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則天武后 シリーズ女王・女帝

朝日カルチャーセンター・新宿教室 2019/9/21土曜 13:00−14:30
最新の更新2019-9-21   最初の公開 2019-9-21

 紀元前221年の秦の始皇帝から、1912年に退位した清(しん)の宣統帝溥儀(ふぎ)まで、中国史では422人の皇帝がいます。そのうち女帝はただ一人。則天武后こと武則天(624年-705年、皇帝在位690年-705年)だけです。数え14歳で唐王朝の第二代皇帝太宗の側室となった彼女は、その後、太宗の息子である第三代皇帝高宗の皇后となり、義宗(死後追尊)・中宗・睿宗の三人の皇帝を生みました。男まさりの彼女は、夫や息子をおしのけて政権を掌握。67歳でみずから皇帝となり、新しい王朝を創始。82歳で病没後、遺詔で帝号を返上したため、日本では則天武后と呼ばれます。中国史上唯一の女帝は、なぜ誕生したのか。日本やヨーロッパの女帝と、どこが違うのか。彼女の波乱の生涯と時代背景を、映像資料も使いつつ、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。

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 彼女の名前は多い。生前から死後にかけて、さまざまな呼び方がある。
 天后 聖神皇帝 則天大聖皇帝 則天大聖皇后 大聖天后 天后聖帝 則天皇后 則天順聖皇后 ……
 昔は彼女が高宗の皇后として葬られたことを重視して「則天武后」と呼んだが、今は彼女が生前、帝位についたことを重視して「武則天」と呼ぶことが多い。

〇武則天が登場するまで。
★武則天は「中国の三大悪女」の二番目。
 彼女の前には、呂后を始め、多数の「悪女」が存在した。特に、
 は、武則天の先駆的な存在であった。

★貴族制から官僚制へ
 中国史上、南北朝時代から唐の中期までは、貴族制の時代だった。
 西魏・北周・隋・唐の支配階層は、鮮卑(せんぴ)民族の色が濃厚な、いわゆる「武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)」ないし「関隴集団(かんろうしゅうだん)」であった。
※関隴集団・・・函谷関(かんこくかん)の西側の地域「関中」すなわち現在の陝西省と、現在の甘粛省の東南部の「隴西」(ろうせい)を地盤とする集団。
※武川鎮・・・北魏の北方の辺境地帯に置かれた六つの「鎮」の一つ。
 北周の宇文泰、隋の楊堅、唐の李淵など各王朝の創始者は武川鎮軍閥の有力者だった。
 一方、官吏登用試験の科挙は、隋の時代から始まり、唐に受け継がれた。
 武則天の時代は、唐の前期であり、新興の科挙官僚と、旧来の貴族層である関隴集団が、政治の実権をめぐって暗闘を続けた。
 武則天は人材の登用につとめた。彼女が女帝になれた一因は、新興の科挙官僚など知識人層の支持を得たことにある。


〇武則天についてのあれこれ
★「売り家と唐様(からよう)で書く三代目」…中国の王朝も日本の幕府も、東洋の世襲政権の永続性は3代目で決まることが多い。唐の第三代皇帝は高宗(李治)と「嫁」の武后。日本の幕府の三代将軍は源実朝、足利義満、徳川家光。
★「年上の女房は金(かね)のわらじを履いてでも探せ」…武后は西暦624年2月17日生まれ、夫の高宗(李治)は628年7月21日生まれ。
★高宗と「百忍治家」…高宗が「九世代同居」の秘訣を問うと、張公芸は黙って紙に「忍」の字を百あまり書き、それを見た高宗は涙を流した、という挿話。
★武后と「無字碑」(乾陵無字碑)…高宗と武后の合奏墓の石碑には字が刻まれておらず、白紙のような状態のままである。その理由は謎である。
★武后と日本…武后の夫は「天皇」、武后は「天后」と自称した。「日本」号を最初に承認したのは武后だった。日本の貴族・粟田真人は大宝2年(702年)「遣唐使」として中国に出発した。当時は「武周」だった。日本にとっては663年の白村江の戦い以来初の本格的な使節派遣であった。武后は「日本」という新しい国号を承認し、が成立したことを唐に対して宣言するなど、様々な目的を持った使節であった。長安で皇帝に在位中だった晩年の武則天は粟田真人を「司膳員外郎」に任じた。唐人は粟田真人を「好く経史を読み、属文を解し、容止温雅なり」と評した。聖武天皇(在位724年-749年)と光明皇后、その娘の孝謙天皇は、武后の治世をかなり意識していた節がある。

〇辞書類からの引用
★そくてんぶこう【則天武后】 大辞林第三版 (624 〜 705) 中国、唐の高宗の皇后。姓は武。諡おくりなは則天大聖皇后。高宗の死後、中宗・睿宗えいそうを廃位させ、690年、国号を周(武周690〜705)と改め帝位につく。独裁政治を行なったが、人材を登用し治政に努めた。武后。武則天。

★そくてん‐ぶこう【則天武后】 デジタル大辞泉 [624〜705]中国、唐の高宗の皇后。中国史上唯一の女帝。在位690〜705。姓は武。名は?(しょう ?は「明」の下に「空」と書く一文字)。高宗の没後、子の中宗、弟の睿宗(えいそう)を廃立。唐の皇族・功臣らを滅ぼし、同族を重用、自ら帝位に就き、国号を周とした。クーデターで中宗が復位し、唐が再興したのち、病死。

