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中国女性史 逆ハーレムの中国史

最新の更新2024年10月5日   最初の公開2024年10月5日

以下、https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=7295326より引用。
男尊女卑の中国史でも、堂々と「男寵」を囲った女性が存在しました。 前漢の武帝の伯母で六十歳代で十代の美少年を寵愛した館陶公主。 西晋の皇后で千姫「吉田御殿」伝説のモデルとなった賈南風。 南朝・宋の少年皇帝の姉で、数十人の美男子の逆ハーレムを構えた劉楚玉。 南朝・斉の皇后で夫の男寵との三角関係を楽しんだ何婧英(か・せいえい)。 宦官や僧侶と密通した北斉の胡太后。 夫の死後、男性を次々と囲った唐の武則天。 あだ花であることを宿命づけられていた中国の逆ハーレムの歴史を、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
  1. キーワード・ポイント
  2. 館陶公主 かんとうこうしゅ
  3. 賈南風 か・なんぷう
  4. 劉楚玉 りゅう・そぎょく
  5. 何婧英 か・せいえい
  6. 胡皇后(北斉) ここうごう(ほくせい)
  7. 武則天 ぶそくてん
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l5Ikv1Yr7V5FHNm0-Y6Std

キーワード、ポイント
中国の「逆ハーレム」は、3世紀ごろから7世紀ごろまで、断片的にあらわれた。その原因は「貴族社会」と「儒教の影響力の低下」である。

館陶公主 生没年不詳、前2世紀
「若い燕」の異称のひとつ「主人翁」(ご主人さま)の由来。

 氏名は「劉嫖」。
 父親は前漢の文帝、母親は竇皇后。最初の夫は陳午。子女は陳須。
 景帝は同母弟、武帝は甥に当たる。
 劉嫖は文帝の長公主(皇帝の長女)だった。
 前漢の歴代の皇帝は、姉妹である公主から、息抜きのための女遊びや子作りのための女性を紹介されることが多かった。館陶長公主と景帝、平陽公主と武帝、陽阿公主と成帝の関係がそうだった。
 館陶長公主は、弟の景帝のため美女を次々に紹介し、後宮に入れた。
 景帝には栗姫という寵姫がいた。栗姫が生んだ劉栄が皇太子になると、館陶長公主は自分が生んだ娘・陳氏を皇太子妃にしないか、と栗姫に持ちかけた。栗姫は断った。館陶長公主は怒った。
 景帝は側室の王氏も寵愛し、男子をもうけていた。館陶長公主は王氏に接近し、自分が生んだ陳氏と、王氏が生んだ景帝の十男でまだ四歳だった劉徹(のちの武帝)を婚約させた。
 これについて『漢武故事』に載せる「金屋蔵嬌」(きんおくぞうきょう)の故事が有名である。
 館陶長公主は、幼い劉徹をひざの上に載せて聞いた。
「女の子が欲しい?」「うん、欲しい」「じゃ、どの子がいい?」。伯母は左右にひかえる後宮の宮女百人あまりを次々と指さした。劉徹は「いらない」と答えた。最後に伯母は、自分の娘で劉徹のいとこである幼女を指した。
「阿嬌(嬌ちゃん)は? すてき?」「……うふふ、ステキ。もしキョウちゃんをボクの奥さんにできたら、りっぱなたてものを作って大事にする (もし阿嬌を得て婦となさば、まさに金屋を作りてこれを貯わえんかな)」。
 伯母である館陶長公主はとても喜び、縁組みを成立させた、という。
 館陶長公主の幼女と婚約した劉徹は、本人の意思に関係なく、七歳で皇太子に立てられた。
 景帝が死ぬと、十六歳になった劉徹が皇帝となった。
 劉嫖の夫は、文帝の女婿で堂邑侯に封ぜられた陳午で、前一三〇年に亡くなった。
 劉嫖は夫と死別したとき、すでに六十代だった(『漢書』東方朔伝では「年五十余」すなわち五十歳代とするが、劉嫖は前一八八年生まれの景帝の姉なので、六十歳代が正しい)。彼女は、孫ほども年が離れた董偃という美少年を、公然と愛人とした。
 董偃は十三歳のときから、宝石売りの母親とともに劉嫖の屋敷に出入りしていた。劉嫖は左右の者が「美少年ですよ」と言うので会い「わたしが母親になって育ててあげる」と言って、「愛人飼育」的に引き取った。
 劉嫖は董偃教育を受けさせ、成人すると、外出時は御者、屋敷では奥勤めをさせた。都の貴顕は董偃を尊んで「董君」と呼び、武帝は婉曲に「主人翁」(ご主人さま)と呼んだ。
 後世の中国では「主人翁」は情夫の異称の一つになった。
 劉嫖は董偃がセレブと社交するため金銭を湯水のように使わせ、自分の屋敷の会計係に「董君が使うお金が、一日あたり黄金百斤、銭百万、絹千匹までなら、私に報告する必要はない」と言った。 前漢の一斤は二五六グラム(諸説ある)。現代の金価格で言うと、一日二億円までなら領収書も報告書も不要、という感覚である。
 董偃は三十歳で死去し、数年後に劉嫖も死去。彼女は遺言で、董偃を自分といっしょに覇陵(漢の帝陵の一つ)の地に合葬させた。


