迦陵頻伽(妙音鳥)は『仏説阿弥陀経』にも登場。極楽浄土(ごくらくじょうど)は美しい宝石の輝きと妙なる音楽のしらべで満たされている、とされる。畏れ多きことながら、迦陵頻伽のお顔には、既視感がございます?? pic.twitter.com/L8INLVj1yN
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 13, 2021
又舍利弗 極樂國土 有七寶池 八功德水 充滿其中 池底純以 金沙布地 四邊階道 金銀瑠璃 玻瓈合成 上有樓閣 亦以金銀瑠璃 玻瓈硨磲 赤珠碼碯 而嚴飾之
Again, Śāriputra, in the Land of Utmost Bliss there are seven- jeweled ponds filled with water possessing the eight excellent qualities. The beds of the ponds are covered solely with gold sand, and from the four sides of each bed rise stairs of gold, silver, beryl, and crystal. Above these stand pavilions adorned with gold, silver, beryl, crystal, sapphire, rosy pearls, and cornelian.
(中略)
又舍利弗 彼佛國土 常作天樂
Again, Śāriputra, in that buddha land heavenly music is played continually.
(中略)
復次舍利弗 彼國常有 種種奇妙 雜色之鳥 白鵠孔雀 鸚鵡舍利 迦陵頻伽 共命之鳥 是諸衆鳥 晝夜六時 出和雅音 其音演暢 五根五力 七菩提分 八聖道分 如是等法 其土衆生 聞是音已 皆悉念佛念法念僧
Again, Śāriputra, in that land there are always many kinds of rare and beautiful birds of various colors, such as white geese, peacocks, parrots, śāris, kalaviṅkas, and jīvaṃjīvakas. Six times during the day and night birds sing with melodious and delicate sounds, which proclaim such teachings as the five roots of good, the five powers, the seven practices leading to enlight- enment, and the Noble Eightfold Path. On hearing them, all the people of that land become mindful of the Buddha, Dharma, and Sangha.
「当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転于法輪、諸仏於此而般涅槃。」参考 「宮沢賢治手帳」より。賢治の坐右の銘の一つは「道場観」
Tō chi ze sho soku ze dō jō. Sho butsu o shi toku a noku ta ra san myaku san bo dai, sho butsu o shi ten no hō rin, sho butsu o shi ni hatsu ne han.
BDK Translation: Because you should know that these places are the terraces of enlightenment where all the buddhas have attained highest, complete enlightenment, where all the buddhas have turned the wheel of the Dharma, and where all the buddhas entered parinirvāṇa.
参考 寺山修司の言葉
劇場があって劇が演じられるのではない。劇が演じられると、劇場になるのである。/つまり、劇場は「在る」のではなく「成る」ものなのだ。――『寺山修司演劇論集』(国文社、1983年)p.273 劇場とは、施設や建物のことではなく、劇的出会いが生成されるための「場」のイデオロギーのことである。どんな場所でも劇場にすることができるし、どんな劇場でも劇が生成されない限りは、日常的な風景の一部にすぎなくなる。――『寺山修司著作集 第5巻 文学・芸術・映画・演劇評論』(クインテッセンス出版、2009年)p.370 |
中島恵『なぜ中国人は日本のトイレの虜になるのか?』(中公新書ラクレ、2015)より引用
