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芥川龍之介が見た京劇

最初の公開 2001-5-9 最新の更新 2021-6-1


 授業の教材用に書いている原稿の一部を、試験的にアップロードいたします。
 書名や引用文中に「支那」という語が出てくる場合は、検索等の便を考え、あえて原文のままにしました。地の文では一貫して「中国」という呼称を使っています。ご理解くださいますよう
2001,5,9 加藤徹

本稿は拙著『京劇』(2002年1月刊)の原稿の一部として使用しました。2003年追記

  1. 京劇改良のアドバイスをした日本人――芥川龍之介(一)
  2. レベルが高かった日本の劇通
  3. 京劇の文学性を発見した日本人――芥川龍之介(二)
  4. 京劇女優の起源は上海から――林黛玉(一)
  5. 京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)
  6. 芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)
  7. 芥川が見た京劇・崑曲俳優たち
  8. オ―ナ―が転々と変わった上海の劇場
  9. 日本の「後見」とひと味違う中国の「検場」
  10. 中国の観客が騒がしかった理由
  11. 中国演劇の立ち回りが猛烈をきわめる理由
  12. 芥川龍之介「上海游記」原文の一部
  13. 芥川龍之介「北京日記抄」原文の一部

京劇改良のアドバイスをした日本人――芥川龍之介(一)

 芥川龍之介が京劇通だったことは、案外と知られていない。
『支那游記』上海篇と北京篇には、京劇や崑曲の詳細な観劇記が書いてある。
 芥川は、中国語はカタコトしかできなかったが、漢籍に対する素養は深かった。また芥川は、梅蘭芳、楊小楼、蓋叫天はじめ、京劇史上に名を残す錚々たる名優たちの舞台を短期集中講座のように見たが、彼の座席の隣には常に村田孜郎、波多野乾一(後述)、辻聴花といった一流の京劇通があり、適切な助言をした。そのため、芥川の天性の才能ともあいまって、彼は京劇について一家言を持つに至った。
 芥川は北京滞在中、有名な文学者・胡適(一八九一―一九六二)に会い、京劇の改良について自分の意見を述べている。胡適が書き残した『胡適日記』民国十年六月二十七日の条を見てみよう。

 八時、扶桑館に到る。芥川先生から食事に招かれる。同席者に惺農および日本新聞界の三四人がいた。私が日本式に日本食を食べるのは、これが初めてである。靴を脱いであがり、席にあぐらをかいて坐るという作法は、なかなか奇抜である。
 芥川さんは、中国の旧式の舞台は改良する必要がある、と言った。
一、背景幕は色柄が地味なものを用いるべきである。紅や緑の緞帳は不適切である。
二、舞台にしく絨毯も色柄が地味なものにすべきである。
三、伴奏楽隊は幕の中にかくれて坐るべきである。
四、舞台上の助手は、色柄が地味な同じ服を着るべきで、舞台上を駆け回ってはいけない。
 私はこれに答えて、中国の旧式の芝居は歌の部分が往々にして長すぎて役者に茶を飲ませる必要があること、机や椅子なども運ぶ必要があること、もし西洋式に場面転換用の幕を採用すれば、助手が茶や椅子を手に駆けずり回らずに済むかもしれないこと、などを言った。
 彼はまた、旧式の芝居に背景は必要ない、と言った。私も同意した。



 芥川の提議は、今日の視点から見ても妥当なものである。実際、その後の京劇の舞台改良運動は、ほぼ彼の意見どおりに進んだ。

レベルが高かった日本の劇通

 芥川の『支那游記』にも出てくる波多野乾一(一八九〇―一九六三)は、京劇史に関する先駆的な研究を行い、『支那劇とその名優』『支那劇大観』『支那劇五百番』などの書を著し、中国の学界にも影響を与えた。
 京劇関係の著作をあつめて影印出版した叢書『平劇史料叢刊』(伝記出版社、一九七四)は、京劇研究者にとって有用な資料集であるが、このなかに外国人の著作として唯一、波多野の『京劇二百年歴史』(『支那劇と其名優』を海賊版的に中国語訳したもの)が収録されている。この叢書の主編者・沈葦窗は、収録書籍紹介のなかで、苦々しげに書いている。

「『京劇二百年歴史』――日本人波多野乾一著、鹿原学人訳。まったくもって恥ずかしい限りである。中国の京劇の歴史を日本人に書かれてしまうとは、味気ないような気がする。この本は民国十六年九月に出版された。私はこの本をじっくり読んだことは無い。お許しいただきたい」

 日本人に先を越されたのがそんなに悔しいなら、叢書に入れなければいいのに、という気もする。が、波多野の業績はそれだけ大きなものだった。
 余談ながら、波多野乾一が亡くなるのと入れ違いで生まれてきた孫娘の波多野真矢さんも、京劇の研究者であると同時に、中国本土でも実力を認められた有名な票友である。筆者(加藤)も学生時代、京劇『蘇三起解』や『覇王別姫』を、当時、慶應大学の学生だった波多野さんと一緒に演じたことがある。それにしても、波多野真矢さんといい、平林宣和さんといい、十年前の学生時代に一緒に「京劇研究会」の舞台で京劇を演じた仲間が、今ではそれぞれ大学の教壇に立っていることを思うと、時の流れを感じる。

京劇の文学性を発見した日本人――芥川龍之介(二)

 芥川龍之介『侏儒の言葉』は、「文芸春秋」誌創刊号(一九二三年一月)から二五年十一月まで巻頭に連載された警句集だが、この中に突如として京劇が出てくる。

「虹霓関」を見て

 男の女を猟するのではない。女の男を猟するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事実を戯曲化した。しかしこれを戯曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたしは梅蘭芳メイランフアンの「虹霓関こうげいくわん」を見、支那にも既にこの事実に注目した戯曲家のあるのを知つた。のみならず「戯考」は「虹霓関」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と剣戟とを用ひた幾多の物語を伝へてゐる。
董家山とうかざん」の女主人公金蓮、 「轅門斬子ゑんもんざんし」の女主人公桂英けいえい、 「双鎖山さうさざん」の女主人公金定等は ことごとくかう言ふ女傑である。 更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年将軍を馬上にとりこにするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適こてき氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士ししんしを除きさへすれば、全京劇の価値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲学的である。哲学者胡適氏はこの価値の前に多少氏の雷霆らいていの怒を和げる訳には行かないであらうか?

