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西太后 ― 大清帝国の興亡

最初の公開2017/11/17 最新の更新2017/12/01

https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/41430/
早稲田大学エクステンションセンター 中野校
ジャンル 世界を知る コード330317
西太后 ― 大清帝国の興亡
秋講座  加藤 徹(明治大学教授)
曜日 金曜日
時間 13:00〜14:30
日程 全3回 ・11月17日 〜 12月01日
(日程詳細)
11/17, 11/24, 12/01

目標
・歴史の真実を知る面白さを学ぶ。
・現代と近未来の問題を歴史をヒントに考える。
・今も昔も変わらぬ中国社会の特徴を理解することで、日本社会への教訓を得る。

講義概要
 現代中国の原点は、清朝の時代にあります。中国人の心情的な国家戦略を一言でまとめると「中国の世界における存在感を、清朝の時代に戻すこと」に尽きます。
 19世紀初頭の清朝は、世界一の超大国でした。当時の中国の推定GDPは全世界の三分の一を占めていました。世界中の銀が、中国を中心に流通し、清朝の領土は、歴代王朝で最も広大でした。しかしながら19世紀の2つの戦争、アヘン戦争と日清戦争での敗北によって、中国は弱国に転落し、長い屈辱の時代に入りました。現代中国が抱える領土問題も、民族問題も、「反日愛国」も、その直接の起源は清朝にあるのです。  残念ながら、日本人の中国史理解は漢や唐など古典期が中心です。現代と未来を理解するうえで不可欠な近世の中国について、一般の日本人はあまり知りません。
 本講義では、皇太后として半世紀の長きにわたり清末の中国に君臨した西太后をキーパーソンとして、清朝と現代中国の本質を、わかりやすく解説します。西太后は本当に「悪女」だったのか。中堅官僚の平凡な家に生まれた彼女が、なぜ、人口四億の大清帝国に君臨することができたのか。なぜ清は短期間のうちに超大国から弱国に転落したのか。……清の衰亡と、現代中国の急成長は、ともに同じ中国社会という土壌から生まれた歴史的現象であり、実は表裏一体なのです。
 中国と日本の未来を考えるうえで、清末の歴史を理解することは、とても有用です。講義にあたっては、写真やビデオなども豊富に使い、わかりやすく説明いたします。

各回の講義予定
日程講座内容
11/17中華帝国の完成態としての清朝
11/24西太后の栄光と悲惨
12/01清朝が残したもの

ご受講に際して(持物、注意事項)
あらかじめ参考図書(拙著『西太后 ― 大清帝国最後の光芒』中公新書)をお読みくださると、より理解が深まると思います。
テキスト・参考図書 参考図書 『西太后 ― 大清帝国最後の光芒』(中公新書)(ISBN:978-4121018120)

「コトバンク」の清朝の説明[こちら]
デジタル大辞泉の解説 しん【清】
 中国最後の王朝。1616年、女真族のヌルハチ(太祖)が明を滅ぼし、国号を後金として建国。1636年、2代太宗が国号を清と改称。都を瀋陽から北京に移した。康熙・乾隆両帝のとき全盛。19世紀に入って欧米列強の侵略や、太平天国などの農民反乱により衰退。1912年、辛亥革命によって滅亡した。

日本と清朝
 「明末乞師」と朱舜臣 [こちら]
 潜在的仮想敵国としての清 山崎闇斎(1619-82)の挿話[こちら]



[https://www.youtube.com/watch?v=tb3xO9bYB8g&list=PL6QLFvIY3e-mvO36WfTsjsLv_CpZMj6J-]


中国のおおまかな歴史区分の例
 先秦時代、秦漢、魏晋南北朝、隋唐、五代十国、宋元、明清……
中国の人口の変化(推定。拙著『貝と羊の中国人』参照)
 春秋時代 5百万人、戦国〜秦 2千万人、漢〜唐 6千万人、宋〜明 1億人、
清 1億人〜4億人

中国歴代王朝の特徴
〇華夷思想/中華思想 朝貢、冊封(さくほう)……
〇漢民族、蒙古民族、満洲民族、……
〇「状元は方言を喋る。皇帝は聴いてもわからない」
〇万里の長城のくびき
〇おおむね三百年が限界