賈南風 257-300
「三国志」後の西晋の第2代・恵帝の皇后。千姫乱行伝説のモデル。後世の誇張の可能性も。

 父親は魏(「三国志」の魏)の司馬昭(司馬懿の息子)に仕えた賈充、母親は郭槐。
 二六〇年、賈充は魏の皇帝・曹髦の殺害で功績を挙げた。翌年、賈南風の同母妹・賈午が生まれた。
 西晋の建国後、賈充は功臣として権力をふるった。『晋書』后妃伝上によると、武帝(司馬炎。「盛り塩」の起源説話でも有名)は、賈充の家系の女子は「嫉妬深い、男の子(を生んだ実例)が少ない、醜い、背が低い、色黒」の五つの欠点があると難色を示しつつも、周囲の説得で272年に賈南風を太子妃に冊立した。
 同母妹の賈午は「韓寿偸香」の故事でも有名。姉妹ともに男好きだった。
 賈南風は嫉妬深く暴虐で、自分の手で人を何人も殺した。妊娠した側室を戟で打つと、引き裂かれた腹から胎児が地面に落ちた。
 武帝が死ぬと、暗愚な皇太子が第二代皇帝となり(恵帝)、賈南風は皇后に繰り上がった。彼女が生んだ四人の子はいずれも女子だったため、あせった賈皇后は「外戚」とともに国政を壟断した。
 正史『晋書』によると、賈皇后は荒淫で太医令(医療担当官)との醜聞は公然の秘密だった。また次のような奇怪な話も伝わる。
 西晋の都・洛陽の南部に、盜尉部の小吏がいた(現代でいえば、警視庁の下級の職員)。彼は、容姿端麗な美男子だったが、給料は安かった。あるとき突然、服装がありえないほど豪華になった。周囲も上司も「ひょっとして盗品では」と疑った。
 賈皇后の遠縁の親戚で、盗難にあった者がいた。もしや、と思い、小吏の上司とともに、小吏から話を聞いた。小吏は、不思議な体験談を語った。
「ある日のことでした。道を歩いていると、見知らぬ老女から声をかけられました。
『すみません。家族に病人がでまして、占い師に占ってもらうと、城南の若い人を呼んでまじないをすれば治る、とのことです。お礼はします。ご足労いただけないでしょうか』
 で、老女について行くと、馬車が停まっていました。私が乗ると、カーテンをおろされたうえ、私は竹籠のような箱に入れられました。外の様子は見えません。
 そうですね、十里 (約五キロメートル) 余り進み、門を六つか七つ過ぎたあたりでしょうか。馬車は停まり、私は箱から出ました。立派な楼門や、壮麗な建物が見えます。『どこですか?』と聞くと『天上ですよ』という答えでした。
 私は、良いかおりのする湯に入浴させられ、綺麗な服に着替えさせられ、おいしい食事を与えられました。中に入ると、ひとりの婦人がいました。
 年齢は、三十五、六でしょうか。背は低く、肌は青黒く、眉尻に疵がありました。そこに何日か引き留められ、いっしょに寝たり、宴会を楽しんだりしました。帰るとき、贈り物をたくさんくれたのです」
 話を聞いた賈皇后の遠縁の親戚は、事情を察し、恥ずかしそうな笑みを浮かべ帰って行った。当時、いったん「天上」に入った者の多くは、口封じのために殺され、二度と出てこなかった。この小吏だけは、賈皇后に愛され、無事に戻れたのである。――
 正史『晋書』に載せる上記の逸話は有名。作家の田中貢太郎は短編小説『賈后と小吏』の末尾で
「これは晋の賈后の逸話で、この話は早くから日本で翻案せられて吉田御殿類似の話になっている。谷崎潤一郎君の小説の中にもこの話をむしかえしたものがある」
と書いた。参考 
https://www.aozora.gr.jp/cards/000154/card1626.html


