HOME > 授業教材集 > このページ

中国五千年の文明と歴史 中国とは何か
第4期 2020年1月−3月

最新の更新 2020-6-10 最初の公開 2020-1-8
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第1期(2019年4月-6月)]
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第2期(2019年7月-9月)]
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第3期(2019年10月-12月)]

以下、朝日カルチャーセンターのサイトより引用。引用開始。
 中国とは何か。一言で「こうだ」と答えるのは、なかなか難しいです。ヨーロッパも国ごとに多様ですが、中国は人口も歴史もヨーロッパの数倍もあるのです。ただ、そんな中国でも、過去数千年来、変わらなかった特徴や、中国文明が現在まで引きずっている「宿命」や「業(ごう)」のような初期条件はあります。
 この講座では、「中国とは何か」を大づかみで理解します。日本や西洋と比較しつつ、中国文明数千年の特徴を、写真や動画なども使いながら、わかりやすく解説します。中国史についての予備知識がないかたも大丈夫です。日本史や西洋史に興味のあるかたも、中国史と比較することで、きっといろいろな発見があると思います。お気軽にご受講くださいますよう。(講師・記)

第1回 中国はなぜ世界一の人口を誇るのか?――結婚制度
 結婚の形は古来、国や時代ごとにさまざまです。近代以前の中国は一夫多妻制の一種である妻妾制をとっていましたが、他国の一夫多妻制とくらべても中国独特の特徴がありました。また、中国独特の「同姓不婚」や「冥婚」、「指腹婚」もありました。「いとこ婚」が許容されるか否かも、中国では時代や地域ごとに違いました。現代中国の結婚式も、そのコンセプトや様相は、日本の結婚式と大違いです。中国人が今も世界一の人口を誇る理由の一因である結婚の歴史的変遷について、わかりやすく解説します。


〇今回のポイント
・親族は血族と姻族。
・父系制、母系制、双系制。漢民族は父系制の宗族社会。
・姓と氏と名字は、本来は違うものだった。

〇今の中国と日本の法的な結婚制度についての違い。
・いとこ婚・・・中国は1981年から法的に禁止。日本では合法。cf.中国婚姻法
・婚姻登記・・・中国においては「実質審査」が行われる。
・夫婦の財産・・・別産制ではなく婚後財産共有制を採用。婚姻期間中に夫婦それぞれが得た所得・財産は夫婦の共同所有とする。
・夫婦別姓・・・日本は明治から西洋風の夫婦同姓に。中国は今も夫婦別姓。
 cf.林鄭月娥(りんていげつが)氏・・・氏名は鄭月娥。結婚後、夫の姓である「林」を前につけて林鄭月娥と名乗る。ただし「林月娥」と名乗ることはない。
 昔の中国の女性は、蒋介石と結婚した宋美齢が「蒋宋美齢」とも呼ばれたように、夫の姓を自分の姓の前に冠する「冠姓」が普通だった。現在では、台湾も含めて、「林鄭」や「蒋宋」のような冠姓は少数派になった。

〇同姓不婚
 中国では、約3千年前の周代から20世紀初めまで、儒教的な「同姓不婚」の制度があった。現代では同姓不婚は法律的にも文化的にも消滅したが、台湾などではかなりあとまで残っていた。昔は、中国の林さんと日本の林さんの結婚にも抵抗感をもつ中国人もいた。
 ちなみに、朝鮮半島では長い間「同姓同本不婚」制度が行われており、本貫が同じ同姓は結婚禁止、同姓でも本貫が違えば結婚が許された。同姓同本不婚は、1997年に憲法裁判所が違憲の決定をするまで、法的にも有効だった。
 古来、日本には同姓不婚という発想はなかった。儒教圏の中国人や朝鮮人が、「倭人」を禽獣のように軽蔑した一因も、ここにあった。

