第1回 09/25 史上初の農民反乱-陳勝呉広の乱
陳勝・呉広の乱 ちんしょうごこうのらん
中国、秦(しん)の二世皇帝元年(前210)7月、陳勝(陳渉ともいう。渉は字(あざな))と呉広が、北境防備のために徴発された900人の兵卒を率いて起こした反乱。中国史上初めての農民反乱であるとともに、秦帝国滅亡の端緒となった事件として重要である。 陳勝と呉広の2人は大雨のため力役の場所への到着期限に遅れたので、斬罪(ざんざい)に処せられるよりも死を覚悟して名声をあげようと兵卒たちを説得した。 そのときの「王侯将相寧(おうこうしょうそういずく)んぞ種(しゅ)あらん乎(や)」ということばは、身分に関係なく力によって挙兵したこの反乱の性格をよく物語っている。 陳勝は貧家の生まれの雇農であったが、民を率いて王位につき、「張楚(ちょうそ)」国を建て、部将を各地に派遣して勢力を拡大していった。 当時秦の圧政に苦しんでいた人々は次々とこれに呼応した。しかし翌年12月、呉広に続いて陳勝も臣下に殺され、わずか6か月の短命の反乱政権であった。のちに項羽(こうう)、劉邦(りゅうほう)の軍が秦を滅ぼすことになる。
[鶴間和幸]
ちん‐しょう【陳勝】
中国、秦末漢初の武将。字は渉。秦の二世皇帝の時、農民を率いて挙兵して王と称し、劉邦・項羽らの挙兵のきっかけを作った。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」の言は有名。前二〇八年没。
ご‐こう〔‐クワウ〕【呉広】
[?〜前208]中国、秦末の農民反乱の指導者。陽夏(河南省)の人。字(あざな)は叔。陳勝とともに反乱を起こしたが、秦軍に大敗、部下に殺された。
支那の学者の考証によると、正しい記録に狐妖を書してあるのは、秦の終りに彼(か)の陳勝と呉広が兵を挙げた時、狐の啼声をよく真似る者を暗夜に出没させて「楚、興らん」と叫ばせたのを嚆矢とするそうである。陳勝等は楚の後裔とか称していたので、狐の告げのように粧って人気を得ようと巧んだのであるから、所詮は一種の計略で、真実の狐妖では無いのであるが、彼等がそういう計略を廻らしたと云うことは、一般の人間が已に狐妖を信じていた証拠であって、恐らくその以前から狐妖の説が民間に行われていたのであろうと云うのである。仮りに陳勝等の創意としても、その歴史は頗る古い。
第2回 10/09 新興宗教の光と影-黄巾の乱
こうきん‐の‐らん〔クワウキン‐〕【黄巾の乱】
中国で後漢末期に、張角が首領となって起こした農民の反乱。184年、黄老の教えに基づく太平道を奉じ、全員が土の徳を示す黄色い布を付けて決起したが、張角の死で衰え、平定された。黄巾の賊。
黄巾の乱 こうきんのらん
中国、後漢(ごかん)末の農民反乱。後漢代後半、豪族の大土地所有の進展につれて、多数の農民が土地を失って没落した。 また外戚(がいせき)、宦官(かんがん)、党人官僚三つどもえの政争によって中央政府の機能は低下し、洪水や干魃(かんばつ)や流行病がしきりに発生した。 鉅鹿(きょろく)(河北省南部)の人張角(ちょうかく)は、黄帝(こうてい)信仰や道家(どうか)学説を含む初期道教の一派である太平道(たいへいどう)を創始して、大賢良師(たいけんりょうし)と自称した。 教義による呪術(じゅじゅつ)と信徒本人の懺悔(ざんげ)、反省によって病気が治るという太平道の教えは、黄河下流域の多数の貧困と病気に苦しむ農民たちをその教団に組織することに成功した。 たまたま後漢霊帝(れいてい)代の184年は、60年を1周期とする干支(かんし)の最初の年、すなわち甲子の年にあたっていた。