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古代中国の伝説の王たち
神話から歴史へ

早稲田大学エクステンションセンター中野校 講師 加藤徹
最新の更新2024年12月01日   最初の公開2024年11月10日

  1. 黄帝 - 紀元前27世紀の中華民族の祖
  2. 堯舜 - 紀元前22世紀の二人の聖天子
  3. 禹王 - 紀元前21世紀の夏王朝の始祖
  4. 紂王 - 紀元前11世紀に実在した殷王
  5. 文王 - 紀元前11世紀の君主の聖人化
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/62468/より引用。引用開始
ジャンル 世界を知る中野校 【対面+オンラインのハイブリッド】古代中国の伝説の王たち 神話から歴史へ
曜日 火曜日  時間 10:40〜12:10
日程 全5回 ・11月12日 〜 12月10日
(日程詳細) 11/12, 11/19, 11/26, 12/03, 12/10
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
古代史は、近現代のナショナリズムと結びついています。「自分たちの国の歴史はこんなに長いのだ」と自慢するため、政府が学者を動員し学問を悪用することもあります。
俗に「中国五千年の歴史」と言いますが、中華民族の共通祖先とされる五千年前の黄帝や、儒教で聖人とされる四千年前の堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)は、神話・伝説の人物です。 前11世紀ごろの殷(いん)の紂王(ちゅうおう。商王朝の帝辛)と周の文王は実在した君主ですが、史実と違う説話にいろどられています。 本講座では、古代の伝説的な6人の帝王を取り上げ、中国文明形成の謎を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
引用終了
 第1回 11/12 黄帝 - 紀元前27世紀の中華民族の祖 

中国古代の伝説の8人の君主「三皇五帝」のうち、最も有名なのは「黄帝」です。 彼は神仙となった人間であり、「文化英雄」でもあります。 舟や車輪、弓矢、鏡など文明の利器の発明、文字や薬学や医学の誕生など、中国文明の基礎は黄帝の時代に出現した、と漢文古典の説話では説かれています。 20世紀初頭の中国では、紀元前2697年を黄帝即位元年とする「黄帝紀元」が提唱されました。 21世紀の今日、多民族国家を標榜する中華人民共和国では、黄帝は漢民族と少数民族を含む全ての中華民族の共通祖先とされます。 黄帝は日本にも多大の影響を与えました。 テキヤ(映画「男はつらいよ」の寅さんなど)がまつる神様は「神農黄帝」で、現代日本の栄養ドリンクの名前は「ユンケル黄帝液」です。 いわゆる「中国五千年」の歴史の冒頭に位置づけられてきた黄帝の謎について、わかりやすく解説します。
参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kSR4Ux_PC1D8QlAIsxvmOJ
キーワード
 参考論文 楊志強「「炎黄子孫」と「中華民族」--近代中国における国民統合をめぐる二つの言説」慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要、2007
  WikiPedia 中国語版 https://zh.wikipedia.org/wiki/炎黄子孙

○辞書的な説明。以下『改訂新版 世界大百科事典 』より引用。引用開始
黄帝 (こうてい) Huáng dì
中国,古代伝説中の帝王。姓は公孫,名は軒轅であるといわれる。 諸侯を攻める炎帝を阪泉(河北涿鹿(たくろく)県北西)にやぶり,反乱を起こした蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し,帝位につく。 四方を平定し,天地自然の運行を調和させ,養蚕・衣服・舟運・牛馬車・文字・喪制・音律・医学など,すなわち人類文化を創造したと言われる。 戦国時代の老荘学派の始祖ともされる。 伝説中の帝王であることは言うまでもないが,戦国時代の斉国の青銅器銘文では,黄帝を高祖と呼んでいるから,東方地域の人々の間には,黄帝を始祖とする伝承があったことはあきらかである。 漢代の司馬遷は《史記》の中で,中国の歴史を黄帝から始め,黄帝以下の顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・尭・舜をはじめ,夏殷周三王朝の始祖をすべて黄帝の子孫と説明している。 黄帝を黄河流域の古代文明の始祖と考えていたことがわかる。 この影響は現在まで残り,中国の歴史紀年を黄帝から始め,黄帝紀元何年と呼ぶことがなお行われている。
執筆者:伊藤 道治
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○黄帝のあらまし
 黄帝は神話・伝説上の古代の帝王。炎帝神農氏の異母兄弟とも伝えられる。
 伝説によると、黄帝は、侵略してきた蚩尤(しゆう)と戦ったとき、「指南車」を作らせて勝利し、中国文明の基礎となるさまざまな文物制度を定め、最後は天の昇ったという。
 例えば鏡も、黄帝の妃であった嫫母(ぼぼ)が偶然に発明したとされる(「中国の妖しい鏡」)。
別名:姓は姫ないし公孫姓、氏は軒轅(けんえん)氏または帝鴻氏。軒轅は名ともいう。戦国時代の斉国の青銅器銘文には黄帝を「高祖」と呼んだ例もある。
生没年:不明(非実在の可能性が高い)。紀元前26世紀から前25世紀ともされる。
主な事蹟:五帝のひとり(中国の皇帝と天皇・上皇参照)
評価:「文化英雄」「人文始祖」。神話的帝王、中国文明の創始者、「中華民族」共通の始祖。