〇今の中国と日本の文化的な結婚式についての違い。
 結婚式は、個人的な考え方や、地域的な違いが大きい。一般的に、中国人の結婚式は派手で、式典の進行はゆるく、礼儀作法も厳しくない。以下は概略である。
・披露宴と結婚式・・・日本人は結婚式と披露宴を分けるが、中国人は分けずに行う。司会進行もダラダラと時間にルーズ。
 参考 
https://www.spintheearth.net/china-wedding/
 中国人の結婚式は、早朝、新郎が新婦の家に新婦を迎えに行き、宴会場で宴会を行い、夜、新郎の家に行くまで続く。
・式場・・・日本では結婚式の専門の式場を使うことも多い。中国ではレストランなどを借り切って行うことも多い。日本の箱物はガラパゴス化、中国の箱物はコモディティ化。
・結婚写真・・・中国人は結婚式の前の「婚紗撮影」にこだわる。専門の写真店で、コスプレのような恥ずかしい写真も真面目に撮影する。
・服装・・・新郎新婦の衣装は中国式と西洋式があり、派手。中国では白は不吉な色で、赤はめでたい色なので、中国式の結婚衣装の色彩は赤が基調。
 参列者は、新郎新婦を引き立てるため、おとなしめの服を着用する傾向がある。
・案内状・・・日本の場合は返信用の葉書を同封した丁寧な封書が届く。中国は学生のコンパの出欠確認と大差がない。
・お祝儀・・・お金について中国人はおおらか。参列者は現金を赤い封筒に入れた「紅包」を持参。日本の祝儀袋と違い、金額による紅包のランク付けはない。受付係が金額をその場で確認して堂々とノートに書き込んだりすることもある。また、受付ではなく、新郎新婦がテーブルを回るときに直接、紅包を手渡すという会もある。
・引き出物・・・中国人は、テーブルのうえに飴やお菓子をくばるだけ(参列者が適当に持ち帰る)。
・終わり・・・参列者はご馳走を食べ終わったあと、それぞれ、適当な時間に三々五々と帰ってゆく。式全体が終わるまで待つ必要はない。そもそも、式がいつお開きになるのか、判然としない結婚式も多い。
・鬧洞房=中国の簡体字では“闹洞房”・・・新婚の夜に、友人や親類が新婚夫婦の部屋に押しかけて、猥雑な冗談を言ったり、ゲームを強制させたりしてからかう、という中国独特の習俗。

〇親族名称における父系と母系の区別
 日本人が英語を訳すとき、ブラザーやシスターの訳で悩む。兄か弟か、姉か妹か。
 中国人が日本語を訳すとき、「おじいさん」「おばあさん」の訳で悩む。父方のおじいさんと、母がたのおじいさんは、中国語では全く違う単語を使うから。

 英語・・・最もルーズ。兄と弟、伯父と叔父など、年齢の区別さえない。
 中国語・・・細かく区別。父方と母方でも分ける。
 日本語・・・英語と中国語の中間くらい。

 祖父・・・父方の祖父は「爺爺」、母方の祖父(外祖父)は「老爺」。
 参考 https://akikolingoland.com/中国人の親族関係の呼称語/ http://chugokugo-script.net/kiso/kazoku.html(絵図つき)

 中国の親族呼称や結婚式のコンセプトには、過去、数千年に及ぶ漢民族の宗族社会の名残がある。

〇昔の中国人の結婚
 昔は、上流階級は恋愛結婚は御法度で、親の言いなり。新郎新婦は「洞房」で初対面。
 昔の中国は妻妾制。正妻=嫡妻は常に一人で、妻妾のなかでは別格の存在とされた。複数の妻を平等に愛するタイプの一夫多妻制は、儒教的にはかえって不道徳とされた。
 昔の中国は、親や家の関係を重んずるあまり、「指腹婚」など特異な早婚もあった。
 また「冥婚」や「童養媳(トンヤンシー)」(大陸での呼称。台湾では「新婦仔(シンプア)」)など、現代人から見ると奇怪な結婚習俗もあった。
cf.中国映画『トンヤンシー/夫は六歳』1985年 中国語原題『良家婦女』 英語タイトル A GOOD WOMAN https://youtu.be/vQP8l4wgUIk
 中国映画『五人少女天国行』1991年 中国語原題『出嫁女』 英語タイトルThe Wedding Maidens https://youtu.be/-sge9-FY-Dc


