[自灯明・法灯明(阿含経)] Attadīpā & Dhammadīpā (Āgama) [概説] [画像・かな付き] [読みかた・ローマ字] [読み方・かな] [漢字だけの原文] [和音] [漢文訓読・読み下し] [中国語の発音 ピンイン] [英訳] [『ブッダ最後の旅』] |
秋深し二灯の車で行く夜道 ――加藤徹 |
どんなに良いことも終わりがあります。それが真実です。私がいなくなったら、あなたは二つだけを頼りなさい。あなたは自分を頼り、真実を頼り、自分と真実を頼り、あなたは自分と真実の二つだけを灯火としてください。 【和音】 AmどんなにFよいこともC終わりがGあります。Amそれが、しFんじつでAmす。AmわたしがFいなくなったらCあなたはGふたつだけをAm頼りなさい。AmあなFたはC自分をG頼り、C真実をG頼り、C自分とG真実をDm頼り、AmあなたはF自分とC真実のGふたつだけをCともしびGとしてAmくGださAmい。 上記の不完全な英訳(YouTubeの字幕用) Every good thing has an end. That is the truth. After I am gone, you should rely on only two things. You must rely on yourself. Rely on the truth. Rely only on two things: yourself and the truth. You should use only two things as a burning lamp: yourself and the truth. Every good thing has an end. That is the truth. |
お釈迦様は最後の旅で、おとものアナンに言いました。 「まえにも言ったとおり、どんなことにも終わりがある。出会ったからには別れがくる。それが法だ。だからアナンよ、悲しむな。私ももうすぐいなくなる。おまえは自分を島とし、自分をよりどころにしなさい。法を島とし、法をよりどころにしなさい。」「自分をともしびとし、法をともしびとしなさい。自分に帰依し、法に帰依しなさい。」 |
【備忘用】(繰り返し記号 改良版) 五線譜 自洲法洲(阿含経) pic.twitter.com/0oe3lhauQ4
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— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 7, 2022以下は「真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺」のサイト
自灯明 法灯明
さて、仏陀はその晩年、このような言葉を遺されています。 Ye hi keci, ānanda, etarahi vā mama vā accayena attadīpā viharissanti attasaraṇā anaññasaraṇā, dhammadīpā dhammasaraṇā anaññasaraṇā, tamatagge me te, ānanda, bhikkhū bhavissanti ye keci sikkhākāmā"ti 阿難。自熾燃。熾燃於法。勿他熾燃。當自歸依。歸依於法。勿他歸依。佛告阿難。吾滅度後。能有修行此法者。則為真我弟子第一學者。この一説は、上に並び引いた「遊行経」の一説が漢訳で対応する箇所となりますが、今の日本では「自灯明・法灯明」の経説として、比較的有名なものとなっています。 ところで、今挙げた漢訳経典では自己と法とを「熾燃(灯明)」とせよとしてあり、またここでは挙げませんでしたが他の漢訳経典では「洲(島)」とせよとの二種の訳があり、パーリ経典では洲としてあって異なっています。 これは、その原語となるパーリ語dīpa[ディーパ]という言葉に、「灯明」・「洲・島・大陸」・「助け(支え)」という三つの意味がある為で、訳者の訳語の選択が異なっていることに依るものです。 (「しま」などといっても、釈尊がご活躍されたのは海から程遠く雨季にはしばしば穏やかな洪水が生じるガンジス川中流域であり、故に海に浮かぶ島というより大河の中洲と捉えたほうが、故中村元博士も指摘していたように、その風土的背景を想えば適切であると考えられます。) 漢訳では灯明と洲の二様に訳されているのに対して、パーリ語仏典に基づく南方の分別説部(通称上座部)では、洲の意であると古来解されています。そのため、ここで付けている日本語訳でもそのように訳しています。 |
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— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) February 26, 2022
(『雑阿含経』巻廿四) 汝今阿難、如我先説、所可愛念、種種適意之事、皆是別離之法。 にょ/こん/あ/なん、にょ/が/せん/せつ、しょ/か/あい/ねん、しゅ/じゅ/ちゃく/い/し/じ、かい/ぜ/べつ/り/し/ほう。 是故汝今、莫大愁毒。阿難当知、如来不久、亦当過去。是故阿難、当作自洲而自依、当作法洲而法依。当作不異洲不異依。 ぜ/こ/にょ/こん、まく/だい/しゅう/どく。あ/なん/とう/ち、にょ/らい/ふ/く、やく/とう/か/こ。ぜ/こ/あ/なん、とう/さ/じ/しゅう/に/じ/え、とう/さ/ほう/しゅう/に/ほう/え。とう/さ/ふ/い/しゅう/ふ/い/え。 阿難よ、当に知るべし、如来も久しからずして亦た当に過ぎ去かん。是の故に阿難よ、当に自らを洲とし自らに依ることを作すべし、当に法を洲とし法に依ることを作すべし。当に異を洲とせず異には依らざることを作すべし。 (『仏説長阿含経』巻第二) 是故阿難、当自熾燃、熾燃於法、勿他熾燃。当自帰依、帰依於法、勿他帰依。 ぜ/こ/あ/なん、とう/じ/し/ねん、し/ねん/の/ほう、もっ/た/し/ねん。とう/じ/き/え、き/え/お/ほう、もっ/た/き/え。 是の故に阿難よ、当に自らを熾燃とし法を熾燃とすべし。他を熾燃とする勿れ。当に自からに帰依して法に帰依すべし。他に帰依すること勿れ。 |
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Lyrics by Buddha Melody and chords by KATÔ Tôru自分の備忘用 阿含経「自洲自依」(自灯明 法灯明)
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以下、Bhikkhu Anālayo: Mindfulness in Early Buddhism: Characteristics and Functions, 2020 より引用。引用開始。Now, Ānanda, earlier I purposely told you that whatever there is of various agreeable matters for which one has thoughts of affection, all of this is of a nature to become separated from one; it is as I said earlier. Therefore do not be so very sad, Ānanda. You should know that soon the Tathāgata will also be of the past. Therefore, Ānanda, you should make yourself an island by relying on yourself, you should make the Dharma your island by relying on the Dharma; you should make yourself no other island, no other reliance.cf.「自洲法洲」 < 漢訳仏典『雑阿含経』巻廿四:汝今阿難、如我先説、所可愛念、種種適意之事、皆是別離之法。 是故汝今莫大愁毒。阿難当知、如来不久、亦当過去。 是故阿難、当作自洲而自依、当作法洲而法依。当作不異洲不異依。 cf.René Descartes(1596-1650);“De omnibus dubitandum”,“Cogito ergo sum” 以下、https://www.dhammawheel.com/viewtopic.php?t=29561&start=165の“Re: Nirvana is a Transcendent Reality / Post by Coëmgenu ≫ Wed Aug 16, 2017 6:29 pm”(閲覧日2022年3月1日)より引用。引用開始。
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アーナンダよ。わたしはもう老い朽ち、齢をかさね老衰し、人生の旅路を通り過ぎ、老齢に達した。わが齢は八十となった。譬えば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いて行くように、恐らくわたしの身体も革紐の助けによってもっているのだ。 しかし、向上につとめた人が一切の相をこころにとどめることなく一部の感受を滅ばしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全(快適)なのである。 それ故に、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。 (中略*) アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。 アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、――誰でも学ぼうと望む人々は―― |