〇加上説
 江戸時代の学者・富永仲基(1715ー1746)が『出定後語』において提唱した仮説。後発の教派・学派ほど、自己を権威づけるため、自分たちの起源をより古い時代の伝説的人物に仮託する傾向がある、という考え。
 近代日本の東洋史学者・内藤湖南(1866ー1934)は、加上説を援用し、古代中国の諸子百家の成立時期を推定した。
 春秋時代の孔子は、周公を最も尊敬した。
 戦国時代の墨子は、周公より古い伝説の帝王、禹を尊敬した。
 墨子の教えを報ずる墨家集団を攻撃するため、孟子は、禹よりも古い堯と舜を理想化した。
 孟子よりもあとに成立した道家集団は、老子を孔子の先輩とし、また、堯舜よりも古い黄帝を尊った。
 以下、農家と易学は、それぞれ神農と伏羲を開祖として仰いだ。
 古代中国の伝承では、古い順に、
伏羲 神農 黄帝 堯 舜 禹 周公
であり、それぞれを尊ぶ学派は、
易学 農家 道家 孟子 墨子 孔子
である。学派の実際の成立時期と、それぞれが理想化して始祖と仰ぐ人物の年代順はちょうど反対の関係になっている、と、内藤湖南は推理した。
 つまり、道家思想=老荘思想の成立時期は、彼ら自信の主張とは裏腹に、孔子や孟子の儒教思想よりも新しい、と内藤湖南は推定した。
 以下、青空文庫の、内藤湖南「大阪の町人學者富永仲基」https://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/1735_21416.htmlより引用。引用開始
この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。 二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。 それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇の盛んな時である。齊の桓公、晉の文公といふのは當時の覇者であります。 その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、 周の文王・武王といふことを言ひ出した。 孔子の後に墨子が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱が黄帝を言ひ出した。 それから孟子に書いてある許行がその上に神農のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。 思想の上からすれば、孟子に書いてある告子が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、 荀子は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋は孟子の説が正しいとし、 徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、 説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘つて來るのであると、 斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。
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〇黄帝の伝説
 中国古代の伝説上の帝王。炎帝神農氏の時代の末、諸侯を攻める炎帝を阪泉の地(河北涿鹿(たくろく)県北西)に破り、妖怪のような蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し、天子となった。
 戦国時代以降に成立したと思われる伝説によると、黄帝は「文化英雄」でもあり、鏡や車、舟、衣服、家屋、弓矢などのさまざまな道具の発明や、文字や音律、暦などの文物制度の制定にもかかわった。
 現存する中国最古の医学書『黄帝内経素問』と『黄帝内経霊枢』も黄帝の著作に仮託されている(日本の栄養ドリンク剤「ユンケル黄帝液」の語源)。
 中国では唐代以降散佚し、日本の『医心方』(10世紀)に収録されて残った房中術の古典『素女経』も、黄帝に仕えた神女「素女」に仮託されている。
 前漢の初期には、黄帝は老子と結びつけられ、「黄老の術」と呼ばれた道家思想の実践が流行した。
 後漢の時代に成立したと思われる『列仙伝』によると、黄帝は首山(山西省浦阪県)の銅を採り、荊山(河南省)の麓で鼎(かなえ)を鋳造させた。鼎が完成すると、天から、髯(あごひげ)を垂らした龍が迎えにおりてきた。黄帝は龍に乗って昇天した。群臣もいっしょに昇天しようと龍の髯などにつかまったが、落ちてしまったという。別の伝説では、黄帝といっしょに昇天できた臣下は七十二人だけだったと言う。

〇黄帝陵
 「天下第一陵」とも称される。中華人民共和国陝西省延安市黄陵県に現存する陵墓遺跡。黄帝は昇天し、地上に残された衣服と冠を葬った「衣冠塚」であると伝えられる。
 帝陵の最初の祭祀は紀元前442年に始まったとされている。唐の大暦5年(770年)に廟の建立。以来、歴代王朝が黄帝の祭祀を行ってきた。
 約333ヘクタールに及ぶ広大なエリアに、6万本以上の「古柏」があり、そのうち3万本は樹齢千年以上である。なお、中国の墓地に植樹される「松柏」の「柏」は、日本のカシワとは全く違う木で、針葉樹の一種であるコノテガシワのこと。
 環境考古学の安田喜憲(やすだ・よしのり)氏が担当したNHKの番組・人間大学「森と文明」(1997年)でも、黄帝陵の森の映像は、「レバノン杉」と並んで印象的に紹介されていた。

〇黄帝紀元
 黄帝紀元をもとにした紀年法「皇帝紀年」=西暦年+2697年。例えば西暦2000年は、黄紀4697年。
 西洋のキリスト紀元や日本の神武紀元に対抗して、清末のナショナリズム高揚のなかで提唱された紀元。「黄紀」とも言う。実際に使われたのは短命だった。
 清末、康有為ら変法派は孔子紀年を提唱した。革命派の学者・劉師培はこれに反対し、光緒29年(1903年)、『国民日日報』に「黄帝紀年論」を発表し、黄帝誕生の年を紀元とすることを主張し、1903年を黄帝紀元4614年とした。
 革命家の宋教仁は、黄帝即位の年を紀元とすることを主張し、1904年を黄帝紀元4602年とした。
 武昌蜂起(辛亥革命)で中華民国湖北軍政府が成立すると、清朝の元号「宣統」を廃止し、宣統3年(1911年)を黄帝紀元4609年とした。各省政府もこれに応じた。孫文が中華民国臨時大総統の地位に就くと、通達をくだし、黄帝紀元4609年11月13日(1912年1月1日)をもって中華民国元年元旦とし、黄帝紀元の使用を停止した。

〇漢民族復興の象徴としての黄帝
 魯迅(1881-1936)が日本に留学していた数え23歳のときに詠み、自分の写真に書き付けた漢詩「自ら小像に題す」。

   霊台無計逃神矢  霊台 神矢を逃るるに計無し
   風雨如磐闇故園  風雨 磐の如く故園を闇とす
   寄意寒星荃不察  意を寒星に寄するも荃は察せず
   我以我血薦軒轅  我は我が血を以て軒轅に薦めん

 レイダイ、シンシをノガるるにケイナし。フウウ、イワオのゴトくコエンをヤミとす。イをカンセイにヨするもセンはサッせず。ワレはワがチをモッてケンエンにススめん。
 清末の専制政治という時代背景もあって、魯迅はわざと難解な表現を使っている。解釈には諸説があるが、最後の一句の解釈だけは共通している。
 霊台(清末の統治者階級を指すか)はもはや神の矢から逃れるすべはない。風雨は岩のように重く、ふるさとは闇だ。この思いを寒星に寄せても「荃は察せず」(『楚辞』「離騒」の名句「荃不察余之中情兮」をふまえる)である。私は私の血を黄帝に捧げよう。
(中国語の「簡体字」による表記)鲁迅《自题小像》 灵台无计逃神矢,风雨如磐暗故园。寄意寒星荃不察,我以我血荐轩辕。

〇中華民族の強制的拡大の歴史と黄帝
 清末の革命思想家は「滅満興漢」を主張し、清朝の支配民族である満洲人を「韃虜(だつりょ)」という蔑称で呼び、「炎黄之裔、厥惟漢族」(炎黄のすえ、それただ漢族のみ)とうそぶいた。
 これに対して、保守派は「満漢」一体を唱道した。の融和を主張した。康有為(1858-1928)は「満洲人も黄帝の後裔である」「我が国はみな黄帝の子孫であり、今、各郷のうち、実に、同胞一家の親、異無きが如し」と強弁した。
 「炎黄子孫」は儒教的な古めかしい言い方だが、「中華民族」は近代西洋の「民族」という概念を導入したハイカラな呼称である。
 1900年11月、清の政治家伍廷芳が講演で「中華民族」という言葉を使った。ジャーナリスト・梁啓超は、1905年の時点では満洲人やモンゴル人、チベット人を中華民族に含めなかったが、1922年には満洲人も中華民族に含めた。
 中華民国の建国以降は、中国人は全て「炎黄子孫」であり、「中華民族」である、という言説が流行するようになった。
 現在、中国政府は「中華民族」を「漢族と55少数民族の総称」と規定している。ウイグルやチベットも「中華民族」に含めて、黄帝崇拝を推し進めている。




