清簟楼台絳帳垂 セイタンのロウダイ、コウチョウたる。 城南大路匝胡児 ジョウナンのおおじにコジめぐる。 王風委地求諸野 オウフウはチにすてられ、これをヤにもとむれば、 礼楽衣冠尽在斯 レイガクとイカンとは、ことごとくここにあり。 |
坂口安吾『日本文化私観』より引用。 https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html 僕達は五六名の舞妓を伴って東山ダンスホールへ行った。深夜の十二時に近い時刻であった。 舞妓の一人が、そこのダンサーに好きなのがいるのだそうで、その人と踊りたいと言いだしたからだ。 ダンスホールは東山の中腹にあって、人里を離れ、東京の踊り場よりは遥に綺麗だ。満員の盛況だったが、 このとき僕が驚いたのは、座敷でベチャクチャ喋っていたり踊っていたりしたのでは一向に見栄えのしなかった舞妓達が、 ダンスホールの群集にまじると、群を圧し、堂々と光彩を放って目立つのである。 つまり、舞妓の独特のキモノ、だらりの帯が、洋服の男を圧し、夜会服の踊り子を圧し、 西洋人もてんで見栄えがしなくなる。成程、伝統あるものには独自の威力があるものだ、と、いささか感服したのであった。 |
吉川英治『三国志』小説本編の冒頭部より
「茶を」 役人は眼をみはった。 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。 「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」 「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」 (中略) 「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」 「はい。その、ほんとの茶を頒(わ)けていただきたいのです」 彼の声は、懸命だった。 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。 その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々(よよ)になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。 また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。 いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。 ――だが、彼の懸命な面(おももち)と、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、 「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。 (以下略) |
山泉煎茶有懐 山泉にて茶を煎て懐い有り 白居易 坐酌泠泠水 坐して酌む 泠泠の水 看煎瑟瑟塵 看て煎る 瑟瑟の塵 無由持一碗 一碗を持して 寄与愛茶人 茶を愛する人に寄せ与うるに由無し 山の中の泉で煎茶を楽しみながら思ったこと。透き通った冷たい山の水をくんで茶を点てると、緑色の細かい泡がふつふつと見える。残念だな、都会に住む茶の愛好家に、この至福の一杯を飲んでもらう方法がないとは。 |
『esquire news(エスカイヤニュース)』2021年3・4月号 連載「Timeless Essay 時を超えて語りかけてくるヒストリー」第6回 内容はよいけど、高校の漢文の教材にはなじまない故事成語はたくさんある。酒にまつわる成語「唐姫誤会」もその一つだ。前漢の景帝(在位、紀元前一五七年―前一四一年)と側室の唐姫にまつわる故事である。 前漢の歴代皇帝のうち、第五代の文帝と第七代の武帝は、日本でも有名だ。文帝は中国史上最高の名君の一人。武帝は最盛期の大帝国に君臨し栄華をきわめた絶対君主である。 第六代の景帝は、影が薄い。父・文帝ほどの人徳はない。息子・武帝のような華やかさもない。