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中国史と鳥

最新の更新2025年4月4日   最初の公開2025年4月4日

  1. 講座概要
  2. 総論
  3. 鳳凰
  4. ホトトギス
  5. 鳥に関係する故事成語

https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-mNSy7LDECFHAsIj1Flr-B-


講座概要
以下、
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7811479より引用。引用開始
2025年4月5日土曜日 10:30〜12:00
教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
中国史と鳥 シリーズ「花鳥風月」 加藤 徹/明治大学教授
中国では古くから、鳥の意匠は、政治や宗教、社会的ステイタスの象徴としても使われてきました。
龍とセットとなる鳳凰
神仙思想と結びついた、仏教の妙音鳥
習性を神秘化され説話にいろどられたホトトギスカラス、等々。
文芸界の鳥は神秘的で奥深いイメージですが、民間の俗語では「鳥」は男性器と結びついた罵語でした。
鳥から見る中国史と中国人について、豊富な画像を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)


総論
 鳥は古来、世界各地で「鳥形霊」的なイメージで語られてきました。人間が住む地上と、神霊が住まう天上を結ぶ神秘的な存在が、鳥でした。
 中国における鳥の意匠(デザイン)も、古代から現代に至るまで多様な意味を持ってきました。 各時代の鳥の意匠は、王権や宗教、道徳、自然観と深く結びついています。


鳳凰
西洋のフェニックス(不死鳥、火の鳥)とよく対比される中国の想像上の鳥。
鳳凰は、中国最古の詩集『詩経』(紀元前11世紀?紀元前6世紀)や、『山海経』『楚辞』など漢文古典にも登場し、龍と並ぶ吉祥の象徴とされた。
漢代以降、鳳凰と龍はそれぞれ皇后と皇帝の象徴となった。
道教では、鳳凰は仙界に住む聖なる鳥とされ、不死や神仙と関連付けられた。
仏教が中国に伝来すると、鳳凰はインドの迦楼羅(ガルーダ)と習合し、仏法守護の神鳥となった。
cf.日本の宇治平等院鳳凰堂
 龍は、複数の動物の部位を合成している。鳳凰は、実在してもおかしくない鳥である。 そこから、龍は融合、鳳凰は淘汰の象徴と解釈する説もある(聞一多、陳舜臣ら)。


『山海経』や『楚辞』以来、中国古典では、鶴は不老不死の仙界と関わる神聖な鳥として記されている。
春秋時代の衛の懿公(いこう 在位紀元前668年 - 前660年)は鶴を好み、鶴を大夫の車に乗せたり鶴に禄位を与えたため、臣民の信望を失い、ために「弘演納肝」(こうえんのうかん)の悲惨な死に方をした。
漢代の墓室壁画や漆器には、仙人と鶴が共に描かれることが多い。
鶴は道教だけでなく、「一琴一鶴」(いっきんいっかく)の故事のように、儒教的な清廉さとも結びついた。
常緑樹で不老不死の象徴である松と、鶴が結びついた「松鶴図」が吉祥図としてもてはやされるのは、明代以降である。
有名な漢詩「黄鶴楼」
 黄鶴楼 崔
昔人已乗黄鶴去 此地空餘黄鶴楼
黄鶴一去不復返 白雲千載空悠悠
晴川歴歴漢陽樹 芳草萋萋鸚鵡洲
日暮郷関何處是 煙波江上使人愁

 黄鶴楼(こうかくろう) 崔(さいこう)
昔人(せきじん) 已(すで)に黄鶴(こうかく)に乗りて去り
此(こ)の地 空(むな)しく余(あま)す 黄鶴楼(こうかくろう)
黄鶴(こうかく) 一(ひと)たび去(さ)りて復(ま)た返(かえ)らず
白雲(はくうん) 千載(せんざい) 空(むな)しく悠悠(ゆうゆう)
晴川 歴歴れきれき)たり 漢陽(かんよう)の樹(じゅ)
芳草 萋萋(ほうそうせいせい)たり 鸚鵡洲(おうむしゅう)
日暮(じつぼ) 郷関(きょうかん) 何(いず)れの処(ところ)か是(ぜ)なる
煙波(えんぱ) 江上(こうじょう) 人(ひと)をして愁(うれ)えしむ

 昔の人はすでに黄鶴に乗って飛び去り、この地にはただ黄鶴楼が残るのみ。 黄鶴は一度去ったあと、二度と戻らぬ。 白雲は千年、むなしく湧き上がる。
 晴れた川面にはっきりと映るのは漢陽の木々。 青々とした草が生い茂っているのは鸚鵡洲。 日が暮れる。私の故郷はどこにあるのか。 霞む波、長江のほとりで、旅愁にしずんでいる。