 第2回 11/19 堯舜 - 紀元前22世紀の二人の聖天子 

堯(ぎょう)と舜(しゅん)は、2代にわたり徳をもって天下を治めた伝説の聖天子です。 親子ではなく、禅譲(ぜんじょう)により天子の位を継承したこの2人は「堯舜」と呼ばれ、理想的な明君の代名詞になりました。 日本語でも「堯舜の世」「堯舜の民」などの言い方や、漢文の故事成語「土階茅茨(どかいぼうし)」「鼓腹撃壌(こふくげきじょう)」「帝力何ぞ我に有らんや」 「堯鼓舜木(ぎょうこしゅんぼく)」「禹行舜趨(うこうしゅんすう)」「矛盾」「漱石枕流(そうせきちんりゅう。夏目漱石の筆名の由来)」など、堯舜由来の言葉を使います。 日本の元号のうち、「昭和」の出典は『書経』堯典で、「文政」「永和」は同・舜典です。儒教では堯・舜・禹・湯王(とうおう)・文王・武王・周公・孔子の8人を聖人とします。 古来、聖人の筆頭とされてきた堯と舜は実在の人物ではなく、「堯舜の世」も後世に作られた説話である可能性が高い。 しかしながら、堯舜説話には、21世紀の今も中国人が理想とする政治のありかたが盛り込まれているのです。
参考動画
YouTube 
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ko_y0qd7Uv_5DbvaDuKshj

○キーワード・ポイント

○辞書的な記載

○漢文に出てくる堯舜の事跡の例

『十八史略』五帝・帝尭陶唐氏より。現代語訳のみ。
 帝尭陶唐氏は、姓は伊祁である。名は放という説もある。帝嚳の息子である。
 その仁の心は天のようで、その知力は神のようだった。彼の近くにつきしたがえば輝く太陽のように思え、遠くから見ると高い恵の雲のように見えた。
 尭は、都を平陽(現在の山西省臨汾市堯都区の「堯廟」あたりか)に置いた。宮殿は「茅茨不翦(ぼうしふせん)、土階三等」 という質素なものだった(かやぶき屋根で、軒先も切りそろえておらず、土台の高さはわずか三段ぶんだけであった)。
 宮殿の庭に雑草が生えた。毎月の十五日までは、毎日葉が一枚づつ生えた。 毎月の後半は逆に一枚づつ葉が落ちた。 ただし三十日未満の月は(旧暦は、大の月は三十日、小の月は二十九日)葉が一枚だけ残って落ちなかった。 この草を「蓂莢」(めいきょう)と名付け、葉を観察して上旬・中旬・下旬の推移や、朔日を知った。
 尭が天下を統治して五十年たった。 冶まっているのかいないのか、 億兆(十万、百万)の民が自分を推戴することを願っているのか願っていないのか、 彼にはわからなかった。 左右の側近に聞いてもわからない。 朝廷の臣下に聞いてもわからない。 在野の識者に聞いてもわからない。
 そこで、尭はおしのびで外出し、康衢(こうく。道路が四方八方に通じている、町中)を歩きまわった。
 子供が歌っていた。
 立我烝民、莫匪爾極。不識不知、順帝之則。  (我が烝民を立つる、爾の極に匪ざる莫し。識らず知らず、帝の則に順う) ――私たち人民の生活が成り立つのは、みな、あのかたの究極の徳政のおかげ。みんなは知らないうちに、天子さまのお触れにしたがっている。
【堯は、プロパガンダのにおいを嗅ぎ取り、安心できなかった】

 老人がいた。口に食べ物を含んで自分の腹つづみをうち、地面を叩きながら歌った。
 日出而作、日入而息。鑿井而飲、畊田而食。帝力何有於我哉。
 (日出で作(な)し、日入りて息う。井を鑿うがちて飲み、田を畊(たがや)して食らう。帝力、何ぞ我に有らんや)
 日が出てりゃ働く。暮れれば休む。井戸堀り水飲む、耕し食べる。天子の力なんて関係ないね。
【堯は、民衆が真に自由であることを知り、ようやく安心した】

 尭は華山に行幸した。山の関所の番人が言った。
「おお、聖人に祝福の言葉を捧げます。あなた様が長生きしますよう。豊かになって多くの男子に恵まれますよう」
 尭は言った。「やめてくれ。男子が多いと心配事が増える。豊かになれば面倒が増える。 長生きすれば恥辱を受けることが増える(寿則多辱。いのちながければ、すなわち、はじ、おおし)」
 番人は反論した。
「天は万人をこの世に生むと、必ず職を授けます。 男の子が多くても、仕事を与えれば、何の心配事もありませんよ。 豊かになったら、富を人々に分配すれば、何の面倒も起きませんよ。 天下に道がある世なら、万物と共に繁栄を謳歌すればよろしいでしょう。 天下に道がない世なら、徳を修めて暇を楽しみ、千年のあいだ世間と距離を置き、 昇天して白い雲に乗り神様のいる天国に行けば、恥辱を受ける心配はありませんよ」

『十八史略』五帝・帝舜有虞氏より。現代語訳のみ。
 帝舜有虞氏は姚姓である。名は重華という、という説もある。瞽瞍(瞽叟。こそう)の息子で、 顓頊の六世の孫である。
 舜の父は、後妻の色香に惑溺(わくでき)し、後妻との間にできた象(しょう)という子を溺愛し、 いつも舜を殺そうとつけ狙った。が、舜は孝悌(こうてい)の道を尽くし、人格を修養して姦淫に至らなかった。
【説話では、舜は後妻から姦淫を迫られたが拒否し、焼き殺されそうになったとき屋根から原始的なパラシュートで 降りて脱出したり、と様々な苦労をしている。舜は実家を離れ、流浪の生活を送った。】
 舜が歴山で農耕生活を送ると、近くの人々は感化され畦を譲り合うようになった。
 舜が雷沢で漁師になると、人々は感化さ漁場を譲るようになった。
 舜が河岸で焼き物を焼くと、器はゆがまずきれいに焼き上がった。
 舜が住むと自然に人が集まって村ができ、二年で町になり、三年で都会になった。
 時の天子であった堯は、舜が聡明であることを聞いて、彼を民間から抜擢したいと考えた。  堯は、自分の2人の娘、娥黄と女英を舜の嫁にしようとして、嫁入り道具を調えて嬀汭(ぎぜい。山西省の地名)に行かせた。
 こうして舜は、堯の大臣となり、政務を行った。いわゆる「四罪」(舜四凶)【共工(きょうこう)、驩兜(かんとう)、鯀(こん)、三苗(さんびょう)の4人の悪神、ないし神話的人物】 を退けた。具体的には、驩兜を放逐し、共工を流刑にし、鯀を死刑にし、三苗を山奥へ追いやった。 その一方、才子である「八元八ト」の16人を登用し、九官を任命し、十二牧(12人の地方長官)と国政を協議した。 才能のある善良な者を十六人登用し、国政を分担する官僚を任命し、地方を統治する十二人の総督と相談した。こうして、四海の内(天下、の意)はみな舜の功績のおかげをこうむった。

