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早稲田大学エクステンションセンター 中野校

人物伝で学び直す中国近現代史

最新の更新2024年5月13日    最初の公開2024年5月13日

  1. 05/14 第1回 孫文(1866-1925) おおぼら吹きから近代中国の国父へ
  2. 05/21 第2回 汪兆銘(1885-1944) 漢民族の裏切り者か信念の平和主義者か
  3. 05/28 第3回 蒋介石(1887-1975) 重慶や台湾でしぶとくねばった指導者
  4. 06/04 第4回 毛沢東(1893-1976) 21世紀の今も中国を支配するカリスマの謎
  5. 06/11 第5回 周恩来(1898-1976) 一度も失脚せず政治家の使命をまっとう
以下、https://www.wuext.waseda.jp/course/detail/61378/より引用。
中国史は、国土が広く登場人物も多く、日本人にはとっつきにくい印象があります。特に近現代史は、革命や戦争など激動の時代であるうえ、昨日までの味方が今日の敵となるなど人間関係がくるくる変わるため、さらに複雑怪奇です。しかし視点を変えて、今も昔も変わらない中国人の特徴、という観点から近現代史を見直すと、意外にシンプルで理解しやすい。この講座では、日本とも深い縁があった5人の中国人の生涯をとりあげ、彼らの生き方を通して、中国の近現代史を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。

第1回 孫文(1866-1925) おおぼら吹きから近代中国の国父へ

中国革命の指導者として活動していた孫文(そんぶん Sun Wen)は、1905年、東京で中国革命同盟会を結成し、三民主義を綱領としました。彼は、宮崎滔天(みやざきとうてん)をはじめとする日本人の支援も受けつつ、清朝打倒の革命運動を続け、辛亥革命で中華民国の臨時大総統に就任しました。孫文の理想と挫折、日本とのかかわりなどを、中国史の予備知識がないかたにも、わかりやすく解説します。

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-ke3FJJuL5Sl68YOY0TpYL3

○キーワード
○辞書的な説明
以下、精選版『日本国語大辞典』より引用
そん‐ぶん【孫文】
中国の政治家。字(あざな)は逸仙(いっせん)。号は中山。広東省出身。ハワイ、香港、ヨーロッパに留学。滞欧中「三民主義」を唱え、一九〇五年東京で中国革命同盟会総理となる。辛亥革命で臨時大総統に推されたが、袁世凱に政権を譲り、第二革命で日本に亡命して中華革命党を組織。一九一九年これを中国国民党に改称、三民主義を中心思想として革命を推進した。(一八六六‐一九二五)

○身近な孫文の名ごり

○孫文が登場する小説
 陳舜臣『孫文』上下(新潮文庫) 解説・加藤徹
 一八九五年、下関における日清講和条約の調印。清朝打倒を決意した孫文は、同志とともに広州で最初の武装蜂起を企てる…。「大同社会」の実現を目指して、世界を翔る若き革命家の軌跡。膨大な資料から真実を読み取り、最後まであきらめなかった姿勢と無私の精神にあふれた孫文の実像が甦る歴史小説の神髄。『青山一髪』を改題、待望の文庫化。

○略年表

○評価
 肯定的評価と否定的評価の両面がある。
 台湾の国民党と、中国本土の中国共産党の双方にとって、孫文は今も「国父」である。
「孫文の継承者は国民党」 台湾・洪氏、習氏発言に反論 日本経済新聞 2016年11月12日 22:57
https://www.nikkei.com/article/DGXLASGM12H4Q_S6A111C1000000/ 2021年12月8日閲覧
【台北=共同】台湾の国民党の洪秀柱主席は12日、中国の習近平国家主席が清朝を倒した辛亥革命を主導した孫文生誕150年を記念した演説で「中国共産党が孫文の最も忠実な継承者だ」と発言したことについて「真正な継承者は当然、国民党だ」と反論した。
 孫文の功績をたたえたいが、孫文が鼓吹した「三民主義」は21世紀の中国の政治体制とそぐわない部分が多い。
 cf.中国で再放送禁止となったテレビドラマ『走向共和』2003年の、孫文の演説を再現したシーン。
https://youtu.be/--8rfp3CLtA

