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中検講演会 漢字圏と非漢字圏の中国語学習

最新の更新2024年2月21日 最初の公開2024年1月25日

このページは「中検講演会」(2024年2月23日)の加藤徹の発表のプラットフォームです。

日本人の中国語学習の歴史
今日お話しする内容をざっくり言うと、…

 聖徳太子の時代、中国語通訳は、近畿地方のネイティブの渡来人や準ネイティブの渡来系氏族などが゜頼みだった。
 遣唐使時代の後半から、日本国内の中国語学習の環境が整った。
 遣唐使の廃止から幕末まで、日中両国の間に正式な国交はなかった。
 日本の庶民が中国語学習の需要が高まるのは明治以降で、戦争などマイナスの影響もあった。
 1972年(昭和47年)の日中国交正常化以降、ピンインによる中国語学習が定着した。
 1985年(昭和60年) 設立の「日本中国語検定協会」は、関西・関東・全国各地の連携や、日本人学習者・準ネイティブ・ネイティブの参画など、日本人の中国語学習の歴史の教訓を、組織面や運営面で生かしている。

参考記事 加藤徹「NHK中国語をさかのぼる202403.pdf(PDF)」「同・html版」、『NHKテレビ 中国語! ナビ 2024年 3月号』84頁-87頁

特徴人物の例
上代奈良時代まで遣唐使時代の前半まで。ネイティブや準ネイティブ(渡来系氏族)が活躍。高向玄理続守言
中古平安時代遣唐使時代の後半。非渡来系の日本人学習者も活躍。空海、橘逸勢
中世鎌倉・室町時代日中両国の禅僧が活躍。 無学祖元、絶海中津
近世江戸時代学問・教養としての唐話・唐音学習も。東皐心越雨森芳洲
近代明治から昭和前期戦争の影響も。内山完造、李香蘭
現代昭和中期から現在「ピンイン」で学ぶ時代に。中国語検定協会など
『NHKテレビ 中国語! ナビ 2024年 3月号』84頁-87頁
連載記事「中国語をさかのぼる」最終回「中国語学習の歴史」
テーマ 昔の日本人も発音で苦労した
キーワード 漢語 唐話 中国語

 昔から日本人は外国語を話すのに苦労してきました。古代から近世まで、日本人は中国語の文語である「漢文」の読み書きは比較的得意でしたが、中国語をしゃべるのは、発音も語順も日本語とは違うため、苦労してきました。私たちのご先祖様は中国語をどのように勉強してきたのでしょうか?

 日本人はいつから中国語を勉強するようになったのか。はっきりとはわかりません。
 中国の歴史記録によると、紀元57年、後漢の光武帝の時代に、日本から「倭奴国」の使者が朝貢に訪れました。光武帝は印綬を与えました。江戸時代に福岡で、農民が偶然に巨石の下から発見した純金の印鑑「漢委奴国王印」は、この光武帝の金印であると思われます。
 1世紀の日本からの使者は、洛陽で中国語をしゃべったのでしょうか? 残念ながら通訳についての記録はありません。数名の通訳が伝言ゲーム的に翻訳をリレーした可能性もあります。古代日本語、古代朝鮮語、朝鮮半島に近い地域の中国語の方言、後漢の時代の中国語の共通語、と何度も通訳を重ねる方式です。もしかすると1世紀の日本には、すでに日本語と中国語の両方を使える通訳がいたかもしれません。真相は闇の中です。

 5世紀の「倭の五王」の使者も、607年に遣隋使として中国に渡った小野妹子も、中国の皇帝あての漢文の国書を持参しました。小野妹子が隋の煬帝に渡した国書には漢文で「日出処天子、 致書日没処天子、 無恙」云々と書いてありました。訓読で読み下すと「日、いずるところの天子、日、没するところの天子に書をいたす。つつがなきや」。意味は「日がのぼるところの天子が、日がしずむところの天子に手紙をさしあげます。お元気ですか」。日本人によって「落日の天子」と書かれた煬帝が不機嫌になった、という逸話は有名です。
 昔の日本人と中国人は、漢文による「筆談」を多用しました。明治時代、中国から日本に亡命してきた革命家の孫文と、孫文をささえた日本人である宮崎滔天も、紙に漢字を書く「筆談」によって語りあいました。
 日本は島国で、昔は外国語に触れるチャンスが少なかったせいか、外国語の読み書きはともかく、会話は苦手という日本人は多かったようです。現に、小野妹子といっしょに日本から隋にわたった留学生は、南淵請安(みなぶちの しょうあん)も高向玄理(たかむこのくろまろ)も旻(みん)も、中国系の渡来氏族の出身でした。彼らは先祖代々、家族のあいだで中国語会話の技術を受け継いでいたのでしょう。

