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中国五千年の文明と歴史 中国とは何か

朝日カルチャーセンター・新宿教室 講師 加藤徹
最新の更新 2020-11-13 最初の公開 2019-7-11
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第1期(2019年4月-6月)]
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第2期(2019年7月-9月)]

以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイトより引用。
 中国とは何か。一言で「こうだ」と答えるのは、なかなか難しいです。ヨーロッパも国ごとに多様ですが、中国は人口も歴史もヨーロッパの数倍もあるのです。ただ、そんな中国でも、過去数千年来、変わらなっかった特徴や、中国文明が現在まで引きずっている「宿命」や「業(ごう)」のような初期条件はあります。
 この講座では、「中国とは何か」を大づかみで理解します。日本や西洋と比較しつつ、中国文明数千年の特徴を、写真や動画なども使いながら、わかりやすく解説します。中国史についての予備知識がないかたも大丈夫です。日本史や西洋史に興味のあるかたも、中国史と比較することで、きっといろいろな発見があると思います。お気軽にご受講くださいますよう。(講師記)
 
  1. 第一回 2019/10/10(木) 九尾の狐はなぜ海を越えたか?―越境する妖怪
  2. 第二回 2019/10/24(木) 「家」はウカンムリに豚?― 中国人の「住」
  3. 第三回 2019/11/14(木) 長安と洛陽―なぜ首都が二つも必要だったのか
  4. 第四回 2019/11/28(木) 馬と中国史―汗血馬はどこへ消えたのか
  5. 第五回 2019/12/12(木) 扁鵲と曲直瀬道三 ―中国と日本の伝統医学の違い
  6. 第六回 2019/12/26(木) 茶の歴史―中国で抹茶が滅亡した理由

第一回 2019/10/10(木)
九尾の狐はなぜ海を越えたか?―越境する妖怪

〇今回のポイント
・中国の庶民は昔も今も妖怪的なものが好きである。
 儒教は「怪力乱神」を嫌い、共産党は「牛鬼蛇神」(ぎゅうきだしん)を敵視する。
・越境できる妖怪とできない妖怪がいる。
 日本にトラの妖怪はいない。中国の「石獅子」は日本では「狛犬」になってしまった。
 「龍」のように、漢民族のナショナリズムと結びついた「妖怪」は、外国での取り扱いに差し障りがある。
cf.[Forbes JAPAN
中国の若者が激怒した「ヴィクトリアズ・シークレット」の失態 2016/12/29 12:30]「スーパーモデルのエルザ・ホスクは体にドラゴンを巻き付けて登場。アドリアナ・リマはドラゴンが刺繍されたスチレット・ブーツを身に着けた」
・中国から日本への「直流」と、日本からの還流・逆輸出を含む「交流」。
 日本の妖怪文化は、アニメや漫画、ゲームなどサブカルチャーと結びつき、近年の中国でも大人気である。本来、中国の九尾の狐は「妲己(だっき)」系だが、日本の漫画・アニメ作品『NARUTO -ナルト』(中華圏では「火影忍者」)や中国製日系ゲーム『陰陽師』(おんみょうじ)その他を通じ、「玉藻前(たまものまえ)」系の九尾の狐も中国の若者世代のあいだでは人気である。
cf.中国のサイト [百度百科・日本三大妖怪][百度図片・九尾狐][百度図片・九尾狐 cosplay]
参考 YouTubeビデオ


〇九尾の狐の特徴
 古代中国で実在すると信じられた霊獣のイメージが、「世代累積型集団創作」のなかでふくらみ、日本の東アジア各地に広まったもの。
 別名「九尾狐(きゅうびこ)」「金毛九尾の狐」「白面金毛九尾の狐」等。
 ビュフォン伯ジョルジュ=ルイ・ルクレール(1707-1788)による妖怪の三分類によれば「過剰による妖怪」である(第一は過剰による妖怪。第二は欠如による妖怪。第三は諸部分の転倒もしくは誤配置による妖怪)。
 セレブ版「狐女房」(異類婚姻譚の一種)と結びつきやすい。

〇歴史
 九尾の狐、の起源は不明だが、戦国時代の中国である可能性が高い。
 中国最古の地理書『山海経』(せんがいきょう。前4世紀ごろから歳月をかけて成立)の「南山経」青丘之山の項に、
【原漢文】有獣焉。其状如狐而九尾、其音如嬰児、能食人。食者不蠱。
【漢文訓読】獣、焉に有り。其の状、狐の如くして九尾あり。其の音、嬰児の如し。能く人を食ふ。食へば蠱せられず。
【意味】獣がいる。その形状は狐に似て尾が九つあり、啼き声は新生児の泣き声に似ている。ヒトを食べることができる。(この狐を)食べると蠱毒(こどく)の呪いの害を受けなくなる。
とある。
 その後、中国では、
とキャラクターが二分化した。
 語り物や芝居、小説では、美しい悪の妖女、というイメージが多い。

