逼[人至]赴科(ひってつふか)Bi-zhi-fu-ke
これから見ていただくのは、逼[人至]赴科、甥(おい)を試験に行かせる、という芝居です。([人至]はニンベンの右に至と書く一文字。めい・おいを表わす「姪(てつ)」の異体字)
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ここは道教の尼僧院です。道教というのは、中国の神々をあがめる宗教です。
この尼僧院の主である、年をとった尼僧が登場し、詩とせりふで自己紹介します。
「(詩)わたしのおいっ子(こ)と、若い尼僧が
恋仲になり、困っています
もし、ふたりの恋を認めたら
この尼僧院の風紀(ふうき)はメチャクチャです
ああ、困ったことです。わたくしは、亡き兄のわすれがたみであるおいっ子をひきとり、彼に勉強させていました。おいが高級官僚の試験に合格し、良家(りょうけ)のむすめをめとって、わが一族の名誉を高めてくれればと願っていたのですが、なんと、おいっ子は、この尼僧院の若い尼僧・陳妙常と恋仲になってしまいました。ふたりは、ゆうべ夜中に逢引(あいびき)をした様子。ここは尼僧院です。神さまから天罰がくだり、おいっ子のこれからの人生もだめになるのではないかと、わたくしは心配しています」
おばは、少し考えたあと、言います。
「おいを都(みやこ)へ、試験を受けに行かせることにして、ふたりを引き離しましょう。まことに罰当(ばちあ)たりなことでございます」
おばは、弟子の若い尼僧に命じ、おいの潘必正を呼び出させます。
潘必正が登場して歌います。
「書斎を出て、ゆっくりと緑の苔(こけ)の道を歩く
おばさんがぼくを呼んでいる
はてさて、一体なにごとだろう
ぼくが勉強をなまけていると心配してか
ぼくに勉強の進みぐあいをテストするつもりなのか
たしかに今は勉強よりも、頭の中は彼女のことでいっぱい
楽器の琴(こと)を弾いて、彼女と心を通じ合うしあわせな一瞬
琴の音色に恋ごころを託して、ふたりの気持ちはぴったり共鳴する
もう陳妙常との愛なくしては、ぼくは生きられない」
おばは「早く来なさい」と怒ります。
潘必正は続けて歌います。
「おばさん、今すぐ行きますよ
さておばさん、一体なんのご用でしょうか」
おばは、おいの潘必正に、都に試験を受けに行くようすすめます。
潘必正は、いとしい陳妙常と離れたくないので、言いわけします。
「ぼくは、長い病気がなおったばかりの病み上がりの身ですし、受験勉強も不十分なので、合格する自信がありません。今回の試験は見送って、次回の試験を受けることにします」
おばは「時間を無駄にしないために、今回、試験を受けにゆきなさい」とすすめます。
潘必正は「ひょっとして、おばさんはぼくのことを厄介(やっかい)ばらいしたいんでしょ」と言います。
おばは怒って歌います。
「あなたのことを邪魔だなんて、思ったことは一度もありません
おばとして、いつもあなたのことを心配しているのですよ
高級官僚になる試験に合格することは、一生の大事
あれこれ言い訳せず、試験を受けに行きなさい」
潘必正は歌います。
「こまったぞ
おばさんの言葉には、ふくみがある
よもや、ぼくと陳妙常の仲を感づかれてしまったのだろうか
とりあえず、顔に笑いを浮かべ答えておこう(ここまで独り言)
おばさん、ぼくは言い訳なんかしませんよ
これからは、おばさんの言うことをよく聞きます
おおせのとおり、都にのぼり試験を受けることにします」
おばは、潘必正に「よろしい、いますぐ出発なさい」と言います。
潘必正は、旅の準備に時間をください、と頼みますが、おばは許しません。
彼女はおいっ子の召使(めしつかい)を呼びだし、これからすぐに都にのぼるよう命令します。
潘必正は「これから奥に行き、お世話になった尼僧のみなさんに挨拶(あいさつ)してきます」と言います。本心は陳妙常に会って行きたいのです。
おばは「あなたが奥に行く必要はありません。挨拶したいのなら、彼女たちをここに呼び出します」と言います。
おばは、召使にこっそり耳うちし、尼僧たちのうち陳妙常だけは呼び出さぬよう命令します。
陳妙常以外の尼僧たちが登場し、口々に、潘必正にお別れの挨拶を言います。
陳妙常が登場します。彼女は、潘必正の秘密の恋人です。
陳妙常は、表の様子が変なことに気付き、こっそり「鐘(かね)つき堂(どう)」の影にかくれ、様子をのぞくことにします。
おば、潘必正、尼僧たちが尼僧院の本堂に入ってきます。
道教では「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」といって、仏教の菩薩(ぼさつ)も道教の神としてまつっています。
潘必正は、旅の無事と合格をお祈りします。
「菩薩さま、菩薩さま。わたくし潘必正は、今日、ここを旅だちます。わたくしの胸のなかの気持ちは、菩薩さまだけがご存じでしょう」
一堂は祈ります。
陳妙常はこっそりと、本堂の窓から、紙をまるめたものを潘必正に投げます。
潘必正は気がついて、陳妙常の方をふりかえります。
おばは「あなたはどこを見ているの、しっかり菩薩さまを拝みなさい」と注意します。
潘必正は、おばに気付かれぬよう、こっそり自分の座席をずらし、陳妙常が隠れているところが見えるように動かそうとします。しかし、おばに注意され、また座席の位置をもどします。
潘必正は、表面上はおばにむかって、実際にはかくれている陳妙常に聞こえるように言います。
「おばさん、おばさんのお言い付けで、ぼくはこれから急遽(きゅうきょ)、試験をうけるため都にのぼることになりました。今のわたくしの気持ちは、とても言葉ではあらわせませんが、どうぞ、お元気でいてください。わたくしは決して、あなたのことを忘れません。もし試験に合格できたら、きっと必ずあなたをお迎えにあがります」
潘必正は、お別れのお辞儀(じぎ)をします。
みなが頭をさげたすきに、潘必正はひそかに陳妙常と目をかわします。
潘必正は表面上は一堂にむかって、実際はこっそり盗み聞きしている陳妙常にむかって、「わたしが身を立てたら、きっと再会いたしましょう」と歌います。
おばは、尼僧たちを連れて、おいを秋江(しゅうこう)の川岸(かわぎし)まで見送ることにします。
潘必正は、陳妙常に思いをのこしながら、ゆっくりとその場を去ります。
このあとものがたりは京劇「秋江」へと続きます。
(完)