第2回 李白が飲んでいた酒はなにか?――酒から見る中国
 古来、中国人は酒が好きでした。儒教でも酒は礼の重要な一部であり、古代中国の酒礼は今の日本のマナーにも大きな影響を与えています。
 日本人が中国の酒というと、アルコール度数が高い白酒や、醤油のような色がついた黄酒を連想します。歴史をさかのぼると、いろいろな酒がありました。
 三国志に登場する張飛や、酒についての漢詩をたくさん詠んだ李白は、どんな酒を飲んでいたのか。酒から見た中国人の歴史を語ります。

〇今回のポイント
・中国史の「禁酒令」は長続きしたためしはない。
・儒教も道教も禁酒はしない。
・「乾杯合戦」は今は流行らない。

〇酒の種類
(1)醸造酒:原料をそのまま、もしくは原料を糖化させたものを発酵させた酒。
 (1a)単発酵酒:糖分を含む原料を造る酒。西洋のワインなど。
 (1b)複発酵酒:穀物などデンプン質の原料を糖化させたあと発酵させて造る酒。ビールや、中国の黄酒、日本の清酒など。
(2)蒸留酒:醸造酒を蒸留してアルコール分を高めて造る強い酒。ウイスキーや、中国の白酒、日本の焼酎など。
。 (3)混成酒:酒に他の原料を加えて造った酒。楊貴妃が愛飲したとされる桂花陳酒や、蛇酒などの薬酒、日本の梅酒など。

 ロバート・テンプル著、牛山輝代訳『改訂新版 図説 中国の科学と文明』(河出書房新社、2008年改訂新版初版)の「第4章 日常生活と工業技術」に「強いビール(酒)」が立項されていることからわかるように、中国の醸造酒の技術は高かった。
 西洋のビールや古代中国の酒は「単行複発酵酒」であり、糖化の過程のあとにアルコール発酵を施すため、アルコール度数が低い。
 中国の黄酒や日本の清酒は、糖化とアルコール発酵を同時に行う「並行複発酵酒」で、西洋のビールよりアルコール度数はずっと高くなる。

〇中国の酒の歴史 〇中国の乾杯
 中国の酒宴の「乾杯合戦」では、「乾杯!」のかけ声とともに、アルコール度数の高い蒸留酒「白酒」を、乾杯用の小さいグラス「小酒杯」に注ぎ合う。乾杯ののち、相手に向けて杯を傾け底を見せ、飲み干したことを示す。ただし「乾杯!」の直後に「随意(スイイー)」という宣言があれば、飲み干さなくてよい。
 近年は健康志向から、乾杯にワインやビールを行うことが増え、また乾杯合戦も時代遅れになっている。
 乾杯の時は、自分のグラスを相手のグラスのどの高さにカチンとあわせるかで、相手との格付けが決まる。そのため、周恩来もケ小平も、中国政府の要人は外国の来賓との乾杯のとき、グラスの高さが相手より低くなりすぎないように(相手のグラスより1センチていど下がのぞましい)全神経を集中する。
 日中国交正常化交渉の時、周恩来と田中角栄の乾杯の瞬間の記録映像を見ると、周恩来が全神経を集中して田中角栄のグラスの高さに照準を合わせてグラスを差し出したのに対して、田中は日本式に自分で自分の杯を額におしあて拝むようにして乾杯し、完全にすれちがっていた(ちゃんとグラスを合わせた乾杯も行った)。
cf.
https://jaa2100.org/entry/detail/044663.html


第3回 高身長だった諸葛孔明――中国人の身長の変遷
 アジア人の身長は白人や黒人よりも低い、という印象があります。しかし中国の過去の歴史をさかのぼると、身長はダイナミックに変化してきました。例えば今から五千年前の中国の龍山文化の遺跡から発掘された人骨を2017年に調査したところ、発見された集団の多くが身長約180センチ以上で、最も背が高かった男性は約190センチ、と現代の欧米人の身長とくらべても遜色はありませんでした。実際、孔子も諸葛孔明も、驚くほど高身長でした。
 日本人と中国人の身長の歴史的変化にも言及します。


cf.人気漫画『ゴルゴ13』の主人公の設定身長は182cm。1968年の連載開始時は大男だった。2020年現在では日本の成人男性の約7%は180cm以上。
cf.
155cmの人と186cmの人それぞれの視点から日本家屋を見てみると面白い「低いほうが明るいのか」「天井が大きい…?」