 舜は「五絃之琴」を弾き、「南風之詩」を歌い、天下はうまく治まった。詩に曰く。  南風之棘a、可以觧吾民之慍兮、南風之時兮、可以阜吾民之戝兮。  (南風の薫ずる、以て吾が民の慍(いかり)を解くべし。南風の時なる、以て吾が民の財を阜(ゆたか)にすべし)
――南の風がかぐわしく吹く。わが民の心はやさしくなれる。南の風が吹くべきときに吹く。わが民の財産は豊かになれる。
時景星出、卿雲興。百工相和而歌曰、卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。
 (南風之薫れる、以て吾が民之慍りを解く可し、南風之時なる、以て吾が民之財を阜つむ可しと。  その時、空にめでたい星が輝き、めでたい雲がわいた。百官は唱和した。
 卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。
 (卿雲爛たり。糺(キュウ)縵縵(マンマン)たり。日月(ジツゲツ)光華あり、旦、復た旦)
――めでたい雲が輝いて、よじれて、ゆるゆる長く伸びる。太陽と月は光輝き、朝の次はまた朝。

 舜の子の商均は、不肖の馬鹿息子だった。そこで舜は、禹を天に推薦した。引退した舜は南に巡狩(じゅんしゅ)し、蒼梧(そうご。湖南省永州市寧遠九疑山)の野で亡くなった。

○その他
  • 「堯舜」は、日本でも古代の理想的な簡素生活の時代、およびそれを実現した理想的な政治、として使われてきた。
    大塩平八郎(1793-1837)も「大塩平八カ檄文」で、幕政を批判し、「堯舜」の語を使った。 以下、https://ja.wikisource.org/wiki/大鹽平八カ檄文より引用。閲覧日2024年11月17日。引用開始
    神武帝御政道の通りェ仁大度の取扱ひ致し年來驕奢淫逸の風俗も一洗に相改め質素に立戻り 四海天恩を難有存し候て父母妻子を取養ひ生前の地獄を救ひ死後の極樂成佛を眼前に爲見遣し 堯舜 天照皇太神の時代にハ復し難けれ共中興の氣象に恢復とて立戻可申候
    引用終了
    意味は、以下、https://note.com/tristan1357/n/n2e5631db71a0より引用。閲覧日2024年11月17日。引用開始
    神武天皇のご政道に戻し、情け深く、度量の広い政治を行い、従来からの悪弊である、驕り高ぶり放埒な風俗を根底から払拭し、質素な生活に戻し、 すべての人々が、いつも天の恩に感謝し、父母妻子を養い、いまの生き地獄から救われ、死後、極楽浄土に行けることを自覚できる世の中にしよう。 中国の尭舜時代や、日本の天照大神の時代にまで戻すことは難しいだろう。 しかし、せめて建武の中興時代にまで立ち戻りたい。
  • 孔子の言行録『論語』には「堯曰(ぎょうえつ)第二十」という章がある。
     堯曰「咨爾舜。天之暦數在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終」。舜亦以命禹。(以下略)
     堯いわく「ああ、なんじ舜。天の暦数、なんじのみにあり。まことにその中(ちゅう)を執れ。四海、困窮せば、天禄、永く終わらん」と。 舜もまたもって禹に命ず。
  • 『韓非子』難一の「矛盾」の寓話は、もともとは儒家の堯舜理想化を批判するためのものだった。
    (要約)堯の時代。歴山の農民は畑の境界を争い、 黄河の漁師は釣場を奪いあい、 東夷の陶工は粗悪な土器を作った。それぞれの地に 舜が一年住むと、舜の仁徳に教化されて、それぞれの人民は立派になったという。
     孔子は、舜は聖人だ、と感嘆した。
     が、これは矛盾である。
     もし堯が本当に完璧な聖天子なら、天下に不正や乱れはなかったはずだ。 舜が乱れを改めたというなら、堯は聖人ではなかったことになる。 堯と舜が同時に聖人であることは、「矛盾」の話と同じで、論理的に成り立たないのである。
     また、舜は1年に1箇所ずつ、つまり3年でたった3箇所を教化できたにすぎない。効率が悪すぎる。
     もし、私が主張しているとおり、信賞必罰の法令を天下の人民に施行すれば、すぐに天下は治まるだろう。
     また『韓非子』五蠹(ごと)にいう。
    (要約)昔、堯が王であった時代、王宮は質素だった。 屋根は「茅茨不剪」、たる木は丸太のままのクヌギ。堯の食べ物は粥とアカザや豆の葉のスープ。 衣服は、冬は鹿の皮、夏は葛(かずら)。現代の門番だってもっとましな暮らしをしている。
     禹が王となった時には、スキやクワをみずから持って率先して肉体労働にいそしみ、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れてなくなったという。 現代の奴隷だってこれよりは楽である。
     つまり、堯や舜が天子の位をあっさりと譲ったのは、門番の暮らしや奴隷の労働から自由になることと同義だった。 ゆえに、天下を譲る、なんて、当時はぜんぜん美談ではなかったのだ。
  • 堯から天下を譲られようとして断った「許由巣父」(きょゆうそうほ)の故事は、東洋美術の画題にもなった。
  • 金の第5代皇帝・世宗(在位1161−1189)は、金朝第一の名君で「小堯舜」 とも呼ばれた
  • 東洋史学者の白鳥庫吉(しらとり くらきち)は1909年、いわゆる「堯舜抹殺論」を発表し、学界で論争を巻き起こした。
     cf.白鳥庫吉「『尚書』の高等批評 特に堯舜禹に就いて」 初出:「東亞研究」第二卷第四號 1912(明治45)年4月
  • 倉石武四郎『中国文学講話』(岩波新書)には、1915年頃のこととして以下の挿話を載せる。
     今から五十年ほどまえ、わたしが第一高等学校に入学したばかりのこと、一年生の東洋史の箭内亙先生が、東洋史のはじ めに、堯・舜などという帝王たちは実在の人物ではなくて後世のつくり話だと講義 された。そのとき、クラスのなかにいた中国の留学生が突然たちあがり、血相かえ て「先生!堯舜アリマス」といって抗議したという事件があった。堯と禹と舜で 「天・地・人」の思想を擬人化したものだといわれ、 それが少壮学者に支持されたわけです。しかし、この学説は当時の漢学者からみま すと、「まことにけしからん」というわけである。漢学者先生たちが堯・舜を抹殺 されてはといって論議されたのは、ちょうど中国の留学生が「先生!堯舜アリマ ス」といったのと、ほぼ同じ心境で、今から思うとほほえましい。
  • 日本の元号「昭和」の出典は、『書経』堯典の漢文「百姓昭明、協和万邦」である。
  • 芥川龍之介の小説『歯車』(『文藝春秋』1927年10月号)には、「僕」が高名な漢学者に堯舜非実在論を語る場面がある。
     以下「青空文庫」の
    https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/40_15151.htmlより引用。引用開始。
    が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。 僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯ほほひげを伸ばした老人だつた。 のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。
    「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフエニツクスと云ふ鳥の、……」
     この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん 病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。 するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截り離した。
    「もし堯舜もゐなかつたとすれば、孔子は譃をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない。」
     僕は勿論黙つてしまつた。
  • 今から4000−4300年前に栄えた山西省臨汾市襄汾県・陶寺遺跡を、伝説の「堯」の都と見る説がある。
     参考記事「山西省・陶寺遺跡、伝説の「堯の都」か」人民網日本語版 2015年06月26日13:14
  • 宇都宮市には「堯舜国際幼稚舎」という名前の認可外保育施設がある。



