アジア史・日本史・考古学・文学の垣根を越えた学際的な研究を目指して

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2013年1月11日(金) 【共通テーマ】-
発表者:尹在敏(日本文学客員教授、高麗大学・韓国漢文学)
伝奇小說の出会いの空間とその意味

【報告要旨】
 東亜細亜の伝奇小說で主人公とその相手役が出会う空間は、大体、特定の空間として類似化でき、それほど特別な意味を持つ。この特定の空間は日常の現実と連結されている空間であったり、日常の現実と断絶された非現実的空間であったり、 間に大体閉ざされた空間の性格を持つ。日常の現実と断絶された非現実的空間は、夢の中の空間かあるいは仙界、異界、別界等、超現実的空間であるため、その存在自体で既に閉ざされた空間の性格をよく示している。日常の現実と連結されている空間もまた大体に閉ざされた空間の性格を持っていると考える。日常の現実と連結されている空間は、一部の愛情類の伝奇小説の場合でよくみられるが、この場合、男女主人公が出会う空間が、大体に専ら二人だけの隠密な空間になりやすいためである。
 このように伝奇小説で主人公とその相手役が出会う空間が閉ざされた空間の性格をもつということの含意はなんだろうか?これと伝奇小説の作者層の世界観はどのような関係があるのか?伝奇小説のこのような出会いの空間の性格は、余他ジャンルのそれらとどのような差別性をもつのか?これらの問題を究明することで士階層文人知識人ジャンルとしての東亜細亜の伝奇小説の性格を再照明したいと思うのである。

発表者:小野真嗣・築地貴久(日本史学専修・博士後期課程)
茨城県猿島郡五霞町の出土銭貨-現状報告とその位置付けに関する試論-
The Coins Excavated from Goka-machi in Sashima County of Ibaraki Prefecture : Introduction of the Survey Situation and Views about its Historical Position
by ONO Shinji and TSUKIJI Takahisa

【報告要旨】
 茨城県猿島郡に位置する五霞町では、昭和40年代に大量の銭貨が出土したことが先学の指摘によって知られている。しかしながら、町民によって発見されたものであったために十分な調査は行われず、この出土銭貨に関する基礎的データの提示もされてこなかった。そのため地域史研究の資料として活用されることはなかったといえる。
 この度、報告者も携わっている五霞町の町史編さん事業の過程において、出土地点や出土時の状況、さらには実際に出土した銭貨の現状を確認することができたので、今後の研究発展の一助となるよう本報告においてその紹介を行いたい。さらに五霞町域の歴史的環境のなかに、地域史復元の一資料として出土銭貨は如何に位置付けることが可能なのか、現状での見通しについても言及する予定である。

2012年12月21日(金)
発表者:林 韻柔(アジア史学専修・明治大学招聘研究員・台湾大学)
中国中世における僧侶出家の理由――高僧傳記の記録を中心として

【報告要旨】
  中国仏教の発展の過程において,しばしば僧侶が出家する理由が単なる信仰のためではなかった事例を見出すことができる。しかしながら,多くの信徒が尊敬する「高僧」は,一定の能力と良好なイメージを備え,信徒たちの指導者へと進んだ。このような徳の高い高僧は,多数の僧侶の中では少数に過ぎなかったが,彼らの事跡の記録とその流伝は,仏教徒にとっての模範となった。それゆえ高僧の事跡は,信徒が仏教を信じる一因となった。
 僧伝の記録には事実も虚構も存在している。しかし,布教の補助となった僧伝は,高僧の事跡を編むことで,仏教徒の模範を打ち立てる役割をはたした。このような僧伝作成の背景には,当時の人々が認識した仏教の真実と想像が存在する。高僧たちが仏教に出会い,それを信じるようになり,そして出家するまでの過程は,「高僧」イメージを形成する上で,一定の効果を有した。高僧が仏道に入って修行する原因は,僧人と俗人を区別したばかりでなく,仏教徒の模範に対する期待と想像を暗に含むものであった。
 本報告は,高僧が仏門に入って修行を始める事跡の記録とその変化に注目し,当時の仏教と社会の相互関係,および人々が受容したであろう信仰の観念が,高僧のイメージ形成にどのように反映したのかについて考察しようとしたものである。

2012年11月30日(金) 【共通テーマ】説話と記録
発表者:加藤友康(日本史学専修・特任教授)
古事談における古記録の抄録―貴族たちが共有した「世界」―
Abridgment of Old Diaries in Kojidan : As the Subject of a microcosm shared by Nobles
by KATO Tomoyasu