〇今回のポイント

〇中国人の身長
 多民族国家。地域差や時代差が大きい。
 伝統的に、北方人は高身長で南方人は低身長、というイメージがある。

中国で最も高身長の都市
 遼寧省錦州市 男性平均173.45cm 女性平均160.52cm
中国で最も低身長の都市
 江西省景徳鎮市 男性平均165.59cm 女性平均155.06cm
出典:https://world-note.com/average-height-in-china/
 日本の平均身長の都道府県別ランキングでは、最上位と最下位の差は3センチていどだが、国土が広い中国では8センチ近くもある。

 石器時代の例
 「5000−6000年前の仰韶時代から唐の時代(西暦618−907年)までの、中国人の骨格を分析したところ、仰韶時代の男性の平均身長は1m69cm?1m70cm、女性が1m63cmと、唐時代の中国人よりも身長が高かったことが立証し、古代人の栄養状態はきわめて良好だったとの推論を発表した」(Record China「飽食?粗食?古代中国人は栄養状態よく、高身長―中国」2008年6月7日)
「中国の山東省で5,000年前のものとみられる、長身の集団の遺骨が発掘されました。彼らは新石器時代に生きていて、とても背が高いという特徴がありました。(中略)この地で発掘された人骨を分析したところ、発見された集団の多くが身長約180センチ以上と、著しく背が高かったと新華社通信は報じています。記事では発掘された人数や性別の内訳は報じていないものの、最も背が高かったのは、約190センチの男性だったとのこと。同時代の周辺地域からすれば、龍山文化の人々は正真正銘の巨人にみえたかもしれません。(ある研究によれば、新石器時代の典型的な男性は約165センチ、女性は約155センチでした。)」(ギズモード・ジャパン「5,000年前の中国では身長約180センチ越えの集団が存在していた

〇日本人の平均身長の推移(成人男子)
縄文時代・・・低身長。男158cm、女149cm
古墳時代・・・中身長。男163cm、女152cm
江戸時代・・・低身長。男155cm、女143cm

 1775年に来日したスウェーデンの博物学者のカール・ツンベルク(Carl Peter Thunberg)は「日本人はいったいに体の格好がいい。身軽で、均整がとれ、丈夫で、筋肉が逞しい」「楽に暮らす身分の婦人は、外に出れば被布を冠るから、その白さにおいて、欧州の美人に劣らない」と評価した。出典 岩生成一編『外国人の見た日本』筑摩書房。

 長崎の出島の小さなベッドと、神戸異人館街の小さな西洋甲冑。
 →現代の日本人の平均身長から見ると、江戸時代の西洋人は小柄だった。

 古代日本語「タケル」・・・背丈がある偉丈夫、の意
夏目漱石(身長159cm)の小説『夢十夜』第五夜
「こんな夢を見た。
 何でもよほど古い事で、神代に近い昔と思われるが、自分が軍(いくさ)をして運悪く敗北(まけ)たために、生擒(いけどり)になって、敵の大将の前に引き据(す)えられた。  その頃の人はみんな背が高かった。そうして、みんな長い髯を生(は)やしていた」
cf.日本の作家の身長
  173cm 太宰治
  167cm 芥川龍之介
  163cm 三島由紀夫、宮沢賢治
  161cm 森鷗外
  160cm 梶井基次郎
  159cm 石川啄木、夏目漱石
  143cm 樋口一葉

