ジャンル 世界を知る中野校 【対面+オンラインのハイブリッド】古代中国の伝説の王たち 神話から歴史へ引用終了
曜日 火曜日 時間 10:40〜12:10
日程 全5回 ・11月12日 〜 12月10日
(日程詳細) 11/12, 11/19, 11/26, 12/03, 12/10
目標
・私たちが生きている今の時代がこのようになった理由を考える。
・日本史と中国史という枠組みを取り払い、世界的な視野から東アジアを見直す。
・歴史の予備知識がない人にも、身近なことから考える楽しさを体験してもらう。
講義概要
古代史は、近現代のナショナリズムと結びついています。「自分たちの国の歴史はこんなに長いのだ」と自慢するため、政府が学者を動員し学問を悪用することもあります。
俗に「中国五千年の歴史」と言いますが、中華民族の共通祖先とされる五千年前の黄帝や、儒教で聖人とされる四千年前の堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹(う)は、神話・伝説の人物です。 前11世紀ごろの殷(いん)の紂王(ちゅうおう。商王朝の帝辛)と周の文王は実在した君主ですが、史実と違う説話にいろどられています。 本講座では、古代の伝説的な6人の帝王を取り上げ、中国文明形成の謎を、豊富な映像資料を使い、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
黄帝 (こうてい) Huáng dì引用終了
中国,古代伝説中の帝王。姓は公孫,名は軒轅であるといわれる。 諸侯を攻める炎帝を阪泉(河北涿鹿(たくろく)県北西)にやぶり,反乱を起こした蚩尤(しゆう)を涿鹿で殺し,帝位につく。 四方を平定し,天地自然の運行を調和させ,養蚕・衣服・舟運・牛馬車・文字・喪制・音律・医学など,すなわち人類文化を創造したと言われる。 戦国時代の老荘学派の始祖ともされる。 伝説中の帝王であることは言うまでもないが,戦国時代の斉国の青銅器銘文では,黄帝を高祖と呼んでいるから,東方地域の人々の間には,黄帝を始祖とする伝承があったことはあきらかである。 漢代の司馬遷は《史記》の中で,中国の歴史を黄帝から始め,黄帝以下の顓頊(せんぎよく)・帝嚳(ていこく)・尭・舜をはじめ,夏殷周三王朝の始祖をすべて黄帝の子孫と説明している。 黄帝を黄河流域の古代文明の始祖と考えていたことがわかる。 この影響は現在まで残り,中国の歴史紀年を黄帝から始め,黄帝紀元何年と呼ぶことがなお行われている。
執筆者:伊藤 道治
この「翁の文」といふのは、どういふ本で、どういふ事を書いてあるかと申しますると、これは「出定後語」より四五年前に書いたものでありますから、恐らく富永の二十代の著述かと思ひます。 二十代で非常な頭をもつてゐたものと思はれます。この中に書いてあることは「説蔽」に書いてあると同じで、支那の學問研究の原則を與へたものであります。 それは大體斯ういふ風に考へました。孔子の生れた當時、その當時は五覇の盛んな時である。齊の桓公、晉の文公といふのは當時の覇者であります。 その覇者の盛んな時であつて、孔子はその時一般の人々が覇を尊んで居つたので、その上に加上して、文武といふことを言つて居ります、 周の文王・武王といふことを言ひ出した。 孔子の後に墨子が起つて、墨子は文武の上に更に堯舜のことを言ひ出した。その上に今度は楊朱が黄帝を言ひ出した。 それから孟子に書いてある許行がその上に神農のことを言ひ出した。これが支那に於ける加上説である。 思想の上からすれば、孟子に書いてある告子が、性には善惡なしといふ説を唱へたのである。孟子は性善説を唱へた、 荀子は性惡説を唱へた、斯ういふ風なのは加上説であるといふ。然るにこれは加上によつて出來たといふことを知らずに、日本の伊藤仁齋は孟子の説が正しいとし、 徂徠などは孔子の道はすぐに先王の道にて、子思・孟子などは之に戻れりといふが、その説の起る由來を辨ぜずして末節に拘泥し是非の論をなすもので、 説の起る由來を考へると、段々思想上の加上から來るのであつて、目的は皆同じである。皆新しい説新しい説を言ひ出すから、さういふことに拘つて來るのであると、 斯ういふ風に考へました。今日「説蔽」といふ本はありませぬが、之によつて「説蔽」の大體は分るのであります。引用終了