ホトトギス
漢字表記は多様で、杜鵑(とけん)、杜宇(とう)、子規(しき)、不如帰(ふじょき/ふじょき) 、時鳥(ほととぎす) 、蜀魂(しょくこん) などがある。正岡子規や夏目漱石を含め、日本の文人も「血に鳴くホトトギス」にまつわる中国の故事を愛好した。
ホトトギスにまつわる迷信や民間伝承については、加藤徹『怪の漢文力』中公文庫を参照。
cf.夏目漱石の俳句「時鳥厠半ばに出かねたり」
 漱石は明治40年頃に西園寺公望の雅園に招待された際、この句を送り出席を辞退した。 この句は漢文古典『酉陽雑俎』(ゆうようざっそ)のホトトギスにまつわる迷信をふまえる。
 以下、北宋の百科全書『太平広記』禽鳥四「杜鵑」の項目の説明。
杜鵑,始陽相推而鳴,先鳴者吐血死。嘗有人出行,見一群寂然,聊學其聲,即死。初鳴,先聽者主離別。廁上聽其聲,不祥。厭之之法,當為犬聲應之。出《酉陽雜俎》
 杜鵑(ホトトギス)は、互いに鳴くことを譲り合う。最初に鳴いた個体は血を吐いて死ぬ。かつて、ある人が旅の途中で、一群のホトトギスが沈黙しているのを見かけた。ホトトギスの鳴きまねをしてみると、自分が即死した。
ホトトギスが初めて鳴く声を最初に聞く者は、離別の運命にある。
便所でホトトギスの鳴き声を聞くのは不吉である。災いを避ける方法としては、犬の鳴き声で応じるのがよい。出典は『酉陽雑俎』。

 以下、
asahi-20220910.htmlより自己引用。
前2千年紀後半? 古蜀の第4代君主であった杜宇が帝を称す。
 杜宇は生没年不明の伝説的な帝王で、ホトトギスの伝説で知られる。
 ホトトギスの漢字表記、杜鵑、杜宇、蜀魂、不如帰、時鳥、子規、田鵑のうち、最初の5つは古蜀国の帝王だった杜宇の霊魂がホトトギスとなったという「鳥形霊説話」に基づく。
『華陽国志』「後有王曰杜宇、教民務農。一号杜主。時朱提有梁氏女利、游江源。宇ス之、納以為妃。移治郫邑。或治瞿上。七国称王、杜宇称帝。号曰望帝、更名蒲卑。自以功徳高諸王。乃以褒斜為前門、熊耳、霊関為後戸、玉塁、峨眉為城郭、江、潜、綿、洛為池沢;以汶山為畜牧、南中為園苑。会有水災、其相開明、決玉塁山以除水害。帝遂委以政事、法堯舜禅授之義、禅位於開明。帝升西山隠焉。時適二月、子鵑鳥鳴。故蜀人悲子鵑鳥鳴也。巴亦化其教而力農務。迄今巴蜀民農、時先祀杜主君。」
 蚕叢ののち、杜宇という王があらわれ、人民に農業を教えた。彼は「杜主」とも号した。
 朱提の地の梁氏の「利」という女性が、江源へやってきた。杜宇は彼女をみそめて妃とし、政治の中心を郫邑(ひゆう)という町に移し、瞿上の地でも統治を行った。
 当時、戦国時代の七大国の君主は王号を名乗っていたが、杜宇は帝号を名乗り「望帝」と号し、「蒲卑」と改名した。王より格上の帝を名乗った理由は、自分の功績と人徳は他国の王たちより高いと自負していたからである。
 古蜀国の国土は、褒谷と斜谷を国の正面玄関とし、熊耳と霊関を国のお勝手口とした。玉塁山と峨眉山を城郭とし、岷江(びんこう)を含む河川を池沢とし、汶山を牧畜の地とし、南中を御料地とした。たまたま水害があったが、大臣の開明という者が玉塁山を切り開いて水害をおさめた。望帝こと杜宇は政務を開明に任せることとし、いにしえの堯舜が黄河の治水で功績をあげた禹に禅譲した先例にちなみ、古蜀国の帝位を開明にゆずった。
 望帝が天に昇った(逝去した)あと、その霊魂は西山にお隠れになった。毎年、仲春二月になると、ホトトギスが、まるで農業の季節の開始を告げるように鳴く。蜀の人々は、ホトトギスは杜宇の霊魂の生まれ変わりだ、彼は亡くなったあとも人民を心配し農業の開始を教えてくれているのだ、と信じ、感動した。蜀に隣接する巴国の地域も、杜宇の教えを受け入れて農業振興につとめた。こういうわけで現在にいたるまで、巴蜀地方の人々は毎年、種まきの前に杜主君を祭るのである。 ※中国史上、最初に「皇帝」を名乗ったのは秦の始皇帝である。始皇帝より前にも「帝」を自称した君主は散見される。「帝」は本来、殷王朝時代の最高神を指す神がかった言葉であった。参考「中国の皇帝と天皇・上皇
※杜宇は自発的に禅譲したのではなく、無念の死をとげて、その霊魂はホトトギスになり今も「不如帰」(帰るにしかず)と鳴いているのだ、という異説もある。
引用終了


渡り鳥として、神秘的なイメージ。
福沢諭吉「人の説を咎(とが)む可らざるの論」(明治7年、福沢諭吉全集第19巻)に、
「学者は国の奴雁なり。奴雁とは群雁野に在て餌を啄むとき、其内に必ず一羽は首を揚げて四方の様子を窺ひ、不意の難に番をする者あり、之を奴雁と云ふ。学者も亦斯の如し」。
正しくは「雁奴」(がんど)。
『太平広記』禽鳥三「南人捕鴈」に「鴈宿於江湖之岸、沙渚之中、動計千百、大者居其中、令鴈奴圍而警察。(中略) 出『玉堂陂b』」云々とある。
雁が川や湖のほとりで夜営するとき、何百、何千という群れになる。大きな雁が中にいて、「雁奴」に周囲を警備させる、という言い伝えがあった。



鳥に関係する故事成語
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