〇歴史上の有名人の身長(推定・伝承)
 アダム・・・一説に身長39メートルで、930歳で死去。
 ゴリアテ・・・6キュビト半(約2.9メートル)
 孔子・・・九尺六寸(『史記』。春秋時代の1尺=22.5cmで計算すると216cm)
   cf.『孟子』等の「文王十尺、湯九尺」説
 釈迦・・・「丈六」(1丈6尺=約4.85メートル)
 イエス・・・150cmほど 出典:http://enigme.black/2015121501
 劉備・・・「七尺五寸」後漢時代の尺なら172cm、西晋時代の尺なら約180cm
 諸葛孔明・・・「八尺」後漢時代の尺なら184cm、西晋時代の尺なら約192cm
  cf.古典小説『三国志演義』では、関羽は9尺、張飛は8尺
 三浦義意(みうら・よしおき)・・・227cm。戦国時代の武将
 斎藤義龍(さいとう・よしたつ)・・・六尺五寸(約197cm)
 織田信長・・・170cmていど
 豊臣秀吉・・・推定140cmていど(オランダ商人・ティチング『日本風俗図説』では秀吉の身長を約50インチ(約127cm)とする)
 徳川家康・・・159cm
 宮本武蔵・・・182cm(6尺。『兵法大祖武州玄信公伝来』)
 雷電為右衛門・・・197cm
 二宮尊徳・・・182 cm以上(6尺超え)
 大久保利通・・・183cm
 李鴻章・・・182cm
 小村寿太郎・・・156cm(パスポートに「五尺一寸」とある)
 白洲次郎・・・175cm(孫の信哉氏による)
  cf.[白洲信哉 第1回 「伝記が書かれるたびに身長が伸びて、とうとう185cmになった祖父・白洲次郎の思い出」]2012.7.4
 毛沢東・・・172cm(ニクソンとの握手の写真からの推定。公的には180cmていどとされる)
 ケ小平・・・150cm
 習近平・・・180cm
 安倍晋三・・・175cm
 ドナルド・トランプ・・・190cm

〇中国人から見た日本人の身長
「倭」・・・右半分の「委」は「矮」「萎」等にも含まれる。
遣唐使・・・唐人にばかにされぬよう、身長も含めて容姿の優れた日本人を優先的に選んだ。
 834年に遣唐副使に任ぜられた小野篁(おののたかむら)の身長は六尺二寸(約188cm)だった。
 則天武后と会見した粟田真人も、玄宗皇帝に重用された阿倍仲麻呂も、唐人を感心させたほどの美男子だった。cf.王勇『中国史のなかの日本像』(農山漁村文化協会、2000年)第四章第三節「遣唐使の風貌」

〇李鴻章と小村寿太郎
「恰幅のよい清国の宰相李鴻章が、各国使臣夫妻らの中で小村が最も背が低く清国の十五、六歳ぐらいだ、と笑いながら言うと、小村は、日本では大男総身に智恵がまわりかね、うどの大木、半鐘泥棒と言って大男は国家の大事を託しかねると言われていると答え、李の顔色を変えさせたこともある」吉村昭『ポーツマスの旗 外相・小村寿太郎』新潮文庫版pp.97-98


第4回 物流の要:道路と運河――中国高速鉄道の原型
日付変更2020/3/26 中国大陸の物流は、道路と運河に支えられてきました。どこまでも草原が続くモンゴルや、海に囲まれた日本とは、まったく物流の条件が違いました。中国五千年の文明を支えてきたのは、人工血管ともいうべき道路と運河です。21世紀の中国の高速鉄道も、道路と運河の延長上にあります。
道の文化誌 2019年1月12日]

〇今回のポイント
〇中国と土木工事
 漢文では土木工事を「功」と呼んだ。
 中華帝国の富は、西洋に比べ、非耐久資産が乏しかった。

 石材や金属や運河などのインフラ・・・・・・耐久資産。腐らずに長く残り、数百年単位の長期的資材として蓄積できる。
 ヒトや食糧や有機質の奢侈品(絹など)・・・・・・非耐久資産。長期的な財産として蓄積できない。

 ヒトのマンパワーは老化や死で消滅する。食糧は食べると消える。
 中国の歴代王朝は、非耐久資産を耐久資産に変えるため、熱心に土木工事を行った。

〇版築(はんちく)
 黄土を突き固めて巨大な壁や建物を造る工法。および、その工法によって造られた建造物のこと。
 中国では、城壁や万里の長城、道路などを版築で造った。ローマ帝国や日本の律令国家とくらべて、中華帝国の千年以上の遺物が少ない理由は、版築にある。