 九尾狐の説話は、古くから日本へも伝わった。漢文古典に親しむ知識人は、『白虎通義』の瑞獣のイメージを理解していたが、庶民層は妲己説話のような悪の妖怪のイメージをふくらませた。
 室町時代には、鳥羽上皇(12世紀)に仕えた美女・玉藻前(たまものまえ)の正体が狐であり退治された、という説話が存在したが、その狐は必ずしも九尾ではなかった。
 江戸時代には、九尾の狐は天竺で花陽夫人、殷で妲己(だっき)、日本で玉藻前となったが、最後は那須で退治されて殺生石となる、という物語が広まった。19世紀初頭の、高井蘭山の読本『絵本三国妖婦伝』や岡田玉山の『絵本玉藻譚』などが有名である。
 日本の玉藻前説話は、漫画やアニメ、ゲームなどのサブカルチャーを通じて中国にも輸出されている。九尾狐は、漫画『ドラゴンボール』の主人公「孫悟空」と同様、中国から日本への一方通行ではなく、逆輸出もされた一例である。

 以下、きたる11月23日に御茶ノ水の明治大学で加藤徹が担当するイベント(入場無料、予約不要、出入自由)の説明文より。
2019年11月23日(土)明治大学「アカデミックフェス」2019 at 駿河台キャンパス
企画名 九尾の狐カフェ Nine-Tailed Fox Café 2019(加藤 徹)12:00〜18:00 アカデミーコモン2F ROOM-D(A5会議室)
コーディネーター:加藤 徹
 コンセプトは「学術喫茶」。お客様にお休みいただきながら、学問の面白さに触れていただく休憩所的スポットです。お気軽にお立ち寄りください。
 雰囲気は、学園祭の教室展示。テーマは、古今東西の「九尾の狐」。教員や学生が常駐し、お客様とパネル展示の図像や動画を見つつ、九尾の狐について気軽に雑談をします。
 「九尾の狐」はアジア共通の伝統的キャラクターです。日本語ではキュウビノキツネ。中国語では“九尾狐”(ジウウェイフー)。韓国語では“구미호” (クミホ)。英語では“nine-tailed fox”。日本では、那須の殺生石の説話が有名ですね。
 九尾の狐は、三千年のあいだ、アジアを駆け巡ってきました。昔の書物や芝居だけではありません。現代の日本や中国、韓国では、漫画やアニメ、テレビドラマなどで九尾の狐の新しいキャラクターが続々と誕生しています。いにしえの玉藻前(たまものまえ)は十二単(じゅうにひとえ)姿の貴婦人でしたが、現代の漫画『非人哉』(ひとにあらざるかな)ではTシャツに短パンのカジュアル女子です。まさに、古今東西、逍遙自在、雅俗混交、不羈奔放!
「大学って、どんなところ?」「大学の人と、気軽に雑談をしてみたい」というかたも、単に腰をおろして休みたいかたも、どなたも大歓迎です。

〇「三つの座標軸
 神、神仙、神獣、瑞獣、妖怪、・・・ゆるキャラ、さまざまな顔をもつ。
  地域軸:中国、日本、朝鮮半島、・・・
  時代軸:過去から現代まで
  社会軸:雅俗共賞

cf.能の「殺生石」・・・作者不明。室町中期の能作者である佐阿弥(さあみ)こと日吉四郎次郎安清の作とも言われる。


第二回  2019/10/24(木)
「家」はウカンムリに豚?― 中国人の「住」
〇今回のポイント
・中国人の「家」は中国人の精神構造を可視化したものである。
・家具の配置や使い方のコンセプトは、日本人と違う。
・庶民の住宅から皇帝の宮城まで、自己相同性が通底している。

〇漢字「家」の字源説
 通説によると、「宀」(屋根)+「豕」(ぶた)の会意文字で、生活を行う建物。
 白川静の説によると、「豕」は生贄の犬で、建物を建てる際に犠牲を捧げたことによる。

〇中国人は「四角フェチ」
・漢字は四角形が多い。国、囲、固、・・・
・「品行方正」「天円地方」・・・方形(正方形、長方形)は美しい。
・麻雀卓、四合院、「東夷西戎南蛮北狄」、四海、・・・
・漢詩も、中国共産党のスローガンも、漢字の配列はきれいな四角形でまとめたがる。
・個人の居宅も、都市の城郭も、四角形。

〇中国人の家の「周壁」的性格
・国は万里の長城で、都市は城壁で、家は壁で、心も「周壁」をめぐらす。
・日本家屋は木造軸組構造と真壁(しんかべ)、中国家屋は大壁(おおかべ)構造
・山口淑子(李香蘭)が最初に日本の旅館に泊まったときの恐怖感。「匪賊が来たらどうするの?」。『李香蘭 私の半生』参照

〇日本人の居宅の「劇場」的性格
・中国人は固定式ベッド、日本人はふとん
・中国人はテーブル、日本人はお膳とちゃぶ台
・中国人のベッドは部屋のすみ、日本人のふとんは部屋の中心

