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朝日カルチャーセンター新宿教室  担当・加藤徹 

【中国文化誌】 死後の世界ーなぜ「戒名」があるのか

最初の公開2012-6-22 最新の更新2012-6-24
問:昔の人の言葉「死者は、二度死なせてはならない」。これはどういう意味でしょう?
魯迅『華蓋集続編』「空談」:死者倘不埋在活人的心中,那就真真死掉了。
死者がもし生きた人の心の中に埋葬されぬのなら、それこそ本当に死んでしまう。
cf.あとかたもなきこそよけれ湊川(みなとがわ) ――吉川英治

通過儀礼と名前
  1. 完全変態の昆虫と、不完全変態の昆虫。
    昔の人は「完全変態」。子供と大人の社会的・文化的地位は全く違う。現代人は「不完全変態」。未成年も成年も対等の「人権」を有する。
  2. 主な通過儀礼の例 誕生→元服→婚儀→半百→花甲→葬儀→祭祀→…
  3. 三国志の魏(ぎ)の曹操(そうそう)の場合
    姓は曹、諱(いみな)は操。幼名は阿瞞もしくは吉利。字(あざな)は孟徳(もうとく)。廟号(びょうごう)は太祖、謚号(しごう)は武皇帝。 後世「魏武」「魏の武帝」とも呼ぶ(「漢武」=「漢の武帝」と区別するため「魏」をつける)。
  4. 昔の日本人の場合

2つの「死後の世界」
  1. 現代人は忘れている。「死後の世界」は、私たちの目の前にあることを。
  2. 近代西洋は「個人主義」、漢文古典は「古人主義」。古、枯、固、個の字源とコアイメージ。
  3. 自分はいつ誕生し、いつ死ぬか。
    「個人主義」:デジタル的。出生時はゼロ歳(満年齢)。生か死か、その差は決定的。「自分の中の自分」だけが自分。
    「古人主義」:アナログ的。出生時は一歳(数え年。懐胎中からカウント)。「他人の中の自分」もまた自分。ゆえに、死の程度にも段階あり。「遺体の損壊」「記憶の抹殺」「血族皆殺し」はいわば100%の死。 後世に名を残す、子孫による「祭祀血食」が絶えねばいわば50%の死。
  4. 小林秀雄「無常という事」:生きている人間はまだ発展途上の動物状態だが、死んだ人間は完成された本当の意味での人間である、という考えかたが述べられている。
  5. 現代人の個人主義的な死後の世界・漢文の迷信的な死後の世界→「あの世」。死後も「個人」としての自分が霊魂として持続していてほしい、という願望のあらわれ。
    漢文の古人主義的・儒教的な死後の世界→「あの世」と「この世」。われわれが今生きているこの世界は、古人の「死後の世界」に他ならない、という敬虔な自覚。
  6. 『礼記』祭義:曾子曰「身也者、父母之遺体也。行父母之遺体、敢不敬乎。(下略)」
    曾子曰く「身は父母の遺体なり。父母の遺体を行うに、敢て敬せざらんや。(下略)」 →いま生きている「私」も「あなた」も、死んだ祖先が残してくれた大切な体を借りている、自分の肉体は自分だけのものではない、という発想。
    →肉体だけでなく、この社会や文明もまたすべて祖先の「死後の世界」の遺産であるから、祖先の記憶(歴史)を学ばねばならない、という発想。
  7. 本来の古代ヤマト民族の死生観は、漢文古典の死生観とは、かなり異質であった。
自分の中にひそんでいるX(エックス)について
 「自分の中の自分」は、実は複雑怪奇である。
 例えば、作家の正宗白鳥(まさむね・はくちょう1879〜1962)の死は、示唆的である。彼は学生時代、 友人の影響でキリスト教の洗礼を受けた。しかし、後に無神論者となり、 「バイブルは吾人が恐入るにもあたらない、凡書である」「自分が死ねば、世界も宗教も、神そのものも消滅するのだ」 等とうそぶいた。その正宗白鳥が膵臓ガンになり、83歳で死んだとき、最期に「アーメン」と神に祈り、世間を驚かせた。
 (前略)人々の眼からは厭世家として無神論者として見られた正宗白鳥氏は自分自身もその臨終に際し、 神に祈るとは夢にも考えなかったのかもしれぬ。 しかし氏の意識ではとっくに捨てた筈のXが、 まさにこの世から彼が別れようとする瞬間、 姿を見せたのである。
 もし正宗氏があの祈りを臨終に際して口にしなければ、 それ以後の白鳥伝は相変らず氏を厭世家として無神論者としてだけ書かれていたろう。 だがその行為を見せなくてもXは白鳥氏の意識の奥に生涯ひそんでいたのである。 神だけが見抜くことができるこの魂のX。 それを神ではない伝記作家が見通すのは困難である。 しかしこのXを対象の人物とその人生とから見抜けぬような伝記はたんなる史伝にすぎないのだ。
  ――遠藤周作『人間のなかのX』中公文庫版(1981),p.15より引用
 漢文を読むときも、「人間のなかのX」に思いを致さねばならない。

