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中国史を変えた5つの反乱

農民、宗教、外国人、西洋思想、ナショナリズムの狂信と暴力
早稲田エクステンションセンター中野校
【対面+オンラインのハイブリッド】
最新の更新2026年10月7日   最初の公開2024年8月7日

  1. 概要
  2. 09/25 史上初の農民反乱-陳勝呉広の乱
  3. 10/09 新興宗教の光と影-黄巾の乱
  4. 10/23 在中外国人の不満-安禄山の乱
  5. 11/20 西洋思想の中国化-太平天国の乱
  6. 12/11 狂信的ナショナリズム-義和団の乱


概要
以下、早稲田エクステンションセンターのサイトの
https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/68731/ より引用。閲覧日2026年9月22日。引用開始。
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう

講義概要
「勝てば官軍、負ければ賊軍」を、中国語では「成者為王、敗者為寇」と言います。中国史では、平和な時代が長く続くと、いわゆる「マタイ効果」で社会の格差が拡大し、大規模な反乱が発生します。近代中国の作家・魯迅は「暴君の統治下の臣民はたいてい暴君よりも暴力的である」と述べています。反乱者は必ずしも「哀れな犠牲者」ではなかったのです。古代から現代まで、「中華帝国」というシステムは、数百年ごとの反乱で更新(アップデート)されてきた側面があります。本講座では、中国社会の本質を、「反乱の歴史」から読み解きます。豊富な映像資料を用い、予備知識のない方にもわかりやすく解説します。


第1回 09/25 史上初の農民反乱-陳勝呉広の乱
紀元前209年、秦帝国の末期に起きた陳勝・呉広の乱は、中国史上初の大規模な農民反乱とされています。反乱を率いた陳勝と呉広は、ともに貧しい農民出身でした。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という陳勝の言葉は、身分制度への挑戦として有名です。反乱そのものは短期間で失敗しましたが、その後の各地の蜂起を誘発し、始皇帝が築いた秦帝国を滅亡へと導きました。前漢王朝の初代皇帝となった劉邦も農民出身であり、紙一重の差で勝者となったのです。社会の下層が暴力によって社会をひっくり返す、という最初の例となりました。
google 画像検索結果 
 
“陈胜 吴广”  “张楚 陈胜”
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PLNxQMGUDmvs4