信古派は、漢文古典を含む伝世文献は、歴史的事実であるとする。芥川龍之介の随筆『歯車』の「僕」は疑古派、「名高い漢学者」は信古派ないし釈古派であった。「その他」を参照。
疑古派は、伝世文献は後世の人々が自分の都合のため改変したり捏造したもので、歴史的事実ではないとする。
釈古派は、広義の信古派の一部であるが、伝世文献の中には歴史的事実があり、 適切な分析と解釈によって歴史的事実を文献の中から掘り起こせるとする。
帝尭陶唐氏は、姓は伊祁である。名は放という説もある。帝嚳の息子である。 その仁の心は天のようで、その知力は神のようだった。彼の近くにつきしたがえば輝く太陽のように思え、遠くから見ると高い恵の雲のように見えた。 尭は、都を平陽(現在の山西省臨汾市堯都区の「堯廟」あたりか)に置いた。宮殿は「茅茨不翦(ぼうしふせん)、土階三等」 という質素なものだった(かやぶき屋根で、軒先も切りそろえておらず、土台の高さはわずか三段ぶんだけであった)。 宮殿の庭に雑草が生えた。毎月の十五日までは、毎日葉が一枚づつ生えた。 毎月の後半は逆に一枚づつ葉が落ちた。 ただし三十日未満の月は(旧暦は、大の月は三十日、小の月は二十九日)葉が一枚だけ残って落ちなかった。 この草を「蓂莢」(めいきょう)と名付け、葉を観察して上旬・中旬・下旬の推移や、朔日を知った。 尭が天下を統治して五十年たった。 冶まっているのかいないのか、 億兆(十万、百万)の民が自分を推戴することを願っているのか願っていないのか、 彼にはわからなかった。 左右の側近に聞いてもわからない。 朝廷の臣下に聞いてもわからない。 在野の識者に聞いてもわからない。 そこで、尭はおしのびで外出し、康衢(こうく。道路が四方八方に通じている、町中)を歩きまわった。 子供が歌っていた。 立我烝民、莫匪爾極。不識不知、順帝之則。 (我が烝民を立つる、爾の極に匪ざる莫し。識らず知らず、帝の則に順う) ――私たち人民の生活が成り立つのは、みな、あのかたの究極の徳政のおかげ。みんなは知らないうちに、天子さまのお触れにしたがっている。 【堯は、プロパガンダのにおいを嗅ぎ取り、安心できなかった】 老人がいた。口に食べ物を含んで自分の腹つづみをうち、地面を叩きながら歌った。 日出而作、日入而息。鑿井而飲、畊田而食。帝力何有於我哉。 (日出で作(な)し、日入りて息う。井を鑿うがちて飲み、田を畊(たがや)して食らう。帝力、何ぞ我に有らんや) 日が出てりゃ働く。暮れれば休む。井戸堀り水飲む、耕し食べる。天子の力なんて関係ないね。 【堯は、民衆が真に自由であることを知り、ようやく安心した】 尭は華山に行幸した。山の関所の番人が言った。 「おお、聖人に祝福の言葉を捧げます。あなた様が長生きしますよう。豊かになって多くの男子に恵まれますよう」 尭は言った。「やめてくれ。男子が多いと心配事が増える。豊かになれば面倒が増える。 長生きすれば恥辱を受けることが増える(寿則多辱。いのちながければ、すなわち、はじ、おおし)」 番人は反論した。 「天は万人をこの世に生むと、必ず職を授けます。 男の子が多くても、仕事を与えれば、何の心配事もありませんよ。 豊かになったら、富を人々に分配すれば、何の面倒も起きませんよ。 天下に道がある世なら、万物と共に繁栄を謳歌すればよろしいでしょう。 天下に道がない世なら、徳を修めて暇を楽しみ、千年のあいだ世間と距離を置き、 昇天して白い雲に乗り神様のいる天国に行けば、恥辱を受ける心配はありませんよ」 |
