字源ホラー・ファンタジー

『小説 封神演義』

嘉藤徹(かとう・とおる)作 2000年7月刊 PHP文庫書き下ろし
京観(きょうかん)の章
本の表紙

[ここまでのあらすじ] いまから三千年あまり前の中国。殷(いん)の人々は、目に見えぬ神霊(しんれい)を祭るため人間を殺して捧(ささ)げる、という迷信に苦しんでいた。
 殷の辺境にある村に生まれた少年・ナタは、人々を苦しめる邪悪な神霊と戦う力を身につけるため、ふたりの兄と武者修行の旅に出るのだが---

 ナタ三兄弟は、黄河(こうが)の南の、有蘇氏(ゆうそし)の城邑(じょうゆう)(周囲を城壁で囲まれた町)をめざした。そこに住む有名な武術家の門を叩き、稽古(けいこ)をつけてもらうためだった。
 途中、畑を耕している農民に道をたずねると、彼は眉をしかめて、
「もう有蘇氏の国はないよ。一年前、妲己(だっき)という悪い女が、殷(いん)の大軍を連れてきて攻め滅ぼしてしまった。妲己は有蘇氏の国で生まれ育ったのに、とても残酷だった。男は皆殺しにされ、女子供は奴隷(どれい)として連れて行かれ、城邑は廃墟(はいきょ)となった。夜になると鬼火(おにび)が飛んで、幽霊がすすり泣くそうだ。そんな不吉なところに近づかぬ方がいい」
 兄弟は一応、城邑の跡に行ってみた。
 農民の言葉どおり、有蘇氏の国は消滅していた。土の城壁は象軍団(ぞうぐんだん)につきくずされ、城内の民家は焼かれ、宮殿は無人の廃墟(はいきょ)となっている。城邑の周囲の田畑も荒れ地となり、草のなかに白骨が散らばり、木々のうえで烏(からす)がカアカアと鳴いていた。
 兄弟は日が西に傾くまで、城邑のなかを人影を求めて探しまわった。しかし、目当ての武術家はもちろん、犬の吠え声ひとつ聞こえない死の町になっていた。
 城邑の廃墟のはずれに、高さ百尺(約三十メートル)はあろうかという、大きな土の山があった。キンタは、
「今夜はここに泊まろう」
と、山のふもとの廃屋(はいおく)に泊まることにした。モクタは、
「城邑の外で野宿しようよ。幽霊がでたら、やだよ」
と及び腰だったが、ナタは、
幽霊が出たら、やっつけてやろう
と相変わらずだった。
 日が暮れて暗くなると、小雨(こさめ)がふってきた。旅で疲れた兄弟は、すぐに眠りに落ちた。

