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楼蘭 シルクロードの要衝
最新の更新2024年7月4日 最初の公開2024年7月4日
以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7182525より自己引用。引用開始
「世界の遺跡・宮殿・城跡をめぐる」
楼蘭は、今から数千年前に存在したシルクロードのオアシス都市国家です。井上靖の小説や、1980年の「NHK特集 シルクロード」などで日本でも有名です。住民は白人系で、現地名「クロライナ」に古代中国人は「楼蘭」という漢字をあてました。東西交易で栄えましたが、「さまよえる湖」ロプノールがひあがり、砂漠の中に消えました。20世紀に、遺跡や白人女性のミイラ「楼蘭の美女」が発見されました。楼蘭の歴史と魅力を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。(講師・記)
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n8tOaaDTEwT35QbKThUugF
○ポイント、キーワード
- オアシス都市
東アジア、中央アジア、西アジアにかけての砂漠地帯に点在するオアシスに成立した都市。敦煌や楼蘭もオアシス都市である。
オアシス都市はそれぞれ広大な砂漠のなかに孤立しているため、おのずと「都市国家」的な性格を持ちやすい。
- シルクロード
「絹の道」という呼称の初出は、19世紀のドイツの地理学者フェルディナント・フォン・ウィルヘルム・リヒトホーフェン著『中国』(1877)の Seidenstraßen ある。Seidenは絹、straßen は道の複数形。
もちろん、絹以外のさまざまな文物や、仏教やキリスト教、イスラム教などの思想もシルクロードによって東西に伝わった。
中国本土の長安(現在の陝西省西安市)からインドやローマ帝国まで陸路で行くには、まず、
「河西回廊」
をたどって敦煌(とんこう。20220604.html)まで行く。敦煌から先は、南から順番に
- 西域南道:タクラマカン砂漠の南側を通るルート ※楼蘭を通るルートはこれ
- 天山南路:タクラマカン砂漠の北側、天山山脈の南側を通るルート
- 天山北路:天山山脈の北側を通るルート
の3つがあった。天山北路は、敦煌の手前の安西ないし瓜州から北に折れて進み、敦煌を経由しないこともあった。
参考地図サイト https://www.kaze-travel.co.jp/blog/silkroad_kiji075.html
例えば、唐の玄奘(いわゆる三蔵法師。602−664 asahi20230413.html#03)は、中国からインドへ行ったときは敦煌の手前で北に折れて天山北路を進んだが、インドから中国に帰るときは西域南道を通って敦煌を経由した。
参考地図 https://i.pinimg.com/originals/19/2e/d8/192ed8c95d964b25f393a2e7502a8ad3.jpg
シルクロードと敦煌の繁栄は、紀元前2世紀末、前漢の武帝が西域に派兵して河西回廊の中国支配を確実にした時からである。その後、15世紀のヨーロッパで始まった「大航海時代」が本格化すると、シルクロードと敦煌の歴史的な役割は低下した。
近現代の日本と敦煌の主なかかわりは以下のとおり。
- 楼蘭古城遺跡
東経89分55度22秒 北緯40度29分55秒
日本語では「楼蘭故城」とも。
「楼蘭」は、楼蘭古城を含む「楼蘭王国」の故地一帯を広く指す言葉。
遺跡である「楼蘭古城」(楼蘭故城)は、楼蘭王国の一時期の首都があった場所。7世紀から無人の廃墟となり、長らくその所在は不明だったが、1900年にスウェーデンの探検家によって発見された。
以下、AFPBB News 「楼蘭古城で現存遺構の緊急補強工事 新疆ウイグル自治区」2020年8月7日 23:52 https://www.afpbb.com/articles/-/3298017より引用。閲覧日2024年7月5日。引用開始
