アジア史・日本史・考古学・文学の垣根を越えた学際的な研究を目指して

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2011年5月20日(金) 佐々木 憲一
総合科学としてのアメリカ考古学の始まり
Origins of American Archaeology as an Eclectic Science

【報告要旨】
 アメリカ合衆国では考古学が人類学の一分野として位置づけられる。これは考古学も民族学も同じ先住民の文化を理解するための学問として研究機関で意義付けられてきた現実が大きい。考古学を含めた人類学は19世紀後半に、好事家の趣味の対象から学問分野へと脱皮を遂げる。そのとき大きな役割を果たしたのが、ハーヴァード大学ピーボディー人類学博物館や、2008年度の文化継承学で発表した国立スミソニアン研究所アメリカ民族学局である。設立時のピーボディー博物館の関係者は、大森貝塚を発掘し近代日本考古学の父と評価されるエドワード=モースEdward S. Morseがそうであるように、その同級生である第3代館長、フレデリック=パトナムFrederick W. Putnamなど、いわゆる博物学者ばかりで、自然科学から民族学、考古学など広範な知識・理解を有する研究者ばかりであった。アメリカ合衆国考古学は学際的であることを顕著な側面とするが、その起源は、創設期の考古学者が皆、学際的な人ばかりであったことも無視できないと考える。

2011年5月20日(金) 小笠原 好彦
日本古代の墓誌
The record of deceased person’s name and life inscribed on tomb stones in Japan

【報告要旨】
 古代の墳墓に被葬者の銘を記して入れたものを墓誌という。日本では古墳時代の墓(古墳)に墓誌を入れたものはない。これまでのところ天智7年(668)の船氏王後の墓誌が最も古いもので、白鳳から奈良時代に集中し、16例が見つかっている。これらの墓誌を、墓誌銘を刻む材質、記されている年代によって編年し、型式分類すると、数が少ないだけに作成された墓誌の流れがわかる。

 日本の墓誌の材質には、銅(金銅)、銀、石、塼などがあり、形態には金銅製の長方型板、直方体の石、塼、有蓋銅(金銅)製蔵骨器の蓋の外面に文字を刻んだものなどがある。これらのうち、金銅製の長方型板がもっとも多い。7世紀代の2例は別として、文武4年(700)僧道昭による火葬がおこなわれた後の奈良時代の墓誌は、判明するものはいずれも火葬墓にともなっている。墓誌を入れた被葬者は、船氏王後、小野毛人、文禰麻呂、美努岡万呂、僧道薬、行基など、畿内の渡来系氏族や遣隋使、遣唐使に関連する人物や家系の人、官人、僧などであるが、奈良時代には因幡の伊福部氏や吉備氏のように、地方の有力氏族も一部で採用している。
日本の墓誌は、中国の唐の墓誌の影響によって、墳墓に入れられるようになったものとみなされるが、長方型銅板や蔵骨器に刻むものが大半で、中国の隋唐墓誌にみる正方型の石に罫線を入れて文を刻み、これに同大の蓋石を組み合わせる型式のものはみられない。墓誌銘は、隋唐のものより字数が少なく、記載内容も簡素である。

 このように、日本で墓誌を副葬する埋葬様式は、唐の様式を採用したものながら、著しい違いがある。この顕著な差異から、日本での墓誌の副葬を、中国(唐)の墓誌の影響とみなす考えに対し疑う研究者すらいる。
ここでは、このような墓誌の金石文資料を、考古学的な方法論によって検討した結果を、共同で考える素材として提示する。

参考文献 奈良国立文化財研究所飛鳥資料館編『日本古代の墓誌』1978年

2011年6月3日(金) 神野志 隆光
標示としての「日本紀(記)」
NIHONGI(日本紀、日本記)as indication

【報告要旨】
 様々な場面で「日本紀(記)」――「紀」「記」通用するのであって、「紀」をただしいとして本文を校訂することは疑問だ――を持ち出してくることが、奈良時代から平安時代、またその後中世のおわりにいたるまでずっとあった。その「日本紀(記)」は、実体の如何にかかわらず、最初の正史「日本書紀」(「日本紀」)の権威を負うという標示であった。そのことについて述べたい。
「日本紀(記)」が持ち出される場面としてつぎのようなものに注意したい。
A12世紀の歌学書類
『俊頼髄脳』――「日本紀」として引くのは『竟宴和歌』であった。
『奥義抄』――『古語拾遺』『竟宴和歌』を「日本紀」として示す。  
『序注(勝命)』――『竟宴和歌』を「日本紀」として引用する。

B8~12世紀の歴史叙述
『万葉集』『七代記』『革命勘文』『扶桑略記』――歴史的なことがらを示すのだが、『日本書紀』そのものではなく、いわば実用化されたものの類(三十巻を数巻程度に圧縮して閲読の不便を解消し、一々の年に干支をつけてすぐに確認できるようにしたもの。たとえば、『日本紀略』『暦録』『先代旧事本紀』等がその実物としてあげられる)を「日本紀(記)」として引用する。
AとBとでは実体はちがうものである。しかし、ひとしく「日本紀(記)」として標示することにおいてあった。『奥義抄』には、あきらかに『日本書紀』ならざる「日本紀」が引用されてもいる。これを、『日本書紀』をさすかどうかといったかたちで、実体を問題にすべきではない。ひとつの問題であり、問うべきなのは標示としての意味である。

