[法華経・如来神力品第二十一] The Lotus of the True Law, Chapter XX - CONCEPTION OF THE TRANSCENDENT POWER OF THE TATHÂGATAS. [概説] [画像・かな付き] [読みかた・ローマ字] [読み方・かな] [漢字だけの原文] [和音] [漢文訓読・読み下し] [中国語の発音 ピンイン] [英訳] |
【参考の和歌】 西行法師『聞書集』
[詞書] 法花経廿八品:神力品:如来一切秘要之蔵 くらふ山かこふしはやのうちまてに心をさめぬところやはある 【直訳】暗部山(鞍馬山)の、囲ふ柴屋の内までに、心をおさめない所はあるだろうか。いや、ない。 ※「をさむ」=治む、修む、収む、納む、など、いろいろな漢字をあてうる。 |
[和音]を参照。
Dm私がBb死んでもFお墓はCいりません。 Dm私のBb全てはFここに、のCこ(残)します。 Dmお経のBb中に、のCこ(残)します。―― Dm私Bbが死んGだらGm、FおきょGmう(経)のAm言葉とBb向き合ってAmください。Am7、 Dmあなたが生きるBbじだGmい(時代)とC場所で、FおきょGmう(経)とAm向き合うBbならば――、 Dmあなたが、おきょBbう(経)を読むGm場所Cは、F公園でも、Gm森の中でも、Am木の下でも、Cお寺でも、Gm自分の家でも、Bb/Fまなびやでも、Am/E山や野原でCも、Am7、DmそこがFまことのGm聖地にAmなるのでDmす。 N.C.なぜなら、 FあなたがGmお経をAm読むそのAm/C場所Amで、Gmみ仏AmたちはBbこの上なく正しいさとりに目覚めて、Amみ仏たちはBb/F教えを説いて、Am命を終えるN.C.聖地なのですD。 私が死んでお墓はいりません。 私の全てはここに残します。お経の中に残します。・・・私が死んだら、お経の言葉と向き合ってください。あなたが生きる時代と場所で、お経と向き合うならば、・・・ あなたがお経を読む場所は、公園でも、森の中でも、木の下でも、お寺でも、自分の家でも、まなびやでも、山や野原でも、そこがまことの聖地になるのです。 なぜなら、 あなたがお経を読むその場所で、み仏たちはこの上なく正しいさとりに目覚めて、み仏たちは教えを説いて、命を終える・・・聖地なのです。 上記の不完全な英訳 YouTubeの字幕用 When I die, I will not need a grave. I will leave everything about me here. I will leave it in the sutras. When I die, please face the words of the sutras. If you face the sutras in the time and place where you live, the place where you read the sutra, whether in a park, in the forest, under a tree, in a temple, in your own home, in a school, in the mountains or in a wild field, all will be the true holy places. Because the place where you read the sutra is the place where buddhas would awaken to the most righteous enlightenment, and buddhas would teach there, and they would end their lives there. All these places are sacred. |
【参考】以下、『建撕記・坤巻』(永平開山道元禅師行状建撕記)より引用 出典は仏書刊行会・編『大日本仏教全書 115』(明治45-大正11)p.557 国立国会図書館デジタルコレクション 画像URL https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952819/123(閲覧日2022年2月17日)より転記。 原文は漢字とカタカナ。句読点などは加藤徹が改めた。引用開始。 或日一旦、室内を経行し、低声に誦して言く「若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舎、若在殿堂、若山谷曠野、 是中皆応起塔供養、所以者何。当知是処即是道場。諸仏於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸仏於此転于法輪、諸仏於此而般涅槃」と。 誦し了て後、此文を頓て面前の柱に書付たまふ。亦「妙法蓮華経庵」と書とどめたまふなり。この法華経の文を、あそばしたる心は、今俗家にて、入滅あるほどに、昔の諸仏も如㆑是との玉ふなり。 ※「如㆑是」の「㆑」は漢文訓読のレ点。 |
