6月7日。所有者 長崎市。
 旧唐人屋敷内に遺存していたものを永久保存するために、1960年に長崎市が買収し、興福寺の敷地内に移築したもの。建築年代は天明4年(1784)以降と推定される。建築様式は純中国式の建築で、材料も輸入した中国特産の広葉杉(コウヨウザン、カンニンガミヤ属)を使っている。
←思案橋横町の入口の飾り。
月琴や唐人もあしらわれている。
旧唐人屋敷の敷地内に残る「福建会館・天后廟」(長崎市館内町)。→
柱聯にいわく──
「海外叙郷情、難得扶桑如梓里
 天涯崇廟祀、況承慈蔭到蓬瀛」
読みは、
「カイガイにキョウジョウをのぶれば、えがたし、フソウはシリのごとし。
 テンガイにビョウシをあつくすれば、ここにジオンをうけてホウエイにいたる。」
意味は、
「海外にある長崎が、われらの故郷の福建に似ていることは、まことに得難くありがたいことだ。
 天のはての地域でも天后をお祭りすれば、お慈悲と御利益は日本にまで及ぶだろう」。
長崎の人と風土は故郷の福建と似ている、と、親近感と感謝の念をこめた言葉である。
【語注】扶桑・蓬瀛──日本の雅称。
    梓里──「先祖が、子孫の生活の役に立つよう桑や梓を植えてくれた大切なふるさと」の意。ここでは長崎が、唐人にとって先祖代々友好をはぐくんできた、故郷と同様の大切な土地であることを言う。



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