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近代文学に見える明清楽
最初の公開 2010-9-2
「青空文庫」をキーワードで検索し、以下にピックアップしてみました。
- 1865坂本龍馬・慶応元年九月九日 坂本乙女、おやべあて手紙より
右女ハまことにおもしろき女ニて月琴おひき申候。今ハさまでふじゆう((不自由))もせずくらし候。此女私し故ありて十三のいもふと、五歳になる男子引とりて人にあづけおきすくい候。又私のあよ((危))ふき時よくすくい候事どもあり、万一命あれバどふかシテつかハし候と存候。此女乙大姉をして、しんのあねのよふニあいたがり候。乙大姉の名諸国ニあらハれおり候。龍馬よりつよいというひよふばん((評判))なり。
- 1866坂本龍馬・慶応二年十二月四日 坂本乙女あて手紙より
夫より六月四日より桜島と言、蒸気船ニて長州へ使を頼まれ、出船ス。此時妻ハ長崎へ月琴の稽古ニ行たいとて同船したり。夫より長崎のしるべの所に頼ミて、私ハ長州ニ行けバはからず別紙の通り軍をたのまれ、一戦争するに、うんよく打勝、身もつゝがなかりし。
- 1900国木田独歩『遺言(いごん)』より
戦時は艦内の生活万事が平常(ふだん)よりか寛(ゆるや)かにしてあるが、この日はことに大目に見てあったからホールの騒ぎは一通りでない。例の椀大(わんだい)のブリキ製の杯(さかずき)、というよりか常は汁椀(しるわん)に使用されているやつで、グイグイあおりながら、ある者は月琴(げっきん)を取り出して俗歌の曲を唄(うた)いかつ弾(ひ)き、ある者は四竹(よつだけ)でアメリカマーチの調子に浮かれ、ある者は悲壮な声を張り上げてロングサインを歌っている、中にはろれつの回らぬ舌で管(くだ)を巻いている者もある、それぞれ五人十人とそこここに割拠して勝手に大気焔(だいきえん)を吐いていた。
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1901岡本綺堂『銀座の朝』より
鉄道馬車は今より轟(とどろ)き初(そ)めて、朝詣(あさまいり)の美人を乗せたる人力車が斜めに線路を横ぎるも危うく、活(い)きたる小鰺(こあじ)うる魚商(さかなや)が盤台(はんだい)おもげに威勢よく走り来れば、月琴(げっきん)かかえたる法界節の二人連(づれ)がきょうの収入(みいり)を占いつつ急ぎ来て、北へ往(ゆ)くも南へ向うも、朝の人は都(すべ)て希望と活気を帯びて動ける中に、小さき弁当箱携えて小走りに行く十七、八の娘、その風俗と色の蒼(あお)ざめたるとを見れば某(ある)活版所の女工なるべし、花は盛の今の年頃を日々の塵埃(ほこり)と煤(すす)にうずめて、あわれ彼女(かれ)はいかなる希望を持てる、老(おい)たる親を養わんとにや。わが嫁入の衣裳(いしょう)の料(しろ)を造らんとにや。
- 1901大町桂月『小金井の櫻』より
まことに運命をかこつことの益なきを知れど、酒さめて、涙のおのづから落つるを如何せむ。落花聲なく、流水語らず。花を隔てて聞ゆる法界節の聲も、哀れを催すばかり也。
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1904福田英子『妾の半生涯』「母となる」(五 一大事)より
