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加藤徹の
中国語探検隊

2007年3月 加藤徹


 本頁は、月刊『中国語ジャーナル』2006年4月号から2007年3月までに連載した「加藤徹の中国語探検隊」の記事(詳しくはこちら)を、アップしたものです。
 雑誌掲載時は、左に日本文、右側に中国語という日中対訳で、中国語の音声も付録のCDに入っていました。本頁では、日本文のみを掲げます。また掲載時の文章と、若干、字句の異同があるかもしれません。
 本頁の記述のなかの中国語の部分の表示が正確になされるためには、お使いのブラウザに、中国語の簡体字の文字フォント(gb2312)がインストールされている必要があります。

4月号 姓の話5月号 北京の町の怪しい看板6月号 中国語五万年7月号 自動翻訳の難しさ
8月号 呼称の変化にご用心9月号 性質と形態10月号 縁起をかつぐ11月号 「食べる」の使いかた
12月号 例外的な単語 1月号 副詞の訳しにくさ 2月号 円と元 3月号 自由とセクハラ



第一回 姓の話

 日本でいちばん古い姓は「菊池さん」という説があります。
中国の歴史書『三国志』は、劉備や曹操の活躍を漢文で書いた本ですが、三世紀の日本のことも書かれています。この本のなかの、いわゆる「魏志倭人伝」のところに、邪馬台国の女王卑弥呼といっしょに「狗古智卑狗」という名前が出てきます。これを、熊本の豪族「菊池彦」の先祖と推定する学者もいます。
もしこの説が正しければ、菊池は、千八百年の歴史をもつ日本最古の姓のひとつ、ということになります。
そのほかの日本人の姓の歴史は、千五百年ていどです。例えば、服部という姓は、六世紀の日本に存在した機織部(ハタオリベ)が訛ってハトリベとなり、さらにハットリに転じたとものです。筆者の加藤という姓は、もともと「加賀藤原氏」という意味です。藤原姓は、七世紀の大化の改新で功をたてた藤原鎌足に始まります。
 中国人の姓には、日本よりも古い歴史があります。三千年前の太公望の姓は姜。二千五百年前の思想家たちの姓は、孫、孔、李、荘、孟など。二千二百年前に漢王朝を打ち立てた劉邦の仲間たちの姓は、呂、韓、陳、蕭、曹など。どの姓も、21世紀の今日でも普通に見られるものです。
 姓には、その人の先祖の歴史が凝縮されています。金という姓は、遠い先祖に匈奴や満州人や朝鮮人など北方民族をもつ人が多い。馬という姓は、先祖がシルクロードを経て中国に移住してきたイスラム教徒に多い(馬は「マホメット」のマです)。同様に、古代イランにあった安息国(パルチア)人の子孫は安姓を、中央アジアの康居国(カンクリ)の子孫は康姓を、東アジアにあって七世紀に滅亡した高句麗の子孫は高姓を、それぞれ中国に帰化したときに名乗りました。もちろん、逆は真ならず、です。現代日本で「秦」(はた)を姓とする人が、全員、秦の始皇帝の子孫というわけではありません。同様に、中国で馬姓を名乗る人が、すべて西アジアから渡ってきた人々の子孫であるわけでもありません。
 中国人の友達ができたら、相手に、姓の歴史をたずねてみると、会話が盛り上がるかもしれません。