 それは、根拠たりうると認可されたものとしての標示というのがもっともふさわしいのではないか。世界としての成り立ちを語り、自分たちの根拠を示すという特別な最初の正史の権威を負うものとして許されているという謂いである。時代がくだると認可は緩やかになり、「日本紀(記)」は拡大してゆく(というよりむしろ、拡散してゆく)が、中世のおわりにいたるまで(正確にいえば、近世国学による否定にいたるまで)、その標示は意味をもちつづけるのであった。

参考文献
梅村玲美「「日本紀」という名称とその意味――平安時代を中心として――」『上代文学』九二、二〇〇四・四
神野志隆光「「歴史」のなかに生きる『日本書紀』」『上代文学』一〇一、二〇〇八・一一、および、『変奏される日本書紀』東京大学出版会、二〇〇九
中村啓信『日本書紀の基礎的研究』高科書店、二〇〇〇
平田俊春『日本古典の成立の研究』日本書院、一九五九
吉森佳奈子『『河海抄』の『源氏物語』』和泉書院、二〇〇三

2011年6月3日(金) 日向 一雅
源氏物語 王権の物語―蛍巻の物語論と関わらせて―

【報告要旨】
 蛍巻では光源氏が玉鬘を相手に物語について長広舌を振るう場面がある。そこで光源氏は、「日本紀などはただかたそばぞかし。これら(物語)にこそ道道しくくはしきことはあらめ」と言う。語意の解釈のむずかしい一文であるが、日本紀(六国史)を貶め、物語の意義や効用を揚言したものと解釈できる。この物語論の面白いところは、一つは太政大臣光源氏の発言であること、それによって同時代の物語通念を転倒させる点である。そのような物語論の背景を検討し、その発言が源氏物語の王権と政治の主題に深く関わるものであることを述べる。

2011年6月17日(金) 永藤 靖
若狭国・神宮寺の「お水送り」について

【報告要旨】
 毎年三月、奈良・東大寺二月堂では二週間にわたって修二会がおこなわれる。その一連の仏教儀礼の中で、一二日の午前二時ころおこなわれる「お水取り」は世に知られた行事である。 ところで、この時に用いられる香水は、若狭国から送られてくるもので、「お水取り」は、二月堂下の「閼伽井屋」からその香水を汲むものであるという伝承がある。若狭国・小浜の神宮寺では、これに合わせるようにして「お水送り」の祭りが行われてきた。神宮寺の閼伽井から汲まれた香水は、護摩を焚かれた闇のなかで神宮寺の前を流れる遠敷川にそそぎこまれる。この水が奈良東大寺まで送られるというわけである。勿論、遠敷川の流れは、日本海に注ぐ川で、奈良へ到達するべくもない。美しい幻想というほかはないが、しかしこの「お水取り」と「お水送り」は単なる幻想によってだけ結びついているわけではない。その背後にさまざまな問題が隠れている。本発表は、「お水取り」と「お水送り」の周辺に目をくばり、このような言説が立ち上がってきた要因を明らかにしたい。

2011年6月17日(金) 堂野前 彰子
小浜神宮寺「お水送り」神事と交易の道
Trade Route behind the Ceremony of ‘OMIZUOKURI’ 

【報告要旨】
 小浜神宮寺には、春三月、東大寺二月堂の「お水取り」神事で捧げられるお香水を奈良に送る「お水送り」神事がある。それは境内の閼伽井から汲みあげた水を2㎞離れた鵜の瀬で遠敷川に注ぐ神事で、10日間かけてその水は二月堂に届くという。この神事で不思議に思うことは、なぜ若狭の水が遠く離れた奈良に送られるのかということである。東大寺初代別当の良弁が一説では若狭出身であり、東大寺が越国に多くの荘園を持つことと無関係ではないとはいっても、10日間の水の旅にはそれ以上の物語があるように思われてならない。 お香水を届けることを約束した遠敷明神とは若狭彦・若狭姫のことであるが、その神を祀る若狭彦神社は彦火火出見尊(山幸彦)を、若狭姫神社は豊玉姫を祭神としていて日向神話にゆかりがある。調べてみると日向神話の神を祭祀する神社は若狭に多くあり、琵琶湖を経て点々と南山城まであることがわかる。それを地図に落とすと、日本海と奈良を結ぶ一本の道が浮かび上がって見えてくる。その道は人々が川沿いに移動してきた痕跡であり、モノや人の移動を示す交易の道でもあった。

 そのような日本海と奈良を結ぶ道は、古代においては琵琶湖西岸を通って若狭へと続く鯖街道の他にも琵琶湖東岸を通って敦賀へと続く塩津路・西近江路があり、それら交易の道は古代日本文学の中にも見出すことができる。『古事記』仲哀天皇条で皇太子が敦賀で禊を行うくだりや応神天皇が矢河枝媛に求婚するくだりでは、交易と深く関わった敦賀、宇治という風土がその伝承の核にあり、仁徳記で嫉妬した磐姫皇后が山代へと向かう背景には河川を利用した交易がある。交易の道に注目したならば、伝承の異なった側面も見えてくるであろう。

 この発表は古代日本文学の中に「交易」を見いだすと同時に、「交易」という視点を導入することによって古代日本文学を新しく解釈する試みでもある。

2011年6月1日(金) 築地 貴久
下総国下河辺荘の伝領過程をめぐって―中世前期を中心に―
A Consideration Concerning Land Ownership and Succession of Shimokōbe-no-shō in Shimousa