〇イエとウチの感覚は日中共通
 物理的なイエと、心理的なウチ。
 日本の「浅野藩」と「浅野家家中」。
 宋の武将・岳飛の「岳家軍」とか、馬俊仁にちなむスポーツの「馬家軍」。日本映画では「零戦黒雲一家 (ぜろせんくろくもいっか)」とか「小津組」とか。

〇日本人と中国人の「縄張り意識」の違い。
・住居の面積の考え方の違い。
 以下、
http://t-china.info/1540より引用。引用開始。
 中国の商品房(分譲住宅)に関する面積は、「商品房銷售計算および公用建築面積分灘規則」(1995年12月施行)という規則に規定されています。
 中国の分譲マンションの房屋産権登記証(不動産登記証明)に記載されているのは建築面積というものです。不動産売買の契約書にも、この建築面積が記載されます。上記の規則に則ると、中国の建築面積は次のとおりです。
 商品房(分譲住宅)の建築面積=室内建築面積+分配される共有建築面積
 この室内建築面積には、具体的に何が入っているのでしょうか? この規則によると、室内の面積(バルコニー含む)と室内の壁の部分(部屋を区分けする壁)です。
 もうひとつの分配される共有建築面積には、マンションのエントランス部分、共有廊下、エレベーターホール、階段、公共トイレ、エレベーター部分、ゴミ置き場、消防コントロール室、配電室、ポンプ室、警備員の待合室など。個人の所有が特定される駐車場などは除かれます。
(中略)
 中国の建築面積と日本の専有面積はまったく異なる面積であり、この2つを比べることはできません。
・埼玉県川口市の芝園団地
 住民の半分強が中国人になった団地。
 「家」に関する意識の違いも、日本人住民と中国人住民の「見えない壁」の一因に。
参考 中島恵[中国人の街・川口で広がる「日本人との距離」 芝園団地の人々は何を考えているのか]
 大島隆[芝園団地に住んでいます 記者が住民として見た、「静かな分断」と共生]
cf.ネットの記事 長さ1km越・日本四大防壁団地
第三回 長安と洛陽―なぜ首都が二つも必要だったのか
★首都と主都
首都は一国の中央政府がある首府。主都は地域の中心都市。

★複都制
単都制の対概念。首都を二つ置く場合は両都制ないし両京制と呼ぶ。
首都を複数置く場合の理由は、国防、歴史、経済などさまざまである。
○陪都・・・中国史で、行政上、国都に準ずる扱いをうけた特別な都市。明代の金陵(南京市)、清代の奉天(盛京とも称された。現在の瀋陽市)など。金陵と奉天は留都でもあった。
 日本史でも、孝徳天皇から桓武天皇までの難波京や、徳川家康が大御所として政治をとった駿府など、事実上の陪都がいくつか存在した。
○留都・・・首都が別の場所に遷都したあとの、元の首都があった都市。
○行都・・・行在に同じ。臨時の事実上の首都。南宋の時代は、臨安を行都、建康を留都とした。日中戦争下の重慶は中華民国中央政府(蒋介石政権)の行都でありかつ陪都とされた。
○別都・副都・次都・・・意味は副首都だが、ニュアンスは若干違う。

★紀元前11世紀、渭水流域の盆地である関中から興った周王朝は、後世の長安の前身となる関中の鎬京と、洛陽の前身である洛邑に二つの拠点を置いた。
以後、西都・長安と、東都・洛陽の両京体制を採用する王朝が多かった。
前漢は長安を首都として洛陽を副都としたため、西漢と呼ばれる。
後漢は洛陽を首都としたため、東漢と呼ばれる。
北周、隋、唐は、長安を首都とし、洛陽を副都とした。唐の時代でも、武則天や安禄山は洛陽を事実上の首都とした。司馬遼太郎『長安から北京へ』(中公文庫)の「洛陽の穴」で、司馬は、安禄山が洛陽を事実上の首都とした理由を推定している。
 10世紀以降は、長安も洛陽も地方の「主都」化した。中国の複都制の首都は、開封や北京、南京など別の都市に遷っていった。

★古代日本のミヤコ
 都を意味する日本語ミヤコの語源は「御屋処」。
 古代の日本では、天皇の代替わりごとに都を遷した。その理由は、物流の限界や、里山の木材資源の枯渇、トイレなど汚水対策である。

★首都がなかったフランク王国
 5世紀後半から9世紀までヨーロッパに存在したフランク王国には、ローマ帝国的な意味での「首都」は存在せず、飛鳥時代以前の日本のミヤコと同様の「王宮」しか存在しなかった。フランクの国王は、フランク王国の領域内を宮廷集団とともに移動していた。その理由は、戦争や国内情勢の変化、物資の補給、狩猟などであった。当時の西欧の物質文明のレベルは未熟で、まだ一カ所に永続的な首都を維持できるほどに達していなかった。

