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中国五千年の文明と歴史 中国とは何か

朝日カルチャーセンター・新宿教室 講師 加藤徹
最新の更新 2019-9-12 最初の公開 2019-7-11
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第1期(2019年4月-6月)]
以下、朝日カルチャーセンター・新宿教室のサイトより引用。
 中国とは何か。一言で「こうだ」と答えるのは、なかなか難しいです。ヨーロッパも国ごとに多様ですが、中国は人口も歴史もヨーロッパの数倍もあるのです。ただ、そんな中国でも、過去数千年来、変わらなっかった特徴や、中国文明が現在まで引きずっている「宿命」や「業(ごう)」のような初期条件はあります。
 この講座では、「中国とは何か」を大づかみで理解します。日本や西洋と比較しつつ、中国文明数千年の特徴を、写真や動画なども使いながら、わかりやすく解説します。中国史についての予備知識がないかたも大丈夫です。日本史や西洋史に興味のあるかたも、中国史と比較することで、きっといろいろな発見があると思います。お気軽にご受講くださいますよう。(講師記)
 
  1. 第一回 2019/7/11(木) 中国人は何を食べてきたか 米食民族との違い
  2. 第二回 2019/7/25(木) 日本の和服と中国の漢服 「多民族国家」の闇
  3. 第三回 2019/8/08(木) 中国軍は強いのか 孫子の兵法からアヘン戦争まで
  4. 第四回 2019/8/22(木) お金の歴史 共産主義と金もうけの両立の由来
  5. 第五回 2019/9/12(木) 纏足(てんそく) 残酷な奇習の隠れた合理性

第一回 中国人は何を食べてきたか 米食民族との違い
[
PDF プリント原稿]


第二回 日本の和服と中国の漢服 「多民族国家」の闇
 現代日本人にとって、江戸時代、およびそれ以前の時代は、日本的な伝統の時代である。
 現代中国人にとって、清朝も含めて、過去の時代は必ずしも「中国的」でも「伝統的」でもなかった。
 現代中国人のナショナリズムや伝統観は、屈折している。
「漢服」と和服の違いも、そこに起因する。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kPSy396yjPylS07ICNZy1q

  ★清朝末期の女性革命家・秋瑾(しゅうきん、1875−1907)が、チャイナドレス(旗袍 チーパオ)を嫌って和服を着用した理由とは? [google 画像検索「秋瑾」]
★日本の落語家は和服を着用するのに、中国の「相声演員」が「漢服」ではなく満洲人の「馬褂(マーグワ/マーグワル)」を着用する理由とは?
★日本では「時代劇」はほとんど「江戸時代劇」なのに、中国の「古装劇」の多くが清朝時代以外である理由は?
〇人類と衣服
 衣服を着る動物はヒトだけである。実用的側面と象徴的側面がある。
 ★衣服の環境適応的側面・・・暑さや寒さ、湿気、風、日差し、その他の外的な刺激から人体を守る機能をもつ。
 ★衣服の社会文化的側面・・・性差や身分、民族、階層を示したり、美意識を体現する。
 ★衣服の運動機能的側面・・・仕事や運動をしやすくする実用的性。
実用的側面と象徴的側面は、しばしば矛盾する。

〇世界の服装の種類 参考 [日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 服装 ふくそう]

〇中国人の服装の形は「礼」と結びついている
 現代は洋服。伝統的な衣服は民族差が著しい。
★漢族(漢民族)・・・寛衣型。漢服も和服も、右衽(うじん)=みぎまえが原則。自分からみて左の衽(おくみ)を右の上に重ねる着方。これは、右手を「ふところ」の中に入れやすい。
★夷狄(いてき。非漢民族)・・・窄衣型。胡族や夷狄は、左衽(さじん)=ひだりまえが原則。これは、弓で矢を射るときに便利。日本も、古代の埴輪(はにわ)の服装も左衽だったが、後に漢族の影響で右衽になった。
cf.『論語』憲問篇第十四:子貢曰「管仲非仁者與。桓公殺公子糾、不能死、又相之」。子曰、「管仲相桓公、霸諸侯、一匡天下、民到于今受其賜。微管仲、吾其被髮左衽矣。豈若匹夫匹婦之爲諒也、自經於溝瀆、而莫之知也」。
 管仲なかりせば、われ、それ被髪・左衽せん。
 もし管仲がいなかったら、わたし(孔子)はいまごろ、ざんばら髪に左まえの服装をしていたろう(わが中国はとっくに異民族に征服されていたろう)。