【報告要旨】
  源顕兼(1160~1215)の手になる『古事談』は、巻3-82話に「大納言法印良宴、建暦二年九月、於雲居寺房入滅春秋八十六也、」とする記事がみえるので、建暦2年(1212)9月以降、彼が56歳で没した建保3年(1215) 2月までの間に成立したと考えられる。
 顕兼は村上源氏顕房流の出身で、仁安3年(1168)12月13日従五位下に叙爵し、加賀権守・左兵衛佐・斎宮寮頭・刑部卿などを経て、承元2年(1208) 正月に従三位に至ったが、建暦元年(1211)2月に出家し、建保3年(1215)2月、56歳で薨じた。顕兼の子孫は次の代では三位に達せず、『尊卑分脈』からみえなくなっており、少なくとも公卿の「家」としては断絶してしまった貴族である。
 しかしながら彼の作品は、室町期以降においても、三条西実隆をはじめ、伏見宮家の文庫や近世の禁裏文庫(東山御文庫)に所蔵されていることがみえるように、その後も貴族社会で広く受け入れられる素地をもっていたことは確かである。
 『古事談』は、諸書からの抄出というべき箇所が多いことで知られ、それらの書として『続日本紀』などの史書、『李部王重明記』『小右記』『左経記』『一条摂政記』『為憲記』『師時記』などの古記録が知られている。益田勝実氏はこれを「抄録の文芸」と評したが、顕兼の著述の土台となった平安期の「貴族社会」に流通していた古記録に焦点をあてて、また「歴史の展開=古記録での史実」と照らし合わせながら、『古事談』に故事を収録するに際して、「付加されたもの」「切り捨てられたもの」「知り得なかったもの」を検討していきたい。その素材として、『小右記』を事例として、古記録の典拠と抄出の問題をとりあげる。

発表者:朴知恵(日本文学専修・博士後期課程)
武士の往生―「頼義往生」を中心に

by PAK Tie

【報告要旨】
  源頼義は『今昔物語集』、『十訓抄』などでは勇猛な武士として描かれている。一方、往生談では武士としての業績は多くの人を殺した殺生の罪として描かれ、その殺生の罪を懺悔して往生をとげたとしている。本来ならば武士は殺生の業によって地獄に堕ちなければならない。しかし、中世の文献ではしばしば武士の往生が確認できる。頼義の往生が最初に見られる『続本朝往生伝』で頼義の往生が持つ意味を考察したい。さらに頼義の往生は『古事談』、『宝物集』、『発心集』、『平家物語』にも変容した頼義往生談が見られる。本報告では、頼義の往生が文献によってどのように変容されているのかを確認し、中世における武士の往生について考察したい。

2012年11月9日(金) 【共通テーマ】古代・中世の自然災害と政治
発表者:小野真嗣(日本史学専修・博士後期課程)
自然災害と兵乱-9~10世紀の東日本を中心に-
The Natural Disaster and the Disturbance by Soldiers,Focused on the Eastern Japan in the 9th to 10th century
by ONO Shinji

【報告要旨】
 2011年3月11日に発生した東日本大震災は甚大なる被害を生み出し、自然災害の脅威を我々に見せつけることとなった。この震災を機に、歴史学がどのような役割を果たすべきかを考え直す動きが生まれ、地震史・災害史という分野の重要性が再確認されるとともに、研究の深化が求められている。
 東日本大震災によって注目されることになった貞観地震を含め、9世紀には日本列島の各地で地震・火山活動が発生している。これは現在の日本列島と共通点が多く、将来に向けての教訓を得ることができる重要な時代とされている。
 本報告では、9~10世紀の東日本を中心に地震・火山活動などの自然災害が、当時の社会や兵乱にどのような影響を及ぼしたかについて考察するとともに、自然災害や兵乱に対する為政者の対応についても論ずる。

発表者:築地 貴久(日本史学専修・博士後期課程)
鎌倉幕府追加法324条制定の背景-飢饉の視点から-
The Background of 324th Additional Article Established by Kamakura Shogunate,Looking it from the Point of Famine
by TSUKIJI Takahisa

