売水(ばいすい)Mai-shui

 これからご覧いただくのは、売水、「水を売りあるく」というお芝居です。
 まだ現代のように水道が発達していなかった昔、中国の町の中では、水を売り歩く、という商売がありました。水の入った桶(おけ)は重く、労働のわりにもうけも少ないので、あまりありませんので、きつい商売でした。
 物語の舞台は、今から一千年前の中国です。
 ある立派なお屋敷に、お嬢様と、お嬢様にお仕えする侍女が住んでいました。お嬢様には、立派な婚約者がいたのですが、婚約者の家がおちぶれてしまったために、お嬢様の父親は、婚約を破棄してしまいました。
 お嬢様の元婚約者は、家がおちぶれたため、今は町を歩きまわり水を売ってその日ぐらしをしていました。
 お嬢様につかえる侍女は、なんとか二人のよりをもどしてあげようと、あれこれ手を考えるのでした。
 登場人物はたった三人。お嬢様と、侍女、お嬢様の婚約者の三人、というシンプルなお芝居です。
 芝居の見どころは、三人の性格のちがいです。侍女がしゃべることばは、庶民的なくだけた中国語です。歩きかたも、お嬢様とは違い、スタスタと歩きます。
 一方、お嬢様の方は、服装もいかにもお嬢様らしく、しゃべる言葉もむずかしい漢文調の中国語を使っています。歩きかたも、シャナリシャナリと、いかにもお嬢様風です。
 水を売る青年、つまり、お嬢様のもと婚約者は、まだ声変わりの途中の若者であるため、日本人の耳にはちょっと妙な声でしゃべります。
 果たして、侍女の思惑どおり、お嬢様と元婚約者の仲は、うまく元どおりになるのでしょうか。
 それでは、軽妙なラブ・コメディ、京劇「水を売り歩く」、どうぞごゆっくりお楽しみください。

 舞台に侍女が登場します。
 この侍女は、名前を梅英(ばいえい)、日本語に直訳すると「梅の花」という名前です。
 侍女は、これまでのいきさつを観客に説明します。
「わたくしは、このお屋敷につかえている女中です。わたくしがおつかえしているお嬢様は、子供のときから、李の家のお屋敷の若旦那さまと結婚の約束をしていました。といっても、もちろん御当人の意思ではありません。中国では、結婚は当人どうしではなく、親が決めるのですから。
 不幸なことに、お嬢様の婚約者である李(り)の家は、政治闘争にまきこまれ、無実の罪なのに没落してしまいました。そのため、お嬢様のお父さまは、一方的に婚約を破棄してしまわれました。まったくひどいお父さまです。
 お嬢様は、李の家には何の罪もないのだから、婚約を破棄するのはよくないと、お父さまに何度も意見を申されました。しかし、お父さまは世間体ばかり気にして、李の家をお見捨てになったのです。
 かわいそうなのはお嬢様。婚約の相手だった若旦那さまに、申し訳ないやら、残念やらで、お嬢様は食事も喉を通らぬありさま。わたしもホトホト困り果ててしまいました。
 ところが昨日のことです。私が買い物に出たところ、花園の門の外でばったりと、お嬢様の元婚約者に出会ったのです。彼はおちぶれて、花園の門のところで水を売っていました。私が声をかけようと思って近寄ると、彼は水おけをかついで逃げ出しました。
 そこで私は考えました。お嬢様をさそって、またあの場所に行きましょう。そこで二人を再会させて、お嬢様の心の中のわだかまりを取り除きましょう、と。こんなとき、主人のために一肌ぬぐのが、わたくしども侍女の生きがいなのです」
 侍女は、自分の主人であるお嬢様を呼び出します。

 お嬢様が登場します。心の中は、悩みでいっぱいです。

 侍女は言います。
「お嬢様。日がな一日、ため息ついてばかりでは、お身体によろしくありません。今日はちょっと外に出て、花園に散歩に行きましょう」

 お嬢様は、花を見ても愁いに沈んだ心はとけぬ、と、首を横にふります。

 お嬢様の悩みの理由は、自分の父親が勝手に婚約を破棄してしまったことです。お嬢様は、相手には何の罪もなかったのに、世間体のために婚約を破棄してしまうとは、たいそう申し訳ないことをしてしまった、とため息をつきます。
 侍女はお嬢様に、花園で美しい花を見て憂いをはらすことを、再度すすめます。実は、花園の近くでお嬢様の元婚約者が水を売っているのですが、侍女は今の段階では余計なことは言いません。


 場面はかわって、二人は花園にやってきます。
 まわりには、きれいな花や、さえずる小鳥、うららかな日差し。
 しかし、そんな奇麗な風景も、お嬢様の心の悩みをとくには至りません。

 侍女はここで、偶然をよそおい、お嬢様と元婚約者を再会させる魂胆でした。しかし、肝心の元婚約者は、まだここに水を売りに来ません。
 侍女は間をもたせるため、花園に咲いている花にちなんで、四季折々の花の名前と花言葉をよみこんだ即興の歌を、延々と歌い続けます。

「一月の花は、二月の花は、三月の花は、・・・」
侍女は、元婚約者が来るまで間をもたせねばと、延々と歌をうたいつづけます。
 春の花、夏の花、秋の花まではよいのですが、冬には花はありません。花のかぞえ歌が、冬の花に入るまえに、なんとか水を売る若者に登場してほしいところです。

 水を売る若者は、まだあらわれません。

 侍女の歌は、とうとう、十月、十一月、十二月の花にさしかかります。こんな時期、花は咲いていませんから、侍女の花の数え歌は、次第に、こじつけだらけの苦しい歌になります。

 やっと、水売りの若者が登場します。

 侍女は、お嬢様に言います。
「あの水売りの若者は、元婚約者である李の若旦那ですよ」と。
 昔の中国では男女関係がきびしく制限されていて、結婚前は、婚約者といえども互いの顔を見ることができませんでした。お嬢様も、李の若旦那の顔を良く知らなかったのです。

 お嬢様は、いきなり元婚約者があらわれたので、動転します。
 侍女はお嬢様に「今日はさいわい、お父さまがお留守なのですから心配いりません。会ってお話しなさい」と勇気づけます。

 侍女は、水売りの若者に、お嬢様に会うよう頼みます。

 李の若旦那は、お嬢様が自分のことを捨てたのだ、と誤解し、お嬢様を恨んでいました。李の若旦那は、水おけをかついで帰ろうとします。

 侍女は、李の若旦那の誤解をときます。
「お嬢様は、ずっとあなたのことをお慕いなさっているのですよ。婚約破棄は、お嬢様のお父さまのご一存。お嬢様は、お父さまと喧嘩をなさってまで、あなたさまとの結婚の約束を守り通そうと努力なさったのです。そして、あなたさまのことが忘れられず、毎夜、神さまにお祈りしていたのですよ」

 李の若旦那の誤解はとけました。

 侍女は、あちらでお嬢様がお待ちです、どうか言葉をお交しください、と、李の若旦那にたのみます。
 しかし、昔の中国は、礼儀作法が厳しい国。未婚の男女が人目のないところでこっそり会うのは、ごはっとでした。
 侍女は「今日はさいわい、お嬢様のお父さまは留守なのだから、あなたも勇気を出してください」と、李の若旦那をうながします。

 李の若旦那は、お嬢様が待つ花園の中のあずま屋に駆けてゆきます。

 侍女は最後にタンカをきります。たとえ無理解な親がどんな横車をおそうと、恋する若者たちを引き離すことは決してできないのだ、と。

(完)


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