でも、景帝はやるべきことはやった。昼の朝廷では、呉楚七国の乱の平定を指揮した。夜の後宮では、王朝存続のため子づくりに励んだ。ただ夜は、しばしば酒を飲みながらだった。 ある夜、景帝は側室の程姫を召した。程姫はあいにく月のさわりで、行きたくなかった。そこで唐児という名の侍女に化粧をさせて、帝のもとに進めた。景帝は酔っ払っており、気づかなかった。てっきり程姫だと思い寵愛した。 その一夜だけで侍女は妊娠した。景帝はようやく、相手が程姫でなかったことに気づいた。やがて男児が生まれた。景帝の七番目の皇子である。妊娠後にようやく発覚したことにちなみ、名は「発」とつけられた。 景帝は三人の皇女と十四人の皇子をもうけた。皇子らはそれぞれ地方の領地をもらって王となった。七男の劉発は「長沙定王」に封ぜられた。湖南省長沙市は、今は大都会だが、紀元前二世紀は辺境の「卑湿貧国」だった。ジメジメした貧しい低地だった。劉発の生母である唐姫(上様のお手つきになったので「姫」と呼ばれるようになった)は出自がいやしく、景帝は唐姫と劉発をかわいがらなかった。 ある時、景帝は、地方の諸王として封じた息子たちを長安の都に呼んだ。諸王は、父・景帝の長寿を祈る歌舞を披露した。劉発は、袖をピンと引っ張り手をチョコンと出して舞った。あまりの下手さに周囲から失笑を買った。景帝は怪訝に思い「その踊りは何だ」ときいた。劉発は「臣の領国はあまりにも狭小で、満足に身を回すこともできぬのです」と答えた。景帝は、さすがにあわれに思い、武陵・零陵・桂陽の地を劉発に与えた。 景帝の子孫は多い。程姫が生んだ四男・魯恭王劉余は、三国志の「荊州の劉表」と「益州の劉璋」の先祖である。賈夫人が生んだ九男・中山靖王劉勝は、三国志の英雄・劉備の先祖である。 長沙定王劉発も子作りに励んだ。前漢の滅亡後、漢王朝を復興して後漢の初代皇帝となった光武帝(劉秀)は、劉発の六代目の子孫である。つまり、後漢の歴代皇帝は劉発の子孫だ。なお、古代日本の漢氏(あやうじ)は後漢の霊帝の子孫である。「唐姫誤会」の余波は日本にまで及び、劉発の子孫は日本人として暮らしている。 さて、三国志の物語を読むと、劉備は「劉」という姓のおかげで、ずいぶん得をした。後漢の献帝も、荊州の劉表も、益州の劉璋も、自分たちの時代から三百年以上も昔の景帝から枝分かれした劉備に同族意識を持ち、信頼を寄せた。儒教的価値観が強かった中国社会では、父系同族集団「宗族」は、社会インフラであった。弱小勢力の劉備が中国各地で活躍できた一因は、劉氏宗族のネットワークに便乗したからだ。その点、ライバルの曹操や孫権は、劉氏でなかったぶん、出自の粉飾に苦労した。 もしあの夜、景帝が酒に酔って唐姫と交会していなかったら? 後漢の光武帝(劉秀)も、その後の歴代皇帝も、この世に生まれていなかった。中国史の顔ぶれは、ずいぶん違ったものになっていたろう。 歴史家は、歴史の背後に高邁な理想とか社会的法則性を読みたがる。でも実は、歴史の本質は「唐姫誤会」的な、つまらぬ偶然の連鎖なのかもしれない。 そんなニヒルな歴史観を公言したのが、三国志の孔融である。彼は儒教の開祖である孔子の子孫だが、思ったことを誰にでもぶつける毒舌家だった。後漢の末、朝廷を牛耳った権力者の曹操は、戦争のため食糧を確保しようとして、禁酒令を出した。酒好きの孔融は、皮肉たっぷりの書面を曹操に送った。孔融は、中国の歴史は太古の聖人から現代まで酒と切り離せぬことを縷説したが、そのなかでも、 景帝非酔幸唐姫、無以開中興 (景帝、酔いて唐姫を幸するに非ざれば、以て中興を開く無し) という一句は有名だ。われらの偉大な漢王朝の歴史を見よ。中興の英主・光武帝が生まれたのは、誰のおかげか。景帝が酒に酔って唐姫とセックスした結果じゃないか。酒は偉大なのだよ。わかるかね、曹操くん。―― 曹操は孔融を憎んだ。その後、理由をつけて孔融と、彼の幼い子どもたちを処刑した。それも一因となり、曹操は後世の三国志の物語で悪役となった。 唐姫誤会は、深い言葉だ。歴史の機微とか、自分がこの世に生まれてきた理由とか、いろいろ考えさせられる。ただ、高校の漢文の授業で取り上げるのは、やっぱり無理そうだ。 |