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

○略年表

○名言・成語


○司馬遷『史記』陳涉世家より
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/史記/卷048

 陳勝は陽城(現在の中国・河南省方城県)の人で、字(あざな)は渉という。呉広は陽夏(河南省周口市太康県)の人で、字は叔という。
  陳渉は若いころ、人とともに人に雇われて耕作をしていた。あるとき、耕作をやめて畑の畔に行き、長いこと思い悩んで、こう言った。
  「もし将来、富貴の身になったら、互いに忘れないようにしよう。」
   すると、雇われて一緒に耕していた仲間たちは笑って答えた。
  「お前は今、雇われて耕作している身なのに、どうして富貴になれるんだ。」
   陳渉は大きくため息をついて言った。
  「ああ、燕や雀のような小鳥に、どうして鴻鵠(こうこく=大きな鳥)の志が分かろうか。」
(「燕雀安知鴻鵠之志哉」)
   秦の二世皇帝元年(紀元前209年)七月、閭左(りょさ)の者たちを徴発して、漁陽の守備につかせることになり、九百人が大沢郷に駐屯した。陳勝と呉広も、その隊列にあたって出発することになり、屯長を務めていた。
   ちょうどそのとき、大雨が降り、道が通れなくなった。どう考えても、定められた期日に間に合わない。期日に遅れれば、法律では全員死刑である。
   そこで陳勝と呉広は相談した。
  「今、逃げても死ぬ。大きな計画を起こしても死ぬ。同じ死ぬのなら、国のために死ぬのはどうだろう。」
 陳勝は言った。
  「天下の人々は、秦に苦しめられて久しい。私は聞いている。二世皇帝は始皇帝の末子で、本来は皇帝になるはずではなかった。本来皇帝になるべきだったのは公子扶蘇である。扶蘇は、しばしば皇帝を諫めたため、始皇帝から都の外に出され、軍を率いることになった。今、扶蘇には罪がなかったのに、二世皇帝が彼を殺した、と聞いている者もいる。民衆の多くは、扶蘇が賢明な人物だったことを知っているが、彼が死んだことを知らない。 また、項燕は楚の将軍で、たびたび戦功を立て、兵士を大切にしたので、楚の人々から慕われていた。項燕についても、死んだと思っている者もいれば、逃亡したと思っている者もいる。 今、われわれが自分たちは公子扶蘇と項燕であると偽って名乗り、天下に向かって旗を掲げれば、きっと大勢の者が呼応するだろう。」
  呉広も、それはもっともだと思った。 そこで二人は占いをした。占い師は二人の意図を察して、こう言った。
  「あなた方の事業は、すべて成功するでしょう。きっと功績をあげるでしょう。ただし、あなた方が占っているのは、人ではなく鬼神のことですか。」
   陳勝と呉広は喜んだ。そして鬼神のことを考え、
  「これは、まず鬼神の威力を利用して、仲間たちを威圧する方法を教えてくれているのだ。」
  と言った。そこで絹に赤い朱で「陳勝王」と書き、それを人が網で捕らえた魚の腹の中に入れた。兵士たちが魚を買って料理すると、魚の腹の中からその書き付けが出てきたので、兵士たちは、もちろん不思議なことだと思った。
   さらに呉広をひそかに兵士たちの宿営所近くにある、草木に囲まれた神社へ行かせ、夜に篝火をたき、狐の鳴き声をまねて、
  「大楚が興り、陳勝が王となる!」
  と叫ばせた。
  兵士たちは皆、夜中に驚き恐れた。翌朝になると、兵士たちはあちこちでその話をし、皆、陳勝を指さして目配せするようになった。
  呉広はもともと人望があり、兵士たちの多くは彼のためなら動こうとしていた。
  あるとき、将尉が酒に酔っているところで、呉広はわざと何度も「逃げたい」と口にして、将尉を怒らせた。そして将尉が兵士たちの面前で呉広を辱めるよう仕向け、兵士たちの怒りを煽った。
  案の定、将尉は呉広を鞭打った。すると将尉が剣を抜いた。呉広は立ち上がり、その剣を奪って将尉を殺した。陳勝も加勢して、二人の将尉をともに殺した。
  そして陳勝は部下たちを集めて命じた。
  「諸君は雨に遭い、すでに期日に遅れてしまった。期日に遅れれば死刑だ。たとえ特別に死刑を免れたとしても、守備に赴いて死ぬ者は、もともと十人のうち六、七人はいる。
  それならば、壮士というものは、死なずに済むならそれに越したことはない。しかし、いったん死ぬのであれば、大きな名を残すべきではないか。王侯将相に、どうして生まれつきの身分の違いなどあろうか。」 (「王侯将相寧有種乎」)
 部下たちは皆、
  「謹んで命令を承ります。」
  と答えた。
  そこで彼らは、公子扶蘇と項燕を名乗り、民衆の願いに従うことにした。右肩をあらわにし、「大楚」と称した。壇を築いて盟約を結び、殺した将尉の首を供え物として祭った。
  陳勝は自ら将軍となり、呉広を都尉とした。
  大沢郷を攻め、さらに蘄を攻めた。蘄を落とすと、符離の人・葛嬰に兵を率いさせ、蘄より東の地域を攻略させた。銍、酇、苦、柘、譙を攻め、すべてこれを落とした。そして兵を集めながら進軍した。
  陳に到着するころには、戦車が六、七百乗、騎兵が千余り、兵士は数万人に達していた。
  陳を攻撃すると、陳の守令たちは皆、そこにいなかった。ただ守丞だけが譙門の中で戦った。しかし勝てず、守丞は戦死した。そこで陳勝たちは陳に入り、これを占拠した。
  数日後、陳勝は三老や豪傑たちを招集し、皆で政治について相談した。 三老や豪傑たちは皆、こう言った。
  「将軍は堅い鎧を身につけ、鋭い武器を手にして、道理に背いた者を討ち、暴虐な秦を滅ぼし、楚の国を再び建てようとしておられます。その功績は、王となるにふさわしいものです。」
  そこで陳渉は王となり、「張楚」と号した。
  このころ、秦の役人に苦しめられていた各地の郡県では、人々がそれぞれ長官を捕らえ、殺して陳渉に呼応した。
  陳勝は呉広を仮王とし、諸将を監督させて西へ進み、滎陽を攻撃させた。
  また陳の人・武臣、張耳、陳余には趙の地方を攻略させ、汝陰の人・�ケ宗には九江郡を攻略させた。
  このころ、楚の兵を数千人ずつ集めて蜂起した者は、数え切れないほどであった。
  葛嬰が東城に到着すると、襄彊を楚王に立てた。しかし後になって陳王がすでに王となっていたことを知ると、葛嬰は襄彊を殺して陳に戻り、事情を報告した。陳王は葛嬰を処刑した。
  陳王は魏の人・周市に命じ、北へ進んで魏の地方を攻略させた。
  呉広は滎陽を包囲した。しかし李由が三川郡の守となって滎陽を守っており、呉広はこれを落とすことができなかった。
  陳王は国中の豪傑を集めて政治について相談し、上蔡の人・房君蔡賜を上柱国に任命した。
  周文は陳の賢人で、かつて項燕の軍で暦や天文を担当し、春申君にも仕えた人物である。本人は軍事に詳しいと言っていたので、陳王は彼に将軍の印を与え、西へ進んで秦を攻撃させた。
  周文は進軍しながら兵を集め、函谷関に到着したころには、戦車千乗、兵士数十万人に達していた。戯に到着すると、そこに軍を駐屯させた。
  秦は少府の章邯に命じて、驪山の労役に服していた囚人や、奴婢から生まれた者たちまで、すべて兵士として動員し、楚の大軍を攻撃させた。
  周文は敗れ、函谷関の外へ逃げ、曹陽に駐屯して二、三か月とどまった。章邯が追撃して再びこれを破ると、周文はさらに逃げ、澠池に十余日駐屯した。しかし章邯が攻撃し、これを大いに破った。
  周文は自ら首をはねて死に、その軍も戦わずに崩壊した。
  武臣は邯鄲に到着すると、自ら趙王を名乗り、陳余を大将軍、張耳と召騷を左右の丞相とした。
  これを知った陳王は怒り、武臣らの家族を捕らえて拘束し、処刑しようとした。すると上柱国は言った。
  「秦がまだ滅びていないのに、趙王やその将相の家族を殺せば、秦をもう一つ作るようなものです。それよりも、趙王として正式に認めてやるほうがよいでしょう。」
  そこで陳王は使者を派遣して趙王を祝福し、武臣らの家族を宮中で拘束したままとし、張耳の息子・張敖を成都君に封じた。そして趙王に対して、兵を急いで函谷関の内側へ進ませるよう促した。 趙王と将相たちは相談した。
  「われわれが趙王を立てたのは、楚の意向によるものではない。楚は秦を滅ぼした後、必ず兵を趙に向けるだろう。 考えてみれば、西へ兵を送るのをやめ、使者を北へ派遣して燕の地を攻略し、われわれ自身の勢力を広げるのがよい。 趙は南では黄河を押さえ、北には燕と代がある。楚が秦に勝ったとしても、趙を思い通りにすることはできない。もし楚が秦に勝てなければ、楚は必ず趙をいっそう重視することになる。 秦が弱っている機会に乗じれば、天下に対してわれわれの望みをかなえることができる。」
  趙王もその意見をもっともだと考え、西へ兵を送ることをやめた。そして、もと上谷の卒史だった韓広に兵を率いさせ、北へ進んで燕の地を攻略させた。
  燕の旧貴族や豪傑たちは韓広に言った。
  「楚はすでに王を立て、趙もまた王を立てています。燕は小国とはいえ、万乗の国です。どうか将軍に燕王となっていただきたい。」
  韓広は答えた。
  「私の母が趙にいるので、それはできない。」
  燕の人々は言った。
  「趙はいま、西では秦を恐れ、南では楚を警戒しています。趙にはわれわれを阻止する力はありません。それに、あれほど強大な楚でさえ、趙王やその将相の家族を害することを恐れているのです。どうして趙が、将軍の家族だけを害することができましょう。」
  韓広はそれももっともだと思い、そこで自ら燕王を名乗った。
  数か月たつと、趙は燕王の母と家族を燕へ送り返した。
  このころ、各地を攻略していた諸将は、数え切れないほどになっていた。 周市が北へ進んで狄に到着すると、狄の人・田儋が狄の県令を殺し、自ら斉王を名乗り、斉の兵を率いて周市を攻撃した。 周市の軍は散り散りになり、周市は魏の地へ戻った。そして、かつての魏王の一族である寧陵君咎を魏王に立てようとした。 しかし、そのとき咎は陳王のもとにいて、魏へ行くことができなかった。 魏の地がすでに平定されると、人々は相談して周市を魏王に立てようとした。しかし周市は承知しなかった。 使者が五度も往復した末、陳王はついに寧陵君咎を魏王に立て、魏へ送り出した。周市は結局、魏の宰相となった。 将軍の田臧らは相談した。
  「周章の軍はすでに敗れた。秦軍がいつ攻めてきてもおかしくない。われわれは滎陽を包囲しているが、いまだに落とせていない。秦軍が到着すれば、必ず大敗するだろう。 ならば、少数の兵だけを残して滎陽を守らせ、精鋭をすべて率いて秦軍を迎え撃つほうがよい。 しかし、いまの仮王・呉広は思い上がっており、軍事のことを理解していない。相談しても無駄だ。彼を殺さなければ、われわれの事業は失敗する恐れがある。」
  そこで彼らは相談のうえ、王の命令だと偽って呉広を殺し、その首を陳王に献上した。 陳王は使者を派遣し、田臧に楚の令尹の印を授け、上将軍とした。 田臧は諸将の李帰らを滎陽城の守備に残し、自らは精鋭を率いて西へ進み、敖倉で秦軍を迎え撃った。 戦いとなり、田臧は戦死し、軍も敗れた。 章邯はさらに進軍して滎陽城下の李帰らを攻撃し、これを破った。李帰らも戦死した。 陽城の人・�ケ説は兵を率いて郯に駐屯していたが、章邯の別働隊に攻撃され、敗れて軍は散り散りになり、陳へ逃げ帰った。 銍の人・伍徐も兵を率いて許に駐屯していたが、章邯に攻撃されて敗れ、伍徐の軍も皆、散り散りになって陳へ逃げ帰った。 陳王は�ケ説を処刑した。
  陳王が最初に立ったころ、陵の人・秦嘉、銍の人・董緶、符離の人・朱雞石、取慮の人・鄭布、徐の人・丁疾らも、それぞれ独自に兵を起こした。 彼らは兵を率いて、郯で東海郡守の慶を包囲した。 陳王はこれを知り、武平君畔を将軍に任命し、郯を包囲している軍を監督させた。 しかし秦嘉はこの命令に従わず、自ら大司馬を名乗り、武平君に従うことを嫌った。 そして軍吏たちに言った。
  「武平君はまだ若く、軍事のことを知らない。彼の命令を聞いてはならない。」
  こうして王の命令だと偽って、武平君畔を殺した。
  章邯はすでに伍徐を破り、陳を攻撃した。上柱国の房君は戦死した。
  章邯はさらに兵を進め、陳の西方にいた張賀の軍を攻撃した。陳王自身も戦場に出て監督したが、軍は敗れ、張賀は戦死した。
  十二月、陳王は汝陰へ向かい、そこから戻って下城父に到着したところ、その御者であった荘賈に殺され、秦に降伏された。 陳勝は碭に葬られ、「隠王」という諡号を贈られた。
  陳王のもとで、かつて涓人から将軍となった呂臣は、「蒼頭軍」を組織して新陽で兵を起こした。そして陳を攻撃して陥落させ、荘賈を殺し、再び陳を楚の領土とした。 もともと陳王が陳に到着したとき、銍の人・宋留に兵を率いさせて南陽を平定し、武関へ進ませていた。 宋留はすでに南陽を攻略していたが、陳王が死んだと聞くと、南陽は再び秦の支配下に戻った。
  宋留は武関に入ることができず、東へ進んで新蔡に到着したところで秦軍と遭遇した。宋留は軍を率いて秦に降伏した。 秦は宋留を咸陽へ送り、そこで宋留を車裂きの刑に処し、その遺体をさらした。
  秦嘉らは陳王の軍が敗れて陳勝が逃亡したと聞くと、景駒を楚王に立てた。そして兵を率いて方与へ向かい、定陶の近くにいる秦軍を攻撃しようとした。 さらに公孫慶を斉王のもとへ使者として送り、力を合わせてともに進軍することを求めた。 斉王は言った。
  「陳王が戦いに敗れたと聞いているが、死んだのか生きているのか分からない。楚はどうして、われわれに相談もせず王を立てることができるのか。」
  公孫慶は答えた。
  「斉は楚に相談せず王を立てたのに、どうして楚だけが斉に相談して王を立てなければならないのですか。それに、最初に兵を起こしたのは楚なのです。天下に対して命令を発する立場にあるのは楚です。」
  田儋は公孫慶を殺した。 秦の左右校の軍が再び陳を攻撃し、これを陥落させた。 呂将軍は逃走し、兵を集めて再び軍を立て直した。
  また、鄱の盗賊である当陽君・黥布の兵も合流し、再び秦の左右校を攻撃して青波でこれを破った。そして、再び陳を楚の領土とした。 ちょうどそのころ、項梁が楚懐王の孫である心を楚王に立てた。
  陳勝が王であった期間は、全部で六か月だった。 王となって陳を支配していたころ、かつて陳勝とともに雇われて耕作していた仲間の一人が、陳勝が王になったと聞いた。そこで陳へ行き、宮殿の門を叩いて言った。
  「私は陳渉に会いたい。」
  宮門の役人は、彼を捕らえようとした。しかし男が何度も自分の身分や陳勝との関係を説明したので、ようやく放した。ただし、陳勝に取り次ごうとはしなかった。 やがて陳王が宮殿から出てくると、男は道を遮って、
  「渉! 渉!」
  と呼びかけた。 陳王はそれを聞いて、その男を召し出し、車に乗せて一緒に帰った。 宮殿に入り、殿舎や帳(とばり)を見ると、男は驚いて、
  「なんとまあ! 渉が王になって、こんなに堂々としているとは!」
  と言った。 楚の人々は、多いことを「夥(か)」と言ったので、天下の人々はこの話を伝え、
  「夥(おお)いかな、陳渉の王となりしことよ」
  という言葉が広まった。陳渉が王となったことから、このような言い回しが天下に伝わったのである。
  この男は陳王の宮殿に出入りするにつれて、ますます遠慮がなくなり、陳勝がまだ身分の低かったころの出来事を、あれこれ話すようになった。 ある者が陳王に進言した。
  「あの男は愚かで何も分かっていません。勝手なことを言い、王の威厳を軽んじています。」
  陳王はその男を斬った。
  これを見た陳王の昔からの仲間たちは、皆、自分から身を引いて去っていった。このため、それ以後、陳王に親しく近づこうとする者はいなくなった。
  陳王は朱房を中正に、胡武を司過に任命し、群臣を監督させた。 諸将が各地を攻略して戻ってくると、彼らの命令が少しでも気に入らなければ、捕らえて罪に問い、細かいことまで厳しく調べることを忠誠の証とした。 また、陳王が気に入らない者については、司法を担当する役所に引き渡すこともせず、自分で直接処罰した。
  陳王は朱房と胡武を信任した。 諸将はこのため陳王に親しみ、従おうとはしなくなった。これこそが、陳王が敗北することになった原因であった。
  陳勝自身はすでに死んだ。しかし、彼が配置し、派遣した侯・王・将軍・宰相たちが、最終的には秦を滅ぼすことになった。天下に最初に兵を起こしたのが陳渉だったからである。
  漢の高祖の時代になると、陳渉のために碭に三十戸を置いて墓を守らせ、祭祀を続けさせた。この制度は、今日に至るまで続いている。

○その他
[一番上]


第2回 10/09 新興宗教の光と影-黄巾の乱
184年に起きた黄巾の乱は、後漢王朝を揺るがした大規模な宗教反乱です。指導者の張角は、民衆を救う宗教運動「太平道」を率いた人物でした。いつの時代も、貧富の格差や政治腐敗に苦しむ人々は、いわゆる「終末論」や「千年王国」的な宗教思想にとびつきます。民衆は「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」というスローガンのもとに結集しました。この反乱は鎮圧されましたが、後漢王朝は大きく弱体化し、「三国志」の英傑たちが群雄割拠する乱世となります。新興宗教が反乱の原動力にもなる先例となりました。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PLD-6eSAR2zCY

