「三国志」の名場面 講師名 明治大学教授 加藤 徹
朝日カルチャーセンター 新宿教室 2017年
4月24日 撃鼓罵曹 曹操の世論戦
5月22日 赤壁の戦い 弱者の頭脳戦
6月26日 空城の計 諸葛孔明の心理戦
「三国志」は本で読んでも面白いが、京劇や映画、ドラマなどで見るともっと面白い。
ビデオや写真などの視覚資料も使いつつ「赤壁の戦い」や「空城の計」等の名場面の面白さを解説します。
★知識★
〇曹操 そう・そう 155年-220年
〇禰衡 ねい・こう/でい・こう 173年-298年 毒舌と奇行で有名な文人。「鸚鵡賦」(おうむのふ)を書いた。
〇許 きょ 地方都市の名前。現在の河南省許昌市。後漢の都は洛陽だったが、196年、権力者となった曹操は自分の地盤である許に遷都した。
名士 儒教的な「士大夫階級」のなかでも、天下の声望をもつ名流の士。Cf.策士
〇滑稽列伝 こっけいれつでん
司馬遷は『史記』滑稽列伝で、斉の威王の時代の淳于髠(じゅんうこん)、楚の荘王の時代の優孟(ゆうもう)、秦の始皇帝の時代の優旃(ゆうせん)などを取り上げた。
〇東方朔 とうほう・さく、前154年-前92年
漢の武帝に仕えた政治家で、諧謔と奇行で知られる。
〇宮廷道化師(fool/court
jester)
古代から中世の末にかけて、権力者は身近に風狂的な「愚者」(フール)を置き、自由に毒舌を吐かせる、という習慣的な制度が、世界各地で見られた。「道化師」「軽口師(かるくちし)」「ジョーカー」「御伽衆」「幇間」など、さまざまな呼称で呼ばれていた。シェークスピアの「リア王」や「十二夜」などの道化師
〇炭鉱のカナリア
昔の炭鉱では、毒ガスの検知のためにカナリアを活用したことから。比喩的に、言論の自由が抑制された社会において、まっさきに逮捕されるであろう言論人を、炭鉱のカナリアにたとえることがある。
〇丁公遽戮、雍歯先侯
『蒙求』の語句。ていこうきょりく・ようしせんこう。
丁公は、楚の項羽の臣下だった。漢の劉邦と項羽が戦争したとき、丁公は劉邦を追いつめたが、劉邦の懇願を聞き入れ、劉邦を見逃してやった。のちに劉邦が項羽を滅ぼして天下を取ると、丁公に恩賞を与えるどころか「主君を裏切った不忠の臣は、こうなる」という見せしめのため、丁公を処刑した。
天下の人々は、次は自分が殺されるのではないか、と恐れた。漢の皇帝となった劉邦は、参謀・張良の献策をいれて、自分が最も憎んでいる雍歯という人物に領地を与えた。それを見た天下の人々は「あの雍歯でさえ取り立てられたのだから、自分は劉邦に殺されなくてすむだろう」と安心した。
★正史『三国志』★
魏書十・荀ケ荀攸賈詡伝の注より引用。
典略曰:ケ為人偉美。又平原禰衡傳曰:衡字正平、建安初、自荊州北游許都、恃才傲逸、臧否過差、見不如己者不與語、人皆以是憎之。唯少府孔融高貴其才、上書薦之曰:“淑質貞亮、英才卓犖。初涉藝文、升堂睹奧;目所一見、輒誦於口、耳所暫聞、不忘於心。性與道合、思若有神。弘羊心計、安世默識、以衡准之、誠不足怪。”衡時年二十四。
(要約)禰衡は自分の才能を鼻にかけて人を見下す変人で、憎まれていた。ただ、孔子の子孫である孔融だけは禰衡の才能を評価し、曹操に勧めた。当時、禰衡は二十四歳だった。
是時許都雖新建、尚饒人士。衡嘗書一刺懷之、字漫滅而無所適。或問之曰:“何不從陳長文、司馬伯達乎?”衡曰:“卿欲使我從屠沽兒輩也!”又問曰:“當今許中、誰最可者?”衡曰:“大兒有孔文舉、小兒有楊コ祖。”又問:“曹公、荀令君、趙蕩寇皆足蓋世乎?”衡稱曹公不甚多;又見荀有儀容、趙有腹尺、因答曰:“文若可借面弔喪、稚長可使監廚請客。”其意以為荀但有貌、趙健啖肉也。於是眾人皆切齒。
(要約)禰衡は名刺を作ったものの、誰とも交わろうとしなかった。ある人が「なぜ(名士である)陳羣や司馬朗にあいさつしないのか」と尋ねると、「きみはぼくに、豚殺しや酒売りの輩に頭をさげろ、とでも言うのかい?」と毒舌で答えた。また「今の許都で誰がいちばんましか」と訊かれると、「年長者では孔融、年少者では楊修がいる」と答えた。「曹操・荀ケ・趙融はみな一流の人物じゃないのか」と訊かれると、禰衡は「曹操はそんな大物じゃない」「荀ケは弔問に行く係が、趙融は厨房でのおもてなし係がうってつけだ」と言った。荀ケは容貌だけ、趙融は肉好きの大食い、という意味の毒舌である。人々は悔しがった。
衡知眾不ス、將南還荊州。裝束臨發、眾人為祖道、先設供帳於城南、自共相誡曰:“衡數不遜、今因其後到、以不起報之。”及衡至、眾人皆坐不起、衡乃號咷大哭。眾人問其故、衡曰:“行屍柩之間、能不悲乎?”