「蒼天(そうてん)すでに死せり。黄天まさに立つべし。歳は甲子に在(あ)り。天下大吉」というスローガンを掲げた張角は、この年2月、目印として互いに黄色い頭巾を着用した30余万の信徒を率いて反乱を起こした。 後漢政府が党人官僚への弾圧を中止して黄巾討伐に全力をあげたこと、張角が陣中において病死したことなどにより、反乱の主流は年内に平定されたが、その余党は10年以上にわたって各地に蜂起(ほうき)しては離合集散した。 武力を伴った中央における政治抗争と、行政官や将軍たちの地方割拠と絡み合いながら、黄巾の余党の活動は後漢帝国の統一政府としての実質に重大な打撃を与えた。
[多田狷介]
太平道 たいへいどう Tai-ping-dao※(加藤注) 『後漢書』では「干吉」だが、その他の漢文古典では于吉(う きつ)と書くことが多い。
中国,後漢末期の民間宗教の一種。五斗米 (ごとべい) 道とともに道教の源流といわれる。 後漢の干吉 (かんきつ) ※が『太平清領書』に基づいて開いたといわれ,そののち鉅鹿 (きょろく) の人,張角が呪術を行なってこの説を広め,十数年の間に信徒数十万となった。 そこで信徒を 36の集団 (方) に分け,それぞれに将軍をおいて統率させ,流言を放って,後漢王朝打倒の目標を明らかにした。 計画が漏れ弾圧が加わると,中平1 (184) 年2月黄巾 (こうきん) をつけて一斉に蜂起した (→黄巾の乱 ) が,張角はまもなく死に,乱も約1年で鎮圧された。
どう‐きょう〔ダウケウ〕【道教】
中国、古代の民間信仰を基盤とし、不老長生・現世利益を主たる目的として自然発生的に生まれた宗教。のち、仏教への対抗上、神仙説など道家の思想、および仏教の教理儀礼が取り入れられた。 5世紀前半、北魏の寇謙之(こうけんし)が教祖を黄帝・老子とし、張道陵を開祖として道教教団を形成した例もあるが、多くは民間信仰として発展。
道教 どうきょう Taoism
道教は、中国民族の固有の生活文化のなかの生活信条、宗教的信仰を基礎とした、中国の代表的な民族宗教である。それは漢時代以前の巫祝(ふしゅく)信仰や神仙方術的信仰および民衆の意識などが基盤となって、漢代に黄老(こうろう)信仰が加わり、おおむね後漢(ごかん)末から六朝(りくちょう)時代にかけて形成され、現在でも台湾や香港(ホンコン)などの中国人社会で信仰されている。初期の道教的信仰は、不老不死の神仙を希求したり、巫術や道術による治病や攘災(じょうさい)に重点を置いたが、儒教や仏教と競合し、影響しあい、内的修養や民衆的道徳意識の堅持を中心とする信仰をも重視するように発展した。
(中略)
太平道は、後漢中期に干吉(かんきつ)(あるいは于吉(うきつ))が太上老君より『太平清領書(たいへいせいりょうしょ)』(太平経(たいへいきょう))を授けられたことに発する。 この経典を宗教運動のよりどころとして、河北の張角が太平道を組織した。 しかし、張角はのちに反乱を起こし、そのために太平道は滅ぼされ、民間に残った余党が五斗米道と合体していった。 その五斗米道は、張陵が四川(しせん)の成都地域で始めた宗教集団である。 道家の思想を中心とし、呪術的な治病を行い、その謝礼として米5斗(日本の約5升)を納めさせたのでこの名が生まれた。 病人を静室に入れて過去の罪を反省させ、天・地・水の神すなわち天官・地官・水官の3官に、自分の名と過去の罪過を書いた書3通を捧(ささ)げ、贖罪(しょくざい)のための供物や労働力を提供すれば、病は治ると信じられた。 