畏れ多きことながら、迦陵頻伽のお顔には、既視感がございます?? pic.twitter.com/L8INLVj1yN
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 13, 2021
参考 寺山修司の言葉
劇場があって劇が演じられるのではない。劇が演じられると、劇場になるのである。/つまり、劇場は「在る」のではなく「成る」ものなのだ。――『寺山修司演劇論集』(国文社、1983年)p.273 劇場とは、施設や建物のことではなく、劇的出会いが生成されるための「場」のイデオロギーのことである。どんな場所でも劇場にすることができるし、どんな劇場でも劇が生成されない限りは、日常的な風景の一部にすぎなくなる。――『寺山修司著作集 第5巻 文学・芸術・映画・演劇評論』(クインテッセンス出版、2009年)p.370 |
現代人がカラオケで歌を楽しむのと同様、平安貴族は読経を音楽として楽しんでいた。【備忘用】夕方、18歳の宮沢賢治が耽読した「赤本法華経」を見ながら、「謡い経」(by 柴咲コウ at NHK「おんな城主 直虎」) https://t.co/f7umFAJ1KA を聴くと、清少納言『枕草子』202段の「 陀羅尼は暁。経は夕暮れ。」の本当の意味がわかるような気がする。 pic.twitter.com/8TN4gHLZa0
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) June 22, 2022
198段 経は法華経。さらなり。普賢十願(ふげんじゅうがん)。千手経(せんじゅきょう)。随求経(ずいぐきょう)。金剛般若(こんごうはんにゃ)。薬師経。仁王経の下巻。 199段 仏は如意輪(にょいりん)。千手。すべて六観音。薬師仏。釈迦仏。弥勒(みろく)。地蔵。文殊。不動尊。普賢(ふげん)。 200段 書(ふみ)は文集(ぶんじゅ)。文選(もんぜん)。新賦(しんぷ)。史記。五帝本紀(ごていほんぎ)。願文。表。博士の申文(もうしぶみ)。 201段 物語は住吉(すみよし)。宇津保(うつほ)。殿うつり。国譲りはにくし。埋れ木。月待つ女。梅壺(うめつぼ)の大将。道心すすむる。松が枝。こまのの物語は、古蝙蝠(ふるこうもり)さがし出でて、持て行きしが、をかしきなり。ものうらやみの中将、宰相に子うませて形見(かたみ)の衣など乞ひたるぞ、にくき。交野(かたの)の少将。 202段 陀羅尼は暁。経は夕暮れ。 203段 遊びは夜。人の顔見えぬほど。 204段 遊びわざは小弓。碁。さまあしけれど、鞠もをかし。 |
以下、同論文pp.293-294より引用。
この平安貴顕の法華経読誦が、しかし宗教行為としてのみ行われていたわけではなかったという興味深い事実があることを看過するわけにはいかない。平安貴族文化圏では経典読誦は、先の引用にあるように宗教的行為である一方で、田中徳定氏が指摘されたように「読経争い」と呼ばれる文化的行為としても受容されていたのである。「読経争い」は、経を読む声の質や節回しなどの技術等を競い合うことからも知られるように音声芸術の要素をきわめて強く持っており、詩歌・管弦・舞踊・狩猟などの「遊び」と総称される文化の中で享受されていった(17)。このことは、「読経」の語が「今様歌い」とともに並んで示される文例が多いことからも伺えよう。例えば、『紫式部日記』には彰子が出産のために実家へ戻った際の記述で、若い公達たちが「読経争い」や「今様うたども」に興じたことが以下のように記されている。 八月二十余日のほどよりは、上達部・殿上人ども、さるべきは、みな宿直がちにて、橋の上、対の簀子などに、みなうたた寝をしつつ、はかなうあそび明かす。琴・笛の音などには、たどたどしき若人たちの、読経あらそひ、今様うたどもも、ところにつけては、をかしかりけり。(18)(注17)「芸能としての読経─『紫式部日記』『栄花物語』にみえる「読経争い」を発端として─」『駒沢国文』34号 1997年。 (注18)『日本古典文学体系』19巻、(前出)445頁。『栄華物語』(巻八はつはな)でもこの出来事を以下のように述べている。(『栄花物語標注上』415-416頁。)『枕草子』154段「故殿の御服のころ」にも同様の記述がある。(『日本古典文学体系』19巻、(前出)216頁。) |
・・・、若使人作楽、撃鼓吹角貝、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、如是衆妙音、尽持以供養、
或以歓喜心、歌唄頌仏徳、乃至一小音、皆已成仏道、・・・
・・・もし人をして楽をなさしめ、鼓を撃ち角・貝を吹かしめ、簫・笛・琴・箜篌、琵琶・鐃銅鈸、 是の如き衆の妙音、尽く持し以て供養し、或いは歓喜の心を以て、歌い唄いて仏徳を頌すれば、乃ち一小音に至るまで、皆已に仏道を成せり、・・・ |
天台宗の四つの伝承法流の一つ玄清法流(げんせいほうりゅう)では琵琶を奏でながらお経を唱え、三宝大荒神や諸仏を祈ります。 私たち僧侶が琵琶を弾く理由は「法華経」に由来します。「方便品」に、琵琶や楽器で妙音を奏で仏を供養するならば必ず仏道を成就することができる、と説かれています。つまり「妙音成仏」を目指す修行のよすがとして琵琶を弾奏するのです。 (中略) 玄清法流の開祖を玄清法印といいます。天平神護二年(七六六)、現在の福岡県太宰府市近郊に生まれた玄清は幼くして仏門に入り、十七歳で眼病を患い失明します。後の盲僧のため一派を開こうと決心し盲僧の祖インドの阿那律尊者にならい琵琶を弾き始めます。二十歳の時一大発心し、琵琶を携えて山に籠り二十一日間厳しい修行を行います。満願の朝「心願を成就したければ速やかに比叡山に登って一人の聖者にまみえ、その方を至心にお助けせよ」というお告げを授かります。玄清は早速登叡し導かれるように伝教大師最澄に出会います。当時伝教大師は根本中堂の前身である一乗止観院を建立中でした。しかし大蛇が出て御堂の建設が阻害されていたのです。地神の仕業だと察した玄清は琵琶を弾奏しながら地神陀羅尼経を唱え地神供養を行います。地神は大いに歓喜し、たちまち大蛇の難は消除したと伝えられています。玄清の琵琶を用いた祈祷には感応道交の力があったのです。 妙音成仏と感応道交、これが琵琶弾奏のテーマです。しかしそれのみならず、祈りの場に集う人々の心に琵琶の音が響くことも私たちは古くからとても大切にしてきました。私たちの奏でる琵琶の音が御仏はもとより皆様の心に届き、共鳴共振することを願って現在も修練と試行錯誤を重ねています。 (文・玄清法流 華王院 坂本清昭) |
ニコライ堂のニコライ(1832-1912 日本正教会の創建者)は「仏教はキリスト教以外の諸宗教の中で最上のものである」(講談社学術文庫『ニコライの見た幕末日本』p.38)、「この教えはキリスト教から借りてきたのではないか」(同書p.51)と書いた。キリスト教徒の目には、日本仏教はこう見えたらしい。 pic.twitter.com/i5Lp8mAeWB
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) October 8, 2021