★則天武后 そくてんぶこう(624ころ―705)
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
 中国、唐朝第3代高宗の皇后で、のち自ら周朝を建てる(在位690〜705)。生年は一説に630年ころともいう。本名照、山西省の大材木商で唐朝の創業に貢献し栄進した武士彠(ぶしかく)の娘。【以下、改行は加藤徹】
 美貌(びぼう)で14歳のとき太宗の後宮に入り、帝の死後尼となっていたところを高宗(李治(りち))にみいだされ、寵(ちょう)を得たと伝えられる。姦計(かんけい)を用いて皇后王氏らを陥れ、655年自ら皇后に成り上がる。この立后には元勲長孫無忌(ちょうそんむき)一派とそれに対抗する官僚グループの対立が絡んでいたが、彼女は文芸と吏務に長じた新興官僚を巧みに登用操縦して旧貴族層を排斥した。
 数年ののちに高宗が健康を害すると、自ら政務を親裁し独裁権力を振るうに至った。683年高宗が病没すると、自分の子中宗・睿宗(えいそう)を次々と帝位につけ、彼女に反抗して挙兵した李敬業や唐の皇族らを武力で打倒し、同族を重用した。さらに御史や隠密(おんみつ)を使って大規模な弾圧を行い、政権強化に努めた。一方、女徳をたたえる仏経を偽作し、また符瑞(ふずい)を利用して武氏の天下を宣伝し、ついに690年国号を周と改め、自ら皇帝を称し、中国史上唯一の女帝となり約15年全国を支配した。
 周の伝統に従って暦法、官名などを改正し、また十数個の新字(則天文字。圀=国、「口」の中に「乙」=日、○=星、「一」の下に「生」=人、「明」の下に「空」=照など)を使わせるなど人心一新を図った。治世には、北門学士らに命じ、『臣軌(しんき)』『百寮新誡(ひゃくりょうしんかい)』以下多数の修撰(しゅうせん)を行い、また臨時の使者を各地に派遣して人材の吸収に努め、さらに人気取りに官爵をばらまき、また明堂、天枢、大仏のような大建築をおこし、国威宣揚に努めた。
 狄仁傑(てきじんけつ)、魏元忠(ぎげんちゅう)ら名臣をよく用いたが、末期には張易之(えきし)兄弟ら寵臣が政治を乱し、ついに705年張柬之(かんし)らのクーデターにより、中宗の復位と唐の再興をみた。のちまもなく高齢で病死した。
 彼女は悪辣(あくらつ)な策略や残酷な弾圧に加えて、陽道壮偉(巨根)の男を求め、妖僧(ようそう)薛懐義(せつかいぎ)や張易之兄弟との醜聞を残すなど、非難の的となる反面、自ら書をよくし、学芸を庇護(ひご)するとともに、有能な人材を抜擢(ばってき)して新興階層を受け入れ、政治、社会、文化の各方面にわたり新機運をもたらした点は、高く評価される。
 死後、夫高宗と長安の北西乾(けん)県にある梁(りょう)山の乾陵に合葬された。ここにはみごとな石彫天馬や夷酋(いしゅう)列像(首を欠く)など当代文物をとどめ、周辺に壁画で名高い永泰公主墓など陪冢(ばいちょう)も多く、文物保管所ができている。彼女をテーマとする林語堂(りんごどう)の小説や郭沫若(かくまつじゃく)、田漢の戯曲など作品も多く、その希代の女傑ぶりはいまなお語りぐさとなっている。[池田温]
『原百代著『武則天』全8巻(講談社文庫)▽外山軍治著『則天武后』(中公新書)』

〇後世の評価
★芥川龍之介の随筆『侏儒の言葉』より
 武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。
※「一抔(いっぽうの土、未だ乾かざるに、六尺(りくせき)の孤、安(いづ)くにか在る」。先帝(則天武后の夫であった高宗)が亡くなりその陵墓の土も乾いていないのに、幼帝はいまいずこにおわすのだろうか(則天武后の横暴によって廃位させられてしまったではないか)。

★趙翼(1727年-1812年)『二十二史箚記』巻十九新旧唐書より
【要旨】 武后が(皇帝になってから)美少年を寵愛することを、諫言役の朱敬則(635年−709年)がいさめたところ、武后は「さすがはそなた」と彩絹のボーナスを与えて度量を示した。男の皇帝は何千何百という妃をもつが、武后は「女主」として寵愛した異性は数名にすぎなかった。武后は人材登用に力を入れた。のちに、彼女の孫である玄宗皇帝の治世を支えた名臣たちの多くは、武后が抜擢した人物たちであった。(武后は批判されるべき点も多いが)女性の中の英主である、と言わざるを得ない。
cf.[中國哲學書電子化計劃・維基 -> 廿二史箚記 -> 卷十九新舊唐書]
 至朱敬則疏諫選美少年,則曰「陛下內寵有薛懷義、張易之、昌宗矣,近又聞尚食柳模自言其子良賓潔白美須眉,長史侯祥雲陽道壯偉,堪充宸內供奉。」桓彥範以昌宗為宋璟所劾,後不肯出昌宗付獄,彥範亦奏云「陛下以簪履恩久,不忍加刑。」此皆直揭後之燕暱嬖幸,可羞可恥,敵以下所難堪,而後不惟不罪之,反賜敬則彩百段,曰「非卿不聞此言。」而於璟、彥範亦終保護倚任。
 夫以懷義、易之等床第之間,何言不可中傷善類,而後迄不為所動搖,則其能別白人才,主持國是,有大過人者。其視懷義、易之等不過如面首之類。人主富有四海,妃嬪動至千百,後既身為女主,而所寵幸不過數人,固亦無足深怪。

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