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早稲田大学エクステンションセンター 中野校
人物伝で学び直す中国近現代史
最新の更新2024年5月13日 最初の公開2024年5月13日
- 05/14 第1回 孫文(1866-1925) おおぼら吹きから近代中国の国父へ
- 05/21 第2回 汪兆銘(1885-1944) 漢民族の裏切り者か信念の平和主義者か
- 05/28 第3回 蒋介石(1887-1975) 重慶や台湾でしぶとくねばった指導者
- 06/04 第4回 毛沢東(1893-1976) 21世紀の今も中国を支配するカリスマの謎
- 06/11 第5回 周恩来(1898-1976) 一度も失脚せず政治家の使命をまっとう
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/61378/より引用。
中国史は、国土が広く登場人物も多く、日本人にはとっつきにくい印象があります。特に近現代史は、革命や戦争など激動の時代であるうえ、昨日までの味方が今日の敵となるなど人間関係がくるくる変わるため、さらに複雑怪奇です。しかし視点を変えて、今も昔も変わらない中国人の特徴、という観点から近現代史を見直すと、意外にシンプルで理解しやすい。この講座では、日本とも深い縁があった5人の中国人の生涯をとりあげ、彼らの生き方を通して、中国の近現代史を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。
第1回 孫文(1866-1925) おおぼら吹きから近代中国の国父へ
中国革命の指導者として活動していた孫文(そんぶん Sun Wen)は、1905年、東京で中国革命同盟会を結成し、三民主義を綱領としました。彼は、宮崎滔天(みやざきとうてん)をはじめとする日本人の支援も受けつつ、清朝打倒の革命運動を続け、辛亥革命で中華民国の臨時大総統に就任しました。孫文の理想と挫折、日本とのかかわりなどを、中国史の予備知識がないかたにも、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ke3FJJuL5Sl68YOY0TpYL3
○キーワード
- 記憶遺産
孫文の中国革命に、日本人が協力したという歴史的記憶は「記憶遺産」である。
cf.岡田実拓『日中未来遺産―中国・改革開放の中の‘草の根’日中開発協力の「記憶」』日本僑報社、2019/7/6
- 共通祖先
「アブラハム」は、ユダヤ人とアラブ人の共通祖先。
1924年の中国国民党一全大会(広州)で「連ソ・容共・扶助工農」をかかげた孫文は、中華民国と中華人民共和国の国父であり、いわば「共通祖先」
- 客家 ハッカ 「中国のユダヤ人」
蘭芳共和国の羅芳伯、太平天国の洪秀全、孫文夫人の宋慶齢(宋家三姉妹)、中国共産党の朱徳・ケ小平・葉剣英、台湾の李登輝・蔡英文、シンガポールの李光耀(リー・クァンユー)、日本の女優・余貴美子
- 国父 こくふ
トルコのケマル、米国のジョージ・ワシントンなど。
- 孫文の呼び方
日本人は「孫文」と呼ぶが、中国人は敬意をこめて号で「孫中山」と呼ぶ。
○辞書的な説明
以下、精選版『日本国語大辞典』より引用
そん‐ぶん【孫文】
中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五)
○身近な孫文の名ごり
- 池袋の宮崎滔天旧宅。孫文の肉筆の資料を保存。非公開。
- 浅草の日本浪曲協会の広間の「桃中軒」の扁額。孫文の揮毫。
- 日比谷の松本楼のピアノ
以下、http://matsumotoro.co.jp/history/history.htmlより引用。
中国革命の父・孫文と梅屋庄吉
1階ロビーの右手に展示してある燭台付きのアップライトピアノ(写真)は、梅屋庄吉邸において孫文夫人である宋慶齢が弾いていたピアノで、国産のもっとも古いもののひとつです。
日比谷松本楼になじみ深いお客様に、革命の志士・孫文(写真中央)もいらっしゃいました。辛亥革命時、日本に亡命中だった孫文は松本楼の代表取締役会長夫人の祖父であり、現社長 小坂文乃の曾祖父にあたる梅屋庄吉(写真は梅屋夫妻)に連れられて革命運動のため、しばしば当店を訪れております。
梅屋庄吉は、中国革命の父と称えられる孫文を一生をとおして、物心両面で支えました。
孫文は日本亡命中、足しげく梅屋邸に出入りしておりました。大正4年には梅屋邸で宋慶齢(写真)とめぐりあい、結婚式を挙げることとなります。夫婦が中国に戻るまでのあいだ、婦人は梅屋邸に身を寄せて、ひまさえあればピアノを弾いていたそうです。孫文は、しばしば松本楼も訪れていたことから、松本楼の再建後(下記)に「孫文夫人ゆかりのピアノ」が店内に展示されることとなりました。
○孫文が登場する小説
陳舜臣『孫文』上下(新潮文庫) 解説・加藤徹
一八九五年、下関における日清講和条約の調印。清朝打倒を決意した孫文は、同志とともに広州で最初の武装蜂起を企てる…。「大同社会」の実現を目指して、世界を翔る若き革命家の軌跡。膨大な資料から真実を読み取り、最後まであきらめなかった姿勢と無私の精神にあふれた孫文の実像が甦る歴史小説の神髄。『青山一髪』を改題、待望の文庫化。
○略年表
- 1866年、広東(カントン)省香山(中山)県の、客家(ハッカ)の貧しい農家の次男として生まれる。
中国の南端に位置する広東人は、北京に対する反骨精神と、「南洋華僑」など海外への視線に富んでいた。
- 1878年、数え13歳で、ハワイ王国で成功した兄・孫眉(そんび 1854―1915)を頼ってハワイへ。キリスト教系の学校で西洋式の教育を受ける。
- 1883年、西洋かぶれになることを危惧した親の意向で、帰国。
その後、イギリス領香港(ホンコン)に行き、キリスト教の洗礼を受ける。
- 1887年から1892年まで、香港の西医書院(香港大学の前身)で医学を学びつつ、革命思想を抱く。
科挙をめざさず、西洋の実学としての医学を学んだ孫文は、近代的な知識人となった。cf.村田蔵六=大村益次郎
- 1892年からポルトガル領マカオで、次いで広州で医師として開業。清朝打倒の革命運動に身を投じる。
- 1894年、日清戦争が勃発。
孫文はハワイで、兄・孫眉らの支持を得て秘密結社「興中会」を組織した。
- 1895年10月、広州で最初の挙兵を試みるが失敗。
日本に亡命。清国風の弁髪を切って洋装する。
この年、香港で日本人の梅屋庄吉(うめやしょうきち)と出会い、多額の資金援助を受けた。
- 1896年、ハワイを経てロンドンに赴く。ロンドンで清国公使館に監禁される。
香港の西医書院在学時の英国人の恩師らが救出のために奔走。
救出された孫文は英語でKidnapped in London『ロンドン被難記』中国語タイトルは『倫敦蒙難記』を出版。著名人となる。
- 1897年3月、ロンドンに留学中の日本人・南方熊楠と親交を結ぶ。孫文32歳、南方31歳。
- 1897年、アメリカを経て来日。宮崎滔天(みやざきとうてん)の知遇を得る。
宮崎の紹介で、アジア主義者の巨頭・頭山満や犬養毅、その他、多くの要人と知り合う。日本側の援助で、生活費や住居を世話してもらい、東京で亡命生活を始める。
- 1900年、義和団の乱。北京の混乱に乗じて、孫文は第2回の挙兵(恵州事件)を試みたが失敗。
日本人の山田良政も蜂起に参加し、清軍に処刑された。
- 1902年、中国の妻とは別に、日本人の大月薫と結婚。また浅田春を愛人として常時帯同。
孫文が第2回目の世界旅行を行う間に、留日学生が増加し、その革命化が進んだが、中国国内でも光復会や華興会などの革命組織が生まれていた。
- 1904年、日露戦争が勃発。日本軍の勝利に世界の有色人種が熱狂。
孫文は1905年、スエズ運河を通ったとき、日本の勝利に熱狂するエジプトの民衆をまのあたりにし、中国革命への意志を深めた。
- 1905年、日本に戻った孫文は、宮崎滔天らの支援を受けて、東京府池袋で興中会・光復会・華興会を統合、「中国同盟会」を結成した。また、留学中の蒋介石とも出会った。
このあと孫文は、「三民主義」を定め、中国国内の同志と連携して、北京の朝廷の支配力が比較的弱い中国の中部と南部の各地域で10回にわたり、清朝打倒の武装蜂起(ほうき)を行ったが、全て失敗した。
中国で同志が血を流している間、孫文は世界各国をまわって遊説し、革命運動への支持を求めた。
当時は孫文を「孫大砲」(おおぼらふきの孫)とあざける者もいた。
- 1911年10月、滞在先の米国で、辛亥革命の勃発を知る。
- 1911年12月25日、上海に帰着。革命各派は孫文の到着に熱狂。
- 1912年1月1日、南京で中華民国が成立。孫文が臨時大総統となる(総統は中国語で「大統領」の意)
その後、南北和議により中華民国臨時大総統の地位を、旧・清朝の権臣で実力者の袁世凱に渡した。
- 1913年、袁世凱打倒の第二革命に敗れ、日本に亡命。