【報告要旨】
 下総国下河辺荘は利根川水系と常陸川水系にはさまれた広大な地域を荘域とする荘園であり、その初出史料にあたる『吾妻鏡』文治2年(1186)3月12日条において当荘は「八条院御領」と記されていることから八条院領として立荘されたといわれている。おそらく当荘は秀郷流藤原氏の下河辺氏が八条院暲子内親王(あるいはその関係者)に自らの開発所領の寄進を行い、それを起点として立荘されたものと考えられるが、本報告ではこのように八条院領として立荘された下河辺荘がその後誰に伝えられていったのかを考えてみたい。当荘の立荘後の伝領関係を考える上で検討の中心となる材料は、「藤原良輔家遺領目録案」(奈良国立博物館所蔵『寺領目録』)、「大覚寺統領目録」(『竹内文平氏所蔵文書』)、「妙香院門跡領并別相伝所領目録案」(奈良国立博物館所蔵『寺領目録』)の三点であるが、これらの史料から、当荘は八条院から猶子となっていた藤原良輔に譲られ、後に再び院領に戻ったとする説や、良輔より妙香院に伝えられたとの考えを示した上で「大覚寺統領目録」の「庁分」に「下河辺」とみえるのは「名目的に残ったものに過ぎない」と解する説、あるいは当荘の本所権は院が保持し続け、良輔は八条院から領家職に任じられ、その領家職が妙香院へと伝えられとする説などが唱えられてきた。このような先行研究の理解から導き出される課題としては、さしあたり良輔への伝領を領家職の創出と結び付けて理解することの是非、「大覚寺統領目録」の性格の吟味、妙香院への伝領過程の解明の三点が挙げられるので、本報告においてはこれらの点についての検討を行い、下河辺荘の立荘後における伝領過程の変遷について中世前期を中心として明確にしていきたい。

2011年7月1日(金) 小野 真嗣
十一~十二世紀における源氏の東国進出について
Advance to the eastern country of Genji from the eleventh century to the twelfth century 

【報告要旨】
  十一~十二世紀にかけて東国を舞台に平忠常の乱や前九年合戦・後三年合戦などの兵乱が発生した。これらの兵乱には平忠常の乱における源頼信、前九年合戦・後三年合戦における源頼義・義家というように頼信を祖とする河内源氏が参戦しており、兵乱を通して河内源氏の東国進出が進行していった。
  しかしながら、一方では源頼親を祖とする大和源氏や、源頼光を祖とする摂津源氏も東国進出の動きをみせており、河内源氏内部でも後三年合戦後に義家の子である源義国と源義光が合戦を起こすなど一族対立が起こっていたとみられる。
  本報告では後三年合戦における源義光の参戦動機や、大和源氏・摂津源氏の東国進出に対する河内源氏の対応などを中心として、源氏の東国進出の様相を考察していきたい。

2011年9月30日(金) 氣賀澤 保規
中国河南法王寺発見の円仁「釈迦舎利蔵誌」の史料性とその周辺
The Documentary Character and Issues concerning Ennin's Shijia sheli cangzhi (Document on the storing of the Buddha relic) Inscribed on a Stone Tablet Found at Fawang Temple, Henan Province China 

【報告要旨】
 中国河南省登封県市の嵩山(中岳)に法王寺という古刹がある。昨年2010年来、そこから発見されたという一枚の石板、「釈迦舎利蔵誌」のことが話題をよんでいる。縦43.5㎝×横60.3㎝の横長の石面に、「釈迦舎利蔵誌/漢西来釋迦東肇佛/壇嵩之南麓法王寺/  立矣随仁壽間帝勑/建浮屠譴使安佛真/身舎利於内殊因移/匿地宮函密之盖護/寶非不恭也法門聖/物世遠疑失誠恐鐫/石以記祈聖門永輝/圓仁天如/大唐會昌五年」の12行88文字が刻まれ、そこに「圓仁」の名と唐「會昌五年」の年号があった。円仁そして会昌五年(845)というと、私たちはただちに『入唐求法巡礼行記』をまとめ、後に比叡山の天台宗第三代座主となる慈覚大師その人と、彼が被った会昌の廃仏という仏教弾圧事件を想起する。この碑刻が真物であったとすると、歴史の空白を埋める貴重な新史料となるが、しかし公表直後から様々な疑問が指摘されている。
 本報告では、「釈迦舎利蔵誌」に関連して、法王寺の歴史や仏教石刻の展開などを押さえ直し、新史料の理解や真偽の可能性などの問題についても言及してみたい。

2011年9月30日(金) 西野入 篤男
謝六逸『日本文学史』における『源氏物語』
The reception of “Tale of Genji” in China from viewing “The history of Japanese literature” by Xie Liu Yi 