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明

中国の正史は「王朝に反逆した敗者」に対して単独の伝記(列伝)を作らない傾向があるため、張角の記録は彼を討伐した官軍側の伝記に組み込まれる形となっている。
正史『後漢書』巻71「皇甫嵩朱儁列伝 第六十一」
現代語訳のみを示す。
 皇甫嵩(こうほすう)、字(あざな)は義真。安定郡朝那(ちょうな)県の人である。度遼(どりょう)将軍を務めた皇甫規(こうほき)の甥にあたる。父の皇甫節(こうほせつ)は雁門(がんもん)太守であった。 皇甫嵩は若い頃から文武両道に志があり、毅然とした性格で、『詩経』や『書経』を好み、弓術や馬術を習い励んだ。最初は孝廉(こうれん)に挙げられ、次いで茂才(もさい)に推挙された。 その後、太尉の陳蕃(ちんばん)や大将軍の竇武(とうぶ)から続けて仕官の誘い(辟召)を受けたが、いずれも応じなかった。やがて霊帝(れいてい)の時代になり、特使の車(公車)で召し出されて議郎(ぎろう)となり、北地(ほっち)太守に昇進した。
 これより先、巨鹿(きょろく)郡の張角(ちょうかく)が自ら「大賢良師(たいけんりょうし)」と称した。 張角は「黄老の道(道教の源流)」を信奉して祀り、弟子たちを養い育てた。信者たちには膝をついて拝ませ、これまでの罪や過ちを告白させ(首過)、お札を溶かした水(符水)や祈祷の言葉(呪説)を用いて病気の治療を行った。病人の多くが快方に向かったため、民衆は彼を信じ、心から慕うようになった。 そこで張角は、8人の弟子を各地へ派遣して、善い教えをもって天下を教化させ、次々と人々を惑わして仲間に引き込んでいった。 10余年の間に、その信徒は数十万人にふくれあがり、多くの郡や諸侯国を結びつけた。青州・徐州・幽州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の「八州」の人々で、呼応しない者はいないほどであった。
 こうして張角は、信徒を「三十六方(ほう)」に組織した。「方」とは、将軍の号のようなものである。大きな方は1万人余り、小さな方でも6千から7千人を擁し、それぞれにリーダー(渠帥/きょすい)を立てた。彼らは
蒼天已死、黄天当立、歳在甲子、天下大吉。
「蒼天(そうてん)すでに死す、黄天(こうてん)当(まさ)に立つべし。歳(とし)は甲子(かっし)に在りて、天下大吉」
という流言を流した。そして、白い粘土で都(洛陽)の役所の門や、地方の州郡の役所に、みな「甲子」の二文字を書きつけた。
 中平元年(184年)、大きな方のリーダーである馬元義(ばげんぎ)らが、まず荊州・揚州の数万人を集め、鄴(ぎょう)の地で合流する期日を決めた。馬元義は何度も都(洛陽)を往来し、 皇帝の側近である中常侍(宦官)の封諝(ほうしょ)や徐奉(じょほう)らを内応者として抱き込み、3月5日に宮廷の内と外で一斉に蜂起する約束を交わしていた。 しかし、乱を起こす前に、張角の弟子であった済南郡の唐周(とうしゅう)が、朝廷に上書してこの計画を密告した。これにより、馬元義は洛陽で車裂きの刑(五体引き裂きの刑)に処された。 霊帝は、この大事件の取り調べを三公(最高大臣)や司隷校尉(首都圏の警察・監察官)に命じた。宮廷の職人長(鉤盾令)の周斌(しゅうひん)に三府(太尉・司徒・司空の役所)の部下を率いさせ、宮中の護衛兵や一般庶民の中で張角の教えを信じる者を徹底的に取り調べさせた。これにより1千余人が処刑された。さらに取り調べは冀州にまで及び、張角らの追捕が始まった。
 張角らは計画が露見したことを知り、昼も夜も馬を走らせて諸方に命令を送り、一斉に蜂起した。彼らはみな、目印として黄色の頭巾を被った。当時の人々は彼らを「黄巾(こうきん)」と呼び、また「蛾賊(がぞく)」とも名付けた。 彼らは人を殺して天を祀った。張角は「天公(てんこう)将軍」、弟の張宝は「地公(ちこう)将軍」、その弟の張梁は「人公(じんこう)将軍」と称した。彼らは行く先々で役所を焼き払い、町や村を襲って略奪した。州や郡の役人は拠点を失い、大半の長官が逃亡した。わずか10日の間に、天下の至る所がこれに応じ、都(洛陽)は激しく震撼した。
 朝廷は詔(みことのり)を発し、州郡に防衛体制を整えさせ、武器を修理・点検させた。 そして、函谷関・大谷関・広城関・伊闕関・轘轅関・旋門関・孟津関・小平津関といった(洛陽を囲む)すべての関所に都尉を配置した。 さらに、皇帝は群臣を集めて会議を開いた。皇甫嵩は「今こそ『党禁(批判的な知識人への弾圧)』を解除すべきです。また、宮廷の秘蔵金(中蔵銭)や西園の馬を差し出し、軍士に分け与えるべきです」と進言した。霊帝はこれに従った。 こうして天下の精兵を徴発し、すぐれた将帥を広く選び、皇甫嵩を左中郎将(将軍職)に任命して「節(天子から臨時の全権を与えられた印)」を授けた。そして右中郎将の朱儁(しゅしゅん)とともに、禁旅(五校の兵)や三河(河東・河内・河南)の騎兵、さらに募集した精鋭の勇士、合わせて4万人余りを出陣させた。皇甫嵩と朱儁はそれぞれ一軍を率い、共同して穎川(えいせん)郡の黄巾軍を討伐に向かった。
 朱儁は、敵の波才(はさい)の軍と戦ったが敗れてしまった。そのため皇甫嵩は進軍して長社(ちょうしゃ)の街に入り、ここを固守した。波才は大軍を率いてこの街を包囲した。皇甫嵩の兵は少なく、軍人たちはみな恐怖に怯えていた。 そこで皇甫嵩は軍の幹部たちを召集し、こう告げた。
「戦における奇策や臨機応変の計(奇変)というものは、兵の多寡によるものではない。今、敵は草むらに拠って陣営を構えている。これでは風による火攻めに遭いやすい。もし夜に乗じて火を放てば、敵は必ず大混乱に陥るだろう。そこに我が軍が出撃して襲いかかり、四方から包囲すれば、かつての田単(でんたん)のような大功を立てることができるぞ」
 その日の夜、都合よく大風が吹いた。皇甫嵩は軍士たちに、みな茅(かや)などの束を抱えて城壁に登るよう命令した。 そして、精鋭の兵士(鋭士)をひそかに城外の包囲網の隙間から抜け出させ、火を放って大声をあげさせた。呼応して城壁の上からも松明を掲げて一斉に火を灯した。皇甫嵩は太鼓を打ち鳴らして敵陣へと突撃し、敵は驚き乱れて逃げ惑った。
 ちょうどこの時、朝廷が派遣した騎都尉の曹操(そうそう)が兵を率いて到着した。皇甫嵩と曹操、そして朱儁は兵を合わせて再び戦い、敵を大破して数万人の首を斬った。この功績により、皇甫嵩は都郷侯に封じられた。
 皇甫嵩と朱儁は、この勝ちに乗じて汝南(じょなん)郡や陳(ちん)国の黄巾軍の討伐へと進んだ。陽?(ようてく)で波才を追撃し、西華(せいか)で彭脱(ほうだつ)を撃破した。 残った賊は降伏するか四散し、これにより(穎川・汝南・陳の)三郡はすべて平定された。 さらに進撃して、東郡の黄巾軍である卜己(ぼくき)を倉亭(そうてい)で攻め、卜己を生け捕りにして7千人余りの首を斬った。
 この時、北中郎将の盧植(ろしょく)や東中郎将の董卓(とうたく)が張角を討伐していたが、いずれも功績を挙げられずに更迭されて戻ってきた。そこで朝廷は皇甫嵩に、進軍して張角を討つよう詔を下した。
 皇甫嵩は、張角の弟の張梁(ちょうりょう)と広宗(こうそう)で戦った。 張梁の軍勢は精鋭で勇敢であり、皇甫嵩はなかなか勝つことができなかった。翌日、皇甫嵩は陣営の門を閉じて兵士たちを休ませ、敵の様子を観察した。 敵の警戒心が少し緩んできたのを見計らい、夜の間にひそかに兵を指揮し、鶏が鳴く夜明け方に敵陣へと急襲をかけた。戦いは午後まで続き、敵を大破して張梁を斬り、3万級の首を挙げた。川(黄河)に身を投げて死んだ者は5万人ほどにのぼり、敵の馬車や輜重(軍用物資)3万台余りを焼き払った。敵の妻子はすべて捕虜とし、鹵獲した物資は非常に多かった。 なお、主謀者の張角はこれより前にすでに病死していたため、皇甫嵩はその棺を暴いて遺体を斬り、首を都(洛陽)へ送った。
 皇甫嵩はさらに、巨鹿太守である馮翊(ひょうよく)出身の郭典(かくてん)とともに、下曲陽(かきょくよう)で張角のもう一人の弟である張宝(ちょうほう)を攻撃し、これも斬った。10万人余りの首を挙げ、その遺体を積み上げて土をかぶせた記念碑(京観/けいかん)を城の南に築いた。
 これにより、ただちに皇甫嵩は左車騎(しゃき)将軍に任命され、冀州牧(州の長官)を兼任することとなった。また、槐里(かいり)侯に封じられ、槐里・美陽の2県を領地(食邑)として与えられた。 合わせて8千戸の領地であった。
 黄巾の乱が平定されたため、元号は(光和から)「中平(ちゅうへい)」へと改められた。 皇甫嵩は朝廷に対し、黄巾の乱の戦場となった冀州の「1年分の田租(小作料・税金)」を免除し、それを飢えた民(飢民)の救済にあてるよう上奏した。霊帝はこれを聞き入れた。 地元の民衆は彼を讃えてこのように歌った。
「天下は大いに乱れ、市場は荒れ地(墟)となった。母は子を守れず、妻は夫を失った。しかし、皇甫(嵩)様のおかげで、再び安心して暮らせるようになったのだ」
(以下略)


