アジア史・日本史・考古学・文学の垣根を越えた学際的な研究を目指して

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2014年4月25日(金)
発表者:神野志隆光(日本文学・教員)
持統天皇即位の劃期性
The Epoch-Making Succession to the Throne of Emperor Jito(持統天皇)
by KOHNOSHI Takamitsu

【報告要旨】
 吉村武彦「古代の王位継承と群臣」(1996、初出1989)は、古代の王位継承についてのきわめて重要な提起であった。推古天皇崩後舒明天皇即位にいたる『日本書紀』の語る事情(推古三十六年条~舒明即位前紀)を出発点として、群臣によって天皇が決定されるという仕組みを検証し、大化前代には「群臣の推挙のプロセスが必要であった」という「王位選定のシステム」があったというのである。それは、即位儀礼におけるレガリアの献上をからめてなされたものであった。岡田精司(1992、初出1983)をうけ、群臣が「宝器」を献上して即位するというかたちを『日本書紀』から抽出して(p.118)、その論のささえとしたのである。そこにおいて、持統天皇の即位にあたって今までとはまったく異なる令の践祚条に見合うようなかたちとなったことを指摘したのであった。
この提起にたって、わたしは、持統天皇即位の劃期性を明確にすることができると考える(神野志隆光1999)。それ以前の天皇の即位とはまったく異質であることは、岡田・井上光貞(1984)らが、降臨神話に根拠づけられた「神器」として連続的に見てきたことの根本的な見直しをもとめるのである。ただ、吉村は、そうした方向に進むことなく、したがって、持統天皇即位の劃期性(飛躍性)を明確にし得なかった。それは持統天皇の問題を「王位継承」ないし「王位選定」において位置づけることなくおわる結果となっている。
レガリアが即位にとって持つ意味を考えるならば、決定的な転換点は持統天皇にあったと見るのが自然ではないか。皇極天皇の譲位が「王家の意思によって」おこなわれたと吉村はいうが(p.119)、それは正当か。吉村の提起自体にそって見るとき、孝徳天皇の即位は、群臣の合意の新たな構築というべきではないか。「大化の改新」にとらわれることが、自説の正当な展開を阻害しているのではないか。吉村説に立って『日本書紀』を読み通す――この点で吉村自身は、舒明即位前紀の読みからして不徹底であったといおう。ずっとそうしたシステムであったものが、ここでいわば先鋭化することに留意して『日本書紀』に向かわねばならないが、それがない――とき、そこに語られる「歴史」がより明確にされるのだと考える。
持統天皇は、はじめて「天神壽詞」をうけ、「神璽」をたてまつられて即位した。浄御原令にもとづいたか大宝令による文飾か、そのことは問題ではない。『日本書紀』が神権性を語る、その異質さが決定的な問題なのである。『日本書紀』がここで区切られる所以である。そして、その神権性は譲位の保障であったことを見落としてはならない。かくて譲位を受けて、文武天皇が、あらたな王朝を継ぐものとしてあらわれることとなった(『続日本紀』第一詔)。

発表者:坂口彩夏(日本史学・院生)
『藤氏家伝』による称制の一考察
―「皇后臨朝」と殯を視角として―
A study of Shosei(Ruling without official accession to the Imperial Throne) by the “Thoshi Kaden”(Biographies of the Fujiwara clan).
by SAKAGUCHI Ayaka

【報告要旨】
日本における称制は天智天皇と持統天皇が自身の即位前におこなった天皇代理執政である。こうした持統の称制は『日本書紀』に「皇后臨朝称制」と記されている。本報告では、これと類似する『藤氏家伝』(鎌足伝)にみえる皇極天皇の「皇后臨朝」記事を取り上げ、称制の契機となる天皇崩御と殯儀礼(葬送儀礼)、空位時における先帝皇后による執政との関係より、称制と評価された実態について検討した。
皇極の「皇后臨朝」という記述は編者である仲麻呂の唐風趣味より、中国における「臨朝称制」の概念の反映が想定される。これを唐代の即位儀礼・葬送儀礼・称制との連関より検討した。唐では、先帝の柩前で新帝が第一次即位し、葬送儀礼後に第二次即位して正式に皇帝となる。第一次即位した新帝が諒闇や幼年を理由に執政できない場合、皇太后が称制をおこなう。殯期間中に即位した皇極は、仲麻呂の趣向から唐の即位儀礼形態になぞらえて第一次即位とみなされ、このときに執政は即位前の持統と同じく「皇后臨朝(称制)」とされた。つまり、殯季刊における皇極の天皇としての執政は、同期間における先帝皇后の執政として捉えられていたと考えられる。
こうした8世紀における皇極天皇像より、7世紀の女帝が共通して皇后経験を持つ意義を考えたい。

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2014年5月9日(金) 【文化継承学Ⅰ・Ⅱ合同開催】
発表者:石川日出志(考古学・教員)
杉原荘介と日本考古学界の組織化
:1940年代後半~1960年代前半
SUGIHARA Sosuke : an Organizer of Japanese Archaeology for two decades after WWⅡ.
by ISHIKAWA Hideshi

【報告要旨】
 考古学者・杉原荘介(1913-1983)がこの世を去って30年あまりが経過した。
杉原は、明治大学の考古学部門の創始者のひとりであり、強力な、というよりむしろ強烈な、と形容すべき牽引者であった。しかし、牽引者としての活躍は、明治大学というよりも日本の考古学界においてこそ意識して実行され、特にそれは戦後約20年間に集中している。越前和紙杉原紙問屋の若旦那であったことから「荘介旦那」と揶揄されるほどに強引な場面もしばしばであったが、杉原の牽引によって戦後日本考古学界の組織化が大きく進展したことは確かであろう。
 静岡市登呂遺跡の官民共同・学際的調査の実現(1947‐50年)、日本で初めての全国学会組織である日本考古学協会の創設(1948年)、日本における旧石器時代文化の存在を実証した群馬県岩宿遺跡の調査(1949‐50年)、そして日本考古学協会内の特別委員会として行った弥生文化研究(1951‐58年)について、本人と周辺の人々の証言と記録から、その活動の舞台裏を紹介する。
 本報告は、考古学近現代史の試みのひとつである。報告者は、杉原の最晩年6年間教えを受けた身であるが、過大評価することなく、冷静に評価しつつ、自らの存立基盤を確かめたい。