第二回 北京の町の怪しい看板

 日本人が中国人の友達と連れだって、北京の町を散歩した。
スーパーの冷凍食品のコーナーをのぞくと、「冷凍麻雀」というビニール・パックがあった。中国ではマージャンのパイを冷凍してスーパーで売っているのか? と不思議に思った日本人は、中をのぞいた。羽をむしりとられ、目を堅くとじたスズメの凍死体が十数羽、入っていた。日本人はあわてて袋をもとの場所に戻した(中国語では、マージャンを“麻将májiàng”、スズメを “麻雀máquè” と言う)。
 二人は散歩を続けた。大きな病院があった。病院のまわりには「寿衣 花輪 二十四時間営業」という看板を掲げた店が、何軒もあった。日本人は中国人にたずねた。
「病院の周囲に、どうして二十四時間営業の結婚関係の店があるのですか?」
「結婚関係の店?」
「あそこの、コトブキの服とか、花輪とかの看板を掲げている店のことですよ」
「ああ、あれね。中国語の『寿衣』は、死体に着せる白い服のことですよ。花輪も葬儀用です」
「・・・・・・病院のまわりに葬儀屋さんが並んでいて、入院患者は気にしないんですか?」
「気にする? 何を? 病院の近くに葬儀屋さんがないと、もしもの時は不便でしょう。まさか日本では、病院のまわりに葬儀屋さんがないんですか?」
 日本人は答えなかった。もし日本で病院のまわりを葬儀屋さんが取り囲んでいたら、その病院はきっとつぶれるだろう、と心のなかで思った。
 さらに散歩を続けると、小さな食堂があった。看板に「面食 灌腸」とある。
「どうして看板に、面食い、とか、カンチョウ、と書いてあるんですか?」
「どうして、って聞かれてもねえ。私たち北京人は、基本的に『面食』だし、みんな『灌腸』が大好きですから」
「・・・・・・ひょっとして、あなたも灌腸が、好きなんですか?」
「ええ、子供のときから大好きです」
「・・・・・・私でも体験できますか?」
「もちろん。でもちょっと臭いますよ、ニンニクのにおいが。日本人には、ちょっときついかもしれません」
日本人は意を決して店に入った。その結果わかったこと。中国語の「面食」は「めんくい」ではなく、小麦粉で作った各種の食品のことだった。また「灌腸」は、ブタの腸のなかに各種の調味料と色あざやかな澱粉をつめこみ、油で揚げ、ニンニクの汁で食べる北京の庶民的な料理だった。日本人は、遠慮がちに聞いた。
「・・・・・・あのう、灌腸という中国語には、別の意味もありますよね」
「別の意味? ああ、便秘のときにやる、あっちの灌腸ね。でも、腸のなかに物を注ぎ込む、という意味では、同じ意味ですよ」
「気になりませんか?」
「気になる? 中国人は誰も気にしませんよ。おいしければいいじゃないですか」
 中国人はそう言って、ニンニクの汁がたっぷりかかった灌腸を、口いっぱいに頬張った。



第三回 中国語五万年

 初めて中国語を学ぶ日本人は、「声母表」を使って、「bo po mo fo」とか「de te ne le」など、発音練習をします。「b p m f」を唇音、「d t n l」を舌尖音と言います。
不思議なことに、否定詞の発音には、唇音が多い。例えば「不、别、没、莫、否」の発音は、それぞれ「bù 、 bié 、 méi 、 mò 、 fǒu」で、 子音(声母)はどれも唇音です。「未、无(無)、勿」の発音は、現代中国語(北京語)では「wèi 、wú 、 wù」ですが、昔の中国語では「m」で始まる唇音でした。その証拠に、日本語の漢字音では、「未、無、勿」は「mi 、 mu 、 moti(勿論のモチ)」と発音します。日本の漢字音は、千数百年前の中国語の発音をうつしたものです。
 漢字は三千数百年前からありますが、中国語そのものは、漢字ができるずっと前からありました。もしかすると、いまから何万年も昔、まだ原始人だった中国人の祖先は、ものごとを否定するとき、唇を丸めてつきだして「ブウウッ!」と叫んでいたのかもしれません。時代がくだり、言葉が細分化し、文明が誕生して文字が発明されると、それぞれ「不、别、没、莫、否」など別々の字で書き分けられるようになった、と考えられます。
 否定詞とは逆に、完了や強調など「120パーセントの断定」をあらわすときは、中国語では、句末に「de te ne le」といった舌尖音の単語をつけます。「他来了。」「他会来的。(彼はきっと来る)」「今天人可多呢。(今日は人が多い)」など
子音のなかで、いちばん発音がやさしいのは、唇音と舌尖音です。乳幼児でも簡単に発音できます(それゆえ「声母表」の冒頭に並べられています)。現に、どの民族でも、乳幼児も使う言葉は、唇音と舌尖音が多い。中国語では、爸(bà)、妈(mā)、父母(fùmǔ)、爹(dié)、娘(niáng)、奶(nǎi)など。英語では、ファザー、マザー、ダディ、マミー、ミルク、など。日本語でもそうです。
 最新の学説によると、わたしたち現生人類(ホモ・サピエンス)は、いまから十五万年前にアフリカで誕生し、五万年前ごろから人間らしい言葉をあやつるようになった、と推定されています。そして人類最古の言語の発音は、唇音とクリック音(舌打ち音)だけからなる簡素なものだった、と考えられています。
中国語の発音には、人類五万年の歩みの痕跡が残っている、と言えるかもしれません。