 618年、隋が滅び、唐が建国しました。
 630年、日本は唐に第1回の「遣唐使」を派遣しました。
 遣唐使は、中国に留学生を送り、唐のすぐれた文物を日本に輸入することを目的とした使節団です。平安時代の894年、菅原道真の道真の建議により廃止されるまで、十数回にわたって派遣されました。
 留学生活では、外国語の会話能力が必要です。7世紀後半、唐にならった「律令制」が日本でも実施されるようになると、官僚養成のための国立学校「大学寮」が設立されました。大学寮の教員には、中国人のネイティブもいました。続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)の2人は、中国生まれの中国人でしたが、戦争で捕虜になるなど紆余曲折ののち日本に渡来しました。持統天皇の時代に大学寮で「音博士」をつとめ、日本人に中国語の発音を指導しました。
 このほか、日本の有力寺院でも、中国への留学経験がある僧侶が、後輩に中国語の指導を行いました。
 遣唐使として中国に渡る日本人は、日本国内で事前に中国語を学習したうえで唐に渡り、本場で中国語に磨きをかけました。
 とはいえ、遣唐使にも中国語が苦手な人はいました。
 日本の真言宗の開祖である空海(774年-835年)は語学の天才でした。2017年の日中合作映画『空海 KU-KAI 美しき王妃の謎』で、染谷将太さんが演じる空海は、流ちょうな中国語をしゃべります。史実でも、空海は渡唐前に中国語をマスターしていました。
 空海と対照的に、中国語がへたくそだったのが、貴族であった橘逸勢(たちばなのはやなり。生年不詳-842年)です。彼は804年に空海といっしょに中国に渡り、806年にいっしょに日本に帰国しました。
 遣唐使の留学期間は通常20年でした。長いですね。でも現代の日本でも、満6歳の小1の子が、中学、高校、大学、大学院と進んで大学院博士課程を修了するときの年齢は、最短でも27歳です。初等教育から学問の完成まで20年以上かかる。
 遣唐使の時代の初期は、日本の学問レベルは唐より遅れていたため、唐での勉学も基礎から始めねばなりませんでした。
 遣唐使の時代の後半には、日本の学問レベルもあがり、留学期間を切り上げて帰国する日本人も増えました。それでも、空海や橘逸勢のように、たった2年とは異例です。空海は優秀で、中国で学び取れるものを学び尽くしたためでした。が、橘逸勢は違いました。
 橘逸勢は、唐での留学を切り上げて日本に早期帰国する許可を求める申請書を、日本の朝廷に提出しました。彼は早期帰国申請を、名文家でもある留学仲間の空海に代筆してもらいました。申請書は漢文です。内容を要約すると……私めは才能もないのに、もったいなくも遣唐使に加わり、国費留学生となりました。でも、日中両国の国土は遠く離れており、両国の発音も違いが大きいため、私はいまだ中国の学問の場に入れません。さいわい、楽器の琴(きん)と、書道は、中国語能力が低くても学べるので、勉強が進みました。留学費用としてもらえる国費は、衣食代で消え、こちらでの学費に全然足りません。帰国して、琴と書の2つを留学の成果として役立てたいです。――
 空海『性霊集』巻五におさめる橘逸勢の申請書のうち「今山川隔両郷之舌、未遑遊槐林。」(漢文訓読で読み下すと「いま山川、両郷の舌を隔て、いまだ槐林に遊ぶにいとまあらず」)には、自分の勉学がはかどらないのは中国語の発音が難しいせいだ、という、橘逸勢の居直りを感じます。
 橘逸勢も才人です。日本の文化史では、空海・嵯峨天皇・橘逸勢の3人の能書家を「三筆」と呼ぶほどです。橘逸勢ほどの傑物でも中国語の発音は下手だったのか、と思うと、ちょっとほっとします。