参考 青空文庫
加藤徹の注
○『戯考』(ぎこう)・・・詳細は松浦恆雄「民国初年における『戯考』の文化的位置」(https://ci.nii.ac.jp/naid/110007587109)参照。
○虹霓関・・・演目名。梅蘭芳は前半では東方氏(とうほうし)を、後半では紅線(剣侠仙女)を演じた。
○金蓮・・・董金蓮(とうきんれん)。
○桂英・・・穆桂英(ぼくけいえい)、参考 「京劇「楊門女将2017」解説
○金定・・・劉金定(りゅうきんてい)。
○梨花・・・樊梨花(はんりか)、参考 新潮劇院・京劇「樊江関」(はんこうかん)


 驚くべき一文である。芥川は京劇の脚本を文学作品として捉え、ジョ―ジ・バ―ナ―ド・ショウ(George Bernard Shaw一八五六―一九五〇)の戯曲「Man and Superman」(一九〇三)と比較した。中国でさえ、京劇が持つ「はなはだ哲学的」なテ―マについて言及した文章はまれである。
 王大錯編『戯考』は、全四十冊にのぼる京劇の脚本集。一九一五年の初版発行から最終巻の発行まで十年かかった大著である。収録作品は京劇を中心に約六百本で、その大半は作者不明である。
 中国人にとって『戯考』は文学作品ではなかった。京劇は芸能であっても芸術ではなかった。中国人が京劇の劇場に足を運んだのは、自分が好きな役者の「芸」を堪能するためであった。だが、京劇の歌やせりふは難解である。そこで、舞台鑑賞や京劇の歌を覚えるための副読本として、『戯考』のような本が出たのである。
 しかし芥川は、京劇の脚本を「戯曲」として、つまり、それだけで完結した文学作品として読み、それが高度な文学性を持つことを発見した。本来、このような仕事に先鞭を着けるべきだったのは、中国の文学者だったはずである。ところが、当時の中国の「文学革命」の旗手たち、例えば魯迅や胡適などは、京劇を過去の遺物として苦々しい目で見ていた。そのため現在でも
「京劇は舞台芸術である。京劇の脚本とか物語は、文学と呼ぶに値しないくだらないものだ」
 という偏見は根強くある。
 芥川の京劇観は、外国人、それも中国文化に深い造詣を持つ日本人にして初めて可能な創造的思考だったと言える。

京劇女優の起源は上海から――林黛玉(一)

 日本の女優第一号「川上貞奴」は、もともと芸者だった。中国でも、劉喜奎より上の世代の早期の女優は、芸者を兼ねていた。
 京劇女優の歴史は、清末の同治年間(一八六二―七四)、上海で最初の女優京劇団ができたことに始まる。これは北京で食い詰めたある京劇男優が、安徽省安慶の農村で貧しい少女十数人を買ってきて芸を仕込み、上海で働かせたものである。
 当時、少女だけを集めた劇団は他の芸能では存在したが、京劇では初めてだった。劇団といっても、男尊女卑の時代のことだから、一般劇場には出演せず、もっぱら会館での貸し切りパ―ティ―や宴席に出張公演するという特殊な劇団だった。出演料も男性劇団より安く、劇団のもうけは「班主」である男性が独占し、少女たちの取り分は雀の涙だった。
 この女優劇団の「成功」を見て、各地でも女優京劇団が作られるようになった。ただし、女優と男優が京劇の舞台上で共演することは、風紀上の理由で、その後も長いあいだ禁止された。
 清末から民国初年にかけて、女優は「坤角」とか「坤伶」という雅称で呼ばれ、女優劇団は「坤班」と称された。日本語で「乾坤一擲」というときの「乾坤」は天地の意である。陰陽五行思想では、女性を大地すなわち坤にあてる。
 時代が民国になっても、京劇の女役は依然として梅蘭芳など男性によって演じられ、女優の舞台進出は限られていた。また、前述の劉喜奎よりも前の女優は、「妓戯兼営」すなわち芸者業と女優業の両方をこなした。
 ここではその時代の代表的人物、林黛玉(一八六四―一九二四)を取り上げてみよう。
 彼女は幼くして父を失い、母に連れられて上海に流れ、十三歳で妓院(芸者屋)に売られ、京劇や梆子の歌をはじめとする歌舞音曲の芸を仕込まれ、十五歳で芸者デビュ―した。源氏名は『紅楼夢』の才色兼備の美女「林黛玉」から取った。その後一時結婚したものの、すぐに破綻。北京、天津の店で働くが、北清事変(一九〇〇)で南方に避難し、漢口で梆子の花旦を演じて人気を博す。その後、上海にもどり「群仙茶園」の女子劇団の看板女優となって京劇や梆子を演じ、「美仙茶園」の看板女優だった呉新宝や、武小生(若武者を演ずる役柄)の女優・謝湘娥などと並び称された。
 いまや中国でまったく忘れ去られたに等しい林黛玉に会い、その様子を驚嘆の筆致で書き留めた日本人がいる。芥川龍之助(一八九二―一九二七)である。

京劇の歌を唱う芸者たち――林黛玉(二)

 芥川は大阪毎日新聞社の社員だった大正十年(一九二一)、満二十九歳のとき、海外視察員として中国に特派された。三月十九日に東京駅を出発後、旅先で病気による入退院を繰り返すという体調不良に悩まされつつ、七月末に帰国するまで、上海、南京、九江、漢口、長沙、洛陽、北京、大同、天津などの地をまわった。その時の紀行文は大正十四年(一九二五)に単行本『支那游記』にまとめられ、改造社から出版された。
『支那游記』「上海游記」「十五―十六・南国の美人」を読んでみよう。原文の文字づかいや句読点、一部の表現は改めた。
 場所は一九二一年の上海。中国共産党が上海で秘密の結党大会を開く、直前のことである。

「上海では美人を大勢見た。見たのはいかなる因縁か、いつも小有天という酒楼だった。(中略)私が大勢美人を見たのは、神州日報の社長・余洵氏と食事を共にしたときに勝るものはない。これも前に言った通り、小有天の楼上にいたときである。小有天は何しろ上海でも夜は殊に賑やかな三馬路の往来に面していたから、欄干の外の車馬の響きは、ほとんど一分も止むことはない。楼上ではもちろん談笑の声や唄に合わせる胡弓の音が、しっきりなしに沸き返っている」(『支那游記』)

 余洵は、上海の美人芸者たちを宴席に呼ぶため、指名呼び出し状に名前を書く。彼は「梅逢春」という名前を書くと、にやにや笑いながら芥川に見せて、
「これがあの林黛玉です。もう行年五十八ですがね。最近二十年間の政局の秘密を知っているのは、大総統の徐世昌を除けば、この人一人だとかいうことです。あなたが呼ぶことにしておきますから、参考のためにご覧なさい」
 と流暢な日本語で言った。
 余洵の意味深長なコメントは、暗に、彼女を含めた早期の女優が権力者の枕席に侍らされる存在だったことを指す。
 民国初年の上海では、西洋式の新式劇場が雨後のタケノコのように建設された。
「茶園」すなわち明清以来の旧式劇場は不景気となり、林黛玉の群仙茶園もつぶれてしまった。そこで彼女は、芥川と会う三年前の一九一八年から、再び芸者業を始めたのである。
 芥川は林黛玉を待つが、彼女はなかなか来ない。
 そうこうするうちに、若い芸者が次々と来て、客席に侍り、京劇の歌を唱う。

「その内に秦楼という芸者が、のみかけの紙巻を持ったなり、西皮調の汾河湾とかいう宛転たる唄をうたいだした。芸者が唄をうたうときには、胡弓にあわせるのが普通らしい。胡弓弾きの男は、どういう訳か、たいてい胡弓を弾きながらも、殺風景を極めた鳥打帽や中折帽をかぶっている。胡弓は竹のずんど切りの胴に、蛇皮を張ったのが多かった」(『支那游記』)

