蘇軾の漢詩『和子由澠池懐旧』 | |
人生到処知何似? 応似飛鴻踏雪泥。 泥上偶然留指爪、 鴻飛那復計東西。 老僧已死成新塔、 壊壁無由見旧題。 往日崎嶇還記否? 路長人困蹇驢嘶! | ジンセイいたるところ しんぬ なににかにたる まさににたるべし ヒコウのセツデイをふむに デイジョウ グウゼン シソウをとどむも コウとべば なんぞまた トウザイをはからん ロウソウ すでにシして シントウとなり カイヘキ キュウダイをみるによしなし オウジツのキク なおキするやいなや みちながく ひとくるしみて ケンロいななく |
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杉並区は、教育熱心です。 「新しい歴史教科書をつくる会」の教科書を、全国の自治体として二番目に採用。全国的に注目を浴びる。(2005)。 区立和田中学校で進学塾講師による夜間有料特別授業「夜スペシャル」を行おうとして、東京都から「待った」をかけられ、全国的なニュースとなる(2008)。 そんな和田中学校の近くにある、中華料理店の看板がこれ。 わが中野区はラーメン激戦区として有名ですが、こんな難しい漢字の店はありません。 私は、一応、大学の中文科を出ているので、この漢字が「トウテツ」と読むのだと知っています。 トウテツとは、今から三千年以上も昔の古代中国の青銅器に紋様として鋳込まれた神獣のことです。 いまの普通の中国人も、このトウテツという漢字を読めません。 こんな難しい漢字の看板があるという一事をもってしても、杉並区民の教育水準の高さがあらわれています。 |
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高円寺は杉並区にありますが、雰囲気は中野とつながっています。 ギターの袋をかかえた若い男女がやたら歩いてるとか、中野と高円寺は、よく似てます。 そんな高円寺は、杉並区の中では浮いてます。 例えば、高円寺の人々はなぜか「阿波踊り」に熱心です。「NPO法人 東京高円寺阿波おどり振興協会」なんて組織まで作ってます。 ウィキペディアにも「日本三大阿波踊りとして徳島、高円寺、南越谷の各阿波踊りが挙げられる」と、特筆大書されてます。 台東区の浅草の人々がブラジルのサンバにのめりこむのも不思議ですが、なぜ高円寺の人々は徳島に夢中なのか? 「杉並区の七不思議」の一つです。 毎年夏の「高円寺阿波踊り」は、本場の徳島に勝るとも劣らぬほどの人出です。踊るほうも、見るほうも、もう、たいへんな熱気です。 ええ、もちろん中野区民である私も、見に行きますよ。見に行くと、中野の近所の人たちとよく会います。みんな歩きか、自転車です。それだけ近いんです。 しかし噂によると、同じ杉並区民でも、南部の住民は「高円寺阿波踊り」を、冷ややかな目で見る傾向があるらしい。 行政区分は別として、人文地理学的に言うと、ラーメン店の分布といい、ミュージシャン風ファッションといい、高円寺と中野は同じエリアです。 |
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中野から自転車で勤務先(京王線「明大前」駅の近く)に行く途中にも「沖縄タウン」があります。 この「沖縄タウン」は規模はそれほど大きくありませんが、沖縄の食品を売る店とか、おいしい沖縄そばが食べられる店などが何軒も集まっています。沖縄そばが好きな私も、ときどき食べます。 またJR高円寺駅の近くには、沖縄関係で有名な古書店もあります。 なぜ杉並区に沖縄の店が多いのか? これも「杉並区七不思議」の一つです。 |
