京劇　資料集加藤徹 KATO Toru

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京劇資料集

備忘用のメモ最初の公開2014ｰ3ｰ18　最新の更新 2014ｰ3ｰ19
[品梅記]　天鵲　豊岡　浜田　神田　
[与謝野晶子]
[芥川龍之介]

『品梅記』『品梅記』(彙文堂書店(京都)、大正八年九月十五日発行)【】内は筆者(加藤徹)注。原文の旧字体は新字体に改めた。

「梅蘭芳」天鵲　pp109-110　より一部を引用。
蘭芳先生＝＝私はあなたを目下世界の有する尤も貴重なるものゝ一に数ふるに憚りません、あなたの来游を国際的に有意義なりとか何とか六ヶ敷いことを言つたり、劇場の前へ日支親善などゝ云ふ套話【原文ルビ「タオホワー」】の看板を掲げたり、又大阪では開幕前にあなたの紹介と共に日支親善を提唱したりするとぼけ者があつたりしましたのはあなたの様な藝術家は却て気にもお留めにならぬかも知れませぬが私共の様に藝術を創造する力はなく只少し藝術を鑑賞し得る程度のもには【原文ママ。「程度のものには」の誤植か】悪感を催さずには居らせませんでした、学問藝術までをそんなに国際的に解釈せねばならぬとは不思議でなりません、併し貴国の様に文化の進んだ国でも尚日貨抵制とか日人駆逐とか八ヶ間敷いことを仰しやつて国恥記念日に梅郎上臺して日人の玩游に供する勿れなどゝ、己れの国の有する誇るべき国際関係などを超越したる立派な藝術を、自ら玩弄品迄引下げ様となさる方もお有りの様です、国を更へて生れたなれば親善抵制と名前を更へて活動をする人達でがなありませう少くも【原文ママ。「少なくとも」の意か】藝術感受性に欠乏して居る点丈けは大丈夫共通して居る様です。

「支那劇を観て」豊岡圭資 pp85-89　より引用。
(引用開始) p85去る五月二十日大阪で梅蘭芳一行の演戯を観た、(中略)
pp87-89　さて又次に唱に就いては、まづ其の途法もなく高調子なのに驚いた、殊に天女散華などでは長時間舞ひづめ唱ひづめであるから更に驚く、生の唱は大に本邦の俚謡に似通うた点がある、旦の唱に於て特に目立つたのは、毎発声の頭に強い当りのあること、及び其の末尾に至て声が急に落ちることである、後者に近い形は本邦の俗謡などに時々現れるが、前者の如きは余り聞かない形である、其の出方は、胡弓とよほど似て居て、或は胡弓などの影響を受けてかくなり来つたのではあるまいかと思はれる位である、そはともあれ梅蘭芳の声は玲瓏秀徹、質に於ても量に於ても実にあざやかなものである、天稟に加ふるに鍛錬の結果を以てしたとはいへ、終始一貫些の凝滞苦渋なく且又糸竹板拍とよく和し聴者の耳を悦ばしめた技倆は真に敬服の至である。
　音楽は急速且にぎやかであつた、其の根調は嘗て非常に流行した所謂明清楽で幾分なじみがあるので、親しみを以て之を聴いたが、なか〱すてがたい趣のあるのを覚えた、(中略)惟ふに支那劇には歴史に於て、思想に於て、技術に於て、邦劇と極めて深き因縁あり且又其の芸術上の価値大に注意すべきものあるに拘らず、従来僅に其の脚本の一部が翻案せられ若くは抄訳せられたに過ぎずして、其真の妙味は研究もせられず、鑑賞もせられず、否其機会なくして今日に及んだのは、誠に残念に思うて居たが、此の度名優梅氏の渡来に依つて其の一斑を窺ふを得たるは、実に欣喜の至である、梅氏はもとより他の名優も願くば再来三来数十来して支那芸術の妙を示さんことを切望する。