「紙巻」は、紙巻タバコのこと。「西皮」は京劇の唄で使われるふしまわしの名称。
「汾河湾」は当時の人気演目の一つ。内容は、唐の太宗(李世民)の部将だった薛仁貴と、その妻・柳迎春の交情を描いたもの。ちなみに、この柳迎春というキャラクタ―は、皇なつきさんの京劇漫画『燕京伶人抄』にもチョイ出している。
 そのあらすじは、薛仁貴は若いころは貧乏な雇われ人で、主家の娘・柳迎春と駆け落ちする。やがて大きな戦争が始まり、薛仁貴は出征。柳迎春は男子を生み、「丁山」と名づける。年月がたち、丁山は少年となり、弓で雁を射落として母を養う。いっぽう、薛仁貴は東の外国との戦争で大手柄を立て、出世を遂げ、妻を探しに故郷にもどり、汾河湾の地まで来る。突然、虎があらわれ、薛仁貴はあわてて矢を射て、誤って丁山を射殺する。その後、薛仁貴は妻を探しあて、感激の再会を果たす。息子が生まれていたことを知って彼が喜んだのも束の間。彼は妻の話を聞くうちに、さきほど矢で射殺した少年が自分の息子であることを悟り、夫婦は悲嘆にくれる。――
 ちなみに、この演目で死んだはずの薛丁山は、別の京劇演目「馬上縁」では何事もなかったように生きていて、父・薛仁貴とともに戦争に行く。そして敵将の娘で女武者である樊梨花に一目惚れされ、芥川が『侏儒の言葉』の中でコメントしたように(後述)、無理やり夫にされてしまうのである。
 京劇はもともと小伝統だったので、演目も相互に矛盾した内容のものが少なくない。が、中国の観客はこの種の矛盾には寛大であった。
 さて、かの梅蘭芳も柳迎春を演じて好評を博した。この芸者さんが唄った「汾河湾」のさわりの部分は「梅派」の唄いかただったかもしれない。
 梅蘭芳のブレ―ンで、のち台湾に渡った文人・斉如山(一八七五―一九六二)は、
「いまの京劇の『汾河湾』は、梆子腔よりも雅であるだけでなく、(京劇版が原作とした)崑曲の『射雁記』よりもずっと良い。しかし、梆子腔の俗っぽさも少なからず残っている」
 と評している。
 このあとも、次々と芸者が来て、京劇の歌を披露する。そのうち、芥川の友人で当時有名な京劇通だった村田孜郎(烏江)も立ち上がり、京劇『武家坡』の、
「八月十五月光明」
 というくだりを唱い始め、芥川を一驚させる。この『武家坡』も、前出の『汾河湾』と同趣向の京劇で、外国との戦争で行方不明になっていた薛平貴(前出の薛仁貴と名前がそっくりだが、赤の他人)が、突然、妻・王宝釧のもとに帰ってきて、自分の正体をかくして妻の貞操を試したあと、感激の再開を果たす、という演目。
 近代中国は、内憂外患の戦火が絶えず、社会も保守的だった。『汾河湾』も『武家坡』も、ヒロインは親でなく自分の意思で結婚相手を選び、外国との戦争に行き帰ってこない夫を何年でも待ち続け、最後には夫と再会する。
 人々は、現実の世界では得られぬものを、京劇のなかに見いだしていたのである。

芥川を驚嘆させた京劇女優――林黛玉(三)

 この夜の宴席の呼び物である「林黛玉」は、いかにも大物らしく、一番最後にやって来た。

「林黛玉の梅逢春がやっと一座に加わったのは、もう食卓の鱶のヒレの湯(ス―プ)が荒らされてしまった後だった。彼女は私の想像よりも、よほど娼婦のタイプに近い、まるまると肥った女である」(『支那游記』)

『紅楼夢』の林黛玉は、胸を病むほっそり型の美女である。しかし芥川が見た彼女は、今年で五十八歳というのに、若い時分に真珠の粉末(不老の薬)を服用していたため、せいぜい四十にしか見えぬという魔性の女だった。
 芥川は、彼女の服装やアクセサリ―について詳細に描写するが、その部分は割愛する。

「これはこんな大通りの料理屋に見るべき姿じゃない。罪悪と豪奢とが入り交じった、たとえば『天鵞絨の夢』のような谷崎潤一郎氏の小説中に髣髴さるべき姿である」

 彼女の芸の力量は、中国語がほとんどできない芥川にも理解できた。

「彼女がいかに才気があるか、それは彼女の話しぶりでもすぐに想像ができそうだった。のみならず、彼女が何分かのち、胡弓と笛とに合わせながら秦腔の唄をうたいだしたときには、その声と共にほとばしる力も、確かに群妓を圧していた」

 秦腔は、ここでは「梆子腔」と同義語。秦腔の唄の伴奏のときは、京劇のときには無かった「笛」が加わる、と芥川はさりげなく描写する。筆の精確さは、さすがである。
 芥川を驚嘆させた林黛玉は、積年のアヘン吸引がたたり、翌二二年冬、寝たきりの状態となった。そして二四年五月、苦痛にのたうちまわりながら死んだ。
 清末民初の京劇女優については、その「妓戯兼営」という性格上、京劇史研究における扱いも冷淡である。
 芥川が最晩年の林黛玉に会い、彼女の才気と芸の力量を証明する文章を書き残してくれて、良かったと思う。

芥川が見た京劇・崑曲俳優たち

『支那游記』には、林黛玉のほかにも、俳優についての記事がたくさん出てくる。彼らについては『芥川龍之介全集』の注でもほとんど解説されていないので、こちらで紹介しておく。
○蓋叫天 京劇の武生。この名優については後述する。
○小翠花 またの名を于連泉(一九〇〇―六七)。京劇と梆子を兼演した花旦(男性)。木や布でこしらえた小さな足で歩く「蹻功」の技で芥川の心をとらえた。「蹻功」の演技は纏足を模写し、バレリーナのつま先立ちと同様、蹄行美をアピールするものだが、のちの京劇改革運動で、封建的で淫らであるという理由で廃止された(この間の経緯は、黄育馥『京劇・蹻和中国的性別関係』に詳しい)。
 芥川は京劇の演技の象徴性について説明したあと、
「そう言えば今でも忘れないが、小翠花が梅龍鎮を演じたとき、旗亭の娘に扮した彼はこの敷居を越えるたびに、必ず鶸色の梆子(ズボン)の下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底のごときは、架空の敷居でなかったとしたら、あんなに可憐な心持ちは起こさせなかったのに相違ない」
 と書いている。
「梅龍鎮」は、別名「美龍鎮」「遊龍戯鳳」「下江南」ともいう。明の正徳帝(武宗。在位一五〇六―二一)が民間人に変装し、おしのびで地方を旅行したとき、ひなびた旗亭(居酒屋兼旅籠)に泊まり、旅籠の主人の妹・鳳姐を見そめてモーションをかける。鳳姐は、はにかんだり、怒ったふりをしたり、と、可憐でなまめかしい演技をする。最後に正徳帝は自分の正体を明かし、鳳姐を妃にする、という内容。
 後述するように、かの毛沢東はこの芝居を好み、死の数ヶ月前に極秘のうちに映画に撮影させて鑑賞した(当時は文革中で古典京劇を禁止していたため)。
〇白牡丹 京劇俳優・荀慧生(じゅん・けいせい1900〜1968)の若き日の芸名。京劇四大名旦(梅、尚、程、荀)の一人で、梅蘭芳と並ぶ「おんながた」の名優となった。文革中に迫害を受けて死去。
 「私(芥川)が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋というよりも、舞台裏と言った方が、あるいは実際に近いかもしれない。とにかくそこは舞台の後ろの、壁が剥げた、ニンニク臭い、いかにも惨憺たるところだった。なんでも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来たとき、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗なことだったというが、こういう楽屋にくらべると、なるほど帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない」(『支那游記』)
 芥川が、荀慧生が演じた『玉堂春』は面白かったと誉めると、彼は日本語で「アリガト」と答え、床の上へ手鼻をかみ、芥川を驚かせた。
 芥川の『支那游記』初版では「白牡丹」であったが、後の版では、理由は不明ながら別の京劇俳優「拷イ丹」(黄玉麟1907ー1968)の名前に直されてしまった。筆者(加藤徹)も、拙著『京劇』(中公叢書、2002)執筆時には当時最新版の『芥川全集』しか参照していなかったため、「芥川が会ったのは黄玉麟である」という前提で記事を書いてしまった。
 後に、研究者である秦剛氏が、研究発表「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(2008 年上海外国語大学 日本学研究国際フォーラム。予稿集p.134-p.135)や「芥川龍之介上海観劇考」( 『芥川龍之介研究』、 第5・6合併号、国際芥川龍之介学会、2012年)で、芥川が上海で見た京劇について一次資料を駆使して実証的に明らかにされたとおり、芥川が上海の楽屋で会ったのは、初版のとおり白牡丹こと若き日の荀慧生であった。
 この「拷イ丹への書き換え問題」について、筆者は、「やぶちゃん」氏のブログ「Blog鬼火〜日々の迷走」の記事、
  2009/06/01 上海游記 九 戲臺(上)
http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/2009/06/post-84c2.html 
が詳しくてわかりやすい。
(以下は昔、筆者が書いた記事。拙著『京劇』でも、以下のように書いてしまった。(^^;;
上述のとおり、現行の『芥川全集』の「黄玉麟(拷イ丹)」は、「荀慧生(白牡丹)」の誤り。
訂正の意味をこめて、以下にあえて昔書いた誤りの記事を残しておく。)