     第3回 11/26 禹王 - 紀元前21世紀の夏王朝の始祖 

    日本の歴史教科書では、考古学的に存在が確認されている中国最古の王朝は殷(いん)である、としています。 現代中国では、殷よりも前に存在したと史書にある夏(か)王朝を、実在した中国最古の世襲王朝と見なしています。 中国政府は1996年から2000年にかけて、学界を動員して「夏商周断代工程」(夏商周年表プロジェクト)を行い「夏商周年表」を作成しました。 古代中国の説話では、黄河の治水で功績を挙げた禹(う)は、舜から天子の位を譲られ、中国史上初の世襲王朝「夏」の開祖になった、とされます。 現代中国では、夏王朝の建国を紀元前2070年ごろに比定していますが、日本など海外の学界ではまだ公認されていません。 かつての日本では、皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)に文部省が当時の学者を総動員して「神武天皇聖蹟調査報告」を作成しました。 中華人民共和国の「夏商周断代工程」は、大日本帝国の「神武天皇聖蹟調査報告」と似ている面があります。 禹は、儒教の古典とは別に、日本でも治水の神として古くから各地の神社で祭られてきました。 「中国の神武天皇」とも言うべき禹について、わかりやすく解説します。
    参考動画
    YouTube 
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ldEjARnT3Nfa9ndlyqktG2
    ○キーワード

    ○辞書の記載

    ○禹の事跡
     神話的な人物であった禹は、 春秋時代の儒教では聖人として再解釈され、 戦国時代の墨家思想では重要視された。 禹は、有史以前の神話・伝説の人物であり、 その事跡については古典の諸書で食い違いが多い。以下は、 最大公約的なものである。
    1. 禹の姓は姒(じ)、諱(いみな)は文命。「姒文命」と呼ぶ。氏は夏后(古代において氏と姓は区別した)。諡号は禹。大禹、夏禹、戎禹とも呼ばれる。
    2. 禹は、黄帝から数えて八代目の子孫で、父の名は鯀(こん)であった。
       鯀は、説話ではヒトだが、本来は古代の魚身の神だったと推定する学者もいる。
    3. 鯀はもともと、現在の四川省北川県に住んでいた。禹は子供のころ、父に連れられて、 中原(黄河中流域。中国文明の中心地)に移住した。
    4. 当時は、三皇五帝のひとり帝堯(ていぎょう)の治世で、中原は黄河の氾濫で 水びたしになり、人民は苦しんでいた。
    5. 帝堯は、鯀に黄河の治水を命じた。鯀は、天帝の魔法の土「息壌」 を盗み、黄河をせきとめようとした。が、九年かかっても成功しなかった。
    6. 治水工事に失敗した鯀は、死んだ。
       死因は、諸書によって様々である。政治色の強い『韓非子』では堯から舜への禅譲に反対したため処刑された、とする。 神話色の強い『山海経』では、天帝が火の神である祝融を派遣して鯀を殺した、とする。 殺された鯀の遺体は、「黄能」(黄熊、黄龍とも)という怪物になって姿を消した、とも伝えられる。
    7. 帝堯の次の舜は、禹を登用し、父のあとをついで治水を行わせた。
      舜は、堯とあわせて「堯舜」(ぎょうしゅん)と呼ばれるほどの、古代の聖王である。
    8. 禹は、父である鯀の失敗にかんがみ、水路をあちこちに掘って黄河の水を最終的に海に逃がす方法を考案した。
    9. 禹はみずから、天下の各地をめぐって視察し、人々を指揮して土木工事を行った。
      働き過ぎで「偏枯」(へんこ)になってしまったほどだった。
    10. 禹は、塗山氏のむすめと結婚したが、新婚早々から各地をめぐり、13年ものあいだ帰宅できなかった。ただし、 その間も自宅の前を通過することはあった。
       禹がたまたま自宅の前を通過するとき、塗山氏が出産し、長男誕生の産声が聞こえたが、 禹は忙しかったため門の中に入らずそのまま通り過ぎた。
       数年後、再び自宅の前を通ると、塗山氏に抱かれた息子(名前は啓)が門の前にいた。 禹は手をふったが、忙しすぎたため、そのまま通り過ぎた。
    11. 禹の息子の名前が「啓」であることについて、別の神話的な説話もある。
       禹は、土木作業をするときはヒトの姿から「熊」(クマ、ないし「能」や「龍」の類の怪獣)に変身した。 妻の塗山氏は、妊娠中だったが、弁当を届けに来て、 「熊」の姿になった夫を目撃し、ショックのあまり 石になってしまった。禹が泣き悲しむと、石が割れて、中から男の赤ちゃんが出てきた。 石がひらいて生まれたので「啓」と名付けた。
    12. 禹は治水に成功し、人々から「大禹」とたたえられた。
      年老いた舜は、禹に、天子の位を禅譲した。
    13. 禹は、天子の位を舜の実子である商均に譲ろうとしたが、天下の諸侯は 禹の徳をしたって商均のもとを離れて禹のもとに集まった。
       禹は、しかたなく天子の位につき、禹王となった。
       禹の封地は「夏」(現在の山西省運城市夏県。山西省、河南省、陝西省が交わる地域にある)だったので、 彼の王朝を後世「夏王朝」と呼ぶ。
    14. 禹は、夏王朝の都を「陽城」に置いた。現在の河南省鄭州市の、登封市告成鎮の地とされる。
    15. 中国で1996年から1999年にかけて実施された「夏商周年表プロジェクト」では、 禹の夏王朝創始を紀元前2071年ないし前2070年と比定しているが、史実かどうかは不明である。
    16. 禹王は、後の中華帝国の基礎をきずいた。禹の徳化と支配が及んだ「禹域」は、中国の雅称となった。
    17. 『書経』の「禹貢」(うこう)は、禹が天下を巡視して貢賦(こうふ)の制を定めた事跡を記す地理書である。
      禹は天下を、冀州・兗(えん)州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州の「九州」に分けた、とされる。
      ただし、これは明らかに後世の仮託。
    18. 禹は、各地から献上された銅を使って「九鼎」を鋳造させた。
       故事成語「鼎(かなえ)の軽重を問う」の「鼎」は、禹の九鼎を指す。
       この成語の語源は、「春秋五覇」のひとりである楚の荘王が、周王朝の権威を軽んじ、 周室に伝わる宝器である九鼎の大小・軽重を問うたという『春秋左伝』宣公三年の話による。
    19. 伝説によると、禹は、水の深さを測る「定海神針」(定海神珍とも書く)という魔法の道具をもっていた。 定海神針は、後に龍宮城の龍王が所有していた。 孫悟空がまだ暴れん坊だったころ、龍王からこの魔法の道具を奪い、 伸縮自在の武器「如意棒」としてしまった。
    20. 禹は、「酒池肉林」の亡国を予言した。
       『戦国策』によると、禹の時代、儀狄という人物(性別不明)が初めて酒を造り、 禹王にすすめた。禹は「きっと後世、この美味な飲み物に酔って国を滅ぼす 者があらわれるだろう」と遠い未来を予言し、儀狄を遠ざけた。
       禹王の予言どおり、夏の桀王(けつおう)は肉山脯林(にくざんほりん)で、殷の紂王(ちゅうおう) は酒池肉林で、それぞれ酒色に溺れて亡国の暗君となった。
    21. 禹王は、政務に励み、天下を巡行した。
       現在の浙江省紹興市南部の山に来たとき、命数が尽きて亡くなった。
       天下の諸侯は、禹王の終焉の地にかけつけ「会稽(かいけい)」した。会稽とは「人々が一堂に会して、功績を 計る(稽は計に通じる)」という意味である。別の説では、 禹が天下の諸侯をこの地に集めて「会稽」させたあと、そのまま亡くなったとする。
       この山は「会稽山」と呼ばれるようになった。呉越の戦いの故事成語「会稽の恥」でも有名な山である。
       禹の墓所とされる会稽山大禹陵は、現在も観光地として有名である。
    22. 禹は、後継者として賢者の益を指名していた。しかし禹の死後、諸侯は益よりも、禹の実子である啓を 評価したため、啓が天子の位についた。
       こうして、禹から「世襲」が始まった。
       中国で1996年から1999年にかけて実施された「夏商周年表プロジェクト」では、 禹の夏王朝創始を紀元前2071年ないし前2070年と比定しているが、史実かどうかは不明である。