○略年表

○その他
[一番上]


第3回 10/23 在中外国人の不満-安禄山の乱
755年、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の時代に起きた安禄山の乱は、中国史上最大級の内乱でした。反乱の指導者・安禄山はソグド系とテュルク系の血を引く胡人で、現在の言葉でいえば「在中外国人」の有力軍人でした。唐王朝は国際色豊かな帝国でしたが、その一方で民族や文化の違いによる緊張や、いわゆる「ガラスの天井」の問題も抱えていました。この戦乱によって唐王朝は大打撃を受け、中国社会のあり方も大きく変化しました。国際国家とか多民族国家と呼ばれる唐王朝の破綻は、21世紀のグローバル化の時代を生きる私たちにも多くの教訓を残しています。
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表

○拙著『後宮 殷から唐・五代十国まで』 (角川新書、2025)でも安禄山と楊貴妃について取り上げた。
 以下は、当該箇所の要約。
 安禄山はみずから願い出て、十六歳も年下の楊貴妃の養子になった。 安禄山は宮中に入ると、まず楊貴妃にむかって拝礼し、次に玄宗に拝礼した。中国の礼と男女の逆である。玄宗がその理由を問うと、 「臣は蕃人(外国の野蛮人)でございます。蕃人は、母を先にして父をあとにするのが習俗ですので」 と答えた、と正史『旧唐書』巻二百の安禄山の伝記には載せる。
 北宋の時代に皇帝の命令で編纂された権威ある歴史書『資治通鑑』の巻二百十六には、後宮での「赤ちゃんプレイ」の乱痴気騒ぎの記事を載せる。 安禄山の誕生日、玄宗と楊貴妃は、祝いの品物をどっさりと贈った。その三日後、安禄山は禁中に召された。 昔の中国には、新生児の誕生三日目にお祝いをする「三朝礼」という習俗があった。楊貴妃は高価な錦の布のおむつを安禄山にはかせたうえ、彼をカラフルな輿に乗せて、宮女たちにかつがせた。 後宮からの笑い声を聞いた玄宗は、左右の者に、あれは何か、と聞いた。左右の者は「貴妃さまは、誕生三日目の禄ちゃんを沐浴なさっているのです」 と答えた。  玄宗は後宮に行き、その様子を見て、いっしょに盛り上がった。  これをきっかけとして、安禄山はおおっぴらに後宮に出入りするようになった。楊貴妃と「対食」したり、夜通し後宮に留まったりして、さまざまな醜聞が外にまで聞こえた。 それでも玄宗は安禄山を疑わなかった――と、厳格な歴史書である『資治通鑑』は伝える。
 「対食」という漢語は、いっしょに向かい合って食事をする、という意味の他に、宮仕えをする者どうしが勝手に夫婦になる、という宮中の事実婚を指す場合がある。 右の「赤ちゃんプレイ事件」は、子供むけの漢文学習書『十八史略』にも収録されており、日本でも有名である。

「お母さん」などと禄山 貴妃に言い (十五・13)
 国忠を「伯父さん」と禄山は言い (十九・17)
 そんな安禄山も、李林甫と会見するたびに、緊張のあまり、真冬でも大汗をかいた。
 そもそも、安禄山が破格の出世をするきっかけを作ったのは、李林甫である。  唐は長年、定見無き領土拡張政策を続けていた。 玄宗が即位する直前、唐は初めて、令外官である節度使を置いた。節度使とは、辺境警備のための傭兵軍団の司令官である。 李林甫は玄宗に、辺境の守りには、エリートの文臣ではなく、寒門出身者や胡人を登用すべきだと説いた。 社会で冷や飯を食わされがちな彼らを、玄宗が登用してやれば、彼らも恩を感じるだろう、というのが李林甫の理屈だった。 李林甫の本音は、違うところにあった。自分のライバルである科挙官僚派のエリート文臣が節度使となって国境警備で手柄を立てたら、 自分の宰相の地位をおびやかしかねない。そんな経緯もあって、安禄山は、宰相の李林甫が健在なうちは野心を隠し、楊家一門と仲良くしていた。
 七五三年、李林甫が病死すると、楊貴妃のいとこの楊国忠が宰相となり、権力を握った。 安禄山は玄宗の信頼を得て、辺境の三つの節度使を一身に兼ね、二十万と号する大兵力を配下に置いていた。 楊国忠も、李林甫がいなくなったあとは、安禄山とタッグを組む必要はなくなり、彼を排除しようとした。 外戚、異民族、門閥貴族、科挙官僚の各派閥を競わせてバランスを保つ玄宗の政治術は破綻寸前だった。が、七十前後の老齢になっていた玄宗は、政治に倦み、楊貴妃らと後宮で趣味の世界に没頭した。


○正史『新唐書』卷二百二十五上 列傳第一百五十上 逆臣上
参考 https://zh.wikisource.org/wiki/新唐書/卷225上

1 安禄山の出生と出世の始まり
 安禄山は、営州柳城(現在の中国遼寧省朝陽市付近)出身の胡人で、もとの姓は康であった。 母の阿史徳は巫女で、突厥の人々の間で暮らしていた。彼女は軋犖山(あつらくさん)という山に向かって子どもを授かるよう祈った。軋犖山は、異民族の人々が「戦闘の神」と呼んでいた神である。その後、母は身ごもった。 安禄山が生まれたとき、天幕の中を光が照らし、野獣が一斉に鳴いたという。気の流れを観察して吉凶を占う者は、これをめでたい兆しだと述べた。 范陽節度使の張仁願は、天幕を捜索させて、母子を殺そうとした。しかし、母子は身を隠して難を逃れた。母は、この子は神のお告げによって授かったのだと考え、軋犖山という名を付けた。 安禄山は幼いころに父を亡くした。その後、母が突厥の将軍・安延偃に再婚したため、彼は養父に従って暮らした。開元年間の初め、安延偃は安禄山を連れて唐に帰国した。その際、将軍の安道買も、亡くなった息子の安節を連れて一緒に帰国した。 安禄山は安道買の家に身を寄せた。安道買の息子・安節は、養父の安延偃に厚い恩義を感じていたため、両家の子どもを兄弟とする約束を交わした。そこで安禄山は安姓を名乗るようになり、名前も禄山と改めた。 成長した安禄山は、嫉妬深く、残忍な一面を持つ一方、知恵がよく回り、人の気持ちを読み取ることに長けていた。また、異民族の六つの言語を話すことができたため、互市郎、すなわち異民族との交易を担当する役人となった。

2 張守珪に見いだされる
 張守珪が幽州の節度使を務めていたころ、安禄山は羊を盗んで捕らえられた。張守珪は彼を処刑しようとしたが、安禄山は叫んだ。 「公は二つの異民族を滅ぼしたいとは思わないのですか。それなのに、なぜ私を殺そうとなさるのですか」 張守珪はその言葉に気概を感じた。また、安禄山の体格が立派で肌の色が白いことにも目を留め、処刑を取りやめた。そして、安禄山を史思明とともに敵を捕らえる任務に就かせた。 安禄山は山や川の地形、水源の位置をよく知っていた。あるときは、わずか五人の騎兵を率いて契丹人を数十人も捕らえた。張守珪は彼の能力を高く評価し、兵を少しずつ増やした。安禄山は出陣するたびに戦果を挙げたため、やがて副将に抜擢された。 ただし、張守珪は安禄山の太りすぎた体を見苦しく思っていた。安禄山はそのため、満腹になるまで食べることを控えるようになった。張守珪はついには彼を養子とした。 その後、安禄山は平盧兵馬使に任じられ、さらに特進、幽州節度副使へと昇進した。

3 玄宗皇帝の信頼を得る
 御史中丞の張利貞が河北地方の視察に来たとき、安禄山はあらゆる手段を使って彼に媚びへつらった。金品を惜しみなく使い、張利貞の側近たちにも贈り物をして、個人的な恩を売った。 張利貞が都に戻ると、安禄山の能力を大いに称賛した。その結果、安禄山は営州都督、平盧軍使、順化州刺史に任命された。 都と地方を往来する使者に対しても、安禄山はひそかに賄賂を贈り、相手の好みに合わせて取り入った。使者たちは口々に彼を褒めたため、玄宗皇帝も、安禄山には並外れた才能があると考えるようになった。 天宝元年(742年)、平盧に節度使が置かれると、安禄山がその職に就いた。さらに柳城太守を兼任し、契丹・奚・渤海・黒水の四つの勢力に関する軍事・外交上の任務を統括した。 翌年、安禄山は都に参内し、皇帝の質問に巧みに答えた。その結果、驃騎大将軍に昇進した。 さらに翌年には裴寛に代わって范陽節度使および河北採訪使となり、平盧軍も引き続き統括した。安禄山が北方の任地に帰る際には、中央政府の三省の長官や御史中丞までが鴻臚亭で送別の宴を開いた。 天宝四載(745年)、奚と契丹が唐に反旗を翻し、唐から嫁いでいた公主を殺害した。安禄山は功績を挙げる機会と考え、積極的に攻撃を仕掛けたが、そのため両勢力との関係はいっそう悪化した。 安禄山は契丹を攻撃して帰還すると、皇帝にこう報告した。 「夢の中に李靖と李勣が現れ、私に食べ物を求めました。そこで北方の郡で祭祀を行ったところ、梁から霊芝が生えました」 このように、安禄山は荒唐無稽な話でも、ためらうことなく口にした。 河北地方を視察する官僚の席豫も、安禄山を有能な人物だと評価した。 当時の宰相・李林甫は、儒学を修めた文官が軍功によって昇進し、自分と並ぶ権勢を持つことを嫌っていた。そこで、異民族出身の将軍を積極的に登用するよう皇帝に勧めた。その結果、玄宗の安禄山に対する寵愛はいっそう強くなり、周囲の批判も彼の勢いを抑えられなくなった。 こうして安禄山は、やがて天下を乱す存在となった。そのきっかけを作ったのは李林甫であった、とこの伝記は論じている。