帝舜有虞氏は姚姓である。名は重華という、という説もある。瞽瞍(瞽叟。こそう)の息子で、
顓頊の六世の孫である。 舜の父は、後妻の色香に惑溺(わくでき)し、後妻との間にできた象(しょう)という子を溺愛し、 いつも舜を殺そうとつけ狙った。が、舜は孝悌(こうてい)の道を尽くし、人格を修養して姦淫に至らなかった。 【説話では、舜は後妻から姦淫を迫られたが拒否し、焼き殺されそうになったとき屋根から原始的なパラシュートで 降りて脱出したり、と様々な苦労をしている。舜は実家を離れ、流浪の生活を送った。】 舜が歴山で農耕生活を送ると、近くの人々は感化され畦を譲り合うようになった。 舜が雷沢で漁師になると、人々は感化さ漁場を譲るようになった。 舜が河岸で焼き物を焼くと、器はゆがまずきれいに焼き上がった。 舜が住むと自然に人が集まって村ができ、二年で町になり、三年で都会になった。 時の天子であった堯は、舜が聡明であることを聞いて、彼を民間から抜擢したいと考えた。 堯は、自分の2人の娘、娥黄と女英を舜の嫁にしようとして、嫁入り道具を調えて嬀汭(ぎぜい。山西省の地名)に行かせた。 こうして舜は、堯の大臣となり、政務を行った。いわゆる「四罪」(舜四凶)【共工(きょうこう)、驩兜(かんとう)、鯀(こん)、三苗(さんびょう)の4人の悪神、ないし神話的人物】 を退けた。具体的には、驩兜を放逐し、共工を流刑にし、鯀を死刑にし、三苗を山奥へ追いやった。 その一方、才子である「八元八ト」の16人を登用し、九官を任命し、十二牧(12人の地方長官)と国政を協議した。 才能のある善良な者を十六人登用し、国政を分担する官僚を任命し、地方を統治する十二人の総督と相談した。こうして、四海の内(天下、の意)はみな舜の功績のおかげをこうむった。 舜は「五絃之琴」を弾き、「南風之詩」を歌い、天下はうまく治まった。詩に曰く。 南風之棘a、可以觧吾民之慍兮、南風之時兮、可以阜吾民之戝兮。 (南風の薫ずる、以て吾が民の慍(いかり)を解くべし。南風の時なる、以て吾が民の財を阜(ゆたか)にすべし) ――南の風がかぐわしく吹く。わが民の心はやさしくなれる。南の風が吹くべきときに吹く。わが民の財産は豊かになれる。 時景星出、卿雲興。百工相和而歌曰、卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。 (南風之薫れる、以て吾が民之慍りを解く可し、南風之時なる、以て吾が民之財を阜つむ可しと。 その時、空にめでたい星が輝き、めでたい雲がわいた。百官は唱和した。 卿雲爛兮、糺縵縵兮、日月光華、旦復旦兮。 (卿雲爛たり。糺(キュウ)縵縵(マンマン)たり。日月(ジツゲツ)光華あり、旦、復た旦) ――めでたい雲が輝いて、よじれて、ゆるゆる長く伸びる。太陽と月は光輝き、朝の次はまた朝。 舜の子の商均は、不肖の馬鹿息子だった。そこで舜は、禹を天に推薦した。引退した舜は南に巡狩(じゅんしゅ)し、蒼梧(そうご。湖南省永州市寧遠九疑山)の野で亡くなった。 |
神武帝御政道の通りェ仁大度の取扱ひ致し年來驕奢淫逸の風俗も一洗に相改め質素に立戻り 四海天恩を難有存し候て父母妻子を取養ひ生前の地獄を救ひ死後の極樂成佛を眼前に爲見遣し 堯舜 天照皇太神の時代にハ復し難けれ共中興の氣象に恢復とて立戻可申候引用終了
神武天皇のご政道に戻し、情け深く、度量の広い政治を行い、従来からの悪弊である、驕り高ぶり放埒な風俗を根底から払拭し、質素な生活に戻し、 すべての人々が、いつも天の恩に感謝し、父母妻子を養い、いまの生き地獄から救われ、死後、極楽浄土に行けることを自覚できる世の中にしよう。 中国の尭舜時代や、日本の天照大神の時代にまで戻すことは難しいだろう。 しかし、せめて建武の中興時代にまで立ち戻りたい。
堯曰「咨爾舜。天之暦數在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終」。舜亦以命禹。(以下略)