清 略年表
1115-1234 女真(民族名)の金(王朝)
1592-98 文禄・慶長の役
1616 ヌルハチ(太祖)、後金を建国
1635 ホンタイジ(太宗)、役女真(民族名)を満洲に改称
1636 後金を清(国号)に改称
1644 明、滅亡。清の「入関」
1661 康煕(こうき)帝即位。鄭成功(ていせいこう)が台湾で抵抗。
1673 呉三柱らの三藩の乱(〜1681)
1689 ロシアとネルチンスク条約
1717 広東で「地丁銀」制を施行。以後各省に及ぶ。人口爆発。
1735 乾隆帝即位
1782 『四庫全書』完成
1790 京劇、誕生(乾隆55年、「四大徽班」の北京進出)
1793 イギリスの使節マカートニーが北京にくる
1796 白蓮教徒の乱(〜1801)
1851 太平天国の乱(〜1864)
1840 アヘン戦争勃発
1856 第二次アヘン戦争勃発(アロー戦争)
1894 日清戦争勃発
1900 北清事変(義和団の乱)
1904 日露戦争
1905 科挙制度、廃止
1908 光緒帝、西太后、死去
1911 辛亥革命
1912 清朝滅亡
参考 [清の時代の年表]


清朝 歴代の皇帝
廟号通称姓名在位
1太祖高皇帝天命帝愛新覚羅努爾哈赤在位1616年 - 1626年
2太宗文皇帝崇徳帝・天聡帝愛新覚羅皇太極在位1636年 - 1643年
3世祖章皇帝順治帝愛新覚羅福臨在位1643年 - 1661年
4聖祖仁皇帝康熙帝愛新覚羅玄Y在位1661年 - 1722年
5世宗憲皇帝雍正帝愛新覚羅胤在位1722年 - 1735年
6高宗純皇帝乾隆帝愛新覚羅弘暦在位1735年 - 1795年
7仁宗睿皇帝嘉慶帝愛新覚羅顒琰在位1796年 - 1820年
8宣宗成皇帝道光帝愛新覚羅旻寧在位1820年 - 1850年
9文宗顕皇帝咸豊帝愛新覚羅奕詝在位1850年 - 1861年
10穆宗毅皇帝同治帝愛新覚羅載淳在位1861年 - 1875年
11徳宗景皇帝光緒帝愛新覚羅載湉在位1875年 - 1908年
12恭宗愍皇帝末代皇帝、宣統帝愛新覚羅溥儀在位1908年 - 1912年

 西太后は咸豊帝の妃、同治帝の生母。
 宣統帝は「満洲国」の「康徳帝」(在位1934年−45年)と同一人物。
 中華人民共和国では、明の滅亡までは明を正統の王朝とする歴史観があるため、「清の入関後の何代目の皇帝」と言う。入関後の初代皇帝は順治帝であり、最後の末代皇帝・溥儀は入関後の第十代皇帝である。

清朝の後宮の制度
内廷主位
「嫡子」と「庶子」…「庶子」は現代では婚外子の意だが、昔は側室の子の意。
「生母」と「嫡母」…「嫡母」は父の正妻、生母は自分を産んでくれた女性。

清朝初期…三等級
皇后(中宮)、皇妃(内廷主位)、庶妃
清代中期以降…八等級
皇后一人、皇貴妃一人、貴妃二人、妃四人、嬪六人、貴人、常在、答応

清朝の後宮の制度。日本の皇室と違う点も多い。
 皇帝の正妻である皇后は一人だけ。
 后妃は原則として「選秀女」で選ばれるが、実際には、皇帝の潜邸(潜龍邸。皇太子ではなかった皇帝の、皇子時代の住まい)時代の妻妾が、夫の即位とともに后妃に繰り上がることもあった(咸豊帝と東太后のケース)。  皇后が皇后と死別した場合は、別の女性を皇后に立てることができるが、一代の皇帝につき最大、三人までが原則。
 皇帝の嫡母だけでなく、皇帝の生母も皇太后(皇帝の母親)に認定可能(同治帝の嫡母は東太后、生母は西太后)。
 貴人以下には定数がない。

選秀女(中国語の簡体字では“选秀女”)
 清の時代の后妃選定制度。3年に一度、紫禁城で行う。対象は旗人の娘(数え13歳から17歳くらいまで)。皇帝みずからが書類選考と面接により選考する。
 「秀女」は、宮中で働くすぐれた女性、の意。后妃候補のハイクラスの秀女もいれば、労働に従事する宮女になる秀女もいる。前者と後者の選考は別々に行われるが、両方とも「選秀女」と呼ばれた。単に「選秀女」と言うと、前者の后妃候補選抜試験を指した。以下、狭義の(前者の意味での)選秀女のみを説明する。
 「選秀女」に合格するのはほんの一握りだった。
 受験する少女は、華美な服装や化粧は禁じられ、数名(通常は6名ほど)一列に並び、皇帝の面接を受けた。
 旗人の少女にとって、「選秀女」は通過儀礼であり、これを受験しないと一般人とも結婚できなかった。「選秀女」の結果、優秀と認められた少女は、紫禁城の後宮に入らず、宗室の嫁となるケースも多かった(西太后の妹もこれ)。
 合格して秀女になると、召されて後宮に入った。皇帝の寵愛を受けて后妃になる秀女もいれば、寵愛を受けぬまま二十五歳〜三十歳くらいで「お役御免」になって後宮をやめる秀女もいた(「お手つき」になると生涯、飼い殺しになった)。