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高円寺はにぎやかですが、ちょっと入ると、昼間でも人影のない静かな路地がたくさんあります。 それも、キリコの絵画のような、シュールな雰囲気な路地が多い。 例えば、この道もそうです。 都内の住宅地だというのに、青空に高々と立ち並ぶ白い高圧線の鉄塔。 人口密集地のはずなのに、人っ子ひとりいない静けさ。 そして、なぜか、道路のどまんなかにすべり台がある、というシュールな都市設計。 中野区から杉並区のこうしたエリアに入り込むと、一瞬、ウルトラセブンの第43話「第四惑星の悪夢」でパラレルワールドに迷い込んだダンとソガの気分になります。 ちなみに、写真にうつっている自転車は、私の愛車です(FELTのZ100)。 なぜ杉並区民は、こんな不思議な都市空間を好むのか? これも杉並区七不思議の一つです。 |
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筆者の勤務先の西隣は「築地本願寺和田堀廟所」という広大な墓地です。 大正時代の関東大震災(1923年)を契機に、被害の大きかった東京都東部から西部へ移住する人が一気に増えました。 その流れのなかで、築地本願寺の墓地も、昭和9年(1934)にここに移転してきました。 樋口一葉、古賀政男、中村汀女、海音寺潮五郎、佐藤栄作など著名人のお墓も多く、またデザインに凝ったユニークなお墓もあります。 ただ、ここは観光地ではなく墓地ですから、ミーハー気分での進入は自粛したいものです。 墓所の敷地の入口の近くに、小型の凱旋門のような石塔があります。カルピスの創業者である三島海雲氏の顕彰碑で、中国の居庸関(きょようかん)を模したものです。このいわれについては「中国語ジャーナル」に拙文を書きましたので[こちらをどうぞ]。 |
![]() 自転車で散歩するのに、ちょうどよい距離である。 レトロな雰囲気のただよう「旧早稲田通り」などは、自転車で走ると、とても気持ちがよい。 筆者は練馬区に住んだことはないが、なんとなく、なつかしい町である。 なぜなら、子供のとき読んだ漫画の舞台として、よく練馬区が出てきたからだ。 1970年から76年まで週刊『少年ジャンプ』に連載され、72年にはテレビアニメ化もされた漫画『ど根性ガエル』で、 ピョン吉と「ひろし」が暮らしていたのも、この石神井公園の近くである。 1974年から81年まで週刊『少年チャンピオン』に連載されていた漫画『がきデカ』も、「練馬変態クラブ」とか、練馬がよく出てきた。 漫画家の吾妻ひでお氏が住んでいるのも練馬区で、氏が自分のホームレス体験を描いた漫画『失踪日記』(2005)や、 インタビュー本『逃亡日記』(2007)にも、練馬区の石神井公園などが出てくる。 東京都の公園のなかでも、石神井公園は、奥深い雰囲気がある。 東西に細長く、奥行きがあるため、実際の面積以上に広大に見える。 石神井公園の西半分は、空が広くて明るい。さわやかな風が吹きわたる池の水面は、家族連れのボートでにぎわっている。 三宝寺池がある西半分は、鬱蒼(うっそう)とした樹木と水に囲まれ、空気もどんよりとして、鳥や虫の声がかまびすしい。 まるで恐竜時代の太古の森林のような雰囲気である。 本当にここが東京か? と思うほどだ。 三宝寺池の周囲の木道(もくどう)を歩いていると、太い木々の影から、今にもピョン吉や、こまわり君、ホームレスの「あじまひでお」氏(『失踪日記』の作者の分身) が飛び出してくるような錯覚におそわれる。 ダンテの『神曲』地獄篇の冒頭、主人公のダンテは「暗い森」(セルヴァ・オスクーラ。Selva Oscura)に迷いこみ、己を見失う。 石神井公園の三宝寺池の一帯も、異界へと通じる「暗い森」なのかもしれない。 |
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私が小学校低学年のころまで、私の母がたの祖母の家が、この通りの並びにありました。 当時、私は柏市の豊四季台団地に住んでいましたが、よく堀切の祖母の家に遊びに行き、同年代のいとこと遊びました。 いまではすっかり変わりましたが、通りのかどにあった野口屋さんは、いまも健在です。 よくここで、おもちゃやプラモデルを買ったものです。 何でもないふつうの通りですが、私にとっては、なつかしい場所です。 |