4 楊貴妃との関係と、皇帝への巧みな取り入り
 安禄山は、わざと愚かで鈍い人間のように振る舞い、自分の悪意を隠していた。 ある機会に、彼は皇帝にこう申し上げた。 「私は異民族の出身でありながら、身に余るほどのご寵愛をいただいております。私には特別な才能もありませんが、どうかこの身を陛下のために捧げ、命を惜しまずお仕えしたいと存じます」 玄宗はこれを真心からの言葉だと思い、彼を哀れに思って、いっそう目をかけるようになった。 あるとき、玄宗は安禄山に皇太子を訪問させた。しかし、安禄山は皇太子に対して礼をしなかった。周囲の者がその無礼を注意すると、安禄山は言った。 「私は朝廷の礼儀を知りません。皇太子とは、いったいどのようなお役目の方ですか」 玄宗が「私が死んだ後、皇位を譲る相手だ」と答えると、安禄山は謝罪して言った。 「私は愚か者です。陛下のことしか存じ上げず、皇太子のことを知らなかったとは、万死に値する罪でございます」 そう言って、初めて皇太子に拝礼した。 当時、楊貴妃は玄宗の深い寵愛を受けていた。安禄山は楊貴妃に願い出て、自分を養子としてもらい、皇帝にもそのことを認めてもらった。 安禄山が礼をするときは、必ず楊貴妃を先に拝み、その後で玄宗を拝んだ。玄宗が不思議に思って理由を尋ねると、安禄山は答えた。 「異民族の習慣では、父よりも母を先に敬うのです」 玄宗はこれを聞いて大いに喜んだ。そして楊貴妃の兄である楊銛や、三人の夫人たちとも義兄弟の契りを結ばせた。 このようにして安禄山は皇帝一家との結びつきを強め、天下を乱す野心を抱くようになった。彼は部下の劉駱谷を都に住まわせ、朝廷に隙が生じないかどうかを探らせた。

5 李林甫を恐れ、ますます権勢を強める
 天宝六載(747年)、安禄山は御史大夫に昇進し、妻の段氏も夫人に封じられた。 宰相の李林甫は、非常に高い地位にあり、ほかの官僚たちは誰も彼と対等に振る舞おうとしなかった。しかし安禄山だけは、皇帝の寵愛を頼みにして、李林甫に会っても横柄な態度を取っていた。 李林甫は安禄山に、自分の立場を思い知らせようと考えた。そこで、同じく御史大夫の王�ヘと一緒に李林甫のもとへ来させた。 王�ヘは李林甫を見ると、急いで歩み寄り、へりくだって拝礼した。それを見た安禄山もはっとして、思わず腰をかがめ、礼儀正しく振る舞った。 李林甫は安禄山と話すとき、相手の考えを先回りして、その意図を言い当てた。安禄山は大いに驚き、李林甫を神のような人物だと思うようになった。 その後は李林甫に会うたび、真冬であっても緊張のあまり汗を流した。 李林甫は、しだいに安禄山に親しく接するようになり、宰相の執務場所である中書省に招き、自分の上着を掛けてやったこともあった。 安禄山は李林甫に恩義を感じ、彼を「十郎」と呼んだ。 都にいる劉駱谷は、地方から戻って報告するたび、まず「十郎様はいかがですか」と尋ねた。 李林甫が安禄山を褒めていると聞けば喜び、反対に「大夫(安禄山)の行動を李林甫が調べたがっている」と聞けば、寝台に手をついて「私はもうおしまいだ」と嘆いた。 宮廷の芸人・李亀年は、この安禄山の様子をまねて皇帝を笑わせた。玄宗もそれを見て楽しんだ。

6 肥満した体と、皇帝の過剰な寵愛  安禄山は年を取るにつれて、ますます太っていった。腹は膝のあたりまで垂れ下がり、肩を大きく振り、誰かに引っ張ってもらうような動作をしなければ歩けないほどだった。 ところが、胡旋舞という西域由来の舞踊を皇帝の前で踊ると、風のように素早く回転した。 玄宗がその大きな腹を見て、「胡人よ、その腹の中には何が入っているのだ。なぜそんなに大きいのか」と尋ねると、安禄山は答えた。 「ただ、陛下に対する真心が詰まっているだけでございます」 安禄山が駅伝を利用して都へ参内するときは、道の途中で必ず馬を乗り換えた。後世、この乗り換え場所は「大夫換馬台」と呼ばれた。そうしなければ馬が倒れてしまうため、彼を乗せる馬は、五石もの荷を背負って走れるほど強い馬でなければならなかった。 玄宗は都に安禄山の邸宅を建てさせ、宮中の役人に工事を監督させた。そして、こう注意した。 「よく考えて造るように。禄山は目が肥えている。私を笑いものにさせてはならない」 邸宅には、精巧な窓や欄間、楼閣、池などが設けられ、贅沢な装飾が施された。幕や敷物には美しい刺繍が施され、金銀の器具もふんだんに用いられた。その豪華さは、皇帝自身の持ち物を上回るほどだったという。 あるとき玄宗は、勤政楼で安禄山を特別に厚遇した。自分の席の左側に金の鶏を描いた大きな屏風を立て、その前に特別な座席を用意し、安禄山を座らせたのである。 皇太子はこれを見て諫めた。 「古来、天子の御座の幕の内側は、臣下が座るべき場所ではありません。陛下が安禄山を寵愛なさるのも度が過ぎています。必ず思い上がることになりましょう」 しかし玄宗は答えた。 「あの胡人には普通ではない人相がある。私は、彼を十分に喜ばせておきたいのだ」

7 反乱の準備
 当時、唐では長い平和が続き、人々は戦争のことを忘れていた。玄宗も高齢になり、寵愛する女性たちに取り囲まれて、周囲からの忠告を聞き入れなくなっていた。 李林甫と楊国忠が次々に権力を握り、政治の秩序は大きく乱れていた。 安禄山は、今なら天下を奪うこともできると考え、反乱の計画をますます進めた。朝廷の建物の前にある龍尾道を通るときには、南北をうかがいながら長時間立ち止まり、ようやくその場を去ることもあった。 さらに、范陽の北に「雄武城」という砦を築き、兵を集め、食糧を蓄えた。 同羅の兵士や、降伏した奚・契丹の精鋭部隊など、八千人を養子として抱えた。また、弓矢に熟達した家臣や奴隷を数百人育てた。単于や護真といった種類の大きな馬を三万頭、牛や羊を五万頭も飼育した。 張通儒、李廷堅、平洌、李史魚、独孤問俗らを幕僚に登用し、高尚に文書を担当させ、厳荘に帳簿や行政事務を任せた。 さらに、阿史那承慶、安太清、安守忠、李帰仁、孫孝哲、蔡希徳、牛廷玠、向潤客、高邈、李欽湊、李立節、崔乾祐、尹子奇、何千年、武令�c、能元皓、田承嗣、田乾真らを、一般兵士の中から抜擢して将軍に任命した。 安禄山は商人たちをひそかに各地へ派遣し、毎年、莫大な金品を運ばせた。 大規模な宴会を開くときには、高い寝台に腰掛け、香をたき、珍しい宝物を並べた。数百人の胡人が周囲に控え、各地の商人を引見した。生け贄を供え、女巫に太鼓を打たせて舞わせ、自分が神のような存在であるかのように見せかけた。 また、反乱に備えて、商人たちに絹織物や赤・紫などの華やかな衣服を数万着も買い集めさせた。 毎月、牛、ラクダ、鷹、犬、珍しい鳥や動物などを皇帝に献上し、玄宗の心を惑わせた。その一方、民衆の生活は苦しくなっていた。 安禄山は、自分にはこれほどの功績があるのに、なお皇帝の寵愛に頼っているだけだと思われることを嫌い、さらに軍功を挙げようとした。そこで契丹の首長たちをだまし、大宴会を開いて毒を飲ませた。彼らが酔ったところで一斉に首を斬り、その数は前後合わせて数千人に及んだ。安禄山はその首を都に献上した。 玄宗は真相を知らず、安禄山に免罪の証文を与え、柳城郡公に封じた。さらに養父の安延偃にも范陽大都督の称号を贈り、安禄山自身を東平郡王に昇進させた。

8 皇帝一家からのさらなる厚遇
 天宝九載(750年)、安禄山は河北道採訪処置使を兼任し、永寧園を邸宅として賜った。 都へ参内すると、楊国忠の兄弟姉妹たちは新豊まで出迎え、豪華な料理を振る舞った。湯泉に到着すると、安禄山の配下の将校たちにまで入浴の便宜が与えられた。 玄宗は望春宮まで出向いて安禄山を待ち、安禄山が捕虜八千人を献上すると、永穆公主の池や楼観を遊宴の場所として与えた。 安禄山が新しい邸宅に移る際には、皇帝の直筆命令によって宰相たちを招く宴会を開かせた。玄宗はその日、球技をする予定だったが、予定を変更して宴会を開き、宰相たち全員を出席させた。 皇帝が狩りをして珍しい鳥を捕まえると、必ず使者を走らせて安禄山に届けた。また、上谷郡に五つの鋳銭炉を設置し、安禄山が貨幣を鋳造することを許した。 さらに安禄山は河東の統治権も求め、それが認められて雲中太守と河東節度使を兼任した。こうして三つの軍事・行政地域を統括するようになると、その野心はますます膨らんだ。 安禄山には男子が十一人いた。玄宗はそのうち慶宗を太僕卿、慶緒を鴻臚卿、慶長を秘書監に任命した。