 夜中、ナタは尿意(にょうい)をもよおし、目を覚ました。
 ふたりの兄を起こさないよう静かに起きると、廃屋の外に出て、木陰(こかげ)で用をたした。
 小雨はやみ、おぼろ月がでている。ふと土の山をみあげると、てっぺんに、藁(わら)の帽子(ぼうし)をかぶった男がひとりすわり、詩のような文句を吟(ぎん)じていた。
幽霊なんていないのさ、この世にいてはいけないのさ
 ナタがじっと見上げていると、てっぺんの男もナタに気づいた。
おや、珍しい。坊や、この城邑に泊まりにきたのかね
 ナタは黙っていた。帽子の男は続けて、
安心しなさい。おじさんは幽霊じゃない。他の人間に会うのは久しぶりだ。どうだ、ここにのぼって来ないか。いっしょにお喋(しゃべ)りしよう
 怪しい男だが、この廃墟で初めてみる人間である。なにか情報が得られるかもしれない。
 ナタは、土の山をのぼった。土は意外にやわらかく、足首のところまでめりこんだ。
 てっぺんに着くと、藁帽子の男はナタに笑いかけた。
本当にのぼってくるとはね。坊やは勇気があるな
ぼくは二人の兄さんといっしょに、武者修行(むしゃしゅぎょう)の旅をしてるんだ。この城邑に、武術の達人が住んでいたはずなんだけど、おじさんは知らない?
 男は少し考えて、
たぶん、戦争のとき、みんなの先頭に立って戦い、真っ先に死んだあの男のことだろう。坊やは武術なんか学んで、どうするんだ
強くなりたいんだ。戦争になったら、大手柄(おおてがら)を立てられるように
 男は黙ってナタの顔を見入った。そして、
この土の山がなにか、坊やは知っているかな
なにって、土の山でしょ
こういう山を『京観』(きょうかん)というのさ
キョウカン?
戦争で勝った方が、負けた方の死体を高く積み上げて、土をかけてつくる人工の山のことさ。殷(いん)はあちこちで戦争して、勝つたびに記念の京観をつくった。でも、こんなにデカいのは珍しいそうだ
 ナタは、さっき山をのぼってきたときのブヨブヨした足の感触を思い出し、気持ち悪くなった。
 おぼろ月が、男の横顔を照らした。見れば、男は左耳が無い。刃物で削(そ)ぎ落とされたような傷跡がある。ナタがその傷を見ていると、男は、
この傷が気になるかね。殷の兵隊に、左耳をそぎとられちゃったんだよ。右耳は残ってるけどね
どうして左耳を?
手柄の証拠さ。本当は殺した相手の首を切るんだけど、首をいちいち持って帰るのは重くて不便だろ。だから首のかわりに左耳をそぎとるのさ。そいだ耳は糸でつないで『』(れん)にするんだ。坊やはさっき、戦争で大手柄を立てたい、と言ったね。だったら、この大きな京観をよく見ておくことだ。それと、俺の左耳の痕(あと)もね。この左耳をそがれたおかげで、首はつながったけど
 そのとき、土の山の底から、死霊(しりょう)のすすり泣く声が聞こえてきた。ナタは、
幽霊が泣いてる
と驚いた。藁帽子の男は笑った。
幽霊なんかいるものか。たしかに変な音は聞こえてる。これは『鬼哭啾々』(きこくしゅうしゅう)っていうんだ。迷信ぶかい連中は、幽霊が泣く声だと信じているが、実は違う。死体を何千と積み上げれば、下のほうは上のほうの重みでつぶれる。死体にたまった瘴気(しょうき)が『げっぷ』みたいに漏れて、くぐもった音を出すのさ。この京観が出来たばかりのときは、死体の腐汁(ふじゅう)が土にしみ出して燐光(りんこう)を発したし、鬼哭啾々の音もうるさいほどだった。でも、一年たった今は、だいぶ落ち着いてきた。あと二、三年もすれば、この土地にもまた、人が住むようになるだろう
おじさんは、どうしてこんな気持ち悪いところにいるの
気持ち悪い、か。でも、この土の山のなか埋まってるのは、おじさんの親兄弟や友だちなんだ。おじさんの妻と娘は『』(ろう)にされ、朝歌(ちょうか)に連行されてしまったし。もう、ここにいるしか、ないじゃないか
 「婁」は「母+中+女」の会意文字で、原義は「女性を数珠(じゅず)つなぎにして連行する」である。この「婁」を動詞化した「數」(すう)(新字体は「数」)は、後世「かぞえる」という意味に転用され、現代にいたっている。
 ナタは何も言えずに黙った。藁帽子の男は、
坊やが戦争で手がらを立てたいというものだから、つい、余計なことを喋(しゃべ)りすぎた。気にしないでくれ。おわびに、おじさんが知っている武術の技を教えてあげるよ
 男は、身振り手振りをいれて、有蘇氏の国に伝わる武術の技をナタに説明した。ナタは、時のたつのを忘れて、夢中で聞き入った。
 やがて、遠くから、夜明けを告げる長鳴(ながな)き鳥(どり)の声が聞こえてきた。
 藁帽子の男は言った。
朝か。お別れだ。もう行かなくちゃいけない
行くって、どこに
 男は、星空の「積屍気」(せきしき)(西洋でいう蟹座)の方角を指さした。
嘘(うそ)をついて悪かったね。おじさんは、この京観の一番底に埋められたんだ。殷の軍隊が攻めてきたとき、みんなの先頭に立って戦い、まっさきに討ち死にしたからね。上に積まれた連中からさきに、順番に昇天していった。一年かかった。最後のひとりが、おじさんさ
・・・・・・
できれば、生きてるときに、坊やと会いたかった。でも、会えてよかった
 東の地平線が茜色(あかねいろ)に染まった。男の姿は、しだいに透明になっていった。
幽霊なんて、いないのさ。この世にいては、いけないのさ
 男の声は、黎明(れいめい)の光のなかに溶けて消えた。
 キンタとモクタが目をさまし、廃屋のなかから出てきた。見れば、ナタが土の山のてっぺんに坐っている。キンタは不思議に思い、
「おーい、ナタ。そんなとこで何をしてる。早くおりてこいよ。まだ旅は長いぞ」
 ナタは目の涙を手でぬぐうと、元気よく、土の山を駆け下りた。

---『小説 封神演義』「酒池肉林(しゅちにくりん)」の章(ネット上未掲載)につづく
(注)文中の「ナタ」「キンタ」「モクタ」は、本では漢字に直ります。

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『小説 封神演義』の[あらすじ]を読む

[水歌(みなうた)ななこさんによるすばらしいナタのCGイラスト集(水歌さんのHP)]