第四回 自動翻訳の難しさ

 翻訳は難しい。言葉は、数字や記号とは違う。一つの言葉の背後には、その国の歴史や文化がある。正しく訳すと、かえって「誤訳」になる、というケースさえある。
 1953年のアメリカ映画『Roman Holiday』は、日本でも中国でも「ローマの休日」と訳される。東洋人は、なんとなく、のんびりとした観光映画を連想する。しかし、辞書を引くとわかるが、英語の「ローマの休日」は「残酷な見せ物」という意味である。今から二千年前のローマ帝国では、休日のたびに、ローマ市民の娯楽として、奴隷や剣闘士の死闘などの「残酷な見せ物」が供された。この映画の内容は、こうである。ある国の王女(オードリー・ヘプバーン)が自由を求めて宮殿を逃げ出し、身分を隠す。偶然、彼女と知り合った新聞記者は、これを特ダネの記事にしようとたくらむ。つまり「残酷な見せ物」である。しかし、二人のあいだには、恋愛感情が芽ばえてしまう。・・・・・・
 中国映画『青春祭』(1985)の題名も、日本人の誤解を招きやすい。これは、元気いっぱいの若者がお祭り騒ぎをする映画ではない。中国語の「祭」は「死者の魂を弔(ルビ とむら)う祭祀(ルビ さいし)」という、暗い意味である。『青春祭』は、文化大革命で辺境の地に下放された青年の運命を描く。ちなみに、この映画の英文題名は「Sacrifice of Youth」(青春の犠牲)である。
 パソコンが普及した今日では、手軽にインターネット上の「自動翻訳サイト」を利用できる。外国語の文や語句を入力すると、自動的に翻訳してくれる。便利だが、誤訳も多い。
 試しに、某社の自動翻訳サイトを使って、以下の四つの短文を、和訳してみよう。
 “(1)我的名字叫花子。”“(2)茶倒好了。”“(3)我爱吃灌肠。”“(4)她要坐‘珍宝喷射机’。”
 その結果は、「(1)私の名前乞食」「(2)茶は寧ろよかった。」「(3)私は浣腸が好物です」「(4)彼女は“宝噴射器”に乗って求める。」と、意味不明の日本語に変換された。
 機械は、文脈を読むのが苦手だ。「叫花子」は、前後の文脈によって、「乞食(ルビ こじき)」にも「花子(ルビ はなこ)といいます」にもなる。「倒好」は「むしろ良かった」と「うまく(お茶を)入れる」、「灌腸」は「中華風ソーセージ」と「浣腸(=灌腸)」の二つの意味をもつ。
 また機械は、知らない単語の意味を類推するのも、不得手(ルビ ふえて)である。人間なら、たとえ“珍宝喷射机(珍宝噴射機)”の意味を知らなくても、発音と字面から想像力をはたらかせて、正しい意味を想像できるだろう。
 もちろんCJの読者であるあなたは、上記の中国語の短文を、正しく「(1)私の名前は花子といいます」「(2)お茶が入りました」「(3)私の好物は、中華風ソーセージです」「(4)彼女は『ジャンボ・ジェット機』に乗る予定です」と訳せたことでしょう。・・・・・・それとも、まさか・・・・・・?