発表者:野田学(英文学・教員)
演劇性という思考:ウィリアム・ハズリットのキーン評と開かれた自己
 Theatricality as a way of thinking: Open self in William Hazlitt’s reviews on Edmund Kean
by NODA Manabu

【報告要旨】
キーワード 演劇性、パラダイム、ロマン派
概要:本論は、ウィリアム・ハズリット (William Hazlitt, 1778-1830) の キーン(Edmund Kean, 1789-1833) 評における「バイプレイ (bye-play)」という語に注目した。最終的論点は、ハズリットにとってバイプレイは、彼の「開かれた自己」という、すぐれて演劇的な思考と密接に結びついているということである。本論が踏んだ手順は以下の通りである。
 1 ハズリットのキーン:特にバイプレイに関して――ハズリットの用いる「バイプレイ」に注目するこのセクションでは、諸情念の重層的演劇表象を目指す《テクストの余白への演技による注釈》としてのバイプレイが、18世紀の新古典主義的情念表象法の硬直した図式性に対するロマン派的対抗手段としてハズリットにより捉えられていたことを示した。
 2 ハズリットの機械的感覚論/唯物論的観念連合論批判と「バイプレイ」――機械的な18世紀的感覚論ならびに観念連合論への批判として書かれたハズリットの『ハートリーとエルヴェシウスのシステムに関する見解 (Remarks on the Systems of Hartley and Helvetius)』(1805) を考察し、諸観念は複数の――究極的にはすべての――他の観念に対して直接アクセスができなければならないとするハズリットの主張が、諸情念の重層的演劇表象としてのバイプレイを賞賛するハズリットの姿勢の背後にあることを示した。
 3 自分の外に出るということ:ハズレットの「自己愛」論批判と「バイプレイ」――18世紀的経験論(特にホッブズ)の機械的自己愛説を批判したハズリットの『人間行動の原則に関する試論 (An Essay on the Principles of Human Action )』(1805) を考察し、人間の同一性形成には、未来の自己という《他者》への想像力が不可欠である以上、人間には他者に対する同一化的想像力が本質的に備わっているというハズリットの考えを示した。古人の殻を打ち破るこの想像力に《開かれた自己》の契機をみたハズリットだからこそ、彼は他者の情念を表象する俳優のバイプレイを、自分を空しくして他者の特異的な情念を一つの統一体として表象する想像行為であると考えたのである。
 4 ハズリットのワーズワース批判:演劇性のありか――ハズリットによる1820年の『ロンドン・マガジン』誌上の記事においても「バイプレイ」の語は用いられている。最終セクションでは、ここで彼が展開するワーズワース論に込められた唯我的なロマン派的「病」批判を考察し、劇作家は自己という名の幻想の殻をやぶり別人へと己をむなしくして想像力を馳せるシェイクスピアのような腹話術師になるべきだという彼の主張を紹介した。優れた劇作家は「腹話術師」になるべきだという彼の主張は、ロマン派的<個>を過去と未来に引き裂かれた現在にある存在として捉えることにつながっている。彼にとって個人とは、決して内面への耽溺を自己完結的に許容するような閉じた存在ではなく、むしろ(いわばサルトル的に)未来へ自らを企投する実存なのである。個人の開かれた構造はその中に他者を孕まざるをえないとする彼の主張は、バイプレイを賞賛する彼の思考の根底にある《開かれた自己》という演劇的思考と直結している。

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2014年5月23日(金)
発表者:湯淺 幸代(日本文学・教員)
『源氏物語』玉鬘の筑紫流離について
by YUASA Yukiyo

【報告要旨】
  『源氏物語』の玉鬘は、夕顔(三位中将の娘)と内大臣(光源氏のライバル・頭中将)の娘である。母・夕顔は、内大臣の正妻による後妻打ちから逃れるべく娘とともに姿を隠すが、新たな恋人・光源氏により連れ出された廃院で死去してしまう。結果、玉鬘は乳母一族に伴われ、筑紫へ下向し、その後二十歳になるまでかの地で過ごす。
 玉鬘の流離地として筑紫が選ばれたことについては、『紫式部集』に筑紫へ下る友人との贈答歌があり、また作者の夫である藤原宣孝が筑紫守・大宰少弐を務めていたことから、執筆に際し情報を得られた可能性や、筑紫で亡くなった友人への鎮魂の意などが指摘されている。
 一方、物語内における筑紫への流離の必然性としては、松浦佐用姫伝承に彩られる霊的・幻想的な文学風土の地を設定することにより、夕顔と玉鬘の位相(巫女性)を三輪山伝承と『肥前国風土記』の弟日姫子によって結びつける見解がある(注1)。反対に夕顔と玉鬘との差異に注目すれば、外来文物の流入地である大宰府の先進性を玉鬘が身につけ、後の六条院世界で唐風文化を背景に演出される素地を作るとの意見がある(注2)。
 本発表でも、玉鬘の筑紫への流離は、玉鬘の人物造型、ひいては物語の構造にとって必要な過程として捉えたい。『河海抄』(四辻善成著、1362頃成立)には、玉鬘に求婚する肥後の土豪・大夫監の歌の注釈として、神功皇后の伝承を載せる。この伝承と物語との関わりを精査しながら、最終的に玉鬘を「后がね」(内実は「私の后」)として、物語に浮上させる仕組みについて考える。
注1 秋澤亙「松浦なる玉鬘─その舞台設定の意義をめぐって」(『国学院雑誌』1996年12月)
注2 塚原明弘「唐の紙・大津・瑠璃姫考」(『論叢源氏物語2 歴史との往還』新典社、2000年)

発表者:石川 日出志(考古学・教員)
「漢委奴國王」金印の複眼的研究
Interdisciplinary study of the gold seal“Kan no Wa no Nakoku no O”
by ISHIKAWA Hideshi