【報告要旨】
 多雨・台風・旱魃・寒波、さらには地震・火山噴火などの自然災害とそれがもたらす風水害、干冷害・虫害、飢饉などが、戦乱とともに中世社会を生きる人々にとって、その生活に大きな影響をもたらす脅威であったことは言うまでもないことであり、災害によって追い詰められた人々の行動が、時として為政者の政策にまで影響を及ぼす場合があったこともよく知られている。
 本報告では、こうした成果に学びながら、従来全く考慮されてこなかった災害の影響を加味することで、法令制定の背景がより鮮明になる場合があることを指摘したい。
 取り上げるのは、正元元年(1259)6月18日付で関東から六波羅探題宛に出された鎌倉幕府追加法324条で、これによって「殊重事」を除いて関東への注進が禁じられ、多くの案件が六波羅で尋成敗するように義務付けられたことが判明するものである。このような内容を含む本法令は、当該段階における六波羅の裁判権の強化を示す一事例として多くの論者によって取り上げられてきたが、制定に至る背景についてはほとんど触れられることがなかったといえる。
 本法令が制定された正元元年は、所謂“正嘉の飢饉”が発生した翌年に当たり、法令制定の背景に全国的飢饉状況の影響を想定するのが妥当と考えるので、この点から追加法324条制定の背景を具体的に描き出すことを試みたい。

   
2012年10月26日(金) 【共通テーマ】世説
発表者:落合 悠紀(アジア史学専修・博士後期課程)
『世説新語』に描かれた曹魏時代の人物たち
The Characters of Cao-Wei Dynasty Depicted in Shi Shuo Xin Yu世説新語
by OCHIAI Hiroki

【報告要旨】
 中国の魏晋南北朝時代(220~589)は、一般に貴族の時代として理解されている。後漢時代(25~220)末期から、いわゆる清流派と称される儒家官僚層を源流として生まれてきた貴族は、西晋(265~316)以降、政治・経済・文化といった幅広い面で大きな影響力をもつに至った。『世説新語』が編纂された430年ごろの劉宋王朝(420~479)は、この貴族社会が最も成熟した時代であると同時に、寒門出身の軍人上がりの人物が皇帝となるなど、貴族社会の繁栄に微妙な陰りが見え始めた時代でもある。
 こうした背景の中で生まれた『世説新語』には、後漢末から成立時期の劉宋時代半ばまでの、主に貴族をはじめとした文人たちの逸話が収められている。とりわけ興味深い点は、まだ貴族社会というべきものが確たる形で現れるよりも前の後漢末から三国・曹魏時代(220~265)の人物についても多く採録していることで、ここから編纂者が彼らを貴族の萌芽期の人物として認識していたことがうかがえよう。
 報告者の研究テーマは、貴族がどのようにして生まれるに至ったのか、その過程を明らかにすることにあり、現在は曹魏時代後半に貴族化に向かう流れが決定づけられたと考えて研究を進めている。そこで本報告では、『世説新語』に載せられている曹魏時代の人物について取り上げ、そこから見えてくる人物像を考察してみたい。それにより曹魏時代から約200年後の貴族社会に生きた人びとが、対象となる人物のどのような面に貴族の萌芽を見い出したかを明らかにし、貴族化へと向かう流れの中で何が不可欠な要素であったのかを知る手がかりとできればと考えている。

発表者:冬木 喜英(日本文学専修・博士後期課程)
邦人撰の中世幼学書にみる『世説』の影響
The Influence of Sesetu 世説in the Textbooks for Children Eedited by Medieval Japanese
by FUYUKI Nobuhide

【報告要旨】
 日本は、歴代の中国王朝で記され、編集された多岐に亘る書籍を将来し、学び、利用して文章を編んだ。この将来した書籍の一種に『世説』が挙げられる。仁和元年(885年)に講書が行われたとされ、『日本國見在書目録』(891年頃成立)にも掲載されており、先学により日本文学への影響が指摘されている。
 漢籍を学ぶ際、『蒙求』等幼学書から学び始める。平安中期以降の日本に於いて、舶来の幼学書以外に、邦人が撰集したものも用いられた。中国で編集された類書を規範としつつ、思想、文化の要諦集でありながら、詩作韻文事類集としても用い得ることを目指した編集傾向のもので、学問や文化の摂取傾向、利用された書目を窺い得る資料である。すなわち、基本となる書籍が網羅されていることが多く、書籍の重要性が反映されているといえるのである。
 本報告では、中世に編まれた邦人撰集の幼学書のうち、源為憲撰『世俗諺文』、撰者未詳『幼学指南鈔』及び菅原為長撰『文鳳抄』『管蠡抄』へ『世説』がどのような影響を与えたのかを検討する。その上で、『世説』の受容と利用の一端を考察するものである。

 
2012年10月12日(金) 【共通テーマ】蝦夷征討と古代東国
発表者:須永 忍(日本史学専修・博士後期課程)
日本古代における東国の特性
A Characteristic of the Eastern Countries in Ancient Japan
by SUNAGA Shinobu

