アジア史・日本史・考古学・文学の垣根を越えた学際的な研究を目指して

[ 駿河台キャンパス ]
〒101-8301
東京都千代田区神田駿河台1-1
03-3296-4143

TOP > 活動状況
このページの先頭へ
2015年5月1日(金)
坂口彩夏(日本史学・学生)
殯儀礼と皇位継承 ―8世紀における殯儀礼の変化と天皇空位時の執政―

The Mogari (funeral ceremony) and Succession to the Imperial Throne
by SAKAGUCHI Ayaka

【報告要旨】
 殯とは、天皇の崩御から埋葬までの期間において中核をなす儀礼である。7世紀以前は天皇崩御による新帝即位が主流であるため、皇位継承には必ず空位が生じた。天皇の殯は空位時に開始される唯一の儀礼である。そのため、殯儀礼時の動向を検討することは、次期天皇の決定や天皇空位時の執政形態を窺い知る手がかりとなる。
殯儀礼と皇位継承の関係については、皇太子や群臣による誄儀礼(殯の公的儀礼)より言及されてきた。誄での即位予定者による正統性の主張などの行為から、殯儀礼は即位儀礼の一環と捉えるのが先学の認識である。本報告では他に、空位時における先帝皇后の「詔勅」発布例・発布方法の検討や皇位を狙う穴穂部皇子が敏達天皇の殯宮で奉仕する炊屋姫(のちの推古天皇)を姧そうとした事件から、皇后経験者は先帝の殯宮(喪屋)奉仕によって空位時を補完する役割を担ったことを指摘する。
また、継承法の変化(諒闇即位から譲位による受禅即位へ)と殯儀礼の変化(葬送対象者の変化。天皇から太上天皇へ)の連動性が指摘されてきたが、殯儀礼の転換期・衰退期と評価されるのは元明太上天皇の崩御時であって、初の太上天皇(持統)の崩御時ではない。殯儀礼の大きな変化期を譲位の連続・女帝から女帝への継承・殯宮奉仕者による天皇代理執政という殯儀礼時の一執政形態との関係から考察し、8世紀初頭における殯儀礼の変化要因とその意義を明らかにする。

発表者:𡈽井翔平(考古学・学生)
『藤氏家伝』による称制の一考察
―「皇后臨朝」と殯を視角として―
A study of Shosei(Ruling without official accession to the Imperial Throne) by the “Thoshi Kaden”(Biographies of the Fujiwara clan).
by DOI Shohei

【報告要旨】
 従来、古墳時代から古代にかけての殯研究は文献史研究によるところが大きく、考古学側からのアプローチは、石室に供献される土器や墳丘上の遺構(建物跡)など、殯の期間やその葬送儀礼といった具体的内容まで言及する研究は少ない。そこで本発表では、殯の具体的な内容を考古学的な発掘調査事例から分析を行った田中良之の研究(田中良之1998『人骨および人骨付着昆虫遺体からみた古墳時代モガリの研究』)を紹介することで、考古学側からみた殯に関する分析視点を紹介することとする。
 田中はこれまでの考古学分野からの殯に関するアプローチをとは異なり、5~6世紀の墳墓に埋葬された人骨の出土状況、人骨の検出時に見られる様々な観察所見を用い、殯の葬送儀礼に具体的な期間や葬送儀礼にまで言及している。具体的には、これまで考古学の分野においても議論されてきた殯屋に関する議論に関しては墳丘上における柱穴の多様性を主張し、土生田純之墳丘殯屋説を否定している。次に、人骨の観察所見から埋葬時の体勢から二次的な移動がみられないことから、関節部分の軟骨が残存する短期間で埋葬が行われたとしている。そしてその具体的な期間に関しては、愛知県葉佐池古墳において、確認されたハエの囲蛹殻から3~4日以上という所見を示す。また、宮崎県島内地下式横穴墓から出土した人骨において糞石がみられることから、S字結腸が破裂するまでの期間=1週間程度に埋葬された事例もあわせ、5~6世紀の殯期間は通常3~10日程と想定している。次に、殯における葬送儀礼に関しては。大分県上ノ原横穴墓群において、ある程度人体が腐朽した段階で、人骨を移動させ飲食物儀礼を行っている事例を提唱した。
 これらの考古学的所見からみた古墳時代の殯は、『日本書紀』の「八日八夜」や、『魏志倭人伝』の「十余日」程度の期間のものに合致し、大王墓における数年単位の殯期間は特殊なケースであるといえるとしている。
 このように、考古学側からの殯に関する分析の結果、資料が良好な場合には具体的な殯期間、その内容の一側面を分析することが可能であるといえる。

このページの先頭へ
2015年5月22日(金) 【文化継承学Ⅰ・Ⅱ合同開催】
発表者:井上和人(考古学・教員)
ベトナム・ハノイ・タンロン皇城遺跡の宮殿遺跡―発掘調査研究と国際協力―

Vietnum-Hanoi-Thang Long Citadel Site-Archaeological research and International cooperation-
by INOUE Kazuto

【報告要旨】
 2002年から2003年にかけて、ベトナムの首都ハノイの中心地で、国旗議事堂などの政府中枢施設建設に伴う発掘調査が行われ、大規模な宮殿遺跡が姿をあらわした。従来から歴代王朝の王宮が存在したと考えられていた場所であり、その壮大な遺跡景観は見る人々を圧倒させるものであった。しかし、ベトナムの考古学界のそれまでの学術的経験の中には、このような大規模かつ歴史時代に属する遺跡の調査研究そして保存の手法の蓄積はきわめて乏しかった。わが国は、当時の小泉純一郎首相の決断にもとづき、政府として、この宮殿遺跡-タンロン皇城遺跡の調査研究、保存活用に関して、ベトナム側と共同事業を推進することになった。以後すでに10年を経過したが、その間、2010年にはこの遺跡は世界文化遺産に登録されるなど、多くの成果を上げてきた。しかし、同時に、すくなからぬ問題点も現出し、また今後にいくつかの重要な課題も残されている現状にある。  井上は、この事業に当初から関与してきたのであるが、宮殿遺跡研究のダイナミックなありようとともに、国際研究協力の一事例としての実情を報告する。

発表者:井戸田総一郎(ドイツ文学・教員)
文学するニーチェ― 模倣と創造・継承と断絶 ―
 Nietsches philologischer Anspruch― Imitatio und Creatio, Überlieferung und Bruch ―
by ITODA Soichiro

【報告要旨】
ニーチェはザクセン公国のエリート高等学校シュール・フォルタで徹底した古典語修得に努め、ボン大学・ライプツィヒ大学においてフリードリヒ・リーチュル教授のもとで古典文献学を専攻、同教授の強い推薦により25歳でバーゼル大学古典文献学教室の員外教授に就任している。この講演では、古典語との深い関わりのなかから、ニーチェの独自の文体意識が形成され、文体そのものが文化継承の中心問題になって行く過程と様相を紹介する。特に「パロディア」(ニーチェは古典ギリシャ語の語源で意味でこの概念を用いている)の実践の一端を、詩『ゲーテに寄す』を事例として紹介するとともに、散文と詩文の緊張した関係を示す一事例として『ヴァーグナーの場合』を取り上げる。「形式・音調・言葉」という文体の「表層」に留まることの重要性をニーチェは繰返し主張しており、その意義について考えて行きたい。 本年10月にドイツ・ナウムブルクのニーチェ研究センターにおいて、ニーチェの詩作を中心テーマにした国際シンポジウムが5日間にわたって開催される。井戸田は基調講演の一つを担当することになっており、本発表はその一部を含むものである。