 894年に遣唐使が廃止されたあとも、民間レベルでは中国との交流は続きました。
 鎌倉時代には、栄西や道元のように中国に留学した日本人僧侶や、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元(むがくそげん)のように来日して日本に永住した中国人僧侶もいました。
 室町時代にも、貿易商や海賊、僧侶など一部の日本人が中国語を習得しました。が、一般の日本人が中国語を勉強することは、あまりありませんでした。
 そもそも、昔はピンインはありません。日本人が中国語の発音を勉強するときは、かな文字を使うしかありませんでした。
 豊臣秀吉が愛用したという「三国地図扇面」が、今も残っています。扇の表面には日本・朝鮮半島・中国大陸の地図が描いてあります。裏面にはひらがなで、中国語の短文17個とその日本語訳が書いてあります。「なちうらい さけもつてこい」「くんれう ねたい」という感じです。それぞれ“拿酒来”ná jiǔ lái(酒を持ってこい)、“困了” kùnle(眠くなった)という中国語です。
 秀吉はなぜ扇の裏に、中国語をカンニングペーパーのように書かせたのか? 来日した明王朝の使節を引見するときに使った、という説もありますが、よくわかりません。

 江戸時代から昭和の初期まで、日本人向けの中国語の教材は、中国語の発音をかなで書いたものが多い。かなでは、中国語の発音は表記できません。
 中国でピンインができたのは20世紀も後半になってからです。日本で、ピンインを使って中国語を学ぶ人が増えるのは、1972年の日中国交回復以降です。なんと、まだ半世紀なんですね。
 その意味で、日本人の中国語学習の歴史は発展途上です。
 私は1970年代からNHKテレビの中国語講座を断続的に見ていますが、昔と今では、番組の雰囲気がぜんぜん違います。日本人の中国語学習は今後、どう変わるのか。その未来を作るのは、いま中国語を勉強なさっているあなたです。



以下は資料集です。

日時 2024年2月23日(金・祝日) 13時00分−15時30分
会場 Zoom によるオンライン配信です。みなさまのご都合のよい場所からご参加下さい。
方式 ZOOMによるオンライン配信。参加費無料。申し込み方法等は主催者である中検のサイトをご覧ください。
主催 一般社団法人 日本中国語検定協会 
http://www..chuken..gr.jp/ https://twitter.com/chuken_3611
タイムテーブル
13:00-14:30 講演
 (1)日本人の中国語学習の歴史――遣唐使から中検まで 加藤徹
 (2)欧米人の中国語学習の歴史――テキストを中心に 内田慶市
14:30-15:30 対談・質疑応答
 内田慶市×加藤徹

??講演会のお知らせ??

??2/23(金・祝)??

加藤徹先生,内田慶市先生による #中検講演会 を開催します。

申込方法等は後日改めてご案内いたしますので,しばらくお待ちください。

連休初日のイベントとして,ご予定いただけると嬉しいです。#中検 #中国語 #中国語学習 pic.twitter.com/XSGBgzHc9O

— 中検|中国語検定試験 (@chuken_3611) January 30, 2024

加藤徹の講演の趣旨
 遣唐使も発音の習得に苦労した、江戸時代には趣味的な中国語学習ブームがあった、昭和前期までは中国語の発音をカナで学んだ、など具体的な挿話をもとに、豊富な図版を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。
参考動画 YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-nIqSRs7pyzD2XxOV9KKRDX


以下は「資料集」です。

○日本人の中国語学習の特徴
  1. 中国語を学ぶ目的
     実用的な理由、趣味的な理由、社会的姿勢、など。
     「就職に役立てたい」「華流ドラマのセリフを聞きたい」「アジア重視」など。
  2. 言語的な基礎
     非ネイティブ、準ネイティブ、ネイティブ。
     母語話者・・・喃語(なんご)の段階から日常生活で習得。
     学習言語・・・座学の比率が大きい。
     「親が中国人or華人華僑」「日本人に中国語を教えるために習いたい」など。
  3. 読解派と会話派
     日本は漢字圏。漢字は表音文字ではなくて表語文字。(表音+表意)
     日本語で「翻訳」と「通訳」を区別する理由。中国語では“翻译”fānyì。
     読み書き、が得意な「目」派の人。聞く、話す、のが得意な「口」派の人。
     SNSの発達により、読み書きと会話の「しきい」がかつてないほど低くなっているのではないか?


