愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ 1906年-1967年)は、満洲人の姓と、漢語による個人名「溥儀」をあわせもつ通称「末代皇帝」「ラストエンペラー」でした。彼は生涯で三度帝位につきました。清の宣統帝、民国時代の復位(張勲復辟)、満洲国の康徳帝です。1945年に満洲国が崩壊すると退位し、最後は中華人民共和国の一市民として文革の混乱の中で亡くなりました。日本とも奇縁をもつ溥儀の生涯を、豊富な図版を使いながら、予備知識のないかたにもわかりやすく説明します。(講師・記)2025年9月23日火曜 火曜 15:30〜17:00 千葉教室 教室・オンライン自由講座 見逃し配信あり
以下、千葉市公式サイト
「千葉市ゆかりの家・いなげ」 https://www.city.chiba.jp/kyoiku/shogaigakushu/bunkazai/yukarinoieinage.html より引用。
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明治中期以降、保養地として多くの文人墨客が訪れた稲毛は、海岸線の松林を中心に、別荘・別邸が建てられました。 この家もそのうちの一つであり、昭和12年には、中国清朝のラストエンペラー愛新覚羅溥儀の実弟である溥傑と妻・浩が、半年ほどこちらに居を構え、新婚生活を送りました。 保養地としての稲毛の歴史を今に伝える貴重な和風別荘建築として、千葉市地域有形文化財(建造物)に登録されています。 |
溥儀に対して日本の皇室は「日本皇室としては何の安全保障も約束できないが、それでもよければ御来朝を待つ」と連絡した。 溥儀がいた通化(満洲国通化省通化市。1946年2月3日の「通化事件」でも有名)の空港は小さすぎて、日本まで直接に飛べる大型飛行機は着陸できなかった。そこで溥儀ら一行は、まず小型で航続力が短い「フォッカー・スーパーユニバーサル」2機に分乗し、朝鮮半島の平壌か、満洲国の奉天に出て、そこで大型機に乗り換え、日本の羽田まで飛ぶことにした。乗り換えの場所について、溥儀の側近たちは、奉天は危険なので平壌まで飛びたいと主張した。しかし、8月7日に関東軍の政策主任参謀・第4課長になったばかりの宮本悦雄大佐(陸士38期)は、奉天での乗り換えを強硬に主張した。宮本が自説を押し通した結果、タッチの差で、溥儀は奉天の空港でソ連軍に捕まってしまった。 参考文献 池田純久・著『陸軍葬儀委員長』昭和28年刊 |
初稿では、溥儀は極東国際軍事裁判で保身のため偽証したことを謝罪し、日本軍と満洲国との連絡役を務めた関東軍将校の吉岡安直に罪を擦り付けたと反省したが、出版にあたっては削除された。これらの部分は2007年版では復活している。 |
愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』新潮文庫より引用。引用開始。
私【愛新覚羅浩。溥傑の妻。日本人】にとって、その頃できうる唯一のことは、お見舞いに行って差さしあげることだけでした。 「何か召し上がりたいものはございませんか?」 とお尋ねすると、 「日本のチキン・ラーメンが食べたい」 という意外なご返事でした。常々、中国料理が世界一だと胸を張られ、幼い頃より最高級の宮廷料理を口にして育ってこられた大兄【溥儀のこと】ではありましたが、病気のせいであっさりとしたものしか受け付けられなくなってしまったのでしょうか。 私が北京に住むようになってからも、日本から船で日本の食品を送ってもらっていました。そのなかにあった即席麺を、大兄が珍しそうに召し上がったことがあったのです。(引用終了) 日清のチキンラーメンは1958年から発売。 |