【報告要旨】
 従来、中国における『源氏物語』享受の問題は、大陸の豊子愷訳『源氏物語』、台湾の林文月訳『源氏物語』といった訳者・訳本の紹介や分析が集中的に行われてきた。そこでは日中両国の文化的差異による誤訳の指摘のほか、そうした差異を乗り越えるための訳者の工夫や、和歌や敬語の訳出方法などが中心的に考察されている。
 ただし、中国における『源氏物語』の受容が、翻訳出版以前から行われていることはあまり知られていないのではないか。各国語の翻訳を通じて世界に広がる『源氏物語』の様相を、翻訳と原文の突き合わせのみではなく、史的変遷の中に位置づけ、より多角的な視野から分析する視座を確保したい。そうした目的の取り組みとして本論では、一九二九年に中国で初めて日本文学史を紹介した謝六逸『日本文學史』(上下・上海北新書店)における『源氏物語』理解を見ていきたいと思う。この書は、上代から昭和初期までの作家・作品を幅広く取り扱い、古代歌謡・和歌(長歌・短歌)・俳句の多くに「譯例」が付されているために翻訳研究の方面でも注目されている著書である。非常に系統的組織的な文学史の紹介であることが目次を見渡すだけでも確認され、それが一九二九年の中国で発表されていたことに驚かされる。
 本発表では謝六逸の経歴を、谷崎潤一郎との交流や、『日本文学史』出版以前に発表された日本文学に関する論文の紹介を通してたどりつつ、具体的に『日本文学史』に記された『源氏物語』の理解を見ていきたいと思う。彼は平安時代や『源氏物語』を、いかなる時代・作品として中国に紹介したのか。また、彼はどのような書物によってその歴史・文学観を築き上げていったのか。現段階で調査が進んでいる範囲の報告をしたいと思う。

2011年10月7日(金) 丸山 裕之
中世後期の京都と地下官人
Kyoto where is in the latter half of the Middle Ages and low-class public servant 

【報告要旨】
 中世の朝廷は鎌倉期以降、機構の維持や財源確保のために再編、合理化を繰り返してきた。そのような中で、実務レベルで朝廷を支えたのが外記や史をはじめとする地下官人たちであったことは間違いない。彼ら地下官人たちは朝廷諸官司の長官を兼ね、諸官司領を知行していた。これらの諸官司領は特定の家において「相伝」を経ることなどにより徐々に私領化していき、地下官人たちの重要な経済基盤となっていた。
 しかし、南北朝期を境にして、武士による押領等により徐々に諸官司領も退転していく。そのような中で、諸司領の退転に代わり新たに地下官人達の経済基盤として現れてくるのが、京中に設定された土地から徴収する地子銭や商業課役であるが、ほとんど研究が進展していないというのが現状である。
 そこで本稿では、主として室町期において六位の外記・史の所領であった冷泉院町の構成や変遷などを明らかにし、また同じく地下官人の所領のうち、織部正であった高橋氏の織部町、隼人正であった康綱流中原氏の隼人町を取り上げ、同時代の京中に設定された官司領の特質を検討することにより、中世後期の地下官人たちの経済基盤の一端を明らかにしてみたい。

2011年10月7日(金) 佐々木 憲一
アメリカ合衆国ニュー・メキシコ州チャコ・キャニオン遺跡群訪問
Visit to the Chao Canyon Sites, New Mexico, the United States 

【報告要旨】
 前回(5月20日)の発表でも明らかなように、アメリカ合衆国では考古学が人類学の一分野として位置づけられている。これは考古学も民族学も同じ先住民の文化を理解するための学問として位置付けられてきたからである。今回は、世界遺産にも指定されているアメリカ合衆国南西部、ニュー・メキシコ州北西隅に立地するチャコ・キャニオン遺跡群をとりあげ、先史時代遺跡が現代社会でどのような位置を占めるのか、紹介する。最後に、先住民が現在も、先史時代遺跡とまったく同構造の住居に住んでいる実例を紹介し、考古資料と民族資料が同一の場合があって、そのため考古学と民族学が一体となって研究されてきた現実を指摘する。

2011年10月21日(金) 黃 正建
唐代的法律體系(唐代の法律体系)

