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人物で知る中国〜曹操

最新の更新2023年1月24日  最初の公開2023年1月24日

朝日カルチャーセンター・千葉教室 2023年1月25日水曜 15:30〜17:00
教室・オンライン同時開催。詳細は
https://www.asahiculture.jp/course/chiba/b6cba177-e6b2-c981-e249-636250da98ae
をご覧ください。
『 三国志 』の群雄のなかで、曹操は劉備や諸葛孔明に比べると損をしています。 史実の 曹操は特に悪人だったわけではありません。
詩人でもあった曹操は文の力を理解していたものの、支配階級たる「士大夫」層を心服させることができず、悪役をふられました。 曹操を通して中国を学びます。
参考動画
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-miogNb3vlgoeiIJ8X4m0u0

曹操の強み:親から受け継いだ資産、文武両道の資質
曹操の弱み:「名士コンプレックス」

○キーワード・ポイント
【豆知識】大阪府河内長野市(かわちながのし)のゆるキャラ「くろまろくん」は、魏の曹操の子孫である。
 曹操(魏の武帝)→息子・曹丕(そうひ。魏の文帝)→・・・→(渡来氏族)高向玄理(たかむこのくろまろ)
○曹操の墓「曹操高陵」
 中国の河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村の「西高穴2号墓」が、2009年に曹操の墓とされたが、異論もある。
 この墓で発見された男性の骨は、死亡推定年齢60代前後、 生前の身長は155センチメートル前後、虫歯や歯周病多数であったが、曹操の骨とされている。

○大辞林第三版より引用
曹操(155 〜220)中国,三国時代魏(ぎ)の始祖。字(あざな)は孟徳。諡(おくりな) は武帝。廟号(びようごう)は太祖。黄巾の乱を平定。後漢の献帝を擁して華北を統一し たが、江南進出は劉備・孫権の連合軍に阻まれた。詩賦をよくした。

○曹操の略歴
 名士コンプレックスをもつ魏の曹操は、生涯をかけて名士に認められようと努力したが、失敗した。
 これと対照的に、諸葛孔明をはじめとする名士に見込まれたのは、蜀の劉備であった。
 後世の小説や芝居では、曹操は悪役、劉備は正義の味方、として描かれるようになった。
○【月旦評】
 吉川英治の小説『三国志』桃園の巻より。「青空文庫」でも読めます。
 曹操は一日、その許子将を訪れた。座中、弟子や客らしいのが大勢いた。曹操は名乗って、彼の忌憚 ない「曹操評」を聞かしてもらおうと思ったが、子将は、冷たい眼で一眄(いちべん)したのみで、卑しんでろくに答えてくれない。
「ふふん……」
 曹操も、持前の皮肉がつい鼻先へ出て、こう揶揄した。
「――先生、池の魚は毎度鑑みておいでらしいが、まだ大海の巨鯨は、この部屋で鑑たことがありませんね」
 すると、許子将は、学究らしい薄べったくて、黒ずんだ唇から、抜けた歯をあらわして、
「豎子(じゅし)、何をいう! お前なんぞは、治世の能臣、乱世の姦雄※だ」
 と、初めて答えた。
 聞くと、曹操は、
「乱世の姦雄だと。――結構だ」
 彼は、満足して去った。