劉楚玉 ?-466
男妾の異称「面首」の由来となった、南朝宋の皇帝の姉。

 劉楚玉は、南北朝時代の南朝の宋の孝武帝の娘で、宋の「前廃帝」こと劉子業(449−466)ーの姉。
 夫は名門の家柄である何戢(かそう 446−482)。
 『宋書』本紀第七・前廃帝によると、山陰公主こと劉楚玉は、皇帝となった弟に抗議した。 「わたくしと陛下は、男女の違いはあれど、同じお父様の子です。陛下の後宮の美女は万の数。わたくしは駙馬(天子や貴人の婿のこと)がひとりだけ。こんな不公平って、ある?」
 皇帝は姉のため三十人の「面首」(イケメン、の意)を左右の近侍として置き、湯沐邑(女子皇族のための税収用の領地)二千戸、彼女の専用の鼓吹楽団、「班剣」の武士二十人なども与えた。
 劉楚玉は淫乱で、三十人の美男子でも満足できなかった。吏部郎の褚淵(ちょえん)は美男子だった。劉楚玉は毎夜、関係を迫ったが、褚淵はまじめな性格で断り続け、十日後にやっと放免された。
 劉子業は皇帝となってわずか一年半でクーデターで殺され、姉の劉楚玉も乱行を責められ自殺を強要された。


何婧英 生没年不詳、5世紀末ごろ
南朝の斉の廃帝の皇后で、上述の劉楚玉の夫・何戢の娘。

 何婧英の実父は何戢、嫡母は劉楚玉、生母は宋氏である。
 夫は、南朝斉(南斉)の第3代皇帝(廃帝。鬱林王。第2代・武帝の孫)となった蕭昭業(しょう しょうぎょう 473-494)。
 南朝の斉(479-502)の成立後、484年に南郡王妃、493年に皇太孫妃となり、同年に夫が即位すると皇后にくりあがった。
 蕭昭業は美男子で表では好青年だったが、裏の顔は陰険だった。彼の祖父と父親の死は、表向きは病死だったが、実は巫女の楊氏に呪詛させたものだった。
 楊氏の息子・楊a之(よう みんし)は美男子で、何婧英と後宮で夫婦同然の関係になった。蕭昭業も楊a之を寵幸し、公認の三角関係を楽しんだ。また蕭昭業は、亡父の側室(庶母)であった霍氏(かくし)を後宮にいれた。
 494年、蕭昭業の祖父のいとこで国政を輔佐していた蕭鸞(しょうらん。452−498 明帝)がクーデターを起こしたとき、蕭昭業と霍氏は寿昌殿で裸体であった。 蕭昭業は殺されて帝位を剥奪され、霍氏は自死を賜った。何婧英は降格させられたが、その後の消息は不明である。