【報告要旨】
蛇形の鈕をもつ「漢委奴國王」金印は、江戸時代の天明4年(AD1784)に、博多湾沖の志賀島で発見された。直ちに亀井南冥は、この金印が『後漢書』倭伝が伝える、倭の奴国の「奉貢朝賀」に対して光武帝が回賜した「印綬」の実物とみる見解を提出し、現在にいたるまで定説となっている。日本列島における初期国家形成史の一齣を知る重要資料である。
しかし、発見された江戸時代から繰り返し偽物説が出され、近年でも新たに江戸時代に製作されたとみる意見(三浦祐之2006・鈴木勉2010)が出されている。
考古学界では、1968年に岡崎敬が精密計測して、金印の四辺の法量が高い精度の値を示し、その平均値が2.347㎝をはかり、それが戦後の後漢代の出土尺の1寸と一致すると判断してのち、だれもこれを疑わない。ところが、江戸時代初期の中村惕齋(1629-1702)が後漢尺の1寸=2,358㎝と復元し、この惕齋が「監造」した古尺が江戸時代に流通し、狩谷棭斎(1775-1835)も後漢建初六年(AD81)銘の1尺=23.566㎝の慮俿銅尺(模造)を保有しており、岡崎説を根拠とすることはできない。
そこで、振出しに戻って、再度金印を多角的に検討する。すなわち、中国の戦国時代から日本の江戸時代までの出土金製品の金属組成がどのように変化するのか、出土尺や古印の法量の時代的変遷、蛇鈕印の形態的特徴、「漢委奴國王」5字の字体、などの検討を進めた。まだ最終的結論まで至っていないが、江戸時代に製作することはほとんど不可能であると判断する。とりわけ「漢委奴國王」の5字の字形は、後漢前半期とみるべき特徴をもっており、それを江戸時代に知ることはできないからである。
今後、おもだった資料の観察をとおして、江戸時代説が成立し得ないことを証明したい。複眼的研究の一例として、まだ途中経過ながら、その要点を紹介する。

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2014年6月6日(金)
発表者:神鷹 徳治(日本文学・教員)
那波道圓刊本白氏文集の底本について
On the Sources of NAHA Doen’s Edition of the HAKUSHI-BUNSHU(白氏文集)
by KAMITAKA Tokuharu

【報告要旨】
宋本系本文の『白氏文集(ぶんしゅう)』としては、前集・後集からなる朝鮮刊本(銅活字本・木版本)、前詩後文本の南宋紹興刊本が知られている。那波(なは)本『白氏文集』は前集・後集からなる本来の作品の編成を伝えている刊本としてとして、きわめて貴重なものである。その本文は、南宋本系に属している。ただし、那波道圓(どうえん)が刊行する際、その底本を明記しなかったので、その系統が長らく不明であった。四部叢刊に収められているが、そこでは「覆宋版」としている。直接の底本は朝鮮版に由来するということが近時の研究である。ところが、中国の文献学者・陳尚君氏は、日本の狩谷棭斎が所蔵していた「覆宋版」が那波本の底本であるとの見解を提出している。今回の発表では、那波本の底本について諸説を紹介した上で、陳尚君氏の新見解を検討してみることにする。

発表者:金木 利憲(日本文学・院生)
『太平記』所引の『白氏文集』の本文系統
The Genealogy of the Text of Hakushi-bunshu(白氏文集) cited in Taiheiki(太平記)
by KANEGI Toshinori

【報告要旨】
中国・唐の文人官僚、白居易の著作集『白氏文集』は、平安時代前期に日本に渡来して以来、底知れない影響を日本文学と日本語とに与え続けてきた。その本文は、南宋時代の刊本の成立を境にして変容する。中国においては、唐代の古い本文は滅び、刊本系本文に一新されるのである。
この本文交代は日本においても見られ、通行本は鎌倉時代までが旧鈔本(唐写本の日本での重鈔本)系本文、江戸時代は刊本系本文となる。すなわち、『白氏文集』の本文の主流は室町時代から安土桃山時代までかけ、徐々に交代していったと考えられるのだが、未だ詳論を見ない。
今回の発表では、『太平記』が引用する『白氏文集』に焦点を当て、『白氏文集』本文交代期の様相がどのように作品内部に反映されているかを考察したい。

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2014年6月20日(金)
発表者:黒田 彰(日本文学・佛教大学)
祇園精舎の鐘の声攷
―祇園図経覚書―
 
by KURODA Akira

【報告要旨】
平家物語の書出し、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり」については謎が多い。それが難解を以て鳴る点は、かつて後藤丹治氏が、「平家物語難語考(一)」(『国語国文の研究』21、昭和3年6月)において指摘された通りである。後藤氏の功績は、平家物語のそれが、源信の往生要集上に拠り、また、往生要集は、唐、道宣の祇園図経(祇洹寺図経)下を引いたものであることを、疑問の余地なく明らかにされたものであったが、後藤氏の驥尾に付し、私も以前、「祇園精舎覚書―注釈、唱導、説話集―」(拙著『中世説話の文学史的環境』Ⅱ一1。初出平成2年2月)、「祇園精舎覚書―鐘はいつ誰が鳴らすのか―」(『京都語文』20、平成25年11月)と題する二本の論文を書いたことがある。就中後者は、祇園図経に、祇園精舎の無常院、無常堂の

  其頗梨鐘、形如腰鼓。鼻有一金毘侖、乗金師子、手執白払。病僧気将大漸。是金毘侖、  口 説无常苦空无我(版本に拠る)
とされる現行本文の、「金毘侖」なる表記には疑義があり、それは、「金昆侖」であろうことを論じたものであった。
 さて、ここでなお二つの問題が、新たに生じる。祇園図経は、腰鼓のような形をした無常堂の頗梨鐘の鼻(取っ手)には、金師子に乗って、白払(払子)を持った、金昆侖がいると言うが、その昆侖とは、一体何なのであろうか。これが第一の問題である。さらに、祇園図経は、鼻に崑崙、師子を備えた、無常堂の頗梨鐘が、腰鼓の形をしていると言う(また、無常院の銀鐘は、須弥山の形をしているとも言っている)。すると、道宣は、腰鼓(須弥山)に似た鐘をイメージしている訳だが、その鐘は一体どのようなものなのであろうか。それが第二の問題である。
 まず昆侖(崑崙)が、東南アジアの黒人を指すことは、既に戦前、駒井義明、桑田六郎、松田寿男などによる、纏まった考察もなされているが、第二次世界大戦後、特に中国における歴史、考古、美術分野の目覚ましい研究の進展があって、今日かなり具体的に、その内容を把握することが出来る。次いで、祇園精舎の鐘に関しては、残念ながら、そのイメージを追究する試みは、未だ管見に入らないが、昆侖の問題を考えてゆくと、興味深いことに、昆侖と地域的な分布の重なる、銅鼓という楽器が視野に入って来る。そこで、この度の私の発表においては、上記の二つの問題を考えてみようと思う。
発表者:牧野 淳司(日本文学・教員)
平家物語と表白
Tales of the Heike and hyobyaku (a representative ritual text corresponding to the declaration of intent)
by MAKINO Atsushi