★東京はなぜ「東京」なのか?
 明治維新の「東京奠都(てんと)」による。
明治維新のとき、江戸を「東京」(とうけい/とうきょう)と改称し、京都とあわせて東西両京とした。明治元年(1868年)10月13日に天皇が東京に入り、明治2年に政府が京都から東京に遷った。当時「遷都」(首都を引っ越す、の意)ではなく「奠都」(新たに都を定める、の意)という言葉を使った理由は、旧・江戸幕府をこころよく思わない京都・西日本勢力への配慮や、京都御所を本来の「皇居」と見なす考え方による。
実は京都は今も法的には東京とならぶ日本の首都である、と考える日本人も、一部に存在する。

★長安
 中国の古都。現在の陝西省西安市。函谷関の西側の、渭水盆地にある。
西安市とその近郊には、古来、主都や首都が置かれてきた。
 殷の時代には豊邑。
 西周から東周にかけては鎬京。
 秦の時代は咸陽。
 前漢から唐までは長安(改名していた時期も含む)。
 五代十国から元まではさまざまな名称。
 明から現在までは西安。
 現在の咸陽市と西安市が別の都市であるように、西安の前身となる歴代の首都の場所はそれぞれ微妙にずれているが、広大な中国全土から見れば、一つの都市圏と見なすことができる。

★洛陽
 中国のもう一つの古都。現在の河南省洛陽市。河南省西部で、黄河の支流・洛水の北側にあるので「洛陽」と呼ぶ。
 紀元前1800年頃の「二里頭遺跡」は、河南省洛陽市にある。
 前11世紀、西周の第二代・成王は、東へのおさえとして洛邑を置く。
 前771年、周の第十三代・平王は洛邑に遷都し、「東周」時代が始まる。
 渭水流域の軍事力と結びついた長安に対して、洛陽は華北平原の経済力と結びついた物資の集積地として発展してゆく。
 漢王朝は「火徳」だったので、洛陽のサンズイを嫌って雒陽と改名したが、「土徳」をモットーとする三国志の曹操が後漢の実権を握ると洛陽に戻した。
 唐の武則天の「武周」(690年−705年)には一時的に「神都」と改名され首都となった。
 宋の時代、物資の集積地としての地位がより東の開封にうつった。また元以降は「北族」の軍事力を背景に北京が首都となることが増えた。宋以降、洛陽は副首都としての歴史的機能を他の大都市にゆずった。


第四回 2019/11/28(木)
馬と中国史―汗血馬はどこへ消えたのか

〇今回のポイント
・漢民族は、日本人よりは馬に詳しいが、モンゴル人ほどは詳しくない。
・「一天万乗」「同文同軌」「胡服騎射」「南船北馬」「髀肉の嘆」など馬関係の成語も多い。
・軍馬の質については、日露戦争までは中国のほうがやや勝っていた。日本軍は、日清戦争で約5.6万頭、日露戦争で約17.2万頭を動員した。その後は、日本は欧米の技術を取り入れ品種改良を重ね「日本釧路種」や「奏上釧路種」という優秀馬を誕生させた。
 日本軍と戦った八路軍は、戦利品として手に入れた日本の軍馬を「東洋馬」と呼び、重宝したという。
 世界戦史上最後の騎兵の活躍は1945年、日本陸軍騎兵第4旅団による中国での老河口飛行場占領である。
 第二次世界大戦で海を渡った日本の軍馬は約50万頭と言われ、その大半は中国大陸だった。生きて日本に戻ったのは、勝山号(
「“帰ってきた軍馬「勝山号」”の真実」)ただ一頭だけだったとも言われる。

〇馬の歴史
 馬の家畜化は約6千年前、ウクライナで始まり、当初は食用だった。
 馬が牽引するチャリオット(Chariot。戦車)は、紀元前2500年頃のシュメールの記録に見えるが、当初は馬以外の家畜が牽引していた。
 中国では殷周時代から春秋時代まで、馬が牽引する戦車が軍隊の中枢だった。孔子も「六芸」のうちに「御」を入れている。
 騎乗の起源は不明である。新アッシリアのアッシュールナツィルパル2世(紀元前883年 - 紀元前859年)を最古とする説、紀元前9世紀のスキタイとする説、モンゴルとする説、などがある。
 中国では、趙の武霊王が紀元前307年に「胡服騎射」を取り入れたのが騎兵の最初である。
 ヒトはウマを家畜化したが、同時に、家畜もヒトを家畜化する側面もある。例えば、ウマの歩様(gaits)は、民族の身体感覚的リズムと密接な関連性がある。ウマの影響が少ない日本民族は「平板四拍子」だが、騎乗が生活の切り離せぬ一部となっている遊牧民族ではキャンター(駆け足)の影響で三拍子がある。漢民族は、その中間である。(こちらも参照)