歴史に名を残す人と、記憶を抹殺された人
  1. 『論語』衛霊公第十五:子曰「君子疾没世而名不称焉」。
    子曰く「君子は世を没(お)えて名の称せられざることを疾(にく)む」と。
  2. 司馬遷『史記』伯夷列伝:「君子疾沒世而名不称焉」(中略)巖穴之士、趣舍有時若此、類名堙滅而不称、悲夫。
    巌穴の士、趣舎の時有ること此の若し。類名隠滅して称せられざるは、悲しきかな。
  3. 文天祥の漢詩「零丁洋を過ぐ」:人生自古誰無死、留取丹心照汗青。
    人生古えより誰か死無からん、丹心を留取して汗青を照らさん。
  4. 記憶の抹殺の犠牲者の例:金の洗衣院(浣衣院)と欽宗の皇后朱氏の自殺、永楽帝の後宮における「魚呂の乱」事件、……
  5. 古代ローマ帝国の「記録抹殺刑」(ダムナティオ・メモリアエ Damnatio Memoriae)

孔子の死生観
  1. 『論語』先進第十一:季路問事鬼神。子曰「未能事人。焉能事鬼」。
    季路、鬼神(きしん)に事(つか)うることを問う。子曰く「未だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事(つか)えん」と。 曰「敢問死」。曰「未知生。焉知死」。
    曰く「敢(あえ)て死を問う」と。曰く「未だ生を知らず、焉んぞ死を知しらんや」と。
  2. 『論語』雍也第六:樊遅問知、子曰「務民之義、敬鬼神而遠之、可謂知矣」。(下略)
    樊遅(はんち)知を問う。子曰く「民の義を務め、鬼神(きしん)を敬して之(これ)を遠ざく、知と謂(い)うべし」と。
  3. 『論語』八佾第三:祭如在。祭神如神在。子曰「吾不与。祭如不祭」。
    祭ること在(いま)すが如くす。神(かみ)を祭るには神在すが如くす。子曰く「吾、祭りに与(あずか)らざれば、祭らざるが如し」と。
  4. 『礼記』檀弓下第四:孔子謂「為明器者、知喪道矣。備物而不可用也。哀哉、死者而用生者之器也、不殆於用殉乎哉」。其曰明器、神明之也。 塗車芻霊、自古有之、明器之道也。孔子謂為芻霊者「善」、謂為俑者「不仁、殆於用人乎哉」。
    (訓読略。大意) 孔子は言った。「明器を発明した人は、喪の道をよく知っている。死者への供え物は、わざと実用不可能に作るべきである。悲しいことだ。もし死者に、生きている人が使うのと同じ実用品を使うなら、それは生きた人間を殉死させるのと、ほとんど同じことになってしまうではないか」。そもそも、死者に供えるための非実用品を「明器」と呼ぶのは、死者を「神明」の存在と見なすからである。色を塗った模型の車や、草で作った人形を死者に供えることは、昔からある正しいやりかたで、明器の道にかなっている。孔子は、死者に供えるための草で作った人形を考案した者については「良い」と評価したが、死者に供えるために生きた人間そっくりの人形を考案した者については「不仁である。生きた人間を殉死させるのと、ほとんど同じじゃないか」 と批判した。
    参照[
    京劇と呪術]