○歴史
  1. 【プレ遣唐使時代】 古代から7世紀初頭まで ネイティブと準ネイティブに頼る
    遣隋使(けんずいし)と準ネイティブ
    古代日本においては、ネイティブないし準ネイティブ「渡来系氏族」の中国語力が頼りにされた。
    小野妹子の中国語通訳(「をさ」)をつとめた鞍作福利(くらつくり の ふくり)は中国系渡来人の子孫。
    推古天皇16年(608年)第三次遣隋使のとき、小野妹子にしたがって隋にわたった留学生の面々は、渡来系氏族だった。
    高向玄理(たかむこ の くろまろ) ― 魏の文帝こと曹丕(そう ひ)の子孫。 「くろまろくん」(大阪府・河内長野市生涯学習推進マスコット)のモデル https://www.yurugp.jp/jp/vote/detail.php?id=00000911
    ・南淵請安(みなぶち の しょうあん) ― 中大兄皇子と中臣鎌足の先生
    ・旻(みん) ― 学僧
    ・恵隠(えおん) ― 学僧。俗姓は志賀漢人(しがのあやひと) ・倭漢福因(やまとのあや の ふくいん)
    ・薬師恵日(くすし の えにち) ― 高句麗系渡来人。朝鮮半島系。
    参考 小野妹子の子孫のX(旧ツイッター)アカウント https://twitter.com/onoonomakoto (小野妹子から数えて44代目)
    以下、加藤謙吉「日本の遣唐留学生と渡来人」(『専修大学束アジア世界史研究センター年報 第1号』2008年3月, p.51 / https://core.ac.uk/download/pdf/71785708.pdf 閲覧日2024年1月31日)より引用。引用開始
    推古16年9月発道の遣隋使には8人の留学生・学問僧が随行したが、 『日本書紀』によると、その顔ぶれは倭漠直福困・奈良訳語恵妙・高向漢人玄理・新漢人大国(学生)、新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人恵隠・新漢人広済(学問僧)より成る。彼らの多くは乗漢氏やその系列下の漢人の出身で、高向漢人玄理は、氏姓を「高向史」とも記すように、東文氏(東漢氏の枝氏)の下で文筆・記録の任にあたったフミヒト(ヤマトノフミヒト)の一員でもある。残る奈良訳語恵妙は己智氏の同族、志賀漢人恵隠は西漠氏系の漢人とみられるが、この2人を含む全員が渡来人である。
    引用終了


  2. 【遣唐使の時代】 7世紀前半から9世紀末まで 日本国内での中国語学習の環境が整う
    律令国家時代の日本では、下級官人や渡唐僧むけの中国語学習が行われていた。庶民の中国語学習については記録が残っていない。
    • 大学寮・・・国立。漢文古典を中国語で音読する。「読解」中心。
      儒学科(明経道)定員400名、数学科(算道)定員30名。入学資格は五位以上の貴族の子弟か、史部(ふひとべ。文書作成官僚)の子ども。在学年限は9年。
      例 朝野鹿取(あさの の かとり 774-843)は貴族。「すこぶる史漢に渉り、かねて漢音を知る」
      儒学科では発音指導の教員「音博士」により、漢文古典を中国語音で読む訓練が行われた。
      817年には、中国語通訳養成のため、「宜しく、年三十以下の聡令の徒、入色(にゅうしき)四人、白丁六人を選び、大学寮において、漢語を学ばしむべし」(『日本紀略』)という勅令が出たが、入色も白丁も最下層の官人で、通訳官の地位は低かった。
      遣唐使時代通訳の最高位は、渤海使の通訳を務めた春日宅成(かすが の やかなり)の正6位上で、彼が最初に任用された859年の時点の官位は大初位下(28位)にすぎなかった。遣唐使の通訳の最高位は、船長と同等であった。
    • 私学・・・有力貴族が9世紀以降、大学寮入学前の子弟に予備教育を施すために立てた私立学校。藤原氏が821年に作った勧学院が有名。
    • 仏教界・・・有力寺院の中や、個人授業などで中国語の学習が行われていた。
      例 道昭(629-700)・・・船恵尺(ふね の えさか)の子で法相宗の僧。653年に渡唐し、玄奘三蔵(602-664)の部屋で同居しながら指導を受けた。
      例 紀春主(きの はるぬし)は、実際に入唐した遣唐使としては最後となる第19回の承和5年(838年)の遣唐使の通訳。もと大安寺の僧で僧位は伝燈大法師位だったが、承和3年(836年)に還俗させられ、正六位上・遣唐訳語(通訳)兼但馬権掾に叙任された。円仁の『入唐求法巡礼行記』にも「紀通事」として出てくる。cf.湯沢質幸「八、九世紀東アジアにおける外交用言語」(1997) NII論文ID 110000330741
    以上については、鹿島平和研究所・外交研究会:外交研究会 「要旨:古代日本の中国語学習」
    http://kiip.or.jp/societystudy/doc/2011/20110621.html(閲覧日2024年2月2日)も参照のこと