※(注) 許劭の曹操評は、正史では「治世之能臣、乱世之姦雄」(『三国志』魏書・武帝紀 注)あるいは「清平之姦賊、乱世之英雄」(『後漢書』許劭伝)であった。

参考 十八史略
★原漢文
 嵩与沛国曹操、合軍破賊。操父嵩、為宦者曹騰養子。或云、夏侯氏子也。操少機警、有 権数。任侠放蕩、不治行業。汝南許劭、与従兄靖有高名。共覈論郷党人物。毎月輒更其題 品。故汝南俗有月旦評。操往問劭曰、我何如人。劭不答。劫之。乃曰、子治世之能臣、乱 世之姦雄。操喜而去。至是以討賊起。
★書き下し
嵩、沛国の曹操と軍を合せて賊を破る。操の父嵩、宦者曹騰の養子と為る。
すう/はいこく/そうそう/ぐん/あは/ぞく/やぶ/そう/ちち/すう/かんじゃ/そうとう/ようし/な
或いは云ふ、夏侯氏の子なりと。操、少くして機警、権数有り。任侠放蕩にして行業を治めず。
ある/い/かこうし/こ/そう/わか/きけい/けんすう/あ/にんきょう/ほうとう/こうぎょう/をさ
汝南の許劭、従兄の靖と高名有り。共に郷党の人物を覈論す。毎月、輒ち其の題品を更む。
じょなん/きょしょう/じゅうけい/せい/こうめい/あ/とも/きょうとう/じんぶつ/かくろん/まいつき/すなは/そ/だいひん/あらた
故に汝南の俗に月旦の評有り。操、往きて劭に問ひて曰く「我は如何なる人ぞ」と。
ゆゑ/じょなん/ぞく/げったん/ひょう/あ/そう/ゆ/しょう/と/いは/われ/いか/ひと
劭、答へず。之を劫す。乃ち曰く「子は治世の能臣、乱世の姦雄なり」と。操、喜びて去る。
しょう/こた/これ/おびやか/すなは/いは/し/ちせい/のうしん/らんせい/かんゆう/そう/よろこ/さ
是に至りて賊を討つを以て起こる。
ここ/いた/ぞく/う/もっ/お

○銅雀台 どうじゃくだい
 曹操の思いを象徴する豪華な建物。豊臣秀吉が作った聚楽第と比較しうる。
 「雀」は「鳳凰」より格下の鳥だが、曹操は身分が低い自分も「龍」(皇帝の象徴)や「鳳凰」(皇后の象徴)より上のセレブになれるという思いをこめて「銅雀台」と名付けたという説もある。
 曹操が魏王に昇爵した210年に造営。「文闘」のあらわれ。
 曹操の五男・曹植は「銅雀台の賦」を、三男・曹丕は「登台賦」を詠み銅雀台を描写した。
 蔡文姫は「胡笳十八拍」を銅雀台で演奏した。