〇馬具に関する中国の発明
・鐙(あぶみ)の起源は3世紀末の西晋時代の中国もしくは満州と考えられている。
・中国は古くから、馬の牽引力を最大限に引き出す胸帯式馬具の開発に成功していた。ジョゼフ・ニーダム『中国の科学と文明』や、ロバート・テンプル『図説 中国の科学と文明』を参照。

〇中国史上の名馬
・「汗血馬」。血のような汗を流して走る、という伝説をもつ馬種で、現在のどの馬種にあたるかは不明。アカール・テケ説もある。
cf.参考ビデオ https://youtu.be/JWxpxg0Q2ko?t=558
 前2世紀、前漢の武帝は、大宛(フェルガナ)まで遠征軍を送り、多数の名馬と約3千頭の繁殖用の馬を得た。漢代末までに約30万頭飼育されたと言われるが、当時の技術では馬の血統や品質を保持できず、幻の馬となった。
・「千里の馬」。一日に一千里(約500キロメートル)を駆ける優秀な馬を指す。
・騅(すい)。項羽の愛馬の名前。
・赤兎馬(せきとば)。三国志の英雄、呂布と関羽が乗った名馬の名前。
cf.中国の古典笑話集『笑府』の話
 関羽、千里の馬の赤兎馬で戦場を駆けた。部下の周倉は刀を持って、徒歩で走ってつきしたがった。関羽はあわれみ、周倉に名馬を与えようとしたが、一日に九百里を駆ける名馬しか見つけられなかった。結局、周倉は馬に乗って九百里を駆け、残りの百里は馬を背負って自分の足で走り、関羽に遅れないようにした。

〇スーホの白い馬
 光村図書出版の小学校国語教科書「二年・下」に収録されている「スーホの白い馬」(1974年からの題名。それ以前は「白い馬」)は、モンゴルの民話だと誤解されているが、実は、中華人民共和国の成立後に創作された「新民話」を、1950年代に中国人作家の塞野が整理した「馬頭琴」(原文は中国語)の翻訳である。漢民族が、モンゴル人の生活を想像によって描いた部分が多いため、モンゴル人から見ると誤解と偏見に満ちた無茶苦茶な物語になっている。
cf.ミンガド・ボラグ著『「スーホの白い馬」の真実―モンゴル・中国・日本それぞれの姿』風響社、2016年。
「馬を操るのはモンゴル遊牧民の最も得意な仕事だ。モンゴル人は馬のことを他のどの民族よりも熟知しており、馬の力を最大限に発揮させた民族でもある。ユーラシア大陸を馬で横断し、大帝国を作り上げたことがその証だ。そのモンゴル人が一頭の馬を捕まえることもできず、その上、弓で射殺すとは、とんでもない話だ。これはある意味、モンゴル人を否定していることだ。モンゴル文化を侮辱していることだ。」
 http://www.fukyo.co.jp/book/b253171.html

〇馬へんの漢字
 馬を部首とする漢字は非常に多い。
【クイズ】以下の漢字の意味は?
騳、驫。 cf.https://kanji.jitenon.jp/sp/cat/bushu10002.html

第五回 2019/12/12(木)
扁鵲と曲直瀬道三 ―中国と日本の伝統医学の違い


〇東洋医学
 「東洋」は、日本語ではアジアを指すが、中国語では日本を指す。
 狭義の東洋医学:中国医学(中国での略称は「中医」)、漢方医学(日本)、韓医学。
 広義の東洋医学:上記にプラスして、南アジアのアーユルヴェーダ、西アジアのユナニ医学なども含む。

〇漢方医学と中国医学の違い
★中国医学(中医):日本では、中華人民共和国の中国医学のみを「中医」、それ以前の中国医学を「中国医学」と呼ぶ場合もある。中国医学は「五薬」(五種の薬の材料。草・木・虫・石・穀。一説に草・木・金・石・穀)を使う薬物療法と、鍼灸(しんきゅう/はりきゅう)などの物理療法の双方を含む。
 中国医学は「本草学」(ほんぞうがく)とも深い関連がある。
 古代において、動植物の種類が豊富な南中国で発達した薬物療法と、物資が乏しい北中国で発達した物理療法が融合して中国医学の基礎ができた、と推定する人もいる。
cf.魯迅の短編小説「薬」(
青空文庫)
cf.李時珍(1518年 - 1593年)の『本草綱目』全52巻は、日本の医学にも大きな影響を与えたが、日本では採用されなかった部分も多い。特に第52巻「人部」は印象的である。
 国立国会図書館 第27冊(第51−52巻) [102]の68コマ目から
 維基文庫の「本草綱目/人部
 WikiPediaの「ヒトに由来する生薬」の項目なども参照。