     以下、上掲「加藤謙吉 2008」p.53より引用。引用開始
    遣惰使の時ほどではないにしても、遣唐使の場合も、渡来系の留学生・学問僧が高い比率を占めていたとみられるのである。
     これに対して、非渡来系の留学生・学問僧は、時期が降るにつれて次第に増加の傾向をたどるものの、養老元年入唐の下道(吉備)朝臣真備・大倭忌寸小乗人(大和相称長岡)、天平勝宝4年の膳臣大丘、同年入唐(?)の善議(俗姓恵賀連)、宝亀8年の永忠(俗姓秋篠朝臣)、延暦23年の空海(俗姓佐伯直) ・義真(俗姓丸子連または丸都連)、承和5年の戒明(俗姓凡直) ・春苑宿祢玉成(前掲表1の注4参照)、承和9年の悪運(俗姓安曇宿祢)のように、一般に中・下級の官人層や地方豪族層(下道真備-備中、空海・戒明-讃岐、義真-相模、春苑宿祢玉成-伯者)の子弟が多い。
    引用終了

    ○ネイティブの中国語教員のルーツ
    続守言(しょく しゅげん)・薩弘恪・・・7世紀、飛鳥時代の中国系渡来人で、音博士(こゑのはかせ)。
    袁晋卿・李元環・皇甫東朝・・・8世紀、奈良時代の「ニューカマー」で、日本に帰化した中国人で唐楽の演奏にもたけていた。