翌日岡山に到着して、なつかしき母上を見舞ひしに、危篤(きとく)なりし病気の、やう/\怠(おこた)りたりと聞くぞ嬉しき。久(ひさ)し振(ぶ)りの妾(せふ)が帰郷を聞(きゝ)て、親戚ども打寄(うちよ)りしが、母上よりは却(かへつ)て妾(せふ)の顔色の常ならぬに驚きて、何様(なにさま)尋常(じんじやう)にてはあらぬらし、医師を迎へよと口々に勧(すゝ)め呉れぬ。さては一大事、医師の診察によりて、分娩(ぶんべん)の事発覚(はつかく)せば、妾(せふ)は兎も角、折角怠(おこた)りたる母上の病気の、又はそれが為めに募(つの)り行きて、悔(く)ゆとも及ばざる事ともならん。死するも診察は受けじとて、堅く心に決しければ、人々には少しも気分に障(さは)りなき旨(むね)を答へ、胸の苦痛を忍び/\て、只管(ひたすら)母上の全快を祈る程に、追々(おひ/\)薄紙(はくし)を剥(は)ぐが如くに癒(い)え行きて、はては、床(とこ)の上に起き上られ、妾(せふ)の月琴(げつきん)と兄上の八雲琴(やくもごと)に和して、健やかに今様(いまやう)を歌ひ出で給ふ。
- 1905福田英子『妾の半生涯』二 自由民権より
十七歳の時は妾(しょう)に取りて一生忘れがたき年なり。わが郷里には自由民権の論客(ろんかく)多く集まり来て、日頃兄弟の如く親しみ合える、葉石久米雄(はいしくめお)氏(変名)またその説の主張者なりき。氏は国民の団結を造りて、これが総代となり、時の政府に国会開設の請願をなし、諸県に先だちて民衆の迷夢を破らんとはなしぬ。当時母上の戯(たわむ)れに物せし大津絵(おおつえ)ぶしあり。
すめらみの、おためとて、備前(びぜん)岡山を始めとし、数多(あまた)の国のますらおが、赤い心を墨で書き、国の重荷を背負いつつ、命は軽き旅衣(たびごろも)、親や妻子(つまこ)を振り捨てて。(詩入(しいり))「国を去って京に登る愛国の士、心を痛ましむ国会開設の期」雲や霞(かすみ)もほどなく消えて、民権自由に、春の時節がおっつけ来るわいな。」
尋常の大津絵ぶしと異なり、人々民権論に狂(きょう)せる時なりければ、妾(しょう)の月琴(げっきん)に和してこれを唄(うた)うを喜び、その演奏を望まるる事しばしばなりき。これより先、十五歳の時より、妾は女の心得なかるべからずとて、茶の湯、生花(いけばな)、裁縫、諸礼、一式を教えられ、なお男子の如く挙動(ふるま)いし妾を女子らしからしむるには、音楽もて心を和(やわ)らぐるに若(し)かずとて、八雲琴(やくもごと)、月琴などさえ日課の中に据えられぬ。されば妾は毎日の修業それよりそれと夜(よ)に入るまでほとんど寸暇とてもあらざるなりき。
- 1905夏目漱石『吾輩は猫である』五より
鈴木君と迷亭君の帰ったあとは木枯(こがら)しのはたと吹き息(や)んで、しんしんと降る雪の夜のごとく静かになった。主人は例のごとく書斎へ引き籠(こも)る。小供は六畳の間(ま)へ枕をならべて寝る。一間半の襖(ふすま)を隔てて南向の室(へや)には細君が数え年三つになる、めん子さんと添乳(そえぢ)して横になる。花曇りに暮れを急いだ日は疾(と)く落ちて、表を通る駒下駄の音さえ手に取るように茶の間へ響く。隣町(となりちょう)の下宿で明笛(みんてき)を吹くのが絶えたり続いたりして眠い耳底(じてい)に折々鈍い刺激を与える。外面(そと)は大方朧(おぼろ)であろう。晩餐に半(はん)ぺんの煮汁(だし)で鮑貝(あわびがい)をからにした腹ではどうしても休養が必要である。
- 1908三島霜川『昔の女』より
家の裡には矢張鳥籠(とりかご)が幾ツもかけてあツて、籠を飛廻ツてゐる目白の羽音が、パサ/\と靜に聞えた。前からある時計もチクチク鈍い音で時を刻むで、以前は無かツた月琴の三挺も壁にかゝツてゐた。
(中略)
が夜となると、店の景氣がカラリと變る。綾さんも兼さんも、綺麗にお化粧をして店に出てゐる頃には、一人または二人づゞ若い書生さん等(たち)が集ツて來て、多い時には八九人も頭を揃へて何やらガヤ/″\騷いでゐた。何れも定連だ。そして月琴を彈く者もあれば、明笛(みんてき)を吹く者もあり、姉妹がまた其がいけたので、喧(やかま)しい合奏は十一時十二時まで續いた。