「明器」のコンセプト
[google「明器」検索結果]
死者に対する恐怖と忌避の感情←→死者への追慕の感情。「もう一度会いたい」という気持ち
cf.伊藤貴麿『中国民話選』講談社文庫に収録する怪談。父親が、死んだ息子に会いに「陰陽県」に行く話。
cf.W・W・ジェイコブズ(William Wymark Jacobs)の短編小説『猿の手』The Monkey's Paw
明器(めいき) [ 日本大百科全書(小学館) ]
神明の器の意味で、中国で墓やそれの付属施設に入れるための土、木、玉、石、銅でつくった仮器。人物、動物の場合を俑(よう)という。殷(いん)・周時代の銅武器の、玉や石による模倣や、殉死代用の人物俑、動物俑の製作に始まった。戦国時代には銅、陶、木製の俑葬がみられる。秦(しん)の始皇帝陵の兵馬俑坑出土の加彩武人・馬は硬い表現であるが、実物大でリアルさがあり、明器の画期をなす。漢代には加彩陶質灰陶や緑釉(りょくゆう)で騎兵、男女俑、牛、羊、楼閣、家屋、農舎、水田、貯水池、倉、竈(そう)(かまど)、井戸、家畜小屋、雑技俑など豊富な題材の明器がつくられる。北朝には漢の伝統を引いた緑釉、黒褐釉の騎兵、武士、ラクダ、鎮墓獣が盛行し、南朝には青磁の鼓吹儀仗(ぎじょう)俑などが盛行する。唐代には三彩の馬、騎馬、ラクダ、女子、神将、鎮墓獣や加彩貼金(てんきん)騎兵が現れ、明器の圧巻を迎える。明器は明(みん)時代まで続くが、紙製明器の流行によって陶俑は衰退する。 [ 執筆者:下條信行 ]
cf.船幽霊には必ず「底の抜けた柄杓」を与える。本物の柄杓を与えてはならない。阿久根市・海にまつわる昔話(船幽霊)

『荀子』礼論篇第十九より
 もとより装飾と粗悪、鳴り物と哭泣、歓喜と哀悼は、それぞれ互いに相反するものである。しかし喪礼においては、これらを兼ね合わせて活用し、かわるがわる用いることで、コントロールするのである。装飾と鳴り物と歓喜は、平常心を維持して幸運を呼び込むための方策である。粗悪さと哭泣と哀悼は、危機意識を持って凶事に対処するための方策である。 故文飾、麤悪、声楽、哭泣、恬愉、憂戚。是反也。然而礼兼而用之、時挙而代御。故文飾、声楽、恬愉、所以持平奉吉也。麤悪、哭泣、憂戚、所以持険奉凶也。
 喪礼の本質とは、死者を、生きている人のように装飾することである。死者が生きていたときと全く同じ態度で、その死を送ってあげるのである。つまり、この人は死んでいるようでもあり生きているようでもあり、ここに居るようでもありここに居ないようでもある、という態度を、始終つらぬくことである。 喪礼者、以生者飾死者也。大象其生、以送其死也。故如死如生、如存如亡、終始一也。
 死者の前にすすめる明器については、実用性を排除する。冠は頭にかぶる部分はあっても髪つつみはないようにし、酒を入れるカメは空っぽのままにして中身をつめてはならず、竹で編んだムシロはあっても寝台やスノコはつけず、木製の器はわざと仕上げを荒いままにしておき、陶器はわざとプロポーションを狂わせて作り、竹やアシで編んだ器もわざと中身を入れられぬようにし、死者に供える楽器についても、笙や竽はわざと調律せず、琴や瑟も弦は張っても調弦はわざと狂わせておき、ひつぎを運ぶ車は墓に埋めるが、車を引っぱる馬は埋めずに帰ってくるようにする。これらはすべて、実用品ではない、ということを明示するための措置なのである。 薦器、則冠有鍪而毋縰、罋廡虚而不実、有簟席而無床笫、木器不成斲、陶器不成物、薄器不成内、笙竽具而不和、琴瑟張而不均、輿蔵而馬反、告不用也。

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