〇被服の材質
 古代の神話・伝説の天子「三皇五帝」
 三皇と五帝の顔ぶれには諸説ある。天皇、地皇、人皇(泰皇)の後世の想像図を見ると、草や葉っぱなどを材料とした、いかにも「原始人」的な被服をまとっているかのように描かれている。これに対して「五帝」は植物繊維を織りなした衣服をまとう文明人として描かれている。

動物系
 その他、漢民族は古来、世界的に見ても、動物由来の素材を被服に使うことにたけていた。
植物系

〇和服と「漢服」
 レトロニム(英語: retronym)は「再命名」の意。
 「和服」は、洋服が普及した明治時代以降に洋服の対概念としてできた、新しい概念であり、レトロニムの一種である。
 「漢服」はさらに新しく、21世紀に入ってから始まった「漢服復興運動」で提唱された概念で、洋服だけでなく、和服や「チャイナドレス(中国語では「旗袍」)」などと対になるレトロニムである。
「華夷変態」・・・1644年、最後の漢民族的王朝である明王朝が滅び、満洲系の清王朝に取ってかわられたことを指す。出典は、江戸時代の儒学者である林春勝(林鵞峰)と林信篤(林鳳岡)の父子が1732年に編纂した本の書名。
「西洋の衝撃」・・・Western Impactのこと。近代西洋が圧倒的な軍事力・科学力・経済力で、アジア・アフリカその他の地域を席巻したことを指す。中国は1840年に勃発したアヘン戦争、日本は1853年の黒船が象徴的な事件であった。
〇京劇は「中華世界の動く美術館」 < 漢文教育研修会 教養講座・第2日「京劇」
 京劇が成立した清朝時代は「華夷変態」後の時代であり、漢民族本来の伝統的な服飾文化や衣冠の礼制は演劇の世界の中でのみ、かろうじて保たれていた。
 現代人の起居座臥の動きや礼儀作法は西洋の影響が強い。京劇の舞台上では、演劇的に誇張されてはいるが、中国本来の古雅な美意識と礼儀作法が貫いている。
 例えば『論語』に何度も出てくる「趨」の足さばきは、現代中国人は行わないが、京劇の舞台上では「円場」の足さばきとして今も常用されている。

〇朝鮮民族の「小中華」意識と「漢服」
 李海応『薊山紀程』十四日 (1803年)の漢詩
清簟楼台絳帳垂 セイタンのロウダイ、コウチョウたる。
城南大路匝胡児 ジョウナンのおおじにコジめぐる。
王風委地求諸野 オウフウはチにすてられ、これをヤにもとむれば、
礼楽衣冠尽在斯 レイガクとイカンとは、ことごとくここにあり。
 清代、北京に派遣された朝鮮国の使節団の一員が、中国の町で詠んだ漢詩。
 大意は――清王朝が統治している今の中国は、もはや本当の中国ではない。今の中国では、民間人も役人も、髪は屈辱的な辮髪を強要され、服装も異民族風である。わが朝鮮国(李氏朝鮮)の官服が、明王朝までの中華風であるのとは大違いだ。中国本土では、いにしえの中華の伝統文化はすたれ、地に落ちた。だが、それがかろうじて残っている例外的な場所がある。中国の町の南の大路、辮髪をした連中がむらがって見物している芝居の舞台。いにしえの中華の礼楽や衣冠は、タイムカプセルのように、すべて芝居の舞台上に保存されている。

参考 内部リンク

第三回 中国軍は強いのか 孫子の兵法からアヘン戦争まで
 日本と中国の伝統的な軍隊の違い。
 日本の武士は、暗黙知に富む戦争職人で、武芸者。
 中国では、諸葛孔明のような「文」の「士」が指揮を取る。「六韜三略」(りくとうさんりゃく)「孫子の兵法」などの形式知を志向し、陣形など集団戦を好む。
cf.「趙括、兵を談ず」「紙上談兵」「泣いて馬謖(ばしょく)を斬る」
〇漢字「軍」の字源
 藤堂明保の説によると、「車」と、車に立てた旗を象った「勹」を組み合わせた会意文字で、戦車を円陣に組むことを言う。「運(円く巡る)」「群(円く集まる)」等と同系。

