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人物で知る中国〜溥儀

最新の更新2025年9月21日   最初の公開2025年9月21日

以下、
https://www.asahiculture.com/asahiculture/asp-webapp/web/WWebKozaShosaiNyuryoku.do?kozaId=8022645より自己引用。
 愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ 1906年-1967年)は、満洲人の姓と、漢語による個人名「溥儀」をあわせもつ通称「末代皇帝」「ラストエンペラー」でした。彼は生涯で三度帝位につきました。清の宣統帝、民国時代の復位(張勲復辟)、満洲国の康徳帝です。1945年に満洲国が崩壊すると退位し、最後は中華人民共和国の一市民として文革の混乱の中で亡くなりました。日本とも奇縁をもつ溥儀の生涯を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。(講師・記)
2025年9月23日火曜 火曜 15:30〜17:00 千葉教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり

YouTube https://www.youtube.com/playlist?list=PL6QLFvIY3e-kZUw2vxonT6vN4tPgZZIUo


キーワード
 愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)。
 清の宣統帝。満洲国の康徳帝。21世紀になってから廟号「恭宗」、諡号「愍皇帝」を追贈された。
 通称「末代皇帝」「ラストエンペラー」と呼ばれることもある。


辞書の説明
★デジタル大辞泉より引用。引用開始。
せんとう‐てい【宣統帝】
[1906−1967]中国、清朝最後(第12代)の皇帝。在位1908−1912。名は溥儀(ふぎ)。 辛亥(しんがい)革命で退位。満州事変後の1934年、日本に擁立されて満州国皇帝となり、康徳帝と称した。 第二次大戦後ソビエトに抑留され、東京裁判に証人として出廷。のち、中華人民共和国に保護された。(引用終了)

★精選版 日本国語大辞典より引用。引用開始。
せんとう‐てい【宣統帝】
 中国、清朝最後(第一二代)の皇帝(在位一九〇八‐一二)。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。光緒帝の弟載澧の子。三歳で即位、辛亥革命により退位。一九三二年日本軍部に擁立されて満州国執政となり、康徳帝(在位一九三四‐四五)となる。第二次世界大戦後、戦犯として収監されたが、のち釈放。(一九〇六‐六七)。(引用終了)

★日本大百科全書(ニッポニカ) より引用。引用開始。
溥儀 ふぎ / プーイー (1906―1967)
中国の清(しん)朝最後の皇帝(宣統帝、在位1908〜12)、のち「満州国」皇帝(康徳帝、在位1934〜45)。姓は愛新覚羅(あいしんかくら)。満族。光緒(こうちょ)帝の弟醇(じゅん)親王載?(さいほう)の子。1908年、3歳にならずして第12代皇帝に即位、宣統帝と称した。辛亥(しんがい)革命の結果、12年退位、そのまま北京(ペキン)の故宮に住んでいたが、24年、馮玉祥(ふうぎょくしょう/フォンユイシヤン)のクーデターによって北京を追われ、日本の援助もあって天津(てんしん/ティエンチン)の日本租界に閑居した。31年(昭和6)「満州事変」に際して日本軍にひそかに連れ出され、32年「満州国」執政、34年その「皇帝」となった。翌年、日本を訪問、日本の皇室と兄弟の契りを結ぶ虚構がつくりだされ、その結果「首都」新京(長春)に神道(しんとう)による「建国大廟(たいびょう)」が建てられた。40年、第2回訪日。45年「満州国」崩壊とともに退位を宣言し、日本に逃れる途中、当時のソ連軍に捕らえられて、ハバロフスクに抑留された。翌年8月、極東国際軍事裁判(東京裁判)の証人として出廷、50年、身柄をソ連から中華人民共和国に移され、撫順(ぶじゅん/フーシュン)の戦犯管理所に収容された。51年、特赦によって北京に帰り、61年、中国人民政治協商会議文史研究委員会の専門委員。64年数奇を極めた自伝『わが半生』を書いて出版した。同年、政治協商会議全国委員に選出されたが、67年10月、死去した。 [安藤彦太郎]
『小野忍・野原四郎・新島淳良・丸山昇訳『わが半生』上下(1977・筑摩書房)』


略歴

その他
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