竇娥寃(とうがえん)Dou-e-yuan
これから見ていただくのは、竇娥寃、竇娥という名前の女性が無実の罪に泣く、という重いテーマの芝居です。
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牢屋の女性看守が登場して、せりふで自己紹介します。
「わたしは、この牢屋の女性看守です。お金持ちの囚人は、私に『心づけ』をくれるので、親切にしてやります。貧乏な囚人は、私に『心づけ』をくれないので、いじめてやります。ひどい仕打ちだと眉をひそめないでください。わたしだって、生活がかかっているのです。
このまえ、竇娥という名前の女囚人がはいってきましたが、まだ、わたしに『心づけ』を渡してくれません。」
昔の中国では、政府からちゃんと給料をもらえたのは正規の公務員に限られました。公務員のもとで雑用をしていた下っぱの役人(やくにん)には、給料は支払われませんでした。下っぱの役人は、政府から給料をもらえないかわりに、政府公認で、一般人からのチップや「心づけ」をもらっていました。
この女性看守も下っぱの役人なので、政府からの給料はありません。囚人や面会人から渡されるチップや「心づけ」だけが、彼女の収入なのです。
看守は竇娥を呼び出します。
幕のなかから「つらいわ」という竇娥の叫び声がします。やがて、牢屋のなかから竇娥が登場します。彼女は囚人の服を着ています。
竇娥は重々しく、せつせつと歌います。
「わたしの名前を呼ぶ看守の声が聞こえると、気持ちはしずみます。
無実の罪に泣くわが身のうえを思うと、心がいたみます。
看守の女性は怒っている様子。わたしはもう何も言えません。」
竇娥は看守に向かって歌います。
「いったい何のご用でしょうか」
看守は竇娥に、単刀直入に用件をいいます。
「おまえさんがこの牢屋に来てからずいぶんと日がたつのに、まだ、心づけを全然もらってないよ。このわたしを、なめてるのかい」
竇娥は、自分の家は貧しいため、心づけを渡したくても渡せないのです、と答えます。
看守は納得せず、ネチネチと竇娥を責め続けます。
とうとう看守は腹をたてて、竇娥に暴力をふるいます。
竇娥は泣きながら歌います。
「どうか、お慈悲(じひ)を。わたしは無実の罪をきせられて、家は破産し、一文(いちもん)のお金もないみじめな境遇なのです」
看守は、竇娥をイジめて少し腹の虫がおさまったため、ひまつぶしもかねて竇娥の身の上話を聞いてやることにします。
竇娥は泣きながらゆっくりと歌います。
「昔のことを思い出すと、心がつらくなり、言葉も出ません」
竇娥は自分が牢屋に入るまでの境遇を、歌で説明します。
「わたしの夫が亡くなったあと、ある悪い男がわたしに横恋慕の心をいだきました。その悪い男は、わたしを手に入れるため、まず、わたしの義理の母親、つまり亡き夫の母親を殺そうとしました。悪い男は食べ物の中に毒を入れ、わたしの義理の母に食べさせようとしました。しかし手違いで、悪い男は、彼自身の母親にまちがえてその毒を食べさせてしまいました。男の母親は死にましたが、男は自分の罪が発覚するのを恐れ、毒殺の罪をわたしの義理の母親になすりつけました。義理の母親は警察につかまり、取り調べをうけ、鞭や棒でぶたれ、拷問を受けました。義理の母親は高齢(こうれい)の身、どうして拷問に耐えることができましょうか。そこでわたしは、自分が真犯人であるとウソをつき、自首したのです。そして義理の母親の身代わりに、死刑を宣告され、こうして牢屋に入ったのです」
看守は、話をきいて竇娥に少しばかり同情します。
舞台に、竇娥の義理の母親が登場します。
義理の母親は歌います。
「わが家は突如として不幸に見舞われてしまいました。
親孝行な嫁が、牢屋のなかに入ってしまいました」
義理の母親は、竇娥と面会するために牢屋にやってきたのです。
看守は、例のごとく「心づけ」を要求します。
義理の母親は、自分の家にはお金が無い、申しわけないが無料で面会させてほしい、と頼みます。
看守は結局、義理の母親に囚人との面会を許します。
義理の母親は、薄ぐらい牢屋のなかで、竇娥の姿を見つけます。
竇娥と義理の母親は、再会の涙にくれます。
義理の母親は、あたたかい食べ物をさしいれに来たのです。
しかし竇娥は、食べ物がのどを通りません。
義理の母親と看守は、竇娥に食べるよううながします。竇娥は食べ物を口に入れますが、のどを通らず、むせいで咳(せき)こんでしまいます。
看守は竇娥のために、飲み水をくみに行きます。
竇娥と義理の母親は、ふたりきりで話をします。
義理の母親は、竇娥の美しかった髪の毛がすっかりぼさぼさに乱れているのを見て、心を痛めます。
義理の母親は、竇娥の髪の毛にくしをいれながら、歌います。
「にくらしいのは、あのどうしようもなく悪い男です。
彼は、食べ物に毒をもって、わたしを殺そうとしました。
いつか、正義の心をもった立派な裁判官があらわれて、この無実の罪を晴らしてくれるでしょう、
そのときは、わたしとあなたの二人で、天の神様に香(こう)を焚(た)いてお礼をしましょうね」
竇娥はもはや、自分の運命を覚悟して歌います。
「おかあさま、なぐさめてくださって、ありがとうございます。
しかし、もう、わたしは覚悟ができております。
ただ、嫁として心のこりなのは、おかあさまをあとに残し、先立つ不孝を犯すこと。
もうこの世では、嫁として、おかあさまにお仕えすることはできません。
親の面倒をみれなくなることが、とてもつろうございます。
これからは、せめて夢のなかで、お会いいたしましょう」
看守があわてて帰ってきます。
看守は、竇娥の死刑の日時が発表になった、明日の昼すぎに首切りの刑が執行されることに決まった、と言います。
竇娥は無実の罪をだいたまま、明日には首を切られて死んでしまうのです。
竇娥と義理の母親は、泣き崩れて、嘆きのうたを歌います。
看守はふたりを引き離し、竇娥を牢屋のなかに連れて行きます。
(完)