- 1914年、亡命先の東京で中華革命党を結党。
- 1915年、宋慶齢(そうけいれい)と結婚。披露宴は新宿の大久保百人町の梅屋庄吉の邸で行われた。
- 1919年10月10日、中華革命党を改組して「中国国民党」を結党。本部は上海で党総理は孫文。
- 1923年3月、孫文は、「直隷派」による北京政府に対抗し、みずから大元帥の地位について地方政権「広東大元帥府」(第3次広東政府,1923年3月−25年6月)を組織し、ソ連からの政治顧問や軍事顧問を受けいれた。
- 1924年1月、第一次国共合作。毛沢東も、孫文の国民党に入党。
同年10月、北上宣言を行い、全国の統一を図る国民会議の招集を訴えた。
同年11月、来日し、立ち寄り先の神戸高等女学校の講堂で、有名な「大アジア主義講演」を行い、「日本は西洋覇道の走狗となるのか、東洋王道の干城となるのか」と問いかけた。
- 1925年3月12日、ガンのため北京で客死。遺言の「革命尚未成功、同志仍須努力」革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし、は汪兆銘が起草。
臨終には、山田良政の弟・山田純三郎が立ち会った。
○評価
肯定的評価と否定的評価の両面がある。
台湾の国民党と、中国本土の中国共産党の双方にとって、孫文は今も「国父」である。
「孫文の継承者は国民党」 台湾・洪氏、習氏発言に反論 日本経済新聞 2016年11月12日 22:57
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM12H4Q_S6A111C1000000/ 2021年12月8日閲覧
【台北=共同】台湾の国民党の洪秀柱主席は12日、中国の習近平国家主席が清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文生誕150年を記念した演説で「中国共産党が孫文の最も忠実な継承者だ」と発言したことについて「真正な継承者は当然、国民党だ」と反論した。
孫文の功績をたたえたいが、孫文が鼓吹した「三民主義」は21世紀の中国の政治体制とそぐわない部分が多い。
cf.中国で再放送禁止となったテレビドラマ『走向共和』2003年の、孫文の演説を再現したシーン。
https://youtu.be/--8rfp3CLtA
○その他
・孫文が「革命家」を名乗ったきっかけは日本の新聞記事だった。
以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」のテキスト(2007)のp.76-p.79から自己引用。
哲学と革命
なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利したあと、大量の中国人留学生が日本にわたって勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも、理由の一つでしょう。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語にはセンスがすぐれたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられた、ということがあげられます。
西洋の知の根幹をなす「フィロソフィー」という学問は、「知」(ソフィー)を「愛する(フィロ)」という意味です。日本人は、これを「哲学」と訳しました。
明治の末、日本の学者・小柳司気太は中国(当時は清)に渡り、学者で書家としても有名な兪樾(一八二一ー一九〇六)に会いました。
小柳は帰国後、哲学雑誌に「兪曲園の哲学」という論文をのせ、彼の学説を紹介しました(曲園は、兪樾の号)。それを見た兪樾はビックリして、次のような漢詩を作りました。
挙世人人談哲学 | 世を挙げて 人人 哲学を談ず |
愧我迂疏未研榷 | 愧ず 我が迂疏にして 未だ研榷せざりしを |
誰知我即哲学家 | 誰か知らん 我も即ち哲学家 |
東人有言我始覚 | 東人 言有りて 我 始めて覚る |
大意は──近頃の世の中では、誰もが「哲学」という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流にうとく、「哲学」とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った。
近代の中国人にとって、日本漢語は、自分たちを見つめ直す「鏡」になったのです。
「中国革命の父」孫文(一八六六ー一九二五)にも、同じような逸話があります。
一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。
もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。
しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。
「日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり)
日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。
・孫文を理解する補助線として比較すべき人物
- 羅芳伯(ら ほうはく、1738年‐1795年)
蘭芳共和国(1777-1888 Lanfang Republic)の初代の大唐総長。
ボルネオ島西部で、中国からの客家族移民が「蘭芳公司」を中心として立てた民主主義的政権。大統領に相当する元首は大唐総長または大唐客長と名乗った。
初代総長の羅芳伯は広東省梅県の出身だった。
- 康有為(こう ゆうい (1858―1927)
古いタイプの知識人。孫文と同じ広東人。清朝の存続のため改革を説いた。「改革」と「革命」の本質的な差異を象徴する人物。
- レーニン(1870-1924) ロシアの革命家。亡命先から革命後の祖国に戻った点は孫文と類似。
第一次大戦中の1917年に二月革命勃発の知らせを受け、3月末に封印列車でフィンランドを経由してロシアに潜入。
7月、臨時政府の弾圧を逃れてフィンランドに潜伏後、機関車に隠れてふたたびロシアに潜入して十月革命を成功させ、
人民委員会議長に選出された。
第2回 汪兆銘(1885-1944) 漢民族の裏切り者か信念の平和主義者か
若き日に日本に留学し、孫文の側近として活躍した汪兆銘(おうちょうめい Wang Zhaoming)は、1925年3月の孫文の遺言「革命尚未成功」(革命なお未だ成功せず)の筆記者でもありました。孫文の後継者として中国のリーダーとなるはずだった汪は、日中戦争中、南京の中華民国政府(汪兆銘政権)の主席となったことで、中国では「漢奸」(かんかん)として今も糾弾されています。21世紀の今も評価が定まらない彼の生涯を、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n_o13kI9XOMaoSY4kmFZnX
○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
- 『旺文社日本史事典 三訂版』より引用。引用開始。
汪兆銘 おうちょうめい 1885〜1944
中華民国の政治家
字 (あざな) は精衛。中国広東省の生まれ。日本に留学中,中国革命同盟会に参加。孫文のもとで革命運動に従事,のち国民党左派として右派の蒋介石と対立した。日中戦争中,近衛三原則に呼応し,1938年重慶を脱出,'40年日本と結び南京に傀儡 (かいらい) 政権をつくり「親日反共」を唱えたが,'44年日本で病死した。
○略年表
- 1883年(光緒9年)、広東省広州府三水県(現在の仏山市三水区)の、没落した読書人の家の末っ子として生まれる。
祖籍は浙江省紹興府山陰県。
幼少時は科挙の試験をめざし、漢文古典の教育をしこまれる。陽明学も学んだ。
- 1896年、生母が死去。翌年、父も死去。
生活のため私塾の教師となる。
- 1904年(光緒30年)、科挙に合格。清朝広東省政府の官費留学生として、日本留学が決まる。
なお、科挙は1905年に廃止された。
同年9月、東京の和仏法律学校法政速成科(法政大学の前身)に進学。下宿先は、神田神保町の春水館。
- 1905年8月20日、東京で、孫文らが中国同盟会(中国革命同盟会)を結成。汪兆銘は、孫文から信頼され、中国同盟会評議部長に抜擢された。
このころから「精衛」という号も名乗るようになった(汪精衛)。
- 1906年6月、法政速成科を卒業。成績は300余名中2番と優秀だった。そのまま私費学生として法政大学専門部へ進学。
革命運動も続けた。孫文と日本の国内外で、行動をともにした。
- 1909年ごろ、女性革命家の陳璧君(1891−1959)と事実上の結婚。
- 1910年、宣統帝溥儀の父であった摂政王の暗殺を計画したが、未遂で失敗。暗殺未遂犯として逮捕されたが、死刑ではなく終身刑となった。