堯いわく「ああ、なんじ舜。天の暦数、なんじのみにあり。まことにその中(ちゅう)を執れ。四海、困窮せば、天禄、永く終わらん」と。 舜もまたもって禹に命ず。
(要約)堯の時代。歴山の農民は畑の境界を争い、 黄河の漁師は釣場を奪いあい、 東夷の陶工は粗悪な土器を作った。それぞれの地に 舜が一年住むと、舜の仁徳に教化されて、それぞれの人民は立派になったという。また『韓非子』五蠹(ごと)にいう。
孔子は、舜は聖人だ、と感嘆した。
が、これは矛盾である。
もし堯が本当に完璧な聖天子なら、天下に不正や乱れはなかったはずだ。 舜が乱れを改めたというなら、堯は聖人ではなかったことになる。 堯と舜が同時に聖人であることは、「矛盾」の話と同じで、論理的に成り立たないのである。
また、舜は1年に1箇所ずつ、つまり3年でたった3箇所を教化できたにすぎない。効率が悪すぎる。
もし、私が主張しているとおり、信賞必罰の法令を天下の人民に施行すれば、すぐに天下は治まるだろう。
(要約)昔、堯が王であった時代、王宮は質素だった。 屋根は「茅茨不剪」、たる木は丸太のままのクヌギ。堯の食べ物は粥とアカザや豆の葉のスープ。 衣服は、冬は鹿の皮、夏は葛(かずら)。現代の門番だってもっとましな暮らしをしている。
禹が王となった時には、スキやクワをみずから持って率先して肉体労働にいそしみ、ふくらはぎの肉がなくなり、すねの毛がすり切れてなくなったという。 現代の奴隷だってこれよりは楽である。
つまり、堯や舜が天子の位をあっさりと譲ったのは、門番の暮らしや奴隷の労働から自由になることと同義だった。 ゆえに、天下を譲る、なんて、当時はぜんぜん美談ではなかったのだ。
今から五十年ほどまえ、わたしが第一高等学校に入学したばかりのこと、一年生の東洋史の箭内亙先生が、東洋史のはじ めに、堯・舜などという帝王たちは実在の人物ではなくて後世のつくり話だと講義 された。そのとき、クラスのなかにいた中国の留学生が突然たちあがり、血相かえ て「先生!堯舜アリマス」といって抗議したという事件があった。堯と禹と舜で 「天・地・人」の思想を擬人化したものだといわれ、 それが少壮学者に支持されたわけです。しかし、この学説は当時の漢学者からみま すと、「まことにけしからん」というわけである。漢学者先生たちが堯・舜を抹殺 されてはといって論議されたのは、ちょうど中国の留学生が「先生!堯舜アリマ ス」といったのと、ほぼ同じ心境で、今から思うとほほえましい。
が、僕の心もちは明るい電燈の光の下にだんだん憂欝になるばかりだつた。 僕はこの心もちを遁れる為に隣にゐた客に話しかけた。彼は丁度獅子のやうに白い頬髯ほほひげを伸ばした老人だつた。 のみならず僕も名を知つてゐた或名高い漢学者だつた。従つて又僕等の話はいつか古典の上へ落ちて行つた。
「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフエニツクスと云ふ鳥の、……」
この名高い漢学者はかう云ふ僕の話にも興味を感じてゐるらしかつた。僕は機械的にしやべつてゐるうちにだんだん 病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずつと後の漢代の人だつたことを話し出した。 するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るやうに僕の話を截り離した。
「もし堯舜もゐなかつたとすれば、孔子は譃をつかれたことになる。聖人の譃をつかれる筈はない。」
僕は勿論黙つてしまつた。
う【禹】 中国古代の伝説上の聖王。夏王朝の始祖。姓、姒(じ)。別名、文命。 治水に功を立て、舜から帝位を譲られ天下を治めた。 その死後、子の啓が諸侯から推されて天子となったのが、中国における世襲王朝の始まりとされる。夏禹。大禹。引用終了