○緑牡丹 またの名を黄玉麟(一九〇七―一九六八)。京劇の青衣兼花旦。清朝の官僚の家柄の出身で、父親が一九一三年の「第二革命」のとき袁世凱討伐軍に参加して敗北したため、一家は上海に逃げ、困窮。一六年、黄玉麟は家族の生活のため、勉学を中断して京劇の道に入り、芥川と会見した二一年には、数え十五歳の若さで大スターになっていた。
「私(芥川)が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋というよりも、舞台裏と言った方が、あるいは実際に近いかもしれない。とにかくそこは舞台の後ろの、壁が剥げた、ニンニク臭い、いかにも惨憺たるところだった。なんでも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来たとき、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗なことだったというが、こういう楽屋にくらべると、なるほど帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない」(『支那游記』)
 芥川が、黄玉麟が演じた『玉堂春』は面白かったと誉めると、彼は日本語で「アリガト」と答え、床の上へ手鼻をかみ、芥川を驚かせた。
 この少年はその後、四十七年を生きた。芥川との会見の四年後の二五年には来日公演を果たすが、彼がスターの座を保った時期は短かった。三〇年代に入ると、アヘン吸引のため身体をこわし、容色と喉も衰え、ドサ周りなどもした。日中戦争終結後の一時期は、役者業をやめ商売に転向したが、経営破綻し、京劇を教え口を糊する苦しい日を送った。新中国成立後は、短期公演で舞台に立ったり、上海市戯曲学校の教師をつとめた。六六年に文化大革命が始まると激しい暴力と迫害を受けた。六八年十一月、胃癌のために死去。
 以上は、芥川が上海で見た俳優である。
 その後、芥川は北京に行き、おとといは前門外の三慶園で余叔岩や尚小雲を、きのうは東安市場の吉祥茶園で梅蘭芳と楊小楼を、というように、一流の京劇俳優の舞台を堪能した。
 芥川は同楽茶園で崑曲『胡蝶夢』を見て、
「今までに僕の見たる六十有余の支那芝居中、一番面白かりしは事実なり」
 と大いに気に入り、『支那游記』の中で舞台や劇場の様子を詳細に解説している。
この『胡蝶夢』は、荘子が、自分の死後も妻は貞操を守るか否か、幻術を使って試す、という芝居である。新中国成立後は淫戯として上演禁止になったが、外国人の間では評価が高く、例えばアメリカの舞台芸術高級研究所(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)では、A・C・スコット教授の指導のもと、京劇版『胡蝶夢』をアメリカ人俳優を使って公演して好評を博した(一九六一)。
『胡蝶夢』に関心を持った芥川の深層心理では、もしかすると、このときすでに、六年後の自殺にむけての時限スイッチが入っていたのかもしれない。
 芥川が『支那游記』で名前をあげている『胡蝶夢』の出演者四人のうち、二五年に死んだ一人をのぞく三人が、三七年からの日中戦争で被害を受けた。
○韓世昌(一八九八―一九七七) 「北崑」すなわち北中国の崑曲の名優で、河北省高陽県河西村の人。『胡蝶夢』で荘子の妻の役を演じた。彼は貧農の家に生まれ、幼時から科班で崑曲を、陳徳霖に京劇を習った。芥川が自殺した翌年の二八年十月に日本公演を果たす。日中戦争中は舞台を自粛し、京劇女優の言慧珠や朝鮮舞踏家の崔承喜など若手の教育に専念。新中国成立後は、北方崑曲劇院院長を勤め、六〇年に中国共産党に入党。政治協商会議委員や中国戯劇家協会理事など、要職を歴任した。
○陶顕庭(一八七〇―一九三九) 芥川は「陶顕亭」と記す。北崑の俳優、河北省安新県の人。『胡蝶夢』で荘子を演じた。孫悟空ものなどで人気を保ち続けたが、三七年に日中戦争が始まると、髭を伸ばし、日本人のために舞台に立つことを拒否した。三九年秋、天津で水害にあって困窮。その直後、故郷の家が日本軍の侵攻によって消滅したことを聞き、にわかに病を発して倒れ、その翌日に急死。
○馬鳳彩(一八八八―一九三九) 芥川は「馬夙彩」と記す。北崑の俳優で、韓世昌と同じ村の出身。『胡蝶夢』で楚の公子を演じた。二八年には韓世昌とともに日本公演に参加。三七年、天津で崑曲の科班の教師となるが、ほどなく日中戦争が勃発して科班は解散。彼は生徒が故郷に帰るのを護送し、そのまま郷里で病没。
○陳栄会(一八七三―一九二五) 北崑の俳優、河北省三河県の人。『胡蝶夢』で老胡蝶を演じた。芥川が舞台を見た四年後に病死。