★吉川英治の小説『三国志』「望蜀の巻・文武競春」より引用。「青空文庫」でも読めます。
 冀北の強国、袁紹が亡びてから今年九年目、人文すべて革たまったが、秋去れば冬、冬去れば春、四季の風物だけは変らなかった。
 そして今し、建安十五年の春。鄴城(河北省)の銅雀台は、足かけ八年にわたる大工事の落成を告げていた。
「祝おう。大いに」
 曹操は、許都を発した。
 同時に――造営の事も終りぬれば――とあって、諸州の大将、文武の百官も、祝賀の大宴に招かれて、 鄴城の春は車駕金鞍に埋められた。
 そもそも、この漳河のながれに臨む楼台を「銅雀台」と名づけたのは、九年前、 曹操が北征してここを占領した時、青銅の雀を地下から掘り出したことに由来する。
 城から望んで左の閣を玉龍台といい、右の高楼を金鳳台という
 いずれも地上から十余丈の大厦である。そしてその空中には虹のような反橋を架け、玉龍金鳳を一郭とし、 それをめぐる千門万戸も、それぞれ後漢文化の精髄と芸術の粋をこらし、金壁銀砂は目もくらむばかりであり、 直欄横檻(ちょくらんおうかん)の珠玉は日に映じて、
「ここは、この世か。人の住む建築か」と、たたずむ者をして恍惚と疑わしめるほどだった。
「いささか予の心に適かなうものだ」
 由来、英雄は土木の工を好むという。
 この日、曹操は、七宝の金冠をいただき、緑錦の袍(ひたたれ)を着、 黄金の太刀を玉帯に佩いて、足には、一歩一歩燦爛と光を放つ珠履(しゅり)をはいていた。
「規模の壮大、輪奐(りんかん)の華麗、結構とも見事とも、言語に絶して、申し上げようもありません」
 文武の大将は彼の台下に侍立した。そして万歳を唱し、全員杯を挙げて祝賀した。
(中略)
 その時、楽部の伶人たちは、一斉に音楽を奏し、天には雲を闢(ひら)き、地には漳河の水も答えるかと思われた。
 水陸の珍味は、列座のあいだに配され、酒はあふれて、台上台下の千杯万杯に、尽きることなき春を盛った。
「武府の諸将は、みな弓を競って、日頃の能をあらわした。江湖の博学、文部の多識も、何か、佳章を賦して、 きょうの盛会を記念せずばなるまい
 酒たけなわの頃、曹操がいった。
 万雷のような拍手が轟く。王朗、字は景興(けいこう)、文官の一席から起って、
「鈞命に従って、銅雀台の一詩を賦しました。つつしんで賀唱いたします――」
銅雀台高ウシテ帝畿壮(サカン)ナリ
水明ラカニ山秀イデ光輝ヲ競ウ
三千ノ剣佩 黄道ヲ趨リ
百万ノ貔貅(ヒキユウ)ハ紫微ニ現ズ
 と朗々吟じた。
 曹操は、大いに興じて、特に秘愛の杯に酒をつぎ、
「杯ぐるみ飲め」
 と、王朗に与えた。
 王朗は、酒を乾して、杯は袂に入れて退がった。文官と武官と湧くごとく歓呼した。
 すると、また一人、雲箋に詩を記して立った者がある。東武亭侯侍中尚書、鍾繇、字は元常であった。
 この人は、当代に於て、隷書を書かせては、第一の名人という評がある。すなわち七言八絶を賦って――
銅雀台ハ高ウシテ上天ニ接ス
眸ヲ凝ラセバ遍ネクス旧山川
欄干ハ屈曲シテ明月ヲ留メ
窓戸ハ玲瓏トシテ紫烟ヲ圧ス
漢祖ノ歌風ハ空シク筑ヲ撃チ
定王ノ戯馬 謾リニ鞭ヲ加ウ
主人ノ盛徳ヤ尭舜ニ斉シ
願ワクハ昇平万々年ヲ楽シマン
 と、高吟した。
「佳作、佳作」
 曹操は激賞しておかなかった。そして彼には、一面の硯を賞として与えた。拍手、奏楽、礼讃の声、台上台下にみちあふれた。
「ああ、人臣の富貴、いま極まる」
 曹操は左右の者に述懐した。