    ○その他


     第4回 12/03 紂王 - 紀元前11世紀に実在した殷王 

    「堯舜」が聖人である明君の代名詞なら、「桀紂(けっちゅう)」は悪逆非道の暴君を指す罵語です。 漢文古典の説話によると、夏王朝の最後の王である桀王と、殷王朝の最後の王である紂王は、時代は異なるものの、 それぞれ美女に夢中になって酒池肉林のぜいたくにふけり、民を苦しめ国を滅ぼした暗君とされます。 日本では司馬遷の『史記』の影響もあり、21世紀の今も「殷王朝」「紂王」という呼び方が普及しています。 しかし20世紀の考古学的な発見と研究により、漢文説話の「殷」や「紂王」とは違う、歴史的な実像が明らかになりました。 殷王朝は後世の呼び方で、自称は「商」でした(現代日本語の「商人」「商業」の語源)。 商王朝(殷王朝)の遺跡から出土した甲骨文字を解読した結果、商王朝最後の王となった帝辛(紂王のモデル)は熱心に祭祀を行った人物で、 紂王が妲己(だっき)を寵愛し酒池肉林のぜいたくにふけったという説話は史実ではありませんでした。 むしろ、近現代の考古学が明らかにした「殷の紂王」あらため「商の帝辛」の実像は、漢文古典以上の驚くべきものでした。 近現代における歴史学者と考古学者の対抗意識など、学界の隠微な裏事情も含め、中国史上最悪の暴君とされてきた紂王の実像について、わかりやすく解説します。
    参考動画
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kpSp1AGzCp0xn8BQp2leNz

    ○キーワード・ポイント


    〇辞書的な説明
    ○殷(いん)と商
     日本では、中国最古の王朝とされる。「殷」は、司馬遷の『史記』殷本紀をはじめ後世の説話的呼称で、殷王朝の人々の自称は「商」だったので、中国では「商」王朝と呼ぶ。
     中国では、最古の王朝は「夏」とする。
     史書によると、殷の初代の湯王は紀元前1600年頃、暴君であった夏の桀王を滅ぼして殷王朝を建てた。
     第22代の殷王・武丁(前13世紀ごろ)は大邑商(現在の「殷墟」)に都を置き、また甲骨文もこの時代から残るようになる。
     第30代で最後の殷王・帝辛(ていしん。説話の「紂王」のモデル)の在位期間は、中国の「夏商周断代工程」では紀元前1075年から前1046年までとする。
     商の滅亡後、各地に散った「商人」は「商業」に従事した。

    ○故事成語
    ・箕子の憂い(きしのうれい)
     cf.箕子朝鮮(きしちょうせん) ・象箸玉杯(ぞうちょぎょくはい)
    ・酒池肉林


    ○漢文の本「十八史略」の記述(現代語訳)
     殷王朝の王統は、太丁・帝乙を経て帝辛に至った。帝辛の名は受、諡号は紂(紂王)と言った。 生まれつき弁舌がたち運動神経もよく、猛獣と素手で格闘できるほどだった。 臣下の諫言をはねつける知力と、自分の非をとりつくろう弁舌力をもっていた。
     あるとき、帝辛は初めて象牙の箸を作った。叔父の箕子は嘆息した。
    「象牙の箸を作ったからには、 食事の盛り付けは質素な土器を使うまい。宝玉の杯を作るだろう。 玉杯と象箸を使うからには、アカザヤと豆の葉の質素な吸い物とか、 粗末な短い毛織物と安価な藁ぶき屋根に満足できなくなるだろう。 高価な錦の衣を何枚も重ねて、高大な建物に住み、 何事も贅沢になってしまうだろう。 天下の富を注いでも、帝辛の欲望を満たせぬようになるだろう。」
     紂王は、有蘇氏という部族を討伐した。 有蘇氏は妲己(だっき)という美女を献上した。 紂王は妲己を溺愛し、何でも望みを聞いた。 また民に重税を課し、都の財物や穀物を集め、御料地を広げた。酒で池を作り、木に干し肉を懸けて林とし、毎晩、酒池肉林の酒宴に耽った。
     天下の民は紂王を恨んだ。諸侯には殷に叛く者も出てきた。紂王は恐怖政治をしいた。 銅の柱を作って油を塗り、真っ赤に焼けた炭火の上に銅の柱を丸木橋のようにわたして罪人を渡らせた。 罪人が足をすべらせて落ちて焼け死ぬ様子を、紂王と妲己は見て楽しんだ。これを炮烙の刑と呼んだ。
     紂王の淫虐がひどかったため、庶兄の微子はしばしば諌めたが、紂王は聞かなかった。微子は殷を去った。
     叔父の比干は紂王を諌め、3日間、側を離れなかった。紂王は怒って、
    「吾聞く、聖人の心(しん)には七竅(しちきょう。七つの穴)有りと」
    と言い、比干を生体解剖して殺した。
     箕子は気が狂ったふりをして奴隷に身をやつしたが、紂王に捕らえられた。
     殷の宮廷楽長は、楽器を携えて周に亡命した。
     周公昌(西伯昌。後の周の文王)と九侯と顎侯は、殷の藩屏(はんぺい)たる三公だった。
     紂王は九侯を殺し、顎侯は殺して干し肉とし、周公昌は紂王によって羑里(ゆうり)の地に幽閉された。
     周公昌の臣下・散宜生は、美女と財宝を紂王に献上したので、紂王は周公昌を釈放した。
     天下の諸侯は紂王を見限り、周公昌の徳をしたった。
     周公昌が死去すると、息子の発(後の周の武王)があとをついだ。武王は、天下の諸侯を率いて殷を攻めた。周軍と殷軍の「牧野の戦い」で破れた紂王は、宝玉をつづりあわせた衣服をまとい 焼身自殺した。こうして殷王朝は滅びた。