【報告要旨】
中國古代社會能成功存在幾千年,政府的有效統治很重要。在這種統治中,比較有中國特色是“禮”和“法”。中國古代的法律在世界上比較特殊,被稱為“中華法系”。雖然這一法系現在已經死亡,但它在中國古代社會發揮的巨大作用不能忽視。
  唐代的法律體系和西方法律體系不同,並不分刑法、民法、行政法、訴訟法等。一般認為,唐代的法律體系由律、令、格、式組成。
 (中国の古代社会が数千年にわたって続きえたのは、王朝による有効な統治があったからである。その統治のなかで、中国的特色をもつのが「礼」と「法」であった。中国古代の法は世界において特別の位置を占め、「中華法体系」とよばれる。この法体系は現在では死に法となっているが、しかしその中国古代社会において果たした巨大な役割は、決してないがしろにすることはできない。
 唐代の法体系は西洋の法体系とは異なり、刑法、民法、行政法、訴訟法などに分かれず、律・令・格・式から成る。以下それについて概観する。)
1、律
唐律的性質是刑法。唐律有12篇502條。因為唐律裡規定了罪名,以及罰則。茲舉一例: 一、手足鬥毆人:笞四十 二、手足鬥毆人致傷,或以他物(不用刃)毆人:杖六十 三、他物傷人,或拔髮方寸以上,杖八十 四、他物傷人致吐血等,加二等 這裡講了一個罪名(鬥毆罪),四等懲罰(笞四十、杖六十、杖八十、杖一百)。 唐代法律制度的一大進展是《律疏》的出現。《律疏》對《唐律》全部502條律文逐條逐句解釋,並設置問答,對後世影響很大。《律疏》與正文具有同等法律效力。後代稱為《唐律疏議》。 《唐律》的立法水準很高。研究法律史的專家除研究具體罪名外,還從現代刑法角度進行硏究,取得了很大成就。比如研究“罪與非罪”中的“防衛制度”就是一例。 《律疏》的另一作用是對名詞的準確解釋,這對瞭解當時社會也很有用。 在瞭解唐律時,一定要注意它的真髓,即“禮”的精神。“禮”的精神就是“異貴賤”和“別尊卑”,在唐律中的表現就是“等級制”和“家族制”。
2、令
令的性質一般認為是國家和社會生活的制度,是積極性的、正面指導人們行為的法規,規範的面比較寬。所以在研究唐代社會時,從某種意義上說,令比律要重要。唐令重要的有武德令、貞觀令、永徽令、垂拱令、開元令等,現只留下了開元七年令的篇目,共30卷27篇,1546條。 從令名看,“令”所規範的範圍確實很寬,不僅包括國家行政制度,也包括衣食住行、婚喪嫁娶,因此是研究唐代社會歷史不可或缺的重要資料。例如關於休假,就由《假寧令》規定。 唐令本身沒有罰則,但仍具有相當的強制力。違反《令》要受到處罰,唐律中就專門設有“違令罪”。 其他關於國家制度的令文還有如敦煌發現的《東宮職員令》、《公式令》等。
3、格
格的內容是皇帝詔令的刪輯。皇帝的制敕一般只針對特定對象,並在特定時間內有效力。只有經過一定程式,將其整編為《格》,才具有普遍的、永久的法律效力,所以又叫“永格”。沒有編為《格》的敕,不能作為斷獄的根據。 格是律令的補充和追加,以尚書省諸曹為篇目。 格是綜合性法規,其中既有帶罰則的類似“律”的規定,也有不帶罰則的類似“令”的規定。 格自武德年間就開始編輯,到玄宗開元年間,共編錄頒行了14次,19部。完整的《格》現已不存,除史籍中略有記載外,還存在于敦煌文書中。比如《神龍散頒刑部格》。這是一部有罰則的《格》 《格》文中還有不帶罰則的,如敦煌文書中的《開元戶部格》。
4、式
式的性質一般認為是圍繞律令的執行所規定的細則以及百官諸事的辦事章程。或者說是國家機關的公文程式和行政活動細則。 唐代的《式》到開元年間為止,編修了10次左右。 唐代的式與令、格一樣,已經散佚了,比格、令還少。最長的一件就是保存在敦煌文書中的《水部式》。 再如《宋刑統》卷十八引有《主客式》。 通過以上,我們知道“律令格式”構成了唐代的法律體系。這種體系保證了國家政治的正常運轉,和社會秩序的穩定,是唐代社會能持續發展的重要保證。這種依靠律令格式(主要是律令)來規範社會行為的國家,被後來的學者特別是日本學者稱之為“律令制”國家或“律令制”時代。這種“律令制”時代,從狹義來說,主要就指隋唐時期。宋以後,隨著編敕、條格、會典、斷例等越來越重要,一般就不稱為“律令制”時代了。
(以上を通じで、律令格式が唐代の法体系を構成したことがわかる。この体系は国家の政治の正常な運用と社会秩序の安定を保証し、唐代社会が持続的に発展する重要な拠りどころとなった。こうした律令格式(主に律令)によって社会の仕組みが規定される国家は、後世の学者、なかんづく日本の学者によって、「律令制」国家あるいは「律令制」時代と名づけられた。狭義でいえば、それは主に隋唐時期を指す。宋代以後、編勅・条格・会典・断令などが重要性を増すにつれ、通常「律令制」の時代とよばれなくなる。)

2011年10月21日(金) 市原 慎太郎
18世紀雲南の土司制度と清朝
Tu-si(Aborigine Officer) System of Yunnan Province and Qing Dynasty China in 18th Century 

【報告要旨】
 近世中国の辺境非漢族地域で広く行われた国内に非漢族の独自政権を認める「土司制度」は、清朝(1616-1912)に入って崩壊と変質を引き起こした。この制度の崩壊を雍正帝(在:1723-35)期の雲南省に題材を取り、紹介したい。
従来の理解では雍正帝が主導して腹心オルタイを利用して積極的に軍事動員を行い治安問題の原因だった改土帰流(土司制度の廃止)と地方社会の安定を図った、とされてきた。しかし、実際の改土帰流の実行者がオルタイだったにせよ、改土帰流はもともとはオルタイ以外の官僚達によって提案されており、その後に雍正帝の指示があったことが史料上から見ることが出来る。
改土帰流の発案者および目的を従来通り雍正帝と清朝政府の中央集権化への意思としてとらえることははたして可能なのだろうか。むしろ、より下位の地方の事情が官僚制度を通じ国家の政策に結合したとみる方が妥当ではないだろうか。本稿を通じて考察を深める。

2011年11月11日(金) 李 興淑
『光源氏物語抄』編者をめぐって
Over an Editor of Hikarigenjimonogatari-shou 

【報告要旨】
 『光源氏物語抄』(別称『異本紫明抄』)は、鎌倉時代成立の編者未詳の『源氏物語』の注釈書である。従来、編者については、編者藤原時朝説、編者金沢実時説があり、現在後者が支持を得ている。金沢実時説は、実時が清原教隆と師弟関係であったことがその根拠となっている。しかし、実時が編者であるとするならば、師匠である教隆より漢籍の秘説を受訓していたので、同一漢籍においては当然その訓読法が『光源氏物語抄』の「今案」(編者)説に反映されており、教隆の訓読法と一致しなければならないはずであるが、実際はそうではない。
 本発表では、金沢実時が清原教隆より仁治本『古文孝経』の秘説を受訓し、また、教隆による宮内庁書陵部蔵本『群書治要』巻三「毛詩」の訓点が実時の命令によるものであることに着目し、『光源氏物語抄』に引かれている「今案」(編者)説の『古文孝経』と『毛詩』を仁治本『古文孝経』と宮内庁書陵部蔵本『群書治要』「毛詩」の訓読法と比較、検討する。よって、『光源氏物語抄』に引かれている同一漢籍における「今案」手持ちのテキストの訓読法が、清原教隆のテキストの訓読法と異なっていることを検証し、従来の『光源氏物語抄』編者=金沢実時説における問題点を提起し、新たな編者像を探ってみたい。