〇漢字「武」の字源
 「戈」+「止」の会意文字。「止」は足を意味し、「戈」を手にして進む様を示す。

〇武器の種類
飛び道具・・・射撃武器、投擲武器。投石器、弓、弩(ど・いしゆみ)、鉄砲など
手持ち武器
 長柄(ながえ)つき手持ち武器・・・矛 ・戈 ・槍など
 短柄(みじかえ)つき手持ち武器・・・鉞 ・剣 ・刀など

〇戦闘の志向の種類
遠戦・・・飛び道具を使う戦い方
白兵戦・・・手持ち武器による近接戦闘
火戦・・・火薬や火器を使った戦い方

 テレビなどでときどき聞く「飛び道具は卑怯なり」は西洋の騎士道の発想。

〇東アジアの戦闘のおおまかな流れ
 前期は遠戦
 中期は白兵戦
 後期は火戦
 以下、宇野隆夫 「東アジアにおける武器の画期」(『武器の進化と退化の学際的研究―弓矢編―』日文研叢書27、2002年)p.37より引用。[
PDFへのリンク]
「武器の中で弓矢は飛び抜けて遠距離攻撃能力が高い反面,他の分野では弱体 な武器である。弓術の世界では接近戦での弓矢の使用方法も工夫されるが,遠 距離戦でよくその威力を発揮することには変わりない。
 その威力の測定が本共同研究の主な課題であるが,およその見通しを述べるなら,東アジア攻撃用武器の前期の発達は弓矢の弱点を補い利点を有効利用できる武器様式を発達させる過程であり,中期は接近戦用武器が主体となり弓矢が補助的武器となっていく過程であったと思われる。前期においては弓矢自身の性能の向上が重要な課題であり,弩がその到達点である。なお後期は火砲の普及によって飛び道具が再び重要となった段階である。」

以下、宇野2002より引用。
表1 武器の利点と欠点
弓 矢矛 ・戈 ・槍 鉞 ・剣 ・刀
遠 距 離 戦×
接 近 戦×
攻 撃 力×
扱いやすさ×

表2 戦術の利点と欠点
歩 兵戦 車騎 馬軍 船
機 動 力×短距離×, 遠距離◎
運 搬 力××
コ ス ト×××

〇中国の時代・地域ごとの軍隊の特色
 中国は「南船北馬」。
 モンゴルなど「北族」は騎馬。
 軽装騎兵の移動距離は歩兵の約5倍。面積にすれば約25倍。
 騎兵の機動力は怖いが、万里の長城を築いて、馬からおろせば怖くない。

 華北の平原地帯は、殷周期から春秋時代までは、貴族の乗る戦車+随伴歩兵。当時の士大夫は「六芸」(りくげい)を学んだ。儒教の経典『周礼』(しゅらい)によれば、六芸は「礼・楽・射・御・書・数」である。射は弓術、御は馬車の操縦法で、いずれも春秋時代の戦争に必須の技芸であった。
 戦国時代の「胡服騎射」から、歩兵と騎兵が主力となり、戦車は連絡用など補助業務に回った。

 北族の騎兵は恐るべき機動力をもっていたが、下馬して戦うのは不得手。だから万里の長城が有効だった。
 「孫子の兵法」の孫子こと孫武は、孔子と同時代の、春秋時代の人物。
 秦の始皇帝の「兵馬俑」は、秦の軍団の様子をそのまま現代に伝える。

 漢民族の人口の大多数は農民で、騎馬は不得手だった。
 鐙(あぶみ)は、西暦290年から300年ごろ中国で発明された。

〇フォース・マルチプライヤー force multiplier
 日本語ではまだ定訳はない。加藤徹は「戦力倍加要素」と訳す。
 武器や将兵の戦闘力を増加させる要素のこと。
 食糧、飼料、燃料、規格の統一、地理的条件、天候(「冬将軍」など)、宗教、思想、兵法、数学などの科学、など。