○江戸時代の漢詩人・頼山陽「詠三国人物十二絶句」七、孟徳
 金刀版籍得雄蹲
 銅雀楼台日月昏
 七十二堆春草碧
 更無寸土到児孫
金刀の版籍雄蹲するを得て
きん/とう/はんせき/ゆうそん/え
銅雀楼台日月昏し
どうじゃく/ろうだい/じつげつ/くら
七十二堆春草碧く
しちじゅうにたい/しゅんそう/あを
更に寸土の児孫に到る無し
さら/すんど/じそん/いた/な
【注】金刀=卯金刀。漢王朝の国姓「劉」のアナグラム。
七十二堆=曹操は自分の墓を盗掘されぬよう「七十二疑冢」を作らせた、という伝説がある。
[この七言絶句の大意]魏の曹操は、劉氏の国土を乗っ取った。曹操は自分の権勢を天下に示すため、銅雀台 を築かせた。天空の太陽や月が隠れて見えぬほど豪壮な高層建築だった。また曹操は自 分の死後、墳墓が盗掘されぬよう、七十二もの偽の墓を作らせた。 それほど周到に悪知恵を働かせた曹操だったが、曹操の魏も、司馬氏に乗っ取られ、 あえなく滅亡。結局、曹操は自分の子孫に寸土も残せなかった。残せたのは、彼の七十 二箇所の墓に青青と生える春の雑草だけである。
○曹操が詠んだ漢詩「短歌行」
 原漢文
對酒當歌、人生幾何。譬如朝露、去日苦多。
慨當以慷、憂思難忘。何以解憂、唯有杜康。
青青子衿、悠悠我心。但爲君故、沈吟至今。
幼幼鹿鳴、食野之苹。我有嘉賓、鼓瑟吹笙。
明明如月、何時可輟。憂從中來、不可斷絶。
越陌度阡、枉用相存。契闊談讌、心念舊恩。
月明星稀、烏鵲南飛。繞樹三匝、無枝可依。
山不厭高、水不厭深。周公吐哺、天下歸心。
 書き下し文
酒に対しては当に歌ふべし。人生幾何ぞ。譬(たと)へば朝露の如く、去日(きょじつ) 苦(はなは)だ多し。
慨(なげ)きて当に慷(いた)むべし。憂思忘れ難く、何を以てか 憂ひを解かん。唯(た)だ杜康(とこう)有るのみ。
青青たる子(し)が衿(えり)、悠悠た る我が心、但だ君が故の為に、沈吟して今に至る。
幼幼(ゆうゆう)として鹿は鳴き、野 の苹(よもぎ)を食ふ。我に嘉賓有り。瑟(しつ)を鼓し笙を吹く。
明明と月の如く、何 の時か輟(と)るべき。憂ひは中より来たりて、断絶すべからず。
陌を越えて阡を度(は か)り、枉(ま)げて用いて相存す。契濶して談讌し、心に旧恩を念(おも)ふ。
月明ら かに星は稀にして、烏鵲(うじゃく)は南に飛ぶ。樹を繞(めぐ)ること三匝(そう)、 枝の依るべき無し。
山は高きを厭(いと)はず。水は深きを厭はず。周公は哺(ほ)を吐き て、天下は心を帰す。
 大意
酒を前にしておおいに唱おう。人生なんて短いものさ。 喩えるならば朝の露。過ぎし日々ばかりが多い。 どうせ嘆くなら盛大に嘆こう。 つらい思いが胸にふさがる。 どうやってつらさを晴らそうか。 ただ酒、それだけだ。 青々とした才子の襟元を見て、 恋い焦がれる少女のように、 才能ある人材に恋い焦がれて、 ずっと小声で歌っているのだよ。 「鹿鳴館」の由来となった故事のように、 私のもとに人材が来てくれたら、 楽器をかなでてもてなすよ。 キラキラ輝く月のような人材が、 手に入るのはいつだろうか。 胸がキュンとなってしまい、 いつまでもそれが続くのだ。 阡陌(せんぱく)の東西のちまたを超えて、 わざわざ来てくれるのなら、 久闊 (きゅうかつ)を叙して語り合い、 旧交を温めよう。 夜空には月(曹操自身の暗喩)が輝き星の光(曹操のライバルたちの暗喩)は薄れている。 故事成語「烏鵲の智」(うじゃくのち)のカササギは南にむかって飛ぶ。 木のまわりを三回もめぐって、 それでもまだ止まる枝を探しあぐねている。 山は高ければ高いほどいい。 海は深ければ深いほどいい。 いにしえの周公は人材登用に熱心で、 客が来ると食事を吐き出して出迎えたので、 天下の人々の心は周公に集まったのだ。

○曹操の遺言
 正史『三国志』魏書・武帝紀第一より
 原漢文
庚子、王崩于洛陽。年六十六。遺令曰
「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其 将兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無蔵金玉珍宝」。
 書き下し文。 庚子、王、洛陽に崩ず。年六十六。遺令に曰く
「天下、尚未だ安定せず、未だ古へに遵ふを得ざるなり。葬畢れば皆、服を除け。其 の将兵の屯戍する者は、皆、屯部を離るるを得ざれ。有司は各おの乃が職を率ゐよ。斂 は時服を以てし、金玉珍宝を蔵する無かれ」と。
 大意
かのえねの年、魏王曹操は洛陽で崩御した。享年六十六。遺言の命令にいう。
「天下の平和はまだ回復していない。古式にのっとった葬礼はできない。 私の埋葬が終わり次第、みな喪服を脱ぐように。わが将兵は駐屯地や部署を離れてはならぬ。 官吏はそれぞれ自分の職務を続けよ。 私の埋葬は平服でけっこう。副葬品として金銀財宝を墓に入れてはならぬ」。

○曹操を単なる悪役としない歴史小説
○曹操のミニ内部リンク

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