楼蘭は中国の歴史書「史記」に初めてその名が記され、漢代にはシルクロードの要衝だったとされる。楼蘭古城の平面はほぼ正方形で、当時は粘土とギョリュウ(タマリスク)の枝またはアシで築いた1辺約330メートルの城壁で囲まれていた。北東部の仏教寺院エリアには粘土で築かれた仏塔、西部には三間房などの建築遺構が残る。三間房は日干しれんがで築かれた3部屋からなる建築遺構で、保存状態も良く、周囲には土や木などを用いた建築遺構も幾つか見つかった。漢代の貨幣「五銖銭(ごしゅせん)」や魏晋時代の漢文文書、佉盧文(カローシュティー文字)文書、銅器、漆器、絹織物、ガラス器など大量の遺物も出土している。
以下、新華網日本語「楼蘭故城、現代によみがえる数千年の神秘 中国新疆ウイグル自治区」新華社 | 2024-04-30 13:17:20 https://jp.news.cn/20240430/fc5f68b8ba56460495a47eb87418c9f9/c.html より引用。引用開始
【新華社ウルムチ4月30日】中国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州若羌(チャルクリク)県のロプノール北岸に、漢代のシルクロードで重要な要衝だった楼蘭故城がある。
北東には現存する遺跡で最も高く大きな建築物である粘土製の仏塔が雄大な姿を留め、「三間房」と呼ばれる西側の官署遺跡は格式の高い形状と厳密な配置を残す。城内からは漢代の銅銭「五銖銭」や魏晋時代の漢籍、佉盧文(カローシュティー文字)文書、銅器、鉄器、絹織物などが大量に出土した。
- ケントゥム語とサテム語
印欧語族の二大分派。西欧はケントゥム語派、東欧からイラン、インドはサテム語派。
楼蘭を含む地域のトカラ語(8世紀ごろ、死語となる)は、西欧から遠く離れているにもかかわらず、ケントゥム語派である。
参考地図 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Centum_Satem_map.png
- ロプノール
いわゆる「さまえよる湖」。塩水湖。タクラマカン砂漠の東南縁部に位置し、3世紀ごろから周囲の乾燥化が進んだため、長らく場所がわからなった。中華人民共和国新疆ウイグル自治区バインゴリン・モンゴル自治州若羌県(チャルクリク県)にある。タクラマカン砂漠東北部のロプノール県(尉犁県)にはロプノールは無いので要注意。
1964年から1996年まで、ロプノール地域では核実験が45回行われた。核爆発はロプノールの湖床では行われず、大気圏内核実験は23回がロプノールの北西約100km地点で、地下核実験は22回がロプノールの北西約220km地点で行なわれた。
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』より引用
ろうらん【楼蘭】
中国、漢・魏時代の西域諸国の一。また、その中心となったオアシス都市。タリム盆地東部、ロブノール西北岸にあり、シルクロードの要衝として繁栄。前77年、漢の属国とされ、鄯善(ぜんぜん)と改称。ロブノールの移動によって衰退、7世紀には廃墟と化した。20世紀に入って遺跡が発見された。
- 『山川 世界史小辞典 改訂新版』より引用
楼蘭(ろうらん) Loulan
西域の国名。クロライナ(Kroraina)の音訳。東トルキスタンのロプ・ノールの西北に位置し,タリム盆地の中国に最も近いシルクロードの要衝として栄えた。紀元前2世紀以来,漢と匈奴(きょうど)は東西貿易の主導権をめぐって争ったが,前77年漢は楼蘭を鄯善(ぜんぜん)と改め属国とした。しかしロプ地方の乾燥化に伴い荒廃し,無住の地と化した。20世紀初頭ヘディンによってその遺跡が発見され,その後スタインや大谷探検隊,さらに中国の調査隊により魏晋時代の漢文文書やカロシュティー文書(カロシュティー文字)も収集された。その解読や考古学的調査によって実態が明らかにされつつある。
○略年表