9 契丹との戦いでの大敗
 天宝十一載(752年)、安禄山は河東の兵を率いて契丹を討とうとした。 彼は奚の人々に、「契丹が盟約を破ったので討伐する。協力してくれるか」と尋ねた。奚は二千人の歩兵を出し、道案内を引き受けた。 安禄山は土護真河まで進軍すると、敵の不意を突けば勝利できると考えた。そして、兵士一人ひとりに縄を持たせ、契丹人を全員縛り上げるつもりだった。 昼夜を問わず、一日に三百里も進軍した。しかし天門嶺に着いたとき、激しい雨が降り、弓は湿って張りがなくなり、矢も使いものにならなくなった。 安禄山はそれでも戦闘を急がせた。大将の何思徳は、「兵士たちは疲れ切っています。少し休ませ、使者を送り、利益を示して敵を脅せば、降伏させられるでしょう」と進言した。 安禄山は激怒し、軍の規律を示すために彼を斬ろうとした。何思徳は、結局、戦うことを申し出た。 何思徳は安禄山と顔立ちが似ていた。そのため戦闘中、契丹兵は彼を安禄山だと思い、槍や矢を集中させて捕らえた。そして「安禄山を捕らえた」と叫んだ。 これを聞いた奚も唐軍に背き、安禄山の陣営を挟み撃ちにした。唐軍はほぼ壊滅し、安禄山自身も流れ矢に当たった。 安禄山は数十人の奚の少年兵を連れて山へ逃げたが、途中で転落した。慶緒と孫孝哲が彼を助け起こし、夜陰に乗じて平盧へ逃げ帰った。 部将の史定方は激戦を繰り広げ、敵の包囲を解かせた。 敗北した安禄山は、二十万の兵を動員したと称して、再び契丹を討とうとした。 玄宗は朔方節度使の阿布思に援軍を命じた。阿布思は九姓の有力な首長で、立派な体格と優れた策略を持ち、以前から皇帝の寵愛を受けていた。しかし安禄山は彼の才能をねたみ、対等な立場に立つことを嫌っていた。 安禄山は阿布思を襲って捕らえようとしたため、阿布思は恐れて反乱を起こし、北方の砂漠地帯へ逃れた。安禄山は進軍を中止し、軍を引き揚げた。 その後、阿布思は回紇に襲われ、葛邏禄のもとへ逃げ込んだ。安禄山がその部族に多額の報酬を約束すると、葛邏禄は恐れて阿布思を捕らえ、北庭へ送り、さらに都へ引き渡した。 安禄山は阿布思の兵力まで手に入れ、天下でも屈指の軍事力を持つようになった。そして、ますます傲慢に振る舞うようになった。 皇太子や宰相たちは、安禄山が反乱を起こす危険を何度も訴えたが、玄宗は信じなかった。

10 反乱の直前
 このころ、楊国忠と安禄山の対立は深まっていた。楊国忠は、安禄山を都に呼び戻せば、その反応によって反乱の意図があるかどうかを見極められると考えた。 安禄山はその計画を察知し、逆に自ら都へ駆けつけて参内した。玄宗はこれを見て安心し、楊国忠が安禄山について何を訴えても、取り合わなくなった。 天宝十三載(754年)、安禄山は華清宮で玄宗に謁見し、涙を流しながら訴えた。 「私は異民族の出身で、文字も十分に知りません。それなのに陛下は、身分にふさわしくないほど高い地位に引き上げてくださいました。しかし楊国忠は、私を殺すことで恨みを晴らそうとしております」 玄宗は彼を慰め、尚書左僕射に任命した。さらに封戸千戸を与え、奴婢や邸宅、土地などもそれにふさわしい規模で与えたうえで、任地へ帰らせた。 安禄山はさらに、宮廷の馬を管理する閑廄使や、隴右の牧場を管理する官職も兼任したいと願い出て、吉温をその補佐役に推薦した。 彼の軍隊には、将軍の位を持つ者が五百人、中郎将が二千人もいた。 安禄山が任地に戻る際には、玄宗は望春亭まで出向いて見送り、自分の衣服を与えた。安禄山はこれほどの厚遇にかえって不安を感じ、急いで都を離れた。 淇門まで来ると、軽い船に乗り、川の流れに沿って下った。大勢の人夫が綱を引いて船を進め、一日に三百里も進んだという。 安禄山は宮廷の馬の管理も任されると、良馬を選んで范陽へ運び込んだ。さらに張文儼の牧場からも馬を奪った。反乱の準備は、もはや隠しようがないほど明らかになっていた。 しかし、安禄山の行動を訴えた者がいると、玄宗はかえってその人物を捕らえて安禄山に引き渡した。 翌年、楊国忠は安禄山を宰相級の地位に任命して都に呼び戻そうとした。任命の詔書が出る前に、玄宗は宦官の輔璆琳を使者として安禄山のもとへ派遣し、大きな柑橘類を贈らせた。これは安禄山の様子を探るためだった。 安禄山は使者に多額の賄賂を贈った。使者は都に戻ると、「特に異常はありません」と報告した。そのため玄宗は、安禄山を都へ呼び戻すことを取りやめた。 しかし、賄賂のことが明るみに出ると、玄宗は別の罪を口実にして輔璆琳を処刑した。このころから、玄宗もようやく安禄山を疑い始めた。 一方、安禄山も朝廷が自分を討とうとしているのではないかと恐れた。使者が来ても病気を理由に面会を避け、厳重な警備を敷いてから、ようやく会うようになった。 地方官を監察する裴士淹が范陽に来ても、安禄山は二十日近く会おうとしなかった。やっと会うことになっても、武装兵に両脇を挟ませて現れ、臣下としての礼をほとんど示さなかった。裴士淹は詔書を伝えて都に帰ったが、この無礼を報告する勇気はなかった。 玄宗は、安禄山の息子・慶宗を皇族の女性と結婚させた。皇帝は安禄山自身にも結婚式へ出席するよう命じたが、安禄山は重い病気だと称して断った。 その一方で、馬三千頭、馬具一式、三百台の車などを献上した。車には一台あたり三人の兵士が乗っていた。こうした行動の背後には、都を襲撃する計画があった。 河南尹の達奚�cは、安禄山の護衛兵を都に入れてはならないと強く主張した。玄宗はこの意見を認めたが、それでも安禄山への警戒は十分ではなかった。 玄宗は安禄山に手紙を送り、こう伝えた。 「そなたのために特別な湯浴みの場所を用意した。十月に華清宮へ来るがよい。そこで待っている」 使者がこの手紙を届けると、安禄山は寝台に腰掛けたまま、「天子はお変わりなくお過ごしか」と尋ね、使者を別の宿舎へ案内させた。 都に戻った使者は、こう報告した。 「私は、もう少しで命を落とすところでした」

11 安史の乱の勃発
 天宝十四載(755年)十一月、安禄山は范陽で反乱を起こした。 彼は「皇帝の秘密の命令を受け、楊国忠を討伐するのだ」と偽り、各地の役所にその旨を記した掲示を出した。 高尚と厳荘を軍師とし、孫孝哲、高邈、張通儒、通晤らを側近に据えた。兵力は十五万人だったが、二十万人と称した。 出陣の三日前には、将軍たちを集めて宴会を開き、燕州から洛陽までの地図を見せた。山川の地形や、攻めやすい場所・守りやすい場所などを詳しく描き込み、将軍一人ひとりに金品と地図を与えた。そして、「命令に従わない者は処刑する」と約束させた。 反乱が始まると、計画は事前の打ち合わせどおりに進んだ。 安禄山は百人余りの騎兵を従え、城の北にある祖先の墓を祭ってから出発した。留守中の行政を賈循に任せ、平盧は呂知誨、大同は高秀巖に守らせた。 燕の老人が馬の前に立ちはだかり、反乱を思いとどまるよう諫めた。安禄山は厳荘に命じ、丁重にこう説明させた。 「私は私利私欲のためではなく、国の危機を心配して行動するのです」 そして老人を礼儀正しく送り返した。 その一方で、軍の進軍を妨害する者は三族まで処刑するという命令を出した。 反乱開始から七日後、反乱の知らせが都に届いた。そのとき玄宗は華清宮に滞在していた。知らせを聞いた朝廷の内外は、恐怖と動揺に包まれた。 玄宗は都へ戻り、安禄山の息子・慶宗を処刑した。慶宗の妻には自殺を命じ、栄義郡主も殺害した。 玄宗は安禄山を厳しく非難する詔書を出し、反乱をやめて帰順するならば許すと伝えた。しかし安禄山の返書は、皇帝に対して極めて無礼なものだった。 反乱軍はさらに高邈や臧均らを騎兵二十人とともに太原へ送り込み、尹の楊光翙を脅して殺害した。また、張献誠に定州を守らせた。 安禄山は十年以上もかけて反乱の準備を進めていた。降伏した異民族には恩を施し、従わない者には軍事力をちらつかせて従わせた。 捕虜となった兵士についても、拘束を解き、湯浴みをさせ、衣服を与えた。言葉の通じない者には通訳を介して接し、相手の事情や考えを把握した。 安禄山自身も異民族の言葉を話し、自ら進んで兵士たちを慰労した。捕虜を味方の兵士として取り立てることも多かった。そのため、配下の兵士たちは喜んで命を懸けて戦い、戦場では向かうところ敵なしだった。 ただし、側近の高邈は、反乱前に李光弼を軍の重要な補佐役に迎えるよう進言していたが、安禄山は聞き入れなかった。後になって彼はこの判断を後悔した。 別の将軍・何千年も、軍をいくつかに分けて北方や東方から各地を攻め、洛陽や太原を押さえ、さらに山東地方から江淮地方まで制圧する計画を提案した。しかし安禄山は、これも採用しなかった。

12 唐軍の混乱と洛陽の陥落
 反乱軍が突然蜂起すると、各地の州や県は役所に保管されていた鎧や武器を取り出した。しかし、それらは長年使われず、鎧は破れ、武器は鈍くなったり折れたりしていた。兵士たちは棒を持って戦うしかなく、反乱軍に対抗できなかった。 役人たちは城を捨てて逃げたり、自殺したり、捕虜になったりした。そうした事態は毎日のように続いた。 宮廷の護衛兵も、実際には市井から集められた者が多く、鎧を着せられても弓袋や剣をうまく扱えないありさまだった。 そこで朝廷は、国庫に蓄えていた絹織物を使って兵士を大規模に募集した。 玄宗は、封常清を范陽・平盧節度使に、郭子儀を朔方節度使などに任命した。また、王承業を太原尹、張介然を汴州刺史、程千里を潞州長史とし、栄王を討伐軍の総司令官、高仙芝を副司令官に任じて、反乱軍の討伐に向かわせた。 安禄山は鉅鹿に着いたとき、そこにとどまろうとした。しかし、「鹿」という字が自分の名の「禄山」と関係することを気にして、沙河へ移動した。後世の人々は、これを漢の高祖が柏人という地名を嫌って宿泊しなかった故事になぞらえた。 安禄山の軍は草や倒木を川に投げ込み、長い綱で舟をつなぎ合わせて橋を作った。さらに、一晩で川が凍ったため、それを利用して渡河したという。 安禄山は霊昌郡を陥落させ、その三日後には陳留と滎陽も攻略した。 罌子谷では、唐の将軍・荔非守瑜が迎撃し、数百人の反乱軍を殺害した。流れ矢が安禄山の乗る車に当たったため、安禄山は前進をためらい、谷の南側へ迂回した。荔非守瑜は矢を使い果たした後、河で戦死した。 安禄山は封常清の軍を破り、東都・洛陽を占領した。封常清は陝州へ逃れた。洛陽の留守を預かっていた李憕と御史中丞の盧弈は殺害された。 河南尹の達奚�cも反乱軍に降伏した。 一方、高仙芝は陝州に駐屯していたが、封常清の敗北を聞くと、軍を退いて潼関を守ることにした。太守の竇廷芝は河東へ逃げた。 しかし、常山太守の顔杲卿は反乱軍の将軍・李欽湊を殺し、高邈と何千年を捕らえた。これにより、趙郡、鉅鹿、広平、清河、河間、景城の六郡は唐側に戻った。 この時点で安禄山が確保していた地域は、范陽・盧龍・密雲・漁陽、汲州、鄴、陳留、滎陽、陝郡、臨汝などに限られていた。 しかし、洛陽を占領した安禄山は、宮殿の壮大さに心を奪われ、皇帝を名乗ることに強い関心を抱くようになった。そのため西方への進軍を遅らせ、唐側は各地から兵を集める時間を得た。