- 1909北原白秋『邪宗門』より
傷(きずつ)きめぐる観覧車(くわんらんしや)、
はたや、太皷(たいこ)の悶絶(もんぜつ)に列(つら)なり走(はし)る槍尖(やりさき)よ
、
の硝子(がらす)に火は叫(さけ)び、
月琴(げつきん)の雨ふりそそぐ……
弾(ひ)け弾(ひ)け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
赤き神経(しんけい)……盲(めし)ひし血……
聾(ろう)せる脳の鑢(やすり)の音(ね)……
弾け弾け……鳴らせ……また舞踏(をど)れ……
- 1910長塚節『太十と其犬』四より
彼がお石を知ってから十九年目、太十が六十の秋である。彼はお石を待ち焦れて居た。其秋のマチにも瞽女は隊を組んで幾らも来た。其頃になってからは瞽女の風俗も余程変って来て居た。幾らか綺麗な若いものは三味線よりも月琴を持って流行唄をうたって歩いた。そうして目明が多くなった。
- 1910徳田秋声『足迹』より
そのころ引っ越した築地の家の様子は、お庄の目にも綺麗であった。三味線や月琴が茶の間の火鉢のところの壁にかかっている、そこから見える座敷の方には、暮に取りかえたばかりの畳が青々していた。その飾りつけも町屋風で、新しい箪笥の上に、箱に入った人形や羽子板や鏡台が飾ってあり、その前に裁物板や、敷紙などが置いてあった。
- ?石川啄木『葬列』より
此年の春早く、連合(つれあひ)に死別れたとかで独身者(ひとりもの)の法界屋が、其旅宿に泊つた事がある。お夏の挙動は其夜甚だ怪しかつた。翌朝法界屋が立つて行つた後、お夏は門口に出て、其男の行つた秋田の方を眺め/\、幾等(いくら)叱つても嚇(おど)しても二時間許り家に入らなかつた。翌朝主人の起きた時、お夏の姿は何処を探しても見えなかつた。
- 1911北原白秋『思ひ出 抒情小曲集』「水郷柳河」[沖ノ端]より
かの巡礼の行楽、虎列拉避けの花火、さては古めかしい水祭りの行事などおほかたこの街特殊のものであつて、張のつよい言葉つきも淫らに、ことにこの街のわかい六騎は温ければ漁(すなど)り、風の吹く日は遊び、雨には寝(い)ね、空腹(ひもじ)くなれば食ひ、酒をのみては月琴を弾き、夜はただ女を抱くといふ風である。かうして宗教を遊楽に結びつけ、遊楽のなかに微かに一味の哀感を繋いでゐる。
- 1912夏目漱石『彼岸過迄』二十一より
吾一は面白半分人の顔さえ見れば、西のもので南の方から養子に来たものの宅はどこだと聞いては、そのたびにみんなを笑わした。一番しまいに、編笠を被って白い手甲と脚袢を着けた月琴弾の若い女の休んでいる汚ない茶店の婆さんに同じ問をかけたら、婆さんは案外にもすぐそこだと容易く教えてくれたので、みんながまた手を拍って笑った。それは往来から山手の方へ三級ばかりに仕切られた石段を登り切った小高い所にある小さい藁葺の家であった。
-
1922夢野久作『白髪小僧』より
鼻はあっても見る限り、咲く花も無い広い野の、
埃に噎せるばかりでは、却て邪魔にしかならぬ、
糞の役にも立たないと、これも千切って打ち付けた。
するとガタンと音がして、糸を張らない月琴が、
この大男の足もとの、石の間に落っこちた。
※上記の他にも「月琴」頻出箇所多数──加藤
- 1924木村荘八『少年の食物』より
海や山は私は殆ど中学へ行く迄知りませんでした。芝公園へ行くと深山へ入ったようの気がしたものです。大てい家にばかりいて、絵は初めから好きでしたから殆ど小さい時分からよく描いていましたが、同時に鳴物が好きで、種々の楽器を好んで鳴らしました。手風琴、吹風琴、ハーモニカ、明笛など。或いは楽器で遊んだ時間が子供の中は一番多かったかもしれません。それに次いでは絵をかくことでした。