2011年11月11日(金) 加藤 友康
平安貴族による日記(古記録)利用の諸形態
Forms of Utilizing Old Diaries(Kokiroku)by the Aristocracy in the Heian period 

【報告要旨】
 9世紀末から10世紀初頭にかけて日記の数、とくに貴族の日記の数が増えてくる背景には、平安時代中期以後における貴族層内部における官職の固定化という貴族社会の構造変化と、それにともない貴族たちが固定化された役割分担にもとづき、一定の作法に従って進められた政務・儀式において先例を重視するという規範意識が形成され、宮廷儀式における前例調査に日記が重要な役割を果たすことになったことがあると指摘されてきた。
 日記の筆録にあたっては、日記筆録の情報源(source)に注目したとき、記主の見聞(儀式への参加、日記の参看など)、他者からの情報(一次情報、二次情報、………)、伝聞情報(伝聞……云々、後聞……云々など)のほかに、「文書」情報なども残されていた。文書を筆録することは、日記の筆録の契機として記主の職掌がかかわっていたこと、筆録時点も時間差をおかないことを特徴としていたことが指摘できる(「平安時代の古記録と日記文学―記主の筆録意識と筆録された情報―」石川日出志・日向一雅・吉村武彦編『交響する古代―東アジアの中の日本―』2011年 東京堂出版・「平安貴族と古記録」〔清華大学・明治大学 学術交流研究会 2011年9月23日 口頭報告〕)。
 このような日記の筆録過程は、input(情報の入手)→processing(日記への筆録情報の取捨選択)→output(日記の筆録)として定式化できるが、本報告ではoutputされた日記の利用について検討を進めたい。
 日記の利用形態には、(1)本人による本人の日記の利用、(2)他人の日記の利用があげられる。(2)は、さらに利用者の祖先の日記(「家の日記」)、貸借による他者の日記の参照が考えられる。またその際に、原本そのものを利用する場合、outputの二次的形態として写本、抜粋(抜き書き)を作成する場合などいくつかの方式があった。これらの様相について、原本そのものに残された情報や、日記に筆録されて記録にとどめられた情報をもとにその特質について検討することが第一の課題となる。
 さらにoutputの二次的形態を考察する検討対象として、のちの利用に便利なように日記から特定の事項に関する記事を書き出して分類した部類記や目録に注目したい。
 日記は年月順に筆録されるものであり、本来は不必要な日記の記事の日付に年月を冠してある箇所、また同一日付が二箇所以上存するこれら「異例日付表記」と称される日付表記が『小右記』には残されている。この「異例日付表記」に注目した『小右記』の部類作業の指摘(今江弘道「『小右記』古写本成立私考」岩橋小彌太博士頌寿記念会編『日本史籍論集』上巻 1969年 吉川弘文館)あるが、さらに「異例日付表記」の記事分類と現在残されている『小記目録』の部立てを比較検討することにより、『小記目録』とは異なる中途で終わった部類の作業について、その作業が何を対象としていたかを検討することが第二の課題である。

2011年11月18日(金) 遠藤 集子
『常陸国風土記』の降臨神話について
On Descent Myths in the Hitachi-no-Kuni-Fudoki 

【報告要旨】
  中央と地方という観点から古代の説話を見るとき、その対象となるのは『古事記』(以下『記』)・『日本書紀』(以下『紀』)と古風土記であり、中央の神話・歴史を記した『記』・『紀』に対して、古風土記は土地の伝承を残すものであると位置付けられてきた。和銅六(七一三)年五月に発せられた詔に、土地の肥沃状態や地名由来等を記した文書の作成を求める旨が記されており、この詔を受けて官人たちが作成し、解文として朝廷へと提出したのが古風土記である。古風土記に記された伝承は官人の手によって筆録されたものであり、そこに土地固有の伝承が残っているかは疑わしいといえる。
  本発表では、風土記の持つ在地性という問題について、『常陸国風土記』の降臨神話を通じて検討を行いたいと考えている。『常陸国風土記』には降臨神話が五箇所にみられ、降臨する神や場所、目的等がさまざまに記されている。天からの降下を示す降臨神話は、天孫降臨神話が『記』・『紀』にあるように、地方のみならず中央にも共通する話型である。『常陸国風土記』の降臨神話の表現に着目し、『記』・『紀』との比較によって、中央と地方という観点からその差異を探ることが本発表の課題である。

2011年11月18日(金) 早澤 正人
芥川龍之介「鼻」論 ――「今昔物語」の受容をめぐって――
A Study of HANA by AKUTAGAWA Ryunosuke :The Relation between HAHA and KONJYAKU-MONOGATARI 