かの宮沢賢治も、自分の手帳(いわゆる『雨ニモマケズ手帳』)のメモのなかで、【自分の備忘用】「如来神力品第二十一」の「道場観」(画像の色つきの文字は加藤徹が書き込んだもの)
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) September 2, 2022
宮沢賢治が座右の書とした、通称「赤本法華経」より。
正式の書名は、島地大等(1875年-1927年)『漢和対照 妙法蓮華経』(明治書院、大正3年=1914年刊)https://t.co/nWlfDYoyPO pic.twitter.com/BqAsnUiJn3
以下、植木雅俊『サンスクリット版縮訳 法華経 現代語訳』(角川ソフィア文庫、2018)pp.327-328より引用。引用開始。
そこで、世尊は、その卓越した善行をなすもの≠はじめとする菩薩たちにおっしゃられた。 「良家の息子たちよ、正しく完全に覚った尊敬されるべき如来たちは、考えることもできない威神力を持っている。この法門の付嘱のために、私は、幾百・千・コーティ・ナユタもの多くの劫にわたり、種々の法によってこの法門の功徳について語っても、その功徳は語りつくすことができないのだ。 私は、この法門において、すべてのブッダの技、すべてのブッダの威神力、すべてのブッダの祕要[の教え]、すべてのブッダの深遠な領域を要約して説いたのである。それ故に、良家の息子たちよ、如来の私の入滅後、あなたたちはこの法門を恭敬して、受持し、説き示し、書写し、読誦し、解説し、修行し、供養するべきである。 この法門を受持する人のいる所が聖地 良家の息子たちよ、果樹園であれ、精舎であれ、在家の家であれ、森であれ、町であれ、木の根もとであれ、宮殿であれ、住房であれ、洞穴であれ――この法門が読誦され、解説され、説き示され、書写され、考察され、語られ、朗詠され、写本になって存在する地上の場所には、どこであれ如来のためにチャイティヤ(塔廟、経塔)が造られるべきである。 理由は何か? 地上のその場所は、すべての如来の覚りの座であると知られるべきであるからだ。また、地上のその場所において、すべての如来が、この上なく正しく完全な覚りを得られ、真理の車輪を転じられ、入滅されたのだと知るべきである」 |
お釈迦さまは言いました。 「ほとけにお墓はいりません。ほとけのことばが、のこっています。あなたが生きるその時代、その場所で、ほとけのことばと向きあってください。あなたが、ほとけのことばに取りくむその時、その場所こそが聖地です。公園であれ、木の下であれ、寺であれ、自宅であれ、学校であれ、野外で寝起きするところであれ、あなたがほとけのことばに取りくむところは、ほとけの聖地です。歴代のほとけがさとりをひらき、歴代のほとけが教えをとき、歴代のほとけが一生を終える聖地なのです」 |
現代語訳
法蓮房信空が〔法然上人に〕申すことには、「古来の徳ある先人は、どなたにもその遺跡があります。ところが、今のところ〔上人には〕寺院の一つも建立されておりません。ご入滅の後には、どこをご遺跡とすべきでしょうか」と。
上人がお答えになるには、「遺跡を一つの廟堂に限ってしまうと〔私の〕遺す教えは行き渡りません。私の遺跡は諸国に広く行き渡った方がよいのです。なぜかといえば、念仏の盛行(せいこう)は私の生涯をかけた教化活動だからであります。それゆえ、念仏の声するところは、貴賤を問わず、漁師たちの質素な家までも、すべて私の遺跡とすべきです」と。
原文
法蓮房申さく、「古来の先徳みなその遺跡あり。然るに今、精舎一宇も建立なし。御入滅の後、何処をもてか、御遺跡とすべきや」と。
上人答え給わく、「跡を一廟に占むれば遺法遍ねからず。予が遺跡は諸州に遍満すべし。ゆえいかんとなれば、念仏の興行は、愚老一期の勧化なり。されば念仏を修せん所は、貴賤を論ぜず、海人・魚人が苫屋までも、みなこれ予が遺跡なるべし」とぞ仰せられける。
ホウレンボウモウさく、「コライのセントクみなそのユイセキあり。シカるにイマ、ショウジャイチウもコンリュウなし。ゴニュウメツのノチ、イズクをもてかゴユイセキとすべきや」と。
ショウニンコタえタマわく、「アトをイチビョウにシむればユイホウアマねからず。ワがユイセキはショシュウにヘンマンすべし。ゆえいかんとなれば、ネンブツのコウギョウはグロウイチゴのカンゲなり。さればネンブツをシュせんトコロは、キセンをロンぜず、カイニン・ギョニンがトマヤまでも、みなこれワがユイセキなるべし」とぞオオらせれける。
自分の備忘用に。江戸期の両点本『妙法蓮華経』如来神力品第二十一の「道場観」のくだり。道元や宮沢賢治が坐右の銘とした部分を含みます。この画像はパブリックドメインです。https://t.co/Ly2ollmmLD pic.twitter.com/TCGNgpEPul
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) February 19, 2022