〇故事成語「伊尹(いいん)の土功」──『淮南子』(えなんじ)斉俗訓
 歴代王朝が行った土木工事は、農民の過度な負担という悪政になることもあれば、公共事業による資本の再配分という善政にもなりえた。
【原漢文】故伊尹之興土功也、修脛者使之蹠钁、強脊者使之負土、眇者使之准、傴者使之塗、各有所宜、而人性齊矣。胡人便於馬、越人便於舟、異形殊類、易事而悖、失處而賤、得勢而貴。聖人總而用之、其數一也。
【書き下し】故に伊尹の土功を興すや、修脛(しゅうけい)なる者には之をして钁(くわ)を蹠(ふ)ましめ、強脊(きょうせき)なる者には之をして土を負はしめ、眇者(びょうしゃ)には之をして准せしめ、傴者(うしゃ)には之をして塗らしむ。各(おのおの)宜しき所有りて、人の性は斉(ひと)し。胡人は馬に便に、越人は舟に便なり。形を異にし類を殊にするもの、事を易(か)ふれば而ち悖(もと)り、処を失へば而ち賤しく、勢を得れば而ち貴し。聖人は総(す)べて之を用ふ、其の数は一なり。
【大意】いにしえのすぐれた政治家・伊尹の土木工事は、適材適所で見事だった。足が強い人には土を踏み固めさせた。背筋力が強い人には土を背負わせた。片方の目が不自由な人には測量の仕事をさせた。背中が曲がっている人には低いところを塗る仕事をさせた。適材適所の環境さえ整えてもらえれば、人間の個性の優劣はなくなる。北の遊牧民族は馬に乗るのが上手だし、南の異民族は舟を操るのがうまい。障がい者も外国人も、慣れない仕事をやらされれば失敗するし、慣れない所に置かれれば低い評価しかもらえないが、うまく勢いに乗れればS級になれる。聖人はあらゆる人材を登用するが、人材登用のコンセプトは一つなのである。


〇故事成語「同文同軌」
 大陸国家では、道路を制する者が天下を制した。
 秦の始皇帝の「同文同軌」の「軌」は、馬車の車輪の幅を意味した。
 近代でも、鉄道の軌間(レールの幅)は、国家の安全保障と直結していた。
  シベリア鉄道は広軌(1524ミリメートル→1520ミリ)
  満鉄は標準軌(1435ミリ)
  日本国内の鉄道の多くは狭軌(1067ミリ)

〇中国の大運河の略史
 万里の長城とともに旧中国の残した二大土木事業。
 南は豊かな経済圏、北は軍事力が強い政治圏。両者を結ぶ大動脈。

参考 中国の大運河は内骨格、日本の廻船は外骨格。
 大坂から江戸までの海運に要した時間
 江戸前期は平均32.8日、最短10日。廻船の性能が劣り、順風帆走や沿岸航法しかできなかったため。
 江戸後期の天保年間には同じ航路を平均12日、最短6日。廻船の船体である弁才船の改良や航海技術の進歩のおかげ。
 江戸時代の海運の大幅な進歩により、日本各地の一体化が進み、国力が向上し、ひいては明治維新を迎えることを可能にした。
   
第5回 弓矢という武器――中国の弓矢の名手と日本との違い
 世界各地の武器のなかで、弓ほどそれぞれの地域の特徴をよく反映している道具は、他にありません。高温多湿で木材資源にめぐまれた日本の長弓と、牛角馬腱の中国の短弓を比較すると、設計思想や性能、運用など、あまりの違いの大きさに驚きます。
 『論語』で射礼に言及した孔子や中島敦の短編小説『名人伝』にも出てくる紀昌など中国の弓の名手を、日本の弓の名手である那須与一や日置弾正正次などと比較しつつ、弓から見た中国文明を解説します。