「我輩の所謂「感想」」　青陵生　【濱田耕作】 pp48-55より引用
(引用開始) 　◎我輩の支那劇観覧の経験は今度で僅に二度目である。如舟博士も已に書かれたとのことであるが、君山湖南両博士及如舟先生と、故桃華居士と五人で前清の末年に北京へ行つた時のことである。塩谷君の案内で文明茶園とか云ふ劇場へ出かけたが、幕間も無く、外題の切目も無く、言語全く不通の芝居を半日見物して、あのドンチヤン、キー〱の騒ぎにすつかりあてこまれて仕舞つたのは事実だ。又た其の次の日から病気になつて引籠つたのも事実であるが、それが「ホームシツク」であつたか否かは、此処で我輩の弁解する限りで無い。たゞ支那劇が我輩の病気に罹るのを防ぐ丈けの効能は無かつたのみならず、之を助長せしめたかの疑のあつたことは、間違の無い事実である。
　◎処が北京から如舟博士に従つて河南へ行く途中、何とか言ふ小駅の「プラツトホーム」に汽車の停車時間を待ちながら降り立つてゐると、一二丁向ふの村はづれに、野外の小屋で芝居をやつてゐる。あの北京の劇場で悩されたドンチヤンの声が、此度は秋の野を通して遠くに聞えると、如何にも支那の景物に相応して、胡弓の響も、銅鑼の音も、何となく懐しい気がするので、思はず足を進めて聞き惚れてゐると、如舟先生の声で「君の靴の下を見給へ、ヒドいでは無いか」と注意せられて気が付くと、これは失敗つたり、人糞の塊を踏みつぶしてゐるので、全くヒドい目に会つて大笑せられ、大弱りしたことである。是も疑の無い事実である。
　◎梅蘭芳の劇が大阪でもやると云ふので、我輩も是非一度見度いと思つて、彙文主人の手から漸く座席を取つてもらつて、梅の「御碑亭」を見に行つた時、丁度君山博士も如舟先生も一処であつたが、（桃華居士が居られないのは何より淋しいことであった）北京で我輩の弱つた一条を皆なに吹聴せられ、「これで能くも今日見に来る気になつた子」と散々油を取られたのも事実だ。尤も梅の評判が余り高いので、物見高い我輩の性質が此の梅劇観覧の動機を手伝つてゐるのは、固より否定することは出来ない。併し愈々開演となつて、あの変なキー〱声の台辞に、吹き出した人が多かつたのに係らず、我輩は其の仲間にも入らず、ドンチヤンにも当てられずに、「次の日にも行つて見たいナ」と云ふ感を起して帰つて来た斗りで無く、今に梅のナヨ〱とした舞台姿と、其の嬌声が耳目にチラついてゐるのは事実である。
　◎以上の事実から大胆に帰納すると、支那劇なるものゝ、素人には一寸不可解の騒々しいもので、衛生に害のあるものであると同時に、之を野外野天で興行すると、其の騒しさも薄らいで、丁度よい加減のものとなり、其の音楽と支那の景物と調和して中々捨て難いものがあり、其の極人をして汚物を踏むを忘れしむるに至るのみならず、名優が演ずる時は、明日も明後日も行つて見度いと思ふ位に、感動を与へるものであると云ふことが決論せられる。実際あの銅鑼胡弓の騒しい音楽は屋根被ひも無い劇場の観客席から聴く可きものであるに違いない。希臘羅馬の劇場（オデウムの出来る以前の）や我が能舞台の如き野天の劇場が演ず可きものを、其の儘家屋内でやるから、耳を劈く騒々しさを感ずるのであらう。そう云ふ劇場時代に生成した楽劇を、其の儘屋内劇場で演ずるのが、抑もの誤りで、必ずしも劇其者の欠点では無いのであらう。幕間の無いことや、引幕の無いのも同様に、未だ其んなものゝ出来ない時代の劇であるので全体の仕組があれでゐて、而かも引幕や何かゞあつては却つて変なものであらう。
　◎言語の解らないのは此方の罪である。併し台辞が分らなくなつても面白味はある可きで、西洋でも各国で随分言葉の解らない劇を見たから、是にはもう驚かない。あの女形がキー〱声で変な台辞をやるのも、日本の旧劇で、小供が妙な声でやるのと同様、色々の伝説や約束があるのであらうと思はれるから是を我慢す可きである。はじめて西洋の声楽を聞いて、我輩も曽て吹き出したことがあるが、是は笑ふ方が無学であるのに違ひない。併しあの支那楽がたゞ簡単な「メロヂー」のみで「ハーモニー」も無く、楽器も亦た至つて原始的なことは否むことが出来ないと思ふ。歌劇として現在の支那劇が価値があるとしても、又た之を「クラシツク」なものにして保存して行く必要は別にあるとしても、支那劇が西洋劇に影響せられて、生ジツか間の子的なものが出来ては、我々外国人の好奇心を満足せしめなくなるにしても、支那人自身の社会的生活の進歩から見て、段々在来劇を発達改良して行かうと云ふ希望があるに違いないと思ふ。
　◎丁度我が日本画と同様、西洋人などは在来の日本画が面白い、それを出来るだけ保存せよと云ふが、日本人自身では其れで満足することが出来るものでは無い。支那劇も近き将来色々と西洋劇や日本劇を参酌して、アクトの上にも亦た舞台の上にも様々の変化を見るに至るのであらう。之を我等外国人が単に好奇心や、歴史の標本的に見ようと云ふ点から、在来の儘にあらしめようとするのは無理な注文であると思ふ。我輩は善くは知らぬが、梅蘭芳の如きは在来の劇から既に一歩を脱して、表情や何かに余程新しい分子を加へて居るらしい。併かも全体にしては尚ほ在来劇の範囲を出で無いので、彼は純支那劇の最後の第一人者であると同時に、将来産出せらる可き新支那劇の最初の気運を作らうとしてゐる先駆者であると云ふ可きであらうか。又た将来は支那劇に於ても、西洋劇と同じく女形は女優の専門になることであらうから、彼は此点に於いても在来の支那劇の女形男優として、最後の名人であるかも知れない。
　◎イヤ大分言ひ過ぎた。支那の劇史や戯曲を全く知らない我輩、一般の文学や劇曲にも無学な素人の「感想」としては、生意気過ぎるのみならず、盲人の象を評すると同一般のトンチンカンもよい加減で止めて置かう。たゞ一言最後に梅蘭芳の女以上に女らしい、アドけない、優艶な姿は人を魅するに足るのみならず、あれが実は男であるかと思ふと、薄気味が悪くなる程真を奪ふ女の偽者バケ物であると云ふ感想を記して、外の讃辞は所謂梅毒患者の手に譲つて置かう。