[補注]古来、実在の人物とされているが、おそらく亀の類の動物説話から発生したものと考えられる。
禹 う引用終了
中国、夏(か)王朝の始祖とされる人物。 中国に大洪水が起こったとき、鯀(こん)の失敗の後を受けて、その子の禹が治水に成功し、その功によって帝舜(しゅん)から天子の位を譲られた、と『史記』夏本紀などは伝える。 『尚書(しょうしょ)』(書経)禹貢篇(うこうへん)には、禹が中国全土を9州に分け、それぞれの土地に適した貢納品を定めたという記事があるが、これは後世戦国時代ごろの状況を禹の時代に仮託したものであろう。 堯(ぎょう)から舜へ、舜から禹へと天子の位が禅譲(ぜんじょう)されたという説話も、このころできあがったらしい。 戦国初期の墨子(ぼくし)は、家族を顧みず治水に奔走した禹の勤勉さや質素な生活態度に、深い敬意を払っており、現在でも中国各地に禹の治水伝説にまつわる場所が存在している。
[小倉芳彦]
伊豆の水を駿河へ送る千貫樋の堤は、年々損ずる事があった。 そこで、田中丘隅がこの堤を修復し、堤の上に水を治める聖人である禹王の廟を建て、年に2度祭をさせた。 祭では、近郷近在の老若男女に小石を取らせ、堤の上で踊らせた。 すると、堤は大きく堅固になり、崩れることがなくなったという。引用終了
富士川町などは10月7、8の両日、古代中国の皇帝で治水の神様として祭られる「禹王(うおう)」に関して意見交換する「第6回禹王サミットin富士川」を、同町のますほ文化ホールで開きます。全国各地から治水の有識者らが集まり、禹王にまつわる歴史や水害対策について話し合います。「禹」の名が付く富士川町の「禹之瀬」で、富士川の川幅を広げる大規模改修工事に着手してから今年で30年の節目にあたることから、町内で開催することになりました。引用終了
禹王は中国最古といわれる「夏王朝」の初代皇帝です。黄河の治水工事を成し遂げたとされることから、治水の神様として祭られています。
甲骨文字 こうこつもじ
中国、殷(いん)代で、占卜(せんぼく)に用いた亀甲(きっこう)・獣骨上に小刀をもって刻みつけられた文字。 今日知られる最古の漢字である。 殷の都址(とし)であった河南(かなん/ホーナン)省安陽(あんよう/アンヤン)県小屯(しょうとん)村を中心に出土し、出土総数10万片を超える。 殷王第21代武丁(ぶてい)より第30代末王帝辛(しん)(紂(ちゅう))までのもので、ほぼ紀元前1400年〜前1150年の間の産物である。 亀甲獣骨文字、殷墟(いんきょ)文字、卜辞(ぼくじ)、殷墟書契(しょけい)、契文と称されることもある。 文字数は約2200字、うち1000余字が未解読であるが、このうちには固有名詞などこれ以後消滅した文字が多いため、文章としては大意の明らかなものが多い。 宋(そう)代以来、殷周青銅器銘文(金文)の研究蓄積を踏まえて、1899年の発見後、急速に解読され、殷代文化の解明のためにきわめて大きな役割を果たした。 なお、別に1977年以降、陝西(せんせい/シャンシー)省岐山県近くの周原において、殷代末期に周族によって占卜された有字甲骨が発見されるに至り、学界の注目をひいている。
[松丸道雄]
『白川静著『殷甲骨文集』(1963・二玄社)』▽『郭沫若主編『甲骨文合集』(1978〜83・中華書局)』
殷 いん
前1600ごろ〜前1028ごろ
実在した中国最古の王朝。みずからは商と称す
『史記』の伝説によると,殷の湯王が夏を討って王朝を開き,悪政で名高い紂 (ちゆう) 王が周の武王に滅ぼされるまで30代続いた。 初め都は数度変遷したらしいが,後半,安陽県の殷墟 (いんきよ) (大邑商)に落ちついた。 殷墟の発掘による遺跡・遺物および甲骨 (こうこつ) 文字の解読によって,王位相続の方法,宗教的色彩の強い社会,占いによる国事の決定(祭政一致), 氏族制,木器・石器・土器とともに青銅器を使用した農業,牧畜・養蚕の生活などがわかった。 また王の系統,王権の強大さと奴隷の存在などもほぼ確認されたが,文化の系統などには未解明の点が多い。