このような過去の罪過によって病気がおこされるという考え方は、太平道にも存在した。五斗米道が宗教教団としての組織を確立するのは、張陵の子の張衡や孫の張魯のときになってからである。 ことに張魯のときには益州の長官の保護を受け盛んとなったが、のちに圧迫されて四川東部から陝西(せんせい)の漢中にかけての地に移り、曹操(そうそう)に降(くだ)りその諸侯となって、潼関(どうかん)以東(関東)の豪族・貴族や農民の間に勢力を拡大していった。 この関東の五斗米道は、原始的な呪術を中心とする教団から、豪族・貴族と結び付いて、神仙方術や他の道術を主とする教団へと変化していった。(以下略)
問われて名乗るも おこがましいが 生まれは遠州浜松在 十四の年から親に放(はな)れ 身の生業(なりわい)も白浪(しらなみ)の 沖を越えたる夜働き 盗みはすれど非道はせず (以下略)
今から十年ほど前。
鉅鹿郡(きょろくぐん)(河北省)の人で、張角という無名の士があった。
張角はしかし稀世(きせい)の秀才と、郷土でいわれていた。その張角が、あるとき、山中へ薬をとりに入って、道で異相の道士(どうし)に出会った。道士は手に藜(あかざ)の杖をもち、
(お前を待っていること久しかった)と、さしまねくので、ついて行ってみると、白雲の裡(うち)の洞窟へ誘(いざな)い、張角に三巻の書物を授けて、(これは、太平要術という書物である。この書をよく体して、天下の塗炭(とたん)を救い、道を興し、善を施すがよい。もし自身の我意栄耀(がいえいよう)に酔うて、悪心を起す時は、天罰たちどころに身を亡ぼすであろう)と、いった。
張角は、再拝して、翁(おきな)の名を問うと、
(我は南華老仙(なんかろうせん)なり)と答え、姿は、一颯(さつ)の白雲となって飛去ってしまったというのである。
張角は、そのことを、山を降りてから、里の人々へ自分から話した。
正直な、里の人々は、(わしらの郷土の秀才に、神仙が宿った)と真(ま)にうけて、たちまち張角を、救世の方師(ほうし)と崇(あが)めて、触れまわった。
張角は、門を閉ざし、道衣(どうい)を着て、潔斎(けっさい)をし、常に南華老仙の書を帯びて、昼夜行いすましていたが、或る年悪疫(あくえき)が流行して、村にも毎日おびただしい死人が出たので、
(今は、神が我をして、出でよと命じ給う日である)
と、おごそかに、草門(そうもん)を開いて、病人を救いに出たが、その時もう、彼の門前には、五百人の者が、弟子にしてくれといって、蝟集(いしゅう)してぬかずいていたということである。
五百人の弟子は、彼の命に依って、金仙丹(きんせんたん)、銀仙丹(ぎんせんたん)、赤神丹(せきしんたん)の秘薬をたずさえ、おのおの、悪疫の地を視て廻った。そして、張角方師の功徳(くどく)を語り聞かせ、男子には金仙丹を、女子には銀仙丹を、幼児には赤神丹を与えると、神薬のききめはいちじるしく、皆、数日を出でずして癒(なお)った。
それでも、癒(い)らぬ者は、張角自身が行って、大喝(だいかつ)の呪(じゅ)を唱(とな)え、病魔を家から追うと称して、符水(ふすい)の法を施した。それで起きない病人はほとんどなかった。
体の病人ばかりでなく、次には心に病のある者も集まってきて、張角の前に懺悔(ざんげ)した。貧者も来た。富者も来た。美人も来た。力士や武術者も来た。それらの人々は皆、張角の帷幕(いばく)に参じたり、厨房(ちゅうぼう)で働いたり、彼のそば近く侍(じ)したり、また多くの弟子の中に交じって、弟子となったことを誇ったりした。
たちまち、諸州にわたって、彼の勢力はひろまった。
