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人物で知る中国〜明王朝の洪武帝

最新の更新2022年5月8日 最初の公開2022年5月8日

人物で知る中国〜明王朝の洪武帝
2022/5/10火曜 15:30〜17:00 朝日カルチャーセンター・千葉教室 教室・オンライン同時開催
以下、http://www.asahiculture.jp/course/chiba/bde88cfb-7af3-f945-b721-62078e081dfa より引用
 明は、中国史上、最後の漢民族系王朝です。明は、鄭和の遠征など強大な国力を誇示する一方、内政面では恐怖政治や腐敗などもありました。14世紀、貧農から身を起こした朱元璋は、明王朝の初代皇帝・洪武帝となったあと、晩年の毛沢東と同様、粛清を繰り返しました。洪武帝の波乱に満ちた生涯を現代中国と比較しながら、わかりやすく解説します。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lhbFSnGl7qx-zXRD3fCi_9

以下、『日本大百科全書(ニッポニカ)』の「朱元璋」の項目より引用。
 ・・・中国史上で最強の独裁体制を確立した。 貧苦のなかで成長した洪武帝は民衆の統治によく配慮し、 六諭(りくゆ)を定め、 教民榜文(きょうみんぼうぶん)を頒布して、人民の守るべき分(ぶん)を教え、 皇帝に忠実に服従すべきことを説いた。 御製大誥(たいこう)によって、分に背いた場合、どのような悲惨な処分を受けるかについても説いた。 それにもかかわらず、先の胡惟庸の獄についで、93年には藍玉(らんぎょく)の獄が起こり、 多くの功臣、宿将を一掃しなければならなかった。 洪武帝は晩年、猜疑心(さいぎしん)が強くなり、皇太子標(ひょう)を失い、精神的に不安のうちに病没した。
cf.明治日本の天皇制は、「教育勅語」「一世一元制」など洪武帝を参考にしたところが多い。
cf.MPS Consulting代表 鈴木博毅「「イノベーションのジレンマ」打破 朱元璋とグーグル」2022/2/28 より引用。引用開始。
 朱元璋 小さな組織が大きな挑戦を可能にする
 1368年 明王朝の中国統一
 朱元璋はなぜ、24人の幹部だけで南方地域を目指したのか?
(中略)
 朱元璋に関する翻訳著作のある堺屋太一氏は、彼を「信長・秀吉・家康を併せ持つ人物」と評価しています。貧農から波乱万丈の生涯によって天下を統一したからです。
 「明の太宗は、一人で聖賢と豪傑と盗賊の性格を兼ね備えていた」(堺屋太一『超巨人・明の太祖朱元璋』より)

cf.安田峰俊「大量殺人の方針は上海で決定…? オウムと中国の「知られざる絆」」(2018年)によると「現代中国は嫌いだが伝統的な中国の神秘主義や武術・健康ノウハウはOK……という、ありがちなパターンだ。ただ、そのなかで異彩を放つのが、麻原が過去生(転生前の人生)において明朝の建国者・朱元璋(洪武帝)の生まれ変わりだったと述べていた点だろう。麻原は1994年2月22日から数日間、「前世を探る旅」として訪中し、この洪武帝ゆかりの地を巡っている。」
別名:朱重八→朱興宗→朱元璋(字は国瑞)、洪武帝、廟号は太祖、「明の太祖」
生没年:1328年-1398年
主な事蹟:紅巾の乱、北伐、皇帝独裁、一世一元制、大粛清
評価:清の歴史家・趙翼の評は「蓋明祖一人、聖賢、豪傑、盗賊之性、実兼而有之者也。」(ひとりで聖賢、豪傑、盗賊の性質をあわせもっていた)
〇中国史の近世
 日本の近世は江戸時代(戦国時代も含める説がある)。皇居は江戸城。
 中国の近世は明清時代(宋元時代も含める説がある)。北京の紫禁城(故宮)は明の永楽帝が改築。

 明(1368年-1644年)は、初代皇帝の影響を後々まで引きずる。

〇朱元璋の生涯
 1328年、濠州の鍾離(現在の安徽省鳳陽県)の貧しい佃農(でんのう)の家に生まれる。
 1344年、飢饉と疫病で親兄弟が死去。皇覚寺(こうかくじ)に入って托鉢僧となり各地を放浪。
 1351年、紅巾(こうきん)の乱が起こる。翌年、濠州で郭子興(かくしこう)も元に反旗を翻した。朱元璋は一兵卒として郭子興の反乱軍に参加。異相がきっかけで郭に認められて頭角を現し、郭の養女であった馬氏(後の馬皇后)と結婚した。
 1355年、郭子興が死去。朱元璋は郭軍の指揮権を掌握し、紅巾軍の一部将となる。同郷の湯和(とうわ)、徐達(じょたつ)、李善長(りぜんちょう)ら、後の「開国の功臣」も集まる。