    ○『論語』の言葉
    殷に三仁あり――微子第十八
     微子去之、箕子爲之奴、比干諌而死。孔子曰「殷有三仁焉」。
     微子はこれを去り、箕子はこれが奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)は諌(いさ)めて死す。孔子曰く「殷に三仁あり」と。
     微子は国を去り、箕子は狂ったふりをして奴隷に身をやつし、比干は紂王を諌めて死んだ。孔子は「殷には三人の仁者がいる」と言った。

    紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚(はなは)だしからざるなり――子張篇第十九
     子貢曰「紂之不善也、不如是之甚也。是以君子悪居下流、天下之悪皆帰焉」。
     子貢(しこう)が曰く「紂(ちゅう)の不善や、是(か)くの如くこれ甚(はなは)だしからざるなり。是(ここ)を以て君子は下流に居ることを悪(にく)む。天下の悪、皆、焉(これ)に帰す」と。
     子貢が言った。「紂王の不善は、史実では、説話ほどひどくはなかった。 (しかしいったん、暴君というレッテルを貼られてしまったため、 残虐な話がみな彼のしわざとされてしまったのだ)。それゆえ君子は、悪いほうにいることを嫌う。 天下の悪事が、あれもこれも彼のせいだ、と自分のせいにされてしまうからだ」。

    ○『孟子』尽心下の言葉
    「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」
     ことごとくしょをしんずればすなわちしょなきにしかず
     書物の内容をまるごとうのみにするくらいなら、いっそ、書物なんてないほうがましだ。批判や疑う精神が大切だ。
     ※漢文の原文の「書」は、書物という一般名詞ではなく、『書経』という本の書名だが、日本語のことわざでは一般的な書物の意味で使われる。
     孟子の原文の現代語訳。
     『書経』は儒家のバイブルだが、『書経』をまるごと鵜呑みにするくらいなら、いっそ、『書経』なんかないほうがましだ。 私(孟子)は『書経』の「武成篇」を 読んだが、見るべき内容はそのうちの二行か三行くらいだ。 仁の人は天下無敵だ。至仁の人が不仁を伐つ。(最高の仁者である周の武王が、最悪の不仁者である殷の紂王を討伐する。 それが、史上有名な「牧野の戦い」だ。 戦闘開始後、紂王の配下の軍隊はなだれをうつように武王側に寝返ったため、 死傷者が出るひまもまく、紂王は敗北した、というのが歴史の真相であるはずだ。それなのに『書経』武成篇には) 「戦場は、杵がプカプカ浮くほど血の海になった」と書いてあるが、そんな状況はありえない。

    ○史実の帝辛
     甲骨文が殷墟で発掘されたことで、20世紀に入って歴史の真実が知られるようになった。
     中国の学界では、帝辛の在位は紀元前1075年−前1046年とされたが、異説も多い。享年は不明だが、当時としては高齢だった可能性がある。
     甲骨文によれば、帝辛はそれまでの歴代の王と同様に熱心に祖先祭祀に努めた。また、 理由は不明だが、人身御供は帝辛から廃止された。
     帝辛は、殷の東の「人方」(東夷)という勢力の討伐に力を入れたが、その隙に背後から西の周に攻められて滅亡し、周人は 易姓革命を正当化するため帝辛を暴君として語り継いだ、という説がある。
     「紂王」は、帝辛が死んでからずっと後世につけられた諡号である。
     『逸周書・諡法解』では「悪諡(下諡)」として「蕩 ・ 丁 ・ 干 ・ 荒 ・ 惑 ・ 刺 ・ ・ 戻 ・ 霊 ・ 繆 ・ 携 ・ 虚 ・ 煬 ・ 隠 ・ 幽 ・ 願 ・ ・ 專 ・ 縦 ・ 醜」を挙げる。
     中国歴代の暴君・暗君のうち、「霊」や「幽」などは複数いるが、「紂」は紂王こと帝辛ただ1人である。

    〇その他


     第5回 12/10 文王 - 紀元前11世紀の君主の聖人化 

    周の文王は、姓は姫(き)、名は昌(しょう)でした。 漢文古典の記述によれば、西の辺境の小国であった周の君主となった姫昌は、都を岐山(現在の中国陝西省宝鶏市岐山県)から豊邑(現在の陝西省西安市)に移して仁政を行い、民からしたわれました。 殷の紂王が暴政を行った時、姫昌も紂王により理不尽な目にあったものの隠忍して命をながらえ、「太公望」などの人材も得て、力を蓄えました。 天下の諸侯は、紂王の暴虐ぶりを見て殷王朝に見切りをつけ、姫昌の周に期待を寄せました。しかし姫昌は決起せず、殷の臣下であり続けました。 姫昌の死後、息子の姫発(周の武王)は、父に「文王」という諡(おくりな)を贈り、文王の木主(位牌)を立てて殷の紂王と戦ってこれを破り、殷を滅ぼして周王朝(西周)を打ち立てました。 漢文古典が伝える周の文王の説話は、日本にも大きな影響を与えました。織田信長が「岐阜」という地名を作った理由は、周の岐山と孔子の曲阜にあやかるためでした。 江戸時代の儒学者は、天皇位を簒奪しない徳川将軍の態度を、周の文王になぞらえて礼賛しました。 しかし漢文古典の説話は、近現代の歴史学や考古学によって、史実とは違うことがわかってきました。 俗に「中国五千年」「中国四千年」などと言いますが、真の意味での中国史は、周が商(殷)を征服し両者が融合した三千年前から始まります (加藤徹著『貝と羊の中国人』参照)。 神話・説話から歴史へ、中国文明形成の謎と実像を、わかりやすく説き明かします。
    参考動画
    〇ポイント・キーワード

    辞書的な説明

    ○周の文王

    ★史実よりも伝説
     生年不明。没年は紀元前1051年か。姓は姫、諱は昌。生きていたときは周国の君主として殷に服属し、「西伯」「西伯侯」「西伯昌」とも呼ばれた。文王こと姫昌は、史実というよりも、伝説的な説話の中の人物である。