    遣唐使とともに中国に渡った日本人留学生の中国語能力は、まちまちだった。
    弘法大師こと空海は中国語・漢文・サンスクリット(梵語)に精通した語学の天才でもあったが、橘逸勢は中国語の発音で挫折した。
    参考記事 加藤徹 『中国語の環』(
    https://www.chuken.gr.jp/study/wa.html)第126号 掲載記事より自己引用。引用開始
    ○遣唐使も苦労した中国語の舌の動かしかた
     日本人の中国語発音学習のキモは舌である。
     中国語の声母(子音)の一覧表を見ると「唇音、舌尖音、舌根音、舌面音、捲舌音、舌歯音」云々とある。b p m f の「唇音」を除きみな「舌」を含む。
     中国語の韻母(母音)のうち、日本人が苦手とする e、 ü 、erの3つ単母音も、コツは舌だ。初心者は「外から見える口の形」ばかり気にする。本当は「外からは見えない、口のなかの舌の位置と動かしかた」が秘訣だ。特にeは、教科書には「単母音」などと書いてあるせいで、初心者はてっきり「eの発音の最中は舌を動かさない」と思い込む。本当は、eは「単母音の顔をした事実上の複合母音」だ。eは、発音しながら口の中で舌を口の奥にスライドさせつつ、脱力する。この、口の中の舌の動線は、生徒が教員の口元をいくらジーッと見ても、わからない。
     「鼻母音」つまりnとngの区別も、キモは「鼻の穴」ではない。やはり、口のなかの舌の動線だ。leの発音のコツも、zhi chi shi ri のコツも、・・・もうやめるが、とにかく、日本人の中国語学習者にとっての鬼門は、舌である。
     今から1200年前の遣唐使の時代も、日本人は舌で苦労した。
     日本の書道史上、空海(くうかい)・嵯峨天皇(さがてんのう)・橘逸勢(たちばなのはやなり)の3人を「三筆」と言う。空海と橘逸勢は遣唐使の同期の留学生だった。2人とも804年に唐に渡った。本来は十年以上留学する予定だった。が、2人とも2年で留学を切り上げ、806年に帰国した。空海は中国語の達人で、学ぶべきものを学び尽くした。橘逸勢は中国語の発音で挫折し、将来に見切りをつけた。
     空海の詩文集『性霊集』巻5の漢文「為橘学生与本国使啓一首」は、橘逸勢が早期帰国を申請した本国(日本)宛ての文章である。趣旨は「中国語会話で挫折しました。このまま留学を続けても無駄です。語学力が貧弱でもマスターできる琴(きん)と書道は、われながら自信があります。帰国をお認めください」。文中で、
    今山川隔両郷之舌、未遑遊槐林。
    (いま、山川は両郷の舌を隔て、いまだ槐林に遊ぶにいとまあらず。)
     つまり「日本と中国は地理的に遠く、両国の母語は舌の動かしかたが全然ちがうのです。中国語会話ができず、中国の高等教育を受けられません」と弁解した。
     ちょっと、橘さん。空海さんは、日本にいたときから努力して中国語をマスターしましたよ。この申請書も、自分で書かずに親友の空海に代筆してもらったとは! 世間を甘くみてませんか? でも、中国語の舌で苦労したのは、わたしたち後世の中国語学習者もよくわかります。中国語力が貧弱でも、琴や書道など学べる中国文化はある。そんな実例を歴史に残してくださったことには、感謝します。
    引用終了
    参考 空海『性霊集』巻5第8葉の写真 https://lab.ndl.go.jp/dl/book/819438?page=9 (次世代デジタルライブラリー)

    橘逸勢が、空海に代筆してもらった早期帰国願い。主旨は「中国語の発音が難しすぎて、高度な内容を学べません。琴の音楽と書道はマスターしましたので、それでお許しください。お金も、とても足りません。20年も留学するなんて無理です。前倒しで帰国することをお許しください」という泣き言に近い懇願。

    【原漢文】為橘学生与本国使啓
    留住学生逸勢啓逸勢無驥子之名預青衿之後理須天文地理諳於雪光金声玉振縟鉛素然今山川隔両郷之舌未遑遊槐林且温所習兼学琴書日月荏苒資生都尽此国所給衣糧僅以続命不足束脩読書之用若使専守微生之信豈待廿年之期非只転螻命於壑誠則国家之一瑕也今見所学之者雖不大道頗有動天感神之能矣舜帝撫以安四海言偃拍而治一国尚彼遺風耽研功畢一藝是立五車難通思欲抱此焦尾奏之于天今不任小願奉啓陳情不宣謹啓

    【書き下し文】橘学生の本国の使に与ふるが為の啓
    留住の学生、逸勢、啓す。逸勢は驥子の名は無くして青衿の後に預れり。理として須らく天文地理は雪の光に諳んじ、金声玉振して鉛素に縟にすべし。然れども今、山川は両郷の舌を隔つれば、未だ槐林に遊ぶに遑あらず。且くは習ふ所を温ね、兼ねて琴と書とを学ぶ。日月は荏苒として資生は都て尽きたり。此の国の給ふ所の衣糧は、僅かに以て命を続ぎ、束脩と読書の用には足らざるなり。若使、専ら微生の信を守るとも、豈、廿年の期を待たんや。只、螻命を壑に転ずるのみに非ず、誠に則ち国家の一の瑕なり。今、学ぶ所の者を見るに、大道ならずと雖も、頗る天を動かし神を感ぜしむるの能、有り。舜帝は撫でて以て四海を安んじ、言偃は拍ちて一国を治む。彼の遺風を尚びて、耽研して功は畢る。一藝は是れ立てるも、五車は通し難し。此の焦尾を抱きて之を天に奏せんと欲することを思ふ。今、小願に任へず。奉啓して陳情す。不宣、謹啓。