- 紀元前1900年−前1800年、「楼蘭の美女」として知られるミイラの女性が生存。
死亡時の推定年齢は40代前半で、生前の身長は約156センチメートル、血液型はO型で、コーカソイド(白人)だった。
この女性のミイラは、1980年8月4日放送のNHK特集シルクロード第5回「楼蘭王国を掘る」でも紹介された。
- 前176年、前漢の文帝の4年、匈奴(waseda20230110.html#02)から漢に送られた書簡の中に「楼蘭」の名前が登場。文献で確認できる初出。
- 前128年、武帝(asahi20201008.html#02)の命令で西域を探検した張騫(ちょうけん asahi20231012.html#03)が、楼蘭を経由して漢に帰国しようとする(途中で匈奴に捕まる)。
武帝の時代から、楼蘭は、漢と匈奴の抗争に巻き込まれた。
- 前108年、漢の将軍・趙破奴(ちょうはど)は匈奴を駆逐して征服し、楼蘭王を捕らえる。
なお趙破奴は前91年、武帝の治世の末に起きた巫蠱の禍(ふこのか)に巻き込まれ、一族もろとも殺された。
- 前77年、漢は傅介子(ふかいし)を送って楼蘭の王を殺し、王弟の尉屠耆(いとき)を王とし、国名を鄯善と改めた。
後漢の傀儡政権の君主であった尉屠耆は、前王の残党から暗殺されることを恐れて、首都をロブノールの西岸にあった「楼蘭古城」から、ロブノール南岸の伊循に移した。
国名(政権名)が鄯善となったあとも、旧国名である楼蘭は、あたり一体を指す地名として、また雅称として、「鄯善」と同様の意味で使い続けられた。
『後漢書』によると、楼蘭の戸数は1570戸、人口は1万4100人、勝兵2912人であった。
- 73年、後漢の明帝は大軍を北匈奴を攻め、西域に大軍を派遣した。
武人の班超(32年 - 102年)は別働隊として35人の部下とともに鄯善国(楼蘭)に使者として乗り込んだ。当初、鄯善王は歓待したが、途中から急に粗略になった。班超は、北匈奴の使者も来たことを察知し、部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」という名言を言い、わずか36人で北匈奴の使節団を奇襲して追い散らした。鄯善国は後漢に服属した。
参考地図 https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hanbanchaochushixiyukoko.gif
- 2世紀末から3世紀初めごろ、イラン系のクシャーナ朝の移民団により征服された。
カローシュティー文字(前6世紀ごろインド西北部で誕生し、7世紀ごろまで中央アジアで使われていた文字)による文書を公用文として使用する統一国家となり、且末(しょまつ。チャルマダナ/チェルチェン)や小宛、精絶(チャドータ/ニヤ)、戎盧などオアシス都市国家を次々に併合して、東はロプ・ノール沿岸から西はチャドータに至る、東西9百キロメートル(東京都から佐賀県までの距離)に及ぶ強力な王国となった。
- 328年、五胡十六国時代の前涼の西域長史・李柏が、ロプ・ノール西岸で書簡の草稿「李柏文書」を作成(大谷探険隊が持ち帰った史料)。
楼蘭王国は、前涼など中国の政権の支配も受けるようになった。
楼蘭西端のニヤは4世紀に滅んだ。
- 399年、東晋の僧・法顕(337年 - 422年)が、長安からインドに向けて出発。
- 400年、法顕は楼蘭を通過。彼の『仏国記』によると、当時すでに「楼蘭古城」は遺跡化していたが、鄯善王国そのものは栄えており、「小乗仏教」を信ずる王と4千人の僧侶がいた。
- 439年、南北朝時代の最強国である北魏が、地方政権である北涼を滅ぼし、その残党が玉突き的に西域に進出した。
- 442年、北魏の残党が楼蘭を攻める。
- 445年、北魏の太武帝は、成周公万度帰に鄯善国を攻めさせた。万度帰は鄯善国を占領し、鄯善国王の真達を中国に連行した。鄯善国は独立国としての地位を失った。
- 448年、北魏は、交趾公(こうしこう)・韓牧を鄯善国王として送り、自国の領土と同様に支配した。