〇今回のポイント
・武器と兵器の違い
・弓がある国、弓がない国
・遠戦と白兵戦
・日本の武士と西洋の騎士
・和弓と中国・朝鮮の弓の違いは、民族性を反映している


○中国は古来、弓術が比較的発達していた。
・中国の十八般武芸(十八般兵器)の筆頭は「一、弓」「二、弩(ど。いしゆみ)」。
一弓、二弩、三槍、四刀、五剣、六矛、七盾、八斧、九鉞、十戟、十一鞭、十二鐧、十三撾、十四殳、十五叉、十六耙、十七綿縄套索、十八白打。
・日本の「武芸十八般」も弓は重視するが、弩は無視。
 同じ東アジアの国でも、日本と中国の伝統的な武器のレパートリーが違う理由は、「人種」的な筋力の差ではなく、社会的・文化的な理由。
・集団戦志向
・遠戦志向
・牛角馬腱など材料も豊富
・弓と弩の二段構えだった中国と、弓だけの日本

○弩(ど。いしゆみ)
 器械弓の一種。西洋に伝わりクロスボウ(日本語ではボーガンと言う。「ボウガン」は登録商標)になった。
 日本ではなじみの薄い武器ないし兵器である。「いしゆみ(石弓)」は「弩」とは全く別の武器だが、日本では「弩」と混同されている。中国の楽器「二胡」を、多くの日本人が「胡弓」と呼んでしまうのと同様の現象である。
 ウイリアム・テルは、クロスボウ(弩)の名手であるが、日本では弓の名手だと勘違いされることが多い。

 原始的で素朴な弩は、古代中国の少数民族のあいだでも見られた。野生の動物を狩る罠から発展した、という説もある。
 金属の部品を使った強力な弩は、高度な設計技術を必要とする精巧な「兵器」であり、古代においては運用できる国は限られていた。製造技術は国家機密であり、武器庫で管理されていた。

 弓と比べ、弩は威力と命中精度にすぐれ、また伏射も可能なので、伏兵にすぐれていた。逆に、弓は取り回しが便利で騎射にも使え、速射もでき、弓を引く力の加減で殺傷力を調整することも簡単だった。
 中国では、兵法家の孫臏(そんぴん。紀元前4世紀)が、馬陵の戦いで、ライバルの龐涓(ほうけん)を、弓と弩の伏兵で倒した故事が有名。
 弩は日本にも弥生時代に伝わった。律令国家時代は、弩の製法は日本の国家機密とされた。が、日本では、弩は国情にマッチしなかったため、武士の時代にはすたれた。
 中国では、連発式の「連弩」が開発されるなど、弩を使い続けた。日清戦争(1894年−1895年)でも清軍の一部は弩を装備していた。

  ○中国の弓の名人
・『列子』湯問篇の「紀昌学射」の故事 
こちら
 → 中島敦の短編小説『名人伝』1942年(昭和17年)(青空文庫)
 趙の邯鄲の都に住む紀昌という男が、天下第一の弓の名人になろうと志を立てた。己の師と頼むべき人物を物色するに、当今弓矢をとっては、名手・飛衛に 及ぶ者があろうとは思われぬ。百歩を隔てて柳葉を射るに百発百中するという達人だそうである。紀昌は遥々飛衛をたずねてその門に入った。
 飛衛は新入の門人に、まず瞬きせざることを学べと命じた。紀昌は家に帰り、妻の機織台の下に潜り込こんで、そこに仰向にひっくり返った。眼とすれすれに機躡 が忙しく上下往来するのをじっと瞬かずに見詰めていようという工夫である。理由を知らない妻は大いに驚ろいた。第一、妙な姿勢を妙な角度から良人に覗かれては困るという。 厭がる妻を紀昌は叱りつけて、無理に機を織り続けさせた。来る日も来る日も彼はこの可笑しな恰好で、瞬きせざる修練を重ねる。二年の後には、 遽ただしく往返する牽挺が睫毛を掠めても、絶えて瞬くことがなくなった。彼はようやく機の下から匍出す。もはや、鋭利な錐の先をもって瞼を突つかれても、 まばたきをせぬまでになっていた。不意に火の粉が目に飛入ろうとも、目の前に突然灰神楽が立とうとも、彼は決して目をパチつかせない。 彼の瞼はもはやそれを閉じるべき筋肉の使用法を忘れ果て、夜、熟睡している時でも、紀昌の目はカッと大きく見開かれたままである。 ついに、彼の目の睫毛と睫毛との間に小さな一匹の蜘蛛が巣をかけるに及んで、彼はようやく自信を得て、師の飛衛にこれを告げた。
(以下略)
・古典小説『三国志演義』の弓の名人
 「弓だけ」でなく「弓もすごかった」というタイプの武人が多い。
 呂布・・・「轅門射戟」(えんもんしゃげき)など超人的。
 この他、蜀漢の黄忠、呉の太史慈、魏の夏侯淵なども弓の名手とされる。参考 https://sangokushirs.com/articles/112