- 1911年、辛亥革命。清は瓦解した。自由になった汪兆銘は、正式に陳璧君と結婚。また、実力者の袁世凱と密約を結んだ。
- 1912年、中華民国が成立。臨時大総統は孫文。
孫文が読みあげた臨時大総統就任宣言書は、汪兆銘が書いたものだった。
同年、汪兆銘は「修養の時代」に入り、国内政治から離れて、妻とともにフランスに留学。留学先で、息子や娘をもうけた。
- 1917年、帰国。孫文は広州に広東軍政府を樹立しみずから大元帥に就任し、愛弟子である汪兆銘を「最高顧問」として重用した。汪兆銘は官職への就任は固辞し、一民間人の資格で孫文を支えた。
- 1921年、広東省教育会会長に就任。「修養の時代」にピリオドを打ち、政治的役職に就いた。
- 1924年1月、広州で中国国民党第一回全国大会。汪兆銘は胡漢民とともに党の双璧として孫文を支えた。
同年5月、陳璧君の推薦により、蒋介石が黄埔軍官学校準備委員長に就任。
- 1925年3月、孫文が死去。孫文の遺言「革命尚未成功、同志仍須努力(革命なお未だ成功せず、同志よって須く努力すべし)」云々は、汪兆銘が筆記したもの。
同年7月、広東大元帥府の後継政権として、広州国民政府が成立。主席委員は汪兆銘。
- 1926年1月、国民党第2回全国代表大会で、汪兆銘が中央委員第一位に当選。国民政府主席兼軍事委員会主席として、国民党のナンバーワンとなった。
当時の蒋介石は黄埔軍官学校の校長で、一介の軍事委員会委員にすぎなかった。
同年3月20日、中山艦事件。蒋介石が反共を主張して、国民党右派として党内での地位を向上させ、汪兆銘と対立。
同年7月、蒋介石はみずから国民革命軍総司令となって、いわゆる「北伐」を開始。
同年12月、武漢国民政府が成立。汪兆銘らの国民党左派は、共産党系のメンバーと提携して、広州国民政府(広東政府)を武漢に遷都して成立させた。
- 1927年4月、蒋介石の上海クーデター。
同年4月18日、蒋介石は南京に南京国民政府を樹立。
同年9月、汪兆銘の武漢政府は瓦解し、蒋介石の南京国民政府に合流。
- 1928年、汪兆銘は政界から引退してフランスに渡る。
中国国内では、蒋介石に反対する勢力が、対立抗争を続けた。
- 1929年から翌年にかけて、4度にわたる反蒋戦争。
1929年10月、汪兆銘はひそかにフランスから香港に戻る。
- 1931年、満洲事変。
- 1932年1月1日、孫科(孫文の息子)を行政院長とする南京国民政府が成立。対日宣戦布告をしようとしたため、日本、米国、英国から忌避され、一カ月で孫科は失脚。
1月28日、南京国民政府で、蒋汪合作政権が成立。汪が行政院長兼鉄道部長、蒋介石は軍事責任者となった。
汪兆銘と蒋介石は「安内攘外」つまりまず国内の共産党勢力を一掃してから、日本など外国と対決する、という基本方針をとった。
- 1935年、米国の雑誌「タイム」の表紙を飾る(1935年3月18日号)
同年11月1日、汪兆銘狙撃事件。首都南京で、行政院長だった汪兆銘は、国民党左派広東系の犯人グループによって狙撃され重傷を負った。
- 1936年2月、療養のため渡欧。
同年12月12日、西安事件。蒋介石は連共抗日に鞍替えした。
- 1937年1月、帰国。
同年7月7日、盧溝橋事件。日中戦争が始まる。
中国側は、連共抗日派と、安内攘外派(反共親日派)に分裂。
同年12月、日本軍が南京を占領。
南京政府は武漢へ、さらに奥地の重慶へと落ち延びた。
- 1938年1月、日本の近衛首相は「帝國政府ハ爾後國民政府ヲ対手トセス(今後は蒋介石の国民政府を交渉の相手にしない)」云々の声明を発表。
汪兆銘は蒋介石の「焦土抗戦」に反対し、和平を主張した。日本側は「汪兆銘工作」を進め、ひそかに汪兆銘側と接触した。
同年12月18日、汪兆銘の一行は重慶から脱出し、昆明を経由して、ベトナムのハノイに渡った。
- 1939年5月6日、汪兆銘は、日本軍占領下の上海に到着。
5月31日、来日し、日本側と交渉。
10月1日発行の『中央公論』1939年秋季特大号に、汪兆銘は寄稿し、日本側の「東亜協同体」や「東亜新秩序」に対して、日本は中国を滅ぼす気ではないか、という疑念を表明した。
- 1940年2月2日、日本の国会で斎藤隆夫議員が「反軍演説」。斎藤は、蒋介石と汪兆銘が再び合流できる可能性はないことを指摘し、日本政府が基盤の弱い汪兆銘政権樹立を根回ししていることを批判した。
3月30日、南京国民政府の設立式。汪兆銘は、将来の重慶政権(蒋介石政権)との統合の可能性を残すため、主席代理として就任した。
11月30日、日華基本条約と日満華共同宣言に調印。日本は、汪兆銘の南京政府を正式に承認した。汪兆銘は主席に就任した。
- 1941年6月、来日。
7月1日、ドイツとイタリアが、汪兆銘政権を承認。
- 1941年12月8日、太平洋戦争が始まる。日本政府は汪兆銘に対して、事前に開戦を知らせていなかった。
- 1942年3月25日、広東のイギリス租界を、日本軍占領下から汪兆銘政権に移管。
同年12月、訪日。東京で東条英機首相と会談。
- 1943年1月9日、汪兆銘の南京国民政府は米英に対し宣戦布告。
日本は汪兆銘政権を相手に、租界の中国への返還や、治外法権撤廃の協定を結んだ。
2月2日、汪兆銘は、青天白日旗の上につけていた「和平 反共 建国」の三角標識を撤去するよう指示。
3月、延安の中国共産党が、汪兆銘政権に秘密裏に接触して合作を模索。
11月5日-6日、東京で大東亜会議。汪兆銘も来日。
12月19日、日本陸軍の南京第一病院で、8年前の狙撃事件の弾丸摘出手術を受ける。
- 1944年3月3日、南京から来日。名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。病名は多発性骨髄腫。体内で腐食した弾丸が原因。
11月10日、名古屋において死去。61歳。
○その他
- 汪兆銘は1910年、醇親王暗殺に失敗して逮捕されたとき、死刑になることを覚悟して「被逮口占」と題する五言絶句四首を詠んだ。
https://zh.wikisource.org/zh-hant/被逮口占四絕
以下、Record China の記事「中国陸軍が平謝り=革命烈士を回顧・顕彰する式典の紹介に日中戦争時の「裏切者」汪兆銘の詩を引用」2019年3月31日(日) 23時30分 https://www.recordchina.co.jp/b699077-s0-c30-d0142.html より引用。引用開始。
中国陸軍は29日、江蘇省南京市内にある雨花台烈士陵園で行った、軍人約100人を動員して革命や日中戦争を含む戦争、国民党との内戦で命を落とした「烈士」を回顧し顕彰する式典をSNSを通じて紹介した際に、汪兆銘の「被逮口占」を引用した。雨花台烈士陵園は南京国民政府時代に、反汪兆銘派の工作員やスパイとされた者が処刑された場所でもあった。
中国陸軍側が式典の紹介文に汪兆銘の詩を引用したことを、多くのネットユーザーが指摘。陸軍側は文章をただちに削除し「投稿された文章を使った。編集者の文化素養が劣り、チェックも厳格でなかったために、引用文の出典をしっかりと確認しなかった。深刻な錯誤を引き起こし、非常に大きなマイナスの影響を発生させた。ここに深くお詫びいたします」と全面的に謝罪した。(翻訳・編集/如月隼人)
- 女性関係はまじめだった。妻は一人だけで、3男3女をもうけた。子女は、米国で夭折した次男を除き、戦後は中国の国外に移住した。
- 汪兆銘の南京国民政府の成立後、日本では「支那」から「中国」へと呼称が変わり始めた。
大林重信著『新中国のお父さま汪精衛先生』(健文社、昭和16年)などの書名も、その一例である。
- 妻の陳璧君(ちん へきくん、1891-1959)は女傑だった。日本の敗戦後、中華民国(蒋介石政権)で漢奸裁判にかけられた。亡き夫の非を認めれば釈放されることになっていたが、彼女は夫は愛国者であると擁護し続け、無期懲役となった。中華人民共和国になったあとも釈放されず、獄死した。遺灰は香港の親族に渡された。
第3回 蒋介石(1887-1975) 重慶や台湾でしぶとくねばった指導者
若き日に日本陸軍の新潟県の砲兵隊で働いた蒋介石(しょうかいせき Jiang Jieshi)は、孫文の後継者として中華民国の統一を達成して国民党のリーダーとなりました。第二次大戦では連合国側に加わり、中国を世界の四大国の一角におしあげました。が、戦後の国共内戦では毛沢東の中国共産党に敗れ、台湾に渡りました。現在の台湾にも多大の影響を残している蒋介石の波瀾の生涯を、わかりやすく解説します。
YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l_NqUKTWoDz4bSLBWrezon
○ポイント、キーワード
軍閥
近代日本史の軍閥(Gunbatsu / Military Factions)は、「藩閥」「財閥」などと並ぶ概念で、文民や文官に対する軍人中心の政治勢力を指す。