紂王 ちゅうおう
生没年不詳。中国古代、殷(いん)王朝末代(第30代)の王。 帝辛(しん)がその名で、『史記』には「天下にこれを紂と謂(い)う」とあるから、紂とは他称であろう。 夏(か)代末王の桀(けつ)とともに、桀紂として悪徳の王の典例とされるが、各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明である。 伝えるところでは、知力ともに優れていたが、酒、淫楽(いんがく)、婦人におぼれ、妲己(だっき)を愛してこの言に従った。 酒池肉林、炮烙(ほうらく)の刑は、紂の行った悪事の象徴的なことばとされる。 甲骨文の記すところによれば、紂のとき、東方(山東方面)に長期の遠征に赴いたおり、その虚をつかれて、西方で勢力を蓄えた周に滅ぼされたとする説もある。 周の武王の大軍に敗れ、朝歌の鹿台(ろくだい)で、火中に身を投じて死んだ、とされる。 没年については、紀元前1122年説、前1028年説のほか異説が多く不明であるが、ほぼ前11世紀後半(前1070〜60年前後)のことであったろう。
文王 (ぶんおう) Wén wáng
中国,西周王朝の創始者。生没年不詳。名は姫昌(きしよう)。 陝西盆地の周族は文王の時代,なお殷王朝の支配下にあったが,太顚(たいてん),閎夭(こうよう),散宜生(さんぎせい)らの賢臣の補佐もあって実力を蓄え, 文王は中国西部の支配をまかされて西伯と呼ばれた。 しかし周族の勢力の伸長は殷の紂王(ちゆうおう)の警戒心を呼びおこし,文王は羑里(ゆうり)にとらわれることになる。 この捕囚の間に文王は《易》の六十四卦を整備したという。釈放のあとも文王は徳治によって近隣の諸国を懐(なつ)け,また都を豊(西安市西部)に移した。 その子の武王はこうした基礎の上に殷王朝打倒の兵を挙げ,西周王朝を開くことになる。 西周時期の金文資料でもすでに文王と武王とは一対をなす王朝の創始者とされており,文王が天帝より中国を支配すべき天命を受けたのに対し, 武王は実際の軍事行動によって天下の支配を確立したのであるとされる。 文王は死後,天帝のもとで神になっているとされるが,そうした文王の宗教的な様相は《詩経》大雅の諸篇に詳しい。 後世にも,周文化の基礎を定めた聖人・聖王として〈文武〉と併称される。
執筆者:小南 一郎
呂尚 りょしょう
生没年不詳。中国、殷(いん)末周(しゅう)初の武将、政治家。 『史記』斉太公世家(せいたいこうせいか)によると、伯夷(はくい)の末裔(まつえい)で、山東省の海岸地方の出身であるが、落ちぶれて渭水(いすい)のほとりで釣りをしていたとき、周の文(ぶん)王(西伯昌(せいはくしょう))に出会い、 先君太公(たいこう)が待ち望んだ賢者であることがみいだされ、太公望と号して軍師に迎えられた、としている。しかしこの説話は呂尚についての多くの伝説の一つにすぎず、真偽は不明である。 周が殷を滅ぼすとき、周軍の指揮者として、自らの部族の軍を率いて活躍した。その功により斉侯に封ぜられ、春秋戦国時代の斉国の創始者となった。 斉の地は現在の山東省であり、多くの異民族が居住していたが、それらをよく周王朝の下に同化して、周王朝の東方を安定させた。 また農業以外に、地の利を生かして漁業、製塩業のような産業をおこし、またそれらの生産物を販売する商業を活発化させて、のちの斉国の繁栄の経済的基礎を築き上げるのに大きな功績を残した。
[太田幸男]
武王[周] ぶおう[しゅう] Wu-wang
中国,周王朝初代の王。ほぼ前 11世紀の人。名は発。文王の長子で,即位後,西方の蛮族を合せて東進をはかり,文王を継いで 11年にして殷を牧野の戦いで破って,周を開いた。首都を陝西省西安付近の鎬京に定め,一族の子弟を中心に,各地に諸侯を封じ,いわゆる周の封建制を始めたといわれる。後世,開国の英主とされた。