【報告要旨】
 『平家物語』は巻六の冒頭で高倉院が崩御したことを語る(「新院崩御」)。ここで物語は、息子である高倉院を失った後白河法皇の歎きがはなはだしかったことを述べている。諸本の中でも寺院で書写された延慶本は、後白河法皇の心中をとりわけ詳しく記している。ここに表現されるような法皇の「御心中」はどのようにつくられたのか。ここで、法会のために作成された表白に注目してみたい。『平家物語』は、表白の文体と方法ばかりでなく、仏教儀礼の場でつくりあげられた法皇像をも取り入れているとみてみたい(昨年公刊された『尊勝院弁暁説草 翻刻と解題』勉誠出版を資料として用いる)。これにともない、表白を読み解く意義についても考えてみる。表白作成や表白集編纂という営みはいかなる世界と文化を生み出していったのか、後白河法皇の時代に活躍した澄憲の表白を取り上げながら、いくつかの視座を提示する。

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2014年7月4日(金)
発表者:土井翔平(考古学・院生)
祇東日本における弥生・古墳時代移行期における墓制の変遷
 Temporal Change in Mortuary Practices during the Transition from the Yayoi to Kofun Periods in Eastern Japan
by DOI Shohei

【報告要旨】
弥生時代に階層性の萌芽がみられ、九州地方から東北地方南部まで広がる広域な政治体制を形成するとされる古墳時代の定義は、主に古墳によって規定されるものである。
これまで弥生・古墳時代における墓制研究は西日本中心に行われてきた。それは、西日本において周溝墓・墳丘墓など弥生・古墳時代移行期における代表的な墓制が多くみられ、畿内を中心とした大形前方後円墳が多数築かれることから、墓制の連続性が明確に認識できるためである。その反面、東日本においては、研究当初から弥生・古墳時代移行期における明確な画期を墳墓の面からが見出すことが困難であった。
そのため、西日本において設定された墓制の変化やその性質を、疑いなく東日本に適用させていた。しかし、近年の資料数の増加や、九州から東北地方南部にかけてのタイムスケールの充実などにより、東日本における弥生・古墳時時代移行期における墓制の様相が明確になってきており、その墓制の様相から見ても西日本と必ずしも同様の変化は認められないという状況がある。それにより、古墳時代の東日本における多様性を検討する研究が近年増加しているが、そのような研究状況においても、弥生・古墳時代の墳墓研究は、一部の大形墳墓または古墳へ変遷する特徴的な墳墓を中心として議論が進んでおり、弥生時代から続く多様な墳墓形態全体を通史的・総合的に捉えるような分析視点はこれまで見られなかった。
 本研究では、東日本において、弥生時代からの古墳時代への墳墓の連続性が明確に捉えられ、かつ古墳時代に多くの古墳が築かれる群馬県域を対象地域とし、中小規模墳墓を含むすべての墳墓を分析対象として、墳形・主体部・供献土器の観点から墳墓ごとの属性を検討し、移行期における属性の変化を分析した。
その結果、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて2つの画期が存在することが明らかとなった。1つは弥生時代後期に、主体部の構造において北部では礫床墓、南部では土壙墓を用いる差異がみられ、2つ目は弥生時代終末期から古墳時代にかけて、主体部は統一されるが、供献される土器に関して在来系を用いる墳墓形態と、東海地方に特有の外来系の土器を用いる墳墓形態に分かれ、外来系の土器に関しても地域によって独自に変化していることが確認された。従来、東海地方からの一方向的な文化の流入があるとされてきた群馬県域の中で地域によって地域によって多様な属性が存在し、それらが移行期の段階に独自化・複合化を果たし前方後円墳出現の基盤を形成する様相を想定した。

発表者:佐々木 憲一(考古学・教員)
古墳から寺院へ
 Transformation of Elite Symbolism from Keyhole-shaped Burial Mounds to Buddhist Temples in Seventh-Century Japan   
by SASAKI Ken'ichi

【報告要旨】
7世紀には古墳の築造が廃れ、社会の中では仏教寺院が権力のシンボルとしての役割を担うようになる。古代寺院は往々にして大型前方後円墳の付近に築かれるケースが多いことが、この認識の根拠となっている。一般的には、前方後円墳築造が6世紀末までに終わり、7世紀には大型円墳・大型方墳が一時的に権力のシンボルとなり、そして仏教寺院が築かれる、という時間的変遷を追うことが可能である。近年、7世紀の古墳の調査が進展し、たとえば、前方後円墳が築かれなかった地域に古代寺院が建立されるケースなど、この変化の過程がきわめて多様であることが明らかとなった。本発表では、このような多様なケースを概観し、発表者本人の最近の調査成果を解説したい。

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2014年7月18日(金)
発表者:五十嵐基善(日本史学・院生)
律令制下における甲の生産・運用について
 About the Production and Use of the Armor under the Ritsuryō Code Rule
by IGARASHI Motoyoshi

【報告要旨】
日本の律令制下において、防具である甲(よろい)は重視され、他の武具(大刀・弓箭具など)とは異なる性格を持っていた。本報告では、律令制下における甲について、[1]甲の形状、[2]甲の生産体制、[3]軍事行動における甲の運用、を分析対象とする。当該期の甲をめぐっては、文献史料による考察を基本とせざるを得ないが、隣接時期の出土遺物・伝世品との連関性にも留意する。
[1]律令制下の甲について、文献史料には短甲・挂甲の名称が確認できる。この名称は、古墳時代の甲にも使用されており、律令制下の甲を考える上で大きな影響を与えている。しかし、律令制下における短甲・挂甲は、両者とも小札(こざね)を連結させたものである。古墳時代における甲の名称をめぐっては、定義の見直しが進められてきてはいるものの、考古学による定義に問題があることを提示する。
[2]律令制下における武具は、年料器仗制による計画生産が行なわれ、諸国では年間に一定数の武具(甲・大刀・弓箭具)を製作していた。年料器仗制の甲は、鉄製の挂甲(両当式挂甲)であったが、8世紀後期には革製の挂甲(両当式挂甲)に変更された。また、9世紀初頭には革短甲(胴丸式挂甲)に切り替わった可能性がある。さらに、甲は修理により長期間の使用が可能であり、7世紀代の甲も含めると複数の形状・素材が混在していた。
[3]甲は大量に製作することは容易ではなく、大規模な軍事行動を発動する際に問題とされることになる。新羅征討計画(8世紀中期)では、綿製防具の大量生産により対応している。「三十八年戦争」(8世紀後期)では、奥羽両国に対する甲の支援、広範囲での臨時生産を実施している。しかし、甲の数量には限りがあるため、前線の部隊を優先に配備し、決められた数量の中で運用していたことが特徴である。  兵員の防御力を高めるために甲は不可欠であるが、律令制下においては大量に製作することは困難であった。しかし、日本の律令制国家は、防御力の強化は放棄しておらず、可能な限りの対応を行なっている姿勢が確認できる。