    【大意】橘くんが本国の使者に渡すための手紙
    留学生である私こと橘逸勢が申し上げます。私は駿才の誉れもない身でありながら、遣唐使のエリート留学生の末端に加えていただきました。本来なら天文地理の学問を蛍雪の功の勤勉さで勉強すべきであり、立派な漢文の文章をたくさん書く練習をすべきであります。しかしながら、中国と日本は国土が互いに離れ、両国の発音の舌の動かしかたも違うため、私は中国語会話でつまづいてしまい、まだ、こちらの学校に通うこともできません。そこで、復習しながら、中国の琴の弾きかたや書道など、語学のハンデが軽い分野を勉強しました。そうこうするうちに、学資を使い果たしました。中国政府がくれる衣服や食料は、ぎりぎり生活できるていどです。学費や書籍代には全然足りません。もし仮に、私が微生の信を守って当初の予定どおり20年の留学生活を頑張ろうとしても、とても無理です。私は、虫けらのように価値のない人間かもしれません。が、そんな私でも、日本人留学生が中国でつまらない死に方をしたら、私ひとりが笑いものになるだけならともかく、日本国の恥にもなりかねません。さて、自分がこちらで学んだ琴の音楽の技量を自己評価しますと、音楽は儒教の大道ではないものの儒教の礼楽ではあります。われながら、鬼神を感動させるくらい上手に琴を演奏できる能力を身につけました。儒教の古典によれば、いにしえの舜帝は琴を弾いて世界の平和をもたらし、「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」の故事で有名な言偃こと子游(孔子の弟子)も琴の音楽で一国を見事に統治しました。私も、古人の遺風をたっとびつつ、琴の音楽を深く研究し、きわめました。一芸をきわめた者はそれで身を立てることができると言われる一方で、車五台ぶんの大量の書籍を読破しても学問が大成しない人もいます。私の一芸は、琴の演奏です。私の希望は、中国の焦尾琴をもって日本に帰り、みかどのお耳汚しに演奏することをお許しいただけたら、と思います。勝手なお願いでまことに恐縮ではございますが、早期帰国の陳情を申し出る次第です。以上、謹んで申し上げます。

    参考 中国語の「子音」…「唇」という字が多いことに注意。




  3. 【中世】ポスト遣唐使時代。博多など民間の商人や、僧侶などが日中間を往来。

    奈良時代の遣唐使の渡海は命がけで、鑑真(688-763)も来日に苦労した。
    時代がくだると、航海技術が進歩し、安全に渡海できるようになった。
    鎌倉時代以降は、禅僧の往来が増えた。中国仏教の主流が「浄土禅」「念仏禅」になったため。
    cf.加藤徹「禅語由来の中国語」、『中国語の環』第121号(2022.9)p.17【
    PDF

    昭和のテレビアニメ「一休さん」のセリフ「そもさん」「せっぱ」は、宋の時代の禅問答で使われた古い中国語「作麼生」と「説破」。
    禅宗は「不立文字」であり、昔の中国語の口語体による禅問答の会話を理解する必要もあった。
    日本の茶室の掛け軸などでもよく見かける禅語は、昔の中国語の口語体が多い。例「喫茶去」(きっさこ)。


    参考 東皐心越禅の琴譜 singaku-fusizen.html#kimpu
    music sheet,楽譜,乐谱,阳关曲,阳关三叠,陽関曲,陽関三畳,送元二使安西,送元二使安西




  4. 【近世】「唐話」「唐音」「唐通事」の時代
    安土桃山時代、豊臣秀吉が愛用した扇の裏には、ひらがなで、簡単な中国語がカンニングペーパー的に書いてあった。
    cf.跡部信「扇面に描かれた野心と歓待」
    https://www.teikokushoin.co.jp/files/common/広報室/bookmarker/2022-2/11_msggbl_2022_10_p28-29.pdf

    日本から中国(明、清)への情報ルートは「漢文派・筆談派」と「唐話派・会話派」の2つがあった。明智光秀という日本人は、近世の中国の歴史書では「明智」と「阿奇支(アケチ)」の2人の人物として誤認されいる。
    cf.加藤徹「明智光秀に見る原音主義と相対主義」、『中国語の環』第113号(2020.1)p.05【PDF