【報告要旨】
 本報告は、古代東国の特性が生じた要因を、古代史・考古学から検討することを目的とした試論である。
 古代の東国は、特殊な地域の一つと考えられてきたが、その特殊性については古代史・考古学それぞれから指摘されている。古代東国は、倭王権や律令国家の重要な軍事的基盤となっていた。例えば、北九州の防備に従事する防人や、王宮などの警護に関与した舎人、対蝦夷政策において城柵を防衛した鎮兵は主に東国から出されていた。そして、古代の内乱は東国へ脱出して東国の勢力を味方につけようとする特徴があり、東国の掌握は律令国家にとって重要な意味を持っていた。
 また、東国首長層の墓所である東国の大型古墳は、六世紀以降、その数が爆発的に増加し、畿内・西国の大型古墳の数を圧倒するようになる。七世紀代の終末期古墳においては、畿内の大王級の古墳を規模の上で凌ぐ古墳が東国に多く築造される。
 しかしながら、このような東国の特性が生じた要因を解明した研究はないというのが現状である。また、古代史・考古学それぞれからみた東国の特性を整合的に解釈できる見解が必要である。
 本報告では、東国の特性が生じた要因を律令以前における東国首長層のあり方に求める。東国の首長層は地域支配が磐石ではなく、地域における支配を強固なものとするために、積極的に倭王権と伴造的な従属関係を結んだ。その強い従属的な結びつきが、倭王権や律令国家の軍事的基盤という東国の特性を生じさせたと考えられる。東国に巨大な古墳が造られたのも、東国首長層が在地に自身の勢力を誇示し、影響力を浸透させる必要があったためと想定できる。

発表者:井上 和人(考古学専修・特任教授)
蝦夷征討-古代対蝦夷政策の歴史的要因についての再考
Reexamination about the War and Policy toward "Emishi(Ezo)" by Yamato Government in 7-9 Century
by INOUE Kazuto

【報告要旨】
 7~8世紀初頭にあって、大和政権にとって非服従勢力であった隼人、蝦夷のうち、隼人については、養老4年(720)、中納言大伴旅人を征隼人持節大将軍とする軍隊を九州南部の隼人勢力圏に派遣し、強圧的な戦闘を通じて、ようやく隼人を服従させるに至った。
 いっぽう大和政権は蝦夷に対しては、すでに7世紀中頃から、当時まだ蝦夷の勢力圏であった越の北部(現在の新潟県域)に征討軍を派遣して服属を迫ったことをはじめとして、以後しだいに勢力境界を北上させつつ、対蝦夷征服戦争を断続的に遂行した。8世紀前半には多賀城を構築し、さらに城柵とよばれる軍事的要塞と行政統治の機能を兼ねた多くの官衙施設が東北地方各地に造営された。最北の城柵は日本海側では秋田市の秋田城、太平洋側では岩手県盛岡市の志波城で、ほかの多くの城柵遺跡とともに、発掘調査を通じてその存在形態が明らかにされている。
 蝦夷征討(対蝦夷戦争/東北三十八年戦争)は9世紀の初めには、決して完遂していないにもかかわらず、終息することになる。この一連の対蝦夷施策の理由は、国家領域の拡大化を追究した、あるいは「王化」を進めるためと説明されることが多いが、なにゆえに拡張主義に拘泥し、あるいは、王化を推進しなければならなかったのかについての省察は必ずしも十分ではない。
 蝦夷征討の動因は、隋・唐帝国が国家統治体制を構築する際に採用した、華夷秩序を具現化するという施策を、日本において中央集権国家を構築する方途として導入せざるをえない世界的(東アジア的)時代思潮の必然的な要請に基づいたものであったと判断しなければならない。蛮国たる蝦夷を文明化するという天皇(=皇帝)の名文的責務を実現させ、蝦夷からの朝貢を受けるという大義名分を顕現するべく、執拗に征服戦争を継続しなければならなかったのである。しかし、8世紀中頃以降、唐において政権の基盤の動揺が加速され、華夷秩序の維持どころの状況ではなくなった。こうした、これも時代思潮の中で、9世紀の初頭に至り、蝦夷征討の終息が決断されたものと理解できよう。

       
2012年9月28日(金) 【共通テーマ】-
発表者:李 興淑(日本文学専修・博士後期課程)
中世『源氏物語』注釈史―『光源氏物語抄』から『河海抄』へ注釈の継承―
The History of Middle Ages Commentaries on The Tale of Genji,The Succession of the Explanatory Note from Hikarigenjimonogatarishou to Kakaishou
by LEE Heungsook