pp90-97
「梅蘭芳を見て」　神田鬯盦【神田喜一郎1897-1984　原書では「鬯」の下の部分は「七」】
　平生から日本の劇に対してさへ余り興味を有つてゐない私は言葉も所作も違ふ支那劇には一層無頓着であつた。一昨年でもあつたか湖南先生【内藤湖南】が燕京で酷く梅蘭芳に魅せられて了はれたといふ逸話を桃華先生から承つた際でも実は逸聞そのものに感心したゞけであつて梅蘭芳の劇を見たいなどゝの野心は起らなかつた。然し梅の名はそれよりも以前に大阪朝日新聞に掲げられた木下杢太郎氏の北京見聞録で承知してゐたので湖南先生の逸事を耳にしてからは不思議にそれが私の頭脳に印象づけられるに至つたのである。所が今度梅が日本に来ると云ふことになると北京に居る友人などは頻に梅の写真を送つて其の芸術の卓越してゐることを云つて寄こされる。そこへ殆ど梅毒をを【ママ。「をも」の誤りか】超越して梅狂とまで云はれる程に熱心な彙文堂主人が梅劇観覧の為に非常な斡旋の労を取つてくれられる。私はもう【「もう」に傍点】躊躇せられなくなつた。而して先月の二十日であつたか兎角古本屋の店頭にばかり立留りたがる足をどうにか大阪の公会堂にまで運んだやうな次第である。
(中略)
　私は今度梅蘭芳の劇を見て其の象徴主義の芸術として最も卓越したものである事に驚かされた。第一支那劇には幕が無い。それから全然背景が使用せられぬ。それに日本の芝居の如く種々な道具立は一も無くて簡単な卓と椅子とがあるばかりである。これは非常に支那劇の進歩してゐる所であつて之に物足りなく思ふやうな人間は到底芸術を鑑賞するだけの資格が無いのである。或者は支那劇を以て極めてプリミチーブなものだと貶す。其の理由を聞いてみると支那劇には背景や道具立の無いのみならず所作も簡単なものであつて例へば僅に鞭一本を持つだけで馬に乗つたことを現はすやうなことが多いからと云ふのである。一体日本の芝居で背景に風景を画いたり家を作つたりするのはまだ日本人の頭脳が進歩して居らない為に左様なことをせなければ到底背景に示す如きものを連想し得ないからである。現に日本の能楽は殆ど支那劇と大差の無いものであるが近来西洋では能楽を象徴芸術の最も発達したものとして大に之が研究を試みてゐる。真に芸術的価値の何たるかを解し得る者には能楽に背景の無い事を物足りなく思はない。寧ろ常に同じ松の絵の画かれてゐる鏡板に無限の価値を認めるのである。所作に於ても金剛流の如くに芝居じみた型を用ひるのは能楽として堕落したものと云はれるではないか。(中略) 宝生流の型を見て何の意味か了解出来ない者は観世流に行く。更に観世流を見ても了解出来ぬ者は金剛流の方を要求する。それから更に頭脳が鈍くなると「お国芝居」とくる。而して頭脳の鈍い連中にの【「への」の意か】理解に応ぜんが為に段々堕落していつたものが即ち今日の新派劇なのである。それに今日の新派劇などを劇の進歩したものと極め込んでゐる手合が、随分世間で解つたらしい顔をしてゐる者の間に多い。而して左様な手合が支那劇をプリミチーブだなどゝ貶すのである。
(中略)
　兎角西洋人の口や手に掛つたものでなければ三文の価値も無いものと早合点するのは日本人の通弊である。(中略) 所が今度の梅蘭芳劇はどうであつたか。理解のある日本人達は之を非常に歓迎した。しかのみならず平生からシヨツパンとかベトーフエン【ショパンとかベートーベン、の意】に心酔してゐる連中までが熱心に研究した。これ梅の劇が東洋独特の妙趣を具へてゐる為では無からうか。東洋の芸術には西洋芸術に於て見られない貴い価値のあることが梅蘭芳の劇に依つて漸やく覚醒した人々の間に知れるやうになつてきた。勿論それは西洋人の教示や指摘を待たずにである。此の意味に於て梅蘭芳が我が国人に与へた刺戟は実に大なるものがあると云はねばならぬ。そこもと未だ西洋舶来品に涎を流したりフエノロサーとかアストンの受取専門をしてゐる人達は如何なる感があるか。

