関羽(?〜219)は中国の三国時代、蜀漢の武将で、「三国志」の物語のヒーローです。劉備の義兄弟兼部将として戦い、「義」を貫いた生涯は人々を感動させ、後世、神として関帝廟にまつられたほか、信用第一の商売の神にもなりました。江戸時代以来、関羽は日本人にとっても特別な英雄となり、歌舞伎十八番の一つ『関羽』にも登場し、千葉県の「関東の山車人形と成田祇園祭展」では神武天皇、日本武尊、楠木正成、藤原秀郷と並び外国出身者では唯一関羽が登場しました。関羽の史実と伝説を、豊富な図版を使って、予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。(講師・記)
関羽 かんう (?―219)
中国、三国蜀(しょく)の武将。河東解(山西省臨晋(りんしん)県)の人。字(あざな)は雲長。諡(おくりな)は忠義侯。 解には塩池があるから、塩業関係の仕事に従事していたのかもしれない。 亡命して涿(たく)郡(河北省)にきて、劉備(りゅうび)や張飛(ちょうひ)と知り合った。 桃園で3人が義兄弟の約束を結んだことが小説『三国志演義』にみえるが、それに近いことはあったろう。 劉備が起兵すると羽も参加し、寝食をともにした。200年、曹操(そうそう)と劉備が戦い、備は敗れ、羽は操に捕らえられた。 操は羽を礼遇して帰順を勧めたが、羽は操と袁紹(えんしょう)との戦いに、紹の将である顔良の首を斬(き)って、これを置き土産(みやげ)に備の所に帰った。 やがて備とともに荊州(けいしゅう)に赴き、曹操が南下してくると、ここを逃れたが、ついで起こった赤壁(せきへき)の戦い(208)では、水戦で敗れた操の軍を陸上に待ち受けて撃ち破った。 劉備が諸葛亮(しょかつりょう)や張飛らと蜀に入ったのちも、彼は荊州の留守(りゅうしゅ)を命ぜられ、江陵を基地とした。 219年、劉備が漢中王になったのを機に、北上して曹操の部将である曹仁を攻めて樊城(はんじょう)(河南省襄樊(じょうはん)市)を囲んだ。 しかし、荊州領有をもくろむ孫権(そんけん)が、操と同盟して背後を襲ったので、樊城陥落を目前に南に引き揚げたが、ついに臨沮(りんしょ)(湖北省南漳(なんしょう)県)において、子の関平とともに戦死した。
関羽は美しい髯(ひげ)の持ち主で、諸葛亮も彼を髯の愛称でよんだ。また彼は武勇に優れていたばかりでなく、好んで『春秋左氏伝』を読んだ。しかし人を見下すことがあり、人の恨みを買うこともあった。死後、軍神、財神として祀(まつ)られている。
[狩野直禎]
『宮川尚志著『諸葛亮』(1940・冨山房)』▽『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・新人物往来社)』
かん‐う〔クワン‐〕【関羽】
(1)[?〜219]中国、三国時代の蜀(しょく)の武将。 河東(山西省)の人。 字(あざな)は雲長。張飛とともに劉備(りゅうび)を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死んだ。 後世、軍神として各地の関帝廟(かんていびょう)に祭られた。
(2)歌舞伎十八番の一。藤本斗文作。 元文2年(1737)江戸河原崎座の「閏月仁景清(うるうづきににんかげきよ)」一番目大詰めで2世市川団十郎が初演。現在、脚本は廃滅。
吉川英治『三国志』「桃園の巻」より
張飛は、すこし酔うてきたとみえて、声を大にし、杯を高く挙げて、 「ああ、こんな吉日はない。実に愉快だ。再び天にいう。われらここにあるの三名。同年同月同日に生まるるを希ねがわず、願わくば同年同月同日に死なん」 と、呶鳴った。そして、 「飲もう。大いに、きょうは飲もう――ではありませんか」 などと、劉備の杯へも、やたらに酒をついだ。そうかと思うと、自分の頭を、ひとりで叩きながら、「愉快だ。実に愉快だ」と、子供みたいにさけんだ。 あまり彼の酒が、上機嫌に発しすぎる傾きが見えたので、関羽は、 「おいおい、張飛。今日のことを、そんなに歓喜してしまっては、先の歓びは、どうするのだ。今日は、われら三名の義盟ができただけで、大事の成功不成功は、これから後のことじゃないか。少し有頂天になるのが早すぎるぞ」と、たしなめた。 |
吉川英治『三国志』「孔明の巻」
ついに関羽は去った! 自分【曹操を指す。加藤】をすてて玄徳のもとへ帰った! 辛いかな大丈夫の恋。――恋ならぬ男と男との義恋。 「……ああ、生涯もう二度と、ああいう真の義士と語れないかもしれない」 憎悪。そんなものは今、曹操の胸には、みじんもなかった。 来るも明白、去ることも明白な関羽のきれいな行動にたいして、そんな小人の怒りは抱こうとしても抱けなかったのである。 「…………」 けれど彼の淋しげな眸は、北の空を見まもったまま、如何(いかん)ともなし難かった。涙々、頬に白いすじを描いた。睫毛(まつげ)は、胸中の苦悶をしばだたいた。 |
吉川英治『三国志』「望蜀の巻」
――ふと見れば、曹操のうしろには、敗残の姿も傷いたましい彼の部下が、みな馬を降り、大地にひざまずき、涙を流して関羽のほうを伏し拝んでいた。 「あわれや、主従の情。……どうしてこの者どもを討つに忍びよう」 ついに、関羽は情に負けた。 無言のまま、駒を取って返し、わざと味方の中へまじって、何か声高に命令していた。 曹操は、はっと我にかえって、 「さては、この間に逃げよとのことか」 と、士卒と共に、あわただしくここの峠から駈け降って行った。 |
吉川英治『三国志』「出師の巻」
「華陀とやら、どうするのか」 と、訊いた。華陀は答えて、 「医刀をもって肉を裂き、 「何かと思えば、そんな用意か。大事ない、存分に療治してくれい」 鉄環を 華陀は ようやく終ると、酒をもって洗い、糸をもって瘡口を縫う。華陀の額にもあぶら汗が浮いていた。 (略) 手術をおえて退がると、 「将軍。昨夜は如何でした」 「いや、ゆうべは熟睡した。今朝さめてみれば、痛みも忘れておる。御身は実に天下の名医だ」 「いや、てまえも随分今日まで、多くの患者に接しましたが、まだ将軍のような病人には出会ったことがありません。あなたは実に天下の名患者でいらっしゃる」 「ははは。名医と名患者か。それでは病根も陥落せずにおられまい。予後の養生はいかにしたらよいか」 「怒らないことですな。 「かたじけない。よく守ろう」 関羽は百金を包んで華陀に贈った。華陀は手にも取らない。 「大医は国を医し、仁医は人を医す。てまえには国を医するほどな神異もないので、せめて義人のお体でも癒してあげたいと、遥々これへ来たものです。金儲けに来たわけではありません」 飄然とまた小舟に乗って、江上へ去ってしまった。 |
吉川英治『三国志』「出師の巻」
やがて呉使が引き揚げると、曹操は 「 と、贈位の沙汰まであった。 呉は、禍いを魏へうつし、魏は禍いを転じて、蜀へ恩を売った。 三国間の戦いは、ただその |