第五回 呼称の変化にご用心

 日本語の呼称は、豊富である。
 筆者が子供のころ見ていた「ルパン三世」というアニメでも、主人公のルパンは「俺」、峰不二子は「あたし」、石川五衛門は「拙者」、銭形警部は「本官」と、それぞれ違う一人称を使っていた。
 中国語も、いまは「我」だけだが、むかしは身分に応じた呼称がたくさんあった。時代劇などに出てくる一人称を例にとると、皇帝は「朕」、諸侯は「寡人」「孤」(日本語の「余」にあたる)、貴婦人は「賤妾」(わらわ)、未亡人は「哀家」、暴れ者は「俺」(おれ)、武侠は「某」(それがし)、役人は「下官」(本官)など、百以上ある。
 1949年、中国が社会主義国になると、中国語の一人称は「我」だけになった。一人称に限らず、封建的な呼称や敬称はすべて禁止され、敬語も大幅に整理された。
 とはいえ、敬語や敬称が、中国語から完全に消えたわけではない。むしろ、旧社会より厳密化した一面さえある。
 京劇俳優の宋宝羅の回顧録に、こんな逸話が載っている。
 毛沢東は、京劇が大好きだった。彼は杭州に来るたびに、宋宝羅を招いて、自分の前で京劇の歌を唄わせて楽しんだ。
 1966年、文化大革命が始まると、宋宝羅は「蒋介石のまえで京劇を上演したことがある」という理由で身柄を拘束され、凄惨な迫害を受けた。70年の冬、杭州を訪れた毛沢東は、宋宝羅の姿が見えぬことに気づき、関係者を一喝して、宋宝羅を解放させた。
 宋宝羅によると、解放された前後、周囲の彼に対する呼称は、わずか三ヶ月のあいだに、次のように激変したという。
 迫害を受けていた当初は、単に「おい」で、名前すら呼ばれなかった。その後は「宋宝羅」と呼び捨てにされた。
 毛沢東の一声で解放されると、さっそく親しみをこめて「宝羅」と下の名前だけ呼ぶ者があらわれ、次いで周囲から「宋宝羅同志」と呼ばれるようになった。その後、周囲の呼びかたは急速に親密さを増して「宝羅同志」「老宋」「宋先生」となり、さらに敬意をこめた「宋老」「宋老師」に変わった。
 宋宝羅は「呼称の変化に、世間というものの移ろいやすさを、深く感じた」と慨嘆している(『芸海沈浮』浙江文芸出版社)。
 筆者も、似たような経験がある。ただし、呼称の変化の方向は逆であった。
 最初「加藤先生」と敬意をこめて筆者を呼んでいた中国人が、いつのまにか「小徹」「徹徹」、次いで「徹」と下の名前だけを呼ぶようになり、このごろは時おり「臭小徹」とさえ呼ぶようになった。
 筆者が気づいたときは、もう手遅れであった。今後、その中国人から再び「加藤先生」と敬称で呼んでもらえる日は、もう来ないだろう。
 もっとも、筆者のほうも、その中国人の下の名前だけを呼び捨てにするようになって久しい。なぜなら現代中国語では、夫婦はそう呼び合うのが普通だからだ。



第六回 性質と形態

 日本人は「性質」を重んじるが、中国人は「形態」を重んじる。
 日本人から見ると、中国語の「量詞」(日本語の助数詞にあたるもの)は、変である。
 日本語では「一匹の犬、一着のスカート、一本の道」と、それぞれ違う助数詞を使う。動物と衣服と土地は、それぞれ「性質」が違う。だから日本人は、助数詞も使い分ける。
 中国人は違う。「一条狗, 一条裙子, 一条路」 と、同じ量詞を使う。犬とスカートと道は、性質は違うものの、「細長い」という「形態」は共通しているから、みな「条」という量詞でくくるのだ。
 日本語の「いる」と「ある」の区別も、性質による言い分けである。
 日本人は、「心をもつ生き物」については「いる」と言う。「人がいる」「犬がいる」など。が、植物については「木がある」と言う。「家族がいる」と「家庭がある」の区別も、同様である。幼いときから「いる」と「ある」の使い分けに習熟してきた日本人は、無意識のうちに、この世のモノを、「有心」か「無心」か、その性質によって分類している。
 いっぽう、中国語の「有」と「在」の区別は、「存在の形態」の違いによる言い分けである。
 「有」は「出現的な存在」を、「在」は「既知的な存在」を意味する。
 例えば「那儿有条狗。」の意味は「あそこに、今マデ気ガツカナカッタケド、犬がいる」。「狗在那儿。」の意味は「サキホドカラ話題ニナッテイルアノ犬は、あそこに、いる」。ここでも中国人は、イヌ自体の「性質」は無視して、その存在の「形態」にのみ着眼しているのである。
 中国人が漢字を使う理由も、ここにある。世界史上、最古の文字は「象形文字」や「表意文字」だった。これらの原始的な文字は、具体的な「形態」を図象化したものだった。その後、表意文字が進化して「表音文字」が生まれた。西洋のアルファベットも、日本のカナも、そうである。ただ中国人だけは、表音文字を発明することなく、21世紀の今日も、表意文字である「漢字」だけを使い続けている。これも「形態」を偏重する中国人の民族性の現れである。
 筆者の妻は、「形態」を重んずる中国人である。筆者は、「性質」を重んずる日本人である。そのため、しばしば矛盾が発生する。外食のときも、筆者は「安くておいしい」という性質を重んじて、ファーストフードの店を選ぶ。妻は、値段が高くても高級感があるレストランに入りたがる。これも、日中両民族の違いと言えよう。もっとも妻の見解は「単にあなたがケチなだけでしょ」というものであるが。──