張角は、その弟子たちを、三十六の方を立たせ、階級を作り、大小に分かち、頭立つ者には軍帥(ぐんすい)の称を許し、また方帥の称呼を授けた。
大方(だいほう)を行う者、一万余人。小方を行う者六、七千人。その部の内に、部将あり方兵(ほうへい)あり、そして張角の兄弟、張梁(ちょうりょう)、張宝のふたりを、天公将軍(てんこうしょうぐん)、地公将軍(ちこうしょうぐん)とよばせて、最大の権威をにぎらせ、自身はその上に君臨して、大賢良師(だいけんりょうし)張角(ちょうかく)と、称(とな)えていた。
これがそもそもの、黄巾党の起りだとある。初め張角が、常に、結髪を黄色い巾きれでつつんでいたので、その風(ふう)が全軍にひろまって、いつか党員の徽章(きしょう)となったものである。
第3回 10/23 在中外国人の不満-安禄山の乱
| 皇帝 | 玄宗皇帝…李隆基。武則天の孫。「大野(だいや)氏」という「胡姓」を持っていた隴西李氏は、漢民族化した鮮卑族、もしくは鮮卑化した漢民族と思われる。 |
|---|---|
| 門閥貴族 | 家柄は、旧斉系の清河崔氏など山東貴族が最高、 次が唐の皇室を含む関隴集団ら武川鎮軍閥系=鮮卑系貴族。その次が琅邪王氏など南朝で伝統を誇った北来貴族。その下が呉郡陸氏など江南系の南人貴族。 |
| 宗族 | 李林甫など。 |
| 科挙官僚 | 張九齢、顔真卿、張巡、等。 |
| 外戚 | 楊国忠(楊貴妃の族兄) |
| 宦官 | 高力士(忠臣) |
| 外国出身者 | 安禄山…父はソグド人、母は突厥(とっけつ。トルコ系)人。史思明…父は突厥人、母はソグド人。哥舒翰…父はホータン人、母は突厥人。阿倍仲麻呂・・・日本人。高仙芝…高句麗系。李光弼…契丹族。 |
| 節度使(軍閥) | 外国出身者の安禄山など。 |
| 宗教 | 唐は道教を優遇したが、儒仏道の三教だけでなく「唐代三夷教(とうだいさんいきょう)」も保護。 キリスト教ネストリウス派(景教)、ゾロアスター教(祆教)、マニ教(明教) |
あんし‐の‐らん【安史の乱】
中国唐の玄宗皇帝の末年(七五五年)に起こった安祿山、史思明の反乱。 玄宗は蜀(しょく)(=四川)に亡命して退位し、反乱軍も内部分裂を起こし、七六三年に平定された。唐朝の中央集権制度は破綻(はたん)し、中国古代社会終末の転機となった。
安史の乱 あんしのらん
中国、盛唐時代に起こった安禄山(あんろくざん)、史思明(ししめい)らの反乱(755〜763)。唐代の前期、後期を画する一大転機となった。
唐帝国は玄宗治下に極盛期を迎え(開元の治(かいげんのち))、内外文化を混一、開花させたが、中年を過ぎた玄宗(げんそう)は政治に倦(う)んで楊貴妃(ようきひ)への愛におぼれ、宮廷では則天武后(そくてんぶこう)朝に抑圧された貴族勢力が盛り返し、皇族出身の宰相李林甫(りりんぽ)が専権を振るった。一方、大土地所有の発展、商業資本の活動などによる均田制、租庸調(そようちょう)体制の動揺と、農民層の分解が進み、逃戸(とうこ)や社会不安が増大し、府兵制の崩壊、傭兵(ようへい)制の拡大、財政膨張による増税のための括戸(かっこ)(逃戸や隠田(おんでん)の摘発調査)と、政治的、社会的矛盾が深まっていた。
