明治大学文学部心理社会学科「哲学専攻」発足記念シンポジウム「なぜ、今、哲学なのか:発言する哲学、越境する哲学」を4月14日に開催した。哲学専攻の新入生約40名を含め、200名を超える参加者を得ることができた。
土屋恵一郎学長から、中村雄二郎や市川浩などの名前を挙げて、明治大学における哲学研究・教育の伝統を紹介しながら哲学専攻の発足を祝う言葉をいただいたあと、二部に分けてディスカッションを行った。
第1部では、宮﨑裕助氏、國分功一郎氏、河野哲也氏からの提題を受けて、登壇者のあいだで議論を行った。多くの論点が取りあげられたが、あえてまとめるならば、「制度」、「概念」、「自由」という3つの言葉に集約できるだろう。
まず宮﨑氏の提題は、制度としての哲学専攻の意義を説くものだった。イマヌエル・カントやジャック・デリダの大学論を参照した上で、政治的な利害関係から自由に、真理を純粋に探求する場として、哲学専攻が大学制度のなかにあることの価値を説くものだった。しかし、利害関係から離れた場所を、制度のなかで実現するのは無理なのではないか。このような疑問も古くから提起されていたという。哲学専攻の坂本邦暢からは、利害から完全に自由になるのは不可能だとしても、自分をとらえる利害を吟味し、そこから自由になろうとする試みの場としての、哲学専攻が制度として存在することには、やはり意義があるのではないかという応答がなされた。
これを受けるかたちで、國分氏は哲学と政治との関わりの深さを、概念という切り口から指摘した。深刻な政治的な問題があるときほど、基本的な概念の分析が必要となり、それゆえ哲学が必要とされる。この意味で、哲学を必要とする時代は不幸であり、今はまさにそのような時代なのだという認識が率直にしめされた。哲学専攻の池田喬からは、いろいろな現場では、最後は概念が問題になるという応答がなされた。たとえば自然環境に関する議論の場で、ある草を「雑草」とみなし刈りとってもいいとするか、それとも特定の種の草とみなし、保全の対象とするかが話し合われるとき、まさに概念が問題になっている。
最後に河野氏は自由な思考としての哲学について、長年にわたる哲学プラクティスの経験をもとに語った。哲学の伝統からも、自分たちのこれまでの考えからも、常に自由になろうとする思考の技法として、哲学プラクティスがあるとのことであった。最後に池田から、哲学専攻では哲学プラクティスを行うだけでなく、その意味や意義も研究するのであり、また新たに立ち上げられる予定の哲学プラクティス学会の一つの拠点にもなる予定だという告知があった。
いずれの提題も、哲学はどこで行われるのか、哲学はなにをするのか、そして哲学はなにを目指すのかという根本的な問いかけから出発して、「なぜ、今、哲学なのか」について考える手がかりを与えてくれるものだった。
第2部は末木文美士氏と中島隆博氏をお招きし、西洋哲学と起源を異にする仏教や儒教の可能性について討論した。
末木氏は、哲学を公共化できない「わたくし的」な問題を言語化していく営みだと定義され、西洋哲学に興味を抱きながらも納得を得られず、仏教研究に進んだご自身の経緯を話された。末木氏は、12、13世紀の写本を読むといった職人芸、手仕事を続けることで、通説を覆すこともでき、初発の哲学的な問いにも立ち返ることができたという。さらに、身近な死者の問題を通して、政治優位ではない倫理、一般に言われる倫理の次元と区別された宗教を構想する、現在進行中の取り組みについても語っていただいた。
中島氏は、哲学が孤独な営みであると同時に友を必要とするという話からはじめ、複数の言語で哲学することの重要性を強調した。また、宗教の権威が失墜し世俗化が進んだのち、どのように新たに規範を打ち立てるかという問題を提起し、F. ジュリアンの『道徳を基礎づける』やS. アングルのProgressive Confucianism(前進する儒教)の仕事がとりあげられた。その上で、哲学は対象から距離をとるばかりでなく、対象に関わっていくことが求められているとし、その一例として、T. カスリスのEngaging Japanese Philosophyの、きまじめに日本の哲学言説を読み解く仕事を示された。
両氏の提題を受け、哲学専攻の側からも応答を行った。垣内景子は、現在使われる日本語にも朱子学の用語が入り込んでいることを指摘し、腑に落ちる体験を得るために、儒学を含む日本の伝統思想を学ぶ必要性を強調した。合田正人は、末木氏の仕事を通して、今村仁司が晩年、清沢満之を再評価した仕事に目を開かれたことを発端に、清沢満之の無限や死者についての考えがレヴィナスを先取りするものとしても評価でき、コントやアラン、そして田辺元の哲学にもつながることを指摘した。問題提起と司会進行を志野好伸が務めた。
予定を変更して会場からの質疑応答を受けつけたが、西洋哲学だけでない哲学の可能性、哲学プラクティスなどを含むこれからの哲学の可能性などについて、多くの質問をいただいた。記入いただいたアンケートには、今後もこうした催しを開催してほしいという声が多数寄せられ、哲学専攻への期待をひしひしと感じることができ、主催側として非常に勇気づけられるイベントとなった。あらためてゲスト登壇者の先生方、来聴してくださった方々に感謝を申し上げたい。(文責:坂本・志野)