 中国人の「親孝行」「先立つ不孝」の考えかたは、フォース・マルチプライヤーにはならなかった。
cf.管鮑の交わり かんぼうのまじわり
 司馬遷の『史記』の話。管仲(かんちゅう)と鮑叔牙(ほうしゅくが)は、春秋時代の斉(せい)の人間だったが、馬が合った。いっしょに商売をしたとき、管仲が分け前を多くとったが、鮑叔は「彼は家が貧しいから」といって非難しなかった。戦争に行ったとき、管仲は三度も逃げ帰ったが、鮑叔は「彼には老母があるからだ」と言って卑怯者とののしらなかった。管仲は「我を生む者は父母なり、我を知る者は鮑叔なり」と言った。

〇官軍と賊軍
 中国語「勝者為王、敗為寇」勝てば王となり、負ければ「寇」(盗賊集団)となる。
 日本語「勝てば官軍、負ければ賊軍」
 中国語のことわざ「好鉄不打釘、好人不当兵」。釘と兵で韻をふむ。釘に使われるのはくず鉄だし、兵隊になるのは人間のくずだ、という意味。

 中国史で強い軍隊は、項羽と劉邦の軍隊から、三国志の時代の「部曲」、唐と五代の藩鎮を経て、近代に至るまで、私設軍的性格・軍閥的性格が強かった。
 中国的軍閥では、トップが上級指揮官を、上級は下級指揮官を、下級指揮官は兵を、というように、上から順に師弟関係や地縁、血縁などのコネを通じて私的に仲間を集める、という私的性格が強かった。
 日本の戦国時代の「軍隊」と似ていた。
 近代日本の「軍閥」との違いに注意。

「楊家軍」 宋代の「楊家将」の軍隊。遼軍を相手に奮戦。
「岳家軍」 宋代の岳飛の軍隊。金軍を相手に奮戦。
「戚家軍」 明代の戚家軍(1522-1588)の軍隊。倭寇とも戦う。
「湘軍」 「湘勇」とも。清末の太平天国の乱を鎮圧するため、政治家の曾国藩(そうこくはん)が故郷の湖南で組織した義勇軍。李鴻章の「淮勇」も有名。
「平英団」
 以下「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」より引用。引用開始。
 中国広東省でアヘン戦争中,決起した民間人の反英武装組織。イギリス軍の広州占領と暴行,清朝官兵の腐敗無能に憤激した民衆が,書院紳士層の指導のもとに結集したもの。道光 21 (1841) 年5月に広州近郊の三元里でイギリス軍の一部を3日間にわたって包囲,攻撃した。(引用終了)
 以下「日本大百科全書(ニッポニカ)」より引用。引用開始。
 中国、アヘン戦争末期、広東(カントン)省城北方の三元里における反英闘争の中心勢力となった組織。1841年5月30日、三元里において平英団の旗を掲げ武装した民衆がイギリス軍を襲い、さらに付近の民衆数千人が参加し、前後3日にわたりイギリス軍を包囲攻撃した。これは以後十数年に及ぶ広東の反英闘争の発端となった。このころ、イギリス軍の略奪暴行が頻発したが、官憲は無策であったため、村落ごとに有力地主の指導のもとに、自衛組織ともいうべき社学が組織されていた。本来社学は各村の士大夫(したいふ)の子弟の教育機関であったが、19世紀中ごろからは村落自衛ないし自治的な機能をもつようになっていた。三元里事件ののちも、社学は各地で相次いで組織され、男子を募集し武装訓練を施した。(引用終了)