その後、鮮卑系の吐谷渾(とよくこん)による支配も受けた。
- 492年、テュルク系の高車により征服される。
- 6世紀、敦煌・トゥルフアン(吐魯番)を結ぶ交通路として、楼蘭経由に代って、北周りのハミ(哈密)経由の交通路が発達し、楼蘭は次第に衰えた。
- 7世紀、ソグド人らによる楼蘭地方への植民活動。土地の乾燥化などもあり、次第に興廃し、歴史から消える。
644年ごろ、帰国するためにタリム盆地の南の「西域南道」を経由した玄奘(asahi20230413.html#03)は『大唐西域記』巻第十二で、城郭だけ残り無人の廃墟と化した古代のオアシス国家を列挙したが、その中で「・・・復此東行千余里、至納縛波故国、即楼蘭地也」云々と簡潔に述べた。
参考 国立国会図書館 https://dl.ndl.go.jp/pid/946495/1/604
参考 西域南道 https://www.kaze-travel.co.jp/blog/silkroad_kiji077.html
- 1900年、スウェーデンの探検家スヴェン・アンダシュ・ヘディン(Sven Anders Hedin 1865年-1952年)が、古代の楼蘭の遺跡を発見し、ロプノールは「さまよえる湖」であるという説を唱えた。
- 1908年、大谷探検隊(おおたにたんけんたい)の第2次探検、開始。1909年、橘瑞超(たちばな ずいちょう、1890年 - 1968年)が楼蘭の遺跡に足を踏み入れ(史上4番目)、前涼の西域長吏・李柏による書稿の下書き『李柏文書』を発見。
- 1960年、作家の井上靖(1907−1991)が小説『敦煌』『楼蘭』により第1回毎日芸術大賞を受賞。
- 1980年8月4日、NHK特集「シルクロード ―絲綢之路―」第5集「楼蘭王国を掘る」をテレビで放送。
以下、NHKオンデマンドのhttps://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2010020406SA000/ 閲覧日2024年7月5日 より引用。引用開始。
タクラマカン砂漠の東端にある、さまよえる湖ロプ・ノール。その湖畔にかつて栄華を誇った王国が楼蘭(ろうらん)でした。陽関から楼蘭への旅は、砂あらし、風化土堆群、死のアルカリ平原の白竜堆を越えるシルクロード最大の難所です。シルクロードの歴史の中で最も神秘に満ちた王国の住居や井戸跡、墓地から発掘された貴婦人のミイラを紹介します。解放後初の調査に、新疆考古学研究所、人民解放軍が協力してくれました。
語り(語り手) 石坂浩二 テーマ音楽喜多郎
- 2005年1月2日、NHKスベシャル「新シルクロード」第1集「楼蘭 四千年の眠り」をテレビで放送。「小河墓地」を紹介。
以下、NHKスペシャル公式 https://www.nhk.or.jp/special/detail/20050102.html より引用。閲覧日2024年7月5日。引用開始
楼蘭の西100Km、不思議な遺跡がある。ここには三千年〜四千年前の白人ミイラが数百体眠っている。彼らはタクラマカンに最初の文明をもたらした人たちかも知れない。古代楼蘭の謎に迫る発掘ドキュメント。
- 2011年、中国新疆ウイグル自治区チャルクリク県(若羌県)で、楼蘭博物館が開館。楼蘭古城やミーラン遺跡、小河墓地などの出土文物を展示。
○その他
- 楼蘭は「クロライナ」の漢字による音写。「烏克蘭」は「ウクライナ」の現代中国における漢字表記。
- 日本各地に「楼蘭」という名前の店があるが、その多くは漢民族系の普通の中華料理を提供する店で、シルクロードとも、楼蘭故城がある新疆ウイグル自治区とも無関係である。
1998年の「大蔵省接待汚職事件」で有名となった新宿歌舞伎町の店の名前は、中華料理ではなかったのに、なぜか「楼蘭」であった。
- 2011年、中国新疆ウイグル自治区チャルクリク県(若羌県)で、楼蘭博物館が開館。楼蘭古城やミーラン遺跡、小河墓地などの出土文物を展示している。
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