オ―ナ―が転々と変わった上海の劇場

 上海の劇場は、北京と違い、オ―ナ―がめまぐるしく変わった。
 一例として、芥川龍之介が一九二一年に京劇を見た「天蟾舞台」を取り上げよう。
 この劇場は、民国元年(一九一二)、上海随一の遊び場「楼外楼」の一部として上海市九江路湖北路口で開業した。当時としてはモダンな鉄筋コンクリ―トの建物で、開業時の名前は「新新舞台」であった。が、翌年にはオ―ナ―が変わり「醒舞台」と改名。一四年には人員が入れ替わり「竟舞台」と改名。一六年には賃貸契約の借り手が変わり「天蟾舞台」と改名(「天蟾」は月の雅称)。そして、芥川が観劇した九年後の一九三〇年、「天蟾舞台」の看板は、賃貸契約満了にともない、福州路雲南路にあった別の劇場に引っ越した。
 この復州路の建物も、二六年の開業時は「大新舞台」、その後「天声舞台」と、それまでに二度も改名している。
 清末から民国期にかけての上海には、地方の劇団や俳優が次々に流れ込み、劇場が雨後のタケノコのように作られ、活況を呈していた。劇場や劇団は、人気が出ると、少しでも条件の良いところに引っ越した。その反面、いろいろ問題も生じた。劇場が引っ越してばかりいると利権関係が複雑になりやすく、秘密結社や裏社会の組織が暗躍する余地ができる。また、経営側は短期決戦で利益をあげようとし、劇場を大型化し、入場料を高く設定するため舞台装置にも金をかけたがり、しばしば俳優側と対立した。
 上海の「海派京劇」が、北京の「京派京劇」と違う独特な傾向を持つに至った一因は、劇場がコロコロ変わったことにある。これは、後述の蓋叫天の骨折事故をはじめ、京劇にはマイナスに働いたのである。

日本の「後見」とひと味違う中国の「検場」

 舞台浄化運動が進んだ今日では、演技中の俳優以外の者がフラフラと舞台上をさまようことはないが、民国期までの舞台はそうではなかった。
 芥川は、北京で崑曲の孫悟空を見たとき、異様な人物が舞台上にいるのを見て不思議に思った。

「悟空の側にはまた衣装を着けず、粉黛を装はざる大男あり。三尺余り(九十センチ以上)の大団扇をふるって、たえず悟空に風を送るを見る。羅刹女(牛魔王の夫人)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王か何かと思ひ、そっと波多野君に尋ねてみれば、これはただ扇風機代りに役者を扇いでやる後見なるよし」(『支那游記』)

 芥川は歌舞伎や能の用語で「後見」と書いているが、京劇の用語では「検場」あるいは「検場的」「検場人」と言う。中国の劇場に場面転換の幕を使わなかったころ、舞台に小道具を運び込むための「必要悪」だった。
 検場の職務のうち、俳優の演技中に小道具を舞台上に運んだり、俳優の着替えを手伝う、というのは日本の後見に似ている。しかし検場は、舞台上のストーリーと関係なく、俳優にお茶を運んだり、立ち回りのとき机を手で支えたり、汗を拭くタオルを渡したり、扇風機代わりにあおいでやった。しかも服装は平服だったり、時には半裸だった。中国の観客は、舞台上に無い物を想像するだけでなく、舞台上に有る事物を無いものと見なす「マイナスの想像力」にも長けていたのだ。
 中国演劇の後進性とだらしなさの象徴のように言われた検場だが、れっきとした芝居のプロフェッショナルである。正式には「劇通科」と呼ばれ、俳優や楽隊と同じく「戯界七行七科」中の一科であった。一般に検場は五人編成が多く、「検場頭」(リーダー)、「上手」(上場門の係)、「下手」(下場門の係)、ふたりの「打簾子」(上場門と下場門の幕をかかげあげる助手。自動ドアのモーター代わり)と、仕事も細分化されていた。中でも「上手」の仕事が一番むずかしく、熟練した者があてられた。
 名優や名奏者と同じく、検場にも流派があり、歴史に名を残した名検場も少なくない。
 また、普段は透明人間のように扱われる検場も、時に芝居の流れに入って興を添えることがあった。昔の丑(道化役)は、ときどき検場をネタに観客の笑いをとった。
 例えば『背娃入府』という演目の末尾では、丑が、わが子に見立てた「喜神」(福の神)を舞台に置き「あの子の舅舅(おじさん)が来て抱きあげてくれるのを待とう」と言う場面があった。検場を自分の妻の弟に見立てて言っている訳で、観客はここで爆笑した(斉如山『戯界小掌故』)。たとえて言うと、今日のテレビのバラエティ番組で、お笑いタレントが、舞台に物を運んでくるアシスタント・ディレクターをからかって笑いを取るようなものだ。
 かっての検場の職務は、新中国になってから、観客から見えない舞台の袖幕の中や楽屋で行われるようになった。廃止されてみると、おかしな演目もでてきた。
 例えば『戦冀州』(三国志)や『漢宮驚魂』(『姚期』旧本)では、それぞれ馬超や光武帝(劉秀)が僵屍の技で床に勢いよく卒倒する演技を、何度も披露する。そのたびに役者を扶け起こすのは、検場の仕事だった。だが、検場が廃止されたあと、馬超の場合は副将が、光武帝の場合は宦官が助け起こすという演出に変わった。それまで副将や宦官は黙々とデクノボーのように舞台の隅に立ち、主人が倒れるのを待っている。なんとも間が抜けて見える。
 もし日本人なら、検場を一律に廃止せず、演目によって検場を存続させたであろう。だが近現代の中国では、いったん制度を改革する以上、万事につけ妥協を許さない。京劇の検場と歌舞伎の後見の違いは、そのことも象徴している。

中国の観客が騒がしかった理由

 芥川龍之介は、民国期の京劇の劇場のさわがしさにビックリした。

「その代わり中国の芝居にいれば、客席では話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。(中略)現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向こう三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった」(『支那游記』)

 当時の中国人のために弁護すれば、中国に限らず、いわゆる「小伝統」の劇場は、どこでもこのような状況であった。現在でも、例えばロックのライブ会場の観客は、ステージ同様に騒ぐ。昔の中国の京劇の観客も、ざわついたり騒がしいことによって芝居に「参加」していたのである。
 近代の西洋式劇場の設計思想は、ベンサムのいわゆる「一望監視装置(パノプテイコン)」型システムにのっとっている。観客席は一人用の椅子を並べたもので、すべて舞台の方を向く。上演中は客席の照明を落とし、舞台だけを照らす。こうして「観衆」は横の連絡を絶たれ、個人化した「観客」となり、舞台上にのみ神経を集中する。劇場空間の支配権は舞台上の演技者にあり、コミュニケーションの動線も一元集中化されている。
 いっぽう「茶園」と呼ばれていた頃の中国の伝統的な劇場建築は、舞台と観客の交感だけでなく、観客どうしの交感も重視するクロスオーバー式の設計思想に基づいていた。芝居は一種の祝祭であり、客席は社交の場であった。客席の机やテーブルも、そのような設計思想にもとづいて配置された。
 そういう本質を無視し、昔の京劇の客席がにぎやかだったことを、短絡的に中国人の民度の低さに結びつけてはならない。
 今日、京劇は西洋式のプロセニアム劇場で上演されることが多い。一方、北京市の湖広会館劇場、正乙祠劇場のように、清代の劇場を修復して、昔の雰囲気そのままに京劇を味わえる劇場も何カ所かあって、人気の観光スポットとなっている。

中国演劇の立ち回りが猛烈をきわめる理由

 一九二一年、上海と北京で京劇を見た芥川龍之介は、その立ち回りのすごさに驚き、

「武劇の役者は昔から、腕力が強いということだが、これでは腕力がなかった日には、肝腎の商売が勤まりっこはない」(『支那游記』)