近代中国史の軍閥(military cliques)は、国内に各地域に割拠して武力を背景にその地域を実効支配する複数の勢力を指す。近代中国の「軍閥時代」は、英語では「The Warlord Era」と言う。
蒋介石は、形式的には中華民国の「元首」となったが、実質的には最大のウォーロード(Warlord / 軍閥のボス)にすぎなかった。
中国史の経験則
○中国の歴代王朝は、過渡的短命王朝と長期安定王朝、の繰り返し。
例えば、始皇帝の秦(短命)、前漢(長期安定)、王莽の新(短命)、後漢(長期安定)、・・・
○南京を首都とした政権・国家は短命に終わる。
例えば、六朝(りくちょう)、初期の明朝、太平天国(南京を天京と改称)、中華民国、など。
「蔣」と「蒋」
「蔣」は正字、「蒋」は略字。蔣はマコモという植物名だが、姓としても使う。
○辞書的な説明
- 以下、『旺文社世界史事典 三訂版』より引用。
蔣介石 しょうかいせき Jiǎng Jiè-Shí
1887〜1975
中国の政治家・軍人
字は中正。浙江 (せつこう) 省の塩商の子。1908年日本の陸軍士官学校に入学。留学当初,孫文の中国同盟会に加入し,帰国して1911年の辛亥革命に参加,23年孫文の知遇を受けて24年には黄埔軍官学校長となった。孫文の死後,中国国民党の実権を握り,1926年国民革命軍総司令として北伐を進めた。翌年上海クーデタを起こして反共を宣言し,南京国民政府を樹立,28年には宋美齢と結婚し,孫文の後継者となった。1928年北京を陥落させて北伐を完成。アメリカ・イギリスに接近し,浙江財閥を背景に国民政府主席となり,以後10年にわたり反共独裁の立場にたち,広西討伐・福建革命政府攻撃など内戦を続けた。1931年の満州事変当時には江西・福建のソヴィエト区を攻囲し,34年には共産勢力を延安に追った。1936年の西安事件を契機に国共合作を受諾。日中戦争が始まると抗日民族統一戦線を指導し,第二次世界大戦中は連合国側の一員となった。戦後共産党と対立,1948年中華民国総統となったが,翌年国共内戦に敗れて本土を追われ,以後台湾で国民政府を統率し,特例として事実上の終身総統となった。
○略年表
- 1887年10月31日(光緒十三年9月15日)、浙江省寧波府奉化県の商売人の家に生まれる。
姓は蒋、名は介石、字(あざな)は中正。
- 1902年、15歳のとき、最初の妻である毛福梅(当時19歳)と結婚。
郷里の学堂で学ぶ。
- 1907年、河北省にあった保定軍官学校に入学。
- 1908年(明治41)、日本へ留学。1910年に東京の振武学校(中国人留学生のための陸軍士官学校予備学校)を卒業し、新潟県高田の野砲兵第一三連隊に配属された。
東京に留学中、孫文らの中国同盟会に参加。
- 1910年、長男の蒋経国(蒋介石の後継者)が誕生。蒋介石は22歳、毛福梅は27歳だった。同年、孫文と初めて会う。
- 1911年10月10日、辛亥革命が勃発。日本軍にいた蒋介石は師団長の長岡外史中将に休暇帰国を申請するが拒否され、勝手に帰国。革命に参加。
- 1910年代半ば、上海で危機と隣り合わせの半地下生活を送る。
保身のため、上海の暗黒街の秘密結社・青幇(チンパン、せいほう)の黄金栄の子分となったと言われるが、真相は不明。
cf.青幇の子分には「門生」と「徒弟」の2種類があった。kg-sinica200308.html
- 1919年10月10日、中華革命党は中国国民党に改組。蒋介石も党員となる。孫文から着目されていたが、気に入らないとすぐ辞任して郷里に引き込み、呼び戻されることを繰り返す。
- 1921年、母・王采玉が病死。
- 1923年、「孫文=ヨッフェ宣言」で国共合作。孫文の命令でソ連の軍事事情を視察。
- 1924年、ソ連の支援のもと広州に設立された黄埔(こうほ)軍官学校の初代校長に就任。同校の政治部副主任は周恩来(1898-1976)。
- 1925年、孫文が死去。国民党の中央執行委員となり、国共合作下の国民革命軍総司令に選ばれた。
- 1926年3月、最初の反共事件としての中山艦事件で政治的地位を強化。
同年7月、北伐を開始。蒋介石が総司令官。
- 1927年4月、上海クーデター。反共に転じた。
同年、それまでの妻を離別して、浙江財閥出身で宋美齢(そうびれい asahi20221013.html#06)と結婚。彼女は、孫文夫人の宋慶齢(そうけいれい))の妹で、いわゆる「宋家三姉妹」の一人。
- 1928年、南京で国民政府を樹立して中華民国主席となる。が、政敵の汪精衛=汪兆銘や、閻錫山、馮玉祥らの反蒋軍閥の抵抗も続いた。
- 1928年6月8日、北伐軍は北京に入城し、北京政府打倒という孫文の遺志を果たした。同年10月、蒋介石は国民政府主席に就任。「以党治国」の党国体制を固める。
- 1932年、第一次上海事変で、南京政府は一時的に洛陽に疎開。
- 1934年、新生活運動を唱導すると同時に、蒋・孔(こう)・宋(そう)・陳(ちん)の「四大家族」による浙江財閥を育成して財政基盤を固める。
- 1936年、西安事件で張学良に捕らえられ、中国共産党との抗日民族統一戦線の形成に同意。
- 1937年、日中戦争勃発。政府を重慶に移して、抗日戦争を継続。
- 1938年6月、黄河決壊事件。蒋介石の承認のもとであったとされる。
- 1939年、毛福梅が日本軍の爆撃で死亡。
- 1943年11月、支那派遣軍総司令部参謀だった三笠宮崇仁親王の発案で、蒋介石の母・王采玉の墓前祭が行われ、参謀の辻政信が取り仕切った。
- 1943年11月27日、カイロ宣言。アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席?介石の3人が会見。
- 1944年4月17日−12月10日、日本陸軍による大陸打通作戦、蒋介石は大打撃を受ける。
- 1944年6月2日−9月14日、拉孟・騰越(らもう・とうえつ)の戦い。蒋介石の「逆感状」が有名。「わが将校以下は、日本軍の松山守備隊あるいはミイトキーナ守備隊が孤軍奮闘最後の一兵に至るまで命を完うしある現状を範とすべし」(『戦史叢書』25、
p285)。この「逆感状」は日本軍が蒋介石の無線電文を傍受したものとも言われ、中国語の原文は未確認。
- 1945年、抗日戦争勝利。蒋介石がラジオ演説で老子の言葉「報怨以徳」(怨みに報ゆるに徳を以てす)云々と述べた挿話は有名。
- 1946年、国共内戦が勃発。
- 1948年、新しい憲政下で初代総統に就任。
- 1949年1月、総統をいったん辞任。同年末、大陸を失陥し台湾へ逃れた。蒋介石は旧日本軍の元将校たちに救援を要請(白団)。
- 1950年、台湾で中華民国総統に復帰。反共復国を叫ぶ(国光計画)。
- 1958年 金門砲戦。米軍は爆撃機による中国本土への核攻撃を準備したが、アイゼンハワー大統領が承認しなかった。国共内戦の最後の戦闘。
- 1963年9月 中ソ対立や大躍進の失敗で中国が疲弊。蒋介石は息子の蒋経国を米国に派遣し、ケネディ大統領らに大陸反攻を訴えたが、拒否される。
- 1969年、交通事故。以後、表舞台に出なくなる。
- 1975年4月5日、台北で死去。87歳。
○その他
- 日本の軍人との交流
昭和の日中戦争で日本と戦ったとはいえ、蒋介石はもともと日本に留学して軍事を学んだため、日本の軍人とは親密な交流があった。
○富田直亮(とみた なおすけ、1899−1979)は戦後、蒋介石の要請により台湾に渡り、旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団「白団」を組織して、蒋介石を支援した。
○根本博(ねもと ひろし、1891−1966年)は、戦後、台湾に渡り、金門島の戦いで作戦指導を行い、上陸してきた中国人民解放軍を追い返した。
○松井石根(まつい・いわね 1878-1948)は、清朝末期の駐在武官として中国に滞在していたとき、陳其美(ちん・きび)から陳が経営していた保定の振武学校の卒業生・蒋介石(当時20歳)を紹介された。松井は、日本留学を熱望する蒋介石を激励した。蒋介石の来日後は、親身になって世話を焼いた。
その後、時は流れ、1937年に日中戦争が勃発すると、松井石根は上海派遣軍司令官として中国に渡り、蒋介石の中国軍と戦い、南京を陥落させた。戦後の東京裁判で松井は戦犯に認定され、1948年に処刑された。
蒋介石は80歳のとき、台湾で、松井の部下であった日本人・田中正明に会った。田中が「36年(昭和11)の3月、松井石根閣下にお伴して、南京で」蒋介石に会ったことがある、と言うと、蒋介石の顔色が見る見る変わり、ふるえ声で「松井閣下には、申し訳なきことを致しました・・・・・」と田中の手を堅く握りしめて、むせぶように言い眼を赤くして涙ぐんだので、周囲は驚いた。
「蒋介石は私の手を2度、3度強く握って離さず、目を真っ赤にして面(おも)を伏せた。(出典 https://www.history.gr.jp/nanking/gm6.html)」