13 安禄山、皇帝を名乗る
 翌年の正月、安禄山は皇帝を自称し、国号を「燕」、元号を「聖武」と定めた。 息子の慶緒を晋王、慶和を鄭王に封じ、達奚�cを左丞相、張通儒を右丞相、厳荘を御史大夫に任命した。こうして、反乱政権の官僚組織を整えた。 安禄山は再び常山を攻め、顔杲卿を殺害した。 安思義が真定に駐屯していたが、李光弼が土門から常山救援に向かうと、安思義は降伏した。博陵も唐軍によって奪回された。ただし、稿城と九門の二県は、なお反乱軍が守っていた。 史思明、李立節、蔡希徳らは饒陽を包囲したが、攻略できなかったため、石邑へ向かった。石邑では張奉璋が固く守り、容易には陥落しなかった。 郭子儀は雲中から軍を率いて李光弼と合流し、九門で史思明を破った。李立節は戦死し、蔡希徳は鉅鹿へ逃げた。史思明は趙郡へ退いた後、博陵を再び奪取した。 李光弼は趙郡を奪回し、博陵を包囲した。反乱軍は援軍を要請し、二万人の騎兵が滹沱河を渡って博陵へ入った。牛廷玠も媯州・檀州などから一万人を率いて援軍に向かった。 こうして史思明の勢力は再び強まったが、嘉山の戦いで李光弼に敗れた。 李光弼は十三の郡を奪回した。河南地方の各郡も防備を固め、潼関は依然として唐側が押さえていた。 安禄山は不安を感じ、范陽へ戻った。そして厳荘と高尚を呼びつけ、激しく責めた。 「私が兵を起こしたとき、お前たちは万全の策だと言ったではないか。ところが、今では各地の敵軍が日ごとに強くなり、潼関より西へ一歩も進めない。お前たちの策はどこにあるのだ。私の前に顔を出すな」 二人は追い出された。 数日後、田乾真が潼関方面から来て、安禄山に進言した。 「昔から、王者が天下を興すときには、戦いに勝つことも負けることもあります。一度の戦いで全てが決まるわけではありません。今、敵軍は多いとはいえ、我が軍の敵ではありません。仮に事が成就しなくても、数万の兵を率いて天下を動き回り、十年でも戦い続けることができます。 高尚と厳荘は、陛下の事業を助けてきた功臣です。なぜ急に彼らを遠ざけ、自ら敵を作るようなことをなさるのですか」 安禄山は喜び、田乾真の幼名を呼んで言った。 「阿浩よ。お前以外に、誰が私に道理を分からせてくれるだろうか。では、どうすればよいのだ」 田乾真は、二人を呼び戻して安心させるよう勧めた。安禄山はそのとおりにし、高尚と厳荘を呼び戻して宴会を開いた。自ら歌まで歌い、君臣の関係は元に戻った。 その後、安禄山は孫孝哲と安神威を西方へ派遣し、長安を攻撃させた。

14 長安の陥落と安禄山の暴政
 このころ、高仙芝ら唐の将軍たちが敗死し、哥舒翰が潼関を守っていた。しかし、彼も崔乾祐の軍に敗れ、捕虜となった。 安禄山は、玄宗がこれほど早く都を捨てて逃げるとは思っていなかった。そのため、潼関で十日間ほど軍を止めていた。 その間に、玄宗はすでに扶風まで逃れていた。安禄山の軍は西へ進み、汧州・隴州より東の地域は、次々と反乱軍の手に落ちた。 安禄山は張通儒に洛陽を守らせ、田乾真を京兆尹に任命した。また、安守忠を宮苑の中に駐屯させた。 安禄山が長安に到着する前に、多くの官僚や士人は山や谷へ逃げ込んだ。東西二百里にわたって、逃亡者の列が途切れることはなかった。 宮中の女官たちは散り散りになり、泣きながら逃げた。宰相や高官たちの邸宅には、莫大な財宝が残された。それを欲深い者たちが奪い合い、何日たっても略奪は終わらなかった。 反乱軍は国庫の財宝も奪い尽くした。官庁の倉庫は空になり、残ったものには火が放たれた。 安禄山が長安に入ると、さらに激しい略奪を命じた。三日間にわたって財産を探し回り、民間の財物まで奪い尽くした。地方の役人たちも、関係者を次々と巻き込んで厳しく取り調べたため、民衆の不安はますます深まった。 安禄山は息子の慶宗が殺されたことを恨み、霍国長公主をはじめ、皇帝の近親者や王族の妃・側室、その子孫や婚姻関係者など百人余りを殺害した。そして、慶宗の霊を慰めるための犠牲とした。 玄宗に従って逃げた官僚たちについても、その一族を皆殺しにした。 安禄山は、自分の望みがかなうと残虐な行為をためらわなかった。そのため、人々はますます彼から離れていった。 将軍たちが相談や判断を求めようとしても、必ず厳荘を通さなければならなかった。安禄山は、腹心や長年の友人でさえ、少しでも気に入らなければ敵のように扱った。 各地では、郡や県の役人たちが反乱軍の守備将校を殺し、唐軍を迎え入れる事件が相次いだ。しかし、その後また反乱軍に寝返ることもあり、十数回も支配者が入れ替わる地域さえあった。町や村は荒廃していった。 一方、粛宗は霊武で軍を整え、唐の復興を目指していた。長安では「皇太子が西から戻ってくる」という噂が広まり、それを聞いた人々は東へ逃げ出した。 都周辺では、有力者たちが反乱軍の役人を殺して唐側に帰順する例が毎日のように起きた。反乱軍は見せしめの処刑を行ったが、抵抗を止めさせることはできなかった。 反乱軍の将軍たちは、勇猛ではあっても長期的な戦略に乏しい者が多く、酒や女性、財産に溺れていた。玄宗が蜀へ逃れることに成功すると、反乱軍は唐の皇帝を追い詰めることもできなかった。

15 安禄山の最期
 安禄山は晩年、さらに太り、目も見えなくなっていった。腹部には腫れ物ができ、気性もますます荒くなった。 李猪児という側近がいた。彼はもともと降伏した身分の低い者で、幼いころから安禄山に忠実に仕えていた。安禄山は彼を宦官にし、いっそう信頼するようになった。 安禄山は体が大きくなりすぎて、自分で衣服を着替えることも難しくなっていた。周囲の者が体を持ち上げ、李猪児が帯を結んでやった。華清宮で入浴するときも、李猪児をそばに置くことを許していた。 しかし、反乱を起こしてからは、不安と怒りに悩まされるようになった。視力を失い、腫れ物の病気も悪化すると、ますます短気になった。 側近たちは、少しの失敗でも命を落とすことがあった。李猪児も何度もむち打たれ、侮辱された。安禄山の腹心であった厳荘でさえ、たびたび叱責や暴力を受けた。そのため、二人は深く安禄山を恨むようになった。 安禄山の息子・慶緒は、若いころから騎射に優れ、成人前に鴻臚卿に任命されていた。しかし、安禄山は段夫人を特に寵愛し、その子の慶恩をかわいがって、後継者にしようと考えていた。 慶緒は自分が後継者になれないのではないかと恐れた。厳荘も、安禄山が後継者をめぐって問題を起こせば、自分の身も危うくなると考えた。 厳荘は慶緒に、ひそかにこう語った。 「大義のためには親をも滅ぼす、という言葉を聞いたことがありますか。昔から、やむを得ずそうしたことを行った者もいるのです」 慶緒はその意味を理解し、「分かりました」と答えた。 厳荘はさらに李猪児にも言った。 「お前がこれまで主人に仕えてきた中で、どれほどの罪を犯したと思うか。大事を実行しなければ、いつ殺されてもおかしくないぞ」 こうして三人は、安禄山を殺害する計画を立てた。 至徳二載(757年)の正月元日、安禄山は群臣の朝賀を受けた。しかし、病状がひどくなり、朝賀を途中で切り上げた。 その夜、厳荘と慶緒は武器を持って門を守った。李猪児は寝室に入り、大刀で安禄山の腹を斬りつけた。 盲目となっていた安禄山は、そばに置いてあった刀を手探りで探したが、見つけることができなかった。寝台の柱を揺さぶりながら、「これは身内の反逆者の仕業だ」と叫んだ。 しかし、まもなく腸が破れて寝台の上に流れ出し、安禄山は死亡した。享年は五十歳余りだったという。 遺体は毛布に包まれ、寝台の下に埋められた。 厳荘らは、安禄山が重病であると偽り、慶緒を皇太子に立てる偽の詔書を出した。さらに安禄山が慶緒に皇位を譲ったと偽り、慶緒は父を太上皇として尊ぶことにした。