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2008年3月、滋賀県の伊香郡高月町(いかぐん・たかつきちょう)を訪れました。 高月町の渡岸寺観音堂(向源寺)にある国宝十一面観音は井上靖『星と祭』や水上勉『湖の琴』で有名ですが、私が訪問した目的は、江戸時代の外交で活躍した漢学者・雨森芳洲(あまのもりほうしゅう)でした。 高月町は雨森一族の故郷で、現在は「雨森芳洲庵・東アジア交流ハウス」という施設があります。ここは芳洲や朝鮮通信使の資料の展示や、国際交流の場ともなっています。 美しい田園風景を走る道路には「芳洲国際通り」という名前がついています。 |
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雨森芳洲庵の前の道。 水車と水路の風情がいいですね。 このあたり(高月町雨森区)の風景は、みな、このように美しいです。 高月町に今も住む雨森姓の人々は「あめのもり」「あめもり」「あまもり」など、読みがバラバラだそうです。 なぜかホッとします(^^;; |
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雨森芳洲庵内部の展示室。 この場所は、雨森一族の屋敷があった跡地です。建物は、昭和になってからの新築です。 雨森芳洲の出生地はよくわかっていませんが、彼自身がこの高月町を自分の「故郷」と認識していたことは、彼自身の言葉によって残されています。 朝鮮通信使との関連もあり、現在でも、韓国との交流の拠点ともなっています。 芳洲の子孫は、いまは千葉県にお住まいだそうです。芳洲庵には、子孫から寄付された貴重な資料が蔵のなかに保管されています。 雨森芳州庵館長の平井茂彦さん(ふるさとつくり'98 内閣官房長官賞受賞者)は、雨森芳洲についての本を出版されています。 |
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サッカーの「ジュビロ磐田」のホームタウンとして有名な町ですが、私は、江戸時代に漂着した唐船「万勝号」(詳しくはこちら)の資料を集めるため、2008年1月に訪れました。 インターネットや電子図書目録が発達した現在でも、現地の郷土史家のかたがむかし書いたガリ版刷りの冊子などは、やはり現地に行かないとなかなか読めません。 この福田(ふくで)漁港のあたりは、江戸時代には日本の海運の拠点として、たいへん賑わっていました。1801年、この近くに突如、中国の船が漂着し、当時は鎖国時代だったので大騒ぎになりました(関連記事)。 日本側は、船員の風俗習慣、趣味にいたるまで、厖大な記録を残しました。当時の船員の生活文化をこれほど詳細に記録したものは、中国側にもなく、今日では第一級の史料となっています。 JR磐田駅の横で、レンタサイクルを借りて、ひたすらこぎ続けて、ようやく福田漁港に着きました。今はとても静かな場所ですが、二百年前の唐船漂着事件のときは、近郷近在から浜を埋め尽くすほどの人間が集まったと伝えられています。 |
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唐人橋(とうじんばし)。 いまは狭い溝にかかる「橋」、というより舗装道路の一部分です。 しかし江戸時代には、ここは、川幅20メートル以上の大河にかかる長大な木製の橋でした。 もともとは、漂着した唐船の木材を利用した橋でした。その後、時代がくだるにつれて川が小さくなり、橋もなくなって、今は名前だけが伝わっています。 唐船の木材の残りは、この橋から北西に200メートルほど離れた豊浜小学校の校舎内に、いまも展示されています。 1890年に和歌山県の沖合で起きた「エルトゥールル号遭難事件」は、日本とトルコの友好の原点として、今も有名です。地元の和歌山県串本町にはこの事件を伝える立派な博物館(トルコ記念館)が建っています。 それにくらべると、1801年に静岡県で起きた「万勝号遭難事件」のほうは、一般には知られていません。 残念なことです。 |