NHK『テレビで中国語』テキスト 連載「標語でたどる なるほど! “中国の歴史”」2019年1月号用の原稿より自己引用
高筑墙,广积粮,缓称王
Gāo zhù qiáng, guǎng jī liáng, huǎn chēng wáng
【訳】高く壁を築き、広く食料を集め、ゆっくり王だと名乗る。
【意味】漢文訓読で読み下すと「高く牆(しょう)を築き、広く糧(りょう)を積み、緩(ゆる)ゆる王を称(しょう)せよ」。14世紀、元の時代の末、天下は乱れ、群雄割拠の状態になった。群雄の一人・朱元璋(しゅげんしょう)(後の明(みん)の初代皇帝)は、民間の有識者・朱(しゅ)升(しょう)に、天下を取るための戦略方針をたずねた。朱升はこの「九字の計」を献策した。

【解説】正月である。「今年の我が家の目標」などで盛り上がるご家庭や、仕事始めに「我が社の今年の経営方針」を発表する会社も多かろう。今回は方針策定に関する標語を取り上げる。
 朱元璋は1328年、安徽省鳳陽県の貧農の末っ子として生まれた。数え17歳のとき、両親や兄たちは凶作のため衰弱死して全滅。身寄りを失った朱元璋は托鉢僧となり、ホームレス同然の漂泊生活を送った。彼はもともと美男子とは言えなかったが、栄養不足と苦労のせいで、ますますひどい顔になった。
 元王朝は悪政により統治能力が低下し、「紅巾の乱」が起きた。24歳の朱元璋は、自分で運命を占い、反乱軍の一派に身を投じることにした。頭目は、郭子(かくし)興(こう)という任侠(にんきょう)肌の親分だった。郭子興は朱元璋の顔を見て「てめえみたいな面構えは見たことがねえ」と興味をもち、身近に置いて重用し、自分の養女(後の馬皇后)をめあわせた。人間、何が幸いするかわからぬものである。
 平和と乱世では価値観が逆転する。貧農出身の朱元璋は、貧農出身者が多い反乱軍のあいだで人気を得て、めきめき頭角を現した。朱元璋は「呉国公」を名乗り、郭子興が死去した後はその勢力を受け継ぎ、江南地方を拠点に天下をねらう群雄の一人となった。
 元末、混乱を避けて引退した役人も多かった。学識者の朱升もそんな一人だった。朱元璋は朱升を呼び出し、時局についての見解と今後について意見を聞いた。
「元王朝は滅亡寸前だ。天下は乱れ、群雄が割拠している。私は江南の要衝を押さえている。今後はどのような方針で戦えばよいか」
 朱升は、韻を踏んだ九文字の言葉で答えた。
「高く牆を築き、広く糧を積み、緩ゆる王を称せよ。――江南は農工商業が発達した豊かな土地です。今は下手に動かず、拠点に高い城壁を築き、防備を固めてください。広い地域から糧秣を集めて高く積み上げ、きたるべき戦いに備えてください。当面はいままでどおり、呉国公と名乗り続けてください。あせりは禁物です。天下の情況の推移を見守りつつ、時がきたら、力による覇道ではなく、徳による王道を行う王者だと名乗ってください」
 朱元璋は喜んだ。九字の計を実践して力を蓄えた朱元璋は、1364年からは「呉王」を名乗り、ライバルたちと戦って勝った。
 1368年の正月、朱元璋は応天府(現在の南京)で皇帝に即位し、元号を洪武、国号を大明と定めた。明王朝の初代皇帝・太祖の誕生である。中国史上、南方から興って天下を統一した王朝は、明が初めてである。朱元璋は、皇帝の在位中は元号を変えないという「一世一元制」を開始したので、元号から「洪武帝」とも呼ばれる。
 九字の計を献策した朱升は重用され、明王朝の礼制を定めるなど有識者として国政に参与した。洪武帝はその後、陰惨な粛清を始めるが、それはまた別の物語である。
 簡にして要領を得た“高筑墙,广积粮,缓称王”は、施政方針の標語のお手本となった。
 時は流れ、1973年1月1日の元旦。「文化大革命」に揺れていた中国の新聞や雑誌は、一斉に毛沢東の
“深挖洞,广积粮,不称霸”
 Shēn wā dòng,guǎng jī liáng, bù chēng bà
という指示を掲載した。「深く穴を掘り、広く食糧を積み上げ、覇をとなえず」。当時は東西冷戦と中ソ対立の時代で、核戦争の危機もあった。毛沢東は、国防のために、防空壕や地下空間をたくさん作り、食糧を自給して蓄積する一方、中国のほうから他国に攻撃や圧迫を加えない、という方針を述べた。朱升の「九字の計」をまねたものだが、韻は踏んでいない。
(以下略)
 1368年、各地のライバルと戦って勝ち残った朱元璋は、応天府(南京)で帝位につき、国号を明と定め、年号を洪武とした。また一世一元の制を始めた。
 洪武帝は、自分の故郷を「中都」に指定、各地から数十万人を強制移住させて大規模な造営を始めたが失敗した。
 cf.[「鳳陽調」と「打花鼓」(明清楽資料庫)]
 洪武帝は当初、元の制度を踏襲したが、外敵に勝利すると、政治改革と粛清を行い始める。
 1373年(洪武6年)、子孫への戒め『祖訓録』が成る(のちに1395年=洪武28年に『皇明祖訓』と改題)。洪武帝こと朱元璋の意志は、明朝一代を通じて比較的によく守られた。
 1376年、空印の案。地方官を大量処刑。
 同年、洪武帝は日本から来た禅僧・絶海中津(ぜっかいちゅうしん)を謁見。秦の始皇帝が伝説の仙島「蓬莱」に徐福を派遣した故事をふまえて、漢詩を応酬する
絶海中津が詠んだ七言絶句
  熊野峰前徐福祠 満山薬草雨余肥
  只今海上波涛穏 萬里好風須早帰
熊野峰前 徐福の祠
満山の薬草 雨余に肥ゆ
只今 海上 波濤 穏やかなり
万里の好風 須らく早く帰るべし
 ※和歌山県新宮市に伝わる徐福伝説をふまえる。