その頃、よく布団にくるまって泣きながら一人でこっそり見ていたのは『Angel Beats!』というアニメでした。 布団がゴソゴソするなと思ったら、なんとネズミが這い回っているんですよ。 そんなに汚い環境でも、好きなアニメを見ている時間だけはとても幸せで、ほんの一瞬ですが、辛いことを忘れられました。 日本のアニメは温い日本人の人間性が凝縮されていると思いました。 いつか、好きなアニメを山ほど買って、コスプレもたくさんして、日本旅行に行きたいと思って、それで今日まで歯を食いしばってがんばってきたんです。 (中略) 中国人は誰でも明日のことはわからないんです。 今はとても豊かになって、多少のお金を持てるようになったとはいっても、みんな心の中では明日のことをとても心配し、殺伐としているんです。 中国のような国では、どこにどんな落とし穴があって、これから先も順調に生きていけるかどうかわからない。 誰に足を引っ張られるかも、裏切られるかもわかりません。 口に出さなくても、みな、そんな不安をいつも抱えています。 でも、日本人は違う。 (中略) お金以外に価値を置いて精神的に豊かな暮らしをしている人も多い。 そういう姿は本当にうらやましいんです。 少なくとも、僕の目にはそう映ります。 |
『台記』他の諸記録や『梁塵秘抄』などを考え合わせると、1100年代前半から後半にかけて、芸能的な読経が行われ、女性芸能者にまで裾野を拡げて行われるようになっていたことが確かめられる。
柴咲コウさんの「謡い経」や、ニコニコ超会議の讃仏偈 https://t.co/jEyQmMH1Pq などを聴くと、平安時代にあった女性芸能者による音楽的読経の伝統が、21世紀の今も形を変えて健在であることに気付く。
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) June 9, 2024
清少納言(せいしょうなごん 966年頃-1025年頃)『枕草子』(まくらのそうし)より【備忘用】夕方、18歳の宮沢賢治が耽読した「赤本法華経」を見ながら、「謡い経」(by 柴咲コウ at NHK「おんな城主 直虎」) https://t.co/f7umFAJ1KA を聴くと、清少納言『枕草子』202段の「 陀羅尼は暁。経は夕暮れ。」の本当の意味がわかるような気がする。 pic.twitter.com/8TN4gHLZa0
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) June 22, 2022
198段 経は法華経。さらなり。普賢十願(ふげんじゅうがん)。千手経(せんじゅきょう)。随求経(ずいぐきょう)。金剛般若(こんごうはんにゃ)。薬師経。仁王経の下巻。 199段 仏は如意輪(にょいりん)。千手。すべて六観音。薬師仏。釈迦仏。弥勒(みろく)。地蔵。文殊。不動尊。普賢(ふげん)。 200段 書(ふみ)は文集(ぶんじゅ)。文選(もんぜん)。新賦(しんぷ)。史記。五帝本紀(ごていほんぎ)。願文。表。博士の申文(もうしぶみ)。 201段 物語は住吉(すみよし)。宇津保(うつほ)。殿うつり。国譲りはにくし。埋れ木。月待つ女。梅壺(うめつぼ)の大将。道心すすむる。松が枝。こまのの物語は、古蝙蝠(ふるこうもり)さがし出でて、持て行きしが、をかしきなり。ものうらやみの中将、宰相に子うませて形見(かたみ)の衣など乞ひたるぞ、にくき。交野(かたの)の少将。 202段 陀羅尼は暁。経は夕暮れ。 203段 遊びは夜。人の顔見えぬほど。 204段 遊びわざは小弓。碁。さまあしけれど、鞠もをかし。 |
以下、同論文pp.293-294より引用。
この平安貴顕の法華経読誦が、しかし宗教行為としてのみ行われていたわけではなかったという興味深い事実があることを看過するわけにはいかない。平安貴族文化圏では経典読誦は、先の引用にあるように宗教的行為である一方で、田中徳定氏が指摘されたように「読経争い」と呼ばれる文化的行為としても受容されていたのである。「読経争い」は、経を読む声の質や節回しなどの技術等を競い合うことからも知られるように音声芸術の要素をきわめて強く持っており、詩歌・管弦・舞踊・狩猟などの「遊び」と総称される文化の中で享受されていった(17)。このことは、「読経」の語が「今様歌い」とともに並んで示される文例が多いことからも伺えよう。例えば、『紫式部日記』には彰子が出産のために実家へ戻った際の記述で、若い公達たちが「読経争い」や「今様うたども」に興じたことが以下のように記されている。 八月二十余日のほどよりは、上達部・殿上人ども、さるべきは、みな宿直がちにて、橋の上、対の簀子などに、みなうたた寝をしつつ、はかなうあそび明かす。琴・笛の音などには、たどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様うたどもも、ところにつけては、をかしかりけり。(18)(注17)「芸能としての読経─『紫式部日記』『栄花物語』にみえる「読経争い」を発端として─」『駒沢国文』34号 1997年。 (注18)『日本古典文学体系』19巻、(前出)445頁。『栄華物語』(巻八はつはな)でもこの出来事を以下のように述べている。(『栄花物語標注上』415-416頁。)『枕草子』154段「故殿の御服のころ」にも同様の記述がある。(『日本古典文学体系』19巻、(前出)216頁。) |
・・・若使人作楽、撃鼓吹角貝、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、如是衆妙音、尽持以供養、
或以歓喜心、歌唄頌仏徳、乃至一小音、皆已成仏道、・・・
・・・もし人をして楽をなさしめ、鼓を撃ち角・貝を吹かしめ、簫・笛・琴・箜篌、琵琶・鐃銅鈸、 是の如き衆の妙音、尽く持し以て供養し、或いは歓喜の心を以て、歌い唄いて仏徳を頌すれば、乃ち一小音に至るまで、皆已に仏道を成せり、・・・ |