【報告要旨】
 『河海抄』(室町初期成立)は中世を代表する『源氏物語』の注釈書であり、その評価は多大なものである。しかし、『河海抄』の注釈は『光源氏物語抄』(『異本紫明抄』)(鎌倉時代成立)の注釈を多く踏襲して成立している。『光源氏物語抄』から『河海抄』へ踏襲されたと想定される注釈は、その形式上二つに分類できる。一つは、『河海抄』が直接『光源氏物語抄』の注記を採択している場合、もう一つは、『紫明抄』(鎌倉時代成立)が『光源氏物語抄』から継承した注記を『河海抄』が収録している場合である。即ち『紫明抄』を介して、『光源氏物語抄』から『河海抄』へ注釈が継承されているのである。
 しかし、これまで先行研究では、『光源氏物語抄』から『河海抄』への影響、『光源氏物語抄』から『紫明抄』への影響、それぞれ断片的に行われ、三者を共に比較・検討するという試みはなされてこなかった。また、『光源氏物語抄』から『河海抄』への影響、『光源氏物語抄』から『紫明抄』への影響は指摘されているものの、その具体的な注釈のデータは少なく、それらの影響関係を明らかにするには不十分であった。
 従って、本報告では、先行研究の『光源氏物語抄』から『河海抄』への影響、『光源氏物語抄』から『紫明抄』への影響、これまで断片的に行われたこれらの研究を総括し、踏まえつつ、三者における影響関係を具体的な注記のデータで示し、分析することで、『光源氏物語抄』から『河海抄』への注記継承の全体像を明らかにしたい。

発表者:神野志 隆光(日本文学専修・特任教授)
『世説』について知っておこう!(教養の継承のためにも)

by KOHNOSHI Takamitsu

【報告要旨】
 本報告は、10月26日に予定されているお二人(落合、冬木)の発表にむけての、いわば予備報告です。
 この授業の標題たる「文化継承」の本質にかかわるのですが、10.26のテーマは、教養の基盤という問題になります。江戸時代まで読み書きの基本は漢字漢文でした。漢字漢文を学び、そのうえに読み書きのいとなみがありました。漢字漢文を学習し、それを継承することが、文化の基盤でした。それは、教養というのがもっともふさわしいでしょう。ことは日本列島にかぎりません。中国大陸でも、朝鮮半島でもおなじです。いま、その問題に、『世説』(『隋書』経籍志にも『日本国現在書目録』「小説家」にはこの名で登録されていますが、一般には『世説新語』の呼び名がおこなわれています。『世説新書』という名もありました)をつうじてアプローチしてみようというのです。
 教養の基盤ということは、わたし自身、2010/05/14のこの授業において報告した問題にほかなりません。それについて再考したことをからめて取り上げたいのです。
 『世説』は、教養の基盤の問題にとって欠かせないトピックスのひとつです。古代にかんして、芳賀紀雄『万葉集における中国文学の受容』(塙書房)の解説にもある通りです(『日本古代史を学ぶための 漢文入門』吉川弘文館にも立項されています)が、江戸時代にはさらにひろくおこなわれていました。
 また、この授業参加者にもこのことにかかわって分野が異なるところで発言できる人がいるということでテーマとして設定したものです。コピーふうにいえば、『世説』について知っておこう!(教養の継承のためにも)、ということです。

 
2012年7月13日(金) 【共通テーマ】日本中世文学の新展開
発表者:佐野 愛子(日本文学専修・博士後期課程)
謡曲「鵜羽」の冒頭句「伊勢や日向」のもつ意味について
The Meaning of "Ise ya Hyuga" in the Beginning of a Noh "Unoha"
by SANO Aiko

【報告要旨】
 世阿弥作とされる謡曲「鵜羽」は「伊勢や日向の神なりと伊勢や日向の神なりと、神の誓ひは同じかるべし」といった文句ではじまりを告げる。「鵜羽」は、鵜戸の岩屋に参詣したワキが「鵜羽葺不合命」の誕生した時の物語を、豊玉姫から聞くといった記紀にみえる神話を素材としたものである。それを踏まえると、冒頭に「伊勢や日向」と豊玉姫の神話の地である「日向」とならんで「伊勢」が出てくるのは唐突に思える。
 しかしながら「鵜羽」は記紀神話を素材としながらも、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」を「鵜羽葺不合命」と表現したり、豊玉姫を龍女として龍女成仏を願ったりと、その内容は記紀神話に直接基づいているわけではなく、「中世日本紀(神代紀を原拠とするが、神仏習合下の諸説を加えて、中世に広く流布した)」に属するものになっている。それを鑑みるに、冒頭の「伊勢や日向」という句も、中世日本紀の理解に基づいて考える必要があるであろう。その視点で「鵜羽」の冒頭におかれたこの句の意味を考えた時に、「伊勢や日向の神」や「神の誓」といった言葉が「鵜羽」にどのような影響をもっているかが明らかになる。