李林甫が独裁権を握ろうと辺境傭兵軍団の軍将に、蕃人(ばんじん)や下層身分出身者を登用したのに乗じて、東北辺の3節度使を兼任した安禄山は、巧みに宮廷に食い込んで大勢力となった。しかし、楊貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゅう)が反李林甫派の中心となって林甫を追い落とし宰相となるや、禄山を敵視して謀反の企てありと中傷した。玄宗もついにこれを疑い、召還しようとしたので、禄山は反乱を決意、范陽(はんよう)(現在の北京(ペキン))で挙兵、755年11月、契丹(きったん)、鉄勒(てつろく)などの精騎8000余(名目上禄山の養子とし父子軍と称していた)を中核に、蕃漢15万(公称20万)の大軍で河北平原を南下、12月洛陽(らくよう)を占領、翌年大燕(だいえん)皇帝と称した。唐朝は20万を動員、西北より武将哥舒翰(かじょかん)を急派して潼関(どうかん)(洛陽、長安の中間)を守らせた。河北では平原太守顔真卿(がんしんけい)、常山太守顔杲卿(がんこうけい)兄弟らの地方官が禄山軍の後方を脅かし、河南では張巡(ちょうじゅん)、許遠(きょえん)らが?陽(すいよう)城(商邱(しょうきゅう)県)を死守して禄山軍の江淮(こうわい)財源地帯への侵入を阻んだ。こうした地方官の抗戦の裏には、土豪を中心とする郷村自衛団があったといわれる。
しかし、功をあせった楊国忠は哥舒翰に洛陽奪回を厳命、唐軍は禄山軍の間者におびき出されて大敗し、756年6月潼関を突破した禄山軍は一挙に長安に殺到、玄宗や宮廷貴族は蜀(しょく)(四川(しせん))へ落ち延びた。途中、馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で近衛(このえ)兵の憤懣(ふんまん)が爆発し、楊国忠は殺され、帝は迫られて楊貴妃を死に至らしめた。他方、玄宗と分かれた皇太子は西方の霊武(甘粛(かんしゅく)省)で即位(粛(しゅく)宗)し、反攻を準備した。戦線拡大を阻止された禄山軍は内紛を生じ、病に冒されて統制力を失った禄山は757年、子の慶緒(けいしょ)に殺され、翌年慶緒も部下の史思明に殺され、思明が帝位についたが、これまた761年、子の朝義に殺され、反乱軍の諸将は各地に割拠するありさまとなった。粛宗は太子広平王(後の代宗)を兵馬元帥、名将郭子儀(かくしぎ)を副元帥とし、朔方(さくほう)軍および救援を申し出た回?(かいこつ)(ウイグル)の大軍によって、長安、洛陽を奪回、追撃に移り、763年史朝義を滅ぼし、9年に及ぶ大乱は終結した。
しかし、乱中各地に配備、進駐した諸将はそのまま藩鎮(はんちん)となり、中央集権は崩れて軍事的分権化の傾向が強まり、とくに河北は長く半独立の体制をとり続けることとなった。戦火に荒廃した首都長安は、ついに打撃から立ち直れず衰微した。また軍費調達のため臨時の収奪が激増し、多くの新税が徴収されて租庸調制を変質させ、両税法への伏線が張られ、塩の専売をはじめ、財政運営面でも唐初以来の体制を一変した。以後、唐朝は、勢力を増大した蕃将の処置と、藩節度使の統制に精力の大半を費やすこととなる。
[菊池英夫]
『藤善真澄著『安禄山』(1966・人物往来社)』▽『藤善真澄著『安禄山と楊貴妃』(1972・清水書院)』
[705〜757]中国唐代の武将。ソグド人。安史の乱の首謀者。 玄宗皇帝に信頼されて平盧(へいろ)・范陽(はんよう)・河東の三節度使を兼任していたが、755年、反乱を起こして洛陽・長安を攻略。 大燕皇帝を自称したが、子の慶緒(けいしょ)に殺された。
安禄山 あんろくざん (703?―757)