〇余談
 督戦隊・・・挹江門事件(ゆうこうもんじけん)が有名。


第四回 お金の歴史 共産主義と金もうけの両立の由来

〇まじめな経済学
 集中、展開、蓄積のサイクル
〇中国人の民族性
 「財神到」、紙銭、銭剣(霊幻道士」)、・・・
〇逆説・お金儲けに消極的な宗教・思想は近代的富裕化に有利
 産業革命も経済成長も「宗教的思潮」の影響が大きい。
 近代史でも、スペインやイタリアなどカトリック系の国よりも、イギリスやアメリカ、オランダなどプロテスタント系の国々のほうがいち早く近代資本主義を確立し、富裕化した。その理由は、逆説的だが、カルヴァン主義の「非合理性」にあった。
 ドイツの社会学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)は、著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismusで「非合理の合理」という逆説のメカニズムを解明した。
 カルヴァンの予定説=因果律の否定→禁欲的労働→近代的資本主義の発生と社会全体の富裕化
「私は幸せになれますか?」「天国に行けますか?」
 ★予定説 predestination:結果は全て、全能の神によって最初から決まっている(決定論)。個人の努力で、神の予定を変えることはできない。
 祈っても、戒律を守っても、善行を積んでも、天国に行けるかどうかは神のご意志。
 ★因果律 causality:原因が結果を生む。努力は報われる。
 祈ったり、戒律を守ったり、善行を積めば、天国に行ける。

〇中国の伝統的思想はお金儲けに寛大だった。
 中国の伝統的な宗教・思潮は「三教九流」
 三教は、儒教、道教、仏教。(日本では「儒仏道」の順で言うことが多い)。
 九流は、儒家、道家、墨家、法家、名家、雑家、農家、縦横家、陰陽家。
 最後に「小説家」を加え「九流十家」と呼ぶこともある。
 cf.班固『漢書』芸文志「諸子十家、其可観者九家而已」。諸子十家、その観るべきものは九家のみ。(最後の小説家は、取るに足らない)
 春秋戦国時代に成立した九流は、多かれ少なかれ「富国強兵」などシビアな現実と向き合わざるを得ず、お金儲けについても現実的だった。

〇儒教の開祖・孔子とお金
 孔子は「礼」を重んじた。分を過ぎた贅沢はしなかったが、社会的な対面を保つための出費は惜しまず、就職活動などにも積極的だった。
★『論語』先進第十一:顏淵死。顏路請子之車、以爲之椁。子曰「才不才、亦各言其子也。鯉也死、有棺而無椁。吾不徒行以爲之椁。以吾從大夫之後、不可徒行也」。
 孔子の愛弟子である顔淵(顔回)が、若くして亡くなった。父親の顔路は孔子に「先生のお車をください。それを売って、あの子の椁(外棺)を造ってやろうと思います」と頼んだが、孔子は断って、こう言った。「誰でも、自分の子はかわいい。鯉(孔子の長男)が死んだとき、わが家は貧乏で、棺は用意できたが、棺をおさめる椁は用意できず、簡素な葬式を出した。私は、馬車を売ってまで、わが子の墓を立派にしようとはしなかった。私も国の大夫の末席につらなる身分なので、車に乗らず徒歩というわけにはゆかないのだ」。
★『論語』子罕第九:子貢曰「有美玉於斯。??而藏諸。求善賈而沽諸」。子曰「沽之哉。沽之哉。我待賈者也」。
 孔子の弟子である子貢が、孔子にきいた。「すばらしい宝石がございます。箱にしまいますか。よい買い手を探して、売りますか」。「売るよ、売るよ。わしもずっと、良い買い手を待っておるのだ」。
 ※美しい宝石、は、自分や弟子の才能の比喩。孔子は「世捨て人」ではない。

★『論語』顔淵第十二:子貢問政。子曰「足食足兵、民信之矣」。子貢曰「必不得已而去、於斯三者、何先?」。曰「去兵」。曰「必不得已而去、於斯二者、何先?」。曰「去食、自古皆有死、民無信不立」。
 子貢が政治の要諦をたずねた。孔子は答えた。「まず食糧の確保。次に軍備。そして民の『信』を確立する」。「もし、やむをえずどれかを削るとしたら、まずどれでしょうか」。「軍備を削る」。「もし、残りの二つのうち、やむをえず削るとしたら、どちらでしょう」。「食糧をあきらめる。昔から人はみな死ぬ。しかし、民は『信』がなければ立つことはできない」。
※信=信義、信念、社会的な信用などの根底に共通するエトス。

〇毛沢東と中国共産党の政策
 1949年10月1日、中華人民共和国の建国。成功したとは言いがたいが、毛沢東も中国人なので、孔子の「食兵信」のセオリーを踏襲している。
 食を足す=土地改革(中国語では「土改」と略す)。地主の土地や財産を没収して公有化。百万人、ないし三百万人の死者が出たとされる。
 兵を足す=軍備増強。1964年、核実験に成功。
 民、これを信にす=中国共産党が主導する思想教育。