胡皇后(北斉) 生没年不詳、6世紀
北斉の皇后・皇太后で亡国を生き残った淫婦

 北斉(550年−557年)は鮮卑系の王朝。暴君だった第4代・武成帝こと高湛(こうたん 537−569)の「武成皇后胡氏」は、「胡皇后」「胡太后」とも呼ばれる。
 正史『北斉書』によると、彼女の父親は安定(現在の甘粛省定西県)の胡延之。母親は、北魏の四姓の一つで名門の范陽の盧氏の政治家・盧道約(四九一年―五四八年)の娘。
 母親の妊娠中、外国の僧が家の門に来て「此の宅、瓠蘆中に月有り」という謎めいた予言をした。
 はじめ長広王こと高湛(五三七年―五六九年)の妃となり、556年にのちの北斉の後主を生んだが、出産当日、産褥の帳のうえでフクロウが鳴くという不吉な怪事があった。
 561年、夫の高湛が即位(武成帝)。武成帝は乱脈な暗君で、皇后胡氏(胡皇后)は後宮の宦官たちと淫らな行為にふけった。 胡皇后は、武成帝の寵臣・和士開と火遊びも楽しんだ。
 武成帝の死後、皇后から皇太后になった胡氏(胡太后)はしばしば寺院に参詣し、曇献(どんけん)という西域出身の僧侶と肉体関係を楽しんだ。 曇献の席の下に金銭をしきつめてやり、宝玉をちりばめた豪華なベッドを曇献の部屋に運び込んだ。これは亡き武成帝が生前に使っていたベッドだった。
 胡太后は寺院に出かけるのがもどかしくなると、皇宮の中で二十四時間、曇献との情事を楽しんだ。 仏法の講話を聴くという名目で百人の僧侶を内殿に配置してカモフラージュし、昼も夜も曇献と同衾した。彼女は曇献を、全国の僧尼を統括する長官職・昭玄統に任じた。僧徒たちはひそかに曇献を「太上皇」(上皇の意)と呼んだ。
 胡太后の息子で皇帝となった後主は、母の醜聞の噂を信じなかった。ある日、後主は胡太后に朝見した。若く美しい尼僧が二人の、侍っていた。後主が2人を召して事に及ぶと、男子だった。後主は母を幽閉し、関係者を死刑を含む厳罰に処した。
 その後、北斉は、北周に攻め滅ぼされた。後主殺された。
 胡太后のその後について、正史『北斉書』は「斉、亡びて周に入り、ほしいままに姦穢を行う。隋の開皇中に殂(そ)す」と簡潔に記す。
 野史によると、胡太后は北斉の滅亡後、北周に渡って娼婦となり、首都・長安の娼館で、日夜、男たちを相手に仕事を楽しんだ。そして北周の滅亡後まで生き、隋の時代の初め、開皇年間(五八一年―六〇〇年)に亡くなったという。


武則天 624−705

武則天については、
asahi20210408.html#04(唐の武則天 中国的「藩閥」政治の秘密)を参照。

氏名は武照。夫は、唐の第2代皇帝・太宗と、その息子・高宗。高宗とのあいだに4男2女をもうけた。
男子は李弘(義宗・孝敬皇帝を追贈)、李賢(章懐太子)、李顕(中宗)、李旦(睿宗。玄宗の父)。
女子は安定思公主と太平公主。千金公主は養女。

高宗の死後、武則天は複数の愛人をもった。薛懐義(せつえぎ)、沈南璆(しんなんきゅう)、張易之(ちょうえきし)、張昌宗(ちょうそうしょう)などが有名。
趙翼(1727年-1812年)『二十二史箚記』巻十九新旧唐書より
【要旨】 武后が(皇帝になってから)美少年を寵愛することを、諫言役の朱敬則(635年−709年)がいさめたところ、武后は「さすがはそなた」と彩絹のボーナスを与えて度量を示した。 男の皇帝は何千何百という妃をもつが、武后は「女主」として寵愛した異性は数名にすぎなかった。武后は人材登用に力を入れた。のちに、彼女の孫である玄宗皇帝の治世を支えた名臣たちの多くは、武后が抜擢した人物たちであった。 (武后は批判されるべき点も多いが)女性の中の英主である、と言わざるを得ない。


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