第七回 縁起をかつぐ

 日本人が正月に食べる「おせち料理」は、縁起の良い食材で作られる。「かち栗」は勝ち、「黒豆」は「まめ(健康)」、「昆布」は「よろコブ」、「鯛」は「めでたい」、「橙」は代々家が栄える、というふうに、それぞれの食材の名称は、縁起のよい言葉と結びつけられる。
 中国人も、けっこう縁起をかつぐ。例えば結婚式の食事で、新郎新婦は、ナツメとクリを食べる。「棗栗子」は「早立子(早く子が生まれる)」と同音だからだ。ただし「吃黒棗(黒いナツメを食べる)」は「銃殺される」の隠語なので、黒いナツメを食べるのは不吉である。正月の食事では、ハトの卵が入ったスープや、リンゴなどを食べる。ハトは平和の象徴。リンゴの発音は「平安」の「平」と同じである。反対に、お祝いの席では、梨は食べない。「離」と同音で、不吉だからだ。また、人に「置き時計」をプレゼントするのも、縁起が悪いとされる。「送鐘(時計をプレゼントする)」は「送終(臨終を見送る)」と同音だからだ。
 中国の町の食堂に行くと、よく壁に、不思議な絵がかかっている。例えば、太った男の赤ちゃんが、大きな魚を抱きしめ、その周囲にピンクのコウモリが飛び回っている、というような絵である。「魚」は「余」と、「蝙蝠(コウモリ)」は「変福(福に変わる)」ないし「遍福(福あまねし)」と同音で、縁起が良いとされる。なお、日本ではめでたいとされる「亀」は、中国では「バカ」の意味になるので、要注意である。
 数字では、「八」は広東語で「発(発展する)」と近音なので縁起が良いが、「四」は「死」と同音なので不吉とされる。
 文革中の1975年、北京の郊外にある「180野戦医院」は、中央軍事委員会の命令によって「514陸軍医院」と改名された。偶然だが、「514(ウーヤオスー)」は「我要死(ウォーヤオスー。私は死にそうだ)」と近音である。中国では、一般市民も軍の病院を利用する。筆者の妻(中国人)の祖母も、十一年前、この病院に「縁起が悪い」と嫌がりながら入院した。番号のせいではなかろうが、結局、彼女はこの病院で亡くなった。2000年、人民解放軍の統一番号が改変され、514病院も「解放軍第306医院」と改名された。すると、来院する患者が目に見えて増えたという。
 日本にも「藪歯科医院」とか「板井歯科医院」という病院が実在する(ネットで検索できる)。余計なお世話だが、患者の入りに悪影響がないか、ちょっと心配である。
 注意すべきは、同一の文字でも、用法によって吉と凶の両方の意味をもつことだ。例えば「寿」は「長生き」という良い字だが、「寿衣」と言うと「死人に着せる経帷子(きょうかたびら)」、「寿頭」と言うと「おめでたいバカな頭」の意味になる。
 めでたいとか、不吉とか、あまり気にしないほうがよいのかもしれない。