- 1925牧野信一『「悪」の同意語(「イーヴル」のシノニムス)』七より
「気狂ひどころの騒ぎぢやないや、芝居ぢやあるまいし………ねえ、おい!」と、父はお蝶に呼びかけた。お蝶は、落着いた笑顔を示した。――「お蝶とお光は、この先きは法界節にでもなるかな、ハツハツハ、法界節だつて屹度面白いぞウ!」
- 1925-1928中里介山『大菩薩峠』24「流転の巻」より
その方が、いきなり私を足蹴に致しまして、よく、ペラペラ喋(しゃべ)るこましゃくれだ、黙って往生しろ――とそのまま行っておしまいになればよかったのですが、その方が、ふと私があちらへおいた琵琶に目をつけたものと見えまして、こりゃあ何だ、月琴(げっきん)の出来損いのようなへんてこなものを持っている――これもついでに貰って行く、と琵琶をお取上げになったようでしたが、(中略)……察するところ、貴様はこの月琴の胴の膨(ふく)らんだところへ、路用を隠しておくのだな、木にしては重味がありすぎる……大方、この胴の中へ、小判でも蓄えておくのだろう――と言ってその琵琶をメリメリと踏み壊しておしまいになりました。
- 1926-27芥川龍之介『追憶』「つうや」より
僕がいちばん親しんだのは「てつ」ののちにいた「つる」である。僕の家(うち)はそのころから経済状態が悪くなったとみえ、女中もこの「つる」一人ぎりだった。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」はあたりまえの女よりもロマンティック趣味に富んでいたのであろう。僕の母の話によれば、法界節(ほうかいぶし)が二、三人編(あ)み笠(がさ)をかぶって通るのを見ても「敵討(かたきう)ちでしょうか?」と尋ねたそうである。
- 1927芥川龍之介『本所両国』「方丈記」より
父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目(ほそめ)にあけて往来(わうらい)を見てゐたもんだらう?」
母「法界節(ほふかいぶし)や何かの帰つて来るのをね。」
- 1927小林多喜二『防雪林』より
神社は學校のそばの、野ツ原で、一寸した雜木林で三方だけ圍まれてゐた。晩になれば、ゴム風船などを賣る商人が荷物にした商品を背負つてやつてくることになつてゐるし、法界節屋の連中も停車場のある町から來て、その舞臺で、安來節や手踊りなどをすることになつてゐた。
- 1931中里介山『大菩薩峠』「勿来の巻」三より
そうして、夢中に、ものの二町ほども走ったが、幸いに、何物も後を追い来(きた)る気色(けしき)がありませんから、そこで、安全圏内に入ったつもりで、歩調をゆるめてしまいました。ここへ来ると、行手に遠見の番所の火影(ほかげ)がボンヤリと見えている。万一の場合、大きな声を出しさえすれば、誰か番所から駈けつけてくれる。それでも間に合わない時は、殿様のお部屋に鉄砲がある――そんなような安心で、茂太郎はまた歌の人となりました。
チーカロンドン、ツアン
パッカロンドン、ツアン
と、口拍子を歩調に合わせて、
姐在房中(ツウザイワンチョン)
繍※繍花鞋※(シウリアンシウファヤイヤア)[#「口+下」、25-3][#「口+下」、25-3]
忽聴門外(フラテンメンワイ)
算命先生(サンミンスヘンスエン)
叫了一声(キャウリャウイシン)
叫了一声(キャウリャウイシン)
と勢いよく唱え出して、
トデヤウ、パンテン
スヘンスエン
ニイツインゾオヤア
ヌネン、バズウ
ゴテ、スヘンスエン
ニイ、ツエテンジヤ
ニイ、ツエテンジヤ
茂太郎としては出鱈目(でたらめ)ですけれども、これは立派に支那の端唄(はうた)になっていました。