【報告要旨】
  明治末~大正にかけて、「今昔物語」は、無名の古典であり、せいぜい「源氏物語」の風俗資料的価値しか認められていなかった。しかし、そのようなマイナーな古典に、文学的な価値を見出し、これを数々の作品に形象化させたのが、芥川であったといわれている。もっとも、芥川は「今昔物語」の魅力として、「野蛮の美しさ」「生々しさ」という問題を挙げているが、「今昔物語」を題材とした彼の「羅生門」(初出「帝国文学」大正四年九月)、「鼻」(初出「新思潮」大正五年二月)、「芋粥」(初出「新小説」大正五年九月)といった一連の小説には、原話の持つそうした魅力に乏しいともいわれる。
  こうした問題の背景には、芥川のテクストが、「今昔物語」を吸収していく際、原話のストーリーを「プロット型」に変形していることも関係している。E・M・フォースターによれば、「プロット型」というのは、「なぜか、なぜか」と、因果を探求していく展開のことであり、読者の知性に訴える構成であるというが、芥川の「今昔もの」のテクストもまた、このような「プロット型」に変換することによって、原話(「今昔物語」)を知的な話に組み替えているのである。
  本発表では、そのような芥川の「今昔もの」の特徴がよくあらわれている初期の傑作「鼻」を取り上げ、このテクストにおける言説の分析や、原話との比較考察を通じて、(筆者の研究課題でもある)芥川の初期テクストにおける小説スタイルの問題について考察する。

2011年12月2日(金) 神野志 隆光
古代神話論のために

【報告要旨】
 「記紀神話」論、「日本神話」論を批判的にふりかえりつつ、古代神話として見るという立場とその方向性について述べたい。「記紀神話」論は、『古事記』『日本書紀』の神話を共通の体系として括って見るものとしてあった。ひとつの神話が二つのテキストとしてあると見るのである。「記紀神話」論は、『古事記』『日本書紀』の神話をめぐる研究のひとつの柱となってきた。その出発をになうものとして津田左右吉が位置づけられる。ふたつのテキストを共通の体系としてとらえながら、その内部批判(記紀批判)をつうじて成立を考察するものである。それは『古事記』『日本書紀』を読まない、というより、読むことを欠落させる思考様式にほかならなかった。「日本神話」論も、たんに日本の神話ということではなく、民族文化として神話をとらえるものとして、研究史においてあった。「国民」の固有の思想・文化をもとめることに応じるものであったからである。それは、モチーフないし要素によって比較し、「日本神話」の源流を探るという方法をとる。『古事記』『日本書紀』にあらわれるものをそのまま比較の素材として、「日本神話」というかたちで論議してきたのであった。この批判とともに、古代神話論は、『古事記』『日本書紀』のテキスト理解によってたつべきことを明確にしたい。

2011年12月16日(金) 堂野前 彰子
播磨への道―ヲケ・オケの逃避行
On the Escape Route to HARIMA::Focus on the Revival Story of Prince WOKE and OKE

【報告要旨】
  『播磨国風土記』美囊郡条には、雄略天皇に父を殺害されたヲケ・オケ皇子が身をやつし、再び王として中央に迎えられる伝承が語られている。「石室」に籠ることによって王となるこの伝承はまさに「王の再生譚」であり、「天石屋戸」を想起させる神話的な意味を秘めた物語でもある。実はこの伝承と同工異曲の物語が記紀にも残されていて、その播磨までの逃避ルートはそれぞれの書物で異なっている。『播磨国風土記』では近江国から逃れ来たとのみ記すのに対し、『古事記』では山代国から淀川を下ったルート、『日本書紀』では丹波国余社郡を経由したルートが語られており、それら書物の特徴を示しているといえる。今回の報告ではその中でも『日本書紀』の逃避ルートに注目し、加古川東岸に位置する播磨国美囊郡の風土について考えることを試みる。その結果見えてくるのは、加古川水系を主とする日本海から瀬戸内海へと縦断する水上の道と、その道を往来する人々の姿であろう。
  またその日本海からの縦断ルートを調べてみると、そのルート上、すなわち丹波郡余社郡と播磨国印南郡の両方に「天」と地上をつなぐ「橋」の伝承が『風土記』に残されていることがわかる。さらに美囊郡にも「自天下(天より下る)」神の伝承が『播磨国風土記』唯一の例としてあることは興味深く、この日本海から瀬戸内海へと到る水上の道が意味するところについても考察する。

2011年12月16日(金) 堀井 裕之
唐朝政権の形成と『貞観氏族志』―金・劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」を手掛かりに―
The Formation of Tang Dynasty and Zhenguan-Zhizuzhi 貞観氏族志:Based on the Stone Inscription of Peishixianggong-Jiapuzhibei 裴氏相公家譜之碑edited by Liu Ruoxu 劉若虚 

【報告要旨】
  唐・太宗は『貞観氏族志』の編纂を命じて門閥の格付けを行った。はじめ、編纂を担当した高士廉は山東貴族である崔民幹を第一等の門閥とし、皇室を第三等に格付けした。これに対して太宗は激怒し、官品を基準にして家格を定め直させて、皇室を第一位、外戚を第二位とし、そして崔民幹を第三等に降格させた。それだけではなく、他の山東貴族も家格が降格され、山東貴族は駙馬(皇帝の娘婿)・王妃(皇子の妻)の候補からも除外された。
  この事件に関して、陳寅恪氏以降、太宗が旧門閥の権威を否定し抑圧した側面のみが強調されてきたが、太宗が崔民幹を降格させたのは、彼が門閥であるだけでなく才覚・功績がないこともその理由であった。太宗は崔民幹の措置を通じて賢才主義に基づいて唐朝の官品をもって新統一王朝に相応しい新たな氏族の序列を示そうとしたのである。このように『貞観氏族志』の問題は、創業間もない唐朝が氏族政策を通してどのような政権を形成しようとしたのかが見えてくるのである。本報告では、まず、金・劉若虚撰「裴氏相公家譜之碑」(大定11年(1171)8月刻)所載の唐・裴滔撰『裴氏家譜』を手掛かりにして、『貞観氏族志』の体例、主として官品と等級の対応関係を復元し、前述した太宗の氏族政策の理念を裏付ける。その上で、唐初政権の性格について再考察する。