★漢方医学:中国医学や中国の本草学の影響を受けた日本の伝統医学を指す。漢方の「方」は「処方箋」の方と同じ意味。漢方医学は生薬(しょうやく/きぐすり)を使った漢方薬を使うものであり、日本では鍼灸医学とは区別される。これは江戸時代に、鍼や按摩が盲人優先の職業とされたことに由来する。
 なお、江戸時代において、漢方医学の対概念はオランダから伝わった蘭方医学であった。
cf.今の日本で、保険診療で使用できる医療用漢方製剤は148種類。https://www.tsumura.co.jp/qa/
 ロクミガン(六味丸) https://www.tsumura.co.jp/kampo/list/detail/087.html

〇国手(こくしゅ)・・・名医。国の病を治す名手の意で、出典は歴史書『国語』晋語。囲碁の名人を指すこともある。
 司馬遷の『史記』列伝・扁鵲倉公第四十五の名医・扁鵲(へんじゃく。前7世紀?−前4世紀?)や、『三国志』の華佗(かだ。?−208年)などは国手と言える。

〇日本語の藪医者(やぶいしゃ)の語源
 諸説があるが、古代中国の「野巫医(やぶい)」=民間の呪術医療師説がある。
 中国では春秋戦国時代に、原始的な野巫医と、より合理主義的な医者の区別が生まれるようになった。後者の代表的人物が扁鵲である。

〇扁鵲
 漢文では、名医の代名詞として使われる伝説的な遍歴医(日本の漫画『ブラック・ジャック』や木曜ドラマ『ドクターX 〜外科医・大門未知子〜』のようなフリーランスの医者)。生没年は不明だが、司馬遷の『史記』列伝・扁鵲倉公第四十五によると、前7世紀から前4世紀まで活躍し、約3百年も生きたことになる。扁鵲は一人の人物ではなく(日本の漫画『スーパードクターK』のように)代々受け継がれた名前であると考える人もいる。
 司馬遷『史記』による扁鵲の驚異の技。司馬遷は歴史家で、医者ではなかったことを考慮する必要がある。
★長桑君:扁鵲は、長桑君という名の隠者から秘伝の医術を伝授され、また秘密の薬をもらった。その薬を服用した扁鵲は(ロジャー・コーマン監督のSFカルト映画『X線の眼を持つ男』のように)土塀の向こう側の人を見たり、患者の五臓の気血を透視できるようになったが、表向きは脈診をよそおった。
★晋の趙簡子(?−前476年):五日間昏睡状態が続いていた。扁鵲の見立ては、血脈は問題なく、「帝」(天の神様)のところに行っているだけ、というものだった。二日半経って趙簡子が目覚めて、話を聞くと、そのとおりだった。扁鵲は褒美に広大な畑をもらった。
★虢(かく)の太子:虢国の太子が死んだ。扁鵲は、太子の遺体を見たわけでもないのに、人づてに話を聞いただけで太子は本当に死んだのではなく仮死状態であると推察し「生き返らせることができます」と言った。扁鵲は、鍼(はり)を使って太子を蘇生させ、薬を処方して回復させた。
★斉の桓侯(かんこう。正しくは桓公。前400年-前357年):扁鵲は桓侯に最初に会ったとき、一目で病気であることを見抜き「まだ皮膚にあります」と指摘して治療を進めたが、桓侯は信じなかった。五日後、扁鵲は桓侯を見て「すでに血脈の中にあります」と指摘したが、桓侯は信じなかった。さらに五日後「すでに胃腸の間にあります」と指摘したが、桓侯は信じなかった。さらに五日後、扁鵲は桓侯に謁見したが、何も言わずに退出し、逃げ出した。その五日後、桓侯は体が痛み出した。桓侯は扁鵲を探したが見つからず、そのまま死んだ。
★地域のニーズ:扁鵲は地域の需要にあわせ、趙の都・邯鄲(かんたん)では婦人科医となり、周の都・洛陽では老人医となり、秦の都・咸陽(かんよう)では小児科医となった。
 秦の太医令・李醯(りき)は扁鵲の技術に嫉妬し、刺客(しかく)を使って扁鵲を刺殺した。

 以下「『史記』の中の「扁鵲倉公列伝」/日本内経医学会研究発表/桐木 優/平成22年1月10日」(PDF)より引用。引用開始。
扁鵲伝まとめ
・望診ばかりしていて、実はほとんど脈診をしていない
・そもそも透視能力があるというのは脈診ではなく望診の凄さを物語っているはず
・扁鵲が脈診の祖であるということは「脈をいうものはみな扁鵲に由来する」という一文以外からは読み取ることができない
・「六不治」はエピソードにはあまり反映されていない
・「信巫不信醫、不治」とあるが、夢の内容をあてたり死人を生き返らせたり一瞥しただけで診断したりと「巫」の要素十分
・脈診の伝承や巫に対する記載は物語り全体からみると極めて不自然な形になってしまっている
引用終了。