 と書いている。魯迅も、童年時代に故郷で地方劇を見たときのことを回想した短編小説のなかで、一度に連続八十四回もトンボを切る「鉄頭老生」の立ち回りについて書いている(『社戯』)。
 中国演劇の立ち回りの峻烈さは、演劇のルーツである追儺系の武技にまでさかのぼる。古来、中国の農村の祭りでは、村から悪い病気や日照り害、イナゴの害を追い払ってくれる儺神を招くことがあった。農村の選ばれた屈強の男が、神聖でおどろおどろしい仮面をかぶって儺神に憑依されたことを示し、刀や剣、槍、矛などをブンブンと振り回し、農村に害をもたらす目に見えぬ鬼と戦う所作を演ずる。この、現在でも南中国の奥地の農村で伝承されている儀礼は、鍛錬された武技であり、演劇の祖先の「生きた化石」である(詳しくは田仲一成『中国演劇史』第一章を参照)。
『水滸伝』に出てくる史家村とか祝家荘のような武装農村は、中国に実在した。国が平和なときでも、農村部では「械闘」という村落同士の戦闘で死者が出た。非常時ともなれば、カリスマ性を持つ役者を中心に、武装した民衆がまとまることもあった。
 例えば、李文茂(?―一八六一)は、粤劇(広東の地方劇)の二花臉で『蘆花蕩』の張飛などを得意としたが、太平天国の乱に呼応して反清の兵を挙げて一大勢力となり、平靖王と称するまでになった。また、光緒十一年、フランス軍が台北を攻めたときも、現地の俳優・張阿火は、有志数百名を率いてフランス軍を待ち伏せし、これを見事に撃退している。
 辛亥革命で清朝がくつがえると、土豪や貴顕につかえていた用心棒たちが職を失って芝居の「武行」になったため、立ち回りの水準はさらに高まったという。


芥川龍之介「上海游記」原文の一部

 中国の劇場の「感応の動線」は「スクランブル交差点型」(
説明はこちら)であったことを、芥川は詳細に記している。
参考 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/51215_56381.html
※現在の通行本で誤って「緑牡丹」となっている俳優名は、以下の引用文では「白牡丹」と訂正済み。
九 戯台(上)

 上海では僅に二三度しか、芝居を見物する機会がなかった。私が速成の劇通になったのは、北京ペキンへ行った後の事である。しかし上海で見た役者の中にも、武生ウウションでは名高い蓋叫天がいきゅうてんとか、花旦ホアタンでは白牡丹はくぼたんとか小翠花しょうすいかとか、兎に角当代の名伶めいれいがあった。が、役者を談ずる前に、芝居小屋の光景を紹介しないと、支那の芝居とはどんなものだか、はっきり読者には通じないかも知れない。
 私の行った劇場の一つは、天蟾舞台てんせんぶたいと号するものだった。此処は白い漆喰塗りの、まだ真新らしい三階建である。その又二階だの三階だのが、ぐるりと真鍮の欄干をつりた、半円形になっているのは、勿論当世流行の西洋の真似に違いない。天井には大きな電燈が、煌々と三つぶら下っている。客席には煉瓦の床の上に、ずっと籐椅子が並べてある、が、いやしくも支那たる以上、籐椅子といえども油断は出来ない。何時か私は村田君と、この籐椅子に坐っていたら、ね恐れていた南京虫に、手頸を二三箇所やられた事がある。しかしまず芝居の中は、大体不快を感じない程度に、綺麗だと云って差支ない。
 舞台の両側には大きな時計が一つずつちゃんと懸けてある。(尤も一つは止まっていた。)その下には煙草の広告が、あくどい色彩を並べている。舞台の上の欄間には、漆喰の薔薇やアッカンサスの中に、天声人語と云う大文字がある。舞台は有楽座より広いかも知れない。此処にももう西洋式に、フット・ライトの装置がある。幕は、――さあ、その幕だが、一場一場を区別する為には、全然幕を使用しない。が、背景を換える為には、――と云うよりも背景それ自身としては、蘇州銀行と三砲台香烟さんほうだいこうえん即ちスリイ・キャッスルズの下等な広告幕を引く事がある。幕は何処でもまん中から、両方へ引く事になっているらしい。その幕を引かない時には、背景が後を塞いでいる。背景はまず油絵風に、室内や室外の景色を描いた、新旧いろいろの幕である。それも種類は二三種しかないから、姜維きょういが馬を走らせるのも、武松ぶしょうが人殺しを演ずるのも、背景には一向変化がない。その舞台の左の端に、胡弓、月琴、銅鑼どらなどを持った、支那の御囃おはやしが控えている。この連中の中には一人二人、鳥打帽をかぶった先生も見える。
 ついでに芝居を見る順序を云えば、一等だろうが二等だろうが、ずんずん何処へでもはいってしまえば好い。支那では席を取った後、場代を払うのが慣例だから、その辺ははなはだ軽便である。さて席が定まると、熱湯を通したタオルが来る、活版刷りの番附が来る。茶は勿論大土瓶おおどびんが来る。そのほか西瓜の種だとか、一文菓子だとか云う物は、不要プヤオ不要をきめてしまえば好い。タオルも一度隣にいた、風貌堂々たる支那人が、さんざん顔を拭いた挙句鼻をかんだのを目撃して以来、当分不要をきめた事がある。勘定は出方の祝儀とも、一等では大抵二円から一円五十銭の間かと思う。かと思うと云う理由は、何時でも私に払わせずに、村田君が払ってしまったからである。
 支那の芝居の特色は、まず鳴物の騒々しさが想像以上な所にある。殊に武劇ぶげき――立ち廻りの多い芝居になると、何しろ何人かの大の男が、真剣勝負でもしているように舞台の一角を睨んだなり、必死に銅鑼を叩き立てるのだから、到底天声人語所じゃない。実際私も慣れない内は、両手に耳を押えない限り、とても坐ってはいられなかった。が、わが村田烏江むらたうこう君などになると、この鳴物が穏かな時は物足りない気持がするそうである。のみならず芝居の外にいても、この鳴物の音さえ聞けば、何の芝居をやっているか、大抵見当がつくそうである。「あの騒々しい所がよかもんなあ。」――私は君がそう云う度に、一体君は正気かどうか、それさえ怪しいような心もちがした。

十 戯台(下)