○その他
・孫文が「革命家」を名乗ったきっかけは日本の新聞記事だった。
以下、NHKテレビ「知るを楽しむ 歴史に好奇心」のテキスト(2007)のp.76-p.79から自己引用。
哲学と革命
 なぜ近代の中国人は、自分たちで考案した新漢語を捨てて、日本漢語を使うようになったのか。日清戦争で日本が中国に勝利したあと、大量の中国人留学生が日本にわたって勉学し、日本語の翻訳書を通じて西洋の学芸を学ぶようになったことも、理由の一つでしょう。ただ、より大きな理由として、日本人が考案した新漢語にはセンスがすぐれたものが多く、中国人にもすんなり受け入れられた、ということがあげられます。
 西洋の知の根幹をなす「フィロソフィー」という学問は、「知」(ソフィー)を「愛する(フィロ)」という意味です。日本人は、これを「哲学」と訳しました。
 明治の末、日本の学者・小柳司気太は中国(当時は清)に渡り、学者で書家としても有名な兪樾(一八二一ー一九〇六)に会いました。 小柳は帰国後、哲学雑誌に「兪曲園の哲学」という論文をのせ、彼の学説を紹介しました(曲園は、兪樾の号)。それを見た兪樾はビックリして、次のような漢詩を作りました。

挙世人人談哲学世を挙げて 人人 哲学を談ず
愧我迂疏未研榷愧ず 我が迂疏にして 未だ研榷せざりしを
誰知我即哲学家誰か知らん 我も即ち哲学家
東人有言我始覚東人 言有りて 我 始めて覚る

 大意は──近頃の世の中では、誰もが「哲学」という学問を談じている。恥ずかしいことに、私は時流にうとく、「哲学」とは何か、よく知らなかった。ところがなんと、私自身も哲学者なのだった。日本人の言葉によって、私は始めてそれを知った。
 近代の中国人にとって、日本漢語は、自分たちを見つめ直す「鏡」になったのです。
 「中国革命の父」孫文(一八六六ー一九二五)にも、同じような逸話があります。
 一八九五年、清朝打倒をめざして活動していた孫文は、広東での蜂起に失敗し、「広島丸」という船で日本に逃げました。神戸に上陸して日本の新聞を見ると、カナ文字はわからなかったものの、漢字の「支那革命党孫文日本に来たる」という見出しが、孫文の目に飛び込んできました。「革命」という日本漢語を見て、孫文は、衝撃を受けました。
 もともと中国の漢文では、「革命」という語は、「易姓革命」の意味でした。ある王朝が倒れ、前の皇帝とは別の姓をもつ英雄が「天命」を受けて、新王朝を創始すること。伝統的な中国の「革命」は、王朝の交替を指す言葉にすぎませんでした。
 しかし日本漢語の「革命」は、レボルーションの訳語でした。社会体制を根底から変える、という新しい意味がありました。「革命」という日本漢語から霊感を得た孫文は、興奮して、同志の陳少白にこう語りました。
日人称吾党為革命党、意義甚佳。吾党以後即称革命党可也」(日人、吾が党を称して「革命党」と為す。意義、甚だ佳なり。吾が党は以後、即ち「革命党」と称して可なり)
 日本人から「革命家」と呼ばれたことは、孫文は、自分たちの使命をより明確に自覚しました。これ以後、中国語でも「革命」は日本語と同じ意味で使うようになりました。
・孫文を理解する補助線として比較すべき人物


第2回 汪兆銘(1885-1944) 漢民族の裏切り者か信念の平和主義者か

若き日に日本に留学し、孫文の側近として活躍した汪兆銘(おうちょうめい Wang Zhaoming)は、1925年3月の孫文の遺言「革命尚未成功」(革命なお未だ成功せず)の筆記者でもありました。孫文の後継者として中国のリーダーとなるはずだった汪は、日中戦争中、南京の中華民国政府(汪兆銘政権)の主席となったことで、中国では「漢奸」(かんかん)として今も糾弾されています。21世紀の今も評価が定まらない彼の生涯を、わかりやすく解説します。