2012年1月13日(金) 張 孝鉉
Nestorianism(景敎)の東方伝播

【報告要旨】
  Nestorianism(景敎)は、Nestoriusにより始まった東方基督敎の一つの流れである。Nestoriusは、イエスには完全な神性と完全な人性が共にあるという‘神人兩性說’と‘マリア非聖母說'を主張したのであり、Cyrilusはイエスの神性のみを強調する‘單一性說’と ‘マリア聖母說’を主張して対立した。431年エフェソス公会議でNestoriusは異端として定罪されて、Egyptに流配され451年に没す。
  Nestorius派のBar Somaが、ペルシアへ逃避し、神学校を建て宣敎師を養成し、天山山脈を経て唐に傳播される。635年、阿羅本(Alopen) 一行が唐の首都長安に入り、太宗がこれを許容した後、敎勢が拡大される。‘光明な宗敎’という意味で‘景敎’という名称がつく。德宗時代に景敎の絶頂期となり、 景淨(Adam)が碑文を作成し、781年に「大秦景敎流行中国碑」が建立された。碑文には景敎の歷史と敎勢及び敎理が書かれており、側面には65名の景敎僧侶の名前がシリア文字で書かれている。景敎は唐末期 845年の会昌禁敎と879年の黃巢の亂により打撃を受け衰退した。
  1908年Pelliotにより燉煌の石窟で『三威蒙度讚』、『尊經』の景敎文獻と人物塑像が発見された。『序聽迷詩所經』、『一神論』、『志玄安樂經』、『宣元至本經』の景敎文献も燉煌の石窟で流出されたのである。阿羅本が翻訳した經典としては、イエスの教えと一代記が叙述された『序聽迷詩所經』と唯一神による天地創造とイエスの教えを記録した『一神論』がある。景淨が翻訳した經典としては、預言者 22名と漢譯經典 35部の名前が記載された『尊經』、イエスが誕生するとき天使が歌った「大榮光頌」を記録した『三威蒙度讚』、イエスが安樂道について説明する『志玄安樂經』、景敎の道について説明する『宣元至本經』がある。
  景敎は、1)マリア神母の崇拝を反対し、2) 十字架以外の形象は使用せず、3) 死後の贖罪論を否認し、4)僧侶の結婚を許容する点から改新敎(Protestantism)と相似する。
  1956年慶州で発掘された遺物の中には石製の十字架とイエスを抱く聖母マリア像があり、統一新羅(676-935)に景敎が傳來された可能性が提起された。1987年慶北の榮州王留洞 ‘ブンチョ岩’から統一新羅末~高麗初に造成されたものと推定される岩刻の人物像が發見されたが、 像の周りには‘תםממ’というヘブライ語の文字 ‘耶蘇花王引導者刀馬明’と‘名全行’という漢字が刻まれている。この岩刻人物像も手勢と足指の露出及び服裝の文樣より景敎との関連を見ることができる。
  渤海(698-926)の諸遺跡でも十字架が発見された。13~14世紀の元代に景敎は ‘也里可溫(Erkegun)’という名前で再び流行した。高麗に入り活動していた元の景敎敎徒に関する記録があるが、 征東行省の平章政事に任命され、高麗の奴婢制を革罷しようとしたゲオルギス(闊里吉思)のことである。
  景敎が韓国佛敎と交渉しつつそれに及ぼした影響、そして韓国古典文學に残した痕跡などについて筆者はこれからも関心を持って探究したいと思う。

2012年1月13日(金) 志村 佳名子
日本古代王宮における朝堂の成立とその機能
A Study of the Establishment and Function of Chodo 朝堂 at the Ancient Palace in Japan

【報告要旨】
  日本古代の王宮の中で政務・儀礼が行われる空間は、「朝堂」と呼ばれた。その名称は日本が範とした中国の宮城に存在した同名の施設に由来するが、宮城相当部と皇城相当部との間に広大な朝堂を設けるという形態は、日本の宮室に独特のものである。この朝堂は七世紀の前期難波宮から九世紀の平安宮まで存続する王宮の重要な構成要素であるが、その利用形態は未解明な部分が多く、朝堂の後の名称である「朝堂院」の性格も不明確である。
  「朝堂」とは執務施設である「庁」とその前庭である「朝庭」から成る区画を指す名称であるが、古代の日本では元来「庭」は神意を聴く場としての性格を持ち、天皇の居処の前庭が公的儀式と政治の場であった。このような背景のもとに、七世紀以降の王宮で朝堂は国家的儀礼や政務形態の変化と密接に関係しつつ成立・発展したものと考えられる。
  本報告では、古代国家の政務・儀礼の主たる舞台であった朝堂空間の機能について、七世紀以降の各王宮における利用形態を考察し、その歴史的意義を明らかにする。