(要約) 禰衡は、自分が好かれていないことを知り、許都を離れ、荊州の劉表に仕えることにした。歓送会のとき、人々は「禰衡のやつはさんざん無礼を働いてきたから、やつが挨拶に来ても座ったまま立たず、ぞんざいな態度で接しよう」と示しあわせていた。禰衡が来た。みなが立たないのを見ると、禰衡は慟哭した。みなが「なぜ大泣きするのか」と聞くと、「棺桶の死体のあいだを歩いてるんだ。悲しまずにいられるかい」と毒舌で答えた。
衡南見劉表、表甚禮之。將軍黃祖屯夏口、祖子射與衡善、隨到夏口。祖嘉其才、每在坐、席有異賓、介使與衡談。後衡驕蹇、答祖言徘優饒言、祖以為罵己也、大怒、顧伍伯捉頭出。左右遂扶以去、拉而殺之。
(要約) 禰衡は、荊州の劉表のもとで厚遇を受けた。劉表の部将であった黄祖は当初、禰衡を高く評価したが、後に禰衡の毒舌に激怒し、部下に命じて殺させた。
張衡文士傳曰:孔融數薦衡于太祖、欲與相見、而衡疾惡之、意常憤懣。因狂疾不肯往、而數有言論。太祖聞其名、圖欲辱之、乃錄為鼓(吏)。後至八月朝、大宴、賓客並會。時鼓(吏)擊鼓過、皆當脫其故服、易著新衣。次衡、衡擊為漁陽參撾、容態不常、音節殊妙。坐上賓客聽之、莫不慷慨。過不易衣、吏呵之、衡乃當太祖前、以次脫衣、裸身而立、徐徐乃著褌帽畢、複擊鼓參撾、而顏色不怍。太祖大笑、告四坐曰:“本欲辱衡、衡反辱孤。”至今有漁陽參撾、自衡造也。
(要約)張均衡の「文士伝」が伝える挿話。孔子の子孫である孔融は、曹操に禰衡を推薦した。しかし禰衡は曹操を非常に嫌っており、「狂疾」を理由に曹操のもとに行かなかったが、禰衡は言論人として有名になった。曹操は、禰衡に恥をかかせてやろうとたくらみ、禰衡を「鼓吏」として雇った。八月、朝廷の盛大な宴会で、新服に衣替えした鼓吏たちが太鼓を叩いて演奏した。次に禰衡が太鼓で「漁陽參撾」を演奏した。きわだって見事な演奏で、みな感嘆した。ただ禰衡は旧服のままだった。役人が叱ると、禰衡は、曹操の前というのに、平然と裸になって着替え、太鼓を演奏した。曹操は大笑いし、周囲の者たちに「禰衡に恥をかかせてやろうと思ったのに、余が返り討ちにあってしまったわい」と言った。
★京劇「撃鼓罵曹」について★
〇中国の簡体字では“京剧《击鼓骂曹》”と書く。また禰衡は“祢衡”と書く。“祢”にはmi2とni3の二つの発音がある。中国人は“祢衡”をmi2 Heng2と読む。
〇YouTube京劇「撃鼓罵曹」上演前レクチャー
パワポ (無音)
〇京劇レンダー 2013年9月8日の写真
http://www.geocities.jp/cato1963/kgalbum2010s.html
京劇の歌詞とせりふ(一例)
禰衡(唱)【西皮導板】
讒臣当道謀漢朝、
【西皮原板】楚漢相争動槍刀。高祖爺咸陽登大宝、一統山河楽唐堯。到如今出了箇奸曹操、上欺天子下圧群僚。我有心替主爺把賊掃、手中缺少殺人的刀。主席坐定奸曹操、
【西皮快板】 上座文武衆群僚。元旦節与賊箇不祥兆、仮装瘋魔罵奸曹。我把這藍衫来脱掉、破衣襤衫擺擺揺。大着胆児往上跑、帳下的児郎閙吵。…
(中略)
曹操(白)你有此狂言、有何徳能?
