紀元前221年の秦の始皇帝から、1912年に退位した清(しん)の宣統帝溥儀(ふぎ)まで、中国史では422人の皇帝がいます。そのうち女帝はただ一人。則天武后こと武則天(624年-705年、皇帝在位690年-705年)だけです。数え14歳で唐王朝の第二代皇帝太宗の側室となった彼女は、その後、太宗の息子である第三代皇帝高宗の皇后となり、義宗(死後追尊)・中宗・睿宗の三人の皇帝を生みました。男まさりの彼女は、夫や息子をおしのけて政権を掌握。67歳でみずから皇帝となり、新しい王朝を創始。82歳で病没後、遺詔で帝号を返上したため、日本では則天武后と呼ばれます。中国史上唯一の女帝は、なぜ誕生したのか。日本やヨーロッパの女帝と、どこが違うのか。彼女の波乱の生涯と時代背景を、映像資料も使いつつ、中国史の予備知識のないかたにもわかりやすく解説します。 |
※関隴集団・・・函谷関(かんこくかん)の西側の地域「関中」すなわち現在の陝西省と、現在の甘粛省の東南部の「隴西」(ろうせい)を地盤とする集団。 ※武川鎮・・・北魏の北方の辺境地帯に置かれた六つの「鎮」の一つ。 |
武器それ自身は恐れるに足りない。恐れるのは武人の技倆である。正義それ自身も恐れるに足りない。恐れるのは煽動家の雄弁である。武后は人天を顧みず、冷然と正義を蹂躙した。しかし李敬業の乱に当り、駱賓王(らくひんのう)の檄を読んだ時には色を失うことを免れなかった。「一抔土未乾 六尺孤安在」の双句は天成のデマゴオクを待たない限り、発し得ない名言だったからである。 |