第八回 「食べる」の使いかた

 外国人にとって、日常よく使うやさしい単語ほど、難しい。基本的な語ほど、かえって意味が広く、使われかたも多様だからだ。例えば「吃(食べる)」という語もそうである。
 以下の中国語の語句を見ていただきたい。それぞれの前半の句は「食べる」本来の意味のままだが、後半の句の「食べる」の意味は変則的である。
(1)「吃饺子(ギョウザを食べる)」←→「吃馆子
(2)「在家里吃饭(家でご飯を食べる)」←→「吃家里
(3)「吃西餐(西洋料理を食べる)」←→「吃洋饭
(4)「吃红枣儿(赤いナツメを食べる)」←→「吃黑枣儿
(5)「吃糖(アメを食べる)」←→「吃醋
(6)「吃你的面包(あなたのパンを食べる)」←→「吃你的车
 中国人にとって、後半の句の意味は、誤解の余地がない。しかし、外国人にとっては、とても難しい。
 (1)「吃馆子」は「料理屋(馆子)で食べる」の意。「吃食堂(食堂で食べる)」と同じく「外食する」の意である。
 (2)「吃家里」は「経済的に自立できず、家族(しばしば親)に養ってもらう」の意。「吃家里」は、「吃食堂(外食する)」と語形はそっくりなのに、意味は対(ルビ つい)にならない。ちなみに「吃老爸(父親のスネをかじる)」も、「父親の肉を食べる」という意味にはならない。
 (3)「吃西餐」も「吃洋饭」も、「洋食を食べる」の意だが、後者は「外国関連や外資系など、外国人相手の仕事でお金をかせぐ」という比喩的な意味でも使われる。「吃洋教(西洋の宗教を食べる=生活のためキリスト教の信者になる)」「吃社会主义(社会主義の制度を利用して生活する)」「吃劳保(労働保険のお金で食ってゆく)」などの「吃」も、生活のため金をかせぐ手段を表している。
 (4)「吃黑枣儿」は「銃殺刑に処せられる」の意の俗語(銃弾の形が「黒いナツメ」そっくりであることから。中華人民共和国の死刑は、以前は銃殺刑が一般的であったが、ここ数年は、致死薬注射に切り換わりつつある)。
 (5)「吃醋(酢を飲む)」は「嫉妬する」の意。これは唐の太宗皇帝の故事にちなむ成語。
 (6)「吃你的车(jū)」は、中国将棋(ルビ しょうぎ)の用語で「きみの『車』の駒を取る」の意 (「」の発音はchēだが、将棋の駒のときはと読む)。
 中国の親は、よく子供にむかって「你吃我喝我, 到头来这样对待我, 真没良心!(おまえは私を食べ、私を飲んでる(!?)くせに、こんな態度をとるとは、良心のかけらもない)」などと小言を言う。西洋人は「私を食べ、私を飲む」という言いまわしを聞くと、『聖書』の「最後の晩餐」のイエスの言葉を連想する。その夜、イエスは、パンとワインを弟子たちに分かち与え「これは私の体、私の血だ」と語った。しかし、実のところ、中国語の「私を食べ、私を飲む」という表現は、「私に養ってもらってるくせに」くらいの意味にすぎない。
 「吃」の用法の変幻自在ぶりは、まったくもって「吃驚(ルビ びっくり)」である。



第九回 例外的な単語

 日本語の漢字の発音は、中国語と似ている。
 今から千数百年前、日本人の祖先は、中国から漢字を「輸入」した。漢字の読音も、中国語の発音をそのまま日本に輸入したが、かなり日本語風になまった。
 中国語の「-n」と「-ng」の発音の区別は、日本人には難しい。「山(shān)」と「商(shāng)」、「乾(gān)」と「剛(gāng)」、「心(xīn)」と「星(xīng)」は、発音を間違えやすい。こういうとき、日本語の漢字の発音を思い出せば、迷いは氷解する。山はサン、乾はカン、心はシン。日本語で「ン」で終われば、中国語でも「n」で終わる。商はショウ、剛はゴウ、星はセイ。中国語で「ng」で終わる漢字は、日本語では「ン」と読まないのだ。
 日本語と中国語のあいだに残るこのような対応関係を理解しておくと、中国語を勉強するうえで、大きな助けとなる。
 もちろん、例外も多い。
 例えば、「癌」という漢字は、日本語では「ガン」と読む。中国語の発音も「n」で終わるはずなのだが、中国語では「ái」と読む。実は、昔は中国語でも「癌」を「yán」と読んでいた。しかし、これでは「胃炎」と「胃がん」が全く同じ「wèiyán」という発音になってしまい、不便なので、「癌」を「ái」と読むようにしたのである。
 「鳥」の日本漢字音は「チョウ」である。中国語の発音では「diǎo」に対応するはずだが、中国語では「鳥」を「niǎo」と読む。実は、昔の中国語では「diǎo」と発音していたのだが、これは男性器を意味する「屌」という語と同音であるため、これを避けるため、「niǎo」と読み替えられるようになったのだ。
 同音を避けるため、単語そのものが置き換えられた例もある。
 日本語では、ハシを「箸」と書く。昔は中国語でも「箸(zhù)」という漢字を使っていた。が、この「箸」という字は、「住(zhù)」(ストップする)と同音である。そのため、昔の中国の水運労働者たちは、「箸」という発音を嫌って、「快」(速い)と言い換えた。それが一般社会にも広まって、「筷子」という語が使われるようになった。
 中国語の「原来(yuánlái)」も、昔は日本語と同じく「元来」と書いていた。13世紀、モンゴル人は中国全土を征服し、「元(Yuán)」王朝を建て、漢民族を百年の長きにわたって支配した。14世紀、漢民族はモンゴル人を北に追いやり、主権を回復した。モンゴル人の捲土重来(ルビ けんどちょうらい)を恐れた中国人は、「元来」を「原来」と書き換えるようになり、それがそのまま今日まで続いているのである。
 中国の歴史は古い。言葉一つ一つにも、それぞれ歴史がある。