禰衡(白)禰某無才、天文地理之書、無一不知。三教九流、無一不暁。上可以致君為堯舜、下可以配徳于孔顔。吾乃天下名士、豈肯与奸賊同党。
★吉川英治『三国志』臣道の巻より★
時に、建安の四年八月朔日、朝賀の酒宴は、禁裡(きんり)の省台にひらかれた。曹操ももちろん、参内し、雲上の諸卿、朝門の百官、さては相府の諸大将など、綺羅星のごとく賓客(ひんきゃく)の座につらなっていた。
拝賀、礼杯の儀式もすすみ、宴楽の興、ようやくたけなわとなった頃、楽寮の伶人や、鼓手など、一列となって堂の中央にすすみ、舞楽を演じた。
かねて、約束のあった禰衡も、その中にまじっていた。彼は、鼓を打つ役にあたって、「漁陽(ぎょよう)の三撾(さんた)」を奏していたが、その音節の妙といい、撥律の変化といい、まったく名人の神響でも聞くようであったので、人々みな恍惚と聞きほれていた。――が、舞曲の終りとともに、われに返った諸大将は、とたんに声をそろえて、禰衡の無礼を叱った。
「やあ、それにおる穢(むさ)き者。朝堂の御賀(ぎょが)には、楽寮の役人はいうまでもなく、舞人鼓手もみな、浄らかな衣服を着るのに、汝、何ゆえに汚れたる衣をまとい、あたりに虱(しらみ)をふりこぼすぞっ」
さだめし顔をあからめて恥じるかと思いのほか、禰衡はしずかに帯を解きはじめて、
「そんなに見ぐるしいか」
と、ぶつぶつ云いながら、一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、ついに、真ッ裸になって赤い犢鼻褌(ふんどし)一つになってしまった。
場所が場所なので、満堂の人は呆気(あっけ)にとられ、あれよあれよと興ざめ顔に見ていたが、禰衡はすましたもので、赤裸のまま、ふたたび鼓を取って三通(つう)まで打ち囃した。(中略)
曹操は遂に、激して云った。
「これ、腐れ学者。――汝は口をあけば常に自分のみを清白のようにいい、人を見ればか
ならず、汚濁のように誹(そし)るが、どこにそんな濁った者がいるか」
禰衡(ねいこう)も、負けずにいう。
「臭いもの身知らずである。――丞相には、自分の汚濁がお分りにならないとみえる」
「なに。予を濁れるものというか」
「然り。――あなたは賢そうに構えているが、その眼はひとの賢愚をすら識別(みわけ)が
つかない。眼の濁っている証拠である」
「……申したな。おのれ」
「また、詩書を読んで心を浄化することも知らない。語は心を吐くという。あなたの口の
濁っているのは、高潔な修養をしていない証拠だ」
「……うウむ」
「ひとの忠言を聞かない、これを耳の濁りという。古今に通ぜぬくせに、我意ばかり猛々
たけだけしい。これを情操の濁りと申す。日々坐臥(ざが)の行状は、一として潔(きよ)ら
かなるなく、一として放恣(ほうし)ならざるはない。これ肉体の濁りである」
「…………」
「さらに、その諸濁の心は、誰ひとり頭の抑え手もないままに、いつとなく思いあがって、
遂には、反逆の心芽を育て、行く行くは、身みずからの荊棘(けいきょく)を作るにいたる。――愚かしきかな。笑うべき哉」
「…………」(中略)
手をたたいて慢罵嘲笑する彼の容子は、それこそ、偉大な狂人か、生命知らずの馬鹿者か、それとも、天が人をしていわしめるため、ここへ降した大賢か――とにかく推しはかれないものがあった。
曹操の面は、蒼白になっている。否、殿上はまったく禰衡一人のために気をのまれてしまったかたちで、この結果が、どんなことになるかと、人ごとながら文武の百官は唾をのみ歯の根を噛んで、悽愴(せいそう)な沈黙をまもりあっていた。
孔融(こうゆう)は心のうちで、今にも曹操が、禰衡を殺害してしまいはせぬかと――眼をふさいで、はらはらしていた。
その耳には、やがて満座の諸大将が、剣をたたき、眦(まなじり)をあげて、
「舌長なくされ学者め。いわしておけば野放図もない悪口雑言。四肢十指をばらばらに斬りさいなんで目にものをみせてくれる」
騒然、立ちあがる気配が聞えた。――孔融はハッと眼をみひらいたが、とたんに満身の毛穴から汗がながれた。
曹操も立ちあがっていたからである。――が、曹操は、剣をつかんで雪崩(なだれ)行こうとする諸大将のまえに両手をひろげて、こう叫んでいた。
「ならん、誰が禰衡(ねいこう)を殺せと命じたか。――予を偉大な匹夫といったのは、当らずといえども遠からずで、そう怒り立つ値打はない。しかも、この腐儒(ふじゅ)などは、鼠のごときもので、太陽、大地、大勢を知らず、町にいては屋根裏や床下でひとり小理窟
をこね、誤って殿上に舞いこんでも、奇矯な動作しか知らない日陰の小動物だ。斬り殺し
たところでなんの益にもならん。それよりは予が、彼に命じることがある」
一同を制した後、曹操は、あらためて禰衡を舞台から呼びよせ、衣服を与えて、
「荊州の劉表(りゅうひょう)と交わりがあるか」と、たずねた。
(引用終わり)