西太后の名前(呼ばれかた)の変遷
幼名 蘭児(異説もある)
蘭貴人(正式な記録で確認できる呼称)→懿貴人→懿嬪→懿貴妃→(咸豊帝の死後)慈禧皇太后、西太后→慈禧端佑皇太后→…→孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后

西太后の略歴
姓 葉赫那拉(エホナラ、イェヘナラ)
個人名 不詳
出生 道光15年10月10日(1835年11月29日)
出生地 不明(北京説が有力)
死去 光緒34年10月22日(1908年11月15日) 享年72
父親 満州鑲藍旗人葉赫那拉氏恵徴(清朝の中堅官僚)
息子 同治帝
養子 光緒帝(妹が産んだ子)

通称 西太后、慈禧太后、那拉皇太后、孝欽顕皇后、孝欽、老仏爺(ほとけさま、の意)、老祖宗(ご先祖さま、の意)、聖母皇太后
正式な諡号 孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后


 「世」は30年。還暦は60年。大還暦は120年。
 西洋人は「4年に一度」「世紀=100年」単位だが、中国人は3年、30年、60年、120年などのスパンで歴史を考えることが多い。
 香港・・・99年間の租借。

西太后にゆかりがある(と仮託されているものも含む)料理や商品などの例
陝西省西安市の「太后火鍋餃」(太后火锅饺)
「慈禧牌」の「按摩棒」
トウモロコシの粉で作ったおやつ小窩頭(小窝头)
その他、漢方薬や薬膳料理の数々

 中国の庶民は西太后を「悪女」と言いつつ、庶民の「プチぜいたく」では西太后にあやかりたがっている。

西太后を演じた女優
 フローラ・ロブソン(米映画『北京の55日』1963)、劉暁慶(リウ・シャオチン)、藤間紫(舞台『西太后』初演1995)、田中裕子(NHK『蒼穹の昴』)、他多数。

清朝の遺産 正と負の両方の遺産がある

★「小規模実験工場」的時代
満洲国から戦後日本へ、洋務運動から中華人民共和国へ

★マックス・ヴェーバーによる「支配の三類型」
権力と支配の正統性のパターンは、カリスマ的正統性・伝統的正統性・合法的正統性。西太后個人の権威はカリスマ的正統性、清朝の「祖制」は伝統的正統性、清末の改革は合法的正統性。

★洋務運動・中体西洋
 体制は中国のまま、技術などは西洋の先進技術を導入、という改革スタイル。

★抗日愛国の起源
 大衆運動としての「扶清滅洋」と「義和団事件」。中国における「統制派」と「排外派」

★西太后は「勝ったから凱旋したのではない。凱旋したから勝ったのである。」(拙著『西太后』p.254)
 「六四天安門事件」の処理、中国映画『カイロ宣言』の主役が蒋介石でなく毛沢東である意味、「抗日記念館」の意味・・・・・・

★中国のブランドイメージ
 「悠久の歴史」「激動の近現代」というステレオタイプのイメージ。  現代中国の世界的ブランドは「パンダ」と「孔子」。
 中国の国家ブランド力をアピールするためには、いまだ明清時代の遺物(紫禁城、万里の長城、頤和園、満漢全席、京劇、等)に頼らざるを得ない現代中国。
 中国の高級ブランド的な伝統文化は、西太后ら「悪女」の贅沢の遺産である。  習近平がトランプに紫禁城で京劇を見せた、本当の意味。

★中国の領土意識
 清朝の領土・領域は段階的だった。直轄地、藩部、冊封国、朝貢国、化外の地、絶域・・・・・・
 以下はあくまでも清国人の目線から見た区分けである。現代中国人も潜在意識では、同様の感覚をもっている。
 直轄地・・・現代中国の特別市や省。藩部・・・自治区、モンゴル・チベット・新疆など。冊封国(属国)・・・韓国・朝鮮・琉球など。朝貢国・・・アフガニスタンなど。
 ※江戸時代の日本は清朝と「絶交」状態を保ち、清国から見ても、イギリスと同様の遠い独立国であった。

★アヘン戦争と日清戦争
 日清戦争の敗戦のほうが、中国へのショックが大きかった。

★清と現代中国の「北京性」
 南が北を征服した明王朝と、北が南を征服した清王朝。
 清王朝の時代に「北京語」の優位性が確立。
 中華民国期には、「京国問題」(中国の共通語は、北京語ベースにするか、南方の中国語をベースにするか、という論争)や、南京への遷都もあった。
 中華人民共和国は北京を首都とし、北京語を土台とする「普通話」を共通語とする。
 清朝すら完成することができなかった「中華帝国」を、21世紀の中華人民共和国が完成させることが、現代中国の「中国夢」の本質である。


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