発表者:吉村武彦(日本史学・教員)
日本古代における兵士徴発と戸籍制度
Census Registration System and Commandeering Soldiers in Ancient Japan   
by YOSHIMURA Takehiko

【報告要旨】
太宰府市の国分松本遺跡から出土した木簡は、興味深い事実が記されている。九州大学坂上康俊さんは「嶋評戸口変動記録木簡」と呼んでいるが、691年(持統5)ないし697年(文武1)の1年間の戸口変動記録の可能性が強い。「嶋評」「同里人」「進大弐」の名称が見えるほか、「小子」「老女」「丁女」という年齢区分もある。私が関心をもったのは、「兵士」と「政丁」の用語である。かつて戸政や丁政の語について述べたことがあったが、「政丁」はその内容をさらに豊富にする歴史的用語である。また、政丁と兵士とが区別されていることが、はじめて判明した。兵士制の成立を明らかにできる一史料である。
また、熊本県の鞠智城(山鹿市・菊池市)の発掘調査の成果は、これまでの古代城柵の「理解」を超える内容をもっている。従来は、東北日本の城柵には官衙的側面が強く、西日本の朝鮮式山城は「逃げ城」的性格が強いといわれてきた。私の鞠智城への研究は、まだ初歩的段階の域をでないが、鞠智城は単なる朝鮮式山城ではなく官衙的な様相を示唆している。『続日本紀』文武2年(698)5月25日条に「大宰府をして、大野・基肄・鞠智の三城を繕治はしむ」とみえるのが初見記事である。このなかで、大野・基肄城は『日本書紀』天智4年8月条に「達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して、大野及び椽(基肄)二城を築かしむ」とあるのだが、鞠智城はない。熊本県主催の鞠智城シンポジウムを契機に、多くの研究が積み重ねられてきたが、ようやくこれまでの固定観念を離れた研究視点がだされてきた。
兵士制は戸籍の作成と密接な関係があるが、国分松本遺跡出土木簡の兵士は、大宰府関係の山城築城との関係が推測できるし、肥後国の兵士は鞠智城との関係も憶測できる。この兵士制については多くの論文が出ているが、日本思想大系『律令』の解説にも問題点がある。兵士制の研究は、戸籍研究を深めなければならないことを強く感じる今日この頃である。
両者に通じることは、浄御原令時代の研究の如何である。律令制国家の基礎をつくった浄御原令は、一条も残っていない。しかし、その内容・構造が重要なことがわかってきた。ただし、研究者が少なく前途多難である。中国の永徽律令の研究、古代朝鮮の制度とりわけ百済の法社会の経験、倭国の在地法、考古学的発掘調査の成果の吸収、そして仏教史の理解など、まさしく学際的・国際的研究が必要な研究分野である。

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2014年10月3日(金)
発表者:井上和人(考古学・教員)
平城京形制の成立
 The Realization of Heijokyo Planning system
by INOUE Kazuto

【報告要旨】
平城京は全体形が縦長の長方形を呈している。明治末年の関野貞による平城京の研究以来、平城京は唐長安城を模倣して造営されたとする理解があった。ところが1960年代以降、平城京はその直前の都である藤原京の拡大版であり、藤原京は長安城とは著しく異質な形制をとっているとする説が流布し、日本古代都城の淵源を隋唐以前の、とくに北朝の諸都城に求める研究が活発に展開された。しかし、1996年の発掘調査で、藤原京が正方形の全体形であったことが明らかになり、それまでの日本古代都城起源論および遷都論は全面的な再考を求められることになった(はずであった)。そうした中、井上は新たな視点に基づき、平城京が長安城を強く意識して設計されたと確証するに至り、旧来の理解に回帰する所論を提起したが、それに対して否定的な言説も提起されている。国家成立論に関わる興味深い議論でもあり、その是非に関して報告する。

発表者:十川陽一(日本史学・研究推進員)
宮都造営における天皇の意思伝達
The Emperor’s Orders in the Construction of Ancient Capitals   
by SOGAWA Yoichi

【報告要旨】
古代の日本においては、宮都をはじめとする大規模な造営事業が継起的に行われたことは改めて述べるまでもない。これらの造営事業は、7世紀半ばから9世紀初頭までの、律令国家の成立・展開と軌を一にするという点で、日本古代史を考える上で重要な存在であると考える。
報告者はこれまで、こうした造営事業について研究を進め、国家形成とも関わって天皇や天皇家産の存在が核となって展開したことを述べてきた。このように造営事業において天皇・天皇家産の存在が重視されるとすれば、造営事業を行うにあたって、天皇の意思がどのように発現し、伝達されたかという点を‎明らかにする必要がある。
本報告ではこのような問題意識から、①宮都造営の法制上の手続、②宮都造営に当たった官人、③天皇家産の管理に当たった官人、の主に3つの視点から、造営事業における天皇の意思伝達について考察したい。

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2014年10月17日(金)
発表者:加藤友康(日本史学・教員)
平安貴族の異国認識
 Conscious mind about foreign countries of noblesse in Heian Period
by KATO Tomoyasu

