雲南省京劇院 来日公演 観劇メモ

 2006年9月21日(木)夜、雲南省京劇院の来日公演(こちら)を見ました。
 以下、備忘のために、感想を書いておきます。全て私の独断と偏見ですので、あまりご参考にならないでくださいますよう(^^;;

「三岔口」は、任堂恵(客)と劉利華(店主)の二人だけが登場する、という演出でした。最後に劉利華の妻や焦賛が登場して一同が味方同士であると気づく結末は、カットされており、任堂恵と劉利華の死闘が続くところで終わりました。二十世紀前半までの、もともとの「三岔口」では、宿屋の主人は宿泊客を殺してその金品を奪う極悪人で、最後は任堂恵に殺される、という設定でした。今回、最後の団円のシーンがカットされた理由は、出演者の人数の節約にあるのかもしれませんが、期せずして、古い形とちょっと似たテイストのある「三岔口」になっていました。

「活捉」は、美女の幽霊が、昔の男のもとにあらわれて、男を生きたまま地獄に引きずり込む、という、中国の芝居に複数ある演目の一つです。ただ、同工異曲の他の演目では、美女の幽霊にたたられるのは美男子ですが、この「活捉」では不細工な道化役(丑)です。これには、実は、深い意味があります。たたられる男は、スケベなブオトコ、ということで、私のようなオジサンの観客は、「ああ、幽霊でもいいから、あんなゾッとするほどの美女に、自分もイタブってもらいたい」と、男に感情移入することができます(笑)。現在の京劇では上品に加工されてしまっていますが、古い形の「活捉」の演出はもっとドギつく、美女の幽霊が舌を出して主人公のブオトコをねっとりとなめたり、など、二人の過去の官能的な関係を暗示する動作もありました(京劇ではさすがにやれませんが、地方劇の「活捉」には、今でもこのようなエログロ的な演出を残しているところがあります)。そもそも、美女の幽霊は、なぜ自分を殺した宋江ではなく、張三郎(主人公のブオトコ)のもとに出たのか? その理由は本当に「恨み」だけなのか? 美女と三郎の過去の関係は、プラトニックだっのか?(そんなわけはありませんよね) ・・・・・・など、芝居の「行間を読む」と、死美人にいたぶられる三郎の恐怖と苦痛の表情が、実は、官能的な歓喜と紙一重であることがわかります。特に最後で、三郎が死美人に首をしめあげられて「昇天」する演技は、恐怖とユーモアのなかに隠し味としてのエロチックさを出さねばならず、かなり難しいのですが、雲南省京劇院の俳優さんは、京劇の品位をくずさぬギリギリの枠内で、よく演じていました。・・・・・・以上は、中年男の観客としての私の勝手な深読みです。現在の京劇「活捉」は、小学生のお子さんが見ても楽しめる健全で清潔な作品ですので、ご安心ください。念のため。

「盗庫銀」は、日本でもよく上演される演目です。特に感心したのは、腐敗した役人の倉庫を守る「庫神」が、芝居の前半では本当に微動だにせず、ただの像にしか見えなかったことです。役者にとって「動く」演技も大変ですが、自分の筋肉の不随意運動までをも完全に封殺する「動かない」演技は、もっと大変です。
 「盗庫銀」の作品世界の本質を現代風に言い換えると、不良少年・少女のストリートギャング(青蛇たち)が、悪いくせに威張っているおとな(腐敗役人)に一泡ふかせ、ガチガチの体制側の警察(庫神)と遊び感覚で戦う、というものです。庫神は、眼前で銀を盗まれている最中は微動だにしなかったくせに、腐敗役人から祈り(通報)を受けると出動し、一方的に青蛇たち(ストリートギャング)を逮捕しようとする。青蛇たちが庫神に、なぜ悪い腐敗役人の肩をもつのか、と問いつめても、庫神は「世の中の決まりを守れ」としか答えない。融通がきかないガチガチの体制派である庫神と、神仙界の「はみだし者」である青蛇たちの戦いぶりは、「死闘」とは一味違う遊びのテイストが必要です。雲南省京劇院の俳優たちは、この点も、よく演じていたと思います。

 以上、三作品を通して特徴的なのは、どれも道化役(丑)が登場していることです。三演目に登場する道化役の演技を比較しつつ鑑賞しても、面白いかもしれません。
 なお、公演場所によっては、上記の三演目の一つの代わりに「拾玉[金蜀]」を上演する予定だそうです。

2006.9.26記
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