    ★最高の諡号「文王」
     中国歴代の帝王の諡号(しごう)のなかで「文」は最高の諡号である。単に文王と言えば、周の文王こと姫昌を指す。
     儒教の「聖人」は少ない。堯と舜、夏王朝の初代王・禹、殷王朝の初代王・湯王、周の文王、その子の武王と周公旦(魯国の開祖)、孔子などである。孟子は「亜聖」とされる。

    ★孔子も文王を中華文明を確立した人物として絶賛
    『論語』子罕第九に載せる孔子の言葉。

     子畏於匡。曰「文王既没。文不在茲乎? 天之將喪斯文也、後死者、不得與於斯文也、天之未喪斯文也、匡人其如予何?」
     子、匡(きょう)に畏(おそ)る。曰わく、文王(ぶんおう)既に没したれども、文茲(ここ)に在らずや。天の将(まさ)に斯(こ)の文を喪(ほろ)ぼさんとするや、後死(こうし) の者、斯の文に与(あず)かることを得ざるなり。天の未(いま)だ斯の文を喪ぼさざるや、匡人(きょうひと)其れ予(わ)れを如何(いかん)。
     以下は、作家の下村湖人(1884年−1955年)の訳による孔子の言葉である。(引用開始)
     先師が匡(きょう)で遭難された時いわれた。――
    「文王がなくなられた後、文という言葉の内容をなす古聖の道は、天意によってこの私に継承されているではないか。 もしその文をほろぼそうとするのが天意であるならば、なんで、後の世に生れたこの私に、文に親しむ機会が与えられよう。文をほろぼすまいというのが天意であるかぎり、匡の人たちが、いったい私に対して何ができるというのだ」(下村湖人『現代訳論語』より)

    ★文王の事績
     文王の父は季歴、祖父は古公亶父である。伯父は太伯と虞仲。
     なお、太伯は中国東南部の沿海にある呉国の先祖である。
     中国および日本の昔の文献では、日本人を太伯の子孫(つまり日本人は文王の伯父の子孫)とする説が普通に見られた。
     季歴の死後、姫昌は周国の君主となった。首都を岐山(現在の陝西省宝鶏市岐山県)のふもとから、より開けた豊邑(現在の陝西省西安市のあたり)に移し、国力の充実につとめた。  後世の史書では、理想的な仁政を行ったとされる。

    ★織田信長への影響
     なお、日本の地名「岐阜」は周の岐山にちなむ。織田信長は、自分の教育係でもあった僧侶・沢彦宗恩に新しい地名を考えさせた、結局、姫昌が興起した岐山と、孔子の故郷で儒教の聖地である曲阜から「岐阜」と命名したという(異説もある)。ちなみに信長のスローガン「天下布武」も沢彦宗恩の考案で、姫昌の時代の周をイメージしたとする説がある。

    ★紂王との対立
     姫昌の時代、殷は悪逆非道の紂王と妲己が支配していた。
     姫昌の人望を警戒した紂王は、羑里(ゆうり。現在の河南省安陽市の羑里城遺址?)に姫昌を幽閉した。姫昌は幽閉中、儒教の経典である『周易』を作った。また、紂王は、姫昌の長男であった伯邑考を殺し、その肉のスープを姫昌に飲ませて反応を見た、という話もある(後世の小説『封神演義』でも有名)。後に釈放され、殷の西をおさえる諸侯の1人として西伯の爵位を与えられた。

    ★虞芮(ぐぜい)の訴え
     西伯となった姫昌は、周で仁政をしいた。あるとき、小国の虞と芮の君主のあいだで争いが生じた。 いわゆる「虞芮の訴え」の故事である。両国の君主は、姫昌に調停してもらうため、周を訪問れた。周の領域に足をふみいれると、農民は互いに畦道を譲り合い、 若者は老人に道を譲り、礼と仁が社会の末端までゆきとどいていた。虞と芮の君主は恥ずかしくなり、姫昌に面会せず、そのまま自国に帰った。

    ★太公望
     姫昌は人材の登用にも力を入れた。ある日、狩猟の前に獲物を占うと、動物ではない大物を得る、という結果が出た。 姫昌が猟に出ると、渭水の川べりで釣りをしている老人にあった。老人は名を呂尚(もしくは姜尚)と言い、悪妻に愛想をつかされ逃げられる(「覆水盆に返らず」の故事で有名)ほど困窮していた。姫昌は呂尚と語りあううちに、彼が有能な人物であることを見抜き「彼こそ、わが太公(祖父である古公亶父)が待ち望んでいた人物だ」と喜び、いっしょに馬車に乗せて連れ帰った。
     天下の諸侯は、殷の紂王に見切りをつけ、姫昌によしみを通じた。天下の3分の2が事実上、姫昌の勢力下に入った。それでも姫昌は、殷に服属を続けた。
     姫昌が年老いて病没すると、あとを継いだ息子の姫発(後の武王)は、弟の姫旦(周公旦)や軍師の呂尚らとともに、亡き姫昌の位牌を掲げて挙兵し、悪逆非道の紂王を牧野の戦いで破った。周の初代王となった姫発は、父を追尊して文王とした。

    ★「天下を三分して其の二を有す」
     『論語』泰伯第八の次のくだりは有名である。

     舜有臣五人、而天下治。武王曰「予有亂臣十人」。孔子曰「才難。不其然乎。唐虞之際、於斯爲盛、有婦人焉、九人而已。 三分天下有其二、以服事殷、周之徳、可謂至徳也已矣」
     舜、臣五人有り。而して天下治まる。武王曰く 「予に乱臣十人有り」と。孔子曰く「才難しと。其れ然らずや。唐虞の際。斯に於て盛んなりとす。 婦人有り。九人のみ。天下を三分して其二を有ち、以て殷に服事す。周の徳は其れ至徳を謂ふぺきのみ」と。

     以下、下村湖人の『現代訳論語』の訳を引用する。引用開始。
     舜帝には五人の重臣があって天下が治まった。周の武王は、自分には乱を治める重臣が十人あるといった。それに関連して先師がいわれた。――
    「人材は得がたいという言葉があるが、それは真実だ。唐・虞の時代をのぞいて、それ以後では、周が最も人材に富んだ時代であるが、それでも十人に過ぎず、しかもその十人のうち一人は婦人で、男子の賢臣はわずかに九人にすぎなかった」
     またいわれた。――
    「しかし、わずかの人材でも、その有る無しでは大変なちがいである。周の文王は天下を三分してその二を支配下におさめていられたが、それでも殷に臣事して秩序をやぶられなかった。文王時代の周の徳は至徳というべきであろう」(以上、下村湖人『現代訳論語』より)

     江戸時代の日本の儒者の一部は、京都の朝廷に対して徳川幕府が天下の政治を行っている状態を文王の「天下を三分して其の二を有す」になぞらえ、幕府を賞賛した。
     

    〇その他

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