    いわゆる鎖国の時代の長崎において、オランダ語の専門家である「オランダ通詞」に対して、唐話(中国語)の専門家は「唐通事」と呼ばれた。「通事/通詞/通辞」はどれも「つうじ」だが、書き分けによるニュアンスの違いに注意。

    参考ビデオ YouTube「中国語学概説 第5回 中国語の表音法 - 内田慶市 関西大学外国語学部教授」
    14分14秒目より江戸期の中国語教育について解説
    https://youtu.be/MjsNhvbETdQ?si=sqLtWfguOoH7O39l&t=854

    江戸時代には「唐音」「唐話」ブームがあった。趣味や教養として、中国語の発音「唐音」で漢詩・漢文を音読したり、歌ったりすることが、一部の日本人のあいだで流行した。
    .cf.加藤徹「江戸時代の唐音を振り返る」、『中国語の環』第111号(2019.4)p.05【PDF

    cf.『唐詩選唐音』(1777年刊、江戸)
    江戸時代には、漢文訓読による詩吟(訓読吟詠)だけでなく、唐音吟詠・唐音唱詩の伝統もあり、これが江戸後期の明清楽ブームの呼び水の一つとなった。

    江戸から明治時代はじめまで、中国文化の紹介や唐話学習では、古代の「渡来人」や「渡来系氏族」と少し似たところがあるネイティブや準ネイティブが、江戸時代の唐通事、明治時代以降の通訳として活躍した。

    例 魏皓(ぎこう 1728-1774 日本姓は鉅鹿=おおが)は長崎の華人4世だったが、自分の家で代々伝承されていた「明楽」(みんがく)を世に広めるため京にのぼって活躍した。
    msg-kns-sfj.html#cjgj

    例 長崎の中国人通訳であった何杏村は、日本に帰化して河副作十郎を名乗り、『清楽曲牌雅譜』(1877)を著した。
    singaku-14-70s.html#1877gafu

    以下、https://www.chuken.gr.jp/association/organization.htmlより引用。閲覧日2024年2月21日。引用開始
    さて,日本における中国語教育の歴史は古く,例えば,江戸時代には中国との交易のために長崎に設けられた「唐通事」によって中国語が学ばれ,また5代将軍綱吉の時代には黄檗宗との関係で江戸城内でも中国語学習会が催されたことがありました。その後,明治以降は特に民間講習会を中心に中国語教育が展開され,戦後,特に日中国交回復後は中国語ブームが巻き起こったりもしました。現在は,大学等でも履修者数は英語に次いで,他の語種を遥かに凌駕しております。
    引用終了。 参考動画 https://youtu.be/MjsNhvbETdQ?si=V79loKNsvhJmCWot&t=830 「中国語学概説 第5回 中国語の表音法 - 内田慶市 関西大学外国語学部教授」830秒目から伊沢修二と江戸時代の唐話学習



  5. 【近代】西洋文明の影響が中国学習にも波及。
    明治から昭和前期までは、中国人と会話をするために、日本人が実用的な中国語を学ぶことが増えた。
    戦争の影もつきまとった。明治の日清戦争や昭和の日中戦争も、日本人の中国語学習に影響を与えた。
    昭和中期までの中国語教材は発音をカナで表記したものも多かった。
    cf.氷野善寛「昭和初期の子供向けの中国語教材の一端 : めんこ・かるた・新聞」2020 
    https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/16406
    カナ以外にも、中国語教材の発音の書き方は、ウェード式ローマ字、国語式ローマ字、注音符号など、さまざまであった。



  6. 【現代】ピンイン以後(昭和後期から現在まで)
    1958年(昭和33年) 中国で「漢語拼音方案」が成立。ピンイン(拼音(ピンイン、pīnyīn)の教材が生まれる。
    1967年(昭和42年) 日本のNHKがテレビで『中国語会話』放送開始。
    1972年(昭和47年) 日中国交正常化。
    1981年(昭和56年)  大阪で「中国語学力認定協会」(中検の前身)が設立。
    1985年(昭和60年)  同協会の事務所を東京に移転し「日本中国語検定協会」(中検)が設立。香坂順一氏が理事長に就任。 2000年(平成12年) 上野惠司氏が中検の理事長に就任。
    2020年(令和02年) 内田慶市氏(現)が中検の理事長に就任。


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