3-2 ガンツフェルト実験

明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川 幹人

 ガンツフェルト実験の手法は,ひとりの天才的な超心理学者によって,ドリームテレパシー実験をもとに開発された。

<1> 実験を実施した研究者

 ガンツフェルト実験の発祥の地は,ドリームテレパシー実験(3-1)と同様,マイモニデス医療センターである。1967年に,FRNMで研究活動していたチャールズ・ホノートンが,マイモニデスのプロジェクトに加わった。彼はFRNMで,超心理学実験に意識状態や内観の研究が重要であると主張したが,そうしたアプローチが所長のラインに受け入れられなかったので,マイモニデスへと異動したのである。1974年にクリップナーが10年間続けた研究部長を退いた後は,ホノートンが後任の研究部長に就任した。彼は,それまでのドリームテレパシー実験を通して培ってきたノウハウを集大成して,その年新たにガンツフェルト実験をスタートさせたのである。
 ガンツフェルトはマイモニデスで5年間行なわれたが,1979年実験室は閉鎖された(実験室を開設したウルマンはすでに,スウェーデンの大学の教授として転出していた)。ホノートンはマクダネルダグラス社のマクダネルから研究資金を得て,プリンストンに私設の精神物理学研究所を設け,ガンツフェルト実験を1989年までの10年間続けたのである。彼はまた,実験の自動化を図り,それを自動ガンツフェルト実験として確立した。ガンツフェルト実験は,FRNM(ラインは1980年に死去していた)を含めて世界各地で行なわれ,ある程度の再現性が見られた。
 ホノートンは,精神物理学研究所がマクダネルの死去に伴い1989年に閉鎖になった後,エジンバラ大学に短期の職を得て英国に渡る。しかし,その地で1992年,46歳の若さで心臓発作で他界した。彼はなんと大学も中退し,若いうちからFRNMにて超心理学研究に打ち込み,その後は自ら実験の企画,実験装置の制作,資金集め,研究所の設立,批判者との熾烈な議論と,八面六臂の大活躍であった。「チャック」と呼ばれて親しまれた彼は,ライン以降のもっとも優秀な実験超心理学者であった。

チャックに敬意を表して
(写真:チャックに敬意を表して)

<2> 実験の方法

 夢見状態と同様な変性意識状態を形成するものとして感覚遮断が知られていた(4-3)。ガンツフェルトとは,その感覚遮断を実現するひとつの方法であり,被験者の視野を均一にすることである(ドイツ語で「全視野」)。ガンツフェルトは,内側に蛍光塗料を塗ったゴーグルを装着させ(または簡便にはピンポン球を半分に切って両眼をそれぞれ覆うように装着させる),そこに赤色灯を点滅投射することで実現する。他の感覚器官も極力遮断するのがよく,耳にはヘッドホンを装着させノイズを聞かせ,身体全体はリクライニングシート上に寝かせ,安静な状態にする。こうしたガンツフェルト状態に被験者をおくと,感覚遮断が実現できる。

SSPにおける模擬実験
(写真:SSPにおける模擬実験)

 ガンツフェルトESP実験は,(いろいろな変種もあるが)おおよそ次のような方法で行なわれる。被験者がガンツフェルト状態におかれ,20分ほど(4-3)のリラックステープを聞くと,ESP実験が開始される。ESPターゲットの送り手は別室に待機し,被験者の部屋の様子を音でモニタ(もちろん送り手の部屋の様子は被験者にも,実験者にもわからないようにする)しており,リラックステープが終了すると,無作為に選ばれたESPターゲットを封筒から出して,それに関してイメージしたりパフォーマンスしたりする。ターゲットには当初,美術アートの絵葉書が用いられたが,より効果的なターゲットとして映画シーンの動画像も利用された。その場合は,ビデオレコーダを自動制御して送り手に提示した。一方被験者は,心に現われたイメージを随時自由に言葉で報告する。それはテープに録音されるが,同時に送り手にもそれがモニタされるので,ターゲットに近いイメージが報告されたら,送り手は「あっ,それそれ」などと心の中で叫ぶ。部屋が遮音室ならば実際に叫んでしまってもよいが,実験企画者は送り手から被験者への音によるサインが到達しないよう,注意深く実験環境を設定する必要がある。
 30分ほどで実験を終了し,実験者はターゲットを含む4種類の絵を被験者に渡たす。被験者は,心の中に現われたイメージに近い順に,それらの絵を順位づけする。送り手は,この順位づけが終わるまで別室に待機するので,どれがターゲットだったのかは,被験者も実験者も分からない。順位づけの結果は統計的に分析される。通常はターゲットが1位に入ったら当たり,2位以下になってしまったらハズレとした。
 ターゲットの候補となる絵(あるいは画像)の準備と,ターゲットの無作為選定法には細心の注意が必要である。誰もが単独ではインチキができないように実験が設定されてなくてはならない。まず,互いに類似点がほとんど見られない絵を4種類1組にして,それを数十組準備する。送り手が使用する絵と被験者が使用する絵とで,同じ絵が2セット準備される必要がある(送り手が触った紙は指紋などが付着しているので被験者に渡してはならない!)。送り手が使用する絵は1から4までの番号を振った4枚の封筒にそれぞれ入れる。被験者が使用する絵は4種類まとめてひとつの封筒に入れておく。それらの5つの封筒はまとめて大封筒に入れて1組のターゲット候補とする。ターゲット候補を作成した人物は,実験に参加すべきではない。実験者による毎回の実験ターゲットの選定は,2段階になる。まず数十組の大封筒を無作為に重ね,無作為に発生させた乱数に対応する大封筒をとりあげる。乱数は,コンピュータの乱数ソフトなどで発生させるが,乱数の周期性の問題などはよく吟味しておく必要がある(2-7)。次に,その封筒を開封し,中の1から4の番号づけされた4枚の封筒から,再度乱数でもって1枚選ぶ。この作業は,実験者2人によって相互監視して行ない,その間被験者と送り手は,それぞれの部屋で待機させる。ターゲットが決定されたら実験者は,その封筒を送り手の部屋に運ぶのであるが,送り手の部屋に届けられるまで封筒が開けられることのないよう,相互監視されねばならない。また,残りの3枚の封筒も,盗み見されればターゲットが間接的に分かってしまうので,厳重に保管する。