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-n_o13kI9XOMaoSY4kmFZnX

○ポイント、キーワード
○辞書的な説明
○略年表 ○その他


第3回 蒋介石(1887-1975) 重慶や台湾でしぶとくねばった指導者

若き日に日本陸軍の新潟県の砲兵隊で働いた蒋介石(しょうかいせき Jiang Jieshi)は、孫文の後継者として中華民国の統一を達成して国民党のリーダーとなりました。第二次大戦では連合国側に加わり、中国を世界の四大国の一角におしあげました。が、戦後の国共内戦では毛沢東の中国共産党に敗れ、台湾に渡りました。現在の台湾にも多大の影響を残している蒋介石の波瀾の生涯を、わかりやすく解説します。

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-l_NqUKTWoDz4bSLBWrezon

○ポイント、キーワード
  • 軍閥
    近代日本史の軍閥(Gunbatsu / Military Factions)は、「藩閥」「財閥」などと並ぶ概念で、文民や文官に対する軍人中心の政治勢力を指す。
    近代中国史の軍閥(military cliques)は、国内に各地域に割拠して武力を背景にその地域を実効支配する複数の勢力を指す。近代中国の「軍閥時代」は、英語では「The Warlord Era」と言う。
    蒋介石は、形式的には中華民国の「元首」となったが、実質的には最大のウォーロード(Warlord / 軍閥のボス)にすぎなかった。
  • 中国史の経験則
    ○中国の歴代王朝は、過渡的短命王朝と長期安定王朝、の繰り返し。  例えば、始皇帝の秦(短命)、前漢(長期安定)、王莽の新(短命)、後漢(長期安定)、・・・
    ○南京を首都とした政権・国家は短命に終わる。  例えば、六朝(りくちょう)、初期の明朝、太平天国(南京を天京と改称)、中華民国、など。
  • 「蔣」と「蒋」
    「蔣」は正字、「蒋」は略字。蔣はマコモという植物名だが、姓としても使う。
    ○辞書的な説明
    ○略年表

    ○その他


    第4回 毛沢東(1893-1976) 21世紀の今も中国を支配するカリスマの謎

    清末の農村に生まれた毛沢東(もうたくとう Mao Zedong)は、若き日に日本の西郷隆盛にあこがれ、革命家になり、中国共産党の創設メンバーの一人となりました。外国への留学経験がなかった毛沢東は、「水滸伝」や「西遊記」など中国の民衆がよく知っている物語を比喩として活用し、中国革命の思想を説きました。中華人民共和国を建国をしたあとは、大躍進の失敗や文化大革命の混乱など大きなあやまちも犯しました。毛沢東の生涯を、わかりやすく解説します。
    参考ビデオ
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lMGamCULXmo2E-B9OoK-N4



    ○ポイント、キーワード
    ○辞書的な説明

    ○略年表

    ○その他

    第5回 周恩来(1898-1976) 一度も失脚せず政治家の使命をまっとう

    大正時代の東京で学んだ周恩来(しゅうおんらい Zhou Enlai)は、中国共産党の古参メンバーですが、国共合作時代には蒋介石の部下だったこともありました。人望も実務能力も高かった周は、ナンバー2に徹し、夢想家肌の毛沢東を支えました。中華人民共和国の建国後、多くの政治家が粛清されるなかで、周恩来は最期まで失脚せず、「文化大革命」で深く傷ついた中国の行く末を案じながら亡くなりました。東京の東中野に暮らしていたこともある周恩来の生涯を、わかりやすく解説します。
    参考動画
    https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-lISkNq6FCxDIu_XHH2rrum

    ○キーワード・ポイント
    Cf.司馬遼太郎の革命論 思想家→戦略家→技術者
    司馬遼太郎『花神』より引用。
     さて余談ながら、この小説は大変革期というか、革命期というか、 そういう時期に登場する「技術」とはどういう意味があるかということが、 主題のようなものである。
     大革命というものは、まず最初に思想家があらわれて非業の死をとげる。 日本では吉田松陰のようなものであろう。
     ついで戦略家の時代に入る。 日本では高杉晋作、西郷隆盛のような存在で これまた天寿をまっとうしない。
     三番目に登場するのが、技術者である。 この技術というのは科学技術であってもいいし、 法制技術、あるいは蔵六が後年担当したような 軍事技術であってもいい。

    ○辞書的な説明

    ○略歴

    ○その他


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