国立国会図書館デジタルコレクション・法華経普及会編『真訓法華経要品』(昭和4年)[真読][訓読]自分の備忘用に。江戸時代の「両点本」。 #漢文 の原文の右側に「真読」(日本漢字音による直読)の読みがなを、左側に「訓読」(漢文訓読)の訓点を施したもの。鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』如来神力品第二十一 (筆者蔵) https://t.co/4Lpi5yMGvs pic.twitter.com/mxEO4ScGt0
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) February 11, 2022
ni ji butsu gou jou gyou tou bo satsu dai shu; sho butsu jin riki, nyo ze mu ryou mu hen fu ka shi gi. nyaku ga i ze jin riki, o mu ryou mu hen hyaku sen man noku a sou gi kou, i zoku rui ko, set shi kyou ku doku, yu fu nou jin. | 爾時佛告上行等菩薩大衆。諸佛神力如是無量無邊不可思議。若我以是神力、於無量無邊百千萬億阿僧祇劫、爲囑累故、説此經功徳、猶不能盡。 | に/じ/ぶつ/ごう じょう/ぎょう/とう/ぼ/さつ/だい/しゅ しょ/ぶつ/じん/りき にょ/ぜ/む/りょう/む/へん ふ/か/し/ぎ にゃく/が/い/ぜ/じん/りき お/む/りょう/む/へん ひゃく/せん/まん/のく あ/そう/ぎ/こう い/ぞく/るい/こ せっ/し/きょう/く/どく ゆ/ふ/のう/じん |
i you gon shi, nyo rai it sai sho u shi hou, nyo rai it sai ji zai jin riki, nyo rai it sai hi you shi zou, nyo rai it sai jin jin shi ji, kai o shi kyou sen ji ken setsu. | 以要言之、如來一切所有之法、如來一切自在神力、如來一切祕要之藏、如來一切甚深之事、皆於此經宣示顯説。 | い/よう/ごん/し にょ/らい/いっ/さい/しょ/う/し/ほう にょ/らい/いっ/さい/じ/ざい/じん/りき にょ/らい/いっ/さい/ひ/よう/し/ぞう にょ/らい/いっ/さい/じん/じん/し/じ かい/お/し/きょう せん/じ/けん/せつ |
ze ko nyo tou o nyo rai metsu go, ou tou it shin ju ji doku ju ge setsu sho sha nyo setsu shu gyou. sho zai koku do, nyaku u ju ji doku ju ge setsu sho sha nyo setsu shu gyou, nyaku kyou gan sho juu shi sho, nyaku o on chuu, nyaku o rin chuu, nyaku o ju ge, nyaku o sou bou, nyaku byaku e sha, nyaku zai den dou, nyaku sen gok kou ya, ze chuu kai ou ki tou ku you, sho i sha ga? | 是故汝等於如來滅後、應(當)一心受持讀誦解説書寫如説修行。 所在國土、若有受持讀誦解説書寫如説修行、若經卷所住之處、 若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、 若白衣舍、若在殿堂、若山谷曠野、 是中皆應起塔供養、所以者何。 | ぜ/こ/にょ/とう お/にょ/らい/めつ/ご おう/とう/いっ/しん(応当一心) じゅ/じ どく/じゅ げ/せつ しょ/しゃ にょ/せっ/しゅ/ぎょう しょ/ざい/こく/ど にゃく/う/じゅ/じ どく/じゅ げ/せつ しょ/しゃ にょ/せっ/しゅ/ぎょう にゃっ/きょう/がん/しょ/じゅう/し/しょ にゃく/お/おん/ちゅう にゃく/お/りん/ちゅう にゃく/お/じゅ/げ にゃく/お/そう/ぼう にゃく/びゃく/え/しゃ にゃく/ざい/でん/どう にゃく/せん/ごっ/こう/や ぜ/ちゅう/かい/おう き/とう/く/よう しょ/い/しゃ/が |
tou chi ze sho soku ze dou jou. sho butsu o shi toku a noku ta ra san myaku san bo dai, sho butsu o shi ten no hou rin, sho butsu o shi ni hatsu ne han. | 當知是處即是道場。諸佛於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸佛於此轉于法輪、諸佛於此而般涅槃。 | とう/ち/ぜ/しょ そく/ぜ/どう/じょう しょ/ぶつ/お/し とく/あ/のく/た/ら/さん/みゃく/さん/ぼ/だい しょ/ぶつ/お/し てん/の/ほう/りん しょ/ぶつ/お/し に/はつ/ね/はん |