【報告要旨】
平安時代の国際関係、それに規定された支配層である平安貴族の国際認識、平安期の国家の対外政策について、「古代貴族の閉鎖的な意識、無知と無見識という結果をもたらした」〔石母田正「日本古代における国際意識について―古代貴族の場合―」1973〕とする理解があったことは確かであろう。それまでの森克己氏の研究をはじめとする限られた研究の段階により生み出されてきた理解(平安貴族の「退嬰的」な外交方針)に対して、平安期の外交政策を「積極的孤立主義」と位置づける説〔石上英一「日本古代一〇世紀の外交」1982〕もあったが80年代には十分に議論が展開しなかった。しかし90年代以降近年では、平安時代には狭義の「国交」はなかったが、国際交流の拡大の潮流に日本も投げこまれていたことが多面的に解明されてきており〔石井正敏・村井章介「通交・通商圏の拡大(通史)」2010〕、そのなかであらわれてくる国際意識とはどのようなものであったのかの解明が新しい課題となっていると思われる。
 この問題について、(1) 律令における「矛盾する二つの基準」、その調整弁としての「詩宴」、(2) 唐物への憧憬と新羅への懼れという矛盾する意識、そこから生まれるダブルスタンダードとしての外交方針、(3) 「寛平の外寇」と呼ばれる新羅の侵攻のトラウマからの高麗への懼れ、(4) それにもかかわらず唐物の流入が、日本・唐(宋)・高麗の諸国を相対化する意識を醸成させたことを、かつて検討した〔加藤友康「平安貴族の国際意識」2012〕。
 今回の報告では、その際に「このような対外関係のなかでの「異国意識」の成立は、「蕃国」観を生んだ中華思想など律令制的な外交体制を支えた理念・思想の喪失ないし変質を意味するであろう。その基礎には「国境」「国家」を超えた人々のつながりがあったが、「異国」意識自体がそのまま他国に対する偏見のない意識として開花したわけではなく、中世日本の「神国」意識などと絡み合いながら複雑に展開していくことになるが、本稿の範囲を超える課題であり、別に検討が必要である」として残した、院政期における平安貴族の異国認識(ひいては自国認識)を、承暦4年(1080)の高麗医師派遣問題をテーマに検討を加えたい。
 高麗文宗の病治療のために医師派遣を要請する「高麗国礼賓省牒」をうけ、陣定を開催して論議するが、結果として派遣しないこととなった事件である。関連する史料は、『朝野群載』巻20に「高麗国礼賓省牒」「日本国大宰府牒」が収められ、また『本朝続文粋』巻11にも大江匡房作として後者が収められている。これらの史料からは結論しか知ることができないが、この間の陣定での公卿たちの意見は、『水左記』(記主はこのとき大納言である源俊房)、『帥記』(記主はこのとき権中納言である源経信)という二つの古記録にみることができる。これらの記録から当該時期の公卿たちの異国認識を検討していくと、他の諸民族・諸地域を蕃国として位置づける「中華思想」(中国王朝周辺国においては「小中華思想」とも位置づけられる)とは位相を異にする、“異国”を相対化したうえで“異国”対する「優越感」の存在、「優越感」の裏返しとしての「劣ってはならない」(劣ることは「恥」)という意識の存在を読み取ることができよう。

発表者:朴知恵(日本文学・院生)
『平家物語』に於ける朝鮮半島の認識
―「医師問答」章段をきっかけに―
  
by PARK Jihey

【報告要旨】
いわゆる「医師問答」と呼ばれる著名な章段がある。悪瘡になった重盛を心配した父清盛が宋の医師を進めるが、重盛は幾つの理由を挙げてそれを拒否する。その理由として医師の先例を挙げていくが、その一つが典薬頭雅忠の事例であった。唐の后が悪瘡になって名医を要請されるが、効験がないと国の恥辱になるので拒絶する返状を送る事にしたという説話である。これは『水左記』、『帥記』などの史料や『江談抄』、『続古事談』、『古今著聞集』では、「高麗」からの要請となっている。
一方、『十訓抄』では、「唐の后」となっている。これらのテキストからこの説話が広く流布されていた事が窺えるが、『十訓抄』の記述は他のテキストと比べ、変色されていることがわかる。『十訓抄』との関連性については水原一氏(「説話との関連」『延慶本平家物語論考』加藤中道館、昭和54年6月)などが既に指摘している。ただし、この章段以外では『江談抄』や『古今著聞集』などの説話集の受容も指摘されている。他のテキストと比較して『十訓抄』の最も異なる点であり、延慶本との共通点である事は「高麗」が「唐」となっていることである。「医師問答」の章段では、偶然『十訓抄』を取り入れたのではなく、「唐」が延慶本に適合したので、取り入れたのではないか。
この仮定のもとに、延慶本における朝鮮半島の国々の用例を調べて考察を加えたい。

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2014年11月14日(金)
発表者:須永忍(日本史学・院生)
日本古代における上毛野氏について
 The Study of Kamitsukenushi(Kamitsukenu Clan) in Ancient Japan
by SUNAGA Shinobu

【報告要旨】
本報告は、古代上毛野地域(上野国・現群馬県)を基盤とした、上毛野氏について検討したものである。上毛野氏は、『日本書紀』にて東国の支配を承認された氏族として描かれており、他の東国氏族とは一線を画する性格を有している。こうした上毛野氏の検討は、ヤマト王権や律令国家から重要視された東国を研究するにあたり、大きな意味を持つ。
 『日本書紀』には、東国支配承認・対外政策・対蝦夷政策に関連する上毛野氏の祖先伝承が多く採録されており、東国の支配者たる同氏を顕彰する性格を持っている。しかしながら、これらの伝承記事を史実と評価することはできない。『日本書紀』所載の上毛野氏の伝承は、国史の編纂が本格的に開始された天武朝において高い地位にいた上毛野三千などを始めとする、上毛野氏の意向が反映されているからである。
 ただし、上毛野氏が『日本書紀』にこうした祖先伝承を掲載し得たのも、同氏が長年王権に仕奉し続けてきたためである。4世紀後半以降、上毛野地域の有力者層や上毛野氏は連綿と王権に仕奉し続けており、王権の東国における最大の協力者・「従属者」であった。また、王権の対外政策や対蝦夷政策でも大きな役割を担っており、こうした上毛野氏の長年における仕奉実績が、『日本書紀』への祖先伝承の掲載が果たされた主な要因である。天武朝における上毛野三千の高い地位も、同様に考えることができる。
 また、本報告では、上毛野氏が創り出した『日本書紀』の東国支配者像が、坂東支配者を目指した平将門に与えた影響について予察を行った。