第十回 副詞の訳しにくさ

 中国語は短いのに、日本語に訳すと、数倍の長さになることがある。例えば「我饿了」「她渴了」「你得去」を訳すと、それぞれ「私はおなかがすきました」「彼女はのどがかわきました」「あなたは行かなければなりません」と長くなる。日本語の人称代名詞や動詞は、中国語より長い。
 反対に、副詞を使う表現は、日本語のほうがずっと簡潔にすむ場合が多い。例えば、以下の日本語の会話もそうである。
 男「ぼくのこと、好き?」
 女「全然」
 日本語では「全然」の一語で、スッパリ相手との縁を切れる。中国語では、こういう場合、以下のように言う。
 男人∶“你爱我吗?”
 女人∶ “不爱!”
(きらい)
 「『きらい、きらい』も『好き』のうち」などとバカな誤解をしている男も、世の中には多い(その誤解を利用する女性も多い)。だから、本当に相手を拒絶したい場合は、相手に「一パーセントの望みもないのよ」と、全否定の語気を示す必要がある。日本語なら「全然」の一語で済むが、中国語では「一点儿都不爱!」と長ったらしく言わねばならない。「一点儿都」だけでは、まともな中国語にならない。
 日本語には他にも、「まだ」「ぜひ」「とっても」「もっと」「ちょっと」など、「一語文」として使える副詞が、豊富にある。それらを中国語に訳すと、たいてい長くなる。
 なかでも副詞「ちょっと」は、中国人の日本語学習者にとって、最も難しい日本語の一つである。「(1)あのう、ちょっと」「(2)それは、ちょっと」「(3)ちょっとだけよ」などの日本語を、それぞれ「(1)喂, 一点儿」「(2)那,一点儿」「(3)只有一点儿」と直訳しても、中国語にはならない。
 中国語にするためには、単語を追加して長く訳さねばならない。「(1)あのう、ちょっと」は「求您一点事(ちょっとおねがいしたいことがあります)」、「(2)それは、ちょっと」は「那可有点儿不方便(それはちょっと差しさわりがあります)」となる。
 「(3)ちょっとだけよ」は、具体的な状況を把握できないと、中国語に翻訳不可能である。試みに、下記の日本語を中国語に訳してほしい。
 妻「ちょっとだけよ」
 夫「もっと」
 もちろんCJの読者であるあなたは、具体的な状況を正しく推測して、
妻子∶“只让你吃一点儿!”(食べるのはちょっとだけにして)
丈夫∶“不够啊!”(足りないよ)
と、正しく訳すことができたであろう。これは、妻と、医者からダイエットを厳命された夫の会話である。・・・・・・それとも、まさか?