 史実では、青年時代の董卓(とうたく)は騎射の名手で、馬で駆けながら左右の両手で弓を引くことができた、とされる。
 また史実では、弩(ど。いしゆみ)も多用された。が、弓が「武芸」「修養」「名人」と結びついていたのと違い、弩は雑兵の「兵器」という性格上「名人」はいない。
 史実の『三国志』では、蜀漢のケ芝(とうし。?−251年)が弩でサルを射た話なども伝わる。魏の名将・張郃(ちょうこう)をしとめた蜀軍の矢は、弩の可能性がある(http://www.360doc.com/content/17/0620/00/8527076_665008178.shtml)。
 諸葛孔明の同僚だった龐統(ほうとう)は、古典小説『三国志演義』では「落鳳坡」で戦死したことになっているが、史実では戦場で「流矢」にあたって死んだ。


○日本の弓の名人は「武士」。
 那須与一(なすのよいち)12世紀後半・・・『平家物語』の屋島の戦いで、扇の的を射抜く場面で有名。
 源為朝(みなもとのためとも 1139年−1170年)・・・身長2メートル以上、五人張りの強弓を操ったとされる。琉球王朝の祖になったという伝説も。
 日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ) 15世紀後半−16世紀前半・・・弓道の日置流の祖。「貫・中・久」を旨とする実戦的な射術を広めた。

 近衛龍春・作の歴史小説『九十三歳の関ヶ原 弓大将大島光義』 https://www.dailyshincho.jp/article/2016/08121530/?all=1「生涯現役を貫いて、隠居せず、弓を引くこと80余年。97年の生涯で参戦した合戦は53、得た感状は41枚」

○「弓道」と「弓術」
 オイゲン・ヘリゲル著『日本の弓術』岩波文庫 参考 https://brevis.exblog.jp/12663825/

○世界の弓の分類
 作り方・・・単材弓、複合弓
 サイズ・・・長弓、短弓
 器械弓・・・弩(ど。いしゆみ)、クルスボウ(ボーガン)、バリスタ、カタパルト、・・・

 日本の和弓は、複合弓の長弓である。「武士」の存在との関連もあり、器械弓は普及しなかった。
 日本の武士の弓には「礼射、騎射、歩射」などの系統がある。

武道としての「弓道」と、戦場の「弓術」は別物。

戦国マンガ「#花の慶次」の公式Facebookページで #ガチ甲冑合戦 が紹介された時の師匠の甲冑を纏っての弓術の動画です。
敵の矢・鉄砲などから身を守るために身を低くし、甲冑や兜に引っかからないよう、弦の引き方が現代弓道とかなり違います#ガチ甲冑合戦 の詳細 https://t.co/n7pe75W3Po pic.twitter.com/HRvFcy7lwf

— 吉村英崇@サンダル用意 _(:3 」∠ )_ (@Count_Down_000) September 27, 2018

蟇目鏑(ひきめかぶら)で疫病終息への追い討ち。

6月6日、神奈川県小田原市にあるサドルバック牧場での「馬上弓比べスクール」も再開。

この日は定員の20名満員。初めて体験する方も6名。

いつもは室内で食べるランチも三密を避けるため特別に上階のカフェの相模湾を望む絶景のテラスで食べました。 pic.twitter.com/Uwj5PN5Oo9

— 市村弘 (@kerpanen) June 8, 2020
○東アジアの弓の歴史