 その代り支那の芝居にいれば、客席では話をしていようが、子供がわあわあ泣いていようが、格別苦にも何にもならない。これだけは至極便利である。或は支那の事だから、たとい見物が静かでなくとも、聴戯ちょうぎには差支えが起らないように、こんな鳴物が出来たのかも知れない。現に私なぞは一幕中、筋だの役者の名だの歌の意味だの、いろいろ村田君に教わっていたが、向う三軒両隣りの君子は、一度もうるさそうな顔をしなかった。
 支那の芝居の第二の特色は、極端に道具を使わない事である。背景の如きも此処にはあるが、これは近頃の発明に過ぎない。支那本来の舞台の道具は、椅子と机と幕とだけである。山岳、海洋、宮殿、道塗どうと――如何なる光景を現すのでも、結局これらを配置する外は、一本の立木も使ったことはない。役者がさも重そうに、かんぬきを外すらしい真似をしたら、見物はいやでもその空間に、扉の存在を認めなければならぬ。又役者が意気揚々と、房のついたむちを振りまわしていたら、その役者の股ぐらの下には、おごって行かざる紫騮か何かが、いなないているなと思うべきである。しかしこれは日本人だと、能と云う物を知っているから、すぐにそのこつを呑みこんでしまう。椅子や机を積上げたのも、山だと思えと云われれば、咄嗟とっさによろしいと引き受けられる。役者がちょいと片足上げたら、其処に内外を分つべきしきいがあるのだと云われても、これまた想像に難くはない。のみならずその写実主義から、一歩を隔てた約束の世界に、意外な美しささえ見る事がある。そう云えば今でも忘れないが、小翠花しょうすいか梅龍鎮ばいりゅうちんを演じた時、旗亭の娘に扮した彼はこの閾を越える度に、必ず鶸色ひわいろ褲子クウズの下から、ちらりと小さな靴の底を見せた。あの小さな靴の底の如きは、架空の閾でなかったとしたら、あんなに可憐な心もちは起させなかったのに相違ない。
 この道具を使わない所は、上に述べたような次第だから、一向我々には苦にならない。寧ろ私が辟易したのは、盆とか皿とか手燭とか、普通に使われる小道具類が如何にも出たらめなことである。たとえば今の梅龍鎮にしても、つらつら戯考をあんずると、当世に起った出来事じゃない。明の武宗が微行の途次、梅龍鎮の旗亭の娘、鳳姐ほうそを見染めると云う筋である。処がその娘の持っている盆は、薔薇の花を描いた陶器の底に、銀鍍金ぎんめっきの縁なぞがついている。あれは何処かのデパアトメント・ストアに、並んでいたものに違いない。もし梅若万三郎が、大口にサアベルをぶら下げて出たら、――そんな事の莫迦莫迦しいのは、多言を要せずとも明かである。
 支那の芝居の第三の特色は、隈取くまどりの変化が多い事である。何でも辻聴花翁つじちょうかおうによると、曹操そうそう一人の隈取りが、六十何種もあるそうだから、到底市川流いちかわりゅう所の騒ぎじゃない。その又隈取りも甚しいのは、赤だの藍だの代赭たいしゃだのが、一面に皮膚を蔽っている。まず最初の感じから云うと、どうしても化粧とは思われない。私なぞは武松の芝居へ、蒋門神しょうもんじんがのそのそ出て来た時には、いくら村田君の説明を聴いても、やはり仮面めんだとしか思われなかった。一見あの所謂いわゆる花臉ホアレンも、仮面ではない事が看破出来れば、その人は確に幾分か千里眼に近いのに相違ない。
 支那の芝居の第四の特色は、立廻りが猛烈を極める事である。殊に下廻りの活動になると、これを役者と称するのは、軽業師と称するの当れるにかない。彼等は舞台の端から端へ、続けさまに二度宙返りを打ったり、正面に積上げた机の上から、真っさかさまに跳ね下りたりする。それが大抵は赤いズボンに、半身は裸の役者だから、いよいよ曲馬か玉乗りの親類らしい気がしてしまう。勿論上等な武劇の役者も、言葉通り風を生ずる程、青龍刀や何かを振り廻して見せる。武劇の役者は昔から、腕力が強いと云う事だが、これでは腕力がなかった日には、肝腎の商売が勤まりっこはない。しかし武劇の名人となると、やはりこう云う離れ業以外に、何処か独得な気品がある。その証拠には蓋叫天がいきゅうてんが、宛然さながら日本の車屋のような、パッチばきの武松に扮するのを見ても、無暗に刀をふるう時より、何かの拍子に無言の儘、じろりと相手を見る時の方が、どの位行者武松らしい、凄味すごみに富んでいるかわからない。
 勿論こう云う特色は、支那の旧劇の特色である。新劇では隈取りもしなければ、とんぼ返りもやらないらしい。では何処までも新しいかと云うと、亦舞台えきぶたいとかに上演していた、売身投靠ばいしんとうこうと云うのなぞは、火のない蝋燭を持って出てもやはり見物はその蝋燭が、ともっている事と想像する。――つまり旧劇の象徴主義は依然として舞台に残っていた。新劇は上海以外でも、その後二三度見物したが、此点ではどれも遺憾ながら、五十歩百歩だったと云う外はない。少くとも雨とか稲妻とか夜になったとか云う事は、全然見物の想像に依頼するものばかりだった。
 最後に役者の事を述べると、――蓋叫天だの小翠花だのは、もう引き合いに出して置いたから、今更別に述べる事はない。が、唯一つ書いて置きたいのは、楽屋にいる時の白牡丹はくぼたんである。私が彼を訪問したのは、亦舞台の楽屋だった。いや、楽屋と云うよりも、舞台裏と云った方が、或は実際に近いかも知れない。兎に角其処は舞台の後の、壁が剥げた、にんにく臭い、如何にも惨憺たる処だった。何でも村田君の話によると、梅蘭芳が日本へ来た時、最も彼を驚かしたものは、楽屋の綺麗な事だったと云うが、こう云う楽屋に比べると、成程帝劇の楽屋なぞは、驚くべく綺麗なのに相違ない。おまけに支那の舞台裏には、なりの薄きたない役者たちが、顔だけは例の隈取りをした儘、何人もうろうろ歩いている。それが電燈の光の中に、恐るべき埃を浴びながら、往ったり来たりしている容子はほとんど百鬼夜行の図だった。そう云う連中の通り路から、ちょいと陰になった所に、支那かばんや何かが施り出してある。白牡丹はその支那鞄の一つに、かつらだけは脱いでいたが、妓女蘇三ぎじょそさんに扮した儘、丁度茶を飲んで居る所だった。舞台では細面ほそおもてに見えた顔も、今見れば存外華奢きゃしゃではない。寧ろセンシュアルな感じの強い、立派に発育した青年である。背も私に比べると、確に五分は高いらしい。その夜も一しょだった村田君は、私を彼に紹介しながら、この利巧そうな女形と、互に久闊きゅうかつを叙し合ったりした。聞けば君は白牡丹が、まだ無名の子役だった頃から、彼でなければ夜も日も明けない、熱心な贔屓ひいきの一人なのだそうである。私は彼に、玉堂春ぎょくどうしゅんは面白かったと云う意味を伝えた。すると彼は意外にも、「アリガト」と云う日本語を使った。そうして――そうして彼が何をしたか。私は彼自身の為にも又わが村田烏江うこう君の為にも、こんな事は公然書きたくない。が、これを書かなければ、折角彼を紹介した所が、むざむざ真を逸してしまう。それでは読者に対しても、甚済まない次第である。その為に敢然正筆を使うと、――彼は横を向くが早いか、真紅に銀糸のぬいをした、美しい袖をひるがえして、見事に床の上へ手洟てばなをかんだ。

 