爾時佛告上行等菩薩大衆。諸佛神力如是無量無邊不可思議。若我以是神力、於無量無邊百千萬億阿僧祇劫、爲囑累故、説此經功徳、猶不能盡。 以要言之、如來一切所有之法、如來一切自在神力、如來一切祕要之藏、如來一切甚深之事、皆於此經宣示顯説。 是故汝等於如來滅後、應一心受持讀誦解説書寫如説修行。所在國土、若有受持讀誦解説書寫如説修行、 若經卷所住之處、若於園中、若於林中、若於樹下、若於僧坊、若白衣舍、若在殿堂、若山谷曠野、是中皆應起塔供養、所以者何。 當知是處即是道場。諸佛於此得阿耨多羅三藐三菩提、諸佛於此轉于法輪、諸佛於此而般涅槃。 |
【備忘用】妙法蓮華経 如来神力品第二十一 五線譜 2024年5月17日版 pic.twitter.com/aGAHDYGdFR
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) May 17, 2024
自分の備忘用 妙法蓮華経如来神力品第二十一 道場観
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) March 14, 2022
お経 コード 和音記号 つきhttps://t.co/atKHiZdwRQ pic.twitter.com/pDCeBptWyh
別バージョン【自分の備忘用】Key=Dm The Lotus of the True Law, Chapter XX - CONCEPTION OF THE TRANSCENDENT POWER OF THE TATHAGATAS. 『法華経』如来神力品第二十一 https://t.co/GLvJeVVeqv pic.twitter.com/SOgeo273Kw
— 加藤徹(KATO Toru) (@katotoru1963) July 29, 2022
Dm昭和の劇作家、Bb寺山修司は言いました。 「F劇場があって劇がC演じられるのではない。Dm劇が演じられると、Bb劇場になるのである。/Fつまり、劇場は「在る」のではなくC「成る」ものなのだ」『寺山修司演劇論集』(国文社、1983年)p.273 「Dm劇場とは、施設や建物のことではBbなく、劇的出会いが生成されるためのF「場」のイデオロギーのことCである。どんな場所でもDm劇場にすることができるし、Bbどんな劇場でも劇が生成されないF限りは、日常的な風景の一部にCすぎなくなる。」『寺山修司著作集 第5巻 文学・芸術・映画・演劇評論』(クインテッセンス出版、2009年)p.370 Dm令和のオタクがBb言いました。 F初音ミクは、いつでもCどこでも現れる。Dm何千、何万のBb初音ミクがF同時に現れることがCできる。Dm初音ミクはBbデジタルなので、Fどれも本物だ。Cコピーではない。Dm漫画喫茶のBbパソコン、F通勤電車のCタブレット、Dmふとんの中のBbスマホ、FどこでもあなたがC初音ミクと出会う場所がDmライブ会場になり、Bb劇場になり、F聖地になるのだ。Cあなたと初音ミクがDm出会う場こそ、BbいつでもどこでもF聖地になるCのである。Dmだから初音ミクには、Bb聖地巡礼する必要はCないのだ。 |
Cm私がAb死んだらEbお墓はBbいりません。Cm私のAb全てはEbここにBb残します。Cmお経のAb中に、のBbこ(残)します。Cm私が死AbんFだらFm、EbおきょFmう(経)のGm言葉とAb向き合ってGmください。Cmあなたが生きるAbじだFい(時代)とBb場所で、EbおきょFmう(経)とGm向き合いAbなさい。Cmお経と向き合うAb場Fm所Bbは、Eb公園でも、Fm森の中でも、Gm木の下でも、Bbお寺でも、Fm自分の家でも、Abまなびやでも、Gm山や野原でBbも、CmそこEbがまこFmとのGm聖地でCmす。N.C.なぜなら、EbあなたがFmお経をGm読むそのBb場所Gmは、Fm仏GmたちがAmこの上ないさとりに目覚めて、Gm仏たちがAb教えを説いて、Gm命を終えるN.C.聖地なのですC。 |
鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』からの英訳は、BDK Daizokyo Text Database, Bukkyo Dendo Kyokai https://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/BDK/bdk_search.php?md=normal&num=B0262 (BDK英訳大蔵経。公益財団法人仏教伝道教会による「英訳大蔵経」による成果)より引用。閲覧日2022年3月9日。引用開始。 |