- 1928-1930林芙美子『放浪記』(初出)より
夜炬燵にあたっていると、店の間を借りている月琴ひきの夫婦が漂々と淋しい唄をうたっては、ピンピン昔っぽい月琴をひゞかせていた。
外はシラシラと音をたてゝみぞれまじりの雪が降っている。
- 1929高村光雲『幕末維新懐古談』78谷中時代の弟子のことより
ちょうど、祥雲氏と同時代に私の宅にいた人で越前三国(みくに)の出身滝川という人を弟子にしました。これは毎度話しに出た彼の塩田真氏の世話で参った人であります。三年ばかり宅にいました。この人もまた実に不思議な人で、器用というのは全くこういう人の代名詞かと私はいつも思ったことであります。まず、たとえば、料理が出来る。経師屋(きょうじや)が出来る。指物(さしもの)が出来る。ちょっと下駄の鼻緒をすげても、まるで本職……すべてこんな調子ですることが素人ばなれがしているのです。しかも仕事が非常に早く屈托もなく、すらすらとやって退(の)ける。それから編み物が旨(うま)い。チクチク針を運ぶ手などは見ても面白いようでした。また月琴(げっきん)が旨い(その頃はまだ月琴などいうものが廃(すた)っていませんでした)。すべてこういった調子に相当折り紙つきの黒人(くろうと)でした。また何をさせても一通りに出来ました。
- 1935長谷川時雨『旧聞日本橋 勝川花菊の一生』より
私たちはその頃輸入されたばかりの毛糸で編んだ洋服を着せられ靴をはかせられた。二階に絨緞(じゅうたん)が敷かれ洋館になった。お母さんが珍しく外出すると思ったら月琴(げっきん)を習いにゆくのだった。譜本をだして父に説明していた、父は月琴をとって器用に弾いた。子供のおり富本(とみもと)を習った母よりも長唄(ながうた)をしこんでもらっている私たちの方がすぐに覚えて、九連環なぞという小曲は、譜で弾けた。チンチリチンテン、チリリンチンテンと響くこの真(ま)ん丸い楽器がひどく面白かったが、練習(おそわり)にゆくところが勝川のおばさんであろうとは随分長くしらなかった。
私の家の外面的新時代風習はすぐ幕になってしまって、前よりも一層反動化したが、世間では清楽(しんがく)の流行はたいした勢いだった、月明に月琴を鳴らして通る――後にはホウカイ屋というのも出来たが――真面目で、伊太利(イタリー)の月に流すヴィオリンか、あるいは当時ハイカラな夫人がマンドリンを抱えているような、異国情緒を味わおうとしたのだった。
(中略)
勝川のおばさんが日本橋区へ進出して来たのはそれから二、三年たってからだった。新道つづきの中(なか)一町をへだてた、私の通った小学校のあった町内の入口近かった。一間半ばかりの出窓をもった格子戸づくりの仕舞(しも)た家(や)で、流行(はやり)ものを教えるには都合のよい見附きだった。夏は窓に簾(すだれ)をかけ、洋燈(ランプ)をつけ、若い男女が集まって月琴や八雲琴をならっていた。窓には人だかりがしていた。近くなったので勝川おばさんは涼みながら来ては、蛇三味線(じゃみせん)を入れるの、明笛(みんてき)も入れるのと話していた。彼女には、漸(ようや)く昔の賑やかな生活の色彩に、調子はかわっていても、帰ってゆくのが嬉しかったのであろう。
だが、そのうちに日清国交破裂となった。清楽なんぞやる奴(やつ)は国賊だとなった。勝川の窓は宵から締めないと石が降り込んだ。で、いつの間にか窓が閉って家の中の人も逐天(ちくてん)してしまった。
それから幾年、また勝川おばさんの所在不明。
- 1936夢野久作『悪魔祈祷書』より
法界節(ほうかいぶし)の文句通りに仕方がないからネエエ――てんで、月琴(げっきん)を担(かつ)いで上海(シャンハイ)にでも渡って一旗上げようかテナ事で、御存じの美土代町の銀行の石段にアセチレンを付けて、道楽半分に買集めていた探偵小説の本だの教科書の貰い集めだのを並べたのが病み付きで、とうとう古本屋(ほんもの)になっちまいましてね。ヘヘヘ。