天台宗の四つの伝承法流の一つ玄清法流(げんせいほうりゅう)では琵琶を奏でながらお経を唱え、三宝大荒神や諸仏を祈ります。 私たち僧侶が琵琶を弾く理由は「法華経」に由来します。「方便品」に、琵琶や楽器で妙音を奏で仏を供養するならば必ず仏道を成就することができる、と説かれています。つまり「妙音成仏」を目指す修行のよすがとして琵琶を弾奏するのです。 (中略) 玄清法流の開祖を玄清法印といいます。天平神護二年(七六六)、現在の福岡県太宰府市近郊に生まれた玄清は幼くして仏門に入り、十七歳で眼病を患い失明します。後の盲僧のため一派を開こうと決心し盲僧の祖インドの阿那律尊者にならい琵琶を弾き始めます。二十歳の時一大発心し、琵琶を携えて山に籠り二十一日間厳しい修行を行います。満願の朝「心願を成就したければ速やかに比叡山に登って一人の聖者にまみえ、その方を至心にお助けせよ」というお告げを授かります。玄清は早速登叡し導かれるように伝教大師最澄に出会います。当時伝教大師は根本中堂の前身である一乗止観院を建立中でした。しかし大蛇が出て御堂の建設が阻害されていたのです。地神の仕業だと察した玄清は琵琶を弾奏しながら地神陀羅尼経を唱え地神供養を行います。地神は大いに歓喜し、たちまち大蛇の難は消除したと伝えられています。玄清の琵琶を用いた祈祷には感応道交の力があったのです。 妙音成仏と感応道交、これが琵琶弾奏のテーマです。しかしそれのみならず、祈りの場に集う人々の心に琵琶の音が響くことも私たちは古くからとても大切にしてきました。私たちの奏でる琵琶の音が御仏はもとより皆様の心に届き、共鳴共振することを願って現在も修練と試行錯誤を重ねています。 (文・玄清法流 華王院 坂本清昭) |
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』方便品第二より
乃至童子戯、聚沙為仏塔、
ない/し/どう/じ/け じゅ/しゃ/い/ぶッ/とう
乃至、童子のたわむれに、すなをあつめて仏塔をつくる。
And even children in play
Who made buddha stupas out of heaps of sand
如是諸人等、皆已成仏道。
にょ/ぜ/しょ/にん/とう かい/い/じょう/ぶつ/どう
かくのごとき諸人ら、皆すでに仏道を成せり。
All such people have certainly attained
The path of the buddhas.
(中略)
乃至童子戯、若艸木及筆、或以指爪甲、而画作仏像。
ない/し/どう/じ/け にゃく/そう/もく/ぎゅう/ひつ わく/い/し/しょう/こう に/え/さ/ぶつ/ぞう
乃至、童子のたわむれに、もしくは草木および筆、あるいは指の爪甲をもって、しかして画きて仏像を作る。
This even includes children in play
Who have drawn a buddha image
With a blade of grass or a twig,
Brush or fingernail.
如是諸人等、漸漸積功徳、具足大悲心、皆已成仏道。
にょ/ぜ/しょ/にん/とう ぜん/ぜん/しゃッ/く/どく ぐ/そく/だい/ひ/しん かい/い/じょう/ぶつ/どう
かくのごとき諸人ら、漸漸に功徳を積み、大悲の心を具足して、皆すでに仏道を成せり。
Such people, having gradually accumulated merit
And perfected great compassion,
Have certainly attained the path of the buddhas.
(中略)
若使人作楽、撃鼓吹角貝、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、
にゃく/し/にん/さ/がく きゃッ/く/すい/かく/ばい しょう/ちゃく/きん/く/ごう び/は/にょう/どう/ばつ
もしくは人をして楽を作さしめ、鼓を撃ち角貝を吹き、簫・笛・琴・箜篌、琵琶・鐃・銅鈸、
Those who paid homage with all kinds of sweet music−
With drums, horns, conches, pipes, flutes, lutes, harps,
Mandolins, gongs, and cymbals;
如是衆妙音、尽持以供養、或以歓喜心、歌唄頌仏徳、
乃至一小音、皆已成仏道。
にょ/ぜ/しゅ/みょう/おん じん/じ/い/く/よう わく/い/かん/ぎ/しん か/ばい/じゅ/ぶッ/とく ない/し/いッ/しょう/おん かい/い/じょう/ぶつ/どう
かくのごときもろもろの妙音、尽くもって以もて供養し、あるいは歓喜の心をもって、歌い唄いて仏徳をほめたたえ、乃至ひとつの小さき音をもってせるは、皆すでに仏道を成せり。
Those who joyfully praised the qualities of the buddhas
With various songs or
Even with a single low-pitched sound,
Have certainly attained the path of the buddhas.
ニコライ堂のニコライ(1832-1912 日本正教会の創建者)は「仏教はキリスト教以外の諸宗教の中で最上のものである」(講談社学術文庫『ニコライの見た幕末日本』p.38)、「この教えはキリスト教から借りてきたのではないか」(同書p.51)と書いた。キリスト教徒の目には、日本仏教はこう見えたらしい。 pic.twitter.com/i5Lp8mAeWB
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 8, 2021