発表者:小野真嗣(日本史学・院生)
坂東における桓武平氏の勢力拡大と在地豪族
The Expansion of Kanmu-Heishi and the Powerful Local Clan in Bando   
by ONO Shinji

【報告要旨】
今回の共通報告テーマは「古代東国」であり、報告者は平将門の乱前後の桓武平氏高望流の東国、特に坂東における勢力拡大について論じる。
 平将門の乱は桓武平氏高望流の一族間での争いが発端であり、将門の敗死によって乱が終結した後も高望流平氏一族の争いは継続していく。そして、その争いが平維良の下総国府焼き討ち事件や平忠常の乱の発生の要因となっていく。
 このように、高望流平氏を中心とした兵乱が坂東で頻発する前提には、平高望の上総介任官以来、高望流が坂東において急速に勢力を拡大したことが挙げられるが、勢力拡大の背景や要因については今まで詳細に論じられることはなかった。
 そこで、本報告では平将門の乱における高望流平氏の勢力範囲を確認したうえで、高望流平氏の坂東における勢力拡大のうち、常陸国での過程について高望流平氏と密接な関係にあったとみられる嵯峨源氏と在地豪族有道氏の存在に着目して考察を行う。

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2014年11月28日(金)
発表者:十川陽一(日本史学・研究推進員)
地方における官職と位階についての一考察
―散位・勲位を通じて―
 A Preliminary Study on the relations between government posts and court ranks in provinces
by SOGAWA Yoichi

【報告要旨】
官職と位階は、律令官人制を構成する二つの大きな柱である。
律令国家が地方支配を展開してゆく中で、地方の人間に対しても位階が与えられ、また官職に任用することにより、地方の人間を律令官人制に取り込んでゆく動向が指摘できるが、一方で地方の人間も自ら位階や官職を獲得すべく活動を展開していたことが中村順昭氏によって論じられている。また氏は、地方社会において、8世紀では官職としての郡司が重視されたが、9世紀を通じた有位者の増加を経て、10世紀には位階がより重視されるようになってゆくとも論じられており、受容する側では官職・位階の位置付けが変化している様子も窺える。本報告では、地方における官職と位階の関係について、まずは日本独自の要素を多分に含む散位から検討を加える。
また、地方における官人制と関わっては、武功によって与えられる勲位の存在も挙げられる。本報告では、この勲位との比較も行いながら散位について遣唐することにより、律令官人制が地方社会においてどのように受容されたか検討する。その上で、官職と位階との関係について見通してゆきたい。

発表者:鈴木裕之(日本史学・院生)
衛府下級官人の活動と職掌の継続
―近衛府の夜行の分析を手がかりに―
The study about Activity of the lower officer people in the Imperial Guards and Duties   
by SUZUKI Hiroyuki

【報告要旨】
 本発表の目的は、夜行における近衛府の下級官人の活動を分析することで、平安時代(特に摂関期)の近衛府の存在意義を再検討することである。
 近衛府の夜行(夜間巡回警備)は、平安宮の夜間の治安を維持するうえで重要な職務であった。律令制下(令制五衛府の時代)から内裏・大内裏や京域の夜行は衛府に課せられた任務である。衛府組織全体が六衛府体制へと展開した後も、『延喜式』に規定されるように、夜行の職掌は継承されていた。
 これまでの研究では、京域の夜行において、近衛府の関与がなくなり検非違使中心の追捕体制へと変遷したことをもって、近衛府の警察的機能が喪失したと評価されてきた。しかし、この見解には問題がある。一つには、分析する史料の性格である。先行研究で検討されている史料は、緊急事態(放火・窃強盗など)の発生に際して如何なる集団が動員されたかを分析したものであった。治安維持とは日常的な「予防」と緊急の「対処」の両面があって成立すると考えられる。この点を再検討すべきではないか。もう一つには、京域の夜行のみの検討で近衛府の意義を語っている点である。そもそも、衛府とは、山田充昭氏が指摘するように、京域ではなく内裏・大内裏空間の守衛を主任務としていた。京域夜行のみの検討で近衛府の性格を決定づけてよいものか。重要なことは、あくまで天皇を守衛することにある。
 これらの点を踏まえ、儀式書・日中行事書から10・11世紀の夜行体制を、古記録からその実施状況を分析した。その結果、近衛府は日常的な治安維持活動に従事していたことがわかった。
 律令制下から続く天皇を守衛するという衛府の職務が、平安時代(10世紀以降)においても継承されており、当該期の近衛府に対して警察的機能を喪失した組織として位置づけるには慎重にならなければならない。

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2014年12月5日(金) 【文化継承学Ⅰ・Ⅱ合同開催】
発表者:石川 日出志(考古学・教員)
建築学の日本考古学研究法確立への貢献
―19世紀末~20世紀前半―
by ISHIKAWA Hideshi

【報告要旨】
考古学は「貪欲な科学」である。過去を知る手がかりが得られるなら、手段を選ばないからである。現在も、考古資料の材質や製作技術、年代や産地推定、さらには保存科学まで、あらゆる理化学的手法が盛んに応用されており、毎年新たな分析手法が現れると言っても過言ではない。そもそも考古学は、その独自の手法だけでは研究が進めにくい傾向が顕著だというべきであろう。ここでは、日本考古学創始~形成期における建築学の貢献を紹介する。資料を自ら計測・図化する方法を標準化した伊東忠太(1867-1954)、法隆寺建築物群の歴史を探る中で掘立柱建物の検出に成功した浅野清(1905-1991)、建築学の知識を考古学に積極的に応用した小林行雄(1911-1997)の仕事を取り上げる。