 古代中国の「戦国時代」が医療を発展させたように、日本の「戦国時代」も医療を発展させた。

〇曲直瀬道三(まなせ・どうさん 1507年-1594年)
 戦国時代の遍歴医で「医聖」「日本医学中興の祖」などと称される。天皇や戦国武将も診たが、庶民もわけへだてなく診療した。
 彼が診た有名人は多い。将軍・足利義輝、細川晴元、三好長慶、松永久秀(性技指南書『黄素妙論』を伝授)、毛利元就、畠山義綱、正親町(おおぎまち)天皇、イエズス会の宣教師・オルガンティノ、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、その他の錚々たる顔ぶれである。
 道三は、織田信長からは蘭奢待(らんじゃたい)をもらっている。
 道三は、毛利元就を診察し「余命約五年」と予測した。その予言を聞いた毛利元就は上洛をあきらめた。予測どおり、元就は五年後に亡くなった。
 徳川家康も、道三が書いた医学書を読みふけり彼に質問したと思われるふしがある。
cf.「信長、秀吉を診察し、家康に医術を授けた名医 伝説の医師・曲直瀬道三とは何者だったのか」https://toyokeizai.net/articles/-/231846 2018/08/07

 
第六回 2019/12/26(木)
茶の歴史―中国で抹茶が滅亡した理由
〇今回のポイント

〇茶の種類
★原材料による分類
 狭義の茶:チャノキの葉や茎を材料として加工した飲み物。
 広義の茶:いろいろな材料から作った飲み物。例:柿の葉茶
★加工方法による分類
 陸羽(? - 804年)『茶経』による分類
觕茶(そちゃ)、散茶、末茶、餅茶(へいちゃ)
 觕は「粗」の意味。くず茶。ただし日本語の「粗茶」とは意味が違う。
 散茶は、茶葉のままの形のお茶。参考 
http://www.tea-jp.com/tea/6-tea/black/sancha/
 末茶は「抹茶」。日本では今も残っているが、中国では明(みん)の時代に衰滅。
 餅茶は、粉にして練り固めた茶。中国語「餅」は、日本語の「モチ」とは意味が違う。
 現代日本人が「茶」と言うと、散茶と抹茶を指す。現代中国では、散茶と餅茶が主流。
 餅茶には、磚茶(たんちゃ。磚はレンガの意)、団茶(だんちゃ。団は円いの意)などがある。プーアル茶は今も団茶として飲むことが多い。

★現代の中国茶の分類
 茶葉の加工の度合いや色により「緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶」の六つに分類する。庶民生活では「花茶」(ジャスミンティー。茉莉花茶)や「烏龍茶」(ウーロン茶)、「普洱茶」(プーアル茶)のような言い方が普通。
  1. 緑茶
     不発酵茶。現代日本では主流。中国の緑茶は日本と製法が違うので味わいが異なる。「龍井」(ロンジン)が有名。中国のペットボトルの「緑茶」は砂糖が入っていることがあるので要注意。
  2. 白茶
     弱発酵茶。希少。
  3. 黄茶
     弱後発酵茶。
  4. 青茶
     半発酵茶。ウーロン茶など。中国語の「青」はブルーではなく、黒みがかった色。現代中国で最も普及しているのは、この系統の茶である。
  5. 紅茶
     完全発酵茶(全発酵茶)。
  6. 黒茶
     後発酵茶。雲南省のプーアル茶が有名。
 日本でも有名なジャスミンティー(花茶、茉莉花茶)は、上記の各種の茶葉にジャスミンの花を混ぜたものの総称。「菊花茶」はハーブティーのような飲み物で「茶外茶」の一種。
 この他、産地による分類に「中国十大銘茶」がある。