第十一回 円と元

 人民元の単位は「元・角・分」である。口頭語では、習慣的に「塊・毛・分」と言う。
 中国の紙幣を見ると、「元」ではなく、「」(「円」の簡字体)と印刷されている。日本の通貨も「円」である。韓国の貨幣単位「ウォン」も、漢字「円」の韓国語での発音である。東洋のお金は、みな「円」なのである。
 なぜ、中国ではお金に「あだな」があるのか? なぜ東洋のお金はどれも「円」なのか?
 話は、千四百年前にさかのぼる。
 西暦621年、中国の唐王朝は「開元通宝」という円形の銅貨を作った。このコインの中心には四角い穴があり、穴のまわりに四つの漢字が鋳込まれていた。上、下、右、左の順に「直読」すると、「開元通宝」となる。上、右、下、左の順に時計回りで「旋読」すると、「開通元宝」となる。後世、「元宝」は銅貨の代名詞になった。これが「元」の語源である。
 今からおよそ三百年前の清の時代は、昔ながらの「元宝」とともに、小さな銀のかたまりも貨幣として使われた。「銀錠」とか「馬蹄銀(ルビ ばていぎん)」などと呼ばれたこの銀塊の「塊」が、お金の「塊」の語源である。
 中国語では、すみっこのことを「角」と言う。お金の「一角」は、銀のかたまりの一隅ぶんの分量にあたる価値を言う。また、価値が目減りすることを「耗」と言う。俗語では、「耗」という漢字の右半分を取って「毛」と言う。「美元毛了(アメリカのドルが下がった)」の「毛」も、「毛髪」の意味ではない。「零銭(ばらぜに)」は価値が安いので、「角」とか「毛」と呼ばれた。
 「分」は、お金に限らず、最小の単位を示す言葉として、広く使われる。角度の「分」も、テストの点数の「分」も、利率の「分」も、お金の「分」など、みな同じである。
 近世に入り、中国語では「元」と「円」の発音は、同じ「ユアン」となった。コインは円形なので、「元」を「円」とも書くようになった。
 1871年(明治4年)、日本政府は、新しいお金の単位を「円」に決定した。これは、中国の貨幣単位をまねたものである。「円」の日本語の発音は「EN」なのに、円の英語表記は「YEN」である。これも、中国の「円」の影響である。
 中国や日本の影響を受けて、朝鮮半島の通貨の単位も「円」となった。
 日本の五円硬貨と五十円硬貨の中心には、円形の穴があいている。これは、千四百年前の「開元通宝」のなごりである。円は「縁」と同音である。五円玉の円(ルビ まる)い穴をながめ、東洋諸国の「縁」の歴史に思いをはせてみるのも、面白いかもしれない。



第十二回 自由とセクハラ

 近代の日本人が、西洋の文明や文化を取り入れるために新たに作った訳語を「新漢語」と呼ぶ。「権利」「義務」「民主主義」「科学」「文化」「文明」「進化」「電話」など、どれも近代的な文明生活を営むうえで必要不可欠な単語である。
 幸い、これらの新漢語の多くは、日本、中国、韓国で共通である。もし各国がそれぞれバラバラの新漢語を使っていたら、中国語は、日本人にとって、もっと難しい言葉になっていたろう。
 東アジアで広く使われている新漢語の多くは、十九世紀の日本人が考案したものである。
 例えば、freedomとかlibertyという概念は、昔の日本にも中国にも無かった。この西洋伝来の新しい発想を、どう訳すか? 江戸幕府の通訳だった森山多吉郎は「自由」と訳した。同時代の中国人は「自主」「自立」「自専」「自得」「自若」「自主宰」など、さまざまに訳した。その後、中国人も、日本から「自由」という新漢語を輸入して、そのまま使うようになった。
 economicsは、どう訳すか? 日本人は、economicsの目的は「経世済民」であるべきだと考え、「経済学」と訳したが、中国人は「富国策」「計学」「資生学」などと訳した。結局、中国人が苦心して考えた訳語はすべて忘れ去られ、中国でも日本から輸入した「経済学」という語を使うようになった。
 昔の日本人は、漢文に対する造詣が深く、中国の古典の言葉を参考にして新漢語を作った。だから、これらの新漢語は、中国人から見ても、ピタリとはまる名訳であった。
 中国人が大量の「日本漢語」を輸入した結果、現代中国語のおよそ半分は、日本漢語になった。例えば「中華人民共和国」という国名も、純粋の漢語は「中華」の二文字だけで、「人民」も「共和国」も日本人が考案した新漢語である。
 残念ながら、現代の東アジアでは、欧米の新しい概念を、それぞれバラバラに訳すようになっている。
 例えばsexual harassmentの訳語は、日本語では「セクシュアルハラスメント」略して「セクハラ」だが、中国語では「性搔扰」(日本の漢字に直すと「性掻擾」)、韓国語では「性戯弄」(ソンヒロン。성희롱)である。日本人だけが音訳なのは、語感が生々しくなるのを避けるための逃げであろうか?
 宗教のcultの訳も、日本語では「カルト」だが、中国語ではずばり「邪教」である。日中両国の社会体制の違いを反映している。この中国語の訳語は、やや一面的すぎるかもしれない。
 ともあれ、中国語を学ぶと、いろいろなヒントが得られる。
 一年間にわたる拙い連載をお読みくださり、ありがとうございました。またどこかでお会いしましょう。



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