<3> 実験結果と批判

 1985年,ホノートンは,それまでの5年間の34論文に掲載された42の実験をまとめて,55%は有意であると主張した。ところが,懐疑論者のハイマンは,発表されてない不成功実験が多数あるとか,ターゲット選定時の無作為化が不適当であるとか,ターゲットに感覚的手がかりがあるとか,実験者が送り手と共謀してターゲットを被験者の報告に合うものにすり替えたとかとして,一連の実験は有意ではないと主張した。ホノートンはハイマンの主張のほとんどに意義を唱え,両者の論争となった。1986年に両者は「共同コミュニケ」を発表し,ハイマンは,一連の実験にハイマンが指摘するような実験設定・分析の不備はなかったであろうことを認め,分析上の統計的有意性についても認めた。しかし依然として,その有意性は実験上の何らかの問題に起因するとし,対立仮説としてのESPの存在は認めなかった。これについては,日本超心理学会から発行されている翻訳論文集『チャールズ・ホノートンとガンツフェルト研究』に関連論文が掲載されている。
 ホノートンはその後,自動ガンツフェルト実験をハイマンの批判に応えるように対処して,実験を重ねた。1990年のメタ分析報告では,8人の実験者が,240人の被験者について329回の実験を行なった結果,32%が当たりで,p=0.002の有意な結果が得られた。この時点で,懐疑論者のワイズマン(1-3)は,送り手の発する音が被験者に聞こえたのではないかとクレームをつけた。さらに,1997年にミルトンとワイズマンは,1987年からの10年間,10人の代表研究者による30の実験報告(総計1198回)をメタ分析し,有意性は見られないという結論を得た。分析に不備があると批判を受けたが,それを修正したうえで,その後の8の実験報告を分析に加え,それでもp=0.074で有意でない結果を導いた。
 パーマーらは2000年,加えてベムらは2001年に,ミルトンらの分析に,その後のRRCで行なわれたガンツフェルト実験2つを加えると有意になること,またミルトンらの分析対象にはパイロット実験が含まれていたので,ホノートンの標準実験方法に合致した29実験に絞ってメタ分析するとZ=3.49と,極めて有意になることを示した。エフェクトサイズは0.096であった。自由応答ESP実験のエフェクトサイズは,強制選択実験のエフェクトサイズ(2-9)よりも通常かなり大きい。

<4> サージェント事件

 英国のガンツフェルト実験をリードしたのは,ケンブリッジ大学の若い研究員カール・サージェントであった。有能な実験者として定評のあった彼は,ガンツフェルト実験でも成功を収めていたが,大きな問題が発生した。1979年,スーザン・ブラックモア(1-3)がサージェントを訪問し,いくつかのガンツフェルト実験に立ち会ったところ,そのうちのひとつで不規則な手順を発見したので,サージェントによる不正があったと示唆するような報告を書いたのである。サージェントが決められた実験者の代わりにターゲットの決定を行なったり,被験者の順位づけの場に現われて発言したりしたという。その報告はあたかも,サージェントが自分の知っているターゲットにすり替えたうえで,被験者の順位づけをそのターゲットが1位になるように誘導したかのようであった。それに対してサージェントは,無作為化の過程を手伝ったとか,順位づけを終えたと思ったので被験者の部屋に誤って入ったとかと反論した。確かにサージェントの実験には不注意な点があったが,だからと言って,実験結果に影響が及ぶほどの不正があったとまでは言えないように見えた。
 この問題についてPAの評議委員会(1-8)は,1984年に調査委員会を発足させて,事態収拾に乗り出した。ところが当のサージェントは,PAの調査に対して協力的でなく,かつ横柄な態度をとった。まもなく彼はケンブリッジを去り,超心理学の研究からも離れてしまった。PAは仕方なく,彼の会員資格を停止し,サージェントの関わった全実験を分析の対象から外す決定を行なった。

<X> 付記

 本項の内容はSSPにおけるガンツフェルト実験体験と,パーマー氏の講演をもとにしている。


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