発表者:牧野 淳司(日本文学専修・准教授)
歴博本『転法輪鈔』について
On the Rekihaku Version of the Tenpôrinshô
by MAKINI Atsushi

【報告要旨】
 『転法輪鈔』は澄憲(1126~1203)の唱導資料の一つで、仏教の儀礼で用いる詞(表白・説法など)を収録している。これまでに金沢文庫保管本が『安居院唱導集 上巻』(角川書店、1972年)に翻刻されている(このほか、東大寺図書館蔵本・高山寺蔵本・東寺宝菩提院蔵本も紹介されている)。これに対し歴博本は、その存在は古くから知られていたが翻刻が公刊されておらず、学会でほとんど活用されていない。しかし、澄憲没後まもなくの建保4年(1216)書写であり、金沢文庫保管本(鎌倉時代後期書写)などと比べて、澄憲の唱導資料の古い姿を留めていると考えられる。また、他本と重ならない表白や説法の詞を収録している。発表者はこの数年、歴博本の研究を進めてきた。本発表では歴博本に収録されるいくつかの表白の分析を試みてみたい。
 唱導研究が中世文学研究の一領域となってすでに多くの年月が経過した。研究の蓄積も多い。しかし、唱導の領域はなお多くの可能性を秘めていると考えている。唱導という営みが、他の領域―例えば中世日本紀や芸能の世界―とどのように交錯するのかということも、追究してみる価値のある問題であろう。

    
2012年6月22日(金) 【共通テーマ】軍事・兵制
発表者:氣賀澤 保規(アジア史専修・教授)
府兵制と府兵兵士――隋唐国家の“武”の問題として
Fu-bing Military System and Fu-bing Soldiers: As the Subject of Force in the Sui-Tang Dynasties
by KEGASAWA Yasunori

【報告要旨】
 隋唐統一国家を軍事面から支えた主要な柱は「府兵制」である。それは地方に配置された軍府(唐では折衝府)を通じで兵員を集め、訓練し(季冬習戦)、都の防衛に加わり(上番・番上)、辺境防衛(防人)に就く形をとる変わった制度であった。軍府が主要な位置を占めることから、兵士のことを府兵とよび、府兵制の名前も定着した。
 では国軍の主役ともいうべき府兵兵士はいかなる立場に立っただろうか。従来一般的な解釈によると、府兵は農民の負うべき税負担の一種であり、徴兵制的、兵農一致的性格のものとなるが、とするとそこに様々な疑問が浮かび上がる。そもそも隋唐国家を支える正規兵としての質(専門性、継続性、系統性、主体性、積極性)はどう確保されるか。質朴な農民が負担する兵力は、はたして優れた国軍を構成されるのか。
 そのような視点から府兵制のあり方を見直していくと、従来主流をなす見解に大きな課題があることに逢着する。言い換えればそれは国家にとっての「武」とは何か、府兵の本質とは何かの問題である。本報告ではそうした関心にもとづいて、府兵制の制度的枠組み、府兵の実相と本質について考え、日本古代史における兵制の問題につなげたい。

発表者:鈴木 裕之(日本史学専修・博士後期課程)
日本古代国家における「武」―中央武力としての兵衛・衛士―
Force in Japan's Ancient Nation:Hyoe, Eji as a Central Force~
by SUZUKI Hiroyuki

【報告要旨】
 天武天皇の詔「凡政要者軍事也。」に集約されるように、日本古代国家において軍事あるいは武力は大きな役割を占めていた。国家は、地方に軍団を配置するとともに、中央武力として衛府を置くことで、中央・地方問わずに武力を敷き中央集権化の動向の一端に位置付けた。かつて、儀式の際に威儀をただす役割に堕ちていったと評価された衛府であったが、実際の治安維持活動は史料上に散見し、中央武力としての役割を担っていたと言うことができる。この衛府制度は、そもそも中国の制度を参考にしたものであるが、兵衛や衛士を分析してみると、律令以前の大化前代の制度を継承しており、その制度と律令との整合が取れるように改変していった流れが読み取れる。つまり、単なる中国の制度の模倣ではなく、日本独自の制度であったと評価できる。しかし、このような衛府制度には矛盾が孕んでいた。それは中央集権化を志向する律令国家と地方勢力との間の摩擦によって生じるものであった。地方勢力が集中する場所とも言い換えられる左右兵衛府を、律令国家あるいは衛府制度のなかでどのように位置付けるか。それが中央集権化における課題の一つであった。

