殺廟(さつびょう)Sha-miao

 これから見ていただくのは殺廟(さつびょう)、お宮(みや)の中での殺人、という芝居です。
 主人公は秦香蓮(しんこうれん)という女性です。
 秦香蓮は湖広(ここう)地方のいなかに住む婦人で、夫とふたりの子供、夫の両親の六人家族で仲良く暮らしていました。あるとき、夫は役人になるための試験を受けに、都にのぼりました。そしてそのまま、夫の消息はぷっつり糸が切れたように絶えてしまいました。
 やがて夫の両親も亡くなりました。秦香蓮はふたりの子供を連れて、夫をさがしに都にのぼり、真相を知りました。なんと夫は出世して、いまをときめく大臣となっていたのです。しかも、自分に妻と子供がいることをかくして、皇帝の妹と結婚までしていました。
 秦香蓮は夫に面会を求めます。しかし、心変わりした夫は、秦香蓮親子を自分の家族であると認めません。そればかりか、夫は、スキャンダルの発覚をおそれ、妻である秦香蓮とふたりの子供を殺してしまおうと決意し、韓[王其](かんき)という名前の武士をおくりこみます。([王其]は王ヘンの左に其と書く一文字のかわり)
 母親とふたりの幼い子供。無力な三人は、はたして生きのびることができるのでしょうか。
 必死でわが子をかばう母親。命令を実行すべきか悩む暗殺者。二人のいきづまるようなやりとりの歌が聞きどころの芝居です。

(青年団版:20-25分くらい)

 秦香蓮が歌います。
「むすこと娘が泣く声を聞き、わたしの心は乱れます。
 いなかから出てきたわたしたちは、旅の道の西も東もわかりません。
 耳をすませば、だれか、わたしたちを追いかけてくる人がいるようです」

 韓[王其]が歌います。
「ここまで来れば、人の住む家もない。
 あの女が翼をはやして飛びでもしないかぎり、逃(の)がしはしない。
 きっとあの、神社のお宮(みや)の中にかくれているに違いない。
   刀でお宮のとびらを開(あ)けて、中をのぞいてみよう。
 もうすぐあの世に送ってやる」

 秦香蓮が歌います。
「なぜいきなり、わたしたちを刀で殺そうとなさるのですか。
 せめて殺させる理由をおきかせください」

 韓[王其]は、彼女の気迫(きはく)にたじたじとしながらたずねます。
「ならばたずねよう。そなたの名前は何か、出身地はどこか」

 秦香蓮が歌います。
「わたくしは、湖広(ここう)荊州(けいしゅう)のいなかから出てきた者で、
 名前を秦香蓮と申します。
 子供のときから決められていた縁談で、陳世美(ちんせいび)の妻となりました。
 夫・陳世美は、三年に一度の科挙(かきょ)の試験を受けましたが、
 試験に合格して、皇族(こうぞく)と結婚した夫は、いなかの家族を見捨てました。
 夫の両親は、貧乏のため栄養失調で死んでしまい、
 わたくしは、息子と娘を連れて、夫をさがしにまいったのでございます。
 しかしながら、夫はすっかり心変わりして、
 わたくしたち親子を門前払(もんぜんばら)いしてしまったのです。
 夫は、親を切り捨て、子供を見捨て、妻を裏切り、人間の心を忘れてしまったのです。」

 韓[王其]は、悩んで、歌います。
「この婦人の言葉をきき、心はふるえおののく。
 わが主(あるじ)が殺せと命じた相手は、なんと、御自身の妻と子供だったとは。
 わたしはもともと武士だ。
 主の命令とはいえ、天道(てんどう)にもとる犯罪を手助けすることはできない。
 わたしも、彼女に真実をうちあけることにしよう。
 これから本当のことをうちあけるから、聞いてくれ。
 わたしの主は、そなたの夫・陳世美さまである。陳世美さまは・・・」
韓[王其]は、自分が秦香蓮たちを始末するよう言いつかったことを、うちあけます。

 秦香蓮はせりふで言います。
「かわいそうな子供たち!
 陳世美は富貴(ふうき)をむさぼり、本当の悪人になってしまったのですね。
 自分の世間体(せけんてい)を守るために、 家族まで殺そうとするとは。
 わたくしたちは、苦境(くきょう)のなかから、さらに奈落(ならく)につき落とされました
 かわいそうな子供!
 わたくしどもに手をさしのべてくださる方は、どこにもいないのでしょうか」

 韓[王其]が歌います。
「身も世もなく泣き崩(くず)れている親子を見れば、
 岩(いわお)の心臓をもつ鋼鉄の男さえ、心がいたむだろう。
 わが主・陳世美こそが極悪非道(ごくあくひどう)、
 わたしは、吹けば飛ぶような身分のしたっぱだが、正義の心を持っている」

 韓[王其]は「はやく逃げなさい」と、見のがしてやることにします。
 秦香蓮は、お礼を言って、逃げようとします。
 韓[王其]は、逃げかけた親子を呼びもどします。
 秦香蓮は「もしや、お気持ちが変わって、やっぱりわたくしどもを?」とたずねます。
 韓[王其]は言います。
「わが主は、『この刀に母と子の血糊(ちのり)をつけて、殺した証拠に持って帰れ』とお命じになったのだ」
 秦香蓮は絶望して、言います。
「なんと、あの男は、刀にわたくしどもの血糊をつけて、殺した証拠に持って帰れとあなたに命令したのですか。おねがいいたします、刀の血糊ならば、どうかわたくしひとりをお斬(き)りください。二人の子供の命だけは、助けてやってください」

 秦香蓮は歌います。
「殺すなら、どうかわが身を
 ふたりの子供の命ばかりは、お助けを」

 韓[王其]が歌います。
「目の前で、罪のない母と子供が苦境におちいっている。
 わたしの心は、煮えたぎる油の鍋のようだ。
 どうして罪のない者を殺すことができよう。
 しかし、刀に血糊をつけなければ、わたしは帰ることができぬ。
 もはや、わたしに残された道はただ一つ、
 わが命をすてて、 正義をまっとうするのみ」

 韓[王其]は自分の首を刀で斬り、倒れて死にます。

 秦香蓮はこのあと、この血のついた刀を証拠品として、正義の大臣・包拯(ほうじょう)のもとに訴えにゆきます。

(完)


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