与謝野晶子『太陽と薔薇』1920年1月刊より
高力士候ふやとも目を上げて云ひ出でぬべき薔薇の花かな
夏の空梅蘭芳の顔見ゆと月の上れば人のささめく
目閉づれば梅蘭芳の幻の見ゆるおのれもめでたかりけれ
撫子は梅蘭芳の酔へる顔高力士をばちやうと打つ顔
わが肩に柳の触れておもふかな梅蘭芳の玉のかんざし

与謝野晶子「梅蘭芳に贈る歌」　『婦人之友』1919年7月号
うれしや、うれしや、梅蘭芳(ルビ　メイランフワン)
今夜、世界は
(ほんに、まあ、華美(ルビ　はで)な唐画の世界、)
真赤な、真赤な
石竹の色をして匂ひます。
おゝ、あなた故に、梅蘭芳、
あなたの美しい楊貴妃ゆゑに、梅蘭芳
愛に焦れた女ごころが
この不思議な芳しい酒となり、
世界を浸して流れます。
梅蘭芳、
あなたも酔つて居る、
あなたの楊貴妃も酔つて居る、
世界も酔つて居る、
わたしも酔つて居る、
むしやうに高いソプラノの
支那の胡弓も酔つて居る。
うれしや、うれしや、梅蘭芳。

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