発表者:佐藤清隆(西洋史・教員)
戦後イギリスにおけるシク・コミュニティの分裂とカースト制の役割
―多民族都市レスターのシク教徒の「語り」から―
  
by SATO Kiyotaka

【報告要旨】
現代イギリスの多民族・多宗教都市レスターには、じつにさまざまな民族や宗教を信じる人びとが共住している。そしてこの都市は、「民族・宗教関係がうまくいっている」稀有な都市として国内外から「好評判」を獲得している。しかし、報告者は、そのイメージを批判的に再考する必要性を痛感し、「多様性」(Diversity)をキーワードに、民族・宗教の「多様性」だけでなく、各民族・各宗教内の「多様性」をも考察の対象として研究・調査を進めてきている。
そこで本報告では、「各宗教内の『多様性』」の一事例研究として、レスターのインド系コミュニティ(全人口の約30%:2001年国勢調査)、そのなかでもとりわけシク・コミュニティの「多様性」に注目していきたい。その際、考察の対象とするのは、宗教・社会・文化・政治など、シク・コミュニティの「核」になっている「グルドワーラー」と呼ばれるシク寺院である。レスターでは、現在、9つのシク寺院(その一つは自らをグルドワーラーとは呼ばない)が存在するが、それらは、単にシク人口が増えてきたからというだけでなく、シク内部のカースト、宗派、政治などが複雑に絡み、分裂したり、あるいは他のシクとは交わらずに独自に創設されてきたものである。本報告では、これらのうち4つのグルドワーラーを対象とし、いまでもインド本国だけでなく、世界中のインド系ディアスポラ世界に根強く残るカースト制がその分裂に与えた影響を考察し、そのことを通して各シク・コミュニティのアイデンティティ再構築過程の一端を明らかにしようとするのである。その際、最重要史料として、報告者自身による約150名(約210回)のシク教徒とのインタビューの「語り」を用い、その再構築過程を明らかにしていきたい。

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2015年1月9日(金)
発表者:遠藤慶太(皇學館大学)
奈良時代の仏典書写と将来経
by ENDO Keita

【報告要旨】
奈良時代の古文書を代表する正倉院文書は、光明皇后に関わる機関(皇后宮職・造東大寺司)が展開した写経にともなって残された事務長簿群である。この写経所による事業は、古代において官営の工房が製品を作成するモデルとしても多くの示唆を与える。
そこで本報告では、まず国立歴史民俗博物館の国際企画展と連動して製作した写経事業のイラスト図を例にとり、天平勝宝6年2月から6月にかけて行われた『大般若経』『華厳経』の書写過程を追跡する。
 次にこの写経事業における本経(写経で手本とした仏典)の入手経路を考察し、大陸・半島からもたらされた仏典(将来経)を所蔵した河内の古代寺院や目録が作成された新羅学生・審詳の蔵書についても言及する。
そして最後に、現存する奈良時代写経の識語に注目し、光明皇后が発願した一切経(五月一日経)のなかより、隋・清河長公主の願文を写しこんだ『仏本行集経』の例を検討する。願文の転写は本経の存在をうかがわせる貴重な手がかりであり、将来経を「からて」(辛手・唐手)と呼んで特別視したことを確認しながら、奈良時代の仏典書写について意義付けを行いたい。
以上の報告を通じて、高度な蓄積のある正倉院文書研究と現存した写経の遺例との接点を探り、奈良時代の仏典書写の実像を一層鮮明にすることを意図するものである。

発表者:沈慶昊(高麗大学校)
高句麗・百濟・新羅の公宴に関する窺見
  
by SIM Kyun-Ho

【報告要旨】
古代國家の國王が催す饗宴である公宴は、王権の裝飾と強化のための重要な装置であった。したがって、王権の実体と推移をみるためには公宴に注目しなければならない。さらに、公宴は一国の文化と芸術の総合的時空間であって、一国の繁栄の程度と行方を見て取れる尺度になれる。古代國家において公宴は王権の裝飾と強化のための装置であった。
儒者の撰の『三國史記』はこのことを意識していた。『三國史記』「高句麗本紀」の記録は、故國川王の死後、故國川王妃の于氏、故國川王の弟の發岐・延優・罽須らの間に後継の問題をめぐって骨肉相殘があったことを詳細に叙述してから、延優が目上の發岐を自殺に追い込み、王位に就いてから公宴を催し、罽須を慰諭して‘家人之禮’を講じたことを特別に記録した。韓國古代国家で公宴が王權の確立のために極めて重要であったこと、『三國史記』の撰者がそのことを意識していたことが、ここから推察される。
しかしながら、『三國史記』は百濟と新羅の公宴についてはそれほど充実には記載しなかった。底本にした高句麗歴史文献が百濟や新羅のそれとは性格が少々異なったようであろう。また、百濟と新羅での公宴を荒淫のものとみなす儒家史觀も作動したと考えられる。勝国の公宴を荒淫と貶下する意識は、高麗の儒者知識人の間では一般的であった。
一方、『三國遺事』の撰者は公宴への関心が薄かった。八關會・轉經會・百高座講法會(百高座會・百高座講會・百座道場・仁王道場・百座)など、佛事の記錄が豐富であることとは異なる。仏教文化史と見なされるほどの書物であり、特の「紀異」を除いては公宴の記載が皆無である。ただ、韓國上古史を槪觀した「紀異」には幾つかの公宴記録がある。「歃羅郡太守の堤上」の故事では、訥祗王が倭国に人質となった弟美海(未吐喜、卜海)と高句麗に人質となった弟寶海の生還を願いながら、公宴をひらきその任務の担任の人物を物色したこと、二弟が生還した後に公宴をひらき'大赦國內'したと記した。説話風ではあるが、公宴の王権伸張との関係を見つめての記録であろう。
ところが、『三國遺事』の撰者は新羅末の公宴が依然として呪術性,・神聖性を帯びていたことを仄めかした。憲康王の時に、鮑石亭で南山神の呈舞、金剛嶺で北岳神の呈舞、同禮殿で地神の呈舞があり、南山神の呈舞は憲康王のみ目睹したというのは、神舞の歴史的な解釈はどうあれ、公宴での舞いの神聖性を強化する叙述として見受けられる。
『三國史記』も『三國遺事』も、高句麗・百濟・新羅の公宴について記載はしたが、公宴の儀式、參加人の構成、舞樂や餘興の實狀については述べなかった。三国で行われた公宴の餘興の実情を推測するためには、中国文献や韓国文献の楽志、月池出土の14面木製酒令具等の出土物を考慮にいれながら、さらに考察していくべきであろう。
新羅の場合、'当筵歌詩'を行った記録が幾つかあるが、韻語の使用例はいまだ多くは見つかっていない。 月池出土の14面木製酒令具は、14面の酒令が4言の韻語で整齊されていない。『三國史記』の記録によれば、憲康王が在位3年3月に臨海殿で宴會を開いたときには左右が各々歌詞を進めたが、憲康王が在位九年に三郞寺幸行の際には臣下らに各々'賦詩一首'することを命じた。この頃になって公宴で韻語を賦することが定着したようである。この風習は高麗と朝鮮李王朝に受け継がれた。