- 国民党と共産党の相似性
ソ連共産党や赤軍をモデルとした。
スターリンの息がかかっていた。
国共合作と国共内戦を繰り返した。
中心的人物に中国南部の出身者が多かった。
「以党治国」の党国体制、つまり党が国家と人民を指導する一党独裁を民主主義だと信じた。
反対党の存在を許さない(台湾では蒋経国の晩年から自由化が進んだ)。
党のリーダーは「主席」である。
軍事力の信奉者。
- 蒋介石の評価
「日本」と毛沢東にはさまれて翻弄された独裁者であった。
独裁者ではあったが、本質は中国最大の軍閥にすぎなかった。彼が中国全土に君臨できた期間は長くはなかった。またヒトラーのような民族浄化や領土拡張も、スターリンや毛沢東のような革命の輸出も行わなかった。
本来は親日家だった、という説もあるが、そうではないという説もある。知日派であったことは確かである。
- 蒋介石の子孫
蒋経国 1910年4月27日−1988年1月13日(77歳没)。蒋介石の息子。父をついで総統に就任したが、一族による世襲を拒否。晩年、台湾の複数政党制を認める。死後、副総統の李登輝が昇格した。
蒋友柏 蒋経国の孫。1976年9月10日生まれ。日本が大好きなデザイナーで、台湾独立派に共鳴。
蒋万安 蒋経国の孫(異説もある)。1978年12月26日年生まれ。蒋介石の曾孫の世代では唯一の政治家で、姉は映画監督。
第4回 毛沢東(1893-1976) 21世紀の今も中国を支配するカリスマの謎
清末の農村に生まれた毛沢東(もうたくとう Mao Zedong)は、若き日に日本の西郷隆盛にあこがれ、革命家になり、中国共産党の創設メンバーの一人となりました。外国への留学経験がなかった毛沢東は、「水滸伝」や「西遊記」など中国の民衆がよく知っている物語を比喩として活用し、中国革命の思想を説きました。中華人民共和国を建国をしたあとは、大躍進の失敗や文化大革命の混乱など大きなあやまちも犯しました。毛沢東の生涯を、わかりやすく解説します。
参考ビデオ
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMGamCULXmo2E-B9OoK-N4
○ポイント、キーワード
- 屈辱の百年
- 「洋土之争」洋土の争い
- 刁民(ディアオミン。ちょうみん) 小ずるくて悪い民のこと。
魯迅(ろじん 1881−1936)の言葉。「暴君の統治下の臣民はたいてい暴君よりも暴力的である。暴君の暴政は、しばしば暴君統治下の臣民の暴力的欲求を満足させることができない」
原文 《暴君的臣民》“暴君治下的臣民,大抵比暴君更暴;暴君的暴政,时常还不能餍足暴君治下的臣民的欲望。”
- ポピュリズム populism
良い意味では、大衆のため既存のエリート主義に反対する公民主義。悪い意味では、衆愚政治や大衆迎合主義、暴民政治。
- 中国の「聖人」
古来、中国が乱世になると、庶民は救世主たる聖人が登場して、民たち全員を食べさせてくれることを願った、と司馬良太郎は指摘する。文革末期の中国を旅した司馬は、毛沢東の権力構造の基礎に共同幻想としての聖人待望論を見た(『長安から北京へ』)。
- 東方紅
文革中の、事実上の中国国歌。
1番の歌詞は「東方紅,太陽昇,中国出了個毛沢東。他為人民謀幸福,呼児咳呀,他是人民的大救星」。
意味は、東が赤くそまり、太陽が昇る。中国に毛沢東という人があらわれた。彼は人民のために幸福を図る。ああ、彼は人民の大いなる救いの星だ」
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』から引用
もう‐たくとう【毛沢東】
[1893〜1976]中国の政治家・思想家。湖南省湘潭(しょうたん)県の人。
1921年、中国共産党の創立に参加。農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織、
31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となったが、
34年から長征を行い陝西(せんせい)省延安に移動。日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。
戦後は蒋介石の国民党軍を破り、49年中華人民共和国を建国。国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導した。
66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。
著「新民主主義論」「連合政府論」「実践論」「矛盾論」など。マオ=ツォトン。
- 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』から引用
毛沢東 もうたくとう Mao Ze-dong
[生]光緒19(1893).11.19. 湖南,湘潭
[没]1976.9.9. 北京
中国の政治家,思想家。中国共産党の指導者。下層中農の子に生れ,辛亥革命が起ると革命軍に約半年間参加。 1913年湖南省立第一師範学校に入学,在学中に進歩的青年団体「新民学会」を組織し,社会的政治的活動に踏出した。五・四運動のなかで湖南の学生連合会機関誌『湘江評論』の編集と執筆にあたり,20年夏頃からマルクス主義者となって社会主義青年団の地方組織をつくった。 21年7月上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席,23年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。 24年国共合作が成立すると国民党中央委員候補に選出され,26年の国民党二全大会でも再選,さらに広州の農民運動講習所所長となり農民運動の組織化に努めた。 27年の国共分裂後,秋収暴動を組織,指導したが失敗し,井崗山にたてこもり,28年4月朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織してその政治委員となった。以後農村の土地革命,紅軍強化,ソビエト政権樹立などのために戦った。 31年 11月江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立されるとその主席に選出され,34年に再選された。その後5回にわたる国民政府軍の包囲攻撃と戦い,34年 10月根拠地の移動を余儀なくされて長征を開始し,途中の貴州省遵義で 35年1月中国共産党中央政治局拡大会議が開かれた際,党中央の指導権を握るにいたった。 31年以来日本の軍事侵略が強まるなかで内戦停止と一致抗日を呼びかけ,36年の西安事件を契機に日中戦争勃発後の 37年9月国共合作が成立。この間 37年には『実践論』『矛盾論』を書いて党内の教条主義と経験主義の誤りを批判し,中国独自の革命理論を展開。 38年には『持久戦論』を書いて抗日戦勝利の理論的根拠を明らかにするとともに,人民戦争論を打出した。 40年の『新民主主義論』で新民主主義革命の理論を深め,42年から整風運動を指導し,45年『連合政府論』のなかで民主連合政府の必要性を説いた。 45年4月の七全大会で党中央委員会主席に選出された。8月日本の敗北後は民主連合政府を樹立するため蒋介石と交渉を行なったが,国府はアメリカの援助を受けて 46年夏から解放区に全面的な攻撃を開始,約3年にわたる内戦ののち,49年 10月1日中華人民共和国の成立と同時に中央人民政府主席に選ばれ,名実ともに中国の最高指導者となった。 54年9月の第1回全国人民代表大会で憲法が制定されると,共和国国家主席に選出され,59年に辞任して劉少奇と代ったが,45年以来党中央委員会主席の地位にあって内外の政策を指導し,65〜69年の文化大革命ではその先頭に立った。 72年 R.ニクソン大統領,田中角栄首相らと会見,国交正常化に努めた。 76年天安門事件の発生で,ケ小平の解任と華国鋒の総理就任を提案。同年9月 83歳で死去。
○略年表
- 1893年、清末の光緒19年に、湖南の湘潭の中農の子に生れる。
若いころは日本の西郷隆盛を革命の志士として尊敬していた。毛は17歳のとき「改西郷隆盛詩贈父親」(自分の気概を示すために西郷隆盛が書いた漢詩の語句を改めて父親に贈る)という七言絶句を書いて父親に見せた。
孩児立志出郷関
学不成名誓不還
埋骨何須桑梓地
人間無処不青山
大意は、私は志を立てて故郷を出ます。学問で名前をあげられるまで、決して故郷に戻らぬと誓います。私の骨を埋葬するのは、桑梓の地、つまり先祖代々の故郷である必要はありません。人の世は、どこだって、骨を埋めるにふさわしい青山なのですから。
参考 http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/maoshi21.htm
なお、毛沢東の「西郷隆盛の漢詩」という認識は誤りであった。