芥川龍之介「北京日記抄」原文の一部

文中の「昆曲」「京調」は、現在はそれぞれ「昆劇(崑劇)」「京劇」と呼ばれる劇種を指す。
参考 https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/51217_56023.html
 波多野君や松本君と共に辻聴花先生に誘われ、昆曲こんきょくの芝居を一見す。京調けいちょうの芝居は上海以来、度たび覗いても見しものなれど、昆曲はまだ始めてなり。例の如く人力車の御厄介になり、狭い町を幾つも通り抜けし後、やっと同楽茶園と言う劇場に至る。紅に金文字のびらを貼れる、古き煉瓦造りの玄関をはいれば、――但し「玄関をはいれば」と言うも、切符などを買いし次第にあらず、元来支那の芝居なるものは唯ぶらりと玄関をはいり、戯を聴くこと幾分の後、金を集めに来る支那の出方に定額の入場料を払ってやるを常とす。これは波多野君の説明によれば、つまるかつまらぬかわからぬ芝居に前以て金など出せるものかと言う支那的論理によれるもののよし。まことに我等看客には都合好き制度と言わざるべからず。さて煉瓦造りの玄関をはいれば、土間に並べたる腰掛に雑然と看客の坐れることはこの劇場も他と同様なり。否、昨日梅蘭芳メイランファンや楊小楼を見たる東安市場とうあんしじょう吉祥きっしょう茶園は勿論、一昨日余叔岩よしゅくがん尚小雲しょうしょううんを見たる前門外の三慶園よりも一層じじむさき位ならん。この人ごみの後を通り、二階桟敷に上らんとすれば、酔顔(たる老人あり。鼈甲のかんざしに辮髪を巻き、芭蕉扇を手にして徘徊するを見る。波多野君、僕に耳語して曰、「あの老爺おやじ樊半山はんはんざんですよ。」と。僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時。恐らくは当年の酔李白も――などと考えし所を見れば、文学青年的感情は少くとも未だ国際的には幾分か僕にも残りおるなるべし。
 二階桟敷には僕等よりも先に、疎髯そぜんを蓄え、詰め襟の洋服を着たる辻聴花先生あり。先生が劇通中の劇通たるは支那の役者にも先生を拝して父とすもの多きを見て知るべし。揚州の塩務官高洲太吉氏は外国人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲太吉ありと大いに気焔を吐きいたれど、外国人にして北京に劇通たるものは前にも後にも聴花散人ちょうかさんじん一人に止めを刺さざるべからず。僕は先生を左にし、波多野君を右にして坐りたれば、(波多野君も「支那劇五百番」の著者なり。)「綴白裘てっぱくきゅう」の両帙りょうちつを手にせざるも、今日だけは兎に角半可通の資格位は具えたりと言うべし。(後記。辻聴花先生に漢文「中国劇」の著述あり。順天時報社の出版に係る。僕は北京を去らんとするに当り、先生になお邦文「支那芝居」の著述あるを仄聞そくぶんしたれば、先生に請うて原稿を預かり、朝鮮を経て東京に帰れる後、二三の書肆に出版を勧めたれど、書肆皆愚にして僕の言を容れず。然るに天公その愚を懲らし、この書今は支那風物研究会の出版する所となる。次手を以て広告することしかり。)
 乃ち葉巻に火を点じて俯瞰すれば、舞台の正面に紅の緞帳どんちょうを垂れ、前に欄干をめぐらせることもやはり他の劇場と異る所なし。其処に猿に扮したる役者あり。何か歌をうたいながら、くるくる棒を振りまわすを見る。番附に「火焔山」とあるを見れば、勿論この猿は唯の猿にあらず。僕の幼少より尊敬せる斉天大聖孫悟空ならん。悟空の側には又衣裳を着けず、粉黛を装わざる大男あり。三尺余りの大団扇を揮って、絶えず悟空に風を送るを見る。羅刹女らせつじょとはさすがに思われざれば、或は牛魔王か何かと思い、そっと波多野君に尋ねて見れば、これは唯煽風機代りに役者をあおいでやる後見なるよし。牛魔王は既に戦負けて、舞台裏へ逃げこみし後なりしならん。悟空も亦数分の後には一打十万八千路、――と言っても実際は大股に悠々と鬼門道へ退却したり。憾むらくは樊半山はんはんざんに感服したる余り、火焔山下の大殺を見損いしことを。
「火焔山」の次は「胡蝶夢」なり。道服を着たる先生の舞台をぶらぶら散歩するは「胡蝶夢」の主人公荘子ならん。それから目ばかり大いなる美人の荘子と喋々喃々ちょうちょうなんなんするはこの哲学者の細君なるべし。其処までは一目瞭然なれど、時々舞台へ現るる二人の童子に至っては何の象徴なるかを朗かにせず。「あれは荘子の子供ですか?」と又ぞろ波多野君を悩ますれば、波多野君、いささか唖然として、「あれはつまり、その、蝶々ですよ。」と言う。しかし如何に贔屓眼に見るも、蝶々なぞと言うしろものにあらず。或は六月の天なれば、火取虫に名代を頼みしならん。唯この芝居の筋だけは僕も先刻承知なりし為、登場人物を知りし上はまんざら盲人の垣覗きにもあらず。否、今までに僕の見たる六十有余の支那芝居中、一番面白かりしは事実なり。そもそも「胡蝶夢」の筋と言えば、荘子も有らゆる賢人の如く、女のまごころを疑う為、道術によりて死を装い、細君の貞操を試みんと欲す。細君、荘子の死を嘆き、喪服を着たり何かすれど、楚の公子の来り弔するや、……
ハオ!」
 この大声を発せるものは辻聴花先生なり。僕は勿論「好!」の声に慣れざる次第でも何でもなけれど、未だ曾て特色あること、先生の「好!」の如くなるものを聞かず。まずひつを古今に求むれば、長坂橋頭蛇矛だぼうよこたえたる張飛の一喝に近かるべし。僕、あきれて先生を見れば、先生、向うをゆびさして曰、「あすこに不准怪声叫好ゆるさずかいせいこうとよぶことをと言う札が下っているでしょう。怪声はいかん。わたしのように『好!』と言うのは好いのです。」と。大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論は真理なり。怪声と怪声たらざるとは客観的標準を以て律すべからず。僕等の認めて怪声とすものは、――しかしその議論は他日に譲り、もう一度「胡蝶夢」に立ち戻れば、楚の公子の来り弔するや、細君、忽公子に惚れて荘子のことを忘るるに至る。忘るるに至るのみならず、公子の急に病を発し、人間の脳味噌を嘗めるより外に死を免るる策なしと知るや、斧を揮って棺を破り、荘子の脳味噌をとらんとするに至る。然るに公子と見しものは元来胡蝶に外ならざれば、忽飛んで天外に去り細君は再婚するどころならず、かえって悪辣なる荘子の為にさんざん油をとらるるに終る。まことに天下の女の為には気の毒千万なる諷刺劇と言うべし。――と言えば劇評位書けそうなれど、実は僕には昆曲の昆曲たる所以ゆえんさえ判然せず。唯どこか京調劇よりも派手ならざる如く感ぜしのみ。波多野君は僕の為に「梆子ぼうし秦腔しんこうと言うやつでね。」などと深切に説明してくるれど、畢竟馬の耳に念仏なりしは我ながら哀れなりと言わざるべからず。なお次手に僕の見たる「胡蝶夢」の役割を略記すれば、荘子の細君――韓世昌、荘子――陶顕亭、楚の公子――馬夙彩ばしゅくさい、老胡蝶――陳栄会等なるべし。
「胡蝶夢」を見終りたる後、辻聴花先生にお礼を言い、再び波多野君や松本君と人力車上の客となれば、新月北京の天に懸り、ごみごみしたる往来に背広の紳士と腕を組みたる新時代の女子の通るを見る。ああ言う連中も必要さえあれば、忽――斧は揮わざるにもせよ、斧よりも鋭利なる一笑を用い、御亭主の脳味噌をとらんとするなるべし。「胡蝶夢」を作れる士人を想い、古人の厭世的貞操観を想う。同楽園の二階桟敷に何時間かを費したるも必しも無駄ではなかったようなり。
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