   
2012年6月8日(金) Ⅰ・Ⅱ合同開催日
発表者:裵 貞烈(韓国・韓南大学校文科大学日語日文学科教授、東京大学総合文化研究科外国人客員研究員)
漢字世界における韓国古代文学 ―新羅郷歌をめぐって―
The Study of Hyangga郷歌:A Korean Ancient Literature in East-Asiaby Bae Jung Yeol
by Bae Jung Yeol

【報告要旨】
 文学研究の一分野としての文学史はヨーロッパで18世紀に始まった。そして、その学問的研究方法はアジアでは日本が最初に受けいれている。1890年三上と高津の『日本文学史』を初めとして、1910年代早々までの約20余年間、日本文学史著述の隆盛期を迎えている。近代日本社会の要請により著述された日本文学史は、どのような特徴があり、どのような役割を担ってきたのかについて考察する。
 そして、日本文学史の抱えている諸問題を受け継ぐような形で、1922年安自山の『朝鮮文学史』が誕生し、韓国文学史も始まる。1920年代から30年代、殖民地という厳しい時代環境下での韓国文学史をめぐっての問題について考察する。特に古代文学史の中の新羅郷歌*を中心として、民族起源と文学史の役割について考察する。
 *新羅郷歌:古代韓国(新羅)の歌謡。

      
2012年5月25日(金) 【共通テーマ】富・交換
発表者:河野 正訓(考古学専修・研究推進員+兼任講師)
古墳時代鉄鍬の所有と管理
The Possession and Management of Iron Digging Tools in the Kofun Period.
by KAWANO Masanori

【報告要旨】
 古墳時代の財として三角縁神獣鏡などの威信財がとりわけ注目されてきた。しかしながら、農具といった財としてさほど注目されにくい鉄製品でも、首長が所有・管理することで権力維持を行ったという説がある。この説は古代史研究から考古学に派生した議論であり、考古学者も所有・管理の考古学的証拠を探求している。
 しかしながら、いずれも間接的証拠ばかりで鉄製品そのものから所有や管理を論証する研究事例はほとんどない。直接的証拠として集落から出土した鉄製品出土率の変遷検討が挙げられるが、その出土率が当時の鉄製品普及の実態を示しているのか不明瞭である。
 発表者はかつて農具のうち土掘り具の鉄鍬に注目して、遺物の詳細な観察から使用状況を追及する実証的な検討を行なったことがある(河野正訓2011「前期古墳に副葬された方形板刃先の性格」『駿台史学』第141号 駿台史学会 pp.337-356)。この成果を発展させ、古墳時代は階層化社会であるゆえ、使用状況の異なる鉄鍬がどの階層の墳墓から出土するのか探る。この方法を用い、当時の鉄鍬の所有と管理を考え、ひいては古墳時代の財のあり方および、財が古墳時代社会に与えた影響を探ることにしたい。

発表者:堂野前 彰子(日本文学専修・兼任講師)
古代日本文学に描かれた「富」
Wealth in Old Japanese Literature
by DONOMAE Akiko

【報告要旨】
 古代日本人は「富」をどのようなものとして捉えていたのだろうか。
 具体的なものから世界を認識していたと思われる古代人にとって、それは先ず実態があるものであったろう。まさに古墳から出土する鉄器や祭具は、威信財であると同時に形となって現れた「富」に他ならない。
 では古代日本文学において「富」はどのようなものとして描かれているのだろうか。
 『風土記』においてそれは余剰としての稲であり白い餅であり、時に白い鳥となって飛び立つ穀霊として描かれている。あるいは突出した個人の存在を許さない共同体が「富」を「穢れ」として追放していることも、その伝承から理解することができる。また「富」とは神からの贈り物であれば神と人の間に関係を築くものであって、神に供えられ「払=祓」われるものでもあった。それはあくまでも共同体を清浄に保つための装置であったといえる。しかし、「富」はやがて或る個人に集中するようになり、共同体を破壊へと導く「財」となる。経済行為は人々を非人間的行為へと駆り立て、その結果共同体から逸脱した「個」が出現し、「財」はあざとく利益を追求する人間の「罪」そのものとして『日本霊異記』では描かれ始める。
 この報告は、「富」が発生し「財」へと変化していく過程を古代日本文学の中に見出し、共同体との関係を視座に入れながら「富」とは何か考えることを試みるものである。

   
2012年5月11日(金) 【共通テーマ】-
発表者:神鷹 德治(日本文学専修・教授)
二種類の『白氏文集』のテキストについて
On the Two Texts of Baishi Wenji 白氏文集
by KAMITAKA Tokuharu