- 1911年、辛亥革命が起ると革命軍に参加した。
中華民国成立直後の1913年、湖南省立第一師範学校に入学した。
この学校で、彼は、進歩的青年団体「新民学会」を組織した。
- 1917年、孫文を援助した日本人・宮崎滔天が毛沢東の故郷の湖南省で講演を行い、毛沢東も聴講した。この年、陳独秀が主宰する雑誌『新青年』に、湖南省立第一師範学校の学生だった毛沢東は処女論文「体育之研究」を発表。
- 1918年夏、湖南省立第一師範学校を卒業。
1919年の五・四運動期に、恩師の楊昌済とともに北京へ上京。楊昌済の推薦で、北京大学の図書館館長・李大サのもとで司書補として勤め、雑誌『新青年』に熱心に寄稿した。
なお、後に毛沢東から感情的な叱責を受ける広西省桂林出身の梁漱冥(1893-1989)は、1917年から1924年まで北京大学でインド哲学を教える教員であり、毛沢東と知り合っていた。
- 1919年、毛沢東は帰郷して長沙の初等中学校の歴史教師となった。
- 1920年、長沙師範学校付属小学校長になる。同年、楊昌済の娘で学友の楊開慧と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。なお楊開慧は1930年10月に蒋介石の国民党軍によって銃殺された。
- 1920年の夏ごろから、中国語の書物を通じてマルクス主義者となり、社会主義青年団の地方組織を作った。当時の中国語のマルクス主義の本の多くは、日本語訳からの重訳であったとも言われる。「共産主義」「社会主義」「党」などの用語の多くが日中共通語である理由は、ここにある。なお毛沢東は、近代アジアの政治指導者としては珍しく、外国語はできなかった。
- 1921年7月23日、毛沢東は、上海における中国共産党創立大会に湖南代表として出席した。
当時、世界各地の共産党は、モスクワのスターリンが支配するコミンテルンのもとにあった。
後年、毛沢東が死去したとき、彼の遺骸は中国の国旗ではなく中国共産党の党旗にくるまれたが、党旗はソ連の国旗とそっくりである理由はここにある。
- 1923年6月の三全大会で中央委員に選ばれた。
- 1924年、蒋介石の国民党との国共合作が成立。毛沢東は国民党中央委員候補に選出された。
26年の国民党二全大会でも再選。広州の農民運動講習所所長となって、農民運動の組織化に努めた。 都市労働者ではなく、農民の組織化に携わったことは、のちの毛沢東の「農村で都市を包囲する」戦略に影響を与えた。
- 1927年4月12日、上海クーデターで国共分裂。国共合作は終わり、第一次国共内戦が始まる。毛沢東は党の会議で、
「鉄砲の中から政権が出る(槍杆子里面出政権)」
という武装闘争路線を主張し、秋収暴動を組織したが失敗し、江西省の井崗山にたてこもった。
- 1928年4月、毛沢東は、朱徳の部隊と合流して中国工農紅軍を組織し、政治委員となった。なお井崗山で、毛沢東は当時まだ楊開慧という妻が故郷にいたにもかかわらず、江西省出身の女性・賀子珍(1910-1984)と事実婚状態となり、1929年には長女をもうけた。
- 1931年 11月、江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府が樹立。毛沢東はその主席となった。
- 1934年 10月、国民党軍の圧迫を受けて、長征を開始。
- 1935年1月、移動途中の貴州省遵義で、党中央の指導権を掌握。
- 1931年、満洲事変。
- 1936年、紅軍は陝西省延安に到達。長征が終わる。毛沢東は朱徳にかわって軍権を掌握した。同年12月、西安事件が起きる。
- 1937年7月7日、日中戦争が勃発。第二次国共合作が成立。毛沢東はこのころ『実践論』『矛盾論』を執筆、中国独自の革命理論を発表した。
- 1938年には『持久戦論』を執筆。抗日戦争に勝利するための人民戦争論を主張した。 なおこの年、毛沢東は賀子珍と離婚し、上海の元女優・江青(1914-1991)と結婚した。
- 1942年からの整風運動で、毛沢東は延安でのライバルや反対派を粛清。1943年にはソ連留学組だった総書記の張聞天を排除して自らがその地位(事実上の党主席)に就任した。
- 1945年、第7回党大会で毛沢東思想を指導理念として党規約に加える。次いで、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任。その後、日中戦争終結。
- 1946年、国共内戦が始まる。
- 1949年 10月1日、中華人民共和国の建国。毛沢東は中央人民政府主席に選ばれた。
- 1950年、朝鮮戦争勃発。同年、毛沢東と楊開慧のあいだの長男・毛岸英は、彭徳懐のロシア語通訳として従軍中に米軍の爆撃を受けて戦死。
参考 スターリンの息子ヤーコフ・ジュガシヴィリ
ヒトラーの甥レオ・ルドルフ・ラウバル
- 1954年9月の第1回全国人民代表大会で憲法が制定され、毛沢東は共和国国家主席に選出された。
- 1956年、中国で百花斉放百家争鳴が始まる。
- 1957年、毛沢東は反右派闘争を発動。
- 1958年、毛沢東は「大躍進」運動を発動。
- 1959年4月27日、毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲ることにしたが、党中央委員会主席と中央軍事委員会主席の地位は手放さず、大躍進政策は続けられた。同年7月から8月にかけて、江西省廬山で開催された党中央政治局拡大会議(廬山会議)で、毛と同郷の彭徳懐元帥は大躍進政策の見直しを進言したが、毛沢東はヒストリックに拒絶して彭徳懐を失脚させた。結局、大躍進は餓死者数千万人という惨憺たる結果に終わった。
毛沢東は、神棚に祭り上げられはしごをとられた形で、実権を失った。
- 1962年10月、中印国境紛争が発生。同年、中ソ論争が発生。
- 1964年10月、中国が初の原爆実験に成功。
参考 同年公開の映画「007 ゴールドフィンガー」に中国製の「汚い原爆」が登場。
- 1965年11月、「四人組」のひとり姚文元が書いた記事「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載され、文化大革命が始まった。
- 1966年、回族の高校生・張承志が「紅衛兵」という名称を発案。
毛沢東は、同年8月18日から11月26日にかけて全国から上京してきた紅衛兵延べ1000万人と北京の天安門広場で会見。
- 1968年から上山下郷運動が開始。
- 1969年3月、中ソ国境紛争(珍宝島事件)。
参考 テレビドラマ「お荷物小荷物・カムイ編」(主演 中山千夏)。
戸浦六宏演じる近松千春はマオイストで『毛沢東語録』を常に携帯。
口癖は「毛沢東いわく」
- 1971年9月13日、林彪事件。
- 1972年2月、米国のニクソン大統領が中国を訪問。同年9月、田中角栄が訪中し、日中国交正常化。
ニクソンとの会見後、毛は、難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)に罹患していることが判明した。
- 1975年、白内障が悪化。肺気腫から心臓病にもなった。
- 1976年1月8日、周恩来死去。天安門事件発生。
毛沢東は文革の継続を望み、ケ小平の解任と華国鋒の総理就任を提案した。
同年9月9日0時10分、北京の中南海の自宅で死去。満82歳没。
○その他
- 毛沢東は読書家だった。9月9日に亡くなる直前まで、病床で読書をしていた。
9月7日、救命措置で一時的に意識を回復した毛沢東は、すでに会話もできなかったが、震える手で紙に三つの横線を書いて、ベッドの木を叩いた。周囲の者が「三木武夫(当時の日本の総理大臣)に関する本をお読みになりたいのですか?」ときくと、毛沢東はかすかにうなずき、満足げな表情を浮かべた。毛沢東は、手足に点滴用のチューブを何本もつながれ、胸に心電図のコードをつけられ、鼻から酸素吸入の管をいれられた状態でありながら、お付きの人に本を持ってもらい、三木武夫に関する本を読んだ。彼の生涯最後の読書は、亡くなる前日である9月8日午前5時50分から、全身を生命維持装置につながれたままでの、7分間の読書であった。
参考 [主席临终前全身布满监抢救器械,为何还要读日本首相三木武夫的书?](中国語) 2020-12-03 10:13:53
- 中国共産党の偉人は死後に火葬され、遺骨は北京市内の「八宝山革命公墓」に安置する習わしとなっている。例外は毛沢東と周恩来である。
毛沢東じしんは火葬を提唱し、死後は遺骨を海にまいて魚のエサにするよう遺言していた。しかし彼の遺言は守られず(モスクワのレーニン廟に対抗するためもあって)彼の遺体は防腐処理をほどこされ、北京の天安門広場にある「毛主席記念堂」に安置されている。一般見学が可能で、数人の衛兵が守る水晶の棺の中に、胸から下を中国共産党旗で包まれた毛沢東の遺体を見ることができる。