16 唐軍の反攻と洛陽の奪回
 慶緒は偽の皇帝の地位を継ぎ、元号を載初と改めた。しかし、彼自身は酒宴や遊興にふけり、政治を厳荘に任せてしまった。 張通儒や安守忠らに長安を守らせ、史思明には范陽を、牛廷玠には安陽を守らせた。各地で兵士を募り、政権を維持しようとした。 一方、唐軍は反撃に転じた。広平王が軍を率い、李嗣業が先鋒、郭子儀が中央軍、王思礼が後衛を指揮した。回紇の葉護も兵を率いて唐軍に加わった。 長安を守っていた張通儒らは十万人の兵を集めたが、その多くは奚の兵士であり、回紇軍を恐れていた。両軍が戦闘を始めると、反乱軍は動揺し、混乱に陥った。 広平王は精鋭部隊を李嗣業と合流させ、反乱軍を攻撃した。安守忠らは大敗して東へ逃れ、張通儒は妻子を捨てて陝郡へ逃げた。 こうして唐軍は長安を奪回した。 その後、唐軍は反乱軍を追撃し、洛陽方面へ進んだ。厳荘は十万人の兵を率いて張通儒と合流したが、唐軍との戦闘で敗北した。 尹子奇も張巡を殺害した後、十万人の兵を率いて陝州方面へ進んでいた。 新店の戦いでは、回紇軍が南の山に伏兵を置き、反乱軍の背後を突いた。反乱軍は一時、唐軍を追い詰めたが、回紇軍の奇襲によって陣形が乱れた。李嗣業らが奮戦し、唐軍は態勢を立て直して反撃した。 反乱軍は大敗し、五十里以上も追撃された。戦場には死体や武器、鎧が散乱し、その惨状は陝州から洛陽にまで及んだという。 厳荘は敗残兵を集め、慶緒、安守忠、張通儒らとともに鄴郡へ逃げた。 広平王は洛陽に入城し、天津橋の周辺に大軍を展開した。 反乱政権の侍中・陳希烈ら三百人は、白い喪服を着て頭を地面につけ、処罰を待った。 広平王は彼らに言った。 「あなた方は脅迫されて反乱政権に仕えただけで、反逆者というわけではない。天子の詔書によって罪は赦され、官職も元どおりに戻される」 これを聞いた人々は大いに喜んだ。 その後、陳留では反乱軍の将軍・尹子奇が殺され、唐側に降伏した。 厳荘の妻の薛氏は、獲嘉で捕らえられたが、自分を永王の娘だと偽って唐軍の陣営へ向かった。彼女は広平王に会うと、厳荘が降伏を望んでいるので、信用できる証人を送ってほしいと頼んだ。 広平王は郭子儀と相談し、厳荘が降伏すれば残党も説得できると考え、厳荘に免罪の証文を与える約束をした。 厳荘は降伏し、駅伝を使って都へ送られた。粛宗は彼と面会し、死罪を免じて司農卿に任命した。 一方、阿史那承慶は三万人の兵を率いて恒州・趙州へ逃れ、あるいは范陽へ向かった。慶緒のもとに残った兵士は、傷ついた者を含めても千人余りにすぎなかった。

17 慶緒の政権崩壊
 その後、蔡希徳、田承嗣、武令�cらがそれぞれ兵を率いて合流し、邢州、衛州、洺州、魏州などでも兵が集まった。反乱軍は六万人ほどに回復した。 慶緒は相州を成安府と改め、年号を天和とした。高尚と平洌を宰相に、崔乾祐、孫孝哲、牛廷玠らを将軍に任命した。 しかし、反乱軍の内部では離反が相次いだ。能元皓や高秀巖らが唐に帰順し、徳州刺史の王柬、貝州刺史の宇文寛も反乱軍から離れた。 河北地方の各軍は城を守って抵抗したが、慶緒は蔡希徳、安雄俊、安太清らを派遣して各地を攻撃させた。捕らえた者たちは市中で処刑され、遺体を切り刻まれることもあった。 慶緒は臣下たちが自分を裏切るのではないかと恐れ、祭壇を設け、血を用いた誓約をさせた。 一方、阿史那承慶ら十数人はひそかに唐へ降伏を申し出ていた。粛宗は彼らを厚遇し、官職や爵位を与えた。また、各地の下級将校たちにも、唐側のために反乱軍内部の情報を探るよう命じた。 慶緒はこうした状況にもかかわらず、宮殿や楼閣、池などを造営し、船を浮かべて水遊びをし、夜通し酒宴を開いた。 張通儒らは互いに権力を争い、意見が一致しなかった。何か提案が出ても、互いに批判して妨害した。 蔡希徳は特に策略に優れていたが、気性が激しかった。彼は慶緒を殺害し、唐側に内応しようと計画した。しかし張通儒は別の罪を口実に蔡希徳を処刑した。蔡希徳の部下数千人は軍を離れ、反乱軍の将兵たちは深く嘆いた。 慶緒は崔乾祐を天下兵馬使に任命し、軍の権限を集中させたが、崔乾祐は頑固で荒々しく、部下に情けをかけなかった。そのため、人々は彼に従わなくなった。

18 鄴城の包囲と慶緒の最期
 乾元元年(758年)秋九月、粛宗は郭子儀に命じ、九人の節度使が率いる二十万の兵で慶緒を討伐させた。 唐軍は衛州を攻め落とし、黄河を渡った。慶緒は安太清に迎撃させたが、衛州が包囲されたと聞くと、軍を南へ進めて三軍に分けた。 崔乾祐が上軍、田承嗣が下軍、慶緒自身が中軍を指揮した。 戦闘が始まると、唐軍はわざと退却するふりをした。慶緒はそれを追撃したが、伏兵に遭遇して大敗した。彼の弟・慶和は捕らえられ、都へ送られて処刑された。 郭子儀はさらに追撃し、愁思崗の戦いでも反乱軍を破った。慶緒の精鋭部隊は、この敗北によってほぼ失われた。 慶緒は鄴城に立てこもり、守りを固めた。薛嵩を使者として史思明に多額の贈り物を送り、援軍を求めた。 史思明は李帰仁に一万三千人を率いさせ、滏陽に駐屯させた。しかし、援軍が動く前に唐軍の包囲は完成していた。 唐軍は城の周囲に三重の堀や土塁を築き、安陽の水を引き込んで城内を水攻めにした。 城内では食糧が尽き、物資の交換もできなくなった。人肉を食べるほどの飢餓に陥り、米一斗の値段は七万銭を超えた。 ネズミ一匹も数千銭で取引され、松の木を削って馬に食べさせ、壁を崩して麦わらを取り出し、糞を洗って飼料を探すほどだった。 城内の人々は降伏したくても、外へ出ることさえできなかった。 そのころ、慶緒は崔乾祐に代えて安太清を軍の指揮官にした。 史思明は十三万人の兵を集め、鄴城へ向かった。翌年三月、安陽の南に陣を敷いた。 追い詰められた慶緒は、皇帝の印章と任命状を史思明に差し出し、皇帝の地位を譲ろうとした。 史思明がその手紙を軍中に示すと、兵士たちは一斉に万歳と叫んだ。史思明は慶緒と兄弟の契りを結ぶことを約束し、手紙を返した。慶緒は大いに喜んだ。 一方、唐軍は戦況が悪化し、九人の節度使の軍はそれぞれ退却した。郭子儀は河陽橋を切断し、谷水の防衛にあたった。 史思明は鄴の南に進出した。慶緒は唐軍の残した物資を回収し、十万石余りの食糧を得た。 慶緒は孫孝哲らを集め、史思明に抵抗する方法を相談した。しかし、将軍たちは「今さら、どうして史王に背くことができましょうか」と答えた。 張通儒、高尚、平洌らは、自分たちが史思明のもとへ出向いて謝罪すると申し出た。慶緒はこれを許した。 史思明は彼らに会うと涙を流し、丁重に送り返した。 三日後、慶緒がなかなか出向いてこないため、史思明は血盟を結ぶことを求めた。慶緒は仕方なく、五百騎を率いて史思明の陣営へ向かった。 史思明は、あらかじめ兵士たちに武装して待機するよう命じていた。 慶緒が到着すると、地面にひれ伏して謝罪した。 「私は皇帝の地位を引き受ける器ではありませんでした。二つの都を失い、敵の包囲に追い詰められました。それなのに、大王は父上のために遠方から兵を率いて来てくださいました。私の罪を、どうか大王のお考えにお任せいたします」 史思明は怒って言った。 「戦いに勝ったか負けたかなど、どうでもよい。だが、お前は実の父を殺して皇位を奪ったのではないか。それこそ大逆ではないか。私は太上皇のために反逆者を討つのだ」 そして、側近に命じて慶緒を連れ出し、処刑しようとした。 慶緒は周万志に何度も目配せした。周万志は進み出て、「慶緒はすでに君主となった者です。死を賜るのが適当でしょう」と述べた。 こうして慶緒と四人の弟たちは首をくくられて殺された。高尚、孫孝哲、崔乾祐らも処刑され、遺体は切断されてさらされた。 史思明は安禄山の墓を改葬し、王侯にふさわしい礼で葬り直した。偽の諡号として「燕剌王」を贈った。 こうして、安禄山とその息子たちが皇帝を名乗った期間は、わずか三年で終わった。

19 安姓を避けた玄宗・粛宗の朝廷
 反乱の初期、安禄山が洛陽を占領した際、張万頃を河南尹に任命した。張万頃は多くの士人や皇族を保護し、彼らが殺害されるのを防いだ。 粛宗は張万頃の仁徳を評価し、濮陽太守に任命した。 一方、唐の皇帝は、反乱を起こした安禄山の姓を聞くことさえ嫌うようになった。都の街区や町内に「安」という字が含まれていると、その名称をすべて改めさせたという。 安禄山の反乱は、唐の政治と社会に大きな傷跡を残したのである。


○その他
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第4回 11/20 西洋思想の中国化-太平天国の乱
1851年に始まった太平天国の乱は、死者数千万人という中国史上最大規模の内戦でした。指導者の洪秀全は広東省出身の知識人で、キリスト教の影響を受けて自らを「イエスの弟」と称しました。しかし、その思想は西洋のキリスト教をそのまま受け入れたものではなく、中国独自の色がつけられました。洪秀全が創始した国家「太平天国」は南京を首都として一時は清王朝を脅かしますが、最終的には滅亡します。19世紀にはキリスト教が中国化して反乱の原動力となり、20世紀には民主主義やマルクス主義が中国化して中国革命の原動力となりました。
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○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表
○その他
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第5回 12/11 狂信的ナショナリズム-義和団の乱
1899年に始まった義和団の乱は、外国勢力への反発から生まれた民衆運動です。義和団の中心となったのは華北地方の農民や武術集団で、「扶清滅洋(清を助け、外国勢力を滅ぼす)」を掲げました。彼らは呪術的な信仰と迷信的な魔法の力によって「自分たちには西洋の銃弾も通じない」と信じ、多くの民衆を引きつけました。しかし日本を含む列強諸国の連合軍によって鎮圧され、清王朝はさらに弱体化します。無名の民衆たちによる暴力的なナショナリズムの沸騰は、その後の中国でも、文化大革命を始め、何度も繰り返されることになります。
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○辞書的な説明
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