〇貨幣の歴史と中国
 貨幣=お金の三つの機能。「支払」と「交換・流通」を分けて四つの機能とする考え方もある。
★価値の尺度となる。
 ランキング好きな中国人に適している。
 漢の時代、中国では官職の階層性を年俸である「秩石」(ちっせき)の石高で示した。
 例「二千石(にせんせき)」。漢代の規定で、郡太守が毎月120斛(こく)を支給されたことから、知事などの地方長官を「二千石」と表現する。
cf.『漢書』巻19上百官公卿表上
★支払
 社会に流通することで、決済手段となる。
 英語で給料を表すサラリー salary の語源は、古代ローマの兵士に給料として支払われた「塩」を意味するサラリウム salarium。
 貨幣による支払いと、物々交換の支払いの比率は、国や時代によって大きく異なる。
cf.日本の昔話「わらしべ長者」:藁しべ→アブが結び付けられた藁しべ→蜜柑→反物→馬→屋敷
cf.日本の「乞食」は「食」でなく「銭」を乞う
 1429年、室町時代の日本を訪れた朝鮮通信使(通信使正使:朴瑞生)は、帰国後に提出した「復命書」で当時の日本の生活や社会情勢を詳述した。日本の農村で精巧で効率的な水揚水車を使っていること、日本では乞食すら食物ではなく銭を求めることに驚いている。
★蓄蔵
 貨幣は経年劣化を気にせず、貯蓄することができる。
cf.「美人の計」
 春秋戦国時代の経験から生まれた、中国人の伝統的策略の一つ。敵対国の機嫌をとるために献上する財産についての策略。もし敵対国に土地(領土)などの生産財を献上すれば、相手はますます強くなる。もし、金銀などの物材を献上すれば、相手はますます富強になる。だから、美女を献上したほうがよい。美女は消耗品・奢侈品なので敵対国の国力にはプラスにならない。むしろ、相手国の君主が美女の色香に溺れ、相手国が弱体化してくれればしめたもの、という考え方。

〇中国の貨幣の種類
 貨幣の主な種類は四種類。
★計数貨幣(個数貨幣)
 一定の形状と品位、重量を保証された貨幣のこと。個数を数えるだけで授受される。コインなど。先秦時代の貨幣は「布貨」や「刀貨」など、必ずしも円盤型ではなかった。
★秤量貨幣(しょうりょうかへい/ひょうりょう−)
 重量によって交換価値を計算して使用する貨幣。江戸時代の丁銀(ちょうぎん)・豆板銀(まめいたぎん)、中国で清代に用いられた馬蹄銀(ばていぎん)など。現代中国では姿を消す。
★紙幣
 北宋の時代、四川地方で発行された「交子」が、世界初の紙幣とされている。
★電子マネー
 現代中国で急速に普及。

〇中国の貨幣の変遷
 漢字「銭」の字源は、「金属」と「浅」「残」「桟」の右半分を組み合わせた文字。換金性をもつ小さな金属片、の意。
 古来、慢性的に人口が多かった中国では、一人あたりの金属資源は相対的に少なかった。社会経済の規模とくらべ、銅貨は慢性的に不足する傾向にあった。金属の地金の価値が額面の価値を上回ると、銅化は鋳つぶされてしまった。