中国人がひそかに語る都市伝説に「水晶の棺に安置されている毛沢東の遺体は蝋人形のニセモノで、ホンモノの遺体は地下に安置されている」というのがある。真偽は不明。
- 中国の人民元の紙幣(第5版人民幣)に描かれている肖像は、全て毛沢東である。100元札、50元札、20元札、10元札、5元札、1元札のすべての表面は毛沢東の肖像画で、それぞれの裏面は紙幣ごとに人民大会堂やポタラ宮など異なる風景が描かれている。
かつての「第4版」までは紙幣の肖像画は複数あったが、第5版から毛沢東に一本化された。
-
毛沢東は生涯で妻4人、子ども10人をもった。
- 妻 羅一秀 婚姻期間1907年-1910年 死別
- 妻 楊開慧 婚姻期間1920年1月-1927年8月 死別
長男 毛岸英 -(1922年10月-1950年11月)
次男 毛岸青 -(1923年11月-2007年3月)
孫 毛新宇 -(1970年1月-)
三男 毛岸竜 - 夭折
- 妻 賀子珍 婚姻期間1928年6月-1937年10月 離婚
長女 楊月花 -(1929年3月-)
四男 - 夭折
五男 毛岸紅 -(1932年11月-1971年12月)
次女 熊化芝 -(1935年2月-)
三女 李敏 -(1936年-)
孫娘 孔東梅 - (1972年1月1日-)
六男 - 夭折
- 妻 江青 婚姻期間1938年11月-1976年9月 死別(秘密離婚説、あり)
四女 李訥 -(1940年-)
孫 王效芝 -(1972年-)
李志綏(1919-1995)『毛沢東の私生活』(1994年)によれば妻以外にも多くの女性と関係をもったとされるが、真偽は不明。
- 毛沢東の孫世代のうち、「毛」姓は毛新宇(もう しんう、1970年1月17日 - )だけである。
毛沢東の二男である毛岸青と、女性カメラマン邵華の一人息子で、2010年7月、40歳で人民解放軍の少将に昇格した。
第5回 周恩来(1898-1976) 一度も失脚せず政治家の使命をまっとう
大正時代の東京で学んだ周恩来(しゅうおんらい Zhou Enlai)は、中国共産党の古参メンバーですが、国共合作時代には蒋介石の部下だったこともありました。人望も実務能力も高かった周は、ナンバー2に徹し、夢想家肌の毛沢東を支えました。中華人民共和国の建国後、多くの政治家が粛清されるなかで、周恩来は最期まで失脚せず、「文化大革命」で深く傷ついた中国の行く末を案じながら亡くなりました。東京の東中野に暮らしていたこともある周恩来の生涯を、わかりやすく解説します。
参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lISkNq6FCxDIu_XHH2rrum
○キーワード・ポイント
- 宰相(さいしょう)
中国史上、日本でも有名な宰相には、賛否は分かれるが、秦の呂不韋、前漢の蕭何、蜀漢の諸葛孔明、唐の房玄齢、北宋の王安石、南宋の文天祥、
モンゴル帝国の耶律楚材、明の張居正、清の李鴻章などがいる。
周恩来も、いわば宰相であった。
宰相は官職名ではなく、昔の中国で天子を助けて政治を行う大臣の首長を指す。具体的な官職名は歴代王朝で異なり、また「複数宰相制」を採った時代もあった。
前漢では丞相(じょうしょう)、太尉(たいい)、御史大夫(ぎょしたいふ)。
後漢(ごかん)では太尉、司徒、司空の三公。
唐では尚書令、または左(さ)・右僕射(うぼくや)と中書令、門下侍中。
のちに同中書門下平章事、略して同平章事が宰相の任となり、北宋(ほくそう)まで続いた。
南宋(なんそう)では左・右丞相。
明(みん)から清(しん)初までは内閣大学士。
清の雍正帝(ようせいてい)時代から軍機処大臣が宰相となった。
中華人民共和国は、過去の封建的な王朝との連続性がない政権だが、国務院総理・周恩来は比喩的な意味で「宰相」であり、毛沢東が天命を受けた「天子」だった。
ちなみに日本では、内閣総理大臣を比喩的に「宰相」と呼ぶ。
- 馮道(ふう どう、882年 - 954年)。中国の五代十国時代の宰相で、五朝八姓十一君に仕えた政治家。
一度も失脚しなかった周恩来を馮道になぞらえる声もある。
- 功徳
毛沢東の功、周恩来の徳。これは世間のイメージだが、実態は違う、という意見もある。
- 親日、知日、用日、抗日、反日、嫌日、侮日、克日・・・
周恩来は知日派・抗日派・用日派であり、親日派というイメージもふりまいた(実際にそうであったかは疑問)。
- 実権派
「文化大革命」で打倒された「資本主義の道を歩む実権派」を指し、別名「走資派」とも呼ばれる。自称ではなく、他称。
1965年、党主席の毛沢東が、国家主席の劉少奇ら「修正主義者」を指して「実権派」と批判したときに初めて使用。
周恩来は「実務派」であったため、文革中は「実権派」のレッテルを貼られて打倒されるリスクも大きく、綱渡り状態だった。
Cf.司馬遼太郎の革命論 思想家→戦略家→技術者
司馬遼太郎『花神』より引用。
さて余談ながら、この小説は大変革期というか、革命期というか、
そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、
主題のようなものである。
大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。
日本では吉田松陰のようなものであろう。
ついで戦略家の時代に入る。
日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在で
これまた天寿をまっとうしない。
三番目に登場するのが、技術者である。
この技術というのは科学技術であってもいいし、
法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような
軍事技術であってもいい。
○辞書的な説明
- 『デジタル大辞泉』より引用。
しゅう‐おんらい〔シウ‐〕【周恩来】
[1898〜1976]中国の政治家。江蘇省淮安(わいあん)の人。日本に留学後、天津で五・四運動に参加。のち、パリ留学中に中国共産党フランス支部を組織。第二次大戦中は国共合作・抗日統一戦線結成に活躍。中華人民共和国成立後は国務院総理として敏腕を振るった。チョウ=エンライ。
- 『日本大百科全書(ニッポニカ) 』より引用。
周恩来
しゅうおんらい / チョウエンライ
(1898 - 1976)
中国の政治家、革命家。中華人民共和国成立後は国務院総理(首相)を務めた。
江蘇(こうそ)省淮安(わいあん)の名門の家に生まれ、叔父の養子となる。天津(てんしん)の南開中学に学んだ。アメリカ留学のための清華学校の受験に失敗し、1917年(大正6)から2年近く、来日して東京・神田の高等予備学校などの聴講生となったが、1919年には帰国して南開大学の学生となり、五・四運動に参加して投獄された。翌1920年、当時流行の勤工倹学運動でフランスへ留学、蔡和森(さいわしん)、朱徳(しゅとく)、李立三(りりっさん)、李富春(りふしゅん)、ケ小平(とうしょうへい)ら留学生の間で政治的頭角を現し、1921年中国共産主義青年団の創立に加わり、翌1922年中国共産党に入党した。パリからロンドン、ベルリン、モスクワ経由で1924年に帰国。黄埔(こうほ)軍官学校(校長・蒋介石(しょうかいせき))の政治部主任代理(のち主任)となり、徐向前(じょこうぜん)、林彪(りんぴょう)らを指導した。1925年、理想的な夫婦像として語られるケ穎超(とうえいちょう)夫人と結婚。1926年の北伐(ほくばつ)開始とともに上海(シャンハイ)に潜入して労働者の蜂起(ほうき)を指導したが、翌1927年4月の上海クーデターの結果、武漢に逃れ、同年の中国共産党五全大会では政治局委員に選出された。この年(1927)8月、朱徳らと南昌(なんしょう)蜂起、12月の広東(カントン)蜂起を指導して失敗、一時香港(ホンコン)に脱出後、1931年江西ソビエト区に入り党中央軍事部長、第一方面軍政治委員の要職についた。1934年からの紅軍の大長征には軍事面での最高指導者であったが、1935年1月の遵義(じゅんぎ)会議で毛沢東(もうたくとう)に軍の指導権を譲った。1936年の西安(せいあん)事件に際しては、蒋介石を捕らえた張学良(ちょうがくりょう)らを説得して釈放させ、抗日民族統一戦線の結成に努めた。こうして第二次国共合作が成ったが、抗日戦争中は延安(えんあん)から重慶(じゅうけい)に移って国共両党の調整にあたり、第二次世界大戦後はマーシャル・アメリカ特使の国共調停工作にも応じた。
