野猪林(やちょりん)Ye-zhu-lin

 これから見ていただくのは、『水滸伝』(すいこでん)の英雄・林冲(りんちゅう)と魯智深(ろちしん)が活躍する、野猪林という芝居です。
 『水滸伝』の物語の一節。正義の軍人・林冲は、腹黒(はらぐろ)い権力者の陰謀にはまり、無実の罪で、遠方(えんぽう)に流される流刑(るけい)になりました。林冲は護送(ごそう)されてゆく途中、野猪林、日本語に訳しますと「イノシシの森」という、人気(ひとけ)のない場所にさしかかります。ふたりの護送役人は、あらかじめ腹黒い権力者に命令されていたとおり、林冲を暗殺してしようとします。まさに危機一発。そのとき、ずっとあとをつけてきた魯智深が登場。林冲は間一髪のところで助けられたのでした。
  それでは、『水滸伝』の世界を、どうぞこの京劇の舞台で御堪能ください。

(京劇団「中心」版:25-30分)

 林冲が幕のなかで歌います。
「道みちずっと、護送役人の棒で打たれつづけ、堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒(お)も切れる寸前」
 林冲は、ふたりの護送役人にともなわれて登場します。
 林冲は歌います。
「わたしは、陰険(いんけん)な罠(わな)にはまってしまった。
 この無実の罪を、どうやって晴らせばよいのだろう。
 わたしは今、鎖(くさり)と手錠(てじょう)でしばられている。
 逃げようにも、身動きはできない」

 ふたりの護送役人は、棒をふりあげ「早く歩け」と言います。

 林冲は歌います。
「腹黒い権力者は、極悪非道(ごくあくひどう)
 わたしの美しい妻を奪(うば)うため、わたしを妻からひきはなした。
 見送りにきた妻と、涙のわかれ。
 わたしの心はまるで刀でえぐられたように痛む。
 ねがわくば、妻がつつがなく・・・権力者の魔の手からのがれることを祈る」

 ふたりの役人は「早く歩け」と言いながら、林冲を棒でぶちます。
 林冲は、歌とせりふで「いいかげんにしろ」と、怒りをあらわにします。
 ふたりの役人は、林冲が本気で怒ったその剣幕(けんまく)におされたせいか、急に猫(ねこ)なで声(ごえ)になって言います。
「林冲さま、お疲れでしょう。この森のなかで、少し休んでゆくことにしましょう」

 一行は休憩をとることにします。
 林冲は、さんざん棒でうたれたため、苦しみでうなっています。
 ふたりの役人は、耳をよせてヒソヒソと何かを話し合います。

 ふたりの役人は、狂暴な顔つきになり、林冲に襲いかかろうとします。
 林冲は驚きます。
 役人は「おまえを殺せと、権力者の高[イ求](こうきゅう)様から命令されていたんだ。さっさと死にな」と言います。([イ求]はニンベンに求という一文字。)
 林冲は抗議しますが、役人は耳を貸そうとはしません。役人が刀をふりあげ、
「この刀をひとふりで、てめえはあの世ゆきだ」
と歌ったちょうどそのとき、魯智深が登場します。
「(歌)不埒(ふらち)ものめ、俺の弟ぶんを手にかけようとするとは!
 このイヌどもめ、よくも俺の大事な弟ぶんを殺そうとしたな。おまえら二人、まとめてマグロにしてやる」

 魯智深はふたりの小役人を殺そうとします。
 林冲は魯智深をとめて、言います。
「兄貴(あにき)、こいつらはただの下(した)っ端(ぱ)にすぎない。殺してもむだだ。本当に悪いやつは、ずっと上の方にいるんだ」
 魯智深はとりあえず、二人の小役人を殺すのをやめます。

 林冲と魯智深は、感激の再会をします。
 林冲は歌います。
「もしも兄貴があらわれてくれなければ、
 俺はきょう、無念の最後をとげていたところです。
 権力をかさにきた、あの腹黒い高[イ求]の野郎が、
 俺をだまして白虎堂(びゃっこどう)にさそいこみ、罠にはめた。
 俺は潔白(けっぱく)なのに、無理やり顔に罪人(ざいにん)のしるしのイレズミをされ、
 おまけにこの森のなかで、すんでのところで暗殺されるところだった。
 底知れない悪だくみのために、命をうしなうところだった」

 魯智深も歌います。
「弟よ、おまえがハメられたときもそうだったが、
 今の言葉をきいて、また怒りがあらたにこみあげてきたぜ。
 もともと、おまえが罠にハメられたあとすぐに殴(なぐ)り込(こ)みをかけるつもりだったが、
 おまえの命が心配で、その場は思いとどまった。
 その後、おまえが、はるか遠くの滄州(そうしゅう)に流されるときいた俺は・・・」
魯智深は「坊主(ぼうず)の錫杖(しゃくじょう)で身をかため」とセリフをはさんだあと、歌をつづけます。
「この、野猪林のなかで待っていた。
 いましがた、この二人の小悪党(こあくとう)が、
 おまえの命を奪おうとしていたので、
 俺は満腔(まんこう)の怒りに身をふるわせた」
魯智深は、ふたりの護送役人をあらためてニラみつけます。林冲は「下っぱだから、見逃してやろうよ」と取りなします。
 魯智深は豪快に歌います。
「さあ、俺といっしょに都(みやこ)にもどり、
 あの腹黒い高[イ求]の野郎を血祭(ちまつ)りにあげて、
 兄弟ふたり、思う存分あばれまわってやろうじゃないか」

 林冲は、冷静に状況を判断し、いまはまだ反撃(はんげき)の時機ではないと考え、歌います。
「兄貴、俺はおじけづいてるわけじゃあないが、
 今はやめよう。俺が故郷(ふるさと)に帰りたい一念(いちねん)を保っているかぎり、
 しかえしに十年かけても、おそくはない。
 とりあえず滄州に着いてからまた、次の手だてを考えよう」

 魯智深は、林冲の言葉にうなずきます。
 魯智深は林冲をずっと見守って、送ってゆくことにします。
 林冲は、ずっと棒でぶたれていたので、体のあちこちが痛んで、うまく歩けません。
 魯智深は、ふたりの役人に、林冲を肩にのせて運んでゆくよう命令します。
 ふたりの役人は、魯智深の剣幕におそれをなし、林冲を肩にのせて矢のように飛んでゆくのでした。

(完)


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