★殷周期:貝貨・青銅貨など、原始的な計数貨幣。「貨」は「貝」が変化したもの、の意。「幣」は「ぬさ」の意。
 殷の自称は「商」であり、これが「商売」「商人」の語源になった。
★秦漢期:銅貨・布・金が貨幣として流通。銅貨は、秦の半両銭、前漢の五銖銭が有名。五銖銭は、唐の開元通宝の発行まで、長く流通した。
 cf.呂不韋の「一字千金」の故事。宮崎市定などの説によると、シルクロードの交易の結果、中国から金が長期に流出した。
★後漢から唐:銅貨・布が流通。金は希少化が進んだ。
 cf.「三国志」の曹操の父親、曹嵩は、後漢の時代「一億銭」を朝廷に献上し、最高位の官職「三公」のひとつである太尉の職についた。
★宋代:銅貨、鉄貨(敵対国への銅の流出を防ぐため一部地方で)、紙幣(世界史上初)。
★元代:紙幣、銀貨(秤量貨幣である銀錠)。元王朝は銅貨の流通を抑制した。
★明清期:銅貨、銀貨、紙幣。
 明の太祖・朱元璋は銅貨を発行して流通させた。交易の結果、メキシコドル「墨銀」(洋銀)など、大量の銀が中国に流入し、銀本位制の下地となった。対照的に、銅貨が不足する傾向は進んだ。
 cf.明の永楽銭は、信長の旗印。
★中華民国:銀貨、紙幣。
 中華民国は当初、清の銀本位制を引き継いだ。世界の経済情勢の変化により、1935年、国民党政府の宋子文(「宋家三姉妹」の兄弟)は銀貨の流通停止と全国統一通貨「法幣」を発行した。
cf.「杉工作」:偽造法幣。戦時中、日本の陸軍登戸研究所では、蒋介石政権の紙幣の偽札を作ったと言われる。
★中華人民共和国:硬貨、紙幣。現在は電子マネーが普及中。
 中国の「外貨兌換券」(1979年-1993年)は、今はもう昔話。

〇西晋の魯褒の風刺文学「銭神論」
 架空の人物の問答体によって、世間で金銭が神に等しい存在であることを風刺した文芸作品。
「お足」の語源:「銭神論」の一句「無翼而飛、無足而走」。お金は、翼がないのに飛び、足がないのに走る。
「孔方兄」(こうほうひん):アナが四角い(孔方)お兄さん。銭の異称。

〇阿堵物(あとぶつ)
 宋の劉義慶『世説新語』規筬(きしん)上の故事。「阿堵」は俗語で「これ」「あれ」の意。
 西晋の王衍(おうえん 256-311)は、政治家だったが、清談を好み、「銭」という言葉すら口にしなかった。彼の妻の郭氏は夫を試そうと、下女に命じて、いたずらをしかけた。ある朝、王衍が目覚めると、寝床のまわりは銭だらけだった。王衍は下女を呼び「阿堵物をどけろ」と命じた。
 以来、銭のことを婉曲に「阿堵物」と呼ぶようになった。
 なお、王衍はのちの西晋の亡国に際して、奴隷から身を起こして五胡十六国の後趙の開祖となった石勒(せきろく)によって殺された。

〇王戎(234-305)
 王衍の従兄。「竹林の七賢」の一人。ケチで有名。
 『世説新語』によると、夫婦ともに金もうけに熱心で、夜おそくまでお金を数えた。
 彼は庭の李を売ったが、李がよそで発芽しないよう、ひとつひとつ錐で種に穴をあけて売った。
 また、娘がとつぐときに銭数万を贈ったが、その後、娘が里帰りすると王戎は不機嫌だった。娘が銭を返すと、急に機嫌がよくなった。
 当時は「言論の自由」がなく、知識人だった王戎は、自分がお金に夢中で政治に興味関心がないふりをしていた、という説もある。

〇「陶朱猗頓の富」(とうしゅいとんのとみ)
 『史記』などの故事に基づく。
 越王勾践の功臣であった范蠡(はんれい)は、戦勝後、自分が粛清されることを予想し、越の国を出て第二の人生を歩んだ。彼は、斉の国で、新しい名前「鴟夷子皮(しいしひ)」を名乗り、商売を始めた。戦略の天才を商売に転用した范蠡は、巨万の富を築いた。
 斉の国は、鴟夷子皮こと范蠡の天才に惚れ込んで、彼に宰相となるよう申し入れた。范蠡はこれを断り、巨万の富を皆に分かち与えると、今度は小国の陶に赴き、朱と改名して商取引を行い、ここでも大成功し、人々から陶朱公(とうしゅこう)と呼ばれた。
 猗頓(いとん)はもともと貧乏人だったが、陶朱公こと范蠡から商売のコツを教わり、大金持ちになった。
 政治的な野心をもたぬ第二の人生をアピールして権力者の警戒心を解く、という生き方は、伊達政宗の後半生にも似ている。