〇中国茶の歴史
★喫茶の歴史は前漢から
 孔子は(おそらく)茶を知らなかった。
 茶は当初、南方のローカルな飲み物だった。原産地は不明で、
四川・雲南説(長江及びメコン川上流)
中国東部・東南部説
 がある。原産地と黙される雲南省や福建省は、今も中国茶の製茶の中心地。
 文献記録では、「茶」の存在は、
中国最古の辞書である『爾雅』(じが)。紀元前2世紀ごろ
前漢の王褒の文章「僮約」
 などから確認できる。当初は四川省のローカルな飲み物で、現代と違い、いろいろな物を混ぜて飲んでいたらしい。
 創作物の「三国志」では、よく茶を飲むシーンが出てくるが、これはあくまでも創作である。例:吉川英治の小説『三国志』、中国映画『レッドクリフ Part II -未来への最終決戦-』(原題: 赤壁。前編2008年、後編2009年)、他。
吉川英治『三国志』小説本編の冒頭部より
「茶を」
 役人は眼をみはった。
 彼らはまだ茶の味を知らなかった。茶という物は、瀕死の病人に与えるか、よほどな貴人でなければのまないからだった。それほど高価でもあり貴重に思われていた。
「誰にのませるのだ。重病人でもかかえているのか」
「病人ではございませんが、生来、私の母の大好物は茶でございます。貧乏なので、めったに買ってやることもできませんが、一両年稼いでためた小費もあるので、こんどの旅の土産には、買って戻ろうと考えたものですから」
(中略)
「おまえ茶をのんだことがあるのかね。地方の衆が何か葉を煮てのんでいるが、あれは茶ではないよ」
「はい。その、ほんとの茶を頒(わ)けていただきたいのです」
 彼の声は、懸命だった。
 茶がいかに貴重か、高価か、また地方にもまだない物かは、彼もよくわきまえていた。
 その種子は、遠い熱帯の異国からわずかにもたらされて、周の代にようやく宮廷の秘用にたしなまれ、漢帝の代々(よよ)になっても、後宮の茶園に少し摘まれる物と、民間のごく貴人の所有地にまれに栽培されたくらいなものだとも聞いている。
 また別な説には、一日に百草を嘗めつつ人間に食物を教えた神農はたびたび毒草にあたったが、茶を得てからこれを噛むとたちまち毒をけしたので、以来、秘愛せられたとも伝えられている。
 いずれにしろ、劉備の身分でそれを求めることの無謀は、よく知っていた。
 ――だが、彼の懸命な面(おももち)と、真面目に、欲するわけを話す態度を見ると、洛陽の商人も、やや心を動かされたとみえて、
「では少し頒けてあげてもよいが、お前さん、失礼だが、その代価をお持ちかね?」と訊いた。
(以下略)
 南北朝時代(439年−589年)でも、茶は北魏で「酪奴」(らくど)と呼ばれる(出典は『洛陽伽藍記』の北魏の高祖と王粛の会話)など、まだ南中国の飲み物だった。
★唐の時代からメジャーな飲み物に
 日本に茶が伝わったのも、遣唐使の時代である。
 唐の時代に、茶は品格のある飲み物として広まった。李や杜甫、白居易などの詩人はよく酒を飲んだが、茶についても少しだけ漢詩に詠んでいる。
 李白の長編漢詩『答族侄僧中孚贈玉泉仙人掌茶並序』
 杜甫の連作漢詩『重過何氏五首之三』の「落日平台上、春風啜茗時」
 白居易(772−846)の五言絶句。
   山泉煎茶有懐  山泉にて茶を煎て懐い有り  白居易
  坐酌泠泠水   坐して酌む 泠泠の水
  看煎瑟瑟塵   看て煎る 瑟瑟の塵
  無由持一碗   一碗を持して
  寄与愛茶人   茶を愛する人に寄せ与うるに由無し
 山の中の泉で煎茶を楽しみながら思ったこと。透き通った冷たい山の水をくんで茶を点てると、緑色の細かい泡がふつふつと見える。残念だな、都会に住む茶の愛好家に、この至福の一杯を飲んでもらう方法がないとは。
 陸羽が書いた『茶経』は、日本の茶道にとっても出発点となる重要な書物である。
 唐代の進士・王敖(おうごう)が書いた文章『茶酒論』は、茶と酒を擬人化して対論させる戯作的な文章だが、唐代の中国人にとって茶の薬理効果がアルコールに匹敵する作用をもっていたことを示すなど、貴重な文献。
★茶文化の普及は千年前の宋代から
 宋の時代、皇帝から庶民まで喫茶の文化が普及。皇帝は超高級な茶を、庶民は安価な茶を楽しんだ。
 茶にはタバコや酒に匹敵する中毒性がある。宋は?茶法 (かくちゃほう) という茶の専売制を行った。
 宋代から「茶馬貿易」開始。北や西の遊牧系異民族には西辺の甲状軟骨肥大の風土病があったが、茶を飲めば予防でき、また茶に対する免疫性もなく、チャノキは乾燥地帯では栽培できなかった。
 日本へは、栄西が臨済宗の禅とともに南宋の茶文化を持ち帰った。現代の日本の茶文化の起源。cf.羅漢供茶
★明の太祖・朱元璋が抹茶を禁止
 モンゴルの支配を打ち破り江南地方から明王朝を興した農民出身の朱元璋は、重農主義的政策を行い、高価な抹茶を禁止した。保存性に優れた半発酵茶が普及しはじめる。
★清の茶とアヘン戦争
 西洋人は当初、日本の茶文化に触れたが、後に中国茶のほうが世界に普及した。
 英国は、清から茶、陶磁器、絹などを大量に輸入し、大赤字だった。英国は清にアヘンを輸出した。これがアヘン戦争(1840年勃発)の原因である。

〇その他
★毛沢東と茶
 農民出身の毛沢東は、歯磨きの習慣がなく、起床後はお茶で口をゆすいでそのまま飲み干し、お茶の葉を噛んだ。
★茶樹王
 茶の原産地の一つと目される雲南省に自生する巨大な茶の木のこと。複数ある。
★武夷岩茶
 ウーロン茶の一種で、福建省の武夷山の岩肌に生育するチャノキの茶。高級。
★国宴茶

         
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第1期(2019年4月-6月)]
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第2期(2019年7月-9月)]
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