【報告要旨】
 中唐期の大詩人、白居易(字は楽天、772-846)の作品集は我が国では『白氏文集』と呼称されている。テキストとしては現存するものに、宋版系テキストとして二種類のものが知られている。その一つは国家図書館(旧北京図書館)所蔵のもので、刊記はないものの刻工名から南宋初期刊本と推定されている。
 二つ目は江戸初期の元和四(1618)年に刊行された古活字版『白氏文集』である。元和四年は、中国では明代の万暦四六年にあたる。しかしその底本は当時の明刊本ではない。本文の系統からすると、その祖本は南宋中期に刊行された南宋版と推定される。この南宋本が朝鮮にもたらされ、重刊されている。その朝鮮本を元にして、再度刊行されたものが元和四年版『白氏文集』である。
 両本は必ずしも作品の編成が同様でないので、資料として扱う時に注意が必要である。この二本の『白氏文集』について本文の特徴を述べることにする。

発表者:冬木 喜英(日本文学専修・博士後期課程)
日本に於ける漢籍伝存の意義―佚書、佚文と本文テキスト―
Significance of Chinese Classics Which were remained in Japan:Defunct Books, Defunct Sentences and its Original Texts
by FUYUKI Yoshihide

【報告要旨】
 歴代の中国王朝で記され、編集された書籍は莫大な量である。同時に歴史が下るに従って失われた書籍や本文テキストもまた多い。漢字を用いた文化圏の一員として歴史を刻んできた日本に、中国では伝を失った書物やその佚文、廃れた本文テキスト系統が伝存されているということがある。
 一つは、日本で編まれた類書としての機能を有する書籍である。類書として編まれた書籍は無論、『文選』に附された李善の注のように出典を明記し本文テキストを鈔写したものは、佚文、異文や佚書を考究するための重要な史資料を提供する。一つは、敦煌遺文の如く、唐代乃至唐以前の本文テキスト系統を残していると考えうる伝本及びそれらを利用して編集された和製の類書や、様々な注釈書である。特に、注釈書の引用出典調査及び検討は、利用書籍の目録化を促し、学問、文化背景を知るための資料として重要である。
 本報告では、この二点の意義を再検討する。そのなかで、『原本玉篇』及び『集注文選』が利用された『三教指歸』の古注釈を検討し、日本に遺存される本文テキストの重要性を認識するための端緒となることを目的とする。

   
2012年4月27日(金) 【共通テーマ】万葉集
発表者:神野志 隆光(日本文学・特任教授)
漢字テキストとしての『万葉集』
Manyosyu , the Text written in Kanji , Chinese Characters
by KOHNOSHI Takamitsu

【報告要旨】
 『万葉集』は漢字で書かれてある。それは、あらためていうまでもないことである。ただ、『万葉集』の漢字について、その多様な用法は注目されてきたが、漢字で書かれてあるということそのものについては述べられることがなかった。その根本から振り返ってみたい。より具体的にいえば、固有のことばによる歌を外来の文字で書く「歌集」がどのようにありえたか、ということである。歌があり、資料があって、それらをもとに『万葉集』が成ったといってすますのでは、本質にふれられないままにおわる。多数の木簡とともに、歌を書いた木簡のあいつぐ出現もあり、条件が備えられてきたいま、『万葉集』が漢字テキストであることそのものについて考えたい。

発表者:石川 日出志(考古学・教授)
地殻変動と人類史―考古学的発掘調査の成果から―
Resent Archaeological Research in Crustal Movements and Human History
by ISHIKAWA Hideshi

【報告要旨】
  2011年3月11日に発生した東日本大震災は、自然的営為が人類に及ぼす影響がいかに大きなものであるかをまざまざと見せつけた。しかし、近年の考古学による遺跡の発掘調査と地殻変動史・地質学との連携によって、数百年~数万年のスパンで人類史と地殻変動・地震・津波の関係を考えることが重要であることが明らかになっていた。しかし、それらの研究に従事した人々は今、その成果を広く社会に発信できていなかったという反省を語っている。  
 本発表では、日本列島東部の地形形成のメカニズムを紹介したのち、新潟平野における完新世(約11,000年前以後の温暖期)における地形変動と遺跡形成に関する地質学・考古学の成果と、仙台平野で貞観11(AD869)年と弥生時代中期中頃(BC200年前後)に起きた大規模地震・津波による被災遺跡の考古学的調査の成果を紹介する。
 なお、多賀城の貞観地震被災に関する考古学的調査の概要は、東北歴史博物館の柳澤和明氏の一般向け解説論文がネット上(下記URL)に公開されているので、参照願いたい。 http://gatetagajyo.web.fc2.com/jyougan_tunami.html