第五回 纏足(てんそく) 残酷な奇習の隠れた合理性
〇参考 YouTube 動画
閲覧注意・一部にグロテスクな映像が含まれます
〇纏足とは?
 20世紀初頭まで漢民族の婦女子に見られた「身体変工」(「身体改造」の学問的な言い方)の習俗。女子の幼児期から足に布をきつく巻き(足に「纏(まと)」わせる)、足を小さいままにする。大変な痛みを伴い、人権上、衛生上も問題があった。
 纏足は北宋(960-1127)の時代には存在した。当初は「妓女」のあいだで流行し、その後、上流階級の女性、さらに庶民層へと広がっていったらしい。
 纏足の起源には諸説あるが、五代十国時代の南唐の後主・李U(りいく。937-978)が小さな足の女性を好んだことから始まったとする説が有名である。
 民間の習俗であるため統計記録は残っていないが、纏足は北宋から徐々に広まり、元・明時代に普及した。元末明初の文人・陶宗儀(1329-1410)は『輟耕録』(てっこうろく)の中で「北宋の熙寧(1068-1077)年間や元豊(1078-1085)年間までは纏足を行う人はまだ少なかったが、近年に入ると人々はみな纏足を行うようになり、それをしない人は恥じるようになった」(如熙寧元豐以前人猶為者少、近年則人人相效、以不為者為恥也)と書いている。
 とはいえ、漢民族のなかでも、貧乏人や客家(はっか)の婦女子は生活のため労働をする必要から纏足ができなかった。
 cf.中国のテレビドラマ『大脚馬皇后』。明の太祖の皇后がヒロイン。
 纏足の習俗は、日本に伝わらなかった。中国でも、非漢民族のあいだでは限定的だったが、清の時代(1644-1912)には満洲人のあいだでも流行の兆しが見えたため、歴代の皇帝は禁令を出した。清に反乱を起こした太平天国も、キリスト教の影響やメンバーの客家系の多さもあり、纏足を禁止した。
 そもそも纏足は、儒教の礼制にはない民間の習俗だったこともあり、儒教的知識人はしばしば纏足の反対論を唱えた。にもかかわらず、纏足の風習は根強く残った。
 清末には、上海在住の欧米系婦人によるNatural Foot Society(天足会)や、康有為・梁啓超らが1883年に広東に設立した「不纏足会」など、各地で纏足反対の啓蒙団体が設立された。西太后も近代化の一環として纏足を禁止した。
 中華民国の成立後、纏足はすたれたが、地方などでは纏足を続ける女性もいた。1949年の中華人民共和国の成立以降、纏足は根絶した。

〇纏足のメリットとデメリット
★デメリット
 人権、衛生、健康上の問題。
 女性の社会進出が制限される(男尊女卑の見地からはメリット)。
 走ったり、農作業をする力が限られる(男尊女卑の見地からは、機織りなどの一部の労働に女性を縛り付ける効果がある)。
★メリット
 男性の性的嗜好に奉仕できる(男女平等の見地からはデメリット)。
 容姿は生まれつきで本人にはどうしようもないが、纏足は本人の忍耐の証しであり、後天的な努力を評価するほうが合理的である(と昔の中国人は信じていた)。

〇纏足と外国の事例の比較
★シンデレラの靴
★ハイヒール
★コルセット
★お歯黒 cf.福澤諭吉の風刺的短編『
かたわ娘』(明治五年)
★FGM(female genital mutilation 女性性器切除)

〇纏足から見る教訓
★「伝統」の魔力
 正統派の宗教・思想の教義や経典にない悪習でも、いったん「伝統」として民間に普及すると、民間人の目線では教義に等しい絶対的常識として定着してしまう。
★非合理の合理
 大局的な見地から見て非合理的な事物にも、小さな合理性はある。庶民の目線では、大きな合理性よりも、目先の小さな合理性のほうが大きく見える。
★自己支配の罠
 一般に、人が人を支配するのは良くない。しかし、人は往々にして、人に支配される前に、自分が「(いつわりの)自分」に支配されてしまう。
 清の時代の纏足の廃止運動も、被害者であったはずの女子が声をあげて始まったのではない。清の皇帝や、欧米系の婦人団体、儒教的知識人など「第三者」が纏足廃止運動を始めたことに注意。

   
[中国五千年の文明と歴史 中国とは何か 第1期(2019年4月-6月)]
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