中国、唐の武将。安史の乱の首謀者。出自は伝説的で、母は突厥(とっけつ)(トルコ系)貴族阿史徳(あしとく)氏の巫女(みこ)、父は一説に胡(こ)人康(こう)氏(イラン系ソグド人)で早く死別、母が幼年の彼を連れてソグド系武将安延偃(あんえんえん)に再嫁したので義父の姓を名のったとされるが、安氏を実父とする説が有力である。唐人からは雑胡(ざっこ)と称せられた。幼名軋犖山(あつらくさん)(トルコ語の軍神の意と記されるが疑わしい)、のち禄山としたが、いずれもソグド語の光(ロクサン)の音訳とされる。
716年ごろ一族とともに唐側に亡命、営州柳城(遼寧(りょうねい/リヤオニン)省朝陽(ちょうよう/チャオヤン)県)に住んだ。営州は唐の東北前進基地で、諸民族の集まるところであった。禄山は6種の言語を操り、互市牙郎(ごしがろう)(貿易仲買人)を務め、やがて幽州節度使張守珪(ちょうしゅけい)の部下となって対契丹(きったん)戦に活躍、奚(けい)、契丹、室韋(しつい)、靺鞨(まっかつ)など東北諸族の鎮撫(ちんぶ)に手腕を発揮する一方、中央派遣の使臣に贈賄して玄宗の信任を得た。742年平盧(へいろ)節度使に抜擢(ばってき)され、744年范陽(はんよう)(幽州。現在の北京(ペキン))、751年河東(山西(さんせい/シャンシー)省太原(たいげん/タイユワン))の両節度使を兼任するに至り、唐の辺防軍全体の3分の1近い大兵力を握った。禄山は宰相李林甫(りりんぽ)をはじめ皇帝側近、とくに後宮の楊貴妃(ようきひ)に取り入って養子にしてもらい、宮廷に食い込んだ。しかし貴妃の族兄楊国忠(ようこくちゅう)が李林甫を追い落として宰相となるや、禄山の勢力を恐れ、謀反の志ありとして帝との離間を謀り、玄宗も疑念を抱くに及んで、禄山は君側の姦(かん)、楊国忠を討つと称して15万の兵を動員した。755年11月挙兵、12月洛陽(らくよう)を落とし、翌年元旦大燕(だいえん)皇帝と称し、聖武の年号をたて、6月には長安を攻め落とし、一時は華北の主要部を制圧した。
しかしこのころから眼疾で視力が衰え、疽(そ)(悪性腫(はれ)物)を病んで狂躁(きょうそう)となり、愛妾(あいしょう)の子慶恩(けいおん)を偏愛したので、不安を感じた太子慶緒(けいしょ)(次子)によって暗殺された。河北地域では数十年後まで人気は衰えず、反乱を引き継いだ史思明(ししめい)とともに、二聖とあがめられるほどであったという。
[菊池英夫]
史 思明 ししめい ??761
唐代の安史の乱の主謀者のひとり
胡人と突厥 (とつけつ) 人との混血児。同郷の安禄山 (あんろくざん) と親しく,ともに6か国語を使い,貿易官となった。 のち軍人として戦功を立て,安禄山が挙兵すると河北を攻略し,彼が子の安慶緒に殺されると,唐に帰順して河北節度使となった。 758年唐に対して反乱を起こし,安慶緒を倒し,洛陽を陥れ,大燕皇帝と称したが,子の史 朝義に殺された。
国破山河在 国破れて山河在り(くにやぶれてさんがあり)
城春草木深 城春にして草木深し(しろはるにしてそうもくふかし)
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺ぎ(ときにかんじてははなにもなみだをそそぎ)
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす(わかれをうらんではとりにもこころをおどろかす)
烽火連三月 烽火 三月に連なり(ほうかさんげつにつらなり)
家書抵万金 家書 万金に抵る(かしょばんきんにあたる)
白頭掻更短 白頭 掻けば更に短く(はくとうかけばさらにみじかく)
渾欲不勝簪 渾べて簪に勝えざらんと欲す(すべてかんざしにたえざらんとほっす)
第4回 11/20 西洋思想の中国化-太平天国の乱
第5回 12/11 狂信的ナショナリズム-義和団の乱