 洪武帝が次韻した七言絶句
  熊野峰高血食祠 松根琥珀也応肥
  当年徐福求仙薬 直到如今更不帰
熊野 峰は高し 血食の祠
松根の琥珀も 也た応に肥ゆべし
当年の徐福 仙薬を求め
直ちに如今に到って更に帰らず
 1380年、胡惟庸(こいよう)の獄。多くの功臣を粛清した。これを機に中書省を廃止し、宰相を置かず、六部(りくぶ)を皇帝に直属させた。
 同年、洪武帝は日本国王「良懐」から国書を読んで激怒した。「惟中華之有主、豈夷狄而無君(まさか中華にだけ君主がいて、夷狄に君主はいないとでも?)」「相逢賀蘭山前、聊以博戲。(中国の奥地にある賀蘭山の前で、ちょっと勝負いたしましょう)」云々。
 1381年、賦役黄冊(ふえきこうさつ)を制定し、里甲制を施行。
 1382年、錦衣衛(きんいえい)を設置。事実上の秘密警察(永楽帝の時代の1420年に東廠が設置されると、その下部組織となる)。
 同年、馬皇后が死去(1532年生まれ)。
 1386年、林賢事件。日本のスパイ。
 1392年、皇太子の朱標が急死。朱標の息子が皇太孫に立てられた(後の建文帝)。
 1393年、藍玉(らんぎょく)の獄。多くの功臣を粛清した。胡惟庸の獄とあわせて「胡藍の獄」のとも言う。
 1397年、民衆教化のため六諭(りくゆ)を定めた。「父母に孝順にせよ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、各々生理に安んぜよ、非為をなすなかれ」
 1398年、崩御。享年71(満69歳没)。

〇朱元璋と毛沢東の類似性
 「聖賢、豪傑、盗賊之性」を一身に兼ね備えていた。
 農民出身だが、それなりのインテリだった。
 若いころ、反乱軍に身を投じた。
 天下を取ったあと、功臣や旧友を次々と粛清した。
 後継者として期待していた息子に、先立たれた。
 人民に「お説教」するのが好きだった。
 それなりに農民思いだったが、それがかえって農民たちを苦しめた。

○中国の民謡「鳳陽調」に今も歌われる洪武帝
 cf.[「鳳陽調」と「打花鼓」(明清楽資料庫)]
 「鳳陽調」、別名「鳳陽花鼓」「鳳陽歌」は、安徽省鳳陽県から広まった歌舞音楽で「花鼓」の一種である。
 鳳陽は、明の太祖(初代皇帝)朱元璋(1328-1398)の生まれ故郷。貧農から身を起こした朱元璋は、即位後、重農主義政策を採った。また故郷の鳳陽の地に新しく首都を建設しようと考え、数十万の農民をこの地に強制移住させて人口密度を高め、建物の工事も始めた。
 が、いなかである鳳陽に一国の首都を作るのは、土台、無理な話であった。
 結局、朱元璋の思いつきから始まった首都造営は途中で放棄され、明の首都は、昔からの大都市である南京(後に北京)に置かれた。
 鳳陽の農民は、地元から皇帝が出たせいで「ありがた迷惑」をこうむり、以前より貧しくなってしまった。
 そのうえ、淮河(わいが)流域では、よく洪水が起きた。そのたびに、厖大な数の農民が避難民として流浪した。避難民の婦女子は、生活のため、道ばたで花鼓と小銅鑼を叩き、唱って踊った。その大道芸が芸能として固定化して「鳳陽花鼓」が生まれた。
 「鳳陽花鼓」で歌う曲の一つがこの「鳳陽調(鳳陽歌)」で、曲調は現地の「秧歌」(ヤンゴ。田植え歌)から採った。


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