1949年の新中国成立後は、国務院(政務院)総理兼外交部長(1958年まで)として、1954年のインドシナ休戦のためのジュネーブ会議、同年のネルー・インド首相との間の平和五原則、1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)などを通じ、アジア・アフリカ新興諸国のエースとして「周恩来平和外交」を世界に印象づけた。1956年の東欧事件では社会主義諸国間の調停にもあたっている。1966年からの文化大革命では毛沢東を支持したが、やがて1971年の林彪異変以降、脱文革化、つまり毛沢東体制下の非毛沢東化を推進した。対外的には、1969年にコスイギン・ソ連首相と急遽(きゅうきょ)会談して中ソ戦争の危機を凍結する一方、1971年の米中接近、国連加盟、1972年の日中国交正常化に尽力した。こうした周恩来主導の内政と外交は、江青(こうせい)ら毛沢東側近との対立を深め、1976年1月8日に癌(がん)で死去するまでの最晩年は厳しい状況に追いやられていた。同年4月4日の亡き周恩来をたたえる中国民衆の街頭行動は、翌5日、これを鎮圧しようとした当局への大衆反乱となって天安門事件(第一次)をもたらし、毛沢東政治からの転換を促したのである。
[中嶋嶺雄]
(以下略)
○略歴
- 1898年3月5日、江蘇(こうそ)省淮安(わいあん)の名門の家に生まれる。叔父の養子となった。
- 天津の南開中学に学ぶ。学生時代は演劇改良運動にのめりこみ、女形で名をはせた。アメリカ留学を志したが、清華学校の受験に失敗してあきらめた。
- 1917年、中国を卒業して日本に2年近く留学。
第一高等学校と東京高等師範学校の受験に失敗。
東亜高等予備学校(日華同人共立東亜高等予備学校)、東京神田区高等予備校(法政大学付属学校)、明治大学政治経済科(旧政学部、現在の政治経済学部)などに通う。
- 1918年5月1日、靖国神社の大祭を見物。6月2日に游就館を参観。
参考図書 周恩来 (著), 矢吹晋 (編集), 鈴木博 (翻訳)『十九歳の東京日記』―1918.1.1~12.23 (小学館文庫、1999/9/1)
同年、中国留学生の一斉帰国運動。周恩来は一旦中国に帰るが、再び来日。
母校の南開学校が大学部を創設するというニュースを知り、帰国を決意。
- 1919年、東京から京都を経て神戸へ行き、船で帰国。
Cf.「周恩来総理記念詩碑」京都府京都市右京区嵯峨亀ノ尾町6
周恩来がマルクス主義に触れたきっかは京都大学教授の河上肇(かわかみはじめ)の著書で、京都大学で河上の講義を聴いた。
4月、天津の南開大学の学生となる。五・四運動で学生運動のリーダーとなり、投獄された。
- 1920年、働きながら留学する「勤工倹学運動」でフランスへ留学。朱徳(しゅとく)、李立三(りりっさん)、ケ小平(とうしょうへい)ら留学生仲間のあいだで頭角を現す。
労働党の研究のため渡英し、エディンバラ大学入学を許可されるが、中国政府からの奨学金が下りず、フランスに戻る。
- 1921年、フランスで中国共産主義青年団の創立に加わる。
Cf.同年7月、上海では中国共産党第1次全国代表大会(第1回党大会)開催、中国共産党が結成された。北京大学文科長の陳独秀、北京大学図書館長の李大サ、元北京大学図書館司書の毛沢東らが、日本の東京帝国大学留学から帰国した李漢俊の上海の自宅で。
- 1922年、フランスで共産党に入党。帰国するため、パリからロンドン、ベルリン、モスクワへ移動。
- 1924年に帰国。黄埔(こうほ)軍官学校で、校長・蒋介石(しょうかいせき)のもと、政治部主任代理(のち主任)となり、林彪(りんぴょう)らを指導した。
Cf. 国民党は1924年1月20日、「連ソ」「容共」「扶助工農」の第一次国共合作を成立させた。陳独秀や毛沢東ら中国共産党員が個人として国民党に加入。
- 1925年、ケ穎超(とうえいちょう)と結婚。同年、孫文死去。
- 1926年、蒋介石が北伐(ほくばつ)を開始。周恩来は上海に潜入して労働者の蜂起の地下工作を指導。
- 1927年、蒋介石が南京に国民政府を成立させる。同年4月、蒋介石の上海クーデターによって国共合作は終了。国共内戦に突入。
周恩来は上海クーデターの結果、武漢に逃れ、同年の中国共産党五全大会では政治局委員に選出された。
同年8月、朱徳らと南昌(なんしょう)蜂起、12月の広東(カントン)蜂起を指導するが失敗。
- 1931年、江西ソビエト区に入り党中央軍事部長、第一方面軍政治委員。
- 1934年、紅軍の長征では、軍事面での最高指導者であった。
- 1935年1月、遵義(じゅんぎ)会議。毛沢東に軍の指導権を譲った。
- 1936年、西安事件。蒋介石を捕らえた張学良らを説得して蒋介石を釈放させ、日本に対抗するための第二次国共合作を成立させた。
- 1937年-1945年、日中戦争(中国側の呼称は「抗日戦争」)。
周恩来は、共産党の本拠地があった延安(えんあん)から、蒋介石の国民政府が移った重慶(じゅうけい)に渡り、国共両党の調整にあたった。
第二次世界大戦後は、米国特使マーシャルの国共調停工作にも応じた。
その後、国共内戦が勃発。
- 1949年、中華人民共和国成立。周恩来は国務院(政務院)総理兼外交部長(1958年まで)となる。
知日派である周恩来は、中国に抑留されていた日本人戦犯に寛大に対処し、日本を西側への外交の突破口にしようとした。
Cf.加藤徹 (著), 林振江(著)『日中戦後外交秘史 1954年の奇跡』(新潮新書、2020)
- 1954年、インドシナ休戦のためのジュネーブ会議。同年、周恩来はインドのネルー首相との間に「平和五原則」を確認。
- 1955年、アジア・アフリカ会議、いわゆる「バンドン会議」(バンドン精神)。「周恩来平和外交」を世界に印象づけた。
Cf.同年4月11日、周恩来暗殺をねらった航空テロ「カシミールプリンセス号爆破事件」。
- 1958年、大躍進運動が始まる。
- 1959年、大躍進の失敗が明らかになる。
中国の経済破綻の立て直しを、実務派である劉少奇、ケ小平らとともに取り組む。
- 1966年、文化大革命が本格化。周恩来は毛沢東を支持。が、なるべく被害が少ないように尽力した。例えば、文革中に腎臓がんになった溥儀(ふぎ)が入院できるよう手配したのは、政治協商会議の主席もつとめていた周恩来の手配だった。
- 1971年、林彪事件。
周恩来は、文革下での脱文革化を進め、米中接近に尽力し、中国の国連加盟を果たした。
- 1972年、日中国交正常化。
毛沢東は、江青ら四人組と、周恩来を対抗させてバランスを取った。
同年、膀胱癌が発見される。諸般の政治的な事情で、じゅうぶんながん治療を受けられなかった。
田中角栄首相の再三の訪日要請に対して、周恩来は「自分は生きては日本を二度と訪問することはないでしょう」と答えたと伝えられている。
- 1976年1月8日、癌で死去。77歳。
本人の希望により遺灰は八宝山ではなく、本人の希望により飛行機で散骨された。
同年4月、周恩来を追悼する市民の行進から、天安門事件(第一次)発生。
同年9月9日、毛沢東が死去。
○その他
- 周恩来は戦後、西側との外交関係樹立の突破口として、日本を特別視した。日本から来た人士は優先的に面会したため、他国に対してバランスが取れないと部下から意見されたが、周恩来は日本重視の方針を変えなかった(加藤徹・林振江『日中戦後外交秘史』book.html#nicchusengo)
1954年の李徳全の来日も、1956年の梅蘭芳(メイランファン asahi20231012.html#06)の京劇来日公演も、周恩来が主導した。
晩年、膀胱がんが悪化し、1974年に入ると政治の表舞台に姿を見せなくなったが、そのあとも病をおして、1974年12月5日には訪中した池田大作氏と1974年12月5日に北京の305病院で会見(参考記事 https://www.sokagakkai.jp/news/2540166.html)、75年6月には北京の病院を訪ねた藤山愛一郎元外相と会見するなど、最後まで日本重視の姿勢は変わらなかった。
- 1917年、来日した周恩来は東中野に下宿した。以下、東京都中野区『中野区政史・昭和編三』(昭和48年3月25日)p.797より引用。
「中野もだいぶかわったでしょうね。若いころ中野で下宿していたことがあるんですよ」。これは昭和四七年一〇月、日中国交回復条約調印で田中角栄首相が中国へ渡ったとき、周恩来首相が随行の日本人記者とかわした会話の一コマであった。 (中略)東京滞在中に、周恩来は東中野小学校の近くの東中野五丁目一四・五番に下宿していた。周恩来が下宿していた付近は、「華洲園」とよばれ、四季の草花を栽培する花畑として有名なところだった。後「華洲園」は移転し、その跡は宅地化し、第一次大戦で巨額の利潤を得た三井物産系の人や、軍人が邸宅を構えるようになった。ここに若き日の周恩来が下宿していたのだが、誰れの家だったのかはわからない。
参考記事 人民中国「周総理 日本留学時の住まいが「里帰り」 ―東京・中野で模型レプリカ贈呈式」2018-09-18 16:24:11
- お茶の水の明治大学の近くにある「漢陽楼」https://kanyoro.com/は、若き日の周恩来の行きつけの店だった。今も周恩来との縁(https://kanyoro.com/zhou-enlai.html)をアピールしている。
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