- 1938徳冨蘆花『小説 不如帰』四の四より
床には琴、月琴、ガラス箱入りの大人形などを置きたり。すみには美しき女机あり、こなたには姿見鏡(すがたみ)あり。いかなる高貴の姫君や住みたもうらんと見てあれば、八畳のまんなかに絹ぶとん敷かせて、玉蜀黍(とうもろこし)の毛を束(つか)ねて結ったようなる島田を大童(おおわらわ)に振り乱し、ごろりと横に臥(ふ)したる十七八の娘、色白の下豊(しもぶくれ)といえばかあいげなれど、その下豊(しもぶくれ)が少し過ぎて頬(ほお)のあたりの肉今や落ちんかと危ぶまるるに、ちょっぽりとあいた口は閉ずるも面倒といい貌(がお)に始終洞門(どうもん)を形づくり、うっすりとあるかなきかの眉(まゆ)の下にありあまる肉をかろうじて二三分(ぶ)上下(うえした)に押し分けつつ開きし目のうちいかにも春がすみのかけたるごとく、前の世からの長き眠りがとんと今もってさめぬようなり。
- ?萩原朔太郎『日清戦争異聞(原田重吉の夢)』上より
日清(にっしん)戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟(こうもう)の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲(ようちょう)すべしという歌が流行(はや)った。月琴(げっきん)の師匠の家へ石が投げられた、明笛(みんてき)を吹く青年等は非国民として擲(なぐ)られた。改良剣舞の娘たちは、赤き襷(たすき)に鉢巻(はちまき)をして、「品川乗出す吾妻艦(あずまかん)」と唄(うた)った。そして「恨み重なるチャンチャン坊主(ぼうず)」が、至る所の絵草紙(えぞうし)店に漫画化されて描かれていた。
- ?横光利一『睡蓮(すいれん)』より
高次郎氏とも私は顔を合すというような機会はなかった。月の良い夜など明笛(みんてき)の音が聞えて来ると、あれ加藤の小父さんだよと子供の云うのを聞き、私も一緒に明治時代の歌を一吹き吹きたくなったものである。
- 1939宮本百合子『獄中への手紙』一九三九年(昭和十四年)より
朝鮮の唄声、朝鮮の笛の音が、朝目をさましたときからきこえました。明笛は独特の哀調がありますね。唄は南ロシアの半東洋民族の節に似ていていろいろ興味があって、冨美子が、この人たちが、お米をとぐバケツで洗濯したり、一つの洗面器で洗ったり、煮たり、そこから食べたりするのをびっくりして観察して話していました。
- 1940宮本百合子『二人の弟たちへのたより』より
野原の様子も随分変りました。あの辺一帯は全く新興地帯で、トラックの往復もはげしくなったので、島田川の堤の上の道幅がカーブのところではすこしずつひろくなりました。島田市の先からもうチラホラ朝鮮の人のバラックが建っていて、夕方など通りがかると夕餉の煙と明笛の音がきこえたりします。
- 1950坂口安吾『明治開化 安吾捕物』「その三 魔教の怪」より
せつないときは かけこみ かけこみ パッとひらいて 天の花
この合唱には月琴、横笛、太鼓、三味線、拍子木、これにハープとヴァイオリンとクラヴサン(ピアノの前身のようなもの)が加わっている。これだけの楽器は儀式の表面へ現れて演奏されるが、この合奏の中絶した時にも常に妙なる好音が小川のせせらぎの如く野辺の虹の如く星ふる夜の